ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【7/17】アンケートは終了いたしました

【アンケート終了・追記あります】

 

ただいまブログ・Twitterの内容についてアンケートを行っております。期限は7月17日(土) 21:15頃までです。

ご協力のほどよろしくお願いいたします。

(下のリンクからアンケートに入れます)

https://twitter.com/zuba_unknown/status/1416011486976118786?s=19

 

【7/17 追記】

アンケートは終了いたしました。アンケートにご協力していただいた方には感謝を申し上げます。

(アンケート結果は上のリンクよりご覧いただけます。)

2016年夏、四国旅行 (後編)

この記事は「2016年夏、四国旅行(前編)」(https://zubahn.hatenablog.com/entry/2021/07/13/230412

の続きとなっております。

 

前編からの方もここからの方もどうぞご覧ください。

 

愛媛県の旅(2日目)】

 

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8月31日、朝早くにホテルを出た私は、松山市駅に行きました。朝の市駅は人が沢山行き交い、人を避けるのでひと頑張りしました。市駅の裏に抜け少し進むと、正岡子規の庵であった子規堂が見えました。子規堂の側には小ぶりな緑色の「坊っちゃん列車」が置かれておりました。これは明治時代の伊予鉄道の客車で、正岡子規と親交の深かった夏目漱石の「坊っちゃん」(1910)にも出てきます。

 

このあと私は市駅に戻り市電一日乗車券(600円)を買い、市電で市駅前から大街道まで向かいました。デパートなどのある大街道から北向かう商店街を抜け、私は松山城に上るリフト乗り場に行きました。松山城は小山の山頂に天守閣があるのでそこまでリフトが通じているのです。

 

リフトで数分揺られ、私は山頂広場に着きました。山頂広場には土産物屋や軽食の店などがありました。そこから石垣に沿って上に上ると広大な庭園と松山城天守閣が見えました。庭園からは松山平野を一望できました。南の山々や西の瀬戸内海が一掴みできそうでした。

 

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いざ天守閣に入った私ですが、私は何気に城というのが好きなのでワクワクしておりました。薄暗めの廊下は登ったり降りたりを繰り返し、一種の迷路のようでした。

途中には刀のレプリカが置かれており、持つことが出来たので持ってみるとズシリと手首、ひじ、肩に重量が伝わりました。これを振るお侍さまはどれだけ肉体隆々だったのでしょう。

上層階へ上る階段を登り始めましたが中々急な角度であり、ほとんど梯子のようなものです。落ちないように気をつけて昇ります。各階には畳敷の大部屋があり、殿の居場所という雰囲気が伝わります。そして最上階まで上り詰めました。そこは観光用の天守閣のような展望台然としたものとは異なり、狭い覗き窓でようやく外を確認できるようなところでした。弓矢や鉄砲での戦いを考えるととても合理的です。

 

急な階段をそろそろ降りて天守閣を出ると来た道を戻り、そのまま登山道を下まで降りていきました。そこから愛媛大学の方に歩き近くの電停から市電に乗り、JR松山駅前で降りました。松山駅伊予鉄松山市駅とは異なり結構閑散としております。昼ということもあるのでしょうが人の姿はまばらです。

松山駅から正面に真っ直ぐ延びる市電も通る大通りを歩くと踏切がありました。これは伊予鉄の郊外線ですが、大通りを走る市電の線路もこの踏切で郊外線の線路と交差します。どちらも伊予鉄道の路線でありますが、線路と線路が交差するのはなかなか面白い光景でした。

 

大通りを突き当たりまで進むと松山城のお堀が見えました。お堀沿いには柳がならび、熱い晩夏に清涼感を与える風景でした。堀にかかる橋を渡るとそこは松山城の堀の内と呼ばれる場所でした。広大な土地が広がり、かつては武士の屋敷が並ぶ所だったようです。今では県立図書館やNHKがあります。

 

城のある小山の麓を歩くと、萬翠荘という洋館が現れました。緑の森に潜む白い洋館に入ると中は清潔感溢れる落ち着いた回廊が延びておりました。館内にはこの萬翠荘を建てた松山城の元城主の歴史や遺品が展示紹介されておりました。

 

昼時でしたが、私は市電で道後温泉へと向かいました。道後温泉につくと私はあるホテルの足湯に向かいました。その足湯は入湯は無料で自由となっておりました。私はその足湯に浸かり疲れを癒しておりました。私は買ったポンジュースを飲みながら1時間ほど足湯におりました。

 

その後は道後の街の行ってない所を回りました。湯神社という神社や正岡子規ミュージアムなどを巡りました。そしてまだ土産を買ってなかったので先日行った豆菓子屋で温州みかん味の豆菓子を、そして松山銘菓・たるとを買いました。

 

そのあと商店街の中の食堂で松山発祥と言われる「鍋焼うどん」を食べ、その後道後温泉本館に行き入湯しました。

 

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入湯料は1時間400円とのことで流石歴史ある有名なお湯はすごいと思いました。風呂の中は人が結構おりその出入りもものすごく繁くなっていました。風呂の構造も変わっており、体を洗う洗面所と風呂そのものが扉で完全に仕切られておりました。私も身体を洗い清め風呂に入湯しました。浴槽脇には大きな鐘がドンと構え、ここが古き由緒正しきお湯であることを改めて実感させられました。

 

私は風呂から上がり館内を見学しました。廊下には俳優の中村雅俊主演の映画「坊っちゃん」の話が掲げてありました。上へ登る階段には休憩室と案内がありました。そちらは別途料金が必要なので上がりませんでした。

 

道後温泉本館を出るともう暗くなっておりました。私は市電で大街道へ向かい、もう人も少ない大街道や銀天街を抜け、松山市駅へと歩きました。市駅前の居酒屋に入り、私は名物じゃこ天を肴に「清酒にきたつ」を飲みました。スッキリとして飲みやすく、じゃこ天もそれに合ってました。このにきたつといい土佐鶴といい四国の酒は美味しいものです。

 

その後は松山駅に向かい、駅前のマンガ喫茶で一夜越しました。

 

 

香川県の旅】

 

 

9月1日、私は松山駅から始発の多度津行きの列車に乗りました。出発した列車は松山市を離れ、そして私は車中でそのまま寝てしまいました。次に起きたときにはもう香川県に入っておりました。そして列車は多度津駅に着き、そこですぐに高松行きに乗り換えました。

 

 

高松に着いたのは10時過ぎでした。私は駅からバスに乗り街に出ました。高松市内は大きな街の雰囲気があり中心街は高いビルが多く並んでおりました。

街の中心部でバスを降りその後は高松市内を歩き、香川県庁前のうどん屋に入りました。昼前ということですぐに座れました。

私はざるうどんを食べました。やはり讃岐のうどんのこしは強く食べごたえがあります。

 

私はまた市内を歩きましたがやはり大きな街なので商店街も大きくなっております。特に私鉄の琴平電鉄の沿線は商店街が集まっております。

 

昼過ぎになり私は高松駅に戻りそこからバスで栗林公園に向かいました。

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栗林公園は広大な庭園が広がり、園内には小山をバックに松の木が生え、池や川が流れ清涼な風景を描いております。園内は歩くだけでも1時間はかかり、この静寂な空間をふんだんに味わえます。

園内には商工奨励館があり、洋館風の建物の中には香川県で作られた古い家具などの展示がありました。ほかにも讃岐うどんの歴史にかかわる展示もあり、小麦と塩に恵まれた讃岐からうどん作りが盛んになる流れが説明されていました。

 

夕方、園内から出て街に戻ると人通りがかなり多くなっておりました。歓楽街にはネオンや飲み屋の明かりが灯り始めました。私は市内にあるカプセルホテルに一晩泊まることにしました。私は外で夕飯を食べ、ホテルの浴場で風呂に入った後就寝しました。

 

9月2日、朝からまたホテルの風呂に入った後チェックアウトしました。私は香川県庁舎を見に行きました。香川県庁は建築家の丹下健三の作品であり、ハイセンスな美術館のようなデザインになっておりました。その後は商店街を抜け高松駅前に向かい、高松駅前のうどん屋で朝食のぶっかけうどんを食べました。290円とお手頃値段でした。

 

その後は高松駅前の高松シンボルタワーという超高層ビルに行きました。高いところが好きな私はタワーの展望台へと上りました。展望台からは高松の街や讃岐平野、周りの山々、高松港、瀬戸内海が一望できました。

 

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【さらば四国、いざ九州へ】

 

 

実はこの日(9月2日)は九州へ帰らなくてはなりませんでした。翌日には用事があったからです。

 

私は高松港からフェリーで岡山県に渡り、岡山駅から博多に向かうことにしました。私は11時のフェリーで高松を出ました。なお出港の時にけたたましい音量でフェリー会社の社歌が流れたのには驚きました。

 

瀬戸内海の島々を眺めながらフェリーは岡山県宇野港に着きました。宇野港でフェリーから降りると、岡山駅行きのバスがすぐに来たので乗車いたしました。バスは1時間かけて岡山駅に着きました。私は岡山駅から普通列車福山駅に向かった・・・つもりでしたが、誤って別の列車に乗ったようです。間違いにはすぐに気づきまして、次の駅で下車しました。乗る予定の列車はすぐにこの駅を経由するとのことでしたので幸いでした。改めて福山行きの列車に乗り換えました。

 

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福山に着くとすぐに三原行きに乗り換えました。三原行き列車は尾道を通過しますが、尾道駅からは尾道城を見ることができます。この尾道城は1964年に初めて作られた観光施設です。

 

三原に着くと岩国行きに乗り換えました。列車が出発してしばらくすると私はまたうたた寝しました。次起きたときには広島を過ぎるところでした。広島を発つと宮島口や宮島のホテルが見えました。そして岩国に着くと下関行きに乗りました。もうこのときには夕方になり、列車が走り出してまもなく外は急に暗くなりました。

 

私はここで旅の終わりを実感し、この時間が終わる黄昏感を味わっておりました。

下関に着くと小倉行きに乗車しました。小倉に着くと九州へ帰ってきた感じが一気に沸きました。実家に帰ってきた喜びが沸き上がりました。もう夜の9時過ぎでしたが、私は駅の構内のラーメン屋でチャーシュー飯を食べました。現金の持ち合わせが290円しかなかったのです。

 

このあと私は博多方面への列車に乗り夜の11時過ぎに博多駅に着きました。そのまま私は博多駅からバスで当時の自宅アパートへ帰ったのでした。

 

私の一週間の四国旅行はここで終わりです。

 

 

【四国旅行を終えて】

 

 

この四国旅行の感想を述べますと、本当に疲れました!! 普通列車縛りで旅をするのは本当に疲労が蓄積しますし、途中でもう倒れるかと思ったこともあります。時刻表とにらめっこして頭脳戦でルートを決定するのもわりと難儀でした。やはりバスや特急や新幹線、飛行機で旅する方が便利で楽なのには違いありません。

 

ただ、普通列車の旅は目の前の景色を楽しむだけの余裕もありますし、ただプランに拘束された旅とも違い予想外の発見に構うだけの余裕もあるのも事実です。

最初から行く場所を厳密に決めて旅するのも良いかもしれませんが、今回は四国を一回りするということ以外は何も決めずに旅に出たのです。私は四国に行ったことが無かったので、四国の名所に行きたいというよりは四国に上陸したいという気持ちが強かったのです。そのためこの旅では、なぜそんなところに行ったのかという箇所がいくつか出ますが、名所に行くというよりは行けるところにひたすら行くというつもりで旅をしました。

だからただの旅行というよりは放浪というのが正しいのかもしれません。

 

反省があるとすれば今回四国旅行と言いつつ徳島県にはほとんど行ってない点です。コロナが明けて時間が出来たら徳島に行きたいと思います。

 

それでは最後までありがとうございます。

 

2021年7月13日

 

 

2016年夏、四国旅行 (前編)

こんにちは、ずばあんです。

 

自由に移動して旅行できる日々を目指して、コロナの終息を目指しているさなかですが。ここで、私の旅行話をしたいと思います。

 

私は出不精ゆえ旅行はあまりしてこなかったのですが、その私が2016年に一週間かけて四国を旅したことがありました。

 

私は九州を出ることがなくずっと生きてきて四国は全くの未踏の地でした。そのため四国について接点はなかったのですが、福岡の大学に進学すると四国出身の学生の人と会う機会が増えました。特に愛媛県出身の方は多かったです。そうした方々から四国の話を聞く機会は良くありました。そのため四国というのは私にとってより近い存在になったのです。

 

そしてある時私は四国に全く行ったことがないことに気づき、四国に実際に行くことにしました。とはいえ私はお金がなく、すぐに行ってすぐに帰る旅もしたくはありませんでした。そこで私は安くで長い日数の旅が出来る青春18きっぷでの旅をすることにしたのです。

 

青春18きっぷとはJRの発行する期間限定の特別乗車券です。青春18きっぷでは、JRの普通列車(快速含む)に期間限定(春期、夏期、冬期)で5日(5回)分に限り距離の制限なく乗車できます。長距離であればあるほど得します。

 

私がこれを買った当時は1枚11,850円(税込)でした。この1枚で5回普通列車に距離無制限で乗車できます。1回辺り2370円なので、それ以上の運賃がかかる区間に乗ればお得な乗車券です。

 

こうして始まった私の四国旅行は2016年の8月27日から9月2日までの7日間でした。1日目は博多から広島まで、2日目は高知まで、3日目は高知県四万十市まで、4日目に愛媛県松山市に行き5日目まで滞在し、6日目には高松へ、そして7日目は九州に帰りました。

 

この旅の模様をざっと語りたいと思います。

 

 

【九州から四国へ】

 

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2016年8月27日、私は当時住んでいた福岡市の博多駅から旅を始めました。青春18きっぷを使うのでもちろん普通列車のみです。

 

博多駅から小倉へ行く列車に乗りました。お客さんは結構いまして私は立っておりました。福岡の街を離れ工業の街北九州に向かいます。小倉駅に着くとすぐに下関行きに乗り換えます。違うホームなので急ぎ足でした。下関行きは門司駅を過ぎると長い関門トンネルを潜りトンネルを抜けるとすぐに下関駅に到着しました。

下関ではプラットホームで向い合わせの岩国行きに乗り換えです。ここでようやく席に座ることができました。閑静な山間や元気なコンビナート群、夜の瀬戸内を見ながら列車は3時間半かけて岩国に到着しました。

岩国では広島行きに乗りかえ、夜の工場や街の明かりを見ながら広島に到着しました。もう夜の10時半を過ぎ、駅前の飲食店は飲みの店とマックしか営業していませんでした。私はマックで遅い食事をし、マンガ喫茶で一夜を過ごしました。

 

8月28日、朝早く起きた私は広島の街に出て原爆ドーム平和公園を散策しました。朝の静寂が包み華美なものが一切ない場所ながら、ストーリー性がふんだんに満ちた不思議な空間でした。

 

朝食をとり路面電車で広島駅に戻り、今度は糸崎行きの列車に乗る予定でした。しかし線路に物が飛来したとのことで30分遅れで列車は出発しました。

広島の街を離れると峠越えの急勾配を駆け上がり峠の向こうの糸崎まで坂を降りていきます。途中谷を跨ぐ大きな橋の下を潜りました。

到着した糸崎駅は目の前に三菱重工の大きな工場がありインパクトがとても強かったです。

 

糸崎からは岡山行きの列車に乗り換えました。列車は尾道の海峡沿いを抜け、坂のある港街の風景や造船所、大橋を眺めつつ走ります。城下町福山や金光教の街・金光、水の街倉敷を過ぎ、やがて大都市岡山の岡山駅に着きました。

岡山駅は大規模な乗換駅であり、四国方面の列車も数多く停まっていました。私は高松行きの快速マリンライナーに乗車しました。列車を待っているときからホームは人が多く、列車はすぐに満員になりました。

 

快速列車は岡山から南に向かいます。20分ほど走ると瀬戸大橋に入り海が見えました。橋からの風景は広大な瀬戸内海が広がり、その中に島がいくつか浮いているという素晴らしい風景でした。10分ほど橋を渡ると四国に入ります。臨港工業地帯をよそに見て列車は農村地帯を抜け、やがて高松の街に入り終着駅である高松駅に到着しました。

 

 

四国山地を越える鉄路】

 

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高松駅についた私は昼食をとるために駅構内の讃岐うどんの店に入店しました。ぶっかけうどんを食べましたが、麺のコシは本当に強く九州の柔らかいうどんと異なりカルチャーショックを覚えました。出汁も美味く何をとっても見事であり、すぐにうどんの器が空になったのが少しもったいなく思われました。

 

その後高松から琴平へ向かう列車に乗りました。道中はのどかな田園風景が続きました。着いた琴平の駅は昔ながらの情緒を残し、古い駅舎や大きな洗面場のあるホームなどがありました。

 

さて、私はここで2時間列車を待たねばなりません。ここから先は高知行きの特急列車は多く走るも普通列車は両手で数えられるほどしか走りません。

構内を散策したりひなたぼっこをしながら2時間すぎて、ようやく1両の気動車が来ました。これで四国の真ん中にある阿波池田に向かいます。

 

気動車は山奥に入り回りは棚田から森多き山奥へと変化します。長いトンネルを抜けるとスイッチバック(鉄道の急勾配箇所に設けられる折り返し形の線形)上にある坪尻駅に入ります。鉄道ファンの方には有名スポットではあります。また、本線に対してこの駅の反対側にある引込み線からは緑と水と岩の調和が見事な滝が眺められます。写真にとれなかったのが残念でした。

 

列車は徳島県の山間の町・池田に入り吉野川の大橋を跨ぐとすぐに阿波池田駅に到着しました。阿波池田では高知行きの1両の気動車に乗り換えました。この時点で夕方5時です。

気動車は駅を出ると吉野川の流れる狭い谷間を抜けていきます。建物がとんでもない急斜面に建っており驚きましたが、やがて建物が見えない秘境へと入っていきます。大歩危小歩危の名前が聞こえたのはこの辺りでした。

やがて日は傾き谷間は徐々に暗くなってきました。相変わらず風景は山々と谷川が続きます。ここは四国山地の真ん中辺りで、山奥や秘境という言葉以外にこの地域を的確に表現することは出来ない気がしました。とにかくこのような風景は人生で初めて見るもので、寂寥感と解放感と自然への畏怖とが折り混ざる不思議な経験でした。

2時間以上走っても抜けられない四国の山々ですが、気動車は頻繁に特急列車の通過待ちをします。特急列車のお客さまは快適そうにくつろぎながら急ぎ足で我々を追い越します。のんびりと質素倹約に勤める私とは対称的でした。

完全に暗くなる頃には街明かりが目立ち始めました。四国山地を抜け高知平野に入ったのです。ここから列車はやや速足になりました。途中の駅では家路につく人々が多く乗り込みまた降りていきます。そして、8時半に高知駅に到着しました。

 

 

高知県の旅】

 

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高知駅を出ると高知の街の明かりがきらびやかに見えました。中心街はここからしばらく歩いたところらしいのでそこまで歩いていきました。中心街は沢山店がありましたが、もう夜9時近くなので一般の店は閉まっておりました。しかしながら飲み屋は沢山営業しており流石は酒どころ土佐と言ったものです。

もう疲労困憊していた私は居酒屋に入らず、Coco一番でカレーを食べてから、マンガ喫茶には入り一夜を過ごしました。

 

8月29日、朝早くに街に出た私は高知城に行きました。誰もおらず朝方の雨に濡れた城内は落ち着いた雰囲気でした。城の頂上まで上がると高知市内が一望され山に囲まれた平野に集まる街の様子が見てとれます。空を覆う雲の切れ目からは青空が見えます。

その後ははりまや橋を見て、高知駅に戻りました。このあとの計画は特に決めておりませんでしたがとにかく西に行こうと考えました。地図を見ると西の方には小さな町がいくつかあるようでした。私は取りあえずその中で一番大きそうな中村(四万十市)に行くことに決めました。

 

高知駅前の坂本龍馬像と別れ私は西に向かう窪川行き列車に乗りました。高知駅を出た列車は高知の街を離れ田園風景へと入りました。須崎を過ぎると深い湾が見え久々に海を見ました。その湾を離れ再び内陸を走ります。

 

高知から1時間半で窪川駅に到着しました。JRはここで愛媛県宇和島市へ向かいますが、私の向かう高知県四万十市へは土佐くろしお鉄道という私鉄に乗り換えなくては行けません。そのためか同じ駅なのに一度改札の外へ出て駅前を通り土佐くろしお鉄道の駅に行かないと乗り換えられません。

 

ここで余談ですが、高知からは18きっぷを使用しておりません。それは高知から窪川までは普通列車の料金は1600円ほどであり、もし18きっぷを使えば損するのと、窪川から中村方面はJRではないので18きっぷは使用できないからです。

 

土佐くろしお鉄道の列車に乗り換え、西の方にある中村へ向かいます。窪川を出発ししばらくすると海沿いに出て太平洋の大海原が見えました。太平洋に面する海岸線ははるか遠くへ延び、島や陸地も見えず、海への視界を遮るものはほとんどありません。しばらく海岸線を走るとまた内陸側に入り、そのまま中村駅に着きました。高知からはすでに三時間近く経っておりました。

 

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中村は小さな町ですが、元は小京都と呼ばれる程京都の文化の影響を受けた町と事前知識を得ておりました。遅めの昼食を駅近くの喫茶店でとった後は町中を散策することにしました。小さくまとまりながらこじんまりとしつつも一通りの物は揃っている町という印象でした。

やがて視界の開けた場所に出てきました。そこはあの有名な四万十川でした。川幅は広く河川敷もテニスコートが小さく見えるほど広大でした。長い橋のかかるこの川の土手で私はしばし寝転びました。

それから私は中村の街の中心部に行きました。アーケード街がありこの辺りでは一番の都市であることが分かりました。しかしながら前評判で聞いた小京都らしい風景は正直いまだ見ておりません。

これは後から知ったことですが1946年に起きた南海地震での津波により、中村の昔からの建物はほとんど押し流されたとのことです。この京都らしくない小京都で見かけた京都要素というのが、一条神社でした。紅い鳥居が大立ちし石畳や石燈籠、石段に導かれ小高い丘の上の社に至ります。境内はしっかり手入れされております。丘の頂上には陽光が当たり心穏やかな空間が広がっています。

神社の案内を見ると、一条氏という京都の公家が中村の地で一条神社を建て、中村の町を築いた歴史が書かれていました。

この一条神社に礼をして去り、中村の町の裏山に上りました。低い山ですが山頂にはかつてこの辺りの豪族の山城が構えてあったとのことです。この山からは中村の町が一望できました。いいところに来たものです。

 

その後予約していた駅前の宿に行きました。宿は素泊まりなので、夕食は外で食べました。とある食堂に入り、そこで名物の鳥天ぷら定食を食べ地元中村で作っている清酒藤娘という酒を飲みました。鳥天ぷらはジューシーで美味しく、藤娘も濃厚で深い甘味のある味わいでした。

それから宿に帰ると風呂に入りそれからすぐに就寝しました。

 

 

愛媛県の旅(1日目)】

 

8月30日、私は朝6時に宿を出て西の宿毛(すくも)へ向かう始発列車に乗りました。宿毛へは30分足らずで到着しました。私は宿毛からバスで愛媛県へと向かうことにしたのです。

宿毛の街は昭和時代の街のようでした。高い建物は無く、低く古い家や店が敷き詰められておりました。ノスタルジー溢れる街の中に

バスの営業所がありました。私はそこで7時のバスに乗り宿毛を後にしました。

 

バスはあっという間に愛媛県へと入り峠を越えて港町の城辺町に着きました。私はそこで降りて松山行きのバスを待つことにしました。時間は結構あったので朝食を食べる店を探しました。空いている喫茶店に入りモーニングを頼みました。喫茶店のマスターは私が九州から来たことを知るとこの街のことについて色々話してくれました。養殖事業や観光事業のこと、交通の便の話など興味深い話をしてくれました。

 

バスの時間が近づきマスターにお礼を申し上げて喫茶店を去り、バス停から松山行きのバスに乗車しました。バスは城辺町を離れ、宇和海の岬と入り江の出入りが繁く続くリアス式海岸を左に眺めながら進みます。やがて城下町の宇和島に入ると一気に整然とした街らしい風景になります。ここでお客様の乗り降りをしたあと宇和島から更に北へ進みます。山の合間の町を繋ぎ、やがて高速道路に入ります。高速道路を降りると松山市に入り、次第に都会らしい光景が目につくようになります。高いビルが連なり、遠くには松山城が見えます。バスは松山市中心部の松山市駅を経由したのち終点の道後温泉へと向かい、終点で私は下車しました。

 

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この道後温泉はついたその瞬間から古風で落ち着いた風情が漂ってきました。すぐ近くにあった道後公園は自然を生かした庭園風の公園でした。するとにわか雨が降ってきましたので、私は園内のあずま屋に入りました。

あずま屋には地元住民の方もいらっしゃりその方としばし談笑し、雨がやむとその方と別れ園内を散策しました。

道後公園は戦国時代までの地元の豪族河野氏の居城の跡です。そのかつての様子が再現されており園内には史料館もありました。

 

道後公園を出て道後温泉の商店街に出ますとお土産物の店や食事の店が沢山あり、観光客も沢山おりました。私はそのなかで豆菓子屋に入りました。その豆菓子屋は味や色のバリエーションが多く、今風のチョコレート店のような雰囲気でした。

商店街を抜けると和風で豪華絢爛な道後温泉本館(改装前)が見えました。ドンと構えた姿はこの辺りの長の風格を醸し出しておりました。

 

更に道後の街の奥に入り坂を登るとあるお寺に着きました。歴史のあり落ち着いた雰囲気のこのお寺には人の姿は見られませんでした。このお寺は名を宝厳寺(ほうごんじ)といい、鎌倉仏教の一派である時宗の祖である一遍上人の生家でございます。ひっそりとしつつも、日本の歴史にとって重要な場所となっているのです。中に入ると観音像を安置しているお堂がありました。観覧は自由でありましたが入口の扉は重厚であり大事に守られていることが分かりました。

 

この宝厳寺のすぐ横には伊佐爾波(いさにわ)神社という神社がありました。こちらは朱色の大きな社が印象的で境内は落ち着いた雰囲気でした。しばらくそこで休んだあと参道の石段を降りていきました。

 

しばらく道後の街を散策したあと、私は路面電車に乗り松山市中心部へ行きました。デパート等がある繁華街・大街道は高いビルが立ち並びます。それに続き官庁街がありそこも大きなビルが並んでおりましたが、その中に大正時代の西洋風の石造りの建物が構えておりました。これは愛媛県庁本館です。青いドームの付いた白い建物がこれまた荘厳さと余裕を見せながら構えておりました。このあと私は歩きながら松山市駅に行きました。

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松山市駅は私鉄の伊予鉄道ターミナル駅です。駅舎はビルとなっており「いよてつ高島屋」というデパートが入居しているようです。屋上には観覧車が取り付けられております。

市駅前も賑やかな繁華街となっており、夕方ということもあり人の行き交いは盛んでした。

私はここで市駅前のカプセルホテルに入りチェックインしました。窓からは松山城が望めました。その日は近くの食堂で食事をしたあと早く就寝しました。

 

・・・この長い長い記事ですが、この次の日以降もかなり記述が膨大になるので残りは後編(https://zubahn.hatenablog.com/entry/2021/07/13/230801)として紹介します。

 

ひとまずここまでありがとうございます。

 

2021年7月13日

【読書感想】「ペスト」カミュ

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こんにちは、ずばあんです。

タイトルの「ペスト」(アルベール・カミュ)ですが、一年ほど前からコロナ禍が始まったことにより有名となった本です。

ペスト(La peste)」はフランスの作家のアルベール・カミュが1947年に発表した作品です。これは1940年代の都市を舞台に感染症のペストの大流行で都市が封鎖される模様を描いた作品です。その様子は同じく感染症である新型コロナウイルスの流行を想起させるため、去年からずっと多くの人々に読まれております。

私もこの本に関心があり、最近になってようやく読むことができましたので、その感想を述べさせていただきます。

【内容】


この本の舞台はフランスの植民地であるアルジェリア(当時)の都市オランで、流行病であるペストが流行り始めそのあとの市民の様子や登場人物の心情や行く末を描いたものです。

ペストとはペスト菌によって伝染する病気で、咳や発熱や内出血などの症状が現れ、罹患した患者の肌が黒ずむことから黒死病とも呼ばれます。
世界の歴史では古代から各地で度々爆発的な感染をおこし、その度に大量の死者を出し社会の混乱を招きました。特に中世ヨーロッパのペスト大流行は有名で、その後のヨーロッパの社会、経済、文化、宗教に大きな影響を与えました。

それでは以下あらすじとなります。


(ネタバレ注意)



<あらすじ>

〈1〉
この作品はとある「筆者」の手記として幕を開ける。

194×年4月、フランス領の北アフリカの都市オラン。オランの医師であるベルナール・リウーはネズミの死骸を度々見かけるのに気付く。リウーのアパートの門番の老人ミシェルは子供のいたずらだと憤慨する。

そのさなかリウーの妻は病気療養のために遠隔地へと発つ。妻を見送った駅でたまたま会ったのは予審判事のオトンとその息子であった。

そのリウーの元に取材で訪ねてきたのがの新聞記者の青年であるレーモン・ランベールである。

リウーのアパートに住むスペイン人の舞踊士の元に足繁く通うのは、フランス本土から来た青年ジャン・タルーである。タルーはオランの街の人々を観察し自分の手帳にメモをつけていた。

オランの神父パヌルーは博学で戦闘的なイエズス会士でオラン市民の尊敬を集める。

役所吏員の初老の男性ジョゼフ・グランはリウーの昔の患者で、自殺未遂を犯した男性コタールの件でリウーを呼び出す。

鼠の死骸は日に日に増え、同時に何かしらの病気の患者も増加した。そして、老人ミシェルもその病気で絶命しリウーはそれを看取った。

鼠の件でリウーは市内で最も有名な医師の一人でオラン医師会長のリシャールと連絡を取り合う。その後、年輩の医師カステルと会いそこでペスト流行の可能性を考える

県庁の保健委員会でリウーらはペストの可能性を主張し、ペストへの対策の準備を訴えた。

疫病患者は増加し、オランの街は疫病との戦いに入った

〈2〉
オランの街は封鎖され、人の移動、物流、通信が制限され、人々はいわば監獄の中の受刑者と同じ状況におかれた。街の外にいた家族と離ればなれになった者もいた。

オランの市民はいまだ現実を認識できず、ペストがどれ程広がるか、これからどれ程続くか分からなかった。

その中でコタールは逆に元気になり、グランは自分の妻ジャーヌへの思いを強めていた。ランベールは市外にいる彼女と会えないことに憤慨していた。医師リウーはこの混乱に冷静に対応していた。

神父パヌルーは「ペストは神が傲慢な人間に与えた試練であり、市民は反省しなくてはならない」という説教を披露し、市民の間で有名になった。

ある日グランはリウーに、自分が詩を作っていることを打ち明けそれを見せる。それを印刷屋に見せて脱帽させたいとグランは言うが、リウーはそのためにはまだ修正が必要だと思った。

夏に入りオランの街はペストの死者が相変わらず出ていた。そして市民はその厄災を祓おうという動きを見せていた。

タルーはリウーと会話し、ペスト対策の話からパヌルーの説教や神の存在の話題になった。リウーは両者に疑問を抱いており、病人に真摯に対応する医師の本分を語る。

その後タルーは保健隊を組織し、グランもそれに加わる。カステルも血清の製造を試みていた。

ランベールはペストに屈従しまいとし、密航を考える。ランベールはコタールと話をし、コタールの伝手により密航の手配をしてもらう。ランベールは二人の男を介し、二人の兵士と打ち合わせをした。

タルーはランベールに保健隊への勧誘をする。タルーはコタールにも保健隊への勧誘をかける。しかしコタールは自分が犯罪者で刑の執行を猶予されている身であることから、ペストが続くことを望むことを言った。
タルーは再びランベールを話をし、ランベールは一種の虚無感を打ち明ける。タルーとリウーはランベールの心情を肯定しその上で愛や誠実さの大切さを述べた。そしてランベールは保健隊に入った。

〈3〉
8月、ペストはオランの街に益々広がった。そして狂気から犯罪を犯し投獄されそこでペストで死ぬ者も出てきた。犯罪は増え街には戒厳令が出た。死者の葬儀・埋葬も切迫し、失業者対策でその人員に失業者が当てられた。個人の自由が制限された街には陰鬱さが立ち込めていた。

〈4〉
秋に入り、ペストと戦う者に疲労感が出ていた。一方コタールはこの状況に満足していた。タルーの手記によると、コタールはそれまで密告者に怯えて暮らしていたのが、ペストによる断絶状態で他人からの恐怖から解放されたからだ。

ランベールは密航の日が近づいていた。密航の日ランベールはリウーとタルーに挨拶した。帰りの道中ランベールはリウーに、愛から離れて生きることへの疑問を問うた。するとリウーは愛を諦めてない旨を伝えた。そしてランベールは密航をやめリウー達の所に残った。

秋の暮れ近く、判事オトンの子供がペストに罹った。リウーもこの子供の治療に当たる。子供の容態は絶望的であった。子供の病床にはリウーのほか、神父パヌルーらも集まった。そして子供は悲鳴をあげながら息絶えた。
リウーは病室を出てパヌルーに、あの子供には罪はなかった筈だと憤りながら言った。その後外庭で2人は話し、パヌルーは神の恩寵は人智を越えるものだと言うも、リウーは子供を苦しめた世界を愛することを肯定できないと答えた。そこでパヌルーはリウーの精神を理解し、職務を通じて結び付く何かが大事だと言った。

パヌルーはその後緊迫するペスト患者の病床に積極的に出てくるようになる。パヌルーはリウーに今度また新しい論文をミサで発表すると告げる。

ミサの日、リウーとタルーはミサに訪れた。パヌルーの説教は、ペスト流行の中で神の試練における利益が重要であり試練の解釈は重要ではないと伝えた。そこでキリスト教信者や聖職者は最後まで神の愛を信じ、神の道を捨ててはならないと伝えた。
それを聞いた若い聖職者は「司祭が医師の救命を受けるのは矛盾している」と介した。タルーはパヌルーの説教から、パヌルーは悲惨な末路が待っていても信仰を捨てない覚悟をしていると読み取る。
そしてパヌルーは数日後ペストと見られる症状を発症し、酷い病状のもと静かに息を引き取る。

11月、ペスト流行は山場を見せた。街では物資不足に乗じた売人によりインフレが起こっていた。判事オトンも収容された予防隔離所のスタジアムでは隔離者の間で不安感が立ち込めていた。

タルーはある時海を眺めるテラスでリウーに自分の過去を明かした。タルーはオランでのペスト流行の前から「ペスト患者」であったという。

タルーの亡き父は次席検事であり職務でも父としても素晴らしい人間であった。タルーが17歳の時父の職場である法廷を見学した。そこで父が被告人に死刑を求刑する姿に、社会全体が人に死を要求する姿を見てジャン・タルーはショックを受けた。
そこから彼は、人に死を要求しながら成り立つ社会に抗い政治活動に参画した。政治活動の中でも粛清は行われていたがある時その模様を目の当たりにした。そしてタルーも殺人に抗いながらその犠牲としての殺人に荷担していた人間すなわち「ペスト患者」であったことを自覚した。
タルーはそこから人を殺すもの一切を、例えそれが天災であっても、拒むようになった。そのために社会一般から外れることになってもタルーはそれを許せなかった。ゆえに第三の道すなわち心の平和に立とうと考えたが、どうすればよいのかとリウーに問う。

リウーは心の平和に至る道が何か分かるかとタルーに問う。タルーは共感だと答えた。タルーは神を信じずに聖者にどうすればなれるのかが問題だという。リウーは、自分は聖者を望んでおらず人間であることを望むという。
タルーはリウーと同じものを見ていることを確認しお互いに友情を確かめた。

12月、ペストは腺ペストから肺ペストへと変わった。オトンは隔離収容所の事務職として働くという。そしてグランは愛する妻を亡くし嘆き悲しんだ。直後グランもペストに罹ったことが分かりリウーは懸命な治療に当たった。そしてグランは無事病から回復した。
別の新たなペスト患者も治療の後無事回復した。そしてペストは突然退潮の様子を見せる。

〈5〉
ペスト患者の数は1月になり減り、症状の軽い患者も多くなった。カステルの血清も効果を出し始めた。一方で症状の重い患者は数少なくもおり、判事オトンもそれで命を落とした。

街は徐々にではあるが自由を取り戻しつつあった。ペストの退潮を疑う者もいたが、自由の獲得を大いに喜ぶものもいた。
その中でコタールはまた密告者に怯えるようになる。コタールと会ったタルーは、ペストはまたいつ牙を剥くか分からないと言い、コタールはそれを喜ぶ様子を見せた。タルーは社会全体がまたゼロからやり直すことになるとし、コタールの人生も同じだと言った。コタールも人生の希望を見出だしていたところ、コタールを追う公安の人間が現れ、コタールはすぐさま逃亡した。

2日後、リウーの元に体調不良を訴えるタルーが現れた。彼は重いペストであった。リウーは連日連夜タルーの治療に当たるもタルーは息を引き取る。
リウーはこれまでのタルーの人生の意味を問うたが分からなかった。しかし、これまで見てきたタルーの姿が、生の証がリウーの脳裏に確かに思い浮かばれた。そして翌日電報でリウーの妻が死去したことを知る。


2月、オランの街の封鎖は解かれた。別れた人との再開や自由を取り戻したことを喜ぶ人は沢山いた。

この時点で、この物語を語ってきた「筆者」がリウーであることが明かされる。リウーは客観的な記述を心がけながらも犠牲者に寄り添う姿勢を見せた。

リウーは患者の元に赴く途中コタールが拳銃乱射をしているところを見る。グランも駆けつける。コタールは武装した警官隊により制圧され逮捕された。

生前のタルーによると、コタールも人々を殺した身であり、それを是認しているのがコタールの罪であると語った。タルーはそれを許そうと思わなくてはならないと述べたのであった。

グランはリウーと別れるとき、詩の形容詞をすべて削除したと言った。

ペストは去ったが、いずれはまたやって来て人々を苦しめるであろう。その時のために今回の疫病で得た教訓、人間には軽蔑されるより賛美されるべきことが沢山あることを記録するためにこれを残したのだ。

〈終わり〉




内容は以上です。総ページ数459ページ(文庫版)にわたる長編小説でした。ペストという災厄に対して向き合う主人公を始め様々な立場からの視点、それぞれが膨大で濃密な物でした。その中で主人公の医師リウーが何を思いペストと立ち向かうのかは、新型コロナとの闘いにいる私たちに何か刺さるものがあると思われます。リウーだけではなくそれ以外の登場人物からも何か私たちの心と通ずるものがあるかもしれません。

【感想】


ここから私個人の感想です。かなり長めになるので、テーマごとに小分けして述べていきたいと思います。


〈1.ペストは天罰か?〉

この作品はペストというどの人にも降りかかる疫病を描いたものです。現在どのような人間であろうとも、過去にどんな人間であってもそれを問わず襲いかかる不幸であり脅威です。

それに対して何故我が身にこのような不幸が襲いかかるのかという疑問や不安が起こるのはおかしくありません。答えなき殺意というのは理不尽で恐ろしいものですから。何か理由があれば避けられるものだと思えるからてす。自分はそれから免除されることができるかもと思えるからです。

そこで出てきたのは神父パヌルーの説教の文言でした。「ペストは傲慢になった人間への天罰や試練であり、それを悔い改めることで人々は神の恩寵を受けられる」と問いました。

一見してそれは納得のできる筋の通った話のように思えます。しかしそれは後々のペストが去った平時において逆に狂気を起こさせる反作用をおこさせる要因になると思われます。
平時に幸福を与える存在が突然無差別殺人を起こすかもしれないというのはとんでもない恐怖心を与え人々を萎縮させます。特に、過去にどんな人間であったかや現在どんな人間であるかを問わないのが究極者であるという信念は、人間性や理性を崩壊させます。つまりは、善意や悪意を振り撒くのは全くの気まぐれということを道徳として私たちに刷り込むことになるのです。

パヌルーも後に小さな子供が長く苦しみながら死ぬ所やリウーの憤りを見て、ペストを乗り越えることによる利益はあれどペスト自体に意味はないと改めました。

天罰というと名前のとおり懲罰的ニュアンスが強くなります。天罰を受ける人間の悪や罪は当然想定され、その量刑・罪状なども想定されます。特にその人間の尊厳回復の際にはこの判断は避けられず、その人間はいつまでも告げられない「満期」を意識することとなるのです。

しかしペストに天罰というニュアンスが無いならば、すなわちペストに見舞われた人々の罪が類推されないならば、その罪を想定することによる多様種々のややこしさから解放され、人々ははっきりとした希望を持つことができます。
変な話ですが、コタールが殺人犯として平時には逃亡生活を送っていたのが、ペストの中で密告の心配がなくなった時に幸福に満ちあふれた生活を送っていたところからそれが分かります。

ペストに限りませんが、突然やって来た災厄に懲罰的意味を見出だすのは教訓なき行いであり幸福をいたずらに減らすだけであると思います。災厄はあくまで困難であり、道徳的意味は無いのです。もし災厄に懲罰を込める神がいれば、それはダメな存在といえるかもしれません。

この本の扉表紙には17世紀の作家であるダニエル・デフォーの文言として、「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。」とあります。
これは皮肉的表現であり、「ただの監禁状態を監禁状態ではないことで表現するのは、存在するものを存在しないもので説明するくらい非合理的なことである。」ということが出来ます。ペストによる閉塞的な状況を「神」の与えた天罰や試練と捕らえることは、ペストという困難から逆に目をそらし、困難に打ち勝つことを妨げているのです。もし「神の所業」でそんなことになるのであれば、神との信託は無い方がましなのかもしれないと思えます。

余談ですがこれはあくまで、北アフリカの植民都市という、日本と気候、風土、文化の異なる場所の話であり、それにともない宗教的意義は変化する恐れがあることは付け加えておきます。


〈2.パヌルーは尊敬されるべき人間だった〉

では、その懲罰的なメッセージを振り撒いた神父パヌルーは市民の敵であったかと言えば、そうではないと言えます。
パヌルーはイエズス会の熱狂的で勤勉な神父であり、市民の尊敬を日頃から集めておりました。そのためペストの発生時にオランが封鎖されたときに「神の試練」の説教をして、それが多くの人に支持されたのです。
そのパヌルーが先の「神の試練」の説教を発表した意義は、市民を断罪することに主眼がおかれたものではありません。むしろ、市民がこの困難を乗り越えるための最も有力な「神のメッセージ」を伝えるためのものでした。リウーとの会話では、パヌルーは「神の恩寵は人知を越えたところにある」と述べております。パヌルーは神の恩寵を人々が受けることを考えていたのです。ただパヌルーは、医師リウーが語るとおり、ペスト病棟の実態に疎かっただけなのです。

パヌルーが病棟で実態を目の当たりにし、リウーの信念を理解したとき、パヌルーは病棟の患者にも優しさを振り撒きました。その善意は二回目の説教にも込められペスト自体の懲罰性を否定しペストの困難に打ち勝つ意義を唱えました。そして、パヌルーは聖職者としての役目から逃げない決意をしました。

その結末は、人によって解釈は異なるでしょうが、パヌルーは医者からの治療を拒み続け最終的に病院に搬送されるも命を落としました。
酷い病状ながらも静かに息を引き取ったのはパヌルー自身の信念の表れでしょうか。

もしパヌルーが規律を第一に考え市民の幸福を二の次に考える人物だったならば別の描写がされていたはずです。病棟の実態を知っても、リウーの善意を理解しても、死んだ人間を叩きながら人々に託宣し続けたかもしれません。いや、もしかしたら教会にずっと籠り続けたかもしれません。

私が思うに、パヌルーはやはり人から信頼される人間であったと思うのです。そうでなければ、無神論者のリウーから子供の死について憤りに近い問いを投げ掛けられることも無かったでしょう。本当に話にならないのならば、リウーはパヌルーを無視したでしょう。

世の中には、自分の正義が第一でそれを邪魔する者は問答無用で悪として打ち倒し正義の「肥やし」にしようとする人々は多くいます。コタールもその一人で、自身の活動における殺人行為を肯定し仕方なかったと言いきる人間でした。その現実の下で自身の主張の矛盾を省みて修正できることはパヌルーの真の優しさを表していると言えます。


〈3.タルーは潔癖主義的〉

この本のキーパーソンの一人であるタルーですが、これは私ずばあんが特に耳目を牽かれたキャラクターでした。その理由が、タルーの行動原理が私の本心というものにかなり近い気がしたからです。タルーの信念や迷いや苦悩というものは作中の登場人物の中で一番共感できたものでした。

タルーはあらゆる人々に関心を向け、それぞれの人物に優しさを振り撒いてきました。いかなる人物に対しても攻撃することなく、それらを救おうとしてきました。医師リウーやペスト患者はもちろん、殺人の経歴があるコタールにも例外なくその善意を向けてきました。

このタルーの善意の源は、自身も自称している通り徹底的な潔白主義からでした。タルーは殺人を嫌いますが、社会的制裁としての処刑はもちろん、それに反対するための活動における「やむを得ない犠牲」さえも嫌いました。

正直言うと、これは通常よりも強いレベルでの殺人への嫌悪であり、ここまで来るとこの世に逃げ場が無いのでは思えるほどです。それは「死ぬことが安息である」ほど神経を酷使するものでした。タルーは自分が人を殺す人間では無いということを証明するのに常に気を払う人間に思えます。殺意から綺麗になりたいという潔癖主義を持つ人間、それがタルーという人物なのです。

タルーは「神なくして聖人にな」りたいと願っておりました。このタルーの心情は「人に罪を与えて自分が綺麗になる存在を認めずして、自分が綺麗になりたい」というパラドックスを含む願望でした。ここからタルーの潔癖主義は極まっていることが伺えました。


私ずばあんも、実は「罪」から綺麗になりたいとナチュラルに考えている人間でした。詳しいエピソードは割愛しますが、自分に降りかかる苦しみから逃れたくて、その苦しみに自分への「罰」を見て「罪」を祓おうとして生きてきました。

正直なところ、私は大人になるにつれ責任が重くなることが著しく苦痛に感じていました。責任は罪の理由を増やし、弁解すらも禁ずるからです。私は少年の時に自分に原因の無いことで罪悪感を強く感じ、それを信頼する人に実際に責められました。そのため人から擦り付けられる「冤罪」についてはかなり鋭敏に感じておりました。

私はその無実を晴らすために色んなことに尽力しましたが、それ以前の状態に戻ることは無かったと思います。大人になるにつれ責任が重くなりその罪を自覚しなくてはならなかったのです。過去の冤罪の弁解なぞ出来るはずがないのです。

私はその罪を与える「何か」は私が冤罪であるかいなかはどうでもよいように思えました。「何か」はそもそも私を潔白にするつもりはなく、腹の底では私に生来からの罪を感じておりそれを証明することに使命感をかける「正義感」の強い者としか思えません。冤罪も立派な罪と思っているのです。そんな「何か」は私に白くなる方法すら与えないことでしょう。教えないことが「何か」の「正義」の現れなのですから。

そんな気持ちがあるからこそ、私はタルーの人物像に共感が持てるのです。


そしてタルーが強い関心を寄せ、友情を感じていたリウーに「心の平和」とは何かと問います。

リウーは「聖人でも、ヒーローでもない、ただの人間」と答えました。タルーはそれに満足した様子でした。

私はこのリウーの言葉とタルーの気持ちについて次のことを思いました。

「神みたいな者とは異なる」聖人になろうとすることは、実は自ずと神の存在を(悪魔としてでも)認めているのではと私は思いました。神を潔白さの下で打ち倒すには神という存在を認めた上で対峙しなくてはならないのではと考えました。
タルーの心の平和の道というのは、質問する以前はいかなる人々への限りなき共感でした。それがタルーのいう「聖人」だったのです。

しかし、現実にそのタルーの方法論と目標には限界があります。そんなことを実現できた人はいませんし、もしかすると反動から共感どころか他人に鋭い敵意を向ける恐れもあるでしょう。タルー本人もこの試みを「死ぬことが安息」と言っておりました。

それに対するリウーの「聖人でもなくヒーローでもないただの人間」という回答は、タルーの潔癖に対する呪縛から解き放ってくれたと思います。
人間はどんなに努力をしたところで人間にしかならないのです。神に打ち勝つ聖人にもなれませんし、他人の一切の功績が霞むほどの活躍をするヒーローにもなれないのです。
しかしそんな人間でもペストという災厄と戦ってこれました。ペストの高止まりを見せるときだからこそ分かるのです。それにタルーのこれまでの尽力も人間タルーが行ってきたことなのです。
リウーはタルーを聖人ではなく、人間として見て、その人間の部分を讃えたのです。

私もこの部分は言葉で言い尽くせないレベルで腑に落ちました。
「何か」による有罪を晴らそうと「何か」よりも超越した存在になろうと願っていた私も聖人になろうとしてましたが、それが私の「人間性」と捉えれば、その「人間」でこの世での存在が許されるならば私は幸せだと思いました。

確かに「人間」である以上、抗えない者の気分で「罪」の質と量は変動するでしょう。ただ、その人間が人間くささを受け入れるならば、それは問題とならなくなるのでしょう。理不尽さに怒り泣き、幸せなときには笑い喜ぶこと、それが人間の人間足る証なのでしょう。

リウーのこの言葉は私に、リウーだったら私のことも受け入れてくれるだろうと思わせてくれました。


〈4.「ペスト」とコロナ〉

この「ペスト」は冒頭でも申した通り、新型コロナの流行で注目を集めました。「ペスト」に描かれている状況がコロナ禍のそれに似ているからといわれます。
ではそれはどこまで正しいのでしょうか。

まず都市が封鎖(ロックダウン)される様子はまさしくそうであり、その中の市民の一部が狂気にかられるのも実際のコロナ禍でも見られました。
一部の市民が病気の流行を正しく評価できず過小評価したりするのも同じでした。平時では活躍していた政治家やエリートが非常時では日和見に走るのも同様です。
そして物資不足に乗じて価格つり上げを行う転売屋の存在も描かれており、まるでコロナ禍のことを言い当てているかのようでした。

ただ、何もかも新型コロナと同じかと言うとそういうわけではありません。

オランでのペストはオラン市内でのみ押し込められていますが、新型コロナは全地球上に広がりを見せております。今はグローバル社会だから昔とは異なるとも言われますが、全地球上に広がった疫病は昔から存在します。

例えば1919年頃のスペイン風邪アメリカから始まり全地球上に拡散しました。極東の日本にも伝わりさまざまな防疫対策がとられました。

新型コロナのように全世界に広がる疫病は逃げ場はなく全人類が脅威にさらされます。そこでは疫病に対してどのように「敵対」するかよりも、どのように「コントロール」するかが求められています。以前の生活に戻ることよりも、新しい生活様式やポストコロナ社会など新秩序を受け入れることに主眼がおかれます。
かつてのヨーロッパのペスト大流行も、ヨーロッパのそれ以前の中性的な宗教中心の生活からルネサンス的な人間中心の生活へと変貌させました。先程のスペイン風邪もそれまでなかったワクチン接種という習慣を根付かせるに至っております。
「ペスト」とコロナとでは社会生活を前の通りに戻すか新しい形に変えるかの点で異なると思います。

【おしまいに】

濃密なメッセージの込められた「ペスト」でした。

「ペスト」は非常時に押し込められた人々が人間らしく自信を持ち困難に立ち向かう姿を描いております。誰が死に誰が生き残るかということが無差別に行われるなかで、主人公リウーらはあらゆる人々に人間としての尊厳を大切にしながら献身的に救いの手を差しのべていきます。

これは今のコロナ禍のみならず、私たちが生きている間はずっと大切なことかもしれません。

この「ペスト」に出てくる人たちは本当に強く前向きな人達に思えます。私が同じ状況に置かれたときにこの人たちみたいに強く立ち振舞得るかは分からないです・・・

あとこれは私事ですが、「細かいことはどうでもいいんだよ」という言葉の真意をこの作品で初めて理解できた気がします。それは無節操や無配慮ではなく、ただ大切なもののために今自分の役目を果たすということなのでしょう。

もしお時間がございましたら「ペスト」をお楽しみいただけたらと思います。

それでは最後までありがとうございます。

2021年6月30日

私たちは陰謀論信者になるかも?!


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ずばあんです。お久し振りです。

 

本日は現在ちまたを賑わせる「陰謀論」について述べます。

 

新型コロナウイルスのワクチン接種が進んでおりますが、そのワクチンについて様々な陰謀論が起きております。「ワクチンを接種すると病気で死ぬ」「ワクチンの効果はない」「コロナ禍は国家や財界によるデマ」など様々な真偽不明の陰謀論が起こっております。

 

少し前ですと、Qアノンと呼ばれる人々による陰謀論騒ぎが問題になりました。Qアノンとは、アメリカのインターネット掲示板「4 chan」に現れた「Q」と呼ばれるユーザーが発信する情報を信じる人々のことです。「Q」アメリカにおける児童売春などの犯罪や工作活動に関わる裏の組織として「ディープ・ステイト(DS)」(*)の存在をほのめかし、DSにはアメリカ民主党の議員やユダヤ系財閥が関与すると述べております。そしてDSを倒すための光の戦士がドナルド・トランプ氏であると述べております。

(*「ディープステート(闇の政府)」とは元はトルコ等の国の内政で軍部や官僚等による非公式な連帯・グループが事実上の実権を握っている状態を示す言葉でした。現在のアメリカなどの陰謀論者の間ではこの言葉は社会や世界全体に暗躍する悪の連帯というニュアンスで使われます。)

 

このQの主張は根拠不詳の陰謀論であり、情報の裏付けが乏しく、矛盾点が数多く挙げられております。それにQが何者であるかは明らかにされず、同一人物か複数人かも分かりません。また「模倣犯」がいるか否かも明らかにされていません。Qアノンはこの正体不明のQによる真偽不詳の情報に振り回されている状況です。

 

Qの主張を信じるQアノンは、心の中の信条にとどまらずデモ活動等の行動に及ぶこともあります。そして時には陰謀論を信じたQアノンが店舗襲撃などの過激な行動に及ぶこともありました。先ほどのQの主張からQアノンはドナルド・トランプ氏を熱烈に支持し、トランプ氏が大統領であったときにはそれに強く信託したのです。そして2020年11月の大統領選挙でトランプ氏がジョー・バイデン氏に破れると、Qアノンはトランプ氏の続投と不正選挙の可能性を訴えました。そして2021年1月にはQアノン等のトランプ支持者は首都ワシントンD.C.国会議事堂を襲撃し、襲撃者や警察官に死者が出ました。 

 

このように信じる人を振り回し死におとしめることもある陰謀論ですが、これを信じる人のことをただの不勉強で非論理的な人間と切り捨てることにも疑問があります。なぜなら陰謀論を信じるメカニズムには誰もが平等に嵌まる機会があり、それはまさしく「論理的な」裏付けがあるからです。

 

 

【科学的な情報を正しく読み取れてるのか】

 

新型コロナウイルスワクチンの接種は各国で進み、日本でも段階的に接種が進んでおります。しかしながら、ワクチン接種の効果に関して疑問視する動きがあります。

 

ネット上などではワクチン接種の効果を否定し、逆にワクチン接種事故の危険性を強調しワクチンの接種拒否を唱える陰謀論が出てきました。その陰謀論の中にはコロナ禍自体を政府や業界によるデマだと断じ、ただの風邪だとする論もありました。(そのただの風邪でも死亡するリスクは十分にあると思うのですが)

 

そのような陰謀論が生まれる理由は科学的リテラシーが乏しいことにあると思います。科学的リテラシーとは、科学的な情報・データの意義を歪みや脚色なく解釈する能力のことです。もしそこにあらぬ意図や価値観が混ざるのであれば科学的リテラシーは不十分であると言えます。

 

今回のコロナ禍を見ると、新型コロナウイルス(Covid-19)の危険な所は感染者に突然症状が発生し、後遺症や死亡の可能性が高いところにあります。これまで無かった病気であるゆえに対応策が限られている点が上げられます。既往症のある方や高齢者にとっては特にそうであるといえますし、人の間で伝わる感染症である点から自分さえよければは通じません。だから「ただの風邪」という言い分は適切ではないのです。

ワクチン接種についてもその効果や事故を疑う陰謀論があります。ワクチン接種の効果については、新型コロナの場合は95%とされています。これはワクチンを接種しない場合と比較してワクチン接種後は新型コロナ感染症の発症者数を95%減らせたという意味です。

この95%という数字を見て「まだ5%もかかるのか」と思う人もいらっしゃいます。しかし普段から行われているインフルエンザのワクチン接種の効果は97%といわれており、2%程の差となっております。この事から見て新型コロナのワクチンを打つことは合理的と言えます。

またコロナのワクチンを打つことにより循環器の異常などの病気が発生するという噂がいわれております。しかしこの事についても明確な因果関係は存在せず、むしろそれをセンセーショナルに報道、拡散し受容するという情報伝達の問題として考えられます。後から詳しく話しますが、人はいい情報よりも悪い情報に敏感であるという習性があるのでそれも科学的リテラシーを歪める要素として考えていいでしょう。

それに仮に接種後に異常が起きたときには医療機関からの情報や指示、処置に委ねる方が「まし」なのです。それで批難を受ける方が逆におかしいのですから、接種はした方がいいのです。

 

その科学的リテラシーを養うには普段から情報を仕入れることです。特に情報の出所が明らかであり、いざというときに責任を問える所からの情報は信頼できます。(新聞社や放送局、出版社など)その中でも過激で注目を集めようとする大袈裟な文言を多用する記事は避け、常識的でよく言われていることに則った記事を信用した方がいいです。今はネット時代ですので複数の情報源から情報を仕入れ同じニュースの真偽をチェックすることも大切です。

 

 

【科学だけで十分なのか?】

 

 

科学的リテラシーを得ることは大事ですし、科学的に行動できることに越したことはないです。しかし、科学的に正しさが証明されたからといって陰謀論を信じる人は出てきます。それは何らおかしいことではありません。それは科学が私たちの悩みをいつも解決するわけではないからです。

 

科学は確かに私たちの生活を豊かにしてきました。一方で科学は万能ではなく有限であり、いまだに科学で説明できない事柄がたくさんあります。例えば、今回のコロナ禍が広まったメカニズムやどの様にしたらコロナ禍をおさめられるかは科学で説明できても、なぜ自分がコロナ禍に巻き込まれなくてはならないのかまでには科学は答えられないのです。

 

これは科学サイドからすれば科学は万能ではない、偶然の出来事だというだけの話ですが、われわれ人間からすればそれで消えるようなモヤモヤではないのです。そのため私たちは科学が答えられない所で「悪人」を探したり、原因探しをしたりするのです。

 

その中で発生するのが陰謀論です。陰謀論はある事柄について何者かが何かしらの陰謀により起こしたことであると述べる論です。ここでは「たまたま」という可能性は排除され、不幸や不運がわざと起こされたことと説明されます。そうすることにより理不尽でなす術がないように思えることが、理由がはっきりし打ち倒せることのように思えるからです。現実は何も変わっていないのにそれが変わったかのように思わせるのが陰謀論です。

 

Qアノンの発生した背景も似たようなものでした。Qアノンは格差の激しいアメリカで窮状に貧する白人貧困層から生まれたものでした。

 

実力主義社会のアメリカでは貧富の差が激しくなっており、富の42%程が全人口の1%のトップ富裕層より占められ、1%の富を下位50%の国民が持つという状況になっております。社会保障制度が先進国の中でも極めて手薄なアメリカではこれはより深刻な問題です。

 

その格差の内訳を見ると、富を持つ側は現在はITビジネスで財を成した実業家が多くなっております。彼らは全世界に開かれたIT空間で新しい可能性を開くイノベーションを目指し、旧来の価値観を打破することを指向しております。そのためこのトップ層には人種を問わず実力で競争を勝ち抜いた者が集まっております。

 

その一方で貧困層には、旧来の産業や価値観にしがみつき社会のIT化の潮流に取り残された保守的な白人層が含まれます。白人貧困層は元々旧来栄えていた製造業に従事し中流層だった人が多いです。しかしIT革命により社会がIT化し同時にグローバル化が進むと、アメリカの製造業は海外の人件費の安い国に工場を移転し、アメリカ国内の製造業従事者は職を失いました。そこから社会の変化に着いていけなかった保守白人層などの人々は貧困化し、この層の自殺率やセルフネグレクトの割合も上昇しました。

 

このIT時代に発生した新しい貧困層の保守白人貧困層は、同時に起きたグローバル化やそれに賛同するリベラル派を脅威と捉え敵視します。そして保守白人層は「白人」や「アメリカ国民」であることに強固なアイデンティティを見いだし愛国心を強く押し出すようになります。

 

この中で生まれたのがQQアノンでした。彼らは保守白人層の側に立ち、彼らが考える「敵」を悪役としそれを自分達の「ヒーロー」が打破するという物語を描きました。このヒーローがドナルド・トランプでした。トランプ氏は不動産で財を成した白人富豪ですが、自身の政治的スタンスは強固な保守で愛国的で白人至上主義であり、Qアノンらにとっては自分達の立場を代弁するヒーローのようなものでした。そして2016年のアメリカ大統領選挙では民主党ヒラリー・クリントン氏を破りトランプ氏が大統領となりました。

 

その後のQアノンはトランプ大統領の支持基盤として存在感を強め、2019年に大規模な児童売春事件である「エプスタイン事件」の発覚でQアノンの信憑性を強めることとなりました。

しかしその後全世界的な新型コロナウイルス感染症の蔓延で、アメリカも大きな被害を受けました。その中でQアノンは、新型コロナは闇の組織のデマであるという陰謀論を主張し、マスク着用や店舗の自粛といった感染対策をしない動きが見られました。これにトランプ氏本人も同調しましたが、その後新型コロナを発症し陰謀論は説得力を失いました。

 

その後トランプ氏はバイデン氏に大統領選挙で破れ、その後はトランプ氏やQアノンの敗北宣言の拒否から国会議事堂襲撃事件の悲劇へと至りました。

 

このQアノンの陰謀論は現実の社会変動を曲解したものであり現実にとれたであろう解決策から陰謀論信者を遠ざけたものであると言えます。それどころかむしろ信者を生かすどころか逆に生け贄にして死へと導く、潜んだ殺意を含むものでもあります。

 

しかしその陰謀論の源が、厳しい競争社会や信条の差が産み出す格差による貧困であることを考えるとQアノンを産み出した人々を愚者とか不勉強と断じることはできません。科学に信条を変えるだけの能力は無いからです。

 

そのため、陰謀論は科学の限界と併せて考えなくてはなりません。

 

 

陰謀論者にはどうすればよいのか】

 

 

陰謀論が流行るのには即効的な解決策が無い問題で苦しむことに原因があります。希望が無い状況ではその惨めさから抜け出すために陰謀論に流れる人が多くいます。

 

陰謀論者は自分達を不幸の境遇から救いだしてくれる神とも言える存在を望み、それを証明し具現化しようとします。その点は間違いではないと思いますが、その願望のためなら事実を曲げて解釈しそれが反証されそうになると常軌を逸脱する暴力的な道理に反した行動をとろうとする点で危険です。

 

先ほどのQアノンにはキリスト教福音派が深く関わっております。福音派キリスト教の派閥のうち、聖書の内容を疑い無く信じる派閥で、キリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)とも呼ばれます。

キリスト教聖典である新約聖書では、神による世界の創造や人間の興り、教祖イエス・キリストの起こす奇跡や伝道、処刑からの復活の物語が描かれております。福音派はこれを疑い無く信じており聖書に則った教育を施し、ダーウィンの進化論等の聖書と矛盾する科学的事実を否定しております。そして彼らはこの世の所業における神の絶対的な関与を信じ、神による創造や奇跡、規律を確信しております。そのため「神からの予言」と異なることが起こるのはあり得ないとされています。

 

Qアノンの精神的基盤には元より信じていたこの福音派が大きく影響しており、福音派の牧師がQアノンの主張を引用することもあります。

神やイエス・キリストによる世界の創造や秩序、奇跡を疑いなく信じる考えは、Qアノンの主張への盲信や他の立場への排他性に少なからず影響を与えております。これは陰謀論を産み、陰謀論者を増やしていきその度合いを益々深める沼のような有り様です。そして理性のコントロールがきかなくなると犯罪や絶命などあらぬ方向へと暴走するのです。

 

ちなみにここでひとつ弁解しますと、私は福音派を否定しているのではなく、陰謀論による悲劇について語っております。福音派ならば必ずQアノンになるというわけではなく、同じく陰謀論者になるというわけではないのです

 

ここまで過激に陰謀論に期待し、陰謀論に依拠する陰謀論信者の状況はどのようにしたら解決するのでしょうか。

 

そのヒントとなるのは遠藤周作の「深い河」(1993)です。これはヒンドゥー教の聖地ガンジス川を題材に、究極的に人々の信仰の対象となる存在を示した作品です。

 

ここで示される神というのは、「全てを受け止める存在」でした。これは奇跡を起こせないですし、戒律を示せないものの、全てを温かく受け入れ包み込む存在でした。それを象徴するのがガンジス川でした。本来ガンジス川ヒンドゥー教という一宗教の聖地であり、ここで沐浴すると信者は浄められあの世に行けると言われます。「深い河」ではこれを宗教などに関係なくすべての人間のいかなる気持ちをも受け入れてくれる存在として描きました。

 

これはQアノンの想定する神様像とは異なります。Qアノンは神様は唯一無二の真実を教え、奇跡を起こし、世の中を正す絶対者と考え、神と自分達信者の関係はそうあるべきと考えます。「神様はQアノンの敵の陰謀を警告し、Qアノンに救いの手だてを与える」というプロットをQアノンは信じます。このプロットが崩壊することはQアノンにとって精神的な危機となるのです。

 

「深い河」に出てくる神はそのような強い力を持っていませんし、人々は神からそのようなことを期待しておりません。しかし、神は人々の人生に目を向け、各人の愛され包摂されたいという気持ちを汲む点では何者をも凌駕しております。ここでは、何も窮状は変わらないし道筋がわからないから自分達には神様はいないのだということにはなりません。慈愛に満ちた存在としての存在を認めることで人はこの世の孤独から解放されることとなるのです。これを日本人の感覚から述べると「お天道様が見守っておられる」と表現されます。

 

では陰謀論者に対して具体的に何をすればいいのでしょうか。赤の他人ならまだしも、家族や友人が陰謀論にはまった時にはどうすればいいのでしょう。

 

陰謀論者が陰謀論にはまるのは、悩みや不安が極限にまで溜め込まれるからです。それが行き場を失った時にその解放のために陰謀論を信じるのです。その陰謀論は大抵の場合取り合ってもらえず論破や冷笑されるので、陰謀論者の人は疎外感を感じるのです。そしてそれがますます陰謀論者を陰謀論へ依存させるのです。

 

そのため陰謀論者となった人には、その悩みを吐き出させてあげることが解決の早道となるのです。まずは陰謀論者の話を否定せずに聞き流します。そして本人から本当の悩みが出てきたら、その悩みをしっかり聴いてあげましょう。そこで論破や説教はせず、しゃべりたいことをしゃべらせたほうがいいでしょう。

 

他人の悩みの聴き方については私が以前に書いた「他人に悩みを相談できない人たち」の記事で記しております。

(リンク)⇒https://zubahn.hatenablog.com/entry/2020/08/07/185459

 

そこからこうした方々の不安や孤独感を解消する現実的な策をとることが身近な陰謀論

への対策となるでしょう。

 

 

【おしまいに・陰謀論とずばあん】

 

 

ここで私ずばあんは陰謀論について偉そうに長々と語りましたが、私自身も迷信ともいえる説を間違って信じていることがたまにあります。

 

それを信じてしまった理由を考えると、その前に何か悩みや不安事があり、その解決策を探る上で信じてしまったということが多かったです。特に政治などの話は風説の流布が多く、どれが本当なのか疑わしいことばかりです。

 

それがどうでもいいレベルで収まっているならばまだいいですが、生活や生命に関わるレベルまで進めばそれは有害です。

少し前ですと健康情報投稿サイトでの信憑性の薄い情報による健康被害が問題になりました。そして今はコロナ禍ですので玉石混淆の大量の情報から正しい情報を拾うことが切実な課題となっております。

 

また、私の回りの近しい人間でネット上での陰謀論を信じかけている人がいましたので、その人の悩みを聴いたりしたこともありました。

陰謀論はどこか遠いところの笑い話ですめばいいですが、それが私たち自身の話となると冗談ではすませられませんね。陰謀論の問題との向き合い方も考えなくてはなりませんね。

 

それでは最後までありがとうございます。

 

2021年6月24日

 

私がひろゆきさんに対して思うこと


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こんにちは、ずばあんです。

 

今日は2ちゃんねる(現5ちゃんねる)創設者で、現在評論家をされているひろゆきさん(西村博之さん)に対する印象を述べていきます。

 

昔は私にとってひろゆきさんは名前は知っているけど、良く分からない遠い所にいる人でした。2ちゃんねるという今のネット文化に影響を与えた人物なのでスゴい人だけど癖のありそうな理解できない人という印象でした。

 

その私がひろゆきさんに関心を抱き出したのは、最近ひろゆきさんの発言がネット上でネタにされることが多くなったからです。ひろゆきさんの過去の発言では、「それはあなたの感想ですよね」「なんだろう、嘘つくのやめてもらっていいですか」「嘘を嘘と見抜ける人しかネットを使うのは難しい」などが、ネット上で広くネタにされます。

 

このようにネット上での面白いネタにされるひろゆきさんに興味を持ち、最近私はひろゆきさんの配信や出演番組を視聴するようになりました。

 

私が現在ひろゆきさんに抱く印象は、論理的で弁達で正直で、なおかつ軽めのテンションでズバッとものを言える飄々とした人物です。変わった人物という印象は未だありますが、奇をてらったというよりも自分の知性と信念を大切にされており、コミュニケーション能力を十分に兼ね備えている部分も同時にありました。

言い換えればひろゆきさんは、私の身の回りにもいるような頭がよくて明るくてウィットに富んだ、気軽に付き合える人という印象でした。

 

ただ、ひろゆきさんの発言などから見えるひろゆきさんの論理的思考法や信念と、現実の私達の人生や世界とは微妙な「ズレ」があると思いました。

その理由について、ひろゆきさんの優れた思考法がどこから芽生えてきたのか、そしてそうでない場所がどのようなものなのかを考察してみました。

その上で、ひろゆきさんを真似しようとする時に気を付けるべきことも見えてきました。

 

今日は以上のことを踏まえて、私がひろゆきさんに対して抱く正直な印象を語っていきます。

 

 

ひろゆきはどんな印象?】

 

 

ひろゆきさんは2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の創設者で、現在はテレビやネット配信などで評論家やコメンテーターとして活躍されております。YouTubeでも自身の配信を行いリスナーからのチャット上での質問や相談に気さくに答えております。最近では福岡市役所のデジタル化推進事業の民間専門人材に登用されました。

現在はフランス在住で、日本人女性と結婚され一緒に生活しております。

 

過去の経歴を見ると、ひろゆきさんは東京都北区出身で大学は中央大学に進学され心理学を専攻されました。ひろゆきさんは在学中に2ちゃんねるを作られ、そのあとも会社を起こしつつ、ニコニコ動画の開発にも関与するなどネットサービスの開拓に貢献されてきました。

 

そんなひろゆきさんの優れている点は、合理的で迷いのない点です。ひろゆきさんは人からの質問や反論に対して論理立った筋のもとに、ためらいなく返答しております。そこには言い淀みはなく、スラスラと自分の論理にのっとり発言しております。そして論戦を自分のペースに持っていくための話術も長けており、相手からの猛攻撃に白旗を上げず相手の発言の矛盾を突いた上で自分の勝利に論戦を運ぶ力があります。これにより公開討論では自分の考えを譲らず、自分の勝利に何度も導いてきました。このような戦績から「論破王」の二つ名をネット内外で得るに至りました。

 

なおこのひろゆきさんの強さは論戦のみならずビジネスにも遺憾なく発揮され、西村ひろゆきの名前を有名にした2ちゃんねるの創設を始め、これまで未開拓だったネットサービスに次々と進出していきました。前例のないサービスを次々と展開するなかで、ひろゆきさんは様々な防衛策も講じ自身のビジネスモデルをより完成したものにしました。

最近ではYouTubeの配信でも有名となり、スーパーチャット(ネットユーザーがメッセージを発信・共有するチャットで、寄付を贈ることにより、画面上でメッセージを強調させる機能)で多くの収入を得ております。

 

そんなひろゆきさんはプライベートでもコミュニケーション能力を発揮しており、少年時代から現在にかけて人脈は広く、色んな人との交遊に関するエピソードには尽きません。本人いわく、「無一文になったときに1ヶ月に1度寝泊まりをルーティンして食いつなぐだけの友人はいると思う」とのことです。先程のYouTubeの配信でも多くの視聴者を集め、中にはひろゆきさんのファンの方もおられます。そうしたことから、ひろゆきさんはただの変わり者というよりはクラスの面白いヤツのような、人を不思議と引き付ける引力を持つ方であると考えています。

 

このようにひろゆきさんはネットビジネスで才能を発揮し、論戦でも高度なテクニックを駆使し、そして各方面で人脈を広げているコミュニケーション力のある人物という印象です。

 

 

ひろゆきの言葉をどう受け止めればいいのか】

 

 

そんなひろゆきさんは各方面で自分の意見を述べられております。私はひろゆきさんの発言については一個人の意見として参考にしておりますが、あくまでそれは上のような功績を立てた人物の意見として受け取っているだけです。

 

そのひろゆきさんの発言は最近注目されるようになりました。特にひろゆきさんがYouTubeなどでの配信で話した内容が、YouTube上で「切り抜き動画」として配信の一部分を切り取り編集した短い動画にまとめられ沢山存在しています。ひろゆきさんの切り抜き動画およびそれを配信するYouTubeアカウントは沢山存在しています。

ひろゆきさん本人はこの切り抜き動画について、誰もが勝手に作って構わないとしており非公式の切り抜き動画を黙認しております。

 

このひろゆきさんの発言を切り抜き動画などで目にする人は多く、ネットではその発言が度々話題となります。最近になってひろゆきさんの存在感が強まったのは(そして私の目にも止まったのも)この切り抜き動画の増加が関係あるでしょう。 ひろゆきさんの発言に対して抱く感情は人それぞれだと思います。

 

私の感想を述べますと、ひろゆきさんは目の前の問題や質問に対して「その範囲内では」正しいことを仰っているという印象を受けました。その語り方はある意味カウンセラーのようで、一つ一つの問題にしっかり答えようとしている風に思えました。

 

ひろゆきさんは同じような事柄の別々の質問に対して全く別の回答をすることがあります。例えば全く別の2人の「一浪二留した学生」の就活の質問に対して、一方には「職を選べる立場ではない」と言いました。しかしもう一方には「一浪二留を気にせず、何か強みがあれば就活の心配はいらない」と答えました。

これは一見すると、ブレのある一貫しない回答のように思えますがこれはひろゆきさんが質問者の口振りや態度によって回答するスタンスを変えているに過ぎないと思います。ひろゆきさんは謙虚そうな方には丁寧なアドバイスをしますが、傲慢さや虚飾を入れている方には辛辣なコメントを言うことがあります。これはひろゆきさんがとても合理的で嘘をつかれることが嫌いという性格があると思います。

 

このようにひろゆきさんの回答スタイルというのは質問者の質問に一対一の回答をするものであり、いつでもどこでも不変の回答をするのとは異なるものです。その事が誤解されひろゆきさんは時によって回答が矛盾しているといわれることがありますが、ひろゆきさんの回答スタイルからいえばそれは当然です。むしろそれを普遍の法則として解釈するのがおかしいのです。

 

また、ひろゆきさんは人より知識量は多いもののそれが専門家と張り合うに足るとはいえません。

 

ひろゆきさんは知識の網の伸ばし方や張り方が尋常ではなく、その点においては卓越しているところはあります。一方で専門家と呼ばれる方はその分野においては知識や経験が抜かりないレベルで豊富で、日々その研鑽を行っている方々です。特定分野で深く知を探求し功績を立てようとする専門家と、知識の網の一端として浅くしか知らないひろゆきさんが戦えば、その軍配は専門家の方に上がるのが当たり前なのです。

 

今のようにインターネットが身近で使いやすく便利になるほどひろゆきさんと専門家の接点はますます多くなり濃密になります。そうなるとひろゆきさんの発言は誰もが見て、誰もが反論できるようになります。

 

最近まとめサイトなどで上がっている「ひろゆきを論破した人物」というのは、潤沢な知識や体系の上に立ち、口先の話術に揺らがない議論スタイルを貫いた人ばかりです。もしそういう方々と会えばひろゆきさんは相手を論破することは難しくなるでしょう。

 

したがって、ひろゆきさんの発言はネットビジネスで大きな功績を上げ、その中で起きた訴訟やトラブルを克服するだけの話術を持つ人物の発言です。その分野の話や、論戦の進め方においてはひろゆきさんの意見は説得力があると言えます。

一方で、特定の分野で専門家と論戦をするときにはひろゆきさんは「門外漢」として知識の穴を突かれることがあり、ひろゆきさんにも専門外な所はあるということがいえます。

 

 

ひろゆき信者とは?!】

 

 

ひろゆきさんを理解する上で気を付けなければいけないのは、ひろゆきさんの発言を真に受けたり、それを託宣しようとする「ひろゆき信者」と呼ばれる人々です。ひろゆきさんの切り抜き動画のコメント欄にはひろゆき信者が沢山出てきます。ひろゆき信者はひろゆきさんの意見に同調し、ひろゆきさんが批判したり賞賛したりする人や物を同じく批判したり賞賛したりします。また、ひろゆきさんの発言を用いて他人を「論破」しようとする信者もいます。

 

こうした信者はひろゆきさんのことを正しく評価しているわけではなく、ひろゆきさんを自分が依拠したり甘えたりするための存在として崇拝しているのです。そのため、信者にとってひろゆきさんの発言の正しさの理由はひろゆきさんの発言だからというほかに無いのです。

 

この信者の存在はひろゆきさんの評価に大きく影響を与えております。ひろゆきさんに関わらず、人物の評価はその回りに集まる人間にも影響されます。芸能人の評価をみても、そのファンや取り巻きにより左右されるところがあります。本人がどうであれその周囲が本人のイメージを作ってしまうことは避けられません。

 

特にひろゆきさんはネットで露出し発言しており同じく信者も公然と発言しているので、ひろゆき&ひろゆき信者のイメージは世の中に広まりやすくなっております。ひろゆきさんに無節操に同調しひろゆきさんの発言を曲解しその論理を濫用する信者はひろゆきさんのイメージを実態から解離させてしまっているのです。信者は特定の人物や属性を攻撃することもあり(それはネット上の集団は皆ある程度そうですが)、信者の発言にはある程度距離を取って接しなくてはなりません。

 

そして、ひろゆき信者にはひろゆきさんの発言を相談者やある特定人物に対してのみ言っているのに、さも一般論であるかのように真に受けたりする人もいます。そうした信者はひろゆきさんの発言を曲解し説教するような発言をコメント欄などですることがあります。匿名でかつ人の意見に同調しながらやる説教に説得力があるはずが無いので、そんなことをやる理由が奇特に思えます。そのような的はずれの説教は切り抜き動画の表題でもなされることがあります(これはあくまで再生数稼ぎのためでしょうが)。そのような信者の態度はひろゆきさんに同調しつつひろゆきさんの意見とは異なる主張をするという矛盾をはらむものであります。

 

したがって、ひろゆき信者はひろゆきさんの主張を曲げて広め、その上でひろゆきさんのイメージを作っている集団と言えるでしょう。ひろゆきさんがどんな人物かを考えるときには考えておきたいことです。

 

 

【おしまいに】

 

 

私がひろゆきさんに対して考えることは以上です。

 

ひろゆきさんはこれまでも若者を中心に有名でしたが、近年はまた違った形でひろゆきさんは有名になりつつあります。2ちゃんねるニコニコ動画からYouTubeの配信や番組出演へと露出する場所を移しております。今の学生の若者の間ではひろゆきさんの発言が有名になり、ひろゆきさんの影響はまた強まりつつあります。

 

私は正直ひろゆきさんの存在は忘れかけておりましたが、また名前をよく聞くようになったのでひろゆきさんについて思うところを語らせていただきました。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

最後に私が一番名言だと思ったひろゆきさんの発言を貼らせていただきます。

 


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2021年6月19日

 

 

 

 

 

旭川女子中学生凍死事件でいじめ加害者に思うこと


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こんにちは、ずばあんです。

 

今日は北海道の旭川で発生した女子中学生凍死事件について強く思うことを語らせていただきます。

 

この事件は2019年に北海道旭川市の市立中学校の女子中学生A(当時中学1年生)が同じ中学校や他の学校の生徒らから集団で性的暴行などのいじめを受けたことから始まりました。このいじめはAがいじめ集団から橋からの飛び降りを強要され、Aが飛び降りるのを通行人が目撃し警察に通報したことにより終わりました。

 

その後Aは不登校となりましたが、2021年2月に家出しその後1か月後の3月に雪解け後の残雪からAは凍死した状態で発見されました。この件が全国的に有名になってから、AやAの親から中学校教員・学校へのいじめの相談での学校側の消極的な態度や、表舞台に姿を現さない加害者に対する批難が強くなりました。

 

私はこの事件の加害者や加害者に利する行動を取った集団・組織には、怒りや悲しさを覚えております。その感情は3つの側面に対するものです。1つ目は加害者が被害者の女子中学生Aに対していじめ加害者/被害者という関係を築いたという下劣な社会性に対するものです。

2つ目はその加害者サイドの行動を黙認しつつ、被害者サイドに強権を誇示した学校などの組織の態度に対するものです。

そして3つ目は多種多様な人間のいる学校の「真面目な人間」を巻き込んで世間からの誹謗中傷に晒すという、加害者サイドの対内的な名誉毀損行為に対するものです。

 

それぞれについて私の経験も交えながら、語っていきたいと思います。

 

 

【加害者サイドの罪①・マイナスの関係性を築く乏しい社会性】

 

 

今回のいじめ加害者の落ち度が何かといいますと、有益な人間関係を築く能力が欠如していたり、有害な関係を解消せず被害者Aに損害を与えた点です。

 

まずいじめという現象についてですが、客観的には双方のコミュニケーションの不全による有害な関係性と捉えることが出来ます。双方にとって丁度良い関係性を探ることは「ハリネズミのジレンマ」と呼ばれる試行錯誤を繰り返す段階を経て行われます。それが上手く出来ることが社会性の高さとして評価され、コミュニケーション能力の1つでもあります。

しかしながらいじめはそのような関係性に至らずに、もしくはそのような努力をせずにいびつな関係に至り起こります。合意もなくどちらか片方が不快な思いを沢山する関係は、いじめっ子いじめられっ子の関係です。そして、そのような関係を正当化し固執することは社会性の欠如の現れです。

そして、それを修正したり改編したりせず今日もなお加害者は表舞台に出てきておりません。これは反省の意を表さず自身の守るべき何かで被害者を汚そうとする行為です。

 

ここで、いじめがコミュニケーションの問題ならばいじめられた方も原因があったから悪い点もあるのではという意見もございます。確かに因果関係に関して言えば原因は双方にあるでしょう。ただ、それを元にいじめを実行した責任はすべて加害者にあります。いじめをする理由をいじめという形で具現化したのは加害者の意思、価値観なのです。その証拠として、いじめをしない人は、いじめをする理由によっていじめをしません。いじめをする理由を他人に見出だす精神がいじめを引き起こすのです。もし、被害者側にも何かするべき余地があったとしても、加害者の罪科は変わらないのです。被害者に加害者の至らない所を尻拭いさせてそれを公にアピールする情けないシーンであるのです。

 

旭川の事件では被害者に性的暴行をする加害者集団がおりました。被害者は当時中学校に進学したばかりでありそこから数ヶ月の内にいじめの被害に遭いました。そして最終的には加害者は被害者に橋からの飛び降りを強要する自殺教唆といえることをしました。

このような関係性が正常で健康的な関係性とは言えません。集団で1人に一方的に性的暴行や自殺教唆をして対等であるという発想は異常です。彼らには社会性の欠片は見られず、反社会的な危険な思考に染められているのです。

 

そして、その状況を学校は放置する動きを見せます。被害者Aやその母親からのいじめの相談に学校は取り合わず、それどころか加害者を擁護する発言をしました。これは学校が加害者の反社会的な社会性を正当化した発言であると言えます。学校の生徒が反社会的勢力に襲われたり、搾取されたり毒される関係になることを認めるという宣言です。この中学校が反社会的宣言をした瞬間でした。

 

現在、加害者の消息や情報は明らかになっておらず、何かこの事件に関して彼らが動いた話は聞いておりません。

 

このように加害者や学校などは、被害者Aに対して一方的に搾取しそれに答えることを強いるという敵対関係を求めたのです。それを改められないことは、加害者の罪科であり信頼の欠けている部分でございます。被害者を死に至らしめている分、加害者の被害者への意思は殺意として考えていいでしょう。加害者が本当に反省するまでそれは揺るがないのです。

 

 

【加害者サイドの罪②・鉄槌を振り落とす所を間違えた白痴な組織】

 

 

この一連の事態が発生したときに対応を間違えたのは、校内自治に責任を持つ中学校です。中学校は被害者AやAの母親からのいじめの直接の相談に対して、はぐらかす態度や虚偽の説明をするなどしました。

 

いじめ発覚後には加害者側と被害者側の間で「謝罪の会」が行われましたが、被害者母親は弁護士の同席を求めましたが学校側は当初それを断りました。そして被害者の死亡後、被害者在籍時の中学校校長は、被害者にはパニック障害がありそれが元でいじめ時にもトラブルが起きたと、いじめにおいて被害者の非を問う発言をしております。

 

私はこの学校側の態度を、神様のようなフリをする悪魔だと思いました。学校は校内や生徒間の自治において責任や権利を有しております。その上で学校は被害者に断り無く被害者を生贄としたのです。これは悪魔の業といえますし、そうしてもなおこれからも立派な「先生がた」として扱われようとする学校側の魂胆が見えます。

 

いじめ当時の被害者は担任教員にいじめの相談をしましたが、デートを理由に断わられたと言われています。その事に対して凍死事件発覚後の中学校の保護者説明会でも非難が上がりました。

また被害者の母親がいじめの件について相談したところ、当時の学校長は「加害者生徒側にも未来があるから」と述べていじめの始末について消極的で曖昧な態度を示したとのことです。

 

そして先程述べたように、学校長はいじめの被害者について被害者の性格などを理由にいじめの理由を被害者にあるという旨の発言をしました。これは学校という権威や公権力が、いじめ被害者にはいじめを受けるだけの正当な理由があり、その理由としての被害者の不安定な精神状態があったことを認め、その状態をいじめの理由とする、ということを発表したのです。

これはただの校長本人の言い訳に止まらず公権力による公式な見解と捉えられ、言わば公権力による被害者への暴力と捉えられます。いじめは一般的にも個人の利害においてもその解消が長年唱えられてきましたし、学校現場でもその方向で動いてきたはずです。そのため公権力たる学校がそれを容認する発言をすることは被害者はおろか社会そして各個人

に対する不当な暴力といえます。もしかしたら暴力を越えて殺意と捉えてもいいかもしれません。

 

学校は公権力として力のある組織です。対していじめというのは被害者に勝手に因縁をつける正当な理由なき無節操な暴力です。学校がその力を市民への無差別な殺意として発揮することを認めるならば、学校は悪魔というほかありません。学校は教育機関ですので特に子供にとっては神様に近い存在だと思います。その神様が悪魔に鞍替えして、相変わらず神様の地位につくことは市民と学校の間の戦争といえるでしょう。口先だけの神様は神ではないからです。

 

悪魔に堕ちた学校は、堕ちたことを認めてその事を反省して更正しなければなりません。それが出来る日までは学校と市民との戦争は続くものと思われます。

 

 

【加害者サイドの罪③・人の顔に泥を塗る迷惑千万な名誉毀損行為】

 

 

そして、この加害者が償うべきなのは被害者へはもちろんのことですが、それとは別に自分と同じ学校に通っている人に対しても同じことだと思います。

 

なぜならこの事件で著しく傷つき、その上で事件の後始末をするのは同じ学校の生徒だからです。

現在被害者や加害者の通っていた学校に対するバッシングは強く、それに耐えている生徒は多くいらっしゃいます。もちろんいじめを起こした集団の病理に対する批判は当然です。しかし、それはその学校に通う生徒に謂われなき負担を課すことになるのです。

加害者の起こした事件によるバッシングで、同じ学校に通う人は事件への関与に関係なく消耗します。そこから学校の治安は崩壊し荒れていき、教育の場は乱れていくのです。そしてそこから学校が更正するためにも全校生徒や教員、保護者らは多大なる労力を割くことになるのです。

 

この事は事件と直接関係のない生徒やその保護者、教員に損害を与える行為です。世間からのバッシング、治安の悪化による身の危険、そして治安回復のための生贄・・・。今回の旭川の事件の加害者は被害者のみならず、同じ学校にいた人の名誉を毀損し、ゆくゆくは心身を危険にさらし、自尊心を傷つけるという、同胞にとっての悪魔のような存在です。

 

私がこのように思うのは私の中学校時代の経験からです。私の通っていた中学校では、20年ほど前に通っていた生徒が殺人事件を起こしました。その時に犯人生徒の個人情報がネット上に流出し、同じ中学校の生徒は事件を理由にバッシングを受けました。そこから中学校の治安は荒れました。授業は成立せず、奇声が外まで聞こえ、運動場も使用不可能になりました。

私が中学校に入学したのは事件から5年程後でしたが、その時も学校はいまだ荒れており器物破損や授業妨害も珍しくありませんでした。不登校者や逮捕者も頻出しておりました。全校集会も何度も開かれました。

私はそんな学校が居心地が悪かったのです。真面目に過ごそうとすれば馬鹿にされ肩身の狭い思いをし、その上治安が悪いことの責任を今の自分達の責任として教員から責められるのですから。私は学校を恨みましたが、結局それは仕方のないことであるとどこにも感情の吐きどころがなかったのです。こちらが助けてほしかったのに、その資格は与えられなかったのです。

今はその学校を卒業して十年以上経ちましたが、それまでは中学校でのトラウマから人を信用せず過度に試したりするなど人との関わり方に支障を来したりしました。今でも自尊心が回復できていない部分があります。

 

そうした経験から私はいじめ加害者が同じ中学校の生徒の顔に泥を塗り、疲弊に疲弊を重ねるような真似が許せないのです。勝手に借金の保証人にさせられているようなものです。

この点に関しては反省して償ってほしいし、それが出来ないのならば同じ学校の生徒や保護者らとの間で半永久的に恨みの対象として敵意を向けられなければならないと思っております。

 

この事件の後には加害者の通う学校で保護者説明会が行われましたが、そこでは保護者は「(学校に通う)自分の子供にどう説明すればいいか分からない」と言いました。私は生徒の保護者のこの苦悩は当然だと思います。彼らの人生で今後のまともな人生とどう折り合いをつければいいのか分からなくなるのは当然です。加害者の負債をこの方々が払っているのです。

だから、加害者は自分達が引っ掻き回した同じ中学校の生徒の人生の回復のために内心の上で「生贄」として恨まれることを甘受しなくてはならないと私は思います。

 

 

【おしまいに】

 

私がここまで書いたことは、私が過去に経験したことを私の立場に基づき、この事件で加害者から傷つけられる人の利益を考えて述べたものです。特に3番目は強調しなくてはならないと思いました。自分も同じ立場で苦しんだ以上この部分について述べることは、当のその立場にいる人や私自身のために欠かせないと思ったからです。

 

今回の事件に対しては多数の方々が様々な感情をお持ちであると思いますが、私は直接にそれらを非難する気はありません。ただ、その中に私の感想も同様に並立していただきたいのです。そして私と同じ苦しみを抱く方に冷たい沈黙を与えないようにしたいと思うのです。

 

今回の記事は以上でございます。今回も最後までありがとうございました。

 

 

 

2021年5月15日