ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

今年もありがとうございました。

ずばあんです。

 

2021年も当ブログを多くの方にご覧いただきありがとうございました。

 

2021年は多くの出来事があり、また私も学んだことがたくさんありました。それについてブログの記事でまとめて参りました。

 

このブログを書くという行為は私のなかでこれまでにない変化をもたらし、私のなかでいまだかつて出会わなかったものとの出会いをもたらしました。

 

来年もブログは続きますが、来年もまた新しい発見があると思われます。これからもよろしくお願いします。

 

それではよいお年を。

 

2021年12月31日


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全国ネットとローカル放送

こんにちはずばあんです。

 

今日は、全国ネットローカル放送について日本の実情を話します。

 

私はこれまでのテレビ放送に関わる記事を3つ書きまして今回がそのシリーズの4本目となります。

3本目の記事「地方のテレビ局はなぜ少ないのか」で既に地方局の存在意義について語らせていただきましたが、今回はそれと対応しつつ全国ネットについても話を広げていきます。

 

さて早速雑談ですが、最近のテレビ欄を見るとどこの放送局もニュースと情報番組が日中ほぼ切れ目なく放送されております。三時間もの尺の情報番組は珍しくなくなりました。

これが20・30年前ですともっと他のジャンルの番組もあったはずです。

 

ではなぜこうなったのでしょう。実はこれも今回の話題と関わりのあることです。この現象は昭和後期のAMラジオ放送で既に起こっていた現象でした。

 

この事を意識しつつ話をしていきたいと思います。

 

 

【全国ネット/ローカル放送とは?】

 

まず、全国ネットとは?ローカル放送とは?という話に入ります。

 

全国ネットは全国に張り巡らされてある放送ネットワークの系列局の全てに向けて放送される番組放送スタイルです。同じ内容の番組を全国で視聴できるのが全国ネット番組です。

なお、放送ネットワークとは全国ネットの番組を放送するための複数の放送局の協定です。民放の場合、このネットワークに加盟した放送局はネットワーク会員費を払い、ニュース番組の製作への協力などいたします。その一方で放送局は全国ネットの番組を追加費用なく流しかつその番組のスポンサー収入を得られるという恩恵を得られます。全国ネット番組における営業活動もネットワークのキー局が一括して行うので、営業の効率化・合理化にもなります。

NHKも中央から地方まで単一組織で受信料収入となり民放とは事情が変わりますが、ネットワークは全国にくまなく整備されております。

 

全国ネットに対しローカル放送とは、全国ネットではない放送全般を差します。具体的に言えば、自局が製作した番組を自局あるいはごく限られた地域で放送する形態を差します。この場合自局で製作した番組のスポンサー収入を自局のみが受けとることとなります。

なお実際には全国ネットではないものの限られた地域内の複数の放送局(九州地方限定など)で同じ番組を同じスポンサーでネットするという放送の仕方もあります。これは全国ネットのやり方を特定の地方限定でしており、地域ネットと呼ばれることがあります。ローカル放送にはこの地域ネットも含まれます。

 

ここまでは全国ネット/ローカル放送の原則的な話でしたが、全国で放送される番組の中には全国ネット番組ではないのにも関わらず全国で放送される番組があります。

それは全国ネットとは異なり各放送局が製作局に放映権料などのお金を支払い放送することとなります。これは放送局間での番組の売り買いになるので「番販ネット」と呼びます。番販ネットでは、他局製作の番組のスポンサーを自局で募ります。これはネットワークのシステムが生まれる前の放送局の基本的な経営スタイルです。

この番販ネットが行われるのは基本的に自局のネットワークに加盟していない他の放送局の番組を流すときです。自局がどこのネットワークにも属していない独立局の場合でも同じです。

例えばアニメ「ポケモン」は全国で放送されておりますが、放送するテレビ局の大多数は製作局のテレビ東京の系列では無い放送局です。ポケモンは日本はおろか世界で有名なコンテンツで、ポケモンのアニメはどこの放送局も欲しい人気番組です。そのためテレビ東京系列ではない沢山の放送局もお金を払って放送するのです。

 

 

 

【日本の全国ネットの歩み】

 

日本で初めて全国ネットの放送網を作ったのはNHK日本放送協会です。NHKは1926年に東京、名古屋、大阪にあった一般法人のラジオ局を統合して発足しました。この後から日本全国にNHKの支局が作られていきました。それとあわせて1928年(昭和3年)から全国ネット用の中継回線が整備され始めました。

 

全国ネット中継回線が整備された理由はこの当時は昭和天皇が即位されたばかりで、ラジオでも新聞同様のニュース速報を全国で一斉放送する必要性が叫ばれたからです。この当時のNHKはニュースは朝日新聞毎日新聞など大手新聞社から配給を受け、自局製作のニュースは製作しておりませんでした。全国ネット回線が作られると1930年にNHK局内に正式な報道部門が整備されました。

 

戦後1950年代からはNHKのテレビが開局し、民間放送のラジオやテレビも解禁され全国で開局しました。この当時テレビなどが使うマイクロ波回線が1954年から当時の電電公社(今のNTT)により整備され、テレビでも全国ネットの放送が可能となりました。

 

NHKのテレビ全国ネットワークは迅速に整備されました。東京の本局を中心にそこから全国の支局に一斉放送できる体制が出来ました。

 

民放テレビでも1950年代から60年代にかけて東京キー局を中心に全国ネットワークが整備されました。この時にTBS系列、日本テレビ系列、フジテレビ系列、NET(日本教育テレビ、今のテレビ朝日)系列が作られました。これは1964年の東京オリンピックの全国中継で大いに活躍しました。このネットワークは1960年代後半から各局でどんどん強化され全国ニュースの製作協定や番組の全国ネットの協定が正式に整備されました。

 

本来民間放送は東京キー局、準キー局、地方局に関わらず自社のみで全国放送することは出来ません。それぞれの放送局がローカル局なのです。そのため民放テレビが全国放送をするときにはネットワークを組むのは不可欠でした。

また、地方局はキー局や大都市の準キー局に比べて番組製作能力が弱く、ニュースや天気予報など簡単な生放送の番組以外は作っておりませんでした。特にテレビ放送開始時に人気であったドラマは俳優や機材、セットなどの調達・手配の関係で東京や大都市のテレビ局しか製作できませんでした。そのため地方局の一日のプログラムを組むときに全国ネットの番組を流せるのはありがたいことでした。

 

そして郵政省など行政当局も、当初は放送法にある通り一放送局が他の放送局に番組を一方的に配給する契約(*)を規制する方針でしたが続々と地方テレビ局の開局が進むなかで、1959年には放送を管轄する郵政大臣が「ネットワークは放送局の円滑な経営のために必要」とネットワークを肯定する立場に移りました。

(*この放送法の規定は現在の全国放送ネットワークについて、ニュースや情報番組、バラエティ番組など地方局発(近畿、東海含む)の番組発信の実態を鑑みて、「一方的な番組の供給」ではないとしております。)

 

なおAMラジオの全国ネットはテレビより一歩遅れました。ラジオのネットワークはニッポン放送文化放送系列の「ナショナルラジオネットワーク(NRN)」とTBSラジオ系列の「ジャパンラジオネットワーク(JRN)」の2系列存在します。そして両者はテレビで既に全国ネットが整備されていた1965年に共に成立しました。

ネットワーク形成が遅れた理由はラジオ番組は音だけなので地方局でも簡単に製作しやすく、かつ他局の番組はもっぱら録音テープでやり取りしておりそちらが安価ですむため、ラジオ番組をネットワークで中継する必要性が薄かったからです。

 

 

高度経済成長期以後はテレビの全国ネットの拡充がなされていきました。

テレビ放送黎明期から事実上の全国ネットを確立していたTBS系列や日本テレビ系列のほか、1968年~1970年に系列局を以前の3倍近く増やしたフジテレビ系列、昭和時代は大都市以外でのネットが弱くも1990年代に専属系列局を2倍増やしたテレビ朝日系列、そして元々独立局でしたが1982年に初めてネットワークを立ち上げ今では大都市圏を結ぶネットワークを築いたテレビ東京系列が形成されました。

 

また民放FMラジオでも1980~90年代にかけて全国で民放FM局が開局すると、JFN(ジャパンFMネットワーク)やJFL(ジャパンFMリーグ)などの全国ネットワークの本格的な整備がなされました。

 

 

【日本のローカル放送の歩み】

 

日本初のラジオ放送は東京、大阪、名古屋の三放送局で行われておりました。当初ラジオは中継回線が無く各放送局の番組は全てローカル番組でした。芸能番組を主としラジオ番組が組まれておりました。

 

1928年にNHKの全国中継回線が整備されると(今のNHKラジオ第1)、ローカル番組の割合は小さくなり東京からの全国ネットの番組がニュースを中心に増えました。

その後ローカル放送を希望する声が高まり1930年代半ばに地方のNHKでも各地の地方紙の協力によりローカルニュースの放送が始まりました。

1941年に太平洋戦争が始まるとNHKの放送も戦時体制となり全国ネットの番組が大半となります。しかし視聴者の希望からすぐにローカル番組の枠が増やされ、各地の放送局で芸能番組が作られました(時局ゆえに戦時色の強いものがほとんどでしたが)。

戦後のNHKは全国・ローカルの放送もGHQの管理下に置かれ「民主主義」をアピールすべく視聴者参加型の番組が作られました。

 

そして1950年に放送三法(放送法、電波法、電波管理委員会設置法*)が整備され、放送の「民主化」が行われました(*電波管理委員会設置法は1952年に廃止)。具体的にはNHKの公共放送化民間放送の解禁がなされ、日本の放送・表現の自由が正式に保証されたのです。

この時期からNHKは報道部門を自社で完結させ、独自の報道機関となりました。そして全国ネットの番組を東京から放送し、それ以外の時間は各地の放送局でローカル番組を放送するという今のような製作、編成体制になりました。

 

一方各地に開局した民放ラジオ・テレビは不思議な発展をしました。日本の民間放送は、放送法では各地域のみの放送免許(1960年代後半までは都市単位、1960年代後半以降は都道府県単位)を付与されローカル番組の製作を義務付けるなど、法制度上はローカル放送を強化することになっておりました。

 

しかし現実には民放ラジオ黎明期は大都市の放送局同士、あるいは各地方のラジオ局同士でネットワークを締結する例が見られました。ラジオ東京(今のTBS)とその他大都市の4局を結んだ5社協定や四国の4局を結ぶ四国放送同盟、福岡のRKB毎日放送と長崎のNBC長崎放送を結ぶKNS協定等が作られました。ネットワークは番組製作能力の小さい放送局がお互いにプログラムの充実を図れる有効な方法だったのです。やがてそれは全国ネットワークにも及ぶのです。

 

テレビの場合は特に顕著で、テレビ放送初期は東京キー局や大都市のテレビ局以外の地方テレビ局はローカル番組の製作をニュースや天気などの生放送番組に限っておりました。テレビ番組の製作にはセットや設備など多大なお金がかかり、俳優の手配などで地方は圧倒的に不利だったからです。当時人気のテレビ番組はドラマやスポーツ中継でしたが、これらは東京や大阪などの大都市が製作において圧倒的に有利でした。そのため地方局は人気コンテンツの確保のためローカル番組よりも全国ネットの番組を放送したがったのです。

 

しかしその後1950年代後半より高度経済成長期に入ると地方から東京など大都市への激しい人口移動が起こりました。地方の過疎化問題は顕著になったのです。そのため各地方で自分の地域の情報へのニーズが高まったのです。また公害も各地で発生し四大公害水質汚染、大気汚染、騒音などが日本各地で起きました。そこで一国経済や企業の利益追求とは異なる住民の視点への関心が高まりました。

 

これがラジオやテレビのプログラムに反映され、各地の放送局では地域の情報番組や報道番組を拡充する動きが多く見られました。一例として、青森のRAB青森放送では1970年より朝にローカルニュース「ニュースレーダー」の放送が始まりました。当番組では地域のニュースや情報、天気予報を幅広く放送しました。そして番組内では他県に住む青森県出身者へのインタビューコーナーも存在しました。当時の青森県は大都市への人口流出や冬の出稼ぎが多かったのです。そんな県外の青森県人の声をローカルのプログラムで採用したのがこの番組でした。

この番組は地域の人々のためのローカル番組として放送業界にインパクトを与え、福島や千葉、富山、徳島、高知などで同種の番組が製作されました。

(*この「ニュースレーダー」はその後1977年より夕方の枠に移動し現在も放送されております。)

 

その後1973年の第一次石油危機後は急速にその動きが強まり、ローカルテレビ局ではローカルのワイドニュースやドキュメンタリー番組NHK民放共にどこの局でも製作が始まりました。特に夕方のローカルニュースはこれまで5分程度だったものが一気に20分や30分に拡大しました。

 

民放ラジオでは1960年代後半よりテレビに聴取者を取られました。そのためラジオはテレビとの差別化のため、これまで短時間の番組を多彩な種類で多数放送していたのを、長時間のローカルの生放送の情報番組に変えました。その際には各放送時間帯のコアとなる聴取者層(例:昼→主婦、深夜→若者)に焦点を当てた番組製作(これをセグメント戦略と呼びます)がされました。全国ネットでも「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)の製作が始まったのもこの時期でした。

 

その後1980年代からはテレビのローカル放送のバラエティ番組の製作が始まりました。時間帯は主に深夜でした。毎週放送もあれば、平日毎日放送の番組もありました。福岡のKBC九州朝日放送の生放送バラエティ番組「Duomo(ドゥオーモ)」等がこの時期より放送が始まりました。

このローカルバラエティ番組には後に全国でも放送されたものがあります。北海道のHTB北海道テレビの「水曜どうでしょう」は、1996年から製作されましたが、出演者やスタッフによる自由な発想による企画をチープなスタイルでロケ・編集し放送しておりました。この番組は北海道ローカルでしたが後に全国の他局でも放送され全国的に人気になり、放送終了後も伝説的な番組として有名になりました。

 

その後テレビはネットとの競争に入りやがてマルチメディア時代に入りますが、その中で全国、ローカル共に長時間の情報番組の製作が始まりました。これはかつてのテレビ隆盛期のラジオ放送と同じ流れです。今や三時間以上の情報番組は珍しくありません。ローカル局によっては朝と夕方にそれぞれ三時間以上ローカル情報番組を放送することもあります。

 

またローカルのバラエティ番組を製作する動きも2010年代に入り再燃し、お笑い芸人などの芸能人を採用する番組が全国各地に見られます。これは2000年代後半までの激しいお笑いブームでデビューした沢山の芸人が、ブームの終了後全国ネット番組のみならず地方局のローカル放送にも営業をしているという背景もあります。

 

このように近年のローカルテレビ放送は地域情報番組の拡充ローカルバラエティ番組の製作というムーブメントが伺えます。

 

 

【日本と外国の全国ネット】

 

日本の全国ネット放送は、NHK東京放送局を中心に、民間放送は東京のキー局などを中心に行われております。

 

日本で初めて全国ネット放送を行ったのはNHKですが、当時より今のようなネット体制となっておりました。NHKの全国ネットのトップはNHK本部にある東京放送局ですが、さらにその下に各地方毎に地方内ネットの中心を務める「拠点放送局」があります。(関東甲信越地方は東京放送局の管轄です)そしてこの拠点放送局の下に各都道府県毎の個別の放送局があるのです。

 

このためNHKのネットワーク放送の区分には、「全国ネット」「地方ネット」「ローカル放送」の3区分があることが分かります。

 

このNHKのシステムを民間放送のネットワークも踏襲し、東京のキー局をトップにその次点に各地方の基幹局があり(*)、その下に個々のローカル局が存在します。

(*民放の基幹局とその管轄地域はそれぞれのネットワーク毎に割り振り方が異なります。そしてその時々の事情(ネットワークからの離脱や新局の開局など)で変更されることもあります。)

 

これはイギリスの公共放送BBCのネットワークのシステムによく似ております。イギリスもロンドンの放送センターによる全国ネットをトップに、様々な段階でのネットワークの区分けを想定し、一番基底の部分は各放送局のローカル放送となっております。

なおイギリスは日本と異なり海外領土や旧植民地(コモンウェルス各国)を擁し、そこでもBBCは放送を行いネットワークを結んでおります。そのためBBCは複数局ネット/ローカル放送の区分を日本の3つよりも多い6つ設けております。

 

一方でこのBBC型と異なるのがアメリカの放送ネットワークです。アメリカのネットワークは加盟局は全てローカル放送局であり、ネットワークの元締め業務に専念する会社はそれらと別に存在します。全国ネット番組は各加盟局や番組制作会社により製作され、ネットワークの元締めにより各局に配信されます。アメリカの民放ネットワーク(地上波放送)は主にNBC、ABC、CBS、FOX-TV、The CW TV network があり、公共放送ネットワークはPBSがあります。このシステムはイギリス初の民放テレビ・ITNネットワークも採用しております。

 

またヨーロッパの放送局は公共放送民間放送問わずほとんどが全国を放送エリアとしております。ローカル放送用のチャンネルを除けばそれ以外は全て全国ネットのチャンネルと言えます。(日本のNHK教育テレビみたいなものです。)

ドイツのARDドイツ公共放送同盟は、ヨーロッパでは珍しく、各州毎に公共放送局が別個に作られそれをネットワークで結ぶ形がとられます。これはかつてのナチスが全国放送でプロパガンダ放送を行ったことへの反省から、ドイツ連邦政府が放送に介入しないこのシステムがとられているのです。

 

 

 

【日本とアメリカのローカル放送】

 

日本で公式にローカル放送局の考えが示されたのは1951年の民間放送解禁の時でした。

それ以前はNHKが日本唯一の放送局であり、日本全国の放送を一元的に行い電波という有限の資源を有効活用する方針でした(この方針は1926年に当時の犬養毅逓信大臣により定められたものでした)。

ですが第二次大戦後のGHQ占領下の日本で「放送の民主化」を行うにあたり、民間放送の解禁が唱えられ、それはアメリカ的な民放のローカル放送のやり方を踏襲することになりました。そしてそれは放送法に盛り込まれることとなりました。

 

このことから日本のローカル放送の考えが民間放送の指針として示され、それはアメリのローカル放送の考えから来ているのです。

 

ではアメリカのローカル放送の実態はどうだったのでしょうか。

 

アメリ1920年代にラジオ放送が始まりました。当初ラジオは誰もが参入可能でしたが混信や番組の低俗化をまねき、政府による調整や規制が本格的にしかれました。

その規制内容は様々ですが、その中に地域のローカル放送を行うことも盛り込まれておりました。地域のニュースや情報、文化を扱う番組の製作が求められました。

そしてそれを行うローカル局は放送エリアが概ね都市圏や郡単位に近いものとなっておりました。すなわちアメリカは事実上の一まとまりの地域をローカル放送の単位としたのです。

これは今の日本の放送局の実態と異なります。日本のテレビ局やラジオ局は、コミュミティ放送局やケーブルテレビを除き、都道府県をベースに放送エリアを定めております。元々政府では日本の放送局は「都市とその周囲の地域」のエリアで放送を行うことを想定しておりましたが、1960年代までに「都道府県」をベースに放送局のエリアを決める方針に切り替わりました。

 

そのため日本のローカル放送はアメリカの放送をベースにしつつ地域コミュニティを志向する一方で、その地域コミュニティが行政の区割りに当てはめられるという矛盾を抱えているのです。

 

それに日本とアメリカでは全国ネットのやり方が異なります。日本では全国ネットの元締めを東京のキー局が行うことが事実上決まっております。そして全国ネット番組の大半はキー局製作で、全国ニュースもキー局製作です。

一方でアメリの全国ネット(NBC、ABCなど)は元締めを行う会社が放送局とは別に存在しております。全国ネットの系列局はすべてこの全国ネットの元締め会社の元にあるローカル局です。これはニューヨークやワシントンD.C.、シカゴ、サンフランシスコなどの重要都市にある放送局も同じです。全国ネットの番組は各系列局や番組制作会社の製作したものを元締めが全国に流します。(全国ニュースはニュース番組製作会社が作ります)

 

このため全国ネットにおける日本のキー局地方局のシステムは、アメリカの全ての系列局がネットワーク会社の元でローカル局であるシステムと異なるのです。(余談ですがアメリカのネットワークのシステムは日本でも1969年にTBSがネットワーク統括会社を設ける案で検討されたこともありました。)

 

 

したがって日本のローカル放送はアメリカの放送を元に指針が定められた一方で、ローカル放送のエリアが地域のコミュニティから行政的な都道府県単位へと変化し、ネットワークの整備のもとで系列下のローカル局がキー局と地方局に分化するという現象が発生したのです。

 

 

【おしまいに】

 

今回のテーマも長い記事となりました。日本の全国ネットとローカル放送を見ていくなかでイギリスやアメリカの影響が強いのが分かりました。またはそこから日本独自の事情が生まれていくのが分かりました。

 

特にローカル放送の制度や思想はアメリカの地域コミュニティに向けての放送が由来なことは面白い事実でした。

今回は都道府県・地方を単位とした放送にクローズアップしましたが、実際は都道府県・地方の単位より小さな範囲の放送はケーブルテレビやコミュニティラジオなどがあります。そちらの役割も本来は詳しく語るべきなのでしょうが、それぞれ膨大な内容となり本題の外の内容も入るので今回は割愛いたしました。いつかそちらも時間があれば語りたいと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年12月17日

 

自民党ってどんな組織?

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は誰でも名前は聞いたことのある自民党自由民主党)の話をしたいと思います。

 

今年の衆議院選挙でも過半数以上の票を守った自民党でした。自民党は一時期を除けば半世紀以上にわたり日本の国政の第一党として続いてきました。

 

そのため政治思想がどんなであれ、この政党のことを意識せずにはいられません。

 

しかしこの政党がどんな成り立ちで、どんな力で続いているのかはあまり分からないところもあります。また自民党所属の議員が自民党を語るときの発言についても「ん?」となることもあります。

 

それでは今日は自民党について客観的な視点から語りたいと思います。


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自民党の現況】

 

自民党は1955年に結党され、以来66年続いている政党です。党の思想的立ち位置は保守中道右派と評されます。現在の主要な国政政党の中では最右翼とされます。

 


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図:自民党本部組織図(自民党HPより)

 

今の党組織について、組織のトップは「総裁」であり、衆議院において議席の大半を占める自民党政権下では総裁が総理大臣を務めます。総裁の次に来るのが「政務調査会長」「選挙対策本部長」です。総裁とこの2役を合わせて「党三役」と呼ばれます。党三役は自民党の幹部の中で有力なポジションとされます。

 

そして党組織の事実上の2番手は「幹事長」です。幹事長は組織のヒエラルキーでは総裁の下に当たりますが、総裁は自民党政権下で総理大臣の務めに専念するので、事実上の党トップの実務は幹事長がずっと代行するのです。(総裁の代行ポジションとして「副総裁」がありますがこれはあくまで非常時のポジションとされ、平時では幹事長が実務を務めます)

 

この自民党には公式の党組織とは別に「派閥」が複数存在します。派閥は派閥内での意見統制人事調整資金協力教育活動などを行っております。自民党に派閥は大小様々存在しておりますが、この派閥の動きは党内の意思決定や自治に強く関連します。先程の党組織の人事にも派閥の影響は表れます。

そのためニュースや報道、言論で自民党を語るときには党組織と合わせて派閥の動きにも着目されます。

 

自民党は今日では公明党連立政権を組んでおります。連立政権とは単独では政権をとれなかったなどで、複数の党同士が政策や内閣人事などで協調してまるで一つの党のように運営する体制を指します。自民党公明党は主に互いの手の届かない固定票を獲得するために1999年より連立政権を組んでおります。

 

 

自民党の歩み】


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写真:自民党結成大会(1955年)

 

自民党は1955年にこれまでの「自由党日本民主党が合体して誕生しました。この二つの政党は思想は共に保守(日米安全保障条約に賛成)の位置付けでした。このような保守2党の合体は当時国会の最大政党で革新派政党であった日本社会党(現在の社会民主党)に対抗するためでした。この時から自由民主党は日本の国会の最大与党としての長い道を歩み始めました。

このときの自民党は旧自由党や旧日本民主党からの派閥が存在し、各派閥の発言力が強い状況でした。そのため自民党は党組織の影響力が弱く、党組織が派閥に従うという状況でそれは1990年代まで続きました。

 

自民党は結党の1955年から1993年まで単独第一党の地位を守りました。この間に自民党出身の総理大臣は日本の国連復帰や高度経済成長下での国民生活の向上などの功績を築いてきました。

 1973年には第一次オイルショックが起き、当事与党であった自民党は速やかな対応に追われました。この時に活躍したのが各省庁大臣経験者とその派閥の議員で形成された族議員でした。族議員は、縦割りで対応の遅い各官庁に代わり、党内での調整により事実上の速やかな一体的な官庁運営を実現しました。この族議員派閥は1990年代まで強い存在感を持つことになりました。

 

その後自民党は1976年に発覚したロッキード事件に続き、リクルート事件(1989)や佐川急便事件(1992)といった収賄事件で政界は国民から信用を失いました。それを受け当時の政権は政治改革に手をつけましたが党内の反発から廃案が重なり上手くいきませんでした、そしてこの時期に党幹事長を勤めた小沢一郎氏らの一派が自民党から脱退新生党を作りました。

そして1993年に内閣不信任決議により衆議院が解散され衆議院選挙が行われ、自民党は野党へ転落しました。

 

その後小規模の革新派の政党による連立政権が与党となった後、各政党の度重なる連立解消と、政権の短期での首相交代が相次ぎました。その中で1994年、自民党は旧社会党やその他の政党と連立して与党に復活しました。

 

その後1996年の選挙で自民党は再び議席過半数を取りましたが、自由党新生党との連立は続けました。

この頃政治運動家出身の菅直人氏らによる民主党が新たに結党され、有力な野党第一党として力をつけてきました。

 

この時代はアジア通貨危機や金融ビッグバンなどの経済政策上の問題が政治の場で上げられ、自民党出身の橋本総理などが首相官邸や内閣の力を強める改革を行いました。そして1999年、自民党公明党と連立政権を築きました

 

その後2001年に小泉純一郎政権が誕生すると、小泉氏はこれまで派閥や族議員の強かった自民党を党組織自体として強くする党内改革を行いました。これにより派閥同士の合議による人事、意思決定から党組織のヒエラルキーによる政策意思決定へと移行したのです。

 

しかしその後は第一次安倍晋三政権から麻生太郎政権まで閣僚や議員の不祥事失言が相次ぎ、2009年の選挙ではそれまで野党第一党であった民主党に打ち破られ、再び自民党は野党になります。

 

二回目の野党時代、自民党公明党との連立を維持し両党の一体的な政策意思決定機構を確立し、闇の内閣として政権奪還を目指しました。

 

そして東日本大震災のあとの2012年の衆院選挙で自民党単独過半数を取り、公明党と共に与党に返りました。同時に安倍晋三が再び総理となり2020年まで総理に就きました。この時代はアベノミクスや安保政策など右派色を積極的に押し出しある一定の保守世論を引き付けました。

 

そして安倍、菅、岸田政権を経てコロナ禍の最中での2021年の衆院選挙では、議席過半数を守り与党としての地位を守りました。

 

このように自民党は結党以来66年もの間、一時期を除き政権第一党の地位を歩んできました。

 

 

自民党の特徴】


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写真:自民党執行部(2021年10月1日)

(自民党HPより)

 

自民党は長らく政権を担ってきた政党ですが、その性格やパワーの源についてはあまり知られておりません。

 

自民党は国防、生活、経済政策などで保守よりの政党ですが、単純に保守思想・政策で一丸となった組織ではありません。

 

それではこれから自民党の性質と強さについて語ります。

 

 

①派閥政治

 

自民党には結党以来派閥が存在しています。この派閥はニュースでも報じられます。どんな派閥があるかはWikipediaの「自由民主党の派閥」(https://ja.wikipedia.org/wiki/

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2021年11月現在で有名な派閥は清和会(清和政策研究会)、志公会宏池会平成研究会(旧・田中派)があります。安倍晋三氏は清和会、麻生太郎氏は志公会岸田文雄氏は宏池会に属しております。

 

それでは自民党内での派閥はどんな組織でしょうか。

 

まず現状の派閥の機能は、自民党員の教育・指導、派閥内の政策・意見の統一、そして親睦会の機能を有しております。党に入って日の浅い新人党員に党での活動や議員としての活動の仕方を指導するのは派閥の先輩党員です。派閥に属する党員の相談を受け付ける機能があります。政策決定では派閥内で意見を統一するという機能があります。また派閥内での党員の交流も親密であり、国会では同じ派閥の党員と交友関係が築かれ、派閥での交流イベントもあります。

この事から今の自民党の若手議員・党員は派閥に所属することが多いのです。

 

また派閥のうち清和会は自民党内でも政策的により右派的で、それに同調する議員や党員が清和会に属することが多いです。

そのため一部の派閥ではより右派のイデオロギーに共感するもの同士の集合として機能しているのです。

 

これは2021年時点での派閥の実態ですが、本来の派閥はどんな機能を持っていたのでしょう。

 

元々自民党の派閥の機能は4つありました。

(1)所属するメンバーの政治活動資金の融通

(2)内閣や党幹部の人事上の派閥間調整

(3)党内の意思決定上での派閥代表の送り込み

(4)中選挙区選挙での同士討ちの回避

 

元々自民党は2つの異なる政党から成り立ち、それぞれの党出身の党員を自民党内で円滑にまとめるために上の役目を持つ派閥が出来たのです。

 

(1)は政治活動資金という金銭面の話です。政治活動では事務所代や人件費、広告費など沢山の費用がかかります。選挙では選挙活動でより費用がかかります。その費用を提供するのは派閥の代表でした。派閥の代表はメンバーを金銭的にサポートし、中には毎年夏と冬にそれぞれ数百万円の「小遣い」を与える場合もありました。

 

(2)は内閣や党内の人事の話です。自民党政権下では自民党総裁が総理大臣につくことが慣習です。

総理大臣は行政のトップの内閣の代表で、総理大臣が各省大臣を指名します。では総理大臣かつ自民党総裁はどのようにして大臣を選ぶのでしょう?

かつては自民党内の各派閥から満遍なく採用したのです。これは十数ものの大臣の椅子に派閥枠があるようなものです。これは自民党内の幹部組織でも同じで、各派閥から幹部を採用しました。これにより党員間での人事争いが熾烈になることを避けているのです。

しかしここ数十年は同じ派閥のみで組閣や幹部人事を決めたりまたは無派閥議員を登用したりと、必ず派閥間調整がなされるわけではありません。

 

(3)は自民党全体の意思決定の話です。自民党は派閥の力が強大で総裁を含む党幹部の発言力は弱いものでした。そのため党の意思決定は派閥間合議により定める必要性がありました。各派閥の代表が閣僚会議などで合議を行い、それが自民党の意思となったのです。自民党の保守的な部分がにじみ出ております。

しかし橋本~小泉政権での内閣の機能の強化や党組織の強化により、いまは以前に比べて派閥がものを言う状況ではありません。

 

(4)は議員選挙の話です。今とは異なり昔の国政選挙は一つの選挙区から2人以上の議員が選ばれておりました(中選挙区制)。そうなると一つの選挙区に複数の党員を候補者として送り込む事が選挙にとって有利となります。

しかしこれは同じ自民党員が激しい同士討ちをする可能性がありました。そのためそれを回避するため実際には派閥間で話し合い出馬する候補者を調整しておりました

 

ご覧のような4つの機能を自民党の派閥は有しておりました。しかしこれらの機能は収賄の横行や金権政治の防止のための1993年の選挙制度改革や、橋本~小泉総裁による官邸や党組織の強権化という党内改革により喪失いたしました。

しかし、このかつての自民党の派閥の性質は現在の自民党の党員から語られることも少なくなく、今でもそれを希求する党員もおります。このかつての自民党の派閥の性格を把握することは政治のニュースを理解するための助力になるかもしれません。

 

 

②党地方組織と後援会

 

選挙の時のメディアや学者などによる分析でよく言われることは、「自民党は地方に強い」ということです。

 

それは各選挙区から選ばれた議員の所属政党を見れば一目瞭然です。地方部では自民党の議員が選ばれている事が多くなっております。一方で大都市などでは立憲民主党などの革新派政党や無所属の議員が多くなります。

2021年の衆院選挙でもこの傾向は現れました。(https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/shugiin/2021/)

 

これは自民党保守的な政策を支持する保守層が比較的地方に多いことも理由に上げられます。ただ、それだけではなく自民党が地方の党都道府県連合会を通じて、地方の名士と呼ばれる人物を積極的に党員に迎え入れてきたことも理由となっています。

 

都道府県連は自民党の下部組織であり、地方機関であります。そのため一見すると地方は党本部から見て立場は下のように思われます。しかし実際には都道府県連は地方の代議士の事務所・後援会と同居している例が少なくなく、その代議士が地方の名士であることは珍しくはありません。

 

地方の名士というのは地方議会の代議士であったり、地方の有力企業のオーナー医師や弁護士など地域での生活に密接に関わる事が多いです。安倍晋三氏は代々山口県下関市を地盤とする国政議員の家系で、岸信介元首相と安倍晋太郎元議員を祖父・父に持ちます。

麻生太郎氏は福岡県筑豊で鉱山やセメント業を経営してきた家の家系に属し、現在もその家族は会社の経営を行っております。

 

こうしたことから地方の名士は地元での支持を集めやすく、選挙の候補者となれば圧倒的な集票力を持つのです。故に地方の名士が議員となるときの後援会は盤石で有力な組織となります。自民党都道府県連を通してこの後援会の協力を仰ぎ揺るぎない得票力を得ているのです。中には後援会が都道府県連の人員と一致する場合もあります。

 

これは自民党の生命線と言ってよい部分です。かつて自民党は2回の下野を経験しましたが、その時でも地方組織が強い地区では手堅い勝利を得ました。

自民党は揺るぎない地方組織のパワーにより逆境で踏ん張れるレジリエンスを持ちます。故に自民党の強さは与党であるときよりも、野党となった時に発揮されるといえるでしょう。

 

 

公明党との連立

 

現在自民党公明党連立政権を組んでいます。これは1999年から始まり、野党時代も連立しておりました。なお連立とは二つ以上の政党が政策を一致して立案する状況を差します。自民党公明党は選挙ではお互いの党の候補者を推薦したりと選挙対策では一体となり動いております。

 

では、自民党はなぜ20年以上も公明党と連立政権を結んでいるのでしょうか。

 

まず最大の理由は公明党の都市部の固定票を利用することでした。

自民党は地方に強い政党ですが、都市部では左派政党や無所属候補者相手に苦戦しております。都市部は人口の流動が激しく、地縁の強い人が比較的少ないからです。

 

一方で公明党は都市部である程度固定票があります。それは公明党の元々の設立母体であり、第一の支持母体である宗教団体・創価学会の信者が都市部に多数いるからです。

創価学会は日本で最大級クラスの新興宗教団体ですが、創価学会は高度経済成長期に地方部から大都市に移り住んだ人々を中心に信者を大幅に増やしました。そのため創価学会の信者は大都市に集中しているのです。故に公明党は都市部に強いのです。

 

その公明党自民党の関係ですが、長年野党であった公明党は与党・自民党とは対立関係ではあったものの、政策によっては自民党と連携することがありました。

1972年の日中国交正常化では、決定的な場面では田中角栄氏ら自民党が中心に動きましたが、そこまでの中国政府との交渉や下準備、段取りは中国とのコネクションを持つ公明党創価学会が積極的に活動しました。

また公明党創価学会関連や市民生活、対中政策以外の政策では特に強いこだわりはなく、そのときの状況で姿勢を変えておりました。

このような付かず離れずの関係を続けてきた自民・公明はお互いの不得手の部分を補完しあうために連立するには手放せない相手でした。

 

そして現在では自民・公明で政策を決定し実行する体制が確立し、両党にとって分かちがたい関係が築かれております。

民主党政権時代はこの二党は共に野党でした。ただその時点で連立から10年近く立ち、連立のノウハウの確立や利害調整、両党のそれぞれ支持者からの信頼もあり、連立は続けられました。

そしてそれは今日でも続き、自公連立政権は一つの政党のように機能しているのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

今回は自民党の解説でした。この記事はニュースや書籍を参考に記させていただきました。

自民党はこれまで長い期間国政与党の地位を保ってきた党です。自民党の支持者、非支持者どちらからもよく知られる政党です。自民党に関するニュースや評論は各所より沢山出ております。

 

その上でこの記事は自分の主観や意見を排し、客観的な情報をまとめたつもりです。そしてWikipediaやネットニュースで分かることは説明を省略し、それだけを見ても分からない所を強調して書きました。それも子細を記すよりは短めの記述でとどまるようにまとめました。

もっと自民党や政界について知りたい人はネットや書籍で調べられることをおすすめいたします。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年12月5日

【読書感想】「日本教の社会学」小室直樹・山本七平


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こんにちは、ずばあんです。

 

本日は山本七平小室直樹の共著書「日本教社会学」(1981)の読書感想です。

 

共著者の紹介ですが、まず山本七平(1921-1991)は評論家、作家であり出版社・山本書店の創業者でした。山本はクリスチャンや保守論客の立場で言論活動を行っておりました。本書では若いときの従軍経験についても詳しく語ります。

小室直樹(1932-2010)は東京大学出身で経済学などの社会学系統に篤い学者です。保守論客として言論活動も行い、ソ連崩壊を十年以上前から予測していたという功績があります。

 

この本は日本人の宗教観、道徳観を諸外国のそれと比較しつつ述べます。「日本教」とは共著者のひとり山本七平が作った言葉で、日本人の精神において、西洋人にとっての宗教と同じ役目を果たすもの・構造を日本教と呼びました。この「日本教」が何であり日本社会をどう作っているのかを山本七平小室直樹が対談形式で語ります。

 

【内容】

内容は日本人の政治観、宗教観、経済観の3部にわたり紹介されます。

 

[I]

 

まずは日本の現在(1981年当時)の政治、経済、社会がヨーロッパ等の「民主主義」とはかけ離れている点を指摘します。欧米での民主主義はすべてが契約により強く拘束され、法律や労使関係、ビジネスの取引はまず契約のほか口出しできません。一方で日本ではまず合議・コンセンサスが第一とされ、その場での空気が決定事項となるのです。たとえ契約を結んだとしてもその内容はその場での判断や合議に委ねることが前提となっております。

 

続いて戦前戦中の日本が「軍国主義」の実態とかけ離れている点を指摘します。軍国主義ではアメリカ軍を代表に、軍隊は厳密なヒエラルキーや規律の元で組織運営されます。社会における物的・知的リソースも軍隊の作戦のために動員されます。

一方日本軍は上官の命令とは別にその場での合議や独断が重視され、加えて公式な階級とは別の「在籍年数」等による年功序列が事実上のヒエラルキーとなっておりました。そのため組織内の上意下達が上手くいかない構造となり、結果として第二次世界大戦を止められなかったとしております。

 

[II]

 

そこから日本人にとっての真の宗教、すなわち「日本教」を分析していきます。

 

世界には宗教が沢山ありますが、それらは宗教の信者たる資格により2種類に分けられます。

その資格の一つは遵法です。宗教の聖典に決められている具体的な行動規定に従うことが信者の資格となります。例はユダヤ教イスラム儒教などです。もう一つは信心です。これは聖典で語られる神の神性を心より信頼することです。これは精神的な要素であり常に内心を問われます。例はキリスト教仏教です。

では日本教の場合は何かというと、「実利」になります。神とは何か実利をもたらすものであり、それがないならば神との関係を切ったり別の神と結ばれたりします。日本では仏教式で葬儀・法事をしますが、地鎮祭や各種祈願は神道式、結婚式はキリスト教式、家族様式や官僚機構は儒教などそれぞれ「実利」に基づき神と関わります。そして実利が得られず損害ばかりを被るとき「神もくそもない」となるのです。

 

各宗教には信者に絶対的に課す事柄として「ドグマ」があります。イスラム教の場合は「信仰告白」「聖戦(ジハード)」(*)などがそれです。キリスト教の聖書にもドグマは存在しております。

そして日本教におけるドグマは「空気」です。「空気」はその場での合議や判断、または人間関係のしがらみなどで生み出されます。日本教ではこの「空気」がドグマであり、空気を読み従うことを日本教の信者に強く強いるのです。

そしてその空気に反する現実「実体語」に対して空気を代表する「空体語」が強く語られるのです。

(*聖戦「ジハード」はムスリムイスラム教を代表して戦うことを意味しますが、それは武力戦闘に限りません。商売や学問などでの競争に打ち勝つこともジハードに当たります。)

 

通常宗教では救済儀礼(サクラメント)というものがあります。これは宗教理念から外れている者を宗教の内側に包摂するための儀礼のことです。

日本教における救済儀礼とは、あるがままの「自然」に任せる「本心」の気持ちを大切にし、それを告白することです。「建前」というのは自然に反する人為のことと考えられます。そして建前(人為)より本心(自然)を尊ぶ精神を「純粋」と呼ぶのです。

なお組織で在籍年数の長い者を尊ぶ年功序列もこの「自然」に含まれ、それを尊ぶことが「純粋」とされます。

そして許しを請うとは、日本教では年功序列や本心を尊び告白することを指します。

 

宗教における神議論では、神とは「カリスマ」を備えたものとされます。カリスマの根拠は一神教ではこの世界を創造し、奇蹟を起こし、終末の日に信者を救済することです。仏教では、仏陀や菩薩という神とは異なる者ですが、悟りの境地に至り解脱の法を解くことがカリスマとされます。

日本教におけるカリスマとは、空気を作ることが出来ることです。日本人が抗えないドグマとしての空気を作れる「鶴の一声」を発せる者がカリスマを備えているのです。

 

キリスト教イスラム教には原理主義(ファンダメンタリズム)が存在します。これは原典や原初の教えが真の考えだと考えるものです。仏教はブッダの教えの体系に基づく経典を皆等しく聖典と扱うので論理的には原理主義は存在しません。

日本教には聖典は存在しませんので原理主義はあり得ないようでしょうが、一神教原理主義者のメンタリティとの構造と一致する部分はあります。それこそ「その場の空気」であり、その時に居たものしか分からないような空気を真実と考えるのです

 

[III]

 

ここからラストパートとして、欧米の資本主義社会とは異質な日本社会を語ります。

 

欧米の資本主義キリスト教の考え方に基づき発生しました。キリスト教の新教徒プロテスタントは聖書の教えを重視し、聖書の「予言説」(誰が救済されるかは最初から慈愛の神が決定しているという考え)に基づき、自分が救われる者の一人であることの証明として自分の職業に注力しました。実はそれまでキリスト教(旧教カトリック)社会では労働は汚れたものとされそれよりも教会信仰が尊ばれてたのです。プロテスタントはそれに対抗しその告白として労働に勤しんだのです。そしてプロテスタントの行動はイギリスで産業革命を起こし、その影響が欧州等に伝播し資本主義社会を形成したのてす。

日本にも明治の頃にその影響が及びましたが、労働や職業を尊ぶ思想は古来より日本にありました。そのため労働に旧来の思想の打破と真実の証明という考えが無く、むしろ伝統的で保守的な行いと考えておりました。ここで欧米とのねじれが生まれ、日本式資本主義の独特な要素が生まれたのです。

 

また日本の資本主義の特徴として、共同体企業と一致している点です。共同体とはそのメンバーが人間として生きていくための集団のことです。ただ生計を立てるのみならず価値観や帰属意識、社会的なアイデンティティなど人間性を形成する場が共同体なのです。

第二次大戦前の日本では農村や地域のコミュニティが共同体の役割を担っていました。しかし戦後はそれが崩壊し、高度経済成長期以降は新卒採用や終身雇用制の成立から企業が共同体の役割を持ち始めました。

 

また、今の日本社会は明治維新からスタートしておりますが、その明治維新を引き起こしたのは儒教学者の浅見絅斎(あさみけいさい)(1652-1712)の思想でした。

儒教は江戸時代の徳川幕府朱子学を主にして、幕政を正当化し強化する目的で採用しておりました。なおこれは本来は中国の思想であり、徳川幕府でもそのまま改めずに使用しておりました。

その中で異彩を放った儒学者浅見絅斎てした。浅見は徳川の時代に朱子学が強い中で、「正統の王朝」に忠義を尽くすというオリジナルの儒学を唱えました。これは「正統の王朝」すなわち天皇家への忠義を尽くすという考えに繋がりました。浅見の思想は18世紀から起こった、日本古来からの日本人らしさを問う国学に影響を与え、幕末には尊皇攘夷志士の教養となりました。

すなわち浅見の唱えた「正統の王朝」に忠義

を尽くす儒学思想は日本のナショナリズムひいては明治維新という近代国家日本の興りの根源となったのです。

 

〈終わり〉

 

さてここまでが「日本教社会学」の内容でした。山本と小室の対談ですが、その言葉や内容は一つ一つがとても濃密で複雑に絡み合うものでした。しかしどれも日本人の精神について的確に分析しており、文章の内容にどの部分も惹かれました。

 

日本人の精神的支柱が何であり、それが今の日本の社会や経済、政治をどのように作っているのか、そして日本人たる自分はどんな人間か、それを知りたい方々にはうってつけの本です。

 

 

【感想】

 

 

この「日本教社会学」は私の自分探し、そしてこれからの自分を探る上で重大な内容が沢山つまっていたと思います。そしてそれまで何者にも証明されなかった自分のあり方や気持ちについて見事に書き記してくれたと思います。

 

それでは以下は項目に分けて感想を述べていきます。

 

 

①呪いの民日本人

 

おどろおどろしい項目タイトルですね(汗)

 

この呪いというのは、自分のなすことや思うことに自分の想いもよらない力が働いて自分や人に影響を与える作用のことです。言霊や因果応報とかはそれを代表しております。

日本社会においてはこの「呪い」というのが根強く存在している気がします。社会的に重要な事柄について議論を拒んだり発言を封殺しようとするような「臭いものに蓋」をしようとする風潮があります。発言そのものに魔力があり災いをおびき寄せるのだと言わんばかりの考えです。

また、ある不祥事を起こした人間と関係を持った人々に対しても連座で制裁しようとするきらいもあります。それは家族や親友ならまだしも、同僚や取引先というビジネスの関係にも問われます。なぜそこまで制裁を加えなくてはならないのでしょうか。これはいじめっこが「こいつの呪いが移った~」というメンタリティとあまり変わらないと思います。

 

それらは日本人の生き様が呪いそのものだからと思います。日本は災害多い国です。地震や噴火、台風、大雨、大雪など、世界でもこれ程多種多様の災害に度々見舞われる国はありません。一方で四季の循環や潤沢な水資源から豊富な生態系に恵まれた国でもあります。

そのため日本人には災いと恵みを共にもたらす環境に対応すべく自然に従順で穏やかな精神性が育まれました。

これは言わば解けない呪いを日本人の生活に取り入れているようなものです。この呪いに殺されるか生き残るかは自分の自然への従順さ故で、従順であることが至極とされたのです。そしてその結果生き残り救われることが従順の証とされたのです。それでは救われない人の場合は・・・言うまでもありません。

 

日本人は自然から呪われながら自然に従順な民として、呪いを正当化しているのです。

 

 

②日本人の神と悪魔

 

自然の呪いを引き受けて生きる日本人にとって神とは「実利」であると本書で説明されました。実利をもたらせば元が悪魔であろうと神になるのです。呪いを正当化する引き換えとして神に実利を要求しているのです。

しかし実利をもたらさなければ元が神であろうがなんであろうが悪魔になります。失敗や不幸、惨めな死に直面したものは、実利をもたらしてこその神から見捨てられたり殺されたりしたものとみなされます。

つまり神、すなわち世界と個人の繋がりは成功したり幸福であるときにのみ存在し、失敗や不幸なときは神から軽蔑や殺意を向けられているということになります。

 

これは西洋とはかなり異なります。西洋のキリスト教には試練という考えがあります。試練とは全知全能の唯一神が人間を大いなる恩寵へと導くために用意した道です。試練を受ける信者の伝説は聖典の「ヨブ記」でも語られ、キリスト教徒にとって困難や苦難は神からのご加護を意味するのです。すなわちキリスト教では人生での転落を神からの切り捨てとする考えがないのです。

 

一方で日本では失敗や転落、苦難は実利の神から地獄に落とされたのと同じこととなります。因果応報論ではこれは本人の過去の行いの結果だとされることが多いです。ですが先程の日本人の神様観の分析では、成功した人間の人生を「後付けで」ご加護したこととなり、そうでないものは相変わらず見捨てられ続けているのです

 

すなわち日本人にとっての真の悪魔は実利を与えないものではなく、実利を得たものに便乗して善悪をより分ける人々なのかもしれません。そしてその人々により担がれ寄生している「神様」も同様なのかもしれません。

 

 

③カルト宗教に惹かれる日本人

 

では日本教により地獄に落とされた棄民はどこへ行くのでしょう。

 

一つはカルト宗教へ入信する道です。カルト宗教とは反社会的な組織と認定される宗教および宗教団体のことです。このカルト宗教は社会により意味が変わってきますが、キリスト教圏やイスラム教圏ではその地の宗教の教義に反する宗教団体のことです。

では日本教の国・日本ではどうなるかと言えば、それは実利が生まれない宗教になります。実利というのは経済活動のみならず、政治やコミュニティなど多岐にわたります。それが無い宗教はカルト宗教となります。

 

ただ実利というのは後付けでついてくるものであり、得するときもあれば損するときもあるのです。だから本来日本教において全ての「宗教」はいつ「カルト宗教」になってもおかしくはないのです

 

カルト認定されそうな宗教は「神の名において」実利を追求するようになるのです。そして窮地に追いやられ神から見捨てられそうになると、オウム真理教のように無茶なことをやるのです。

 

ただ、これは教団のみならず日本人一人一人に言えるのです。社会に実利をもたらせる人間でなくては神様から見捨てられ殺されるという懸念を日本人は持っているのです。日本は自殺率が高い国と言われておりますが、それはこの日本教の宗教観が一因なのではと思います。

 

そして最近では「無敵の人」「ジョーカー(*)」などと言われるように破滅思考を持った人による犯罪がニュースで報道されております。これは実利の神から見放された人々の姿だと思います。

(*2019年のアメリカ映画「ジョーカー」の主人公のピエロ。元はアメリカの漫画「バッドマン」に出てくる悪役。2019年の映画で、ジョーカーは不遇の立場からピエロになろうとするも、世間からの冷酷な仕打ちから世の中に復讐を仕掛ける悪人になる。)

 

いつ見放すかも知れない名もなき日本教への信仰と、名もなき神から見放された人々のカルトへの信仰、一体どちらがカルトなのでしょうか。

 

日本教から見捨てられた人のもう一つの道は無神論です。無神論は神の存在を否定し、宗教的意味から逃れることです。

これはキリスト教イスラム教に対してはスタンスがはっきりします。「世界を作り治め人々に救済を与えられる唯一無二の存在」を否定すればいいからです。

では日本教の場合はどうでしょうか。日本教は事実上の現象であり、教典や規則が明示されているわけではありません。教団があるわけでもないので誰かに宣誓できるわけではありません。しかも後出しでその存在を顕在化させる卑怯さがあります。

 

そのため無神論になっても日本教とは縁を明確に切れず、しかも粘着的に着いてくるストーカーのようなものなのです。

 

実態としては存在しながら身を隠し審判を逃れしかも粘着的に纏いつく日本教、我々の心に纏いつくこの宗教はとてつもなく恐ろしいものなのです。

 

 

日本教神話は本当に正しいのか?

 

日本教とは自然に従順で純粋であることを求め、その暁には実利を与えるという神話に基づき成立していますが、これは本当に正しいのでしょうか。

 

今日現在の状況を見ると災害の脅威はますます大きくなり、いつ誰が自然に放埒に殺されてもおかしく無いのです。熊本県球磨川流域では激しい洪水が起き地域に多大なる被害が出ました。そして東日本大震災熊本地震などの大きな地震はいつどこで起きてもおかしくありません。

 

また日本の経済状況は停滞している状況が続き、そのために弱者に負担の皺寄せが行く状態になっているのです。これは弱者が元から切り捨てられており、富めるもののみを神の御子としてきた日本教の狭量さ故なのかもしれないと思いました。

このような事態は日本教という実利に持ち上げられた宗教が社会公益に資するほどの力がなかったという皮肉でもあります。日本教はその存在意義が自己矛盾を孕むことになったのです。

 

また日本教神話は過去の日本史とも矛盾します。

日本は江戸時代の初期である17世紀中に人口が1500万人程から3000万人程に増加しました。(*)その理由は日本全国の低地や湿地が大規模開拓され、稲の耕作面積が急増し食糧の増産に成功したからです。その結果食糧に余裕が生まれ国民を養う力が増えたのです。

江戸時代に入るまで稲作は主に高地の棚田で行われていました。その後灌漑の技術が発達し関東平野越後平野濃尾平野筑後佐賀平野といった元低地湿地が広大な米どころに変貌したのです。これは自然の大改変が日本人の命の芽を増やしたという事実を示しております

(*なお江戸時代の人口は約3000万人まで増加した後頭打ちしました。これは人口増加のペースが食糧生産増加のペースよりも上回るという法則が原因で起こる現象(「マルサスの罠」)です。)

 

そして日本教の考えに近い考えに中国発祥の道教(老荘思想)という考えがあります。これは自然に従うという考えが東アジアにおいてある程度適していたことの証になります。しかし道教での自然の意味は、人間の手が入った管理された自然というニュアンスが入ります。これは日本教の、自然には手をつけない方がよいという考えとは異なります。それに当たり前ですが道教は「老子」「荘子」という教典があり、教典のない日本教とは異なります。

 

日本教に染まっている私としてはこの点は逃しがたい話です。

 

日本のこれまでの歴史において自然を残したり愛し、それに従順に暮らしてきたのも事実です。一方で自然を改良してより多くの命を救ったのも事実です。

では、日本教はどうでしょう。その事実は日本人の精神に包摂されなくてはなりません。

 

 

⑤日本人のための本当の優しさとは

 

日本人が本当に持つべき優しさとは何でしょうか。

 

「弱きを助け強きを挫く」という言葉がありますが、社会の強者と弱者は時が立てば変わるものですし、同じ個人でも局面が異なれば変わります。

また物質的な充実を図ることも必要ではありますが、ただそれだけでは心は癒されません。

 

私にとって日本人の心を癒す方法は、全ての人に差別することなく慈愛を送ることだと思います。日本教は強者に寄生し弱者を無視し時には搾取しますが、私はそれに対し全ての人に相手の素性に関係なく慈愛を振り撒くことが癒しになると思います。日本教が取りこぼしたものを拾うこと、それが優しさなのかもしれません。

 

かの哲学者ニーチェキリスト教を「神は死んだ」「弱者哲学」として批判し、そこから脱して何事にも動じない個人の「超人」の境地に至ることを説きました。しかし日本人の場合は逆にキリスト教的な優しさを取り入れることをした方がよいのかもしれません。実利の神の日本教だけではもたらし得ない概念がそこにあると思います。

 

⑥実利と信仰の分離

 

日本教のそもそもの問題点は信仰と成果主義が一体化している点にあります。そのため日本教は宗教として最初から機能不全に陥っているのです。

 

日本はますます格差が大きくなり、上流国民・下流国民という言葉が生まれるほどになっております。その中でこれまでの日本教は何もせず、逆に社会の分断に便乗しようとします。

 

そのため私たちは生活や日々の自己研鑽をしながらも、その外側にいる大いなる存在も意識しなくてはなりません。成果がなくとも信じられる、ご加護してくださる存在を確認しなくてはならないのです。

 

ではそれが何か?これは人それぞれの事情もあるので勝手に答えを提示するわけにはいきません。ただ、何か実利で繋がる存在が自分を見捨てる時、与えられないものがあると分かったとき、それが何なのか分かるかもしれません。それはいつでも自分のそばにいるものだと思います。

 

 

 

⑦ずばあんは神に何を望むか

(つまらない内容ですので飛ばして結構です。ご覧になるならば網掛けで見ることが出来ます。)

 

私自身が、日本教など含めた宗教の神に望むのは、私の本当の汚れと偽物の汚れの分別がつけられないならばもうその部分で口出ししないでほしいということです。私はこれまで神性を持つものから自分が受けた濡れ衣のような待遇について無実を与えてほしかったのですが、いつまでたっても沈黙している気分がしました。それは私が元々穢れていて、無実の保証をする気がなくなったからかもと思いました。もしくはその穢れに服し汚れ役を全うすることが私の役目なのかと思いました。

しかし、かなり前から社会生活上の支障が出てきました。私は何となく気付いておりましたが神は沈黙しておりました。そしてあるとき私は一番人生できつく心に深い傷を負ったときの神の憮然とした態度など一連の行為と私の今後の人生のために、神と自分の関係を更改しようと思ったのです。私は神に啓示の能力や奇蹟の能力があるとは信じておりません。ただ私を殺しはしなかったことだけは感謝しております。

私は神を大切にはしておりますがそれは師としてはなくこの世の最後の器そして生き物としてです。私は神から受けた呪いや穢れはありませんし、それを与える忌々しく大層な存在もおりません。私の神への信仰はここから始まるのです。

 

 

【おしまいに】

 

この本は1981年刊と古い本です。社会的状況や直面する社会問題も大分変化しました。しかし、肝心の日本教については今も当てはまるどころかかなり最新鋭の内容となっています。それは日本教を生み出した日本社会がこの部分についていまだ直面できていないからかもしれません。

 

日本教というのは本当に日本人がこの宗教を信仰しているのではありません。

宗教という言葉の内実は各々の宗教で異なります。その中で宗教が生活や思想に根深く染み込んでいるのがキリスト教イスラム教です。その信者が心の内側で宗教で埋めている部分に、日本人が埋めているものが日本教なのです。

 

もちろん一神教には一神教で欠点もありますので、日本人の信仰はダメだとか一神教こそ正義とは言えません。ただ、日本人の信仰の特徴についてここまで沈黙を破り分析し喝破した研究は他には無いと思いました。

 

心の穴はなぜ生じるのか、頑強で揺らぎ無い精神はなぜ手に入らないのか、神はそれらをどう思っているのか、それらはこの「日本教」の存在に答えがありました。

 

私は今回の感想では日本教に批判的な事を書きました。日本教の正体が明かされなかったがゆえに山積みした問題が多かったからです。しかし日本教に復讐するがごとく攻撃し排撃するのも違うと思うのです。

日本教とはこれまで語られなかった日本人の信仰心の深い部分です。自分の信仰心が何に根差すものなのか、自分の心の中の不可解な部分は何か、本当に神を信仰しているのか、それを知るための手がかりが日本教というキーワードだと思います。

そのため日本教の考えをベースに自分の心に足りないものが何かを知ることが心身の健康や自分の成長の第一歩かもしれません

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

2021年11月16日

 

 

【読書感想】西田幾多郎「善の研究」

こんにちは、ずばあんです。

 

本日は読書感想で、西田幾多郎の「善の研究」(1911)を紹介いたします。

 

善の研究」は高校の倫理の教科書にも出てくるほど有名な著書です。

 

この本では人間の認知や分析的思考が加わる前の「純粋経験」の状態や主観と客観の科学的分析を加える前の「主客未分」の概念を用いて、宗教、善悪、文化などについて解説します。

 

この本は日本で最初の哲学書とも呼ばれ、著者の西田幾多郎は哲学者として京都学派と呼ばれる哲学学派を形成いたしました。

 

今回はこの本の内容の解説や私の感想について述べたいと思います。

 


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【内容】

 

本は第一章から第四章に分かれ、それぞれ純粋経験・実在・善・宗教について語られます。

 

第一章の「純粋経験」では、人間による認知や分析が加えられていない主観と客観の分かれていない「主客未分」の状態の経験を「純粋経験」と呼び、この純粋経験を体系立った経験として関連付ける思惟やその主体としての意識について説明します。

 

第二章の「実在」では、物の実在が思惟や意志の動きにあることを述べ、対立する物同士の衝突により初めて両者が認知され、両者を統合し包括する認識を形成する作用について述べられます。

 

第三章の「善」では、人がどうあるべきかという「」について語られます。行動や価値について異なるもの同士を一にしようとする動きで説明していきます。

そして善について歴史上語られてきた説について合理説や功利主義などと比較し、その中で小さな集合から大きな集合に向かって主客合一する過程を善と指し示しました。

 

第四章の「宗教」では、神を純粋経験の世界を統べる全知全能の存在とし、その神との合一を目指す動きを宗教としました。

 

ここまで見てこの本は「純粋経験」や「主客合一」をキーワードに哲学を語っていることが分かります。

西洋哲学を含めた近代科学は主観と客観を分け、分析的手法に則り客観的事実を検証します。それに対し西田幾多郎は分析や解釈の入らない状態の世界を、人間の思考の力で認識して解釈し、それを再び元の一の状態に至るまで統合するという、独自の哲学体系を表しました。

これは西田幾多郎の座禅体験が元となっており、唯物論と観念論の間の矛盾をこの経験を元に説明したのです。そのため「善の研究」は仏教的なテイストが強めな著書となっております。

 

 

【感想】

 

 

この本は分析的思考直感的思考というものをメタ視点から捉え、カオスな世界の本質のありのままを理解する試みを解説してくれたと思います。

 

私はもっぱら分析的思考の手法を用いてものを話したりします。余分なものを削り疑いようのないもののみで論を整理し構築します。それを広げると一つの体系になります。

しかし体系は認知した対象そのものではありません。分析とは人間の身体の機能に合わせた人間の都合でしか無いからです。人間の認知機能のバイアスはどうしても入ります。

そのため全体を総合的に理解するなら、今度は人間の感覚の嘘を自覚して、そこから逆算して物の本質を探らなくてはなりません。それを一般的には「さとり」と呼ぶこともあります。これは分析的思考とは逆のベクトルに当たります。

西田幾多郎は「さとり」を禅宗の座禅の実践により体感し、それを西洋の分析科学と対峙させ説明いたしました。

 

さてここから自分がこの著書の内容について思ったことを項目毎に分けて説明します。


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(木と森と滝)

 

純粋経験・実在って何?

 

この本の前半に出てくるのが「純粋経験」と「実在」の2章です。実はこの「善の研究」の本のタイトルは当初は「純粋経験と実在」となる予定でした。「善」は第3章の内容でこの本のほぼ結論と言っていいですが、その前の2章は結論に欠かせない内容となっております。

 

まず第1章・純粋経験ですが、かなり哲学的なことが書かれております。純粋経験とは人間の認知や分析が加わる前の本来の世界のあり方です。そして人が世界を見てそれを体系だったものに構成する作業が思惟であり、思惟を行う主体が意識すなわち自我であると説明されます。

つまり、人間が見聞きし感じる世界は「仮の世界」であり、人の肉体により偏向して認識されたものだというのです。純粋経験はその仮の世界が見えなくなった先に見えるものなのです。

 

純粋経験の話を受けて第2章・実在です。実在とは「ものの真実の在り方」のことです。先ほどの話にのっとると私たちの見聞きし感じる世界に実在は究極的には無いことになります。実在は純粋経験にあるからです。

そうなると純粋経験以外の仮の世界は全て等価値のものとなります。例えばルビンの壺などのだまし絵は、ある人が一つの壺と見てまた別の人が二人の横顔と見るならば、どちらも同じだけ確か(反対側から言えば同じだけ不確か)なのです。純粋経験はこのだまし絵の絵柄のようなものです。それを壺と見るか横顔と見るかはどちらも仮説なのです。

 

もっと言えば森があるとして、それをよく見ると一本の木があります。もっとよく見ると木の枝や葉っぱ、木の実、花なとが見えます。その葉っぱのうち一枚を採り、顕微鏡で観察すれば葉っぱの細胞の集合が見えます。クローズアップすると一つの細胞の構造が見えます。

逆に森を遠くから見ると山や川、草原、空気と密接に関係し、一つの生き物のようです。それをさらに遠くから見ると一つの陸地となり、さらに遠くからだと海と大陸、地球、そして宇宙・・・とどこまでも拡張できます。

ここまで見てきたものは大局観と分析、マクロとミクロの差はあれど全て同じだけ確かです。しかしその全ての実在もまた仮説なのです。

それらの事は自然科学で証明可能ですが、わざわざ証明せずともこの一連の因果関係は端から存在しております。その端から存在する因果関係が実在すなわち純粋経験なのです。

 

 

②善って何?

 

第3章でという言葉が出てきますが、善の考えには沢山の種類があります。人に心地のいいことを多く施し不快なことを減らすという功利主義的な善や、厳格な規則を設定しそれを徹底的に守らせる戒律主義的な善、はたまた人々を拘束するものを極力減らし解放する自由主義的な善などがあります。つまり世の中には善と名のつくものが沢山あるわけです。

 

さてここで純粋経験と実在の話を踏まえますと、それぞれの善はどれも実は仮説すなわち嘘なのです。各々の善は世界を善悪に別ちますがそれは世界の真相ではなく、真実の世界は善悪別ちがたいものなのです。とあるものが、ある時またはある所では善であったとしても時場所移ればすぐにそれは崩れ、悪になることもあります。逆もまたしかりです。九州での生活スタイルを北海道にそのまま持ち込めば冬に瀕死の事態に陥るようなものです。

 

では究極の善は何かというと、それはまさしく純粋経験を追い求め主客合一をしていくことなのです。具体的に言えば自分と対立するもの同士を包摂する世界をその度ごとに求め、それを理解し対立していたものと和合することなのです。

このことは西田幾多郎の座禅経験によるものであり、悟りを開こうとする人々の姿に究極の善を求めたのです。

 

この善の考え方は仲の悪いものと仲良くなろうとしたり、理解できないものを理解しようとすることを絶えず要求します。それが出来ないことは自分の罪となり背負うことになるのです。

 

なお西田幾多郎はこの主客合一において「禁欲」の考えを否定していることも面白いです。

欲望と言えば食欲、睡眠欲、性欲など沢山思い浮かびますが、日常生活を送る上でいくつかの欲望は節制しなくてはなりません。しかしその欲望を節制する暮らしは禁欲ではなく、あくまで日常生活を送りたいという欲求が強いからやることなのです。そこからさらに日常生活のあれやこれやも犠牲にし禁欲といえる生活をする人もいますが、それも出世や社会変革という欲求の強さから起こるものなのです。

これは欲求には「階層」があり、一見して「禁欲」と呼ばれる生活には実は並々ならない高次の強い欲求があるのです。これは「善の研究」から半世紀以上後のアメリカで心理学者マズローが「欲求5段階説」としてモデル化しました。一番基底の欲求として生理的欲求があり高次に向かうにつれ安全欲求、帰属欲求、承認欲求、そして自己実現欲求があるとしました。人はまず一番下の欲求を持ちそれが満たされ次第その上の欲求が起こり満たしてまたその上の欲求が起こり満たすというものなのです。

そのため西田幾多郎のいう、主客合一により純粋経験に近づいていく善は欲望の滅却によってではなく、高次の欲望の肯定に基づいてなされるのです。

 

③宗教って何?

 

私たちが感じ見聞きする仮の世界から、そこから真実の純粋経験の世界に近づこうとする善についてこれまで説明いたしました。ではこの善において宗教とはどのようなものでしょうか。

 

本書の第4章で西田は神とは純粋経験の世界を統べる存在であるとしております。今あるもの昔あったものこれからもあるであろうもの全てを分かつことなく治める揺るぎない存在が神だというのです。

 

この西田の「神」という言葉は、西田が仏教的な世界観から紡ぎ出したオリジナルの存在に思えました。

仏教には「」という言葉がありますが、これは今世の中にあるものと今世の中にはないけどかつてはあったものもしくはこれから現れるものはいずれも真実の世界には存在するのだという世界観を表す言葉です。

身近な例に例えると、水は温度(と圧力)次第で蒸気になったり氷になったりします。この状態の変化で水が「消えた」訳ではなく、あくまで科学的法則に従いあり方が変わっただけです。ただ水と氷と蒸気が同時に発生することはあり得ずどれかがあれば他のものは無いということになります。仏教の無の考えはこうしたものです。

この仏教の無の世界観を世界各地の宗教に当てはめようとしたのが西田幾多郎です。無は仏教という悟りを至極とした宗教から生まれた概念ですが、それを世界各地の一神教の宗教にも当てはめようとしたのです。

 

一神教の代表キリスト教はその拡大に辺り各地の土着宗教の神や伝承を自分の宗教に取り込んできた歴史があります。また長い歴史のなかで度々行われてきた公会議は教会組織の考えとそれと合い矛盾する事案について話し合い、キリスト教会の教義の更改を行うものです。これは矛盾を克服しキリスト教が世界全体に向け志向しようとする動きにも見られます。

 

そして一神教の中でも戒律に厳しいユダヤ教イスラム教はそれぞれ正典を設けつつも、更に細かい規則は正典に基づき作られた書によって決められます。それよりも更に細かい規則や契約も同じくです。

これは日本などの法秩序に似ています。日本(および他の成文法の国)の法律は憲法を頂点におかれ作られております。憲法にのっとり国会で作られる法律があり、それらに基づき省令や条例などが制定されます。もちろん社会変化による新しい法律制定や法改正もこれを無視しません。

これを考えると戒律に厳しい宗教でも狭い範囲を志向するのみならず世界全体に志向しようとする動きがあることがわかります。

 

西田はこうしたどの宗教にも見受けられる全体へ志向しようとする動きをもって仏教的価値観を至高のものとし、それをもって宗教や神を想定したのです。そしてその全体に向かっていく意思のことを「愛」と表現したのです。

 

 

④全体を通しての感想

 

この本は西田が仏教の研究やその実践に基づいて編み出した、仏教的な究極な理念を哲学の文脈でまとめたものだと思います。

 

この本は本当の自分と仮の自分の分別をつけたい人にとっては良本です。仮の世界で生きる人々が世界の仮ゆえに傷つき損害を受けるなかで、人々の本当たる部分は厳然として綺麗であることを証言してくれます。そしてそれが仮説だらけの世界で生きる私たちの励みや勇気、道しるべとなるのです。

 

一方で私はその主客合一のためにまずは個々の主体の余裕が必要だとも思いました。心身の余裕や経済的な余裕などまずは自立するための余裕があって初めて主客合一することができるのです。ですがその余裕を無視して、この理念を余裕の無い人を釣るための餌として利用するのは誤りだと思います。その時には「善の研究」が人を搾取するための方便となりかねないのです。

 

実際に西田ら京都学派、およびその影響を受けた有力者は太平洋戦争を大いに支援しました。それは戦時中に向かって欧米との精神的な溝の深さや経済的な困窮が深まるにつれて余裕のなくなっていった日本がはまった罠であると思います。

それに余裕の無いときというのはどんどん合一したはずのものが分裂していきます。これは合一をしたものを保つのにもパワーが必要でありそれが欠乏した結果なのです。「大東亜協栄圏」もその母体の日本の余裕が無くなったあと戦禍という悪あがきの後に再びバラバラになりました。他の植民地を持っていた国もそうでした。残酷なようですが余裕の無さが主客合一を牽制することは往々にしてあるのです。その困窮時に唱えられる強引な世界統一の理想はまあ胡散臭い餌でしょう。

 

そして最近よく聞くようになったSDGs(Sustainable Development Goals「持続可能な開発目標」)は、世界各国の発展目標において余裕の大切さを盛り込んだものと言えます。目標は17個存在しますが、古くから唱えられる環境保護目標に加えて男女差別や児童労働の撲滅という社会目標や、新しい成長産業の育成や経済成長という経済開発目標も定められております。

これは従来存在していた国連の環境保護政策や社会政策が現状余裕の無い開発途上国の開発政策と衝突し互いに牽制する問題が起きたからです。そのため現状余裕の無い国の成長を担保しつつ世界が正しく存続する道筋を、従来の各種政策を合一しつつ複合的に示したのがSDGsなのです。

 

ですので本当に「善の研究」を実践し役立てたいのであれば、まずはいきなり主客合一ではなく心身の余裕を養うことからスタートすると思います。

 

 

【おしまいに】

 


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今回は日本の哲学史における重要な哲学書を紹介いたしました。今日は敢えて感想で良いところと悪いところの両面を書き出しました。哲学書を読むことは自分の哲学や信念との対決に等しく、それを感想として述べることは「善の研究」の価値を損ねないと思ったからです。

 

この「善の研究」は日本人の思想というのが西洋哲学と比較してどんなものなのか。そこで明らかにされる日本哲学と西洋哲学の価値はなにかを調べる上で役に立つ書です。

 

いまの日本は西洋などの外国からの価値観が大量に流れ込み、そのカウンターとして日本人のあるべき論が吹き上がっております。何年か前には書店に行けば入口に「愛国書コーナー」なるものが大きく構えておりました。流行を狙った日本賛美、近隣諸国批判の本がゲバゲバしく飾られておりました。かたやそれに対抗する言説をのべた本も沢山出てきており、さもバトルロワイヤルの様相です。

 

私は時流にいちいち振り回されずもっとどっしりと構えた生き方をしたいと私は望みました。そのような中で落ち着いて日本人の思想を知りたい人におすすめしたい本の一つが「善の研究」でした。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

 

2021年11月12日

平沢進とは何者か?

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は「平沢進」(ひらさわすすむ)さんについて話したいと思います。

 

平沢進という名前を聞いたことのある方も初めて聞かれた方もどちらもいらっしゃると思われます。


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平沢進さん、2013年)

この方はミュージシャンであり現在に至るまで音楽活動をしております。プロの音楽活動を続けて45年近くになり、今年で67歳となります。今年3月にも新しいアルバム「Beacon」を発表しました。

 

この方はTwitterのアカウントを持っておりますが、そのフォロワー数は2021年10月現在28万人となっております。多くのファンを抱える求心力のあるミュージシャンであるといえます。

 

そして実は私自身、平沢進さんのファンであります。そのため今回は平沢進さんがどのような方で、どの部分が魅力的かを語りたいと思います。

 

 

平沢進とは何者か】

 


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フジロックフェスティバル2021より)

 

平沢進さんはミュージシャンですが、そのライブの様子を見るとかなり独特です。ステージ上ではアバンギャルドな造形のセットが組まれ、意味がありげな意匠がバック映像などに反映されております。楽器も独特の形をしたものもあり、楽器というより実験装置のような出で立ちのものもあります。そしてご本人はまるで博士のような出で立ちで現れ、共演者も平沢さんに劣らず奇妙な格好で出ております。

 

そして肝心の音楽はというとロックンロール電子音楽が主体ですがその表現の幅は広く深いものとなっております。強烈なメッセージのこもった緊迫感のあるものから穏やかな心を癒すものまで様々なイメージの曲があります。

 

そして平沢進さんの曲の歌詞ですが、これまた独特であり文字に起こすと通常の曲の歌詞とは大分異なります。歌詞にはよく聞く言葉が使われているのにもかかわらず文章は難解で意味が分からないのです。そのような歌詞も平沢さんの曲の個性として語られます。

 

平沢さんのライブの進め方はこれまた独特です。平沢さんは新作アルバム発売後の通常のライブの他、インタラと呼ばれるミュージシャンのみならず観客側の意思決定により進行するライブも実施しております。これは単に声援やアンコールによるもののみではなく、平沢さんが観客に質問をしその多数決による回答でライブの進行スキームが決まるというものです。これはいわばRPGのようなものです。プレーヤーがゲーム進行を決めるがごとく、観客がライブ進行を決めるのです。

ここまで聞くと楽しそうですが、実は質問に対する回答次第ではライブ開始早々にライブ終了となるパターンもあります(笑)。そこら辺もRPGのゲームオーバーみたいで面白いです。そのため観客はワクワクハラハラドキドキしながらインタラに挑むわけです。

 

そして平沢さんのアルバムですが2000年以降のものはレコード会社からではなく平沢さんの個人事務所のケイオスユニオンが直接販売しております。通常日本のミュージシャンがレコード会社から音楽を売り出すのに対してこれは珍しい例です。

 

現在平沢さんはソロ活動を主体とし、アルバムを出したり音楽配信、ライブを行っております。

 

また平沢進さんはTwitterアカウントを持ち、ほぼ毎日ツィートしております。その内容は過去の自身とその周囲の話や自身の生活、自身の思想などに渡ります。その語り口は独特で平沢さん本人の作った造語や構文も多く、それも平沢さんのTwitterの醍醐味となっております。

 

 

 

平沢進の生い立ち】

 


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(1981年頃の平沢進さん)

 

平沢進さんは1954年に東京都足立区で生まれ育ち、12歳の頃に音楽活動に関心を持ち始めました。

1973年には当時平沢さんが在籍していた東京デザイナーズ学園の同期や公募のメンバーでロックバンド「マンドレイク」を結成し、プロ活動を開始しました。活動から数年でマンドレイクは音楽ファンから人気を集め、音楽業界から関心を集めました。

しかしマンドレイクは1978年末をもって一度解散しメンバーの一部入れ換えを経て1979年からP-MODELとして再始動します。音楽の作風はロックから当時流行りのニューウェーブ・テクノに、見た目もアングラ風の黒ずくめからビビッドな原色ギラギラに大きく変更しました。

P-MODELのテクノ路線は大ヒットし、当時流行ったテクノバンドのプラスチックスヒカシューとともに「テクノ御三家」として名を知られました。

しかしその後平沢さんらはテクノ路線を改め自分達のやりたい音楽を求め、1980年にはロック路線に戻ります。その後は頻繁にメンバー入れ換えをし、アンビエント電子音楽、ヒーリングなどを他ジャンルを経て1988年末にP-MODELは一旦解散(「凍結」)します。そして平沢さんは1991年までソロ活動をしました。

1991年には平沢さんは旧P-MODEL時代のメンバーと新メンバーを交え新生P-MODELを始動します(「解凍」)。ここからは平沢さんやメンバーの個性を押しつつテクノ・電子音楽路線を歩みます。

その後1994年にメンバーを入れ換え、長年親交のあったミュージシャンとそれぞれのプロデュースするミュージシャンを交え「改定P-MODEL」を打ち出しました。この時からライブのネット配信やインタラといった今のライブスタイルが始められました。

しかし2000年にはまたもやP-MODELを解散します。それは平沢さんがレコード会社やJASRACといった団体から身を置いて自由に音楽活動をすることを望んだからです。

 

そこから平沢さんは今日までソロ活動が中心となります。平沢さんはソロ活動では「平沢進」名義でアルバムを出しますが、2004年からはこれに併せて「P-MODEL」名義でも活動しております。

2019年にはロック音楽イベントである「フジロックフェスティバル2019」に「平沢進+会人」として出演し話題となりました。

 

 

平沢進の音楽活動】

 


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平沢進さんのライブの模様、2013年)

 

平沢進さんはミュージシャンですので音楽活動をされるのですがそこでもかなり独特の様相を見せます。

 

平沢さんの曲は作曲の表現の幅が広く、美しい曲をたくさん作られます。それは平沢さんがそれまで様々なジャンルに手を出し理想の音楽を求めてきたからです。

平沢さんはアマチュア時代はアメリカのサーファリスなどサーフ音楽に関心を持ち、プロ活動初期はハードロック、しばらくしてプログレッシブロック(クラシックとロックンロールを再融合した音楽ジャンル)を演奏しておりました。これらは高い演奏技術を要求され平沢さんは演奏力をつけていきました。P-MODEL以降は流行していたテクノポップに手を出し、その後は電子音楽にも手を出しました。

平沢さんは1980年代からCM音楽の制作に関わりそこで作曲の幅を広げていったと述べております。当時のそのCMは調べれば分かりますが、いずれのBGMも今の平沢さんの曲の雰囲気に近いものを感じさせます。

また平沢さんはパソコンを使用した作曲を早々と積極的に導入し、1990年代にはバーチャルドラムスの「TAINACO(タイナコ)」がP-MODELのライブに「参加」しております。

ご自身のPVの映像CGも1980年代後半より平沢さんがパソコンで自作するようになりました。

現在ではソロ活動が主となっておりますが、それは平沢さん本人の高い幅広い作曲表現能力コンピューターを利用した編集によって可能になっております。

 

使用している楽器も独特のものもあり、ギターやキーボード、ドラムズといった普通の楽器に加え、一見して楽器とは分からないようなものもあります。その内のいくつか紹介します。

まずは「レーザーハープ」です。これはレーザー光線を発生させ、そのレーザーに手で触れるとセンサーが関知して音が鳴るというものです。これは1981年にフランスのベルナール・シャイネール氏が発明したものです。

電極の入った透明の箱は「テスラコイル」と呼ばれる楽器です。これは平沢進さんが自作した楽器です。テスラコイルは電極に電流を流しその時のビィィィンという音をコントロールして使う楽器です。物凄い発想です。

他にもシンセサイザーを改造し沢山の大きなレバーを着けた「チューブラヘルツ」や自作サンプラーの「ヘブナイザー」という楽器も使用しておりました。またとあるライブではグラインダーを使用しておりました。ちなみにグラインダーとは石材加工のための工作機械であり、元々楽器ではありません。とんでもない発想と行動力です。

 

 

 

平沢さんの楽曲の特徴として、歌詞の独特さがあります。これは今私が書いているブログの文章のように人に分かりやすく伝える文章とは異なります。一見して何を言いたいのか理解しがたい詞となっております。具体的な単語が出てくるのにも関わらず、大変抽象的な歌詞となっています。もちろん他のミュージシャンの方の曲も独特の言い回しの歌詞は珍しくはないですが平沢さんの歌詞は特に難解となっています。

実はこれにはいくつか理由があります。まずひとつは曲のメロディーにあわせて歌詞を作っているからです。メロディーに合うような歌詞の音の響きを考えており、メロディーが美しく響くようにしているのです

また、平沢さんは作曲では「文章など作曲以外で表現できることは作曲で描かない」と述べております。つまり作曲でしか表現できないことのみ曲で表現するのです。作曲でしか表現できないことというのは人間の深層心理に基づくことで直感的に感じたことのことを指していると思われます。平沢さんは過去に精神の不調を患った時期があり、その時に感じたことなどが作曲思想に反映されているのだと思います。

 

そして平沢さんの楽曲の世界観について次のような説明がなされることがあります。これまでの平沢さんの音楽活動は「未知の物体アシュオンの真相を培養し分析、解明するための実験」だったというものです。

かなり突飛な説明ですが、これは平沢さんが2002年に出したアルバム「太陽系亜種音」のライナーノーツに記述されていたことです。この説は今日まで継承され、2011年の東日本大震災では「アシュオンの培養炉が震災で破損した」といわれ、今年2021年には「脱出系亜種音」と称したライブが開かれました。

この設定がいつ頃から始まったものかは分かりませんが、1991年の「夢見る機械」の時点で既に科学者チックな雰囲気が出ているのでもうその時からアシュオンの設定の萌芽はあったのかもしれません。

 

また、平沢さんの楽曲の世界観で欠かせない著作があります。それはイギリスの作家ジョージ・オーウェルの著作の「1984」(1947)です。

これは架空の巨大社会主義国家・オセアニア(首都・ロンドン)で行われる情報統制政策とその仕組みに気付き反逆しようとする主人公とそれを抑え込もうとする体制側の動きを描いた作品です。

この世界観はかなり昔から楽曲に反映され、P-MODELのファーストアルバム「In a model room」(1979)はこの小説の世界観を下敷きに作られています。また2004年の核P-MODEL(平沢進のソロバンド)のアルバム「ビストロン」には"Big brother""崇めよ我はTVなり"といった曲で「1984年」の世界がそのまま描き出されております。

 

 

平沢進著作権

 


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P-MODEL「論理空軍」PVより)

 

もっと踏み込むと平沢さんの音楽活動の特徴に曲の売り方があります。

平沢さんは自身の新曲や過去の作品(レコード会社が著作権を有するものを除く)を自身の事務所であるケイオスユニオンから直接発売しております。このケイオスユニオンが普通のレコード会社と異なる点は著作権管理団体であるJASRAC日本音楽著作権協会)に加盟していない所です

 

通常音楽家やミュージシャンは音楽発売にあたりレコード会社に所属しそのレコード会社から販売します。そのレコード会社はJASRACに加盟しており、音楽による収入はJASRACを通してレコード会社や音楽関係者などに配分されるのです。この仕組みは音楽作品にかかる著作権を音楽家やミュージシャンが団結して強く主張・行使しやすくするためのものです。いわば音楽業界に関わる人々が食いっぱくれないためのものです。

しかしこれはミュージシャンの作った音楽作品の権利をJASRACに譲ることを要求します。食いっぱくれはしないものの自分の作品が他人のものになることを受け入れざるをえません。自身の作品に自身のメッセージを込めるのにも限度が出てきます。

 

平沢さんはこれに強く抵抗し、自分の曲を自分の思いのままに作ることを求め平沢さんは自ら著作権管理や楽曲販売をしているのです。

 

平沢さんはある時、自分の曲がネットなどで違法アップロードされたり無断で商業利用されている現状に対し、「自分の曲の権利に適正に対価が支払われないのは、自身のいたらなさもあり仕方がない。」と述べました。

これは違法アップロードなどを容認する発言ではなく、上のような事情もあり平沢さんが著作権を直接管理・行使する立場として言ったものです。違法アップロードの横行は著作権管理をしきれない自分の責任であると言う意味なのです。その証拠に今年に入り自分の音楽を無断で使用した違法動画の削除申請を積極的に行いました。その前にも平沢さんは自身の楽曲の無断使用を「自分への裏切り」と警告しました。そのため平沢さんは著作権については誰よりも詳しく気にされているのです。

 

 

【ずばあんは平沢進をどう思うか】


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私は平沢進さんについて詳しく語っておりますが、私は平沢進さんの曲が大変好きです。平沢さんの曲は時代ごとに変わりつつあるもののどれもメロディや歌詞が濃密で聞き心地のいいものです。一つの小説のシリーズを読んでいるかのようです。

 

私が平沢進さんを初めて知ったのは5年前のことでした。当時大学生だった私は部活の入ったばかりの音楽好きの後輩と話が弾みそのなかでその子が好きな平沢進さんの話題になりました。

それから平沢さんの曲をいくつか聞きましたが初めはかなり独特な印象でした。昔の曲のような、しかし今まで誰も試さなかったことをやっている新しさもありました。

 

それからズルズルと平沢さんの曲にはまりマンドレイク時代から最新の曲まで大方聴きました。「飾り窓の出来事」「美術館であった人だろ」「偉大なる頭脳」「いまわし電話」「七節男」「カルカドル」「Another day」「世界タービン」「2D or not 2D」「Lotus」「Architype Engine」「Ashla clock」「Ruktun or die」「Big brother」「パレード」「それゆけ!haricon」「回=回」「Cold Song」などその他多数の曲を聴きました。

 

曲調の幅は曲ごとに大幅に異なるもののどれも質の高く妥協しない作りで聴く人々を曲の世界観に引き込む魔力を持っております。

精巧な緻密な芸術品といえる平沢さんの曲は閉じた世界ではなく大いなる広大な世界を見せてくれます。

 

2019年と2021年のフジロックフェスでは平沢さんはこれ迄の名曲をメドレーで演奏し、それぞれ濃密で特徴の異なる曲で広大な宇宙に等しい世界を描き出しました。

 

平沢さんは音楽に対するこだわりがとても強く、音楽に奉じる人生を送ってきました。素晴らしい美しい音楽を産み出し私たちに届けてきたのです。平沢さんは「自分の音楽をより多くの人に聴いて欲しい」と語っており自分の音楽がより沢山の人に広がることを望んでおります。

平沢さんは過去に自身のライブにおいて過度に騒ぐ客を敬遠したり、サイリウム禁止令なるものを出したりしました。それは自身の音楽のファンが一部の過激な層により独占されないようにするためでした。それも自身の音楽を聴く人間が増えることを望んでのことだったのです。だからこそ私も平沢さんの曲を好きになれたのでしょう。

 

平沢さんには今後とも理想的な環境に身を置きつつ、美しく心を打つ曲を産み出し続けてくださればと思います。

 

 

【おしまいに】

 

本日は初めてミュージシャンにフォーカスした記事を出させていただきました。

 

平沢進さんは大変ユニークな方であり、ネット上で度々ニュースになることもあります。ただその平沢さんの音楽の才能と功績は非常に輝かしい物があり、その点において平沢さんは畏敬の念を抱かざるを得ません。

 

平沢さんの偉業は音楽業界の間で轟いていることは既にお話ししましたが、平沢さんと活動を共にしたミュージシャンの方や平沢さんのファンであったミュージシャンにも魅力的な音楽を作られる方は沢山いらっしゃいます。

 

平沢進という人物についてはさまざまな語られ方をされておりますが、音楽という面においても平沢さんのことを知っていただけたら幸いです。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

2021年10月30日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

選挙には行くべきなのか

こんにちは、ずばあんです。

 

 

本日は間もなく衆議院でも行われる選挙の話をしたいと思います。

 

選挙に行く人も行かない人も共に多い現状ですが、私は基本的に選挙には行った方がいいという考えです。少なくとも私は特別な理由が無い限り投票には必ず行きます。

 

世の中には選挙に行かない人もいらっしゃいます。その理由は他の用事があるから、投票しても何も変わらないから、投票したい候補者がいないから、投票のシステムがよく分からないから、などがあります。

 

もちろん選挙に行くか行かないかは個々人の自由ですので、私が選挙に行く側を代表して選挙に行かない側を強制することは出来ません。その上で今回は、選挙に行かない人が行かない理由を良く理解しつつ、私が選挙になぜ行くべきと思うのかを述べていきたいと思います。

 


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【選挙に行っても無駄?!】

 

 

選挙に行く理由というのがあるので選挙に行かない理由があってもおかしくはありません。今回は新聞等のアンケートを参考にその理由をいくつかまとめてみました。

 

投票に行かない人の理由の一番大きなものは投票に行く時間を割けないというものです。投票日に別の用事が入っていたり、物事の優先度のうち選挙にいく順位が低かったりするからです。今では期日前投票も行われておりますが、それでも行こうとしない人は多いです。

 

続いて二つ目は、候補者に投票したい人がいなかったというものです。自分の希望する政策を掲げる人や自分の信条に近いと思われる人が候補者にいないなどがあります。その意思を投票をしないという行動で示す人は少なくありません。

 

三番目は、現行の政治制度に期待してないというものです。今は国や地方の議会の議員や地方の首長を私たち国民・市民が選挙で選ぶというシステムになっておりますが、そのシステムに納得のいかない方々も多くいらっしゃいます。このシステムでわが国わが地域が良くなるとは思えない、なぜこのシステムをしなければいけないのかよく分からないと思われる人がそうです。

 

投票に行かない人の理由はおおむねこのようなものです。

 

 

期日前投票不在者投票

 

 

まず第一の理由、投票に行く時間を割けないことについて語ります。

現在の国政選挙などの選挙ではそうした方々のための制度が設けられております。

 

 

期日前投票


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(西東京市HPより)

 

期日前投票は多くの方々がご存じであると思われます。これは投票日の前から投票が可能な制度です。

投票日に投票できないかもしれない人は期日前投票で投票出来ます。

 

投票期間は選挙の公示日・告示日の翌日から投票日の前日までとなっております。

投票場所は期日前投票の会場で行われます。期日前投票投票では投票日に投票できない理由を問われますが、理由は何でもよくその時点での大まかな予想で十分です。

投票の仕方は投票日の投票と全く同じです。期日前投票で入れられた票は投票日に集計されます。

(※期日前投票では、期日前投票後に投票日当日までに亡くなった方の票も集計されます。また投票日当日までに亡くなった候補者への票は「無効票」として集計されます。)

 

現在の期日前投票は2003年から開始され、2016年に期間を投票日の6日前から公示日・告示日の翌日からに改められました。

 

この期日前投票制度が出来る前は、投票日に投票できない人は後述の「不在者投票」でのみ投票可能でしたが、数多くの条件を満たしている必要があり、なおかつ投票日に投票できない確定した理由が必要でした。(※この制度自体は現在も存在します)

そこからより投票しやすく、敷居を低くしたのが期日前投票なのです。

 

この制度の弱点をしいてあげるとすれば、一度期日前投票で投票をすれば、そのあとに新しく投票は出来ず投票の取り消しも出来ません。それは投票した候補者が期日前投票期間中に死去したりトラブルを起こしても同じことです。

 

 

 

しかし、進学単身赴任などの、一時的な外出以上の期間で投票できる選挙区に不在の場合は投票するのに距離的制約があります。選挙のために自宅に戻るのも時間が大分割かれます。

 

そうした方々のために設けられた制度もあります。

 

 

不在者投票


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(名古屋市HPより)

 

進学、単身赴任などで投票できる選挙区に長く不在である人は、この不在者投票制度で今住む自治体から投票できます。

 

不在者投票制度そのものは1925年から存在し病院・老人ホームの入院患者や入所者、長期の航行に出る船員などに適用されております。投票日当日に投票所で投票できない人も資格を満たせば利用できますが、期日前投票制度が設けられた現在は利用者はほとんどおりません。

そしてこの制度は選挙区に長期にわたり不在である有権者も利用できます。

 

その仕組みは、まず名簿登録されている選挙区の選挙管理委員会に投票用紙入りの封筒を請求し(※)、送られてきた封筒を未開封のまま最寄りの選挙管理委員会に赴き、そこで投票する、といういうものです。

(※通常は総務省自治体、各選挙などのHPにある「不在者投票宣誓書兼請求書」をプリントアウトし、必要事項を記入し郵送する形で請求します。一部自治体では宣誓書の送付なくしてオンライン請求出来る場合があります。)

 

この制度は選挙の精密さと公平さを保つためにやや複雑で、書類の郵送と選管での手続で時間がかかるのが弱点ですが、投票できる自治体から長く遠く離れていても選挙権を得ることが出来ます。

 

 

 

次に第二の理由、候補者に投票したい人がいなかった、そして第三の理由、現行の政治制度に期待してないについて語ります。

 

私はこのような理由や意見を持つことについては至極全うな考えだと思います。これらは現在の日本の政治システムに間違いなく存在する問題なのです。詳しい論議は避けますが、政治家に対する不信感や政治制度への不信感、それが生み出す社会に対する不信感などの問題は数多く存在します。それが選挙に行かないという行為に繋がっているのです。

 

しかしながら、日本そして民主主義国においては選挙で投票しないことは、結果に何の不満の無いというメッセージに捕らえられます。政治サイドからすれば一票をくれた人に関心を抱いても、無い票に向ける関心は無いのです。不満の表明が不満の存在の否定になるのはとんでもない皮肉で腹立たしいことです。

 

ここからは上のような不満を抱く方が投票所に言って出来る不満表明の仕方について語っていきます。

 

 

【白紙投票】

 

 

通常の投票であれば、通知はがきを持参して投票所に行き投票用紙を渡されると、投票用紙の説明書きの指示通りに候補者名(比例代表選挙では政党名も)を記入して投票箱に投函します。

 

これは支持する候補者や政党がある場合の筋書きで、そうでない場合はこうはなりません。支持したい人がいない、今のシステムに不満がある人などは投票所に行ってやることは一見したら無いように思えます。

 

しかし、あることをすればその不信感や不満を選挙に反映させることが出来ます。

 

それは上の投票所のシーンで渡された投票用紙をそのまま何も書かずに投票箱に投函すればいいのです。いわゆる白紙投票です。

 


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白紙投票は集計時に「無効票」として数字に残ります。これは投票権を行使した人の意思として数えられます。投票しない場合はその人の意思は無視されますが、投票された無効票は無視されません。無効票の多い場合は尚更です。

 

ちなみに無効票として白紙の投票用紙を入れることで処罰されることはありません。もちろん「ドナルド・トランプ」「志村けん」など明らかに候補者ではない名前を書いて投票しても罰せられません。

 

この白紙投票は誰か気に入らない候補者を落としたり、政治システムを不全にしたりすることは全くできません。ですがこれまでそうしたことを望みながらも為す術がなかった人の絶望の意思を数字として表明することは出来ます。

通常そうした気持ちはデモや陳情によって表明することを考えがちです。ですがあまりにも手間がかかりすぎますし責任も重く、費用や時間をとられ、リターンもあやふやです。だから実際にこの手段を取る人はあまりおりません。

ですが白紙投票はそこまでする必要はありません。最寄りの投票所に白紙票を入れればいいだけです。もしかしたらめぼしい候補者が見当たらず妥協しつつ投票先を考えるよりも楽かもしれません。

 

かつて「支持政党なし」という名の政党を立ち上げその党から候補者として国政選挙に出馬した方もいらっしゃいました。その方の公約は「当選し次第辞める」というものでした。(結果は落選に終わりました。)

 

この試みは無党派層や政治に関心の無い人の声を表明する画期的な試みであったと思います。しかし、それは政党「支持政党なし」が存在せずとも白紙という票を投じることでも同じだけ表明できるのです。

 

 

【おしまいに】

 

いかがでしたでしょうか。投票に対して多少は関心をお持ちいただけたならば幸いです。

 

今回は選挙に行かない大まかな理由から、選挙の意味について語らせていただきました。

 

もっぱら選挙に行くべき理由というものは、政治に高い理想や揺るぎ無い信念を持つことを前提に語られがちです。ですが、有権者全員にそれを求めて選挙に参加させるのは何となく酷な気がしました。そこら辺に投票の敷居の高さを覚える人は少なくないと思います。

私も投票は必ず行きますが、そのような高尚な精神で投票した記憶はありません。分かったような分からないような気持ちが投票後も続きました。

ですがその敷居の高い選挙について、地に足がついた話や便利な制度の話を聞き、全て分かった気にならなくても投票に行ってもいいのだという気になりました。

もちろん選挙にはある一定の厳粛さや正確さは大事ですが、選挙は国民ならば誰にでも門が開かれているものなので気軽に行ってみてもよろしいのではと思いました。

 

今月末には衆議院選挙が控えております。10月19日公示、10月31日投票日です(期日前投票は10月20日より)。是非今回の記事を参考にして投票のニュースに関心を持っていただければと思います。

 

それでは今回も記事をご覧いただきありがとうございました。

 


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2021年10月15日