ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

福岡市周辺の鉄道の歴史

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こんにちはずばあんです。

 

本日は福岡の街を走る鉄道の話をしたいと思います。

 

私は学生時代は福岡市で生活しており、鉄道もよく利用しておりました。元より鉄道が好きであった私はその時分に福岡の街を走る鉄道の歴史を調べてみました。

 

そこで発見したことを今回まとめてみました。

 

【今の福岡市内の鉄道】

 

 

現在福岡市を走る鉄道は次のものがあります。

 

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旅行info「福岡県鉄道路線図」より

まず、福岡市内一の規模を誇るJR博多駅からはJR鹿児島本線が小倉・門司港方面と久留米・熊本方面に延びます。また、JR篠栗線鹿児島本線吉塚駅を経由し篠栗・飯塚に延びております。新幹線も山陽新幹線が小倉・大阪・東京方面に、九州新幹線が熊本・鹿児島方面に延びます。

 

福岡市中心部には福岡市営地下鉄の路線が3路線走っております。まず空港線は市西部の姪浜から中心部の天神・博多駅を経由し福岡空港へ通じております。箱崎線は市中心部の空港線中洲川端駅から市東部の貝塚に通じております。そして七隈線は中心部の天神南から南下し七隈を経由し市南西部の橋本に至ります。

 

中心部の天神の西鉄福岡(天神)からは南へ向け西日本鉄道天神大牟田線が久留米・大牟田に延びております。

 

市郊外の駅からの路線ですが、市西部の姪浜駅よりJR筑肥線筑前前原・唐津方面に延びており、筑肥線と市営地下鉄空港線はお互いに乗り入れ運転をし一つの路線のように運行されております。JR鹿児島本線香椎駅からはJR香椎線西戸崎方面と宇美方面に延びております。 市営地下鉄貝塚駅からは西鉄貝塚線西鉄新宮駅まで延びております。

 

このように多彩な福岡市内の鉄道網ですが、ここまで立派な路線はどの様にして作られたのでしょうか。

 

 

【福岡の鉄道の始まりから】

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今ある福岡の鉄道で、また九州で最初に作られた鉄道はいまのJR鹿児島本線でした。

 

この路線は、初めは1889年(明治22年)に当時の九州鉄道が博多と千歳川筑後川の北側、久留米駅の手前)の間で開業した路線でした。翌年には博多駅の北側へも赤間まで鉄路が伸ばされました。以後順次延伸や路線指定変更を経て1927年には門司港=博多=鹿児島間の国鉄鹿児島本線(当時)が全線開通しました。

ちなみに博多駅は当初は今の地下鉄祇園駅の位置にあり、今よりも博多の古くからの街に近い位置にありました。それが今の位置に移転したのは1963年のことでした。移転当時は博多の街の郊外であり駅以外に何もない場所でしたが、次第に近代的なビルが立ち並ぶ大都会の風景に一転しました。

その後山陽新幹線が1975年に博多駅まで達し、博多=東京間が新幹線で通じ福岡から東京へ鉄道でその日の内に行けるようになりました。2011年には鹿児島からの九州新幹線が博多まで達し、東京=博多=鹿児島間が新幹線で結ばれることになりました。

 

博多駅から出るその他の路線は篠栗線と市営地下鉄空港線です。

 

篠栗線はかつてはその名の通り篠栗駅が終点でした。明治時代に当時炭鉱があった篠栗周辺から石炭を運搬するための路線でした。その後篠栗線篠栗と飯塚の間の八木山の峠を長いトンネルで繋ぎ、1968年に筑豊本線桂川駅まで延伸開業しました。これにより篠栗線は福岡と飯塚を結ぶ路線となったのです。

 

市営地下鉄空港線は1983年に姪浜から博多まで開業し、1985年には今の地下鉄博多駅まで延びました。

この書き方に疑問を抱かれた方は多いと思われます。実は地下鉄博多駅は始めの2年は今の場所ではなく、今の博多駅と地下鉄祇園駅の間の地下通路の位置に臨時の駅が置かれておりました。その後工事が進み1985年に博多駅舎の直下に今の博多駅が作られたのです。

地下鉄で博多と姪浜、その先の筑肥線と繋がったことから1983年から筑肥線(当時は国鉄)が地下鉄を介して博多駅まで到達するようになりました。

更に1993年には福岡空港まで地下鉄が延ばされ、これまで博多駅からバスで一時間近くかかっていた福岡空港にわずか5分で行けるようになったのです。

 

 

【福岡の地下鉄】

 

 

先程も一部紹介しましたが、福岡市内には福岡市営地下鉄が走っております。路線は3本あり空港線箱崎線、そして七隈線が走ります。

 

この中で一番歴史があるのは空港線で、1981年に天神から室見まで開業したのが始まりでした。1982年には天神から中洲川端まで延び、中洲川端から呉服町まで箱崎線が開業しました。1983年には空港線姪浜駅博多駅まで繋がり唐津方面のJR筑肥線(当時は国鉄)と接続しました。箱崎線も建設が進み、1986年には西鉄貝塚線(当時は西鉄津屋崎線)の貝塚駅と接続し全通しました。

七隈線福岡市営地下鉄で最も新しい路線で、2005年に天神南から市南西部の橋本まで全通しました。この路線は先の2路線とは異なる点が多く、線路幅やトンネルの大きさ、集電方式などの点で異なります。そのため先の2路線とは独立した路線となっております。そして現在七隈線は天神から更に博多駅に向かって延伸工事を行っております。

 

さて福岡市営地下鉄は二つの「先代」の役目を担っております。1つは路面電車であり、もう1つは何故か筑肥線です。

一つ目の路面電車は昔西鉄が福岡市内で運行していた「西鉄福岡市内線」で西は姪浜、東は貝塚まで運行しておりました。

路線は、姪浜電停から天神を経由して東区箱崎の九大前電停に至る「幹線」や、幹線の西新電停から六本松や薬院を経由して天神に至る「城南線」、天神から時計回りに千鳥橋福岡高校前・博多駅渡辺通を経由して天神に帰る循環線、そして循環線千鳥橋から貝塚に至る「貝塚線」がありました。

はじめは福博電気軌道という会社の路線でしたが、九州電灯鉄道、東邦電力、福博鉄道を経て1942年に福岡県内私鉄を全て合併した西日本鉄道の1路線となりました。この路面電車は自動車の普及により1979年に全廃されました。これは今の市営地下鉄空港線箱崎線のルートと重なっております。

 

かつての路面電車のルートを市営地下鉄がたどっているのは地下鉄が路面電車の代わりを担っている点もあります。ただそれだけが理由なのではなく、地下鉄工事をする上であらかじめ幅広の道路やスペースがあることが好都合だったという点もあります。地下鉄は「軌道法」という法律で道路と重なるように路線を設けることが定められております。電車通りのような最初から幅広の通りは好条件でした。

逆に言えば七隈線の整備が遅れたのはそれが理由でした。七隈線沿線の多くはもとより路面電車のルートではなく幅の広い道も無い地域でした。そのため七隈線は地下鉄建設より前に道路の拡張を待つ必要がありました。

 

もう1つの先代の筑肥線は今もある路線ですが、かつては姪浜駅が終点ではなく博多駅が終点でした。

 

筑肥線は元は北九州鉄道という福岡市と唐津を結ぶ私鉄でしたが、後に国鉄(後のJR)の路線に組み込まれました。この当時の路線は姪浜より西は今とほとんど変わりませんが、姪浜と博多の間はルートは大きく違っておりました。姪浜からは城南区別府(べふ)までの二車線道路のルートをたどります。六本松では散歩道のルートとなり、更に先からは「筑肥新道」のルートを平尾までたどります。平尾から先は細い生活道路を大きなカーブを描き美野島方面に向かいながらたどり、そして博多駅に入線するのです。

 

これがかつての筑肥線でありこのルートは1983年まで使用されました。1983年からは姪浜から今のように市営地下鉄空港線経由で博多駅に向かうことになりました。このときに筑肥線姪浜と博多の間は廃線となり今に至っております。

 

このように市営地下鉄は福岡市内の輸送とともに、路面電車の代替および唐津方面への筑肥線の代替という役目も背負っているのです。

 

 

西鉄各線&JR香椎線

 

 

先程の話でも出てきた西日本鉄道ですが、西日本鉄道は1942年に福岡県内私鉄そしてバス事業者のほとんどを合併して出来た一大企業です。福岡市内では西鉄天神大牟田線西鉄貝塚線が走っております。

 

西鉄天神大牟田線は元は大正時代に設立された九州鉄道(明治時代の同名の会社とは別)が1924年から1939年にかけて建設、整備した路線でした。九州鉄道は1942年に他社と合併して西日本鉄道となりました。

 

西鉄貝塚線は元は博多湾鉄道汽船という私鉄が1924年に開業した貝塚線という路線でした。当初は今の千鳥橋から津屋崎に向かう路線でした。この路線も博多湾鉄道汽船が西鉄に組み込まれ「西鉄宮地岳線」となりました。

その後1954年に千鳥橋西鉄博多駅)から貝塚までが路面電車化された上で、宮地岳線貝塚=津屋崎間になりました。

その後1986年に貝塚で市営地下鉄箱崎線と接続しました。その後2007年には西鉄新宮から先が廃止され、線名は「西鉄貝塚線」に、区間貝塚西鉄新宮に短縮されました。

 

この貝塚線を作った博多湾鉄道汽船はもう一つ今のJR香椎線も開業しております。

香椎線は当初は1904年から1905年にかけて西戸崎=宇美間で当社の粕屋線として開業した路線でした。これは宇美駅などの周辺の炭鉱から掘り出した石炭を西戸崎の港に運ぶための鉄道路線でした。その後1942年に西鉄粕屋線となった後に戦時中の1944年に国鉄に買収され国鉄香椎線になり今のJR香椎線に至っております。

 

 

【今は無き福岡の鉄道】

 

 

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ここまでは今ある鉄道路線について語ってきましたが、ここからは今はもう見ることのできない廃線になった鉄道の話です。

 

先程出てきた路面電車やJR筑肥線の一部区間廃線に含まれます。路面電車は高度経済成長期の自動車やバスの普及で利用客の減少や交通の障害といった理由から廃線になりました。筑肥線は地下鉄への乗り入れでより便利で効率的な運行が可能になることから、地下鉄と重複する区間は廃止となりました。

 

それらの路線以外にも廃止された鉄道があります。それは1985年に廃線となった国鉄勝田線でした。

勝田線は鹿児島線吉塚駅から糟屋郡宇美町国鉄筑前勝田駅を結ぶ路線でした。勝田線は1919年に私鉄の筑前参宮鉄道の路線として開業しました。これは香椎線篠栗線と同じく石炭輸送と宇美町宇美八幡宮への参拝客の需要を見込んで作られました。

その後1942年に西鉄勝田線になった後に香椎線同様1944年に国有化され国鉄勝田線となりました。

 

その後1960年代に炭鉱の大量閉山により石炭輸送の需要が無くなり貨物需要は激減しました。そして平行する西鉄バスの路線との旅客輸送競争でも負け、1985年に国鉄は勝田線を廃線にしました。

 

なおこの廃線には今でも批判があります。勝田線沿線は大都市福岡市の郊外としてベッドタウンが沢山あります。これは旅客輸送において理想的な環境でした。しかし国鉄は石炭輸送のあったときからダイヤや設備にほとんど手を加えませんでした。そしてそのまま赤字路線として勝田線は廃止となりました。

 

これは国鉄という中央から地方路線の実態が見えず地方鉄道の改善への力学が働かないという国鉄批判を巻き起こしました。しかし一方で地元住民も勝田線の存続に無関心で存続運動は起こりませんでした。これは便数が沢山ある西鉄バスの路線に住民が満足していたという点もあります。

 

歴史にifはありませんがこの勝田線の廃線は、鉄道路線に輝かしいポテンシャルがあってもそれがことごとく無視される可能性を顕にしたと思います。一方で廃線にすべき、存続すべきという尺度もあくまで目安であることも考え、廃線にした方を一方的に責め立てることも違うと考えました。

 

 

【ここからは+α】

 

 

福岡市内を走る鉄道、かつて走っていた鉄道の歴史は以上でございます。

 

さてここからは今までの話でやや主題から外れた話をします。

 

 

〈「福博」とは?〉

福岡市内にかつて走っていた路面電車を当初運行していた「福博電気軌道」ですが、この「福博」という言葉に違和感を覚える人は少なくないと思われます。

 

福岡市にお住まいの方はご存じでしょうが、「福博」とは今の福岡市の元となった「福岡」と「博多」の2つの街を合わせた概念でございます。明治時代まではあの中洲もある那珂川より東側は商人の街博多で、那珂川より西側は天神も含めて福岡城の城下町福岡でした。

 

この2つの町は明治時代に近代的な街になる上で1つの都市として発展する方向性を選びました。その上で新しい1つの街の名前は当初は「福博」と呼ばれたのでした。

しかし後に福博という言葉はだんだん廃れ「福岡」と「博多」を同じ街の名前として使うようになりました。地方公共団体の名前はもと博多でも「福岡市」ですし、百貨店の名前はもと福岡でも「博多大丸」です。

 

 

〈福岡市はかつては海の底?〉

 

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福岡市は今でこそ百道浜那の津箱崎まで陸地となっておりますが、かつてはかなり内陸まで入り江が入り込んでいた地形でした。

 

今の大濠公園の辺りは江戸時代に福岡城ができるまでは「草香江」という大きな入り江がありました。湾口は今の中央区港町辺りで、そこから六本松方面まで大きな入り江があったのでした。今でも「草香江」「荒江」「片江」という地名がありますがそこまではかつては海だった場所なのです。

 

今の平尾から警固までの大正通り沿いはかつては博多湾に飛び出している長い半島でした。その先端の岬が「州崎(須崎)」でした。国体道路を天神から福岡県護国神社辺りまで走ると丘になっていますがそこがかつての半島の名残です。

 

今の天神や渡辺通辺りもかつては「冷泉津」という入り江でした。入り江の中にあった島が「蓑島(美野島)」でした。川端商店街の近くにある櫛田神社はかつては海辺の神社で、船で参拝に来る人もいたそうです。

住吉神社もかつて入り江の中の半島にあり、博多駅もその入り江の奥に当たる場所に立地しています。

 

さてここでなぜその話をしたかと言いますと、市営地下鉄空港線はまさしく元入り江の部分を思いっきり通過しているからです。

 

2016年秋に博多駅前の市営地下鉄七隈線の工事現場で陥没事故が起きました。幸い死傷者はおりませんでしたがこれにより道路は全て穴の中に飲み込まれました。

この事故が起きた原因は地下鉄工事により地下水の水位が下がったところに、その上の軟弱な地盤が沈み込み崩れたからです。もともと海だったこの場所の地質は海岸の砂のようになっており、少しの変化で崩れやすくなっておりました。

 

福岡市交通局の記録フィルムによると、市街地での地下鉄空港線工事は上のような事情から出水との戦いだったことが窺えます。地上の道路を開削しつつ、膨大な道路交通を確保しながらの工事ですので余談を許さない雰囲気がありありと伝わってきます。

このように市営地下鉄を通した元海の底だった場所は地下鉄を作る上で困難が多い場所だったのです。その上で地下鉄を無事貫通させた人々には改めて感服させられます。

 

 

箱崎のバス専用道路〉

 

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福岡市東区、この地の箱崎宮の参道近くの西鉄バス箱崎バス停からはバス専用道路が馬出方面に延びております。この道路はバス車両以外の車は通行禁止です。片側一車線の二車線道路で、どう見ても快走路です。

 

このバス専用道路は元は路面電車西鉄福岡市内線」の跡地で、今はその代替バス路線が走るための道路に作り替えられております。路面電車時代の名残は途中の馬出通りバス停付近の電停のホームや電線の支柱の跡に残されております。

 

今はバス専用道路は箱崎から馬出までの区間に限られておりますが、かつてはそれが東公園入口の方までも続いていたとのことです。

 

さてこのバス専用道路ですが昔初めて当地に訪れたずばあんはこのことを知らずにこの専用道路を自転車で通過したことがあります。普通の道路と異なる点が多く違和感を感じていましたが後からこの事を知り、バスが来てなくてよかったとほっとした思い出があります。

 

 

 

【ずばあんと福岡の鉄道】

 

 

私は大学時代に福岡に住む前から鉄道は好きで、鉄道関連の本など昔からよく読んでました。そのため大学に通うのに電車に日常的に乗るようになったのは私にとっては楽しい経験でした。

 

私が使用していた福岡市営地下鉄は全線定期を出していたので西は姪浜、東は福岡空港、北は貝塚、南は七隈方面といつでもどこでも市内を移動するのに便利でした。それに地下鉄の駅の構内放送の選曲センスはとても好きでした。

筑肥線唐津に行くときに乗りましたが田園風景や海沿いを走るあの路線はものすごく雰囲気がありました。姪浜の高い高架線を駆け上がるところは面白かったです。

 

博多駅は周辺のビルや地下街も含めて大きなアスレチック遊戯のようで本当に歩いているだけで面白い空間でした。福岡から遠い街に出かける時には必ず通る所でしたので思い出深い場所です。駅ビル屋上には展望台がありそこからの展望は素晴らしいものでした。

 

西鉄貝塚線はJR鹿児島本線に沿いながらウネウネと動き回りながら走っていたのがトリッキーで面白かったです。

JR香椎線海ノ中道に行くのに一度だけ利用したことがあります。沢山の乗客が乗っていた覚えがあります。そして、車内の扇風機に国鉄マークがあったのに驚きでした。

 

西鉄天神大牟田線大宰府線は大宰府や久留米、熊本に行くのに利用した覚えがあります。特に大牟田に行く時のノンストップ特急はみちゆき1時間本当に最後まで停車せずに行くため驚きました。しかも特急券は必要ないのも驚きでした。

 

福岡の鉄道はこのように面白いものが沢山ありますが、今後とも福岡の鉄道が面白いものになることを願います。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

2021年8月10日

 

【写真】大草長崎線・道路開通碑

こんにちは、ずばあんです。

 

最近某所で面白いものを見掛けたのでそれを紹介いたします。

 

長崎県大村湾の南岸を走る国道207号線。道路は西彼杵郡長与町の市街地までは片側一車線の道路でしたが、農村部に入ると次第に道幅が狭くなり大型車が一台通ると塞がるほどの幅になりました。カーブも多く道路は海岸の岬や入江に沿って走ります。ミカンなどの畑が広がる農村情緒の漂うこの場所であるものを発見しました。

 


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それは「大草長崎線 道路完通記念碑 」というものでした。碑文を書いた人物として「長崎県議会議長 中村禎二 書」とあります。道路脇にある高さ4、5メートルの石碑でした。下の台座には何か小さな文字が沢山彫ってあります。


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道路から見て正面に彫ってあるものです。これは道路が完成したとき及び計画・建設途中のときの長崎県や通過町村の首長と議長などの行政関係者の名前でした。

ここに書いてある西彼杵郡多良見町は2005年に東隣の諫早市に合併されました。長与村は1969年に町に変更され現在は西彼杵郡長与町となっています。

 


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左側に回りますと先程の続きと歴代の現場監督の氏名が並び、最後には「昭和四十三年七月吉日 岡郷建立」と彫られておりました。

 

昭和43年は西暦1968年で、今年2021年から数えて53年前になります。この石碑は建てられてから53年経っていることになります。岡郷(おかごう)とはこの石碑の建つ地域の地区名であり西彼杵郡長与町岡郷のことです。

 


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さらに背面へと回りますと、赤文字で目の前の道路の「大草長崎線」(1968年当時)が建設された経緯やこの碑を建てた理由が説明されております。

 

大村湾の青波に映えて岬をめぐり入江に迫って走るこの一条の道  その土にその石にその草に 人の智恵と力と汗がしみこんだこの道 その完通こそ蜜柑産業発展のため地域住民が祖父から子、子から孫へ語り継ぎ続いてきた長年の念願であったこの道一般地方道大草長崎線は昭和十三年から延々二十五年の歳月を費やしたが一向にはかどらず 時の県議中村禎二氏の日夜不断の活動と発案によって、自衛隊委託工事により、同三十八年一気呵成に完通した。

ここにその喜びを後世に伝える共に道路開通に多大の貢献を致された方々の功績を記念するため有志発起したこの碑を建立する。

 

この説明によればこの道は昭和13年(1938)から地域住民が建設を要望していたとのことです。そして時の長崎県議会議員・中村禎二氏(1903-1991)によって建設が決定し、道路建設自衛隊に委託されました。そして昭和38年(1963)にこの道路が開通したとのことです。

この碑も県議(1968年当時は議長)の中村氏のほか関係者を讃えるために有志の地域住民により建てられたということでした。


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石碑の右側には、碑の建立に携わった者の名前が彫られておりました。

 

この一般地方道大草長崎線はその後県道諫早時津線の一部となった後に1982年に国道207号線佐賀県佐賀市長崎県時津町)の一部に指定されました。

 

というわけで、今日は開通記念碑の記事でした。普段ネットでブロガーのヨッキれんさん(平沼義之さん)の廃道探険サイト「山さ行がねが」の記事で楽しませていただいているので、今回の記事は書いてて胸が踊っておりました。

「山さ行がねが」程のボリュームはありませんが、この石碑を取り上げている方がネット上に見当たらず僭越ながら私が記事を勝手に書かせていただきました。

 

今回の記事はこれで終わりですが、今後も似たような記事をたまに配信したいと思います。

 

今回も最後までありがとうございます。

 

2021年8月2日

 

【読書感想】「歎異抄」(親鸞・唯円)

 

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こんにちはずばあんです。

 

本日は読書感想として、親鸞唯円の「歎異抄(たんにしょう)」の紹介をいたします。

 

歎異抄の説明をする前に作者の親鸞(しんらん)について説明します。親鸞は日本の仏教の一宗派である浄土真宗の開祖です。親鸞鎌倉時代に、人々が死後に極楽浄土に救われるための方法として念仏を唱えることを説き、それが浄土真宗として伝わることになりました。

 

浄土真宗は自力で修行をして悟りを開くことが出来ない大衆が極楽浄土に行くための方法として念仏を唱えることを示しました(悪人正機)。念仏を唱えることで慈悲深い阿弥陀仏から救われることを目指し、その事を疑わず信じて念仏を唱えることを大衆に促しました(専修念仏)。

 

そしてこの歎異抄が出されたのは親鸞の没後でした。

親鸞が布教活動を行っていたときから善鸞などの弟子が親鸞の教えを歪曲して伝え、それが世の中に蔓延る事態が発生しておりました。親鸞の没後はそれがますますひどくなりました。これは人々に専修念仏・悪人正機を説く浄土真宗の信用が揺らぐ事態でした。

歎異抄が出されたのはその時のことであり、上の事態を危惧した親鸞の弟子の唯円がそれを正すためにこの歎異抄を記したとされます(なお唯円以外の著者の説も一部で論じられておりますが、現時点では唯円が著した説が最有力とされております。私もこの唯円説に則り語らせていただきます)。

歎異抄親鸞の唱えた浄土真宗の教えを正確に誤解なく説明し、その上で世の中に蔓延る間違った教えを訂正していきます。文庫本にして本編60ページ足らずという短い内容ですが、浄土真宗においては重要な書物のひとつとされます。

 

今回私はこの歎異抄を読ませていただきましたが、それは私が浄土真宗門徒に入ったり逆に浄土真宗を批判するためではなく、あくまで著書のひとつとして読書を楽しむために読ませていただきました。

 

私自身は浄土真宗に詳しい人間ではないので教義について評論する発言は、一般常識の範囲で控えていきます。あくまで歎異抄を初めて読んだ人間の所感として本の感想を語らせていただきます。

 

 

【内容】

 

 

歎異抄の構成は前篇と後篇に別れます。

 

前篇では序文と第一条から第十条までで親鸞の教えを正確に分かりやすく述べております。後篇では序文と第十一条から第十八条までと後記が記され、親鸞の教えに対する曲解や誤解について正していきます。

 

 

〈前篇〉

まず親鸞の教えを説く前篇では、序文で親鸞の教えが世の中で曲解や誤解をされ、唯円がそれを嘆き世の中を正すために歎異抄を記した旨が説明されます。

第一条では阿弥陀仏が万人を救おうとしていることを、第二条では親鸞も念仏にすがるしかない身でありその上で念仏をひたすら信じる他ないことを説いております。

第三条では修行をして悟りを開けない人々が阿弥陀仏に帰依し極楽浄土に行くという悪人正機説を説いております。

第四条では聖人の道により仏門に入ることの困難と比べ、阿弥陀仏を信じ頼ることによるより簡単で確実な道を示しております。

第五条では自分の力ではない阿弥陀仏から授かった力で全ての命を救うことを、第六条ではそれに師匠・弟子の区別に関係ないことを説いております。

第七条では浄土真宗の信者は他の教えや宗教によって裁かれないことを、第八条では念仏による恩恵は全て阿弥陀仏のおかげであり本人のお陰ではないことを説きます。

第九条では人々が極楽浄土に行く道を素直に喜べない心情を煩悩の仕業とし、阿弥陀仏はそれも憐れみ救おうとすることを説きます。第十条では念仏は人智を越えており自己解釈してはならない旨を唱えております。

 

〈後篇〉

続いて後篇では前篇で述べた親鸞の本当の教えと異なる風説を正す内容となっております。

序文では浄土真宗が世の中で広まったなか、親鸞の教えと異なる内容も広まっている現状を述べます。

第十一条では阿弥陀仏の力としての念仏と言葉としての念仏の違いについて、どちらも信じる上では同じものであると正します。

第十二条では、念仏の教義研究でもって信心の優劣を語ったり念仏に対する不信を論破することを批判し、それらがなくとも念仏を信じれば極楽浄土に行けると正しました。

十三条では阿弥陀仏の力を傘に着て悪いことをすること(本願ぼこり)を批判し、善行や悪行は過去の行いの結果であり阿弥陀仏による救いとは関係ないと正しました。その上で自分の善に疑問がある人でも阿弥陀仏に帰依すれば阿弥陀仏に救われることを説きました。

第十四条では念仏の力を自分の罪を消す方法として濫用することを批判し、それは自分の力ではなく阿弥陀仏の力であると正しました。その上で、もし病などの不測の事態で念仏を唱えられなくなっても阿弥陀仏を頼りにする心があれば救われるとも説きました。

第十五条ではこの世で悟りを開くことの厳しさや難しさを語り、阿弥陀仏に帰依すれば誰もがあの世では悟りを開くことができると説きました。

第十六条では阿弥陀仏に帰依することと自分の考えを交えないことは別だとする考えを批判しました。その上で阿弥陀仏に一度帰依を誓えばそれでよく、その後は心に過ちがあってもその度に誓いを立て直さなくても良いと説きました。

第十七条では辺地の浄土に生まれたものはゆくゆくは地獄に落ちるという考えを批判します。その上で辺地の浄土に生まれてもその罪を償えば本当の浄土に行けると説きます。

第十八条では寄付の大小が仏の大小に繋がるという考えを批判します。仏に大小は無くお布施の行も信心が無ければ意味がないと説きます。

後記では親鸞から聞いた、親鸞の師である法然(浄土宗の開祖)上人とその弟子の話から信心はそれ自体が阿弥陀仏からの授かり物であると述べます。その他親鸞の発言から人間の罪はあまりにも深く、阿弥陀仏の慈悲がとても深いことを説きます。その上で悟りの境地に達せない人々(凡夫)にとってこの世に語り尽くせる真実は無く、念仏の行が真実であるとも説きます。そこから親鸞の教えと異なる教えに惑わされ極楽浄土に行けない人が出てくることを憐れみ、そうした人々を減らすために「歎異抄」を記したことを説明します。

このあとに法然親鸞流罪の記録が記され歎異抄の記述は終わります。

〈終わり〉

 

 

ご覧のように歎異抄は人々を極楽浄土に導く阿弥陀仏の存在を示し、阿弥陀仏がどのような存在なのか、阿弥陀仏はどれ程の力があるのか、その阿弥陀仏を信じ頼るとはどういうことかを述べます。

その上で誤解や曲解を批判し、それを正す形で上のことについてより詳しく説いております。

 

これは浄土真宗というものが大衆のための、大衆が信じられる、大衆を救う宗派である姿勢を再確認するための書物であります。短い内容でありながらも、一つ一つの言葉が含蓄がある無駄がなく理路整然としたものとなっております。

 

この書物は浄土真宗の専門的な知識が無かったとしても内容を理解できるようになっております。文庫版では原文の漢文体に加え、書き下し文と現代語訳、解説が書かれており、初めて読む人でも敷居の高さを感じさせない作品となっております。

 

 

【感想】

 

 

この歎異抄ですが、浄土真宗の僧侶や門徒に向けた教典という要素を抜いても、人間一般が感じる人生に対する疑問や苦悩に平易にかつ明快に答えているところが評価ポイントでした。

正しい行いをしてなぜ報われないのか、どうして善行をしようとしてた人が善行を全うできないのか、なぜ善行というのがややこしくなるのか、善行と悪行の区分が曖昧な中で何をどう信じるべきか、なぜそれを信じられるのか、そうした疑問や悩みに答えているのがこの歎異抄です。

 

結論から述べますと、歎異抄で出てくる「阿弥陀仏阿弥陀さま)」は上の様な状況で信じるべき存在として描かれております。阿弥陀さまはいかなる罪業を背負った人々にも慈悲の心を持ち、信じる生けとし生きる人々を極楽浄土に導く者とされております。

 ではこの阿弥陀さまを信じなければいけないのはなぜなのでしょうか。

 

 

〈1.善行をしても報われない?!〉

まず常識として善行を積んだものはあの世で安穏な境地に達することが出来るということはイメージしやすく思います。

しかし、その実行は難しくその方法を実行してもなかなか報われないことも珍しくはありません。善行が善行たる条件はものすごく狭くそれを実行できない者の方が圧倒的に多くなります。そうなると善行というのは人々を救う道というよりは、それができない人々を切り捨てて放置するための方便となりかねません。

私自身もそれを実行できない方なので難しさはわかります。

 

 

〈2.真面目でも善行は全うできない?!〉

とはいえ善行を実行したい人々は沢山いると思われます。しかしその大半は実行できずに終わってしまいます。

その理由は様々であり、欲望に負けたから、正しい方向に善行が出来なかったから、善行の数多くある条件のうち飲み込めない者があったから、などがあります。一見してそれは正当な理由だと思われますが、実際にそれをストイックに実行するのは難しいです。よもすればある善行と別の悪行が同一であり、そうなればそこで自分の拭いがたい「悪行」が意識される場合もあります。

ここで意識される「悪行」については私としては理不尽な物が沢山あると思われます。自分の意思で悪行に手を染めたのであればともかく、自分の意思の預かり知らないところや苦境からやむを得ず犯した悪行もあると思われます。私が以前述べた「毒親」問題も、子供に道徳が教えられず道徳の欠如した人間になるという問題があります。毒親の世代間連鎖(これを白雪姫症候群といいます)という問題もあり毒親問題は単なる自己責任で終われないこととなっております。

そうなると悪行をせず善行を遂げるというのは自ずと潔白主義を伴うものとなります。ここで善行を全うする方法は「邪魔者」を最初から切り捨て、純粋培養のなかで生き、潔白を証明する事となります。そうでないと「悪行」になり、人生そのものが悪行と捉えることが出来るからです。さもなくば自分や他人に物凄い理不尽をかけながら自分の悪を浄化(ロンダリング)するなどしなくては、自分の善行は証明できません。

何が善行なのかを見いだすときも同じで、自分が善行を確かに行うには他人の試行錯誤を生け贄にしてそれを行うほかありません。他人の失敗を他山の石にするならともかく、他人にわざと失敗させるという「実験」をすることもあります。これで他人は悪行に染められましたが、自分はそれをやってないので善行をなんの気兼ねもなく出来ます。

 

 

〈3.善と悪は混沌の中に・・・〉

さてここまで見て、これを善行だと思う人はほとんどいないはずです。これはたちの悪い潔白主義でありそれを実行する人間は間違いなく危険人物です。だから普通はそんなことしないのです。ただ、やはりそこまでしないと善と悪を分かち裁く「何か」は善行と認めないのもたしかです。それ以外は「汚い」「性格の悪い」と切り捨てるのが善行を拾う「何か」なのです。

そうなると自分の善を証明しようとする行為事態が悪魔との契約に思えます。そんなものは証明しようとするよりは、積極的にしない方向に動くことがよほど善に思えます。いや、そもそも自分たちの生が悪魔のそれそのものであって当初より悪なのかもしれません。そんなものの善なぞ誰が証明するのでしょう。

こうなると絶対善は存在せず、善は自分の拭いがたい業とその時の状況で気まぐれに決まり、何か心の中に善を抱えていてもそれは幻で冷笑されるべき何かなのでしょう。

 

 

〈4.ここで信ずるべきものとは〉

上のように圧倒的な不信感以外に信ずるべきものがない状態は何にせよ不健康でマイナス要素です。では、そこから抜け出すにはどうすれば良いのでしょう。

ここで信じるべきなのは、圧倒的な善すなわち博愛であると思います。ただそれは現実にそのような施しをしている人物を探し求めるという意味ではありません。そのような人物がいたとしてそれを拒まずに迎え入れる準備をするということです。それはまたコツのいることであり万人が思い付くようなものではありません。そのため、その術を知る者が啓蒙して世の中にその考え方を広げなくてはなりません。

歎異抄ではその迎え入れるべきものを「阿弥陀さま」として具像化しました。博愛と慈悲の権化である阿弥陀さまを信じることにより人々に何か信じ不信感を晴らすことを説いたのです。

 

ではなぜそれを信じることが出来るのでしょうか。

その理由を端的に述べると万人を救おうとしているからです。罪や悪行から逃れられない人々でも救おうとし、あるいはそれに対し疑いを拭いきれなかった者までも救おうとします。

これは救われるべき条件や自分が生き延びるための条件を定めているようなものよりかはより疑わずにすみます。確かに人を選り分ける事が必要とされる場面は必要かもしれませんが、それが全てで他は虚無であるとは思えません。何か自分を拾う所においてそれを信じることは自分の人生を豊かにし、活力を沸き立たせると思います。その自分を拾うところの代名詞のひとつが阿弥陀さまなのです。

 

このことは単に阿弥陀さまのみならず、そのような意識で人生を歩む人々がおります。医療従事者は治療する患者が何ものであろうと治療を施します。

2019年に発生し、多数の死者を出した京都アニメーション放火事件の犯人は重度の火傷を負いました。命の危機をさ迷った犯人ですが、医師たちからの懸命な治療により一命を取り止めました。その時に治療に当たった医師は「犯人には生き延びて罪を償ってほしい」と語りました。

このように大量殺人を意図的に起こした者に、救命を施す医療従事者の心境は人の生の価値を強く信じる者のそれです。それはただ仕事だからで割りきれるようなものではないと思われます。医師の仕事は専門性や技術レベルも高く極めて特殊な環境で行われます。当然その選出や修業では多くの人々が弾かれます。その中で選りすぐられた医師のマインドは、多少は博愛精神と関わりがあるのではないのでしょうか。

 

 

〈5.信ずるべき者への信じ方〉

このように信じられるものが少ないこの世で信ずるべきものを信じるのはちゃんとしたやり方があります。

歎異抄はそれを浄土真宗の信者に説いたものですが、一般人にも通じるものがあると思いました。

 

その上で慈悲を持つ者を信じて生きていくときに陥るかもしれないワナがいくつかあります。

 

一つ目は信ずるべき者を疑い、余計なことをすることです。自分を救おうとしている者から裏切られるという疑いを捨てられないことは珍しくはありません。もちろんそれが無くなることは望ましいですが、そのために余計なことをする人もおります。例えば変な便宜や貢ぎ物をして不正を働いたり、勝手に人を比較し区別したりすることです。よく考えれば真に慈悲深い者の博愛がそれで変わるとは言えないのですが、どうしても捨てられない疑いがそれを歪ませます。

歎異抄では親鸞上人にすらその疑念があったことを説明し、その疑念を持つものでも阿弥陀さまはお救いになることを前篇で語りました。後篇で語られる世間の誤った教えでは、仏教の知識や研究、お布施の多さ、罪滅ぼしへの期待などが語られておりますが、それはいまだ捨てられない疑念から来ているものです。

最近の経済学の研究でも、他人を信用しないことにより掛かる社会的経済損失が計算され、それが膨大なコスト負担として人々にのし掛かっている事が明らかにされました。他人の信用度を審査する上で調査費用や選考費用は膨大なものとなっており、それは経費として企業の財政状況などを逼迫させる要因となっております。

このように信じるべき者を信じられないことは損失であり、歎異抄ではその現れとしていくつかその例を指摘しております。その上でそうした疑いで行動を惑わされないようにすることを説いているのです。

 

 

二つ目は信じるべき者からの施しを自分のものと勘違いすることです。自分が世の中への厭世感から離れ何か強い信念を持って生きれるのは自分の信ずるべき者のお陰であり、それは自分一人で成したことではないのです。そのため自分の何か悪い性がそれで消える訳ではなく、自分の身の潔白や崇高さが担保される訳ではないのです。

また人の性格はややこしい過去の因果で決まるところがあります。その苦しみから抜け出す方法として信じるべき者からの施しを借りながら正気を保ってこの世で生きられるのです。

歎異抄では浄土真宗の教えは全てが阿弥陀さまからの施しと捉えられ、親鸞上人の言葉や師弟間で伝えられる教え、阿弥陀さまへの信心もそれに含まれます。後篇で示される曲解では、阿弥陀さまに頼らず悟りの境地に至ることの困難や現世で悟れるという誤解、自分の潔白を念仏で実現できるという誤解を語ります。そしてそれらの誤解が阿弥陀さまの力を自分の力と勘違いするところから来ていると指摘します。

私はこの人生の業と信じられる人からの施しの分離という考えは素晴らしいものだと思いました。先ほどの信じるべき者への疑いと合わせて、自分の人生の業に疑いがあっても信じるべき者からの慈悲は本物であると信じることの大切さを教えられました。その慈悲が真に自分のものにならないことに戸惑っても、それは間違いではないと言ってくれることで心に折り合いがついた気がします。別にそれは自分のものにならなくてもよいし、そちらの方が良いのかもしれません。

 

自分に慈悲をかけてくれる存在を受け入れるという営みが心の安息に繋がるのは生きる上で一度は知っておきたいことです。その上でそれが嘘であると言われることの恐ろしさはどうしても否定はできないと思います。嘘かもしれないから信じる対象に貢ぎ物や自己の信心の証明や忖度をしたり、信じる対象の施しを自己所有化しようとするのです。

しかしそれはむしろ自分の信心をますます疑わせることに繋がり、何よりも他人に対する悪行ですので誰も得しないことです。そのことを指摘し人々の行動を正そうとしたのがこの歎異抄です。

この不安に目を向けたこの書物は人生に言い知れない不安感を持つ人は読まれることをおすすめします。

 

 

【おしまいに】

 

話はそれますが、私はあるときこんな疑問が起こりました。

 

・・・念仏を唱えれば極楽浄土に行けるというのであれば、Twitterで念仏をコピペしてツイートしても極楽浄土に行けるのだろうか?

 

その事について仏教に詳しい友人に尋ねたところ「念仏は阿弥陀さまに帰依する気持ちを表すものなのでただ字面をコピペしても、念仏を唱えたことにはならない。」と答えてくれました。

今回読んだ歎異抄の十一章でもその事について語られており、念仏は信心の前においては阿弥陀さまの力としても呪文としても、力を同じだけ発揮すると書かれていました。つまり念仏が効果を発揮するか否かは信心次第ということなのです。少なくともコピペしてツイートしても信心は疑わしいですし、それならば本当に念仏を唱えたほうがいいのでしょう。

 

そのような疑問を抜いても、歎異抄浄土真宗と深い関わりがない人にも大事な事が書かれているので、是非とも読んでほしい書物です。歎異抄の後記の一番最後には「浄土真宗の信徒以外に見せないでください」と書いてありますが、それでも多くの人に見ていただきたい書です。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

2021年7月27日

私のTwitterアカウントの告知


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こんにちは、ずばあんです。

 

このブログを読まれる方にお知らせです。

 

私はこのブログの他Twitterでもメッセージを発信しております。

 

(私のTwitterアカウント)

https://twitter.com/zuba_unknown?s=09

 

Twitterでは自分の日常に関することや、短めに時事ネタなどに思ったことを述べます。もし関心のある方やずばあんともっと近づきたい方はTwitterをフォローしていただけたら嬉しいです。

 

これからもこのブログや私のTwitterをお楽しみください。

 

2021年7月22日

小山田圭吾のいじめ告白について

こんにちは、ずばあんです。

 

早速ながら、ミュージシャンでソロユニット・Cornelius小山田圭吾さんが7月19日、東京オリンピック開会式の作曲担当を辞退することがわかりました。

 

その理由は小山田圭吾さんの過去の「いじめ告白」発言でした。1994年と1995年に、すでにミュージシャンとして活動されていた小山田さんは雑誌の取材で学生時代のいじめの告白をしました。

 

その内容は同じ学校や違う学校の障害者の生徒を突き飛ばしたりマットで巻いたり汚物を食べさせたりしたものでした。当時の記事では小山田さんとインタビュアーがそのいじめについて談笑している様子が描かれておりました。

その過去が拡散・報道されたのはつい数日前のことでした。

間もなく開会する東京オリンピック2020の開会式の作曲メンバーに小山田さんは選ばれておりました。しかし過去のいじめ告白記事が取り上げられ、オリンピック・パラリンピックというイベントの演出に関わることへの資質が問われました。

この報道により小山田さんらへの非難が高まりついには小山田さんが謝罪文を出し、そして作曲担当を降板することとなりました。

 

この件については、私も強く思うことがあります。

小山田さんのいじめといじめ告白からこの作曲担当就任までの流れには、過去を総括するという意思が感じられないというのが感想です。

いじめ告白からは25年、いじめ自体からは35年近く時間が経っています。その間に過去の告白を弁解するチャンスはあったものの小山田さんはそれをせずほぼ沈黙を保ちました。そして小山田さんはそれをしないまま五輪開会式作曲担当に就き、過去のいじめを無かったことにするかのような動きを見せたのです。

しかし、この小山田さんへの批判についても私の考えとは異なる部分もありました。

実はこの小山田さんへの批判はネット上では10年以上前から批判されておりました。私も昔ネットで小山田さんのいじめ告白の記事を見たことがありました。小山田さんの話が出るとこのいじめ告白のことを指摘するユーザーは少なからずおりました。ですが、それが今回の件ほど騒ぎになることは滅多にありませんでした。

今回なぜここまでの騒ぎになったのかを考えますと、まずいじめの過去がある人がオリンピックという国際的な親善、平和の祭典に関わろうとしたことが問題となっているのです。しかし現実の批判を見るといじめそれ自体の批判も盛んで、中には相当無茶な綺麗事も混ざっているのです。

 

これから、私が小山田さんのまずいと思った所と、小山田さんやいじめの批判のまずいところ、そして私がいじめ問題をどう考えているかということについて話していきます。

 

 

小山田圭吾は開き直るか?】

 

 

小山田圭吾さんの落ち度が何かを見てみると、小山田さんはいじめた本人に何か償いをしたという様子が伺えないことと、告白への批判について今まで弁解しなかったこと、その上で神聖な五輪という祭典に関わろうとしたことが上げられます。

 

まずいじめ告白の記事を見ると、小山田さんはいじめの過去についてさも青春の1ページのように赤裸々に語ります。そこにはいじめの被害者が辛い思いをしたという思慮は感じられませんでした。

インタビュアーと共にこの過去のいじめを「談笑」し、記事の最後では「今思えばあの子には申し訳なかったな(笑)」と笑い話にしようとする意図が感じられました。

 

少なくともこの記事から、小山田さんのいじめをした人に償った事実あるいは償おうという意思は確認できませんでした。それどころかそれとは反対の、自分はそのようなことをする謂れはないと言わんばかりの態度でした。

 

ここから小山田さんはこのいじめの件で何か償いをしたりその意思を見せなかったことがわかります。今回の騒動での小山田さん本人の謝罪文でも、「もし居場所がわかれば(いじめ相手の)本人を探しだして謝罪したい」とあり、ここまで小山田さんが償いをしてこなかったことがわかります。

 

 

 

また、2004年にネット上でこの記事の件がバッシングされたときには、小山田さんは自分に対してバッシングする人を非難し、さらにいじめへの激しい非難の風化を望む旨のコメントを残しました。

これは小山田さんがこのいじめの件について沈黙する強固な意思を表しております。小山田さんはいじめに対し非難する世論について真っ向から対抗して、償いを絶対にせず沈黙を貫くという強硬な態度に望むことにしたのです。これは過去の告白について弁解する意思がないことを示しており、現に今回の騒動まで小山田さんは弁解とおぼしき行為を示したことはありませんでした。

 

ここで一旦話はそれますが小山田さんのこの姿勢についてライターの吉田豪さんは、1994年当時のサブカル音楽界では露悪趣味が流行り、小山田さんのいじめ告白記事もその風潮から誕生したとおっしゃっております。

小山田さんのいじめ告白記事は、元は過剰ないじめ批判に反対するコーナーのとある回に載せられたものでした。そしてそのコーナーには他のアーティストも過激ないじめ批判への反論を述べておりました。

確かに音楽のジャンルやバンドの中には露悪的で既存の社会規範に対し強く反発するコンセプトを押し出すものがあります。その辺りを探ると、小山田さんのいじめ告白が遥か遠くに霞むほどの強烈な露悪趣味(反社会的行為、エロチシズム、グロテスク・・・)がいくらでも出てきます。

 

ですがそれを加味しても小山田さんの姿勢は卑怯で中途半端だと思います。いじめ告白のあとに何か露悪趣味路線を継続的に押し出していくのであれば、コンセプトやパフォーマンスとして考えられたかもしれません。しかしその後に沈黙を続けそれを固辞し、その癖に全うな活動をし続けていたことはとんでもない居直りです。

それに小山田さんの活動でそれ以外の露悪趣味があまり聞こえてこないのも不思議な話です。小山田さんは時代のせいだとしても中途半端にそのいじめられた人を生け贄にして、そのあとはその事を忘れたかのように沈黙の中に葬り、弁解すらしなかったのです。これは小山田さんがこの件の後始末について沈黙が第一と考えていたことの証左だと思いました。

 

そして最後に小山田さんは上のような遍歴のもとに神聖なる五輪開会式の作曲担当に就いたのです。これこそが小山田さんの過去の歴史が罪に明らかに変化した瞬間だったのです。

 

五輪は世界の人々の調和と平和のスポーツ祭典です。また開催国視点では国の威信を示すイベントでございます。そのようなイベントに関わるにはそれだけの資格の証明が必要となります。

しかし小山田さんは過去のいじめについて清算や弁解をせず、沈黙に任せてその過去を封殺しようとしてきました。その事が五輪開会式の演出担当という役目において、として浮上したのです。

これは小山田さん本人が罪はもう無いと思っていたかもしれないという、贖罪意識のなさを表すものと考えてもおかしくはないのです。小山田さんは厚顔無恥の人間と思われてもおかしくはないのです。

 

こうしたことから小山田さんのイメージは、いじめの過去を臆面もなく笑い飛ばし、贖罪もせず許されようとし異議に対しても反発、そしてその上で自分は五輪開会式に携わる大した身分だと考える開き直った人間と言われてもおかしくはないのです。

 

 

【いじめ批判はいじめを無くせるのか?】

 

 

この小山田さんに対する非難は、小山田さんがいじめの過去を清算しないまま五輪開会式に携わることの資格の問題いじめの許容という問題に分かれます。前者は当然として後者はかなり雑然としております。

 

いじめの償いはするべきとか、これまでなにもしてこなかったことの非を問う意見は数多く出ております。いじめの後始末はやるべきでしたし、これからでもした方がよいのは当たり前です。

 

しかしながら、現実のいじめ対策やいじめ批判としてはかなり過激なものもあるのが事実であると思いました。いじめの過去がある人間は世に出てくるなという非難や、いじめは普通しないものだ、いじめられっ子はいじめられた方の償いを一生しろなどの文言が上がっております。

私自身もいじめを受けた過去はあるのでその気持ちはわかります。いじめた方に対する純粋な気持ちであればそれを非難する謂れはないのです。しかしそれはあくまで気持ちであり、本当にいじめを解決したくてそういっているのであればそれは現実的な案では無いと思います。現にさも評論家のような口ぶりでそのようなことを言う人の場合はあまりこの問題を知っていないのかもしれないと思いました。

 

まず、世の中にいじめに関わった人がどれ程いるかについてですが、2016年の文科省のリサーチでは小学4年~中学3年の児童生徒のうち9割がいじめを経験したと回答しております。これはクラスの大多数がいじめ被害を受けていることになります。いじめなんてあり得ないというのはその時点で嘘になります。そしてそれらのいじめの加害者・傍観者を考えると、いじめをされた人の「敵」はかなり多くそうでない人を見つけることが難しいことになります。

 

また、現在いじめの定義というのは「当該児童生徒がある一定の関係にあるものから精神的肉体的に苦痛を与えること(場所は問わない)」であり、いじめをした側がどう思っていたかに関わりなく認定されるようになっております。いじめの原因に関わりなくいじめた方に責任が問われるのです。

これは人々がいじめに沈黙しないための一歩前進した解釈に思えます。いじめという現象をより正しく認識しようという動きが見えます。かつてはそこに「立場の強いものから弱いものへ」「継続的に」「深刻な苦痛」という条件もありましたが削除されました。

 

しかしそれはいじめをした側はいじめを必ずしも自覚している訳ではないということも浮き彫りにしました。いじめは誰もがハッキリ形のあるものとして分かるものではないのです。私自身もいじめを受けていた経験もありますが、その苦痛が誰の目にも分かる様なことだったとは微塵にも思いません。逆に私がいじめと呼ばれることをしていたとしてそれを100%自覚出来るかというと自信はなく予防法がどれ程効果があるかも同じことだと思います。

いじめが誰の目に見てもわかり、責任はともかく最初から予測できたものだったという見方はいじめへの認識や関係者の膨大さから見て矛盾しておりあり得ないのです。

 

それでもいじめは許されないし被害者のために加害者への制裁をするべきという意見もあります。確かに解決はすべきでしょう。しかしそれはいじめをしないことを宣誓させるだけでなく、そのような行為をしかねない人間として現実的な社会的な行動や償いのしかたを考えることだと思います。

ならば画一的な強力な道徳教育を施せばいいという強気の案も出てきますが、それもいじめ問題に答えられておりません。いじめの原因は同じ原因があるのではなく、それぞれにおいて原因があるのです。そのためいじめの原因が一にあるかのように考え行動することは、いじめを防ぐ効果の無いどころかいじめを隠蔽したり小山田さんのようにいじめの過去に沈黙する結果となるでしょう。

 

 

そうしたことからいじめをした過去の有無だけでいきなりいじめた方を社会から追放するのはいじめの解決にならないと思うのです。そんなことをすれば人口の大半はいじめ対策からかえって遠ざけられ、ますますいじめが起こる本末転倒なことになるでしょう。そして画一的ないじめの原因という誤解もいじめ問題の認識を誤りいじめへの沈黙がますます起こるでしょう。

 

だから小山田さんのいじめ問題については、小山田さんにどのような罪があるかに関わらず、後始末をつける余地というのは保護しなくてはならないのではと思います。

 

 

【いじめ問題を正直どう思うか】

 

 

小山田さんといじめ批判に対する考えは以上ですが、私本人がいじめ問題についてどう思うかということをもっと踏み込んで語りたいと思います。

 

私はブログの初期に「いじめとどのように戦うべきか」ということについて話した覚えがあります。これはいじめとの戦いは難しいものであり、いじめから逃げるという撤退戦を考えることは一つの戦法であると述べました。

 

私がそのように述べた根本の理由は、いじめをなくす方法を誰も生み出せていないし、それを断言する資格のある人もいないと思ったからです。今日の今日までいじめの問題像を掴むのにも苦労し四苦八苦しているなかでその当事者の特定と解決法の特定と実行が出来るという方がおかしいのです。まだいじめの分析が発展途上の段階で被害者は沈黙の中で苦しんでいるのです。

 

そのため私がお互いに仲直りすることでいじめが解決すると考えることは思い上がりだと思うのです。いじめの過去は消えないので、関係回復の可能性を考えることが的外れなのです。それどころか無責任な神話で被害者をますます苦しめることになると思うのです。

もし仲直りをしたいという気持ちが本当にあるのであれば、相手からの不信感や不安を確かに認めそれに則した行動をとるのがお互いにとっての現実的な救済であると思います。

 

そうしたことからいじめが許されシロになるるということはあり得ないのですし、許されるとすればいじめの反省を行動としてやり続けるほか無いと思うのです。

 

一方でいじめに関わっている人が思った以上に社会に沢山いる事実も考えなくてはなりません。9割もいればそれは人間の業として認識しそれから逃れられる人は少ないと考えていいでしょう。自分はいじめとは無関係であり考えるいわれが無いと言い切るのは、その時点で鈍くあるいはいじめを曲解していると思います。9割もいるのだからそれを騒ぐのがおかしいという意見も、それはもはやいじめ対策に反旗を翻す行為と認識されてもおかしくは無いでしょう。

 

それにある一人がいじめをされるだけではなく、他人にしている可能性も考えなくてはなりません。それまでのいじめの加害者は悪、被害者は潔白といういじめ観は、加害者を突然責めるだけで解決法を示さず、被害者も身の潔白を極度に気にし相談しづらくさせていると思うのです。いじめはそれぞれの事案においてそれぞれ理由があるのです

 

だからいじめをしないのではなくて、いじめをした時にどうすればいいのか、あるいはいじめをするかもしれない自分は何を努力すればよいのかを考える方にシフトしていかなくてはならないと思うのです。

 

それまでの懲罰的ないじめ対策は、いじめの実態が明らかになってきた以上変わらざるを得ないと思います。被害者のケアも大事ですが、加害者のケアも同時に必要だと思います。いじめられた側としての私も、そこまで本腰をいれてくれたならばいじめ対策への本気度を感じることができます。

 

したがっていじめというのは予防とともにいじめをした後にどうするべきかも大事であり、それを学ぶことがせめての反省や成長であるとずばあんは思うのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

この小山田さんのいじめの件は拡散からかなり短期間で事態が大きく動き、いじめとの向き合い方の重要性を明らかにしたと思います。

いじめはもちろん無い方が良いですが、そればかりに気を取られて現実のいじめのけじめの取り方が語られず考えられないことはもっと問題であると思いました。

いじめが社会でどう評価されたのか、社会はその解決法を理解しているのか、その中でいじめの当事者はどういじめを処理していくのかを考えさせる出来事でありました。

 

小山田さんの件といじめについてこれまで真面目に語ってきました。

 

ここで砕けた話をすると、開会式の音楽どうするの?!と思います。小山田さんの続投が報じられた後にすぐに辞退することが表明され、まさかそれが開会式の数日前になるとは思いもよりませんでした。小山田さんの楽曲も使用しないことを運営委員会も発表しました。

 

その小山田さんの後任についてはミュージシャンの岡崎体育さんや近田春夫さんが手をあげておりますが、あと数日でなんとか出来るのでしょうか?プロのミュージシャンならば何とかやってくれるかもしれませんが、とんでもない試練です。

 

もしそれでも収集がつかなかった場合は・・・

 

拝啓 東京オリンピック運営委員会様

 

「ずばあん物語集」というブログをやっております、ずばあんと申します。もし収集がつかなかった場合は次の曲の使用を私の作詞料は無料の上許しますので、どうぞよろしくお願いします。

 

 

復活のズバアン

 

作詞:ずばあん        作曲:すぎやまこういち

 

きこえるか きこえないな はるかなおののき
闇のなか 心揺さぶる 目覚めはじまる
傘を投げ 逆ギレしまくる 正義を騙るか
伝説の巨神の力 落研の和乱す
一発のギャグがはなたれ 失笑を買う
驕れるな現実を見ろ ふざけるなよ

ひどい 嫌だね 恥でしかない
スベる ランナウエイ ズバアン ズバアン
スベる ランナウエイ ズバアン ズバアン

 

 

どうも最後までお付き合いありがとうございました。

 

2021年7月20日

 

人への感謝は善?悪?

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は「感謝すること」の話です。

自分が何か良いことをしてもらったときに、それに感謝することは常識です。

それに対して良いことをし返してあげることを恩返しや報恩として美徳として考えるのはおかしい話ではありません。

 

かたや、何かしてもらって何も言わずそれを当然のように思うような素振りは人間性を疑われても仕方ありません。まともな人間と扱われることはないでしょう。

 

しかし、その感謝することが仇となり白々しい失態を犯すこともあります。私の経験を基に感謝とは何にたいしてなのか、そして何に誓ってすることなのかを書いていきます。

 


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【感謝しているなら何をしても良いのか】

 

 

感謝をしていることがらがあり、それに報うことやお返しすることは自体は間違っていないと思われます。それをしてくれた人に何かお返しをして、それがその人との関係を深めることは自分自身や向こうそして第三者にとっても素晴らしいことだと思います。

 

一人では間に合わない出来ないことをあの人が手伝い助けてくれたので、あの人を手伝ったり何か物やことでお返しすることは人として間違っていないですし、自分にとってもスッキリすることです。どんな形でもです。

 

しかし、感謝をしているからお返しをするために何でもやることはそれは正しいのでしょうか。

もしその人が悪いことをした時に、事実や倫理を曲げてその人の潔白を証明(?)することは素晴らしいのでしょうか。またそれが出来なかったら人に恩を返せない最低な人間に陥るのでしょうか。

 

私は実際にそういうことがありました。私のことを助けてくれた人が悪いことをし私はその人を擁護しました。もちろんそれは倫理に背いているのは分かっていましたが、それをしないと自分が助けられ苦しみから抜け出せたこと、それに恩返しできる自分であること、それをするに足る関係を築いたことが否定されると思ったからです。

ですがそれは他の人に沢山迷惑をかける行為であり、親しい人からお叱りを受けたました。その人を擁護することは最終的にやめましたが、それからしばらくは自分はそんな矛盾を抱える人間として外道な人間だったのだという罪悪感に苦しみました。

 

人に感謝することは間違いではないと思いますが、それが常にまごうことなく私に社会的に倫理的に正しい道を示してくれるとは思えませんでした。感謝とは人を奴隷にする方便であり言質であり詭弁であるとそのときに思いました。

 

感謝や恩返しというのはそれで何をしてもいいという方便ではないのです。そこに真心があったとしてもです。

 

 

【感謝と恩着せがましさ】

 

 

私は自分が感謝していた人が悪いことをし、「恩返し」が出来なかったことに嫌悪感を抱いておりました。私が少年時代にあった恩師が「ルールを守るものはルールに守られる。」私はその言葉を励みに頑張ってきました。しかしこの段で私を守るルールとは何でしょうか。それまで私が守ってきたルールはルールでなくなり外道になったと言うことでしょうか。勝てば官軍負ければ国賊といったところでしょうか。

 

私はしばらくこの考えに陥り、自分が今やっている「善行」は何にせよ自分が悪でない理由でもないし、自分がルールを守りそれに守られる存在では無いのだなと極めて冷笑主義的になりました。

ですが、私がそのことを徐々に気にしなくなり出したときにようやく私は自分の気持ちに整理がつきました。あれは感謝ではなくて「恩着せがましさ」だったのではないかと思ったのです。

 

感謝とは自分に対していいことをしてくれた人に対して抱く気持ちであり、そこから起こる行動が恩返しなのです。しかし、逆に恩返しを必須条件に恩を売るかあるいはそうでなくてはダメだと思うのは「恩着せがましさ」なのです。最初からお返し目当てさもそれを当たり前のことだとする考えは感謝や恩返しとは異なります。

これは感謝を感謝と思わず、感謝する側を惑わし外道に導きかねない考えです。

 

私の場合それは私が感謝してくれた人から催促などをされたのではありません。どちらかと言えば、私自身が身の潔白を証明したかったという他人は関係なく自分が表面的に浄化されたかったという気持ちが強かったのです。恩着せがましさは人に要求するものだけではなく、自分に対してもそうあるべしと願う所もあるのです。

 

私は自分自身にとどまる倫理観に感謝の気持ちではなく恩着せがましさがあったと思うのです。

 

 

【善意が滲み出てこその恩返し】

 

 

では、恩着せがましさではなく恩返しをするにはどうすればよいのでしょうか。

 

私は先ほど「ルールを守るものはルールに守られる」という言葉を申し上げましたが、結局はその合意があるかないかが先立つと思います。

ルールを犯したらルールに裁かれその償いをするのが社会の常識ですが、それに従う人には上のような「恩返し」はしていいと思います。ですがそれを諦めルールにより追放されることを選んだときには・・・引きとめず裁きを下すことが意味恩返しのようなものかもしれません。

 

これは一種の善であり、万人に通ずる善だと思うのです。ルールを守るものがルールに守られる、その善を第一に守ることが恩返しへの第一歩かもしれません。輝かしい結果を求めそればかりが恩返しだと妄信するのは恩返しでも感謝でもないのです。

 

恩返しとは人に感謝しあふれる気持ちを社会的常識の範囲で返すことを前提にした行為なのです。社会的常識からあぶれたときに、それを許さず反省を促すこと、その悲しみや無念を表すこと、それらも恩返しなのかもしれません。

 

あの人が犯したこととして、私自身も正解に達していなかったこととして戒めのつもりでこの事を残します。

 

 

【おしまいに】

 

 

とはいえ、本音を言えば「ルールに守られるものはルールに守られる」というのをそこまで信じているわけではないのです。それが裏切られる場面は多く、むしろ皮肉や潔癖主義を代弁した言葉なのではと思ったことは少なくありません。

 

でもその気持ちは間違いではないと受け入れたときに、その「ルール」とは何かを追い求め間違えながら探し続ける人生は外道でも軽蔑されるべきものではないと最近思うのです。それは世の中の不平不満を言ってたときから今のようにそれを受容しつつ答えを探すときまで同じだったと思うのです。

 

私は大学の時の部活をしていた時にある言葉を聞きました。

正解は分からない。でも何が間違いかは分かる。

私はその言葉に初めは特別な意味を感じておりませんでした。しかし、後からこの言葉は確固たるルールに守られず、外道同然の人生を歩んでいることを自覚したときに救いになりました。

ルールに守られて生きたいと望む気持ちをどこに向ければいいのかを表した見事な言葉であると思います。願ったところで結果や求道がすぐに着いてくるわけでもなくむしろ切り捨てられる方が多いですが、そこで気持ちを忘れずに諦めないことが大事であるとこの言葉により思い出させてくれたのです。

 

私は結局「感謝」や「恩返し」におけるマスターではなくむしろ外道かもしれません。しかし、その外道がせめてその道に本当に歩めるための懺悔録としてこの記事を残したつもりです。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年7月19日

無神論と無宗教の違い

 


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こんにちは、ずばあんです。

 

今日は「無神論無宗教の違い」というひと目見たらぎょっとするタイトルから始まりました。

 

この二つの言葉は普段特に違いを意識せずに使用されております。日本人の中では普段の生活で特別に宗教を意識していないことを表す言葉としてこれらの言葉が使用されます。

その一方でこれらをそのまま外国人に対して自己紹介で使ったら、とんでもない人間という印象を受けるかもしれないという警告がされることもあります。キリスト教イスラム教といった一神教では宗教を信じないことはすなわち道徳に背くのと同義となりうるからというのがその根拠です。

 

しかしここで結論を急ぎ、日本人は宗教とは隔絶しておりそれが道徳の乱れを起こしている、という解釈に止まることはあまり正確には思えません。

 

それはつまるところ、無神論無宗教の認識の仕方の違いにあると思われます。今回は「無宗教無神論」という題でそれを述べたいと思います。

 

 

【神様はいないという無神論

 

 

無神論無宗教で、一番理論的に分かりやすいのは無神論です。無神論は読んで字のごとく神様はいないという考え方です。

 

ここで神様がいないという状態がどんなものなのかという疑問が出てきます。神様がいないというのは、「神様」の資格を持つ存在を信じられないという事です。例えばキリスト教では、新約聖書などで語られる唯一無二の絶対神が神の資格を持つ者です。その場合は神がいないというのは唯一無二の絶対者がいないことを言います。

 

この神の資格というのは絶対解はありません。それぞれの文脈で神の資格は変わってきます。しかし、それを明文化すればするほど神の資格はハッキリとし神の資格を持つ者と持たざるものはハッキリと分けられるようになります。先ほどキリスト教を例に上げたのも神の資格が聖書という形で明文化されているからです。

逆に神の資格が不明確だったり緩いほど神々の数は多くなったり、神の至高さは薄くなったりするのです。そうなると神がいる/いないの区別は明確につけられなくなります。そのため神を信じるか信じないかという問い自体が行われなくなります。

 

したがって神の資格を持つ者を信じられないという無神論の考えは主にキリスト教のような一神教の考え方を背景に生まれるのです。そのため自分を無神論者であると標榜する人が多いのはヨーロッパ等のキリスト教圏などの一神教が強い地域が多くなります(イスラム教圏出身者でも無神論者はいますがそちらは主に他国への移民に多くなります。)。無神論一神教に対立した考えとして生まれたからです。

 

無神論者は神が世界を作ったという「神話」を悉く否定します。無神論者は自身の人生に対する神の関与を否定します。そのため無神論者は一神教が示す神をことごとく否定し、死後は天国に行けるという考えすらも否定します。

その態度はかなり強固なものとなり敵の一神教がその教えを頑強に広め守ろうとするのと同じく無神論者の態度も戦闘的になります。無神論者がふと神様の存在を信じることがあってはならないのです。

 

そのため無神論は神の資格を持つ者を全く信じないようにすることを言います。

 

 

【特定の神に依らない無宗教

 

 

無神論と混同されがちな考えとして無宗教という考えがあります。これは特定の宗教を信じていないという考え方であり、それ故に非道徳的で宗教的に無節操な立場として述べられることがあります。

 

しかしこの無宗教の意味もまた一神教の立場から見た考えです。一神教では、宗教とは「自分達の」「唯一無二の」「絶対的な神」を信じる行為であります。そのためそこから一つでも外れたらみな無宗教なのです。

 

一神教であるキリスト教を例にとれば、キリスト教徒にとってイスラム教徒は「自分達の」神を信じているわけではないので無宗教です。日本人のような多神教的な神々への信仰は「唯一無二の」神を信じているわけではないのでこれも無宗教です。仏教も「絶対的な神」を信じているわけではないので無宗教です。

このため無宗教とは本当に宗教を否定している考えではなく、一神教を基準にしてその基準から外れたものを一緒くたにして否定した言葉なのです。

 

日本人によくみられがちな、特定の宗教や神に専従せず複数の宗教の神々の存在を受容する宗教的態度は、無宗教には当てはまりますが無神論には当てはまりません。

名目上は仏教を信じている人々も葬儀や盂蘭盆会(お盆)は仏教式ながらも、家を建てるときは神道式の地鎮祭を行ったり神棚を置いたりしますし、クリスマスパーティーをしたりと他の宗教の行事を抵抗なく行うことが多いです。

 

それも最近のことではなく日本では神道と仏教の教義が入り混ざった独特の教義(本地垂迹説など)が長らく説かれてきました。それは元々日本土着のアニミズム信仰に大陸から伝来した仏教が入り交じり成立したものでございます。

 

このような宗教的態度は無宗教ではありますが無神論者とは異なります。積極的に神を否定しているわけではなく何となく神を信じているからです。これは明確に宗派や教典に表されているのではないので分かりにくいことです。

 

一方で一神教の神への信仰も実は分かりづらいところがあります。明文化された教典はあれどその解釈は教派により様々であり、中には時や場合に任せる部分もあります。イスラム圏の国は沢山ありますが、サウジアラビアなどのイスラム教の戒律に厳格な国もあればトルコやイランのように戒律が緩い世俗的な国もあります。日本に仕事や留学、観光などで来ているムスリムの人はそれなりにいますが、聖典コーランで禁止されている飲酒を日本でする人が実はおります。「アッラー(神)は日本まで見ていない」「アッラーは今寝ている」と言い訳する人もおります。

 

同じ宗教の信者の間でも実際の信仰態度は異なっております。作家の遠藤周作さんは自身がクリスチャンでキリスト教の信仰に関わる作品を長年出されてきました。そこで示される遠藤さんの信仰態度はキリスト教本流の敬虔な態度とは大きく異なります。それは本流と比べかなり世俗的であり神の万能性や篤い信仰を疑い、それでも疑い得ない神の深い愛に信仰の意義を見出だしたものでした。

これはキリスト教会の反発をまねき、「海と毒薬」や「沈黙」等を出した遠藤さんへの批判を出しました。その中で遠藤さんは江戸時代のキリスト教弾圧期の隠れキリシタンや棄教者の話を持ち出し、そうした人々の信仰に対する無念を訴え名誉回復について主張しました。

 

このように特定の宗教を信じていないということは、すなわち神や信仰がないということにはならないのです。

 

 

【神を信じる/信じないの違いは?】

 


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この無神論無宗教の考えの違いを見ると、神様や宗教を信じている、あるいは信じていないということの証明が難しいことが分かります。

 

一神教の考えからすれば仏教を信じることも無宗教に入ります。仏教は、人間などの生命は現世を含めた六つの世界を巡るという輪廻転生の考えに基づき、修行や信心により悟りを開き世界の理を理解しこの輪廻転生から脱し永久の平穏の境地に達するという教えを解いております。ここには人を造り統べ救う神は登場しません。そのため一神教から見て仏教は無宗教なのです。

 

また、多神教アニミズムという、複数の神を同時に信仰する態度も無宗教と呼ばれます。一神教にとって宗教とは人間の証であり道徳であり生きる知恵であるのです。その宗教が成り立つための神様は唯一無二でなくてはならないのです。そのため神や宗教、道徳観が一神教のそれらとは異なる多神教は、一神教にとっては「何か分からないもの」なのです。

 

そしてこれはどの宗教でもそうですが、正統性に過度にこだわるときに同じ宗教でも非正統であったり異端とみなされた宗派は無宗教として扱われることもあります。古くはキリスト教ネストリウス派がそうでしたし、中世ヨーロッパのカトリックプロテスタントの対立はし烈さを極めました。

そこまで行かずとも同じ宗派であったものが分派したり独立することもあります。キリスト教イスラム教などにおける原理主義はまさしくそれであり、聖典の記述により忠実であることを志向しその他の宗派に排他的な姿勢を示します。日本でも仏教の宗派のうち日蓮宗は他の宗派に対して排他的な傾向があります。開祖・日蓮が述べた四箇格言と呼ばれる「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」という文言にもそれが現れております。そしてこの日蓮宗も分派が著しく進み、中には精鋭化している宗派もあります。

 

・・・ここで私の個人談となりますが、私が小学生の時の先生の話をします。その先生はある時、日本人がクリスマスや神社に参拝するのはおかしいと思うと言いました。その先生は仏教徒を自称し、クリスマスパーティはしないし神社に行かないとも述べました。そしてそんな日本人は道徳心が欠けており、無節操であるとくくりました。

 

これをどう思うかは人それぞれでございますが、この先生の言葉はまさしく自らの「信仰の深い仏教徒」の態度は大多数の日本人のそれのよりも至高であるという気持ちを表しております。その先生の宗教的態度は本人を律するものとしては素晴らしいと思えます。そして何よりも明確で分かりやすい隙の無い態度です。

 

ただ、そうでないと宗教的に正しくないし神を信じていないし地獄に落ちてもおかしくはないということに繋がるのは恐ろしい話です。あまりこうは言いたくないですが、もしそれが他人に対する強烈な敵意に繋がるのであれば、それが「信仰」というものであると誤解させることに繋がるでしょう。

 

神を信じる/信じないの違いは統一された尺度があるわけではないので、一度信仰が脅かされると尾を引きやすい問題となります。当の神様自体が証明してくれる事でもないので、それは本人がいつまでも内側に抱え込むような問題になるのです。

 

 

【私は宗教に何が大事だと思うか】

 


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この章はほとんど主観的な個人の考えですので、読み飛ばしても忘れても構いません。

 

私ずばあんが宗教において何が大切だと思うのかを述べますと、それは神や信者との「信頼関係」であると考えております。私はこの信頼関係が私の社会性や人間性を立派なものに形成することを宗教に期待しております。

 

ただ、ここで言う信頼関係というのは相手のすべてを疑いなく受け入れ全部信じるという意味ではありません。私の言う信頼関係とは相手の信じられる所は信じ、「信じられない所は信じない」ということです。要は信じるも疑うも遠慮なく出来ることを言うのです。一部不信感があることを絶縁の理由にするのではなく、不信感と素直に付き合いつつ関係を保つのが信頼関係なのです。人間は完璧ではありませんので完璧ではないことを承知で信頼関係を作り大切にするのにはそのような工夫が必要だという考えに至りました。

 

逆に信頼のない関係とは、不信があることを許せず信じること以外を拒絶する態度です。完璧に信じられる人間しか許せずそれ以外は存在を認めないのはそれです。また自分の建前だけを人に押し付け騙しそれが壊れることを極端に嫌うのもそれです。そんなものは極端な潔白主義であり、人に罪を押しつけ自分が綺麗ではないと気がすまないという条件を要求するのです。

 

神様や信者との関係も同じであり、神を端から疑いなく信じることを至高とし疑いを悪や前科とする思想は信仰ではなく永久の裏切りであると思います。神は名乗るものではなく行うものですので、神を実行できないものが神として信仰されないのです。

名乗りでしゃばる「神」と人間の関係は末期的なものであり、そこで信仰を更改出来ないことは宗教的な死なのです。だから、傲慢かもしれませんが、神と自分の関係は一旦改変した上でそれ相応の付き合いに移行しなくてはならないと思います。

無関心、無責任という言葉がありますが、神を表面上のみで疑いなく信じるのはまさしくそうであると思いますし、それは殺意の内面化であると思います。そんなものは紙切れと印鑑があれば出来る契約と変わらず信頼ではないのです。

 

したがって信頼や信仰とは、関係の芽生えから破局までをすべて受け入れる行為であり、それを許せないなら最初から関係は壊滅しているのです。至高以外は意味のない信頼や信仰ならば、信頼や信仰は悪でありむしろ放射性廃棄物並みの有害物質なのです。宗教や信仰は社会性や人間性の基盤であり、それが無いことの言い訳ではありません。言い訳となるのであればそれらと距離を取るのも肯んずるほかないのです。

 

だから無神論無宗教は反宗教ではないと私は思うのです。考えなしならまだしも、宗教や信仰における艱難辛苦や葛藤の末のひとつの完成形である場合もあるのです。例え無神論無宗教を許さない人がいても、私は自分の人生に誓いそれらを許したいと思います。

 

 

【おわりに】

 


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ここまで無宗教無神論について述べましたが、私はそれが信仰や道徳や人間性のない証とは思っておりません。私にとって宗教的正統性があるかないかは、人に対して善意や反省があるかないかに比べればどうでも良いのです。

 

人間は理想を追い求めその実現に向けて邁進する生物です。その営みは私にとっても本当に「理想」であります。しかしその実現までに「投資」される人間の潔白を奪い、罪を負わせることはやはり人に対する侮辱や傷害であると思います。

 

宗教も同じでありそれが他人や自分への侮辱や傷害の理由になってはいけないと思います。宗教や神を信じない場合もそれは同じことです。特に日本人の場合は独特の風土もあいまって、その宗教観は語られていないことが多くあります。先の一神教からの立場からの日本批判もそうですが、それを鵜呑みにしすぎて自己分析や文脈を見誤るのは自傷行為です。

 

正直言えば私は無神論無宗教について学ぶ前は、それを勉強して自分の考えがあらぬ方向へ変わっていったらどうしようと不安に思っておりました。しかし、その不安は杞憂でありむしろ自分の立ち位置がよく分かり、自分の考えが洗練されたように思えました。もう少し早く勉強しても良かったかもしれないとも思いました。

 

何事も勉強であり、よく知ることは人生を明るく照らし楽しくするものであると思います。その成果をこの記事にまとめてみました。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

2021年7月18日