ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

因果応報と予定説

こんにちは、ずばあんです。

 

本日は普段何となく信じ込んでいる「因果応報」とその対極にある考えについて語ります。

 

因果応報という言葉を聞かれた方は日本では沢山いると思います。物事には原因と結果が存在しており、原因が変われば結果も変えられるという思想です。転じて原因と結果には責任を持たなくてはならないと言う意味合いで使われます。

 

かたやその対極に「予定説」という考えがあります。予定説とは、物事の運命は全て予め決定されており、人間が変えることはできないという思想です。

予定説はヨーロッパや中東のユダヤ教キリスト教から来ている考えで、日本ではなじみの無い考えです。

 

この因果応報と予定説は相異なる考えですが、それを混同することは往々にしてあります。それが物事を語るときの壁となることもあります。

 

そこで今回は因果応報と予定説の考えとその区別について語ります。

 

 

【因果応報とは?仏教由来の思想】

 

因果応報は日本をはじめ東アジアではなじみの深い考えです。物事には全て原因と結果の因果関係が存在しているという考えです。

この考えはインドから伝播した仏教に色濃く出ており、中国の墨子思想にも存在しておりました。

 

因果応報説は自我の捉え方にも影響を与えております。仏教では、自我というのはこの世の無数の要因が束になった結果作られたというものです。そのため自分を束ねる要因が一つでも変化すれば自我は変化します。そのため自我をより良い方向に改変すべく人々は勤労勤勉にいそしみ、良い因果を導こうとするのです。

 

これは東アジアの文化や社会にも強い影響を与えました。大学などの入試試験は日本のほか中国や韓国などでも盛んであり、将来の出世のための通過点という要素がものすごく強いです。また、身分を超越した実力による立身出世の例も多く、古代以来の中国史などでは奴隷身分や狩人などからの将軍や高官への登用の逸話は少なくありません。

 

これは自分の今や過去の状況に関わらず能力の向上や研鑽により(因)社会的地位が変化する(果)という考えのあらわれでございます。勤勉勤労の思想はこの因果応報論から出ているのです。

 

 

 

【予定説とは? 唯一絶対神による思想】

 

予定説は因果応報に対する思想です。こちらは物事の道理を絶対者が定めた「運命」として考える思想です。予定説によれば、この世は何者も抗いがたい変えがたい運命によって動かされており、その運命はある1人の神により決定されているというのです。世界はその一人の神により動かされているのです。

これは中東・ヨーロッパに広まったユダヤ教キリスト教イスラム教といった一神教の宗教に色濃い思想です。一神教の神は世界を創造し、世界の秩序を定め、世界を改変し奇跡を起こす能力を持つのです。すなわち神は運命を創り、運命を保ち、運命の独占権を有する存在なのです。

 

予定説はこの地域の個人や社会の考え方に深く根付いております。個人の個性は神により与えられ、社会的立ち位置も神が与えたものとされます。そのため中東やヨーロッパの社会では階級が今なお存在し、就く職業や進路も「運命」として幼い頃に既に定められるのです。そこには日本のような職業選択・進路希望の幅はありません。

 

キリスト教では、予定説は特にプロテスタント新教)で強く意識されます。プロテスタント聖書主義と称され、各人が聖書を直に読み内容を知ることが重要視されます。その聖書には「ヨブ記」(*)と呼ばれるものがあり、ヨブという敬虔な信者の物語により試練に耐え抜く信仰の尊さとともに唯一絶対神が信者を必ず救うという姿勢を唱えております。(* ヨブ記は本来はヘブライ人の信仰するユダヤ教の教典の一つでしたが、ユダヤ教から派生・成立したキリスト教でも引き続き教典・聖書の一つとして読まれております。)

 

プロテスタントは、15世紀に活版印刷術が発明され聖書が大量に印刷されて、聖書を読む人が爆発的に増えたことが発端となり発生しました。当時初めて聖書を読んだキリスト教徒はかなり多く、そこで従来の教会中心の信仰と聖書との矛盾が問題になったのです。

その問題の有名なものは贖宥状でした。これは、買った者の罪を贖うことができるとして教会が売り出したものです。贖宥状について、これは他ならぬ神にしか裁けない人間の罪を人間が勝手に白黒つけるもので、すなわち予定説に反するものと考える人がいました。その論争で聖書側に立ったのがプロテスタントで、教会側に立ったのはカトリックでした。

 

その後プロテスタントは予定説を重んじ、既に神イエス・キリストにより救われる事が予定されているとしました。そしてその証明として自分達は天命てある職業を果たし、よく働き禁欲的な生活をするべきだという倫理観が発達したのです。これは社会全体の所得向上と貯蓄・投資の増加という効果をもたらし、ゆくゆくはイギリスを発端とする産業革命を起こしたと言われます。この一連の流れは経済学者のマックス・ウェーバーにより分析されております。

つまり予定説と産業革命、今に至る近代社会は密接な関係があるのです。

 

 

【因果応報論と予定説の由来】

 

相矛盾する因果応報論と予定説、この2つがそれぞれ出現するに至った理由は何でしょうか。

 

その手がかりとなるのは「風土」と呼ばれるものです。風土とは気候や地形などの地理的条件が土地に住む人間の文化や気質に与える働きを指します。宗教も風土の影響を受けております。そのため宗教と密接な関わりのある因果応報論と予定説も風土に由来するものと考えられます。

風土については哲学者・和辻哲郎の著書『風土』(1935)で詳しく語られ、以下の記事内容も『風土』を基に述べていきます。

 

 

〈i. 因果応報論と風土〉

因果応報論は仏教由来の思想ですが、仏教はインドで誕生しました。元は釈迦族の王子ブッダゴータマ・シッダールタ)が紀元前5世紀頃に始めたとされております。

仏教は紀元前7世紀ごろから興ったウパニシャッド哲学を下敷きにしており、悟りの思想はその時点で既にありました。そしてその悟りとは、宇宙の真理・ブラフマン(梵)が自己・アートマン(我)を形作っていることに気付くというものです。これはいわゆる因果応報説の肯定です。つまり因果応報説はインドで生まれた思想なのです。

 

ではインドで因果応報説が生まれたのはなぜでしょうか。

古代インドには元々バラモン教という多神教がありました。この宗教は上流階級の人々を中心に進行されておりました。しかしバラモン教形式主義に陥り、現状の階級社会を肯定していることが批判されるようになりました。

このバラモン教への反発が、物事の真理を追求する流れを起こしウパニシャッド哲学へと繋がるのです。

 

よって因果応報説の成立にはバラモン教という多神教の存在が先立つのです。インドの土地でこの多神教が生まれた理由は何でしょうか。

和辻哲郎は「風土」でインドの風土について「温帯湿潤的であり季節の大きな規則的な変動があり、生物の多様性に富んでいる。」と述べております。まるでこれは日本に近いものを感じます。そしてこの風土はインドの多神教的な宗教を誕生させ、人間味のあり感情が豊かな神々への信仰を生み出したとされます。その神々がいる世界は自然の流れに従い区別や差別の有るなかで生き物や人間が共存する世界観になっているのです。

バラモン教を生み出した風土は温帯湿潤気候生物多様性に富む世界でした。そこでバラモン教の元での差別や形式主義に反発する動きの中で物事の因果を科学的に分析する思想が生まれたのです。因果応報説とは元々この流れから生まれており、本来は恣意的な脚色の余地を挟まない科学的な考えなのです。

したがって因果応報説とは温帯湿潤的で生物の多様性に富む風土から生まれた多神教に反発する思想だったのです。

 

 

〈ii. 予定説と風土〉

 

予定説は欧米などのキリスト教圏で根強い思想です。予定説が確立したのは中世の宗教改革の時であり、プロテスタントカルヴァン派が唱えました。

プロテスタントの予定説は聖書が由来です。プロテスタントおよび予定説の成立は、活版印刷術の普及で聖書が大量に出回り多くの人々が聖書を読めるようになったことが発端だからです。

 

この聖書の成り立ちはユダヤ教を信仰する古代ヘブライ人の歴史に遡ります。聖書(新約聖書*)とは一つの書物の名前ではなく、キリスト教の教えに関わる重要な複数の書物の総称となっております。聖書にはイエス・キリストの教団によるものも含まれますが、イエスキリスト教徒が元々信じていたユダヤ教の諸経典も含まれます。

(* 「新約」とは神との「新」しい契「約」という意味であり、キリスト教徒が元のユダヤ教から改宗したことを表しております。改宗する前のユダヤ教の神との契約は「旧約(旧い契約)」と呼ばれます。)

ユダヤ教の経典には「ヨブ記」など予定説に関わる書物もあり、予定説の思想はユダヤ教の成立時に遡るのです。

 

このユダヤ教が成立したのは紀元前6~5世紀頃です。そのユダヤ教が誕生したのは中東の砂漠地帯でした。

砂漠は見渡す限り岩石や砂礫を晒す茶色の土地で、生命の営みの乏しい地です。もちろん人間がそのまま生存出来る環境ではありません。砂漠で生きる人間は部族でまとまり、厳格な戒律に従いながら生存戦略を取っていったのです。ユダヤ教を生み出した部族もまた同じであり、砂漠という厳しい環境で生き残るための戒律を産み出しました。

その戒律は部族全員に確実に従わせるために細かく明文化されました。そこに自分勝手な解釈は挟まれません。

その戒律から神託を受けたものとされ、その神は全知全能の唯一絶対者とされました。世界を作り、規律を敷き、奇蹟を起こす強い存在です。それは物事の行く末を「予」め「定」める程のものでした。これが「予定説」の神の起こりでした。

 

その後形式主義的なユダヤ教に反発し、隣人愛を説くキリスト教が起こりました。そのキリスト教ユダヤ教の「ヨブ記」等の経典を引用し、予定説も同様にキリスト教に伝えられたのです。キリスト教は「世界の終末」における神からの救済の運命を説いております。

 

なお現在のキリスト教はヨーロッパを中心に信仰されております。ヨーロッパにキリスト教が伝わると、ヨーロッパ人の規則に従順な性格と馴染み定着しました。

このヨーロッパ人の気質について風土を絡めて説明します。ヨーロッパは中東ほどではありませんが生物種に乏しい地域です。草木が人間や動物に利用し尽くされ食べ尽くされ、岩肌が露出する光景を生み出すほどです。そうなると生活の知恵や知識は、自然の中の限定され目に見える法則から得ることになるのです。

法則に慣れ親しんだヨーロッパ人は、古代ローマ帝国時代に中東から入ってきたユダヤ教キリスト教といった唯一絶対神の宗教を受け入れました。そしてヨーロッパで今に至るまでキリスト教は続いているのです。

予定説」もヨーロッパでは根強く、社会や歴史への影響は強いです。ドイツなどで興ったプロテスタント(キリスト新教)はこれを理論化しました。

 

したがって、予定説砂漠という死の大地での人間の生存戦略のための道徳律として出発し、それが生物多様性に乏しい地域での限定された法則の一部にも包摂されたものなのです。

 

 

【因果応報と予定説の衝突】

 

因果応報予定説はそれぞれ異なるバックグラウンドを持ち、それぞれ確固たる根拠があります。両者は関わりの深い宗教や風土が異なります。そのため両者はしばしば衝突を起こしてきました。

 

因果応報説はバックグラウンドとして仏教の考えがあります。それは「究極の唯一絶対神の不在(空の思想)」や「諸行無常」、「苦としての現世」といったものです。風土としては生物多様性季節の変化に富む気候が上げられます。

方や予定説はバックグラウンドにキリスト教等の一神教の考えがあります。「運命・宿命論」や「絶対の真理」、「死への畏れ」といったものです。風土としては生物種の少ないまたはごく限られた生態系変化の乏しい気候が上げられます。

 

日本はもちろん因果応報説の地域です。生物種に富み季節や天気の変化が顕著な気候です。宗教も長らく神道仏教の影響が強く、文化や価値観は今なおその影響を受けております。

 

その日本に現代では西洋の思想や知識が導入され、「良いところ取り」をしてきました。資本主義や民主主義のシステムは西洋からの刺激を受け導入されたものでした。

一方で「予定説」の考えは未だに日本では理解されておりません。予定説は西洋由来の宗教観や思想、社会制度と密接な関係があります。そのため日本の近代社会ではそれらも受け継がれるはずでしたが、先に述べた日本の風土に馴染まずそれらは根付きませんでした。このことはイザヤ・ベンダサン山本七平の「日本教徒」(1976)や小室直樹の「日本人のための宗教原論」(2000)、そしてキリシタン文学で有名な遠藤周作の各著作(「沈黙」「侍」など)でも述べられております。日本人にとって「予定説」や「殉教」、「試練」の思想は忌避されてきたのです。

 

現代の日本社会は西洋社会の仕組みを形式面で導入しております。特に契約人権の概念は先進国ではほぼ共通に存在しております。

しかし今の日本ではそれらの機能が不全な場面が往々にしてあります。契約や公式合意よりも関係者間の密談恩情が優先されます。数年前から有名になった「忖度」もそうです。契約の重さが軽いのです。

また人権権利を主張する側に社会で当たりの強い風潮があり、それを糾弾する動きは小さくありません。人権以上に潔白が重視される傾向があるように思えます。外国人差別や日本に帰化した人への差別、困窮した人への冷淡さ、セクハラ、パワハラ・・・・・・これらがニュースになることは珍しくありません。そしてそれらを悪い意味で茶化し風化させる動きも大きいです。

 

そもそも契約権利は一体のものであり、抗いがたい契約を行使もしくは取り消しをするには広い意味での権利を行使することが絶えず要求されます。逆に権利を行使するにもまた契約が必要なのです。契約と権利はどちらも堅固でないと健全に働かないのです。

 

そのためには「予定説」を理解しなくては契約も権利も上手く利用できないのです。契約権利から派生した概念も同じくです。

 

 

【おしまいに】

 

今回は因果応報予定説を宗教と風土に絡めて解説いたしました。

 

この二つの考えは「都合よく」利用することも可能ですが、使う場面を誤るととんでもないしっぺ返しを食らいます。ではその使う場面とは何でしょうか?正しく使うとはどういうことなのでしょうか?そのヒントは因果応報と予定説がどこで生まれ、どこで根付き根付かなかったかにあると思いました。

 

因果応報」は温帯湿潤気候農耕社会に根付き、一方で「予定説」は死の大地の砂漠で根付きました。しかし現代では社会や経済の実態が変化し、日本でも「砂漠」が生まれつつあります。

ここで言う「砂漠」とは人生で必要な何かが枯渇し死亡可能性が高くなる状況です。精神疾患の診断数は増加し、いじめやハラスメントの報告件数も増加、自殺者数もここ50年で増加してきました。また少子高齢化も著しく労働力人口率の下がる人口オーナス期に入り、経済成長率も低迷しております。社会を支える余力は下がり、コロナ禍もそれに拍車をかけております。

この現況に変革・改革を唱える声もありますが、その中には人にやらせ自分は甘い汁を吸おうとするスタンスの人は少なくありません。最近では日本人の寄付の少なさや人助けの意識の低さを伝えるニュースが聞かれました。「砂漠」があるはずの日本でそのような現状があることは残念です。

私はそれを無視しないために、他人と良好な関係を築くためには因果応報予定説の知識は大事だと思いました。

今なお続くコロナ禍は苦しい戦いですが、今回述べたことを武器に強く生きていきたいと思います。この記事をご覧になった方々にもパワーを分け与えられたらと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2022年2月11日

日本の放送利権争奪戦争

こんにちは、ずばあんです。

 

今回はテレビの「放送利権」の取り合いについて話します。

 

「放送利権」とは、日本においてテレビのチャンネルを一企業が半永久的に占有し営業活動を行えるという現状を表現したものです。

 

かつてテレビ局が次々と新しく誕生していた時代にはこの放送利権を巡る争奪戦はし烈なものであり、行政当局や地域社会を巻き込んだものでした。

 

では日本の放送利権の争奪戦争がどうして起こるのか、そしてそれはどこまで激しかったのかについて語ります。

 

 

【チャンネルの椅子取り合戦】

 

日本の放送法制では、テレビは放送免許を与えられた者のみが許されます。その免許を与えるのは行政機関(郵政省→総務省)で、行政が定めた全国チャンネルプランに基づき各地域でのチャンネルが定められます。ゆえに実際に開局するチャンネル数には限りがあるのです(通常は1回につき1地区に1チャンネルでした)。

一方でテレビ放送に参入希望のある出願者の数には制限はありません。開局枠1つに対して、出願者が1名だけならば問題はありません。しかし2名以上ですと1つの枠を取り合うことになります。そのため複数の出願者のなかから放送局を実際に開局する1名を決めなくてはなりません。

複数の出願者から開局する1名を決める方法は2つあります。まず1つ目は出願辞退者を待つことです。もし1つの枠に2名の出願者がいればもう片方が辞退するのを待つのです。しかし出願者の間での競争が激しい場合は双方相引かずという状況になります。もしそうなればいつまでも開局する者は決まりません。

 

そこで実際にはもう1つの方法が主にとられました。それが「一本化作業」でした。一本化とは複数の出願者を「相乗り」させて1つの出願者にまとめるという作業でした。一本化では「調整役」と呼ばれる有力者が複数の出願者と交渉して作業を進めました。そこでは開局後の局の役員や資本の割合について交渉を重ねます。

一本化が終わるとその事業者に仮免許が与えられ、それから放送用施設が完成しそれが十分であることを行政当局が確認してから本免許が与えられ試験放送、本放送が始められるのです。

 

この一本化は1950年代の田中角栄郵政大臣が始めた作業でした。当初のテレビ開局の一本化作業では田中大臣が調整役となっておりました。後に1960年代から1980年代までのテレビ局の開局では都道府県知事地方議員、地方選出の国会議員が主に調整役となり、1990年代以降には郵政省(今の総務省)が主に調整役となっております。

 

この事を前提に日本のテレビ開局の出願について語ります。

 

 

【放送局開局の出願傾向】

 

日本で民放ラジオ放送局が全国各地で開局し始めた1950年代前半にはラジオ開局の出願者はほとんどが新聞社(全国・地方問わず)でした。これはメディア経営のノウハウの蓄積や強力な資本力という圧倒的な強みが新聞社にあったことが第一でした。それに民間放送という新しいメディアへの進出について、新聞社は前向きの姿勢を見せたのに対してその他の多くの企業が様子見の姿勢をとったという事情もありました。

 

その後ラジオ・テレビともに有力なビジネスの可能性が明らかになると、新聞社以外の多くの一般企業個人も出願に加わるようになりました。1つの開局枠への出願者数は次第に多くなり、1950年代には1名から5名未満がほとんどだったのが1960年代後半には10名以上も珍しくなくなりました。

 

(*ちなみに使用できるテレビのチャンネル数の増加も平行して行われました。

1950年代はじめは1~6チャンネルのみが使用可能でしたが、1950年代半ばに7チャンネル~11チャンネルが解禁され、1960年代前半に12チャンネルが解禁されました。

さらに1960年代後半にはUHF帯の電波がテレビ放送で使用可能となり、1968年に33~62チャンネルが解禁され、1970年に13~32チャンネルも解禁されました。

現在の地上波デジタルテレビ放送は物理13~52チャンネルのUHF帯を使用しております。)

 

1970年代になりますと、テレビ産業は巨大なものとなり、全国ネットワークも成熟した時期となっておりました。

さて、この時期になるとテレビネットワークとそのキー局ごとに全国紙が資本面で支配力を強めるようになりました。それまでは先の一本化の名残から、キー局などの資本に複数の全国紙が相乗りすることは珍しくありませんでした。しかし会社の資本とネットワークのズレが起きたことから、その整理が局を越えて行われました。

こうして1974年頃までに日本テレビは読売新聞が、TBSは毎日新聞が、フジテレビは産経新聞が、NETテレビ(今のテレビ朝日)は朝日新聞が、東京12チャンネル(今のテレビ東京)は日本経済新聞が独占支配することになりました。新聞社がテレビとテレビネットワークへの支配を強めたのです。

そしてこれがその後のテレビの開局出願競争を苛烈なものにする切っ掛けとなりました。

 

1970年代後半に静岡県で3番目のテレビ局の開局枠が設定されました。そこにはすぐに出願者が現れましたが、その数は前例の無い400名近くに及びました。

実はこの約400名のほとんどは全国紙である朝日新聞読売新聞のいずれかの関係者でした。それが分かったのは、異なる出願者の提出した書類の事業所の住所の欄に同じ住所が書かれている例が沢山あったこと(全出願者は事業所の住所によりたった11に分類できたとのことです)と、その中に朝日新聞や読売新聞の関係者がいたことからでした。

朝日新聞と読売新聞はそれぞれテレビ朝日日本テレビを支配しておりますが、当時の静岡県に両局の系列局はありませんでした。そして当時の静岡県の人口は400万人以上とテレビ市場として魅力的な土地でした。

何としても取り逃したくない市場を獲得するため朝日新聞と読売新聞はともに出願で人海戦術に手を出したのです。

電波監理局や政府は前代未聞の事態に直面しました。当時の政府は事態の収集をつけるため静岡県に割り当てられた開局枠を当初の1つから2つに増やし、朝日新聞(とテレビ朝日)と読売新聞(と日本テレビ)のテレビ局(*)をともに開局させました。

(*1978年に日本テレビ&テレビ朝日系列の静岡県民放送が開局。

1979年に静岡第一テレビの開局と同時に、静岡第一テレビ日本テレビ系列に、静岡県民放送はテレビ朝日系列となる。)

 

しかしこの前例によりそのあとのテレビ開局の出願で人海戦術が続発することとなりました。テレビネットワークを強めたい朝日新聞と読売新聞はもちろんその他にも「模倣犯」が沢山出て参りました。特に長野県第4局や鹿児島県第4局では出願者が1000名を越し、出願者の整理と一本化に甚だしい時間(1984年~1990年代前半)がかかり枠割り当てから開局までに10年近くかかりました。

 

その後政府が1986年に「全国4局化構想」を発表し全国に当時の民放4ネットワークを拡大する青写真を描いたときもこの問題に直面しました。そのためか1990年代以降の一本化調整では政府機関である郵政省が出てくることになりました。国策のためにこの出願者の人海戦術は無視できなくなったのです。

 

 

【各新聞社・ネットワークごとの開局戦争】

 

ここまでは日本のラジオ・テレビ史全体の視点で開局戦争を語りました。

 

ここからは各新聞社・テレビネットワークごとの大まかな開局戦争史を語ります。

 

日本テレビ系列・読売新聞

 

読売新聞傘下の日本テレビは開局当初から全国ネットワークを志向しておりました。1950年代の読売新聞のオーナーの正力松太郎氏は全国一円の放送事業を考えておりました。日本テレビは1953年に東京で開局しましたが、この時は日本テレビ一社で全国放送を行う計画でした。しかし当時の放送法制・政策や経済的制約からそれは叶いませんでした。

そのため日本テレビは1950年代に開局した地方のテレビ局を自社のネットワークに取り込むことにしました。東北地方や北陸地方中四国地方の地方局のほか、大阪・名古屋に読売新聞系のテレビ局(*)を設け日本テレビ系列に取り入れました。

(*名古屋では当初トヨタ・読売新聞資本の名古屋テレビ[1962年開局]が日本テレビ系列でしたが、1973年にネット関係を解消しました。それから今まで中京テレビが日本テレビ系列、名古屋テレビテレビ朝日系列となっております)

その後も九州地方などの日テレ系列の存在しなかった地域で読売新聞・日テレともに開局戦争に攻め入り、自社のネットワークを広げました。特に日テレ系列専属のテレビ局の確保には躍起になり、平成に入ってまで同じく専属局の確保に貪欲なテレビ朝日朝日新聞との競争を各地で行いました。

 

②TBS系列・毎日新聞

 

TBS東京放送(1961年までKRTラジオ東京)は1952年にラジオが、1955年にテレビが開局しました。テレビでははじめTBSとその他の大都市の放送局で五社同盟(TBS・北海道放送中部日本放送朝日放送RKB毎日放送)を結び、1950年代のうちに東北・中部・中国地方・九州の地方局も巻き込みTBS系列を形成しました。

なおTBSは当初は毎日新聞のほか読売新聞、朝日新聞などの資本が入っておりましたが、1970年代に毎日新聞資本に統一されました。1975年には大阪で、これまで毎日新聞資本でありながらNET系列だったMBS毎日放送朝日新聞系でTBS系列だったABC朝日放送のネットワークを入れ替え、MBSをTBSの系列に迎え入れました。

1970年代からはTBS系列の無かった県にも系列局を開局しました。なおTBS系列の開局に当たってはネットワークの協定により各局の各地域の地方紙の資本への参入が義務付けられております。またUHF波で開局したテレビ局の社名に「テレビユー」と名付けられた時期もあります(福島、山形、富山の3局)。

 

③フジテレビ系列・産経新聞ほか

 

フジテレビ産経新聞資本のテレビ局として1959年に開局しました。なおフジテレビ系列の関西テレビ産経新聞資本として1958年に開局しました。

この系列の特徴としては、産経新聞資本の系列局が少ない点です。産経新聞自体は全国紙でありながら発行部数やシェアなどの規模が小さく、系列に対する影響力は小さいです。

その代わりに産経新聞と業務提携している地方紙の資本が入るテレビ局は多く存在します。産経新聞は北海道の北海道新聞中部地方中日新聞、九州地方の西日本新聞と業務提携をしております。フジテレビ系列にはこれらの新聞社の資本が入ったテレビ局が少なからずあります。

ネットワーク初期(1959~1968)からの系列局を見ても名古屋の東海テレビ中日新聞資本であり、福岡のTNCテレビ西日本西日本新聞資本です。その後開局したフジテレビ系列の放送局を見ると中日新聞資本(一部は産経新聞資本との相乗り)の局は北陸地方や長野・静岡に、西日本新聞資本の局は九州地方一円に存在します。北海道新聞資本もUHB北海道文化放送(1972年開局)が存在し基幹局として重要な役目を担っております。

こうしてフジテレビ系列の各局は1960年代後半から1970年代半ばにかけてほとんどが開局しました。そしてこの時期開局の放送局の特徴でもありますが、地元の財界や政界などの有力者や有力企業が関わる放送局が多く含まれます。

そして平成に入り新たに3局開局しましたが、当時のフジテレビのポップ路線が反映され「岩手めんこいテレビ」「さくらんぼテレビ山形県)」「高知さんさんテレビ」という可愛らしい名前がつけられました。

 

テレビ朝日系列・朝日新聞

 

テレビ朝日はNET日本教育テレビとして、出版社の旺文社などの共同出資により1959年に開局しました。NETは同年開局のフジテレビと比べネットワークの拡大増強が大幅に遅れました。特に専属契約局やメインネット局は平成はじめまで10局前後でした。

それは開局から14年間は普通のテレビ局ではなく、教育番組の放送を一定以上義務付けられた「教育局」として放送を行っていたことが挙げられます。普通のテレビ局よりも視聴率競争などで苦境に置かれておりました。

1973年からNETは教育局から普通の放送局となりましたが、その後しばらくは本局や系列が弱い状況が続きました。

 

一方で朝日新聞は1970年代前半までNETのほか日テレ、TBS、東京12チャンネル(今のテレビ東京)の資本にも参加しており報道番組の製作にも協力しておりました。その後各局の資本を整理する段階で、朝日新聞は元々日本経済新聞の資本も入っていたNETを単独支配しその他の在京局から手を引きました。

「②TBS系列・毎日新聞」でも語った通り、1975年には大阪にて、朝日新聞資本でTBS系列だったABC朝日放送と、毎日新聞資本でNET系列だったMBS毎日放送のネットワークを入れ替え、ABCを自社のネットワークに組み入れました。

そしてNETの局名も1977年にテレビ朝日へ変更しました。

その後は静岡、長野、福島、新潟に自社の系列のテレビ局を開局させ、先述の通り読売新聞との激しい競争を始めました。そして政府が1986年に全国4局化構想を発表すると、1987年にテレビ朝日は専属系列局の倍増を宣言しました。1989年から1996年にかけて朝日新聞と協力しながら全国に系列局を開局させ、専属系列局を12から24まで増やし公約を実現させたのです。ちなみにこの時に開局した系列局は長崎文化放送(1990年開局)を除き全て「○○朝日放送(テレビ)」と名付けられております。静岡県での系列局の元・静岡県民放送(通称:けんみんテレビ)も1993年に「静岡朝日テレビ(SATV)」に改称しました。 

 

 

テレビ東京系列・日本経済新聞

 

テレビ東京は1964年に東京12チャンネルとして開局しました。当初の設立者は財団法人日本科学技術振興財団でした。開局時は教育局として当法人の授業放送が行われました。しかし開局から2年で放送規模の縮小や経営危機が訪れます。

それに伴い1968年に株式会社の東京12チャンネルの経営となり朝日新聞日本経済新聞(日経)の資本が入り、1972年に日経単独資本に、1973年には教育局から普通の放送局となりました。そして局名も1981年にテレビ東京となりました。

 

さてこの放送局は長らく関東ローカルの独立局(どこのネットワークにも属さない放送局)でした。それが変わったのは1982年のことで、大阪府の日経資本のテレビ大阪を自社初のネットワークに組み入れたのです。

そこから日経と協力し全国の大都市に着々と系列局を開局させ、現在は全6局系列となっております。

なお系列6局の本社のビルはテレビ東京を除き全て「(都市名)日経電波会館」と名付けられております。テレビ東京も2016年に虎ノ門ヒルズに移転する前の本社は「日経電波会館」に入居しておりました。

 

 

【地方紙の開局戦争】

 

 

これはネットワークの話題からは外れますが、放送利権戦争において手強い戦士として地方紙の縦横無尽ぶりを紹介します。

 

各地域の地方紙はその地域の最古参の放送局に出資主要株主になるなど強い影響力を持つほか、その地域の複数の放送局に大きな支配力(*)を持つことがあります。また放送局と業務提携契約を結ぶなどして報道などで強い影響を与えることがあります。

(*複数局への資本面での支配は省令の「マスメディア集中排除原則」で規制されております。そのため資本占有の大きさはどこでも大きいという訳ではありません。)

 

先ほどの章の 「③フジテレビ系列・産経新聞ほか 」でも有力地方紙の西日本新聞中日新聞などの力について紹介しましたが、それらの地方紙の力についてまだ語っていない部分を説明いたします。

 

(1)西日本新聞の場合

西日本新聞TNCテレビ西日本など九州のフジテレビ系列7局に資本参加するほか、福岡県のTVQ九州放送やFBS福岡放送にも主要株主として資本参加しております。このほか出資割合が小さい放送局も含めるともっと多くなります。西日本新聞の影響力が一番大きいのはTNCであり報道番組などで番組製作協力をしております。そして放送事業以外にも九州のフジテレビ系列のテレビ局で西日本新聞関連の文化事業を共同で行う例もあります。

 

(2)中日新聞の場合

中日新聞は愛知県(東海地方向け含む)に本拠地を置く放送局のうちCBC中部日本放送東海テレビテレビ愛知、ラジオ単営の東海ラジオに資本参加、番組製作協力しております。このほか三重県三重テレビ(独立局)とも資本・報道で関わりが深く、東海テレビと同じフジテレビ系列の富山テレビ石川テレビ福井テレビ(いずれも北陸地方)とも中日新聞北陸本社(北陸中日新聞)などを通じて中日新聞との関わりが深いです。長野放送テレビ静岡も同じ系列ですが、こちらは産経新聞と共同出資しております。これらの放送局のニュース番組には中日新聞が製作協力しております。

また東京都の独立局・東京MXテレビには中日新聞東京本社(東京新聞)が第2株主として出資しております。

 

(3)北海道新聞の場合

北海道新聞は民放解禁時にHBC北海道放送の設立に関わりました。その後1972年にUHB北海道文化放送を開局させると、UHBとの関係を密にしていきました。UHBの圧倒的な第一株主であり続けるとともに報道番組の製作で協力してきました。

その後1982年にFM北海道を開局させ、1989年にTVhテレビ北海道(第3株主)が開局するとそれらに資本のほか番組製作で協力することになりました。

 

(4)宮崎日日新聞の場合

宮崎日日新聞(宮日)は宮崎県で1954年にラジオ宮崎(今のMRT宮崎放送)を開局させ、資本参加のほか報道番組製作に大いに関わりました。その後1970年にUMKテレビ宮崎を開局させると、マスメディア集中排除原則を理由にMRTの資本の多くを手離します。UMKの開局から数年は宮日は当局の筆頭株主でありつつニュース番組の製作に全面的に関わりました。今でも宮日はUMKの資本に参画しております。

1984年にはFM宮崎の設立にも関わり、宮日と関係の深いテレビ宮崎の敷地に本社が作られました。それ以来宮日はFM宮崎の第1株主であり報道番組の製作協力をしております。

このように宮崎日日新聞は宮崎県の県域民間放送局の全てに参画し、地元メディア界の形成に並々ならない存在感を示してきました。

 

 

(1)~(4)の例を挙げましたが、これらの他に一新聞社や企業が複数放送局を支配、所有する例はあります。株式にせよ実務にせよ放送局と深いコネクションを持つ例は日本において少なくありません。

 

 

【おしまいに】

 

ラジオやテレビの開局にあたり、どの会社が実際に放送を行うのかを競う出願競争は聞いたことがある話でした。しかし詳しく調べるとそれが物凄く過激な争いに至ったことが分かりました。

 

日本の放送法制では開局枠があらかじめ決められておりますが、そこに出願するのは無制限です。テレビが有力産業となった1960年代以降はテレビ開局枠に多数の出願者が群がりました。そしてさらに時代が下ると大手新聞社などが多数のコネクションを利用し人海戦術を展開し代理戦争を繰り広げました。

 

今となってはネットに広告費でテレビが負ける時代となっており、テレビがかつて有力産業だったと言われても正直疑問符がつきます。

ただテレビが花形産業だった時代を生きてきた人々が何をもってテレビに希望を抱いてきたのかを調べるのはとても面白いことでした。テレビは昔からある層からは「虚業」として揶揄されることもありました。ですがそのテレビがどのように有力産業となりどれだけの競争を招いたのかを見ると、テレビの力や放送の力は侮れないと思いました。今回はそれを歴史から調べて確認する試みでした。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2022年1月11日

 

あけましておめでとうございます。~2022年~

皆さまあけましておめでとうございます。

ずばあんです。

 

今年は2022年令和4年です。

 

今年でこのブログは3年目となります。今年も面白い興味をひく記事を出していきます。

 

現在も今後出す予定の記事をいくつか編集中です。近日中には今年一発目の記事の発表を予定しております。

 

今年も私のブログ「ずばあん物語集」をよろしくお願いいたします。


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2022年1月1日

今年もありがとうございました。

ずばあんです。

 

2021年も当ブログを多くの方にご覧いただきありがとうございました。

 

2021年は多くの出来事があり、また私も学んだことがたくさんありました。それについてブログの記事でまとめて参りました。

 

このブログを書くという行為は私のなかでこれまでにない変化をもたらし、私のなかでいまだかつて出会わなかったものとの出会いをもたらしました。

 

来年もブログは続きますが、来年もまた新しい発見があると思われます。これからもよろしくお願いします。

 

それではよいお年を。

 

2021年12月31日


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全国ネットとローカル放送

こんにちはずばあんです。

 

今日は、全国ネットローカル放送について日本の実情を話します。

 

私はこれまでのテレビ放送に関わる記事を3つ書きまして今回がそのシリーズの4本目となります。

3本目の記事「地方のテレビ局はなぜ少ないのか」で既に地方局の存在意義について語らせていただきましたが、今回はそれと対応しつつ全国ネットについても話を広げていきます。

 

さて早速雑談ですが、最近のテレビ欄を見るとどこの放送局もニュースと情報番組が日中ほぼ切れ目なく放送されております。三時間もの尺の情報番組は珍しくなくなりました。

これが20・30年前ですともっと他のジャンルの番組もあったはずです。

 

ではなぜこうなったのでしょう。実はこれも今回の話題と関わりのあることです。この現象は昭和後期のAMラジオ放送で既に起こっていた現象でした。

 

この事を意識しつつ話をしていきたいと思います。

 

 

【全国ネット/ローカル放送とは?】

 

まず、全国ネットとは?ローカル放送とは?という話に入ります。

 

全国ネットは全国に張り巡らされてある放送ネットワークの系列局の全てに向けて放送される番組放送スタイルです。同じ内容の番組を全国で視聴できるのが全国ネット番組です。

なお、放送ネットワークとは全国ネットの番組を放送するための複数の放送局の協定です。民放の場合、このネットワークに加盟した放送局はネットワーク会員費を払い、ニュース番組の製作への協力などいたします。その一方で放送局は全国ネットの番組を追加費用なく流しかつその番組のスポンサー収入を得られるという恩恵を得られます。全国ネット番組における営業活動もネットワークのキー局が一括して行うので、営業の効率化・合理化にもなります。

NHKも中央から地方まで単一組織で受信料収入となり民放とは事情が変わりますが、ネットワークは全国にくまなく整備されております。

 

全国ネットに対しローカル放送とは、全国ネットではない放送全般を差します。具体的に言えば、自局が製作した番組を自局あるいはごく限られた地域で放送する形態を差します。この場合自局で製作した番組のスポンサー収入を自局のみが受けとることとなります。

なお実際には全国ネットではないものの限られた地域内の複数の放送局(九州地方限定など)で同じ番組を同じスポンサーでネットするという放送の仕方もあります。これは全国ネットのやり方を特定の地方限定でしており、地域ネットと呼ばれることがあります。ローカル放送にはこの地域ネットも含まれます。

 

ここまでは全国ネット/ローカル放送の原則的な話でしたが、全国で放送される番組の中には全国ネット番組ではないのにも関わらず全国で放送される番組があります。

それは全国ネットとは異なり各放送局が製作局に放映権料などのお金を支払い放送することとなります。これは放送局間での番組の売り買いになるので「番販ネット」と呼びます。番販ネットでは、他局製作の番組のスポンサーを自局で募ります。これはネットワークのシステムが生まれる前の放送局の基本的な経営スタイルです。

この番販ネットが行われるのは基本的に自局のネットワークに加盟していない他の放送局の番組を流すときです。自局がどこのネットワークにも属していない独立局の場合でも同じです。

例えばアニメ「ポケモン」は全国で放送されておりますが、放送するテレビ局の大多数は製作局のテレビ東京の系列では無い放送局です。ポケモンは日本はおろか世界で有名なコンテンツで、ポケモンのアニメはどこの放送局も欲しい人気番組です。そのためテレビ東京系列ではない沢山の放送局もお金を払って放送するのです。

 

 

 

【日本の全国ネットの歩み】

 

日本で初めて全国ネットの放送網を作ったのはNHK日本放送協会です。NHKは1926年に東京、名古屋、大阪にあった一般法人のラジオ局を統合して発足しました。この後から日本全国にNHKの支局が作られていきました。それとあわせて1928年(昭和3年)から全国ネット用の中継回線が整備され始めました。

 

全国ネット中継回線が整備された理由はこの当時は昭和天皇が即位されたばかりで、ラジオでも新聞同様のニュース速報を全国で一斉放送する必要性が叫ばれたからです。この当時のNHKはニュースは朝日新聞毎日新聞など大手新聞社から配給を受け、自局製作のニュースは製作しておりませんでした。全国ネット回線が作られると1930年にNHK局内に正式な報道部門が整備されました。

 

戦後1950年代からはNHKのテレビが開局し、民間放送のラジオやテレビも解禁され全国で開局しました。この当時テレビなどが使うマイクロ波回線が1954年から当時の電電公社(今のNTT)により整備され、テレビでも全国ネットの放送が可能となりました。

 

NHKのテレビ全国ネットワークは迅速に整備されました。東京の本局を中心にそこから全国の支局に一斉放送できる体制が出来ました。

 

民放テレビでも1950年代から60年代にかけて東京キー局を中心に全国ネットワークが整備されました。この時にTBS系列、日本テレビ系列、フジテレビ系列、NET(日本教育テレビ、今のテレビ朝日)系列が作られました。これは1964年の東京オリンピックの全国中継で大いに活躍しました。このネットワークは1960年代後半から各局でどんどん強化され全国ニュースの製作協定や番組の全国ネットの協定が正式に整備されました。

 

本来民間放送は東京キー局、準キー局、地方局に関わらず自社のみで全国放送することは出来ません。それぞれの放送局がローカル局なのです。そのため民放テレビが全国放送をするときにはネットワークを組むのは不可欠でした。

また、地方局はキー局や大都市の準キー局に比べて番組製作能力が弱く、ニュースや天気予報など簡単な生放送の番組以外は作っておりませんでした。特にテレビ放送開始時に人気であったドラマは俳優や機材、セットなどの調達・手配の関係で東京や大都市のテレビ局しか製作できませんでした。そのため地方局の一日のプログラムを組むときに全国ネットの番組を流せるのはありがたいことでした。

 

そして郵政省など行政当局も、当初は放送法にある通り一放送局が他の放送局に番組を一方的に配給する契約(*)を規制する方針でしたが続々と地方テレビ局の開局が進むなかで、1959年には放送を管轄する郵政大臣が「ネットワークは放送局の円滑な経営のために必要」とネットワークを肯定する立場に移りました。

(*この放送法の規定は現在の全国放送ネットワークについて、ニュースや情報番組、バラエティ番組など地方局発(近畿、東海含む)の番組発信の実態を鑑みて、「一方的な番組の供給」ではないとしております。)

 

なおAMラジオの全国ネットはテレビより一歩遅れました。ラジオのネットワークはニッポン放送文化放送系列の「ナショナルラジオネットワーク(NRN)」とTBSラジオ系列の「ジャパンラジオネットワーク(JRN)」の2系列存在します。そして両者はテレビで既に全国ネットが整備されていた1965年に共に成立しました。

ネットワーク形成が遅れた理由はラジオ番組は音だけなので地方局でも簡単に製作しやすく、かつ他局の番組はもっぱら録音テープでやり取りしておりそちらが安価ですむため、ラジオ番組をネットワークで中継する必要性が薄かったからです。

 

 

高度経済成長期以後はテレビの全国ネットの拡充がなされていきました。

テレビ放送黎明期から事実上の全国ネットを確立していたTBS系列や日本テレビ系列のほか、1968年~1970年に系列局を以前の3倍近く増やしたフジテレビ系列、昭和時代は大都市以外でのネットが弱くも1990年代に専属系列局を2倍増やしたテレビ朝日系列、そして元々独立局でしたが1982年に初めてネットワークを立ち上げ今では大都市圏を結ぶネットワークを築いたテレビ東京系列が形成されました。

 

また民放FMラジオでも1980~90年代にかけて全国で民放FM局が開局すると、JFN(ジャパンFMネットワーク)やJFL(ジャパンFMリーグ)などの全国ネットワークの本格的な整備がなされました。

 

 

【日本のローカル放送の歩み】

 

日本初のラジオ放送は東京、大阪、名古屋の三放送局で行われておりました。当初ラジオは中継回線が無く各放送局の番組は全てローカル番組でした。芸能番組を主としラジオ番組が組まれておりました。

 

1928年にNHKの全国中継回線が整備されると(今のNHKラジオ第1)、ローカル番組の割合は小さくなり東京からの全国ネットの番組がニュースを中心に増えました。

その後ローカル放送を希望する声が高まり1930年代半ばに地方のNHKでも各地の地方紙の協力によりローカルニュースの放送が始まりました。

1941年に太平洋戦争が始まるとNHKの放送も戦時体制となり全国ネットの番組が大半となります。しかし視聴者の希望からすぐにローカル番組の枠が増やされ、各地の放送局で芸能番組が作られました(時局ゆえに戦時色の強いものがほとんどでしたが)。

戦後のNHKは全国・ローカルの放送もGHQの管理下に置かれ「民主主義」をアピールすべく視聴者参加型の番組が作られました。

 

そして1950年に放送三法(放送法、電波法、電波管理委員会設置法*)が整備され、放送の「民主化」が行われました(*電波管理委員会設置法は1952年に廃止)。具体的にはNHKの公共放送化民間放送の解禁がなされ、日本の放送・表現の自由が正式に保証されたのです。

この時期からNHKは報道部門を自社で完結させ、独自の報道機関となりました。そして全国ネットの番組を東京から放送し、それ以外の時間は各地の放送局でローカル番組を放送するという今のような製作、編成体制になりました。

 

一方各地に開局した民放ラジオ・テレビは不思議な発展をしました。日本の民間放送は、放送法では各地域のみの放送免許(1960年代後半までは都市単位、1960年代後半以降は都道府県単位)を付与されローカル番組の製作を義務付けるなど、法制度上はローカル放送を強化することになっておりました。

 

しかし現実には民放ラジオ黎明期は大都市の放送局同士、あるいは各地方のラジオ局同士でネットワークを締結する例が見られました。ラジオ東京(今のTBS)とその他大都市の4局を結んだ5社協定や四国の4局を結ぶ四国放送同盟、福岡のRKB毎日放送と長崎のNBC長崎放送を結ぶKNS協定等が作られました。ネットワークは番組製作能力の小さい放送局がお互いにプログラムの充実を図れる有効な方法だったのです。やがてそれは全国ネットワークにも及ぶのです。

 

テレビの場合は特に顕著で、テレビ放送初期は東京キー局や大都市のテレビ局以外の地方テレビ局はローカル番組の製作をニュースや天気などの生放送番組に限っておりました。テレビ番組の製作にはセットや設備など多大なお金がかかり、俳優の手配などで地方は圧倒的に不利だったからです。当時人気のテレビ番組はドラマやスポーツ中継でしたが、これらは東京や大阪などの大都市が製作において圧倒的に有利でした。そのため地方局は人気コンテンツの確保のためローカル番組よりも全国ネットの番組を放送したがったのです。

 

しかしその後1950年代後半より高度経済成長期に入ると地方から東京など大都市への激しい人口移動が起こりました。地方の過疎化問題は顕著になったのです。そのため各地方で自分の地域の情報へのニーズが高まったのです。また公害も各地で発生し四大公害水質汚染、大気汚染、騒音などが日本各地で起きました。そこで一国経済や企業の利益追求とは異なる住民の視点への関心が高まりました。

 

これがラジオやテレビのプログラムに反映され、各地の放送局では地域の情報番組や報道番組を拡充する動きが多く見られました。一例として、青森のRAB青森放送では1970年より朝にローカルニュース「ニュースレーダー」の放送が始まりました。当番組では地域のニュースや情報、天気予報を幅広く放送しました。そして番組内では他県に住む青森県出身者へのインタビューコーナーも存在しました。当時の青森県は大都市への人口流出や冬の出稼ぎが多かったのです。そんな県外の青森県人の声をローカルのプログラムで採用したのがこの番組でした。

この番組は地域の人々のためのローカル番組として放送業界にインパクトを与え、福島や千葉、富山、徳島、高知などで同種の番組が製作されました。

(*この「ニュースレーダー」はその後1977年より夕方の枠に移動し現在も放送されております。)

 

その後1973年の第一次石油危機後は急速にその動きが強まり、ローカルテレビ局ではローカルのワイドニュースやドキュメンタリー番組NHK民放共にどこの局でも製作が始まりました。特に夕方のローカルニュースはこれまで5分程度だったものが一気に20分や30分に拡大しました。

 

民放ラジオでは1960年代後半よりテレビに聴取者を取られました。そのためラジオはテレビとの差別化のため、これまで短時間の番組を多彩な種類で多数放送していたのを、長時間のローカルの生放送の情報番組に変えました。その際には各放送時間帯のコアとなる聴取者層(例:昼→主婦、深夜→若者)に焦点を当てた番組製作(これをセグメント戦略と呼びます)がされました。全国ネットでも「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)の製作が始まったのもこの時期でした。

 

その後1980年代からはテレビのローカル放送のバラエティ番組の製作が始まりました。時間帯は主に深夜でした。毎週放送もあれば、平日毎日放送の番組もありました。福岡のKBC九州朝日放送の生放送バラエティ番組「Duomo(ドゥオーモ)」等がこの時期より放送が始まりました。

このローカルバラエティ番組には後に全国でも放送されたものがあります。北海道のHTB北海道テレビの「水曜どうでしょう」は、1996年から製作されましたが、出演者やスタッフによる自由な発想による企画をチープなスタイルでロケ・編集し放送しておりました。この番組は北海道ローカルでしたが後に全国の他局でも放送され全国的に人気になり、放送終了後も伝説的な番組として有名になりました。

 

その後テレビはネットとの競争に入りやがてマルチメディア時代に入りますが、その中で全国、ローカル共に長時間の情報番組の製作が始まりました。これはかつてのテレビ隆盛期のラジオ放送と同じ流れです。今や三時間以上の情報番組は珍しくありません。ローカル局によっては朝と夕方にそれぞれ三時間以上ローカル情報番組を放送することもあります。

 

またローカルのバラエティ番組を製作する動きも2010年代に入り再燃し、お笑い芸人などの芸能人を採用する番組が全国各地に見られます。これは2000年代後半までの激しいお笑いブームでデビューした沢山の芸人が、ブームの終了後全国ネット番組のみならず地方局のローカル放送にも営業をしているという背景もあります。

 

このように近年のローカルテレビ放送は地域情報番組の拡充ローカルバラエティ番組の製作というムーブメントが伺えます。

 

 

【日本と外国の全国ネット】

 

日本の全国ネット放送は、NHK東京放送局を中心に、民間放送は東京のキー局などを中心に行われております。

 

日本で初めて全国ネット放送を行ったのはNHKですが、当時より今のようなネット体制となっておりました。NHKの全国ネットのトップはNHK本部にある東京放送局ですが、さらにその下に各地方毎に地方内ネットの中心を務める「拠点放送局」があります。(関東甲信越地方は東京放送局の管轄です)そしてこの拠点放送局の下に各都道府県毎の個別の放送局があるのです。

 

このためNHKのネットワーク放送の区分には、「全国ネット」「地方ネット」「ローカル放送」の3区分があることが分かります。

 

このNHKのシステムを民間放送のネットワークも踏襲し、東京のキー局をトップにその次点に各地方の基幹局があり(*)、その下に個々のローカル局が存在します。

(*民放の基幹局とその管轄地域はそれぞれのネットワーク毎に割り振り方が異なります。そしてその時々の事情(ネットワークからの離脱や新局の開局など)で変更されることもあります。)

 

これはイギリスの公共放送BBCのネットワークのシステムによく似ております。イギリスもロンドンの放送センターによる全国ネットをトップに、様々な段階でのネットワークの区分けを想定し、一番基底の部分は各放送局のローカル放送となっております。

なおイギリスは日本と異なり海外領土や旧植民地(コモンウェルス各国)を擁し、そこでもBBCは放送を行いネットワークを結んでおります。そのためBBCは複数局ネット/ローカル放送の区分を日本の3つよりも多い6つ設けております。

 

一方でこのBBC型と異なるのがアメリカの放送ネットワークです。アメリカのネットワークは加盟局は全てローカル放送局であり、ネットワークの元締め業務に専念する会社はそれらと別に存在します。全国ネット番組は各加盟局や番組制作会社により製作され、ネットワークの元締めにより各局に配信されます。アメリカの民放ネットワーク(地上波放送)は主にNBC、ABC、CBS、FOX-TV、The CW TV network があり、公共放送ネットワークはPBSがあります。このシステムはイギリス初の民放テレビ・ITNネットワークも採用しております。

 

またヨーロッパの放送局は公共放送民間放送問わずほとんどが全国を放送エリアとしております。ローカル放送用のチャンネルを除けばそれ以外は全て全国ネットのチャンネルと言えます。(日本のNHK教育テレビみたいなものです。)

ドイツのARDドイツ公共放送同盟は、ヨーロッパでは珍しく、各州毎に公共放送局が別個に作られそれをネットワークで結ぶ形がとられます。これはかつてのナチスが全国放送でプロパガンダ放送を行ったことへの反省から、ドイツ連邦政府が放送に介入しないこのシステムがとられているのです。

 

 

 

【日本とアメリカのローカル放送】

 

日本で公式にローカル放送局の考えが示されたのは1951年の民間放送解禁の時でした。

それ以前はNHKが日本唯一の放送局であり、日本全国の放送を一元的に行い電波という有限の資源を有効活用する方針でした(この方針は1926年に当時の犬養毅逓信大臣により定められたものでした)。

ですが第二次大戦後のGHQ占領下の日本で「放送の民主化」を行うにあたり、民間放送の解禁が唱えられ、それはアメリカ的な民放のローカル放送のやり方を踏襲することになりました。そしてそれは放送法に盛り込まれることとなりました。

 

このことから日本のローカル放送の考えが民間放送の指針として示され、それはアメリのローカル放送の考えから来ているのです。

 

ではアメリカのローカル放送の実態はどうだったのでしょうか。

 

アメリ1920年代にラジオ放送が始まりました。当初ラジオは誰もが参入可能でしたが混信や番組の低俗化をまねき、政府による調整や規制が本格的にしかれました。

その規制内容は様々ですが、その中に地域のローカル放送を行うことも盛り込まれておりました。地域のニュースや情報、文化を扱う番組の製作が求められました。

そしてそれを行うローカル局は放送エリアが概ね都市圏や郡単位に近いものとなっておりました。すなわちアメリカは事実上の一まとまりの地域をローカル放送の単位としたのです。

これは今の日本の放送局の実態と異なります。日本のテレビ局やラジオ局は、コミュミティ放送局やケーブルテレビを除き、都道府県をベースに放送エリアを定めております。元々政府では日本の放送局は「都市とその周囲の地域」のエリアで放送を行うことを想定しておりましたが、1960年代までに「都道府県」をベースに放送局のエリアを決める方針に切り替わりました。

 

そのため日本のローカル放送はアメリカの放送をベースにしつつ地域コミュニティを志向する一方で、その地域コミュニティが行政の区割りに当てはめられるという矛盾を抱えているのです。

 

それに日本とアメリカでは全国ネットのやり方が異なります。日本では全国ネットの元締めを東京のキー局が行うことが事実上決まっております。そして全国ネット番組の大半はキー局製作で、全国ニュースもキー局製作です。

一方でアメリの全国ネット(NBC、ABCなど)は元締めを行う会社が放送局とは別に存在しております。全国ネットの系列局はすべてこの全国ネットの元締め会社の元にあるローカル局です。これはニューヨークやワシントンD.C.、シカゴ、サンフランシスコなどの重要都市にある放送局も同じです。全国ネットの番組は各系列局や番組制作会社の製作したものを元締めが全国に流します。(全国ニュースはニュース番組製作会社が作ります)

 

このため全国ネットにおける日本のキー局地方局のシステムは、アメリカの全ての系列局がネットワーク会社の元でローカル局であるシステムと異なるのです。(余談ですがアメリカのネットワークのシステムは日本でも1969年にTBSがネットワーク統括会社を設ける案で検討されたこともありました。)

 

 

したがって日本のローカル放送はアメリカの放送を元に指針が定められた一方で、ローカル放送のエリアが地域のコミュニティから行政的な都道府県単位へと変化し、ネットワークの整備のもとで系列下のローカル局がキー局と地方局に分化するという現象が発生したのです。

 

 

【おしまいに】

 

今回のテーマも長い記事となりました。日本の全国ネットとローカル放送を見ていくなかでイギリスやアメリカの影響が強いのが分かりました。またはそこから日本独自の事情が生まれていくのが分かりました。

 

特にローカル放送の制度や思想はアメリカの地域コミュニティに向けての放送が由来なことは面白い事実でした。

今回は都道府県・地方を単位とした放送にクローズアップしましたが、実際は都道府県・地方の単位より小さな範囲の放送はケーブルテレビやコミュニティラジオなどがあります。そちらの役割も本来は詳しく語るべきなのでしょうが、それぞれ膨大な内容となり本題の外の内容も入るので今回は割愛いたしました。いつかそちらも時間があれば語りたいと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年12月17日

 

自民党ってどんな組織?

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は誰でも名前は聞いたことのある自民党自由民主党)の話をしたいと思います。

 

今年の衆議院選挙でも過半数以上の票を守った自民党でした。自民党は一時期を除けば半世紀以上にわたり日本の国政の第一党として続いてきました。

 

そのため政治思想がどんなであれ、この政党のことを意識せずにはいられません。

 

しかしこの政党がどんな成り立ちで、どんな力で続いているのかはあまり分からないところもあります。また自民党所属の議員が自民党を語るときの発言についても「ん?」となることもあります。

 

それでは今日は自民党について客観的な視点から語りたいと思います。


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自民党の現況】

 

自民党は1955年に結党され、以来66年続いている政党です。党の思想的立ち位置は保守中道右派と評されます。現在の主要な国政政党の中では最右翼とされます。

 


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図:自民党本部組織図(自民党HPより)

 

今の党組織について、組織のトップは「総裁」であり、衆議院において議席の大半を占める自民党政権下では総裁が総理大臣を務めます。総裁の次に来るのが「政務調査会長」「選挙対策本部長」です。総裁とこの2役を合わせて「党三役」と呼ばれます。党三役は自民党の幹部の中で有力なポジションとされます。

 

そして党組織の事実上の2番手は「幹事長」です。幹事長は組織のヒエラルキーでは総裁の下に当たりますが、総裁は自民党政権下で総理大臣の務めに専念するので、事実上の党トップの実務は幹事長がずっと代行するのです。(総裁の代行ポジションとして「副総裁」がありますがこれはあくまで非常時のポジションとされ、平時では幹事長が実務を務めます)

 

この自民党には公式の党組織とは別に「派閥」が複数存在します。派閥は派閥内での意見統制人事調整資金協力教育活動などを行っております。自民党に派閥は大小様々存在しておりますが、この派閥の動きは党内の意思決定や自治に強く関連します。先程の党組織の人事にも派閥の影響は表れます。

そのためニュースや報道、言論で自民党を語るときには党組織と合わせて派閥の動きにも着目されます。

 

自民党は今日では公明党連立政権を組んでおります。連立政権とは単独では政権をとれなかったなどで、複数の党同士が政策や内閣人事などで協調してまるで一つの党のように運営する体制を指します。自民党公明党は主に互いの手の届かない固定票を獲得するために1999年より連立政権を組んでおります。

 

 

自民党の歩み】


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写真:自民党結成大会(1955年)

 

自民党は1955年にこれまでの「自由党日本民主党が合体して誕生しました。この二つの政党は思想は共に保守(日米安全保障条約に賛成)の位置付けでした。このような保守2党の合体は当時国会の最大政党で革新派政党であった日本社会党(現在の社会民主党)に対抗するためでした。この時から自由民主党は日本の国会の最大与党としての長い道を歩み始めました。

このときの自民党は旧自由党や旧日本民主党からの派閥が存在し、各派閥の発言力が強い状況でした。そのため自民党は党組織の影響力が弱く、党組織が派閥に従うという状況でそれは1990年代まで続きました。

 

自民党は結党の1955年から1993年まで単独第一党の地位を守りました。この間に自民党出身の総理大臣は日本の国連復帰や高度経済成長下での国民生活の向上などの功績を築いてきました。

 1973年には第一次オイルショックが起き、当事与党であった自民党は速やかな対応に追われました。この時に活躍したのが各省庁大臣経験者とその派閥の議員で形成された族議員でした。族議員は、縦割りで対応の遅い各官庁に代わり、党内での調整により事実上の速やかな一体的な官庁運営を実現しました。この族議員派閥は1990年代まで強い存在感を持つことになりました。

 

その後自民党は1976年に発覚したロッキード事件に続き、リクルート事件(1989)や佐川急便事件(1992)といった収賄事件で政界は国民から信用を失いました。それを受け当時の政権は政治改革に手をつけましたが党内の反発から廃案が重なり上手くいきませんでした、そしてこの時期に党幹事長を勤めた小沢一郎氏らの一派が自民党から脱退新生党を作りました。

そして1993年に内閣不信任決議により衆議院が解散され衆議院選挙が行われ、自民党は野党へ転落しました。

 

その後小規模の革新派の政党による連立政権が与党となった後、各政党の度重なる連立解消と、政権の短期での首相交代が相次ぎました。その中で1994年、自民党は旧社会党やその他の政党と連立して与党に復活しました。

 

その後1996年の選挙で自民党は再び議席過半数を取りましたが、自由党新生党との連立は続けました。

この頃政治運動家出身の菅直人氏らによる民主党が新たに結党され、有力な野党第一党として力をつけてきました。

 

この時代はアジア通貨危機や金融ビッグバンなどの経済政策上の問題が政治の場で上げられ、自民党出身の橋本総理などが首相官邸や内閣の力を強める改革を行いました。そして1999年、自民党公明党と連立政権を築きました

 

その後2001年に小泉純一郎政権が誕生すると、小泉氏はこれまで派閥や族議員の強かった自民党を党組織自体として強くする党内改革を行いました。これにより派閥同士の合議による人事、意思決定から党組織のヒエラルキーによる政策意思決定へと移行したのです。

 

しかしその後は第一次安倍晋三政権から麻生太郎政権まで閣僚や議員の不祥事失言が相次ぎ、2009年の選挙ではそれまで野党第一党であった民主党に打ち破られ、再び自民党は野党になります。

 

二回目の野党時代、自民党公明党との連立を維持し両党の一体的な政策意思決定機構を確立し、闇の内閣として政権奪還を目指しました。

 

そして東日本大震災のあとの2012年の衆院選挙で自民党単独過半数を取り、公明党と共に与党に返りました。同時に安倍晋三が再び総理となり2020年まで総理に就きました。この時代はアベノミクスや安保政策など右派色を積極的に押し出しある一定の保守世論を引き付けました。

 

そして安倍、菅、岸田政権を経てコロナ禍の最中での2021年の衆院選挙では、議席過半数を守り与党としての地位を守りました。

 

このように自民党は結党以来66年もの間、一時期を除き政権第一党の地位を歩んできました。

 

 

自民党の特徴】


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写真:自民党執行部(2021年10月1日)

(自民党HPより)

 

自民党は長らく政権を担ってきた政党ですが、その性格やパワーの源についてはあまり知られておりません。

 

自民党は国防、生活、経済政策などで保守よりの政党ですが、単純に保守思想・政策で一丸となった組織ではありません。

 

それではこれから自民党の性質と強さについて語ります。

 

 

①派閥政治

 

自民党には結党以来派閥が存在しています。この派閥はニュースでも報じられます。どんな派閥があるかはWikipediaの「自由民主党の派閥」(https://ja.wikipedia.org/wiki/

%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E3%81%AE%E6%B4%BE%E9%96%A5)で詳しく記載されております。

2021年11月現在で有名な派閥は清和会(清和政策研究会)、志公会宏池会平成研究会(旧・田中派)があります。安倍晋三氏は清和会、麻生太郎氏は志公会岸田文雄氏は宏池会に属しております。

 

それでは自民党内での派閥はどんな組織でしょうか。

 

まず現状の派閥の機能は、自民党員の教育・指導、派閥内の政策・意見の統一、そして親睦会の機能を有しております。党に入って日の浅い新人党員に党での活動や議員としての活動の仕方を指導するのは派閥の先輩党員です。派閥に属する党員の相談を受け付ける機能があります。政策決定では派閥内で意見を統一するという機能があります。また派閥内での党員の交流も親密であり、国会では同じ派閥の党員と交友関係が築かれ、派閥での交流イベントもあります。

この事から今の自民党の若手議員・党員は派閥に所属することが多いのです。

 

また派閥のうち清和会は自民党内でも政策的により右派的で、それに同調する議員や党員が清和会に属することが多いです。

そのため一部の派閥ではより右派のイデオロギーに共感するもの同士の集合として機能しているのです。

 

これは2021年時点での派閥の実態ですが、本来の派閥はどんな機能を持っていたのでしょう。

 

元々自民党の派閥の機能は4つありました。

(1)所属するメンバーの政治活動資金の融通

(2)内閣や党幹部の人事上の派閥間調整

(3)党内の意思決定上での派閥代表の送り込み

(4)中選挙区選挙での同士討ちの回避

 

元々自民党は2つの異なる政党から成り立ち、それぞれの党出身の党員を自民党内で円滑にまとめるために上の役目を持つ派閥が出来たのです。

 

(1)は政治活動資金という金銭面の話です。政治活動では事務所代や人件費、広告費など沢山の費用がかかります。選挙では選挙活動でより費用がかかります。その費用を提供するのは派閥の代表でした。派閥の代表はメンバーを金銭的にサポートし、中には毎年夏と冬にそれぞれ数百万円の「小遣い」を与える場合もありました。

 

(2)は内閣や党内の人事の話です。自民党政権下では自民党総裁が総理大臣につくことが慣習です。

総理大臣は行政のトップの内閣の代表で、総理大臣が各省大臣を指名します。では総理大臣かつ自民党総裁はどのようにして大臣を選ぶのでしょう?

かつては自民党内の各派閥から満遍なく採用したのです。これは十数ものの大臣の椅子に派閥枠があるようなものです。これは自民党内の幹部組織でも同じで、各派閥から幹部を採用しました。これにより党員間での人事争いが熾烈になることを避けているのです。

しかしここ数十年は同じ派閥のみで組閣や幹部人事を決めたりまたは無派閥議員を登用したりと、必ず派閥間調整がなされるわけではありません。

 

(3)は自民党全体の意思決定の話です。自民党は派閥の力が強大で総裁を含む党幹部の発言力は弱いものでした。そのため党の意思決定は派閥間合議により定める必要性がありました。各派閥の代表が閣僚会議などで合議を行い、それが自民党の意思となったのです。自民党の保守的な部分がにじみ出ております。

しかし橋本~小泉政権での内閣の機能の強化や党組織の強化により、いまは以前に比べて派閥がものを言う状況ではありません。

 

(4)は議員選挙の話です。今とは異なり昔の国政選挙は一つの選挙区から2人以上の議員が選ばれておりました(中選挙区制)。そうなると一つの選挙区に複数の党員を候補者として送り込む事が選挙にとって有利となります。

しかしこれは同じ自民党員が激しい同士討ちをする可能性がありました。そのためそれを回避するため実際には派閥間で話し合い出馬する候補者を調整しておりました

 

ご覧のような4つの機能を自民党の派閥は有しておりました。しかしこれらの機能は収賄の横行や金権政治の防止のための1993年の選挙制度改革や、橋本~小泉総裁による官邸や党組織の強権化という党内改革により喪失いたしました。

しかし、このかつての自民党の派閥の性質は現在の自民党の党員から語られることも少なくなく、今でもそれを希求する党員もおります。このかつての自民党の派閥の性格を把握することは政治のニュースを理解するための助力になるかもしれません。

 

 

②党地方組織と後援会

 

選挙の時のメディアや学者などによる分析でよく言われることは、「自民党は地方に強い」ということです。

 

それは各選挙区から選ばれた議員の所属政党を見れば一目瞭然です。地方部では自民党の議員が選ばれている事が多くなっております。一方で大都市などでは立憲民主党などの革新派政党や無所属の議員が多くなります。

2021年の衆院選挙でもこの傾向は現れました。(https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/shugiin/2021/)

 

これは自民党保守的な政策を支持する保守層が比較的地方に多いことも理由に上げられます。ただ、それだけではなく自民党が地方の党都道府県連合会を通じて、地方の名士と呼ばれる人物を積極的に党員に迎え入れてきたことも理由となっています。

 

都道府県連は自民党の下部組織であり、地方機関であります。そのため一見すると地方は党本部から見て立場は下のように思われます。しかし実際には都道府県連は地方の代議士の事務所・後援会と同居している例が少なくなく、その代議士が地方の名士であることは珍しくはありません。

 

地方の名士というのは地方議会の代議士であったり、地方の有力企業のオーナー医師や弁護士など地域での生活に密接に関わる事が多いです。安倍晋三氏は代々山口県下関市を地盤とする国政議員の家系で、岸信介元首相と安倍晋太郎元議員を祖父・父に持ちます。

麻生太郎氏は福岡県筑豊で鉱山やセメント業を経営してきた家の家系に属し、現在もその家族は会社の経営を行っております。

 

こうしたことから地方の名士は地元での支持を集めやすく、選挙の候補者となれば圧倒的な集票力を持つのです。故に地方の名士が議員となるときの後援会は盤石で有力な組織となります。自民党都道府県連を通してこの後援会の協力を仰ぎ揺るぎない得票力を得ているのです。中には後援会が都道府県連の人員と一致する場合もあります。

 

これは自民党の生命線と言ってよい部分です。かつて自民党は2回の下野を経験しましたが、その時でも地方組織が強い地区では手堅い勝利を得ました。

自民党は揺るぎない地方組織のパワーにより逆境で踏ん張れるレジリエンスを持ちます。故に自民党の強さは与党であるときよりも、野党となった時に発揮されるといえるでしょう。

 

 

公明党との連立

 

現在自民党公明党連立政権を組んでいます。これは1999年から始まり、野党時代も連立しておりました。なお連立とは二つ以上の政党が政策を一致して立案する状況を差します。自民党公明党は選挙ではお互いの党の候補者を推薦したりと選挙対策では一体となり動いております。

 

では、自民党はなぜ20年以上も公明党と連立政権を結んでいるのでしょうか。

 

まず最大の理由は公明党の都市部の固定票を利用することでした。

自民党は地方に強い政党ですが、都市部では左派政党や無所属候補者相手に苦戦しております。都市部は人口の流動が激しく、地縁の強い人が比較的少ないからです。

 

一方で公明党は都市部である程度固定票があります。それは公明党の元々の設立母体であり、第一の支持母体である宗教団体・創価学会の信者が都市部に多数いるからです。

創価学会は日本で最大級クラスの新興宗教団体ですが、創価学会は高度経済成長期に地方部から大都市に移り住んだ人々を中心に信者を大幅に増やしました。そのため創価学会の信者は大都市に集中しているのです。故に公明党は都市部に強いのです。

 

その公明党自民党の関係ですが、長年野党であった公明党は与党・自民党とは対立関係ではあったものの、政策によっては自民党と連携することがありました。

1972年の日中国交正常化では、決定的な場面では田中角栄氏ら自民党が中心に動きましたが、そこまでの中国政府との交渉や下準備、段取りは中国とのコネクションを持つ公明党創価学会が積極的に活動しました。

また公明党創価学会関連や市民生活、対中政策以外の政策では特に強いこだわりはなく、そのときの状況で姿勢を変えておりました。

このような付かず離れずの関係を続けてきた自民・公明はお互いの不得手の部分を補完しあうために連立するには手放せない相手でした。

 

そして現在では自民・公明で政策を決定し実行する体制が確立し、両党にとって分かちがたい関係が築かれております。

民主党政権時代はこの二党は共に野党でした。ただその時点で連立から10年近く立ち、連立のノウハウの確立や利害調整、両党のそれぞれ支持者からの信頼もあり、連立は続けられました。

そしてそれは今日でも続き、自公連立政権は一つの政党のように機能しているのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

今回は自民党の解説でした。この記事はニュースや書籍を参考に記させていただきました。

自民党はこれまで長い期間国政与党の地位を保ってきた党です。自民党の支持者、非支持者どちらからもよく知られる政党です。自民党に関するニュースや評論は各所より沢山出ております。

 

その上でこの記事は自分の主観や意見を排し、客観的な情報をまとめたつもりです。そしてWikipediaやネットニュースで分かることは説明を省略し、それだけを見ても分からない所を強調して書きました。それも子細を記すよりは短めの記述でとどまるようにまとめました。

もっと自民党や政界について知りたい人はネットや書籍で調べられることをおすすめいたします。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年12月5日

【読書感想】「日本教の社会学」小室直樹・山本七平


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こんにちは、ずばあんです。

 

本日は山本七平小室直樹の共著書「日本教社会学」(1981)の読書感想です。

 

共著者の紹介ですが、まず山本七平(1921-1991)は評論家、作家であり出版社・山本書店の創業者でした。山本はクリスチャンや保守論客の立場で言論活動を行っておりました。本書では若いときの従軍経験についても詳しく語ります。

小室直樹(1932-2010)は東京大学出身で経済学などの社会学系統に篤い学者です。保守論客として言論活動も行い、ソ連崩壊を十年以上前から予測していたという功績があります。

 

この本は日本人の宗教観、道徳観を諸外国のそれと比較しつつ述べます。「日本教」とは共著者のひとり山本七平が作った言葉で、日本人の精神において、西洋人にとっての宗教と同じ役目を果たすもの・構造を日本教と呼びました。この「日本教」が何であり日本社会をどう作っているのかを山本七平小室直樹が対談形式で語ります。

 

【内容】

内容は日本人の政治観、宗教観、経済観の3部にわたり紹介されます。

 

[I]

 

まずは日本の現在(1981年当時)の政治、経済、社会がヨーロッパ等の「民主主義」とはかけ離れている点を指摘します。欧米での民主主義はすべてが契約により強く拘束され、法律や労使関係、ビジネスの取引はまず契約のほか口出しできません。一方で日本ではまず合議・コンセンサスが第一とされ、その場での空気が決定事項となるのです。たとえ契約を結んだとしてもその内容はその場での判断や合議に委ねることが前提となっております。

 

続いて戦前戦中の日本が「軍国主義」の実態とかけ離れている点を指摘します。軍国主義ではアメリカ軍を代表に、軍隊は厳密なヒエラルキーや規律の元で組織運営されます。社会における物的・知的リソースも軍隊の作戦のために動員されます。

一方日本軍は上官の命令とは別にその場での合議や独断が重視され、加えて公式な階級とは別の「在籍年数」等による年功序列が事実上のヒエラルキーとなっておりました。そのため組織内の上意下達が上手くいかない構造となり、結果として第二次世界大戦を止められなかったとしております。

 

[II]

 

そこから日本人にとっての真の宗教、すなわち「日本教」を分析していきます。

 

世界には宗教が沢山ありますが、それらは宗教の信者たる資格により2種類に分けられます。

その資格の一つは遵法です。宗教の聖典に決められている具体的な行動規定に従うことが信者の資格となります。例はユダヤ教イスラム儒教などです。もう一つは信心です。これは聖典で語られる神の神性を心より信頼することです。これは精神的な要素であり常に内心を問われます。例はキリスト教仏教です。

では日本教の場合は何かというと、「実利」になります。神とは何か実利をもたらすものであり、それがないならば神との関係を切ったり別の神と結ばれたりします。日本では仏教式で葬儀・法事をしますが、地鎮祭や各種祈願は神道式、結婚式はキリスト教式、家族様式や官僚機構は儒教などそれぞれ「実利」に基づき神と関わります。そして実利が得られず損害ばかりを被るとき「神もくそもない」となるのです。

 

各宗教には信者に絶対的に課す事柄として「ドグマ」があります。イスラム教の場合は「信仰告白」「聖戦(ジハード)」(*)などがそれです。キリスト教の聖書にもドグマは存在しております。

そして日本教におけるドグマは「空気」です。「空気」はその場での合議や判断、または人間関係のしがらみなどで生み出されます。日本教ではこの「空気」がドグマであり、空気を読み従うことを日本教の信者に強く強いるのです。

そしてその空気に反する現実「実体語」に対して空気を代表する「空体語」が強く語られるのです。

(*聖戦「ジハード」はムスリムイスラム教を代表して戦うことを意味しますが、それは武力戦闘に限りません。商売や学問などでの競争に打ち勝つこともジハードに当たります。)

 

通常宗教では救済儀礼(サクラメント)というものがあります。これは宗教理念から外れている者を宗教の内側に包摂するための儀礼のことです。

日本教における救済儀礼とは、あるがままの「自然」に任せる「本心」の気持ちを大切にし、それを告白することです。「建前」というのは自然に反する人為のことと考えられます。そして建前(人為)より本心(自然)を尊ぶ精神を「純粋」と呼ぶのです。

なお組織で在籍年数の長い者を尊ぶ年功序列もこの「自然」に含まれ、それを尊ぶことが「純粋」とされます。

そして許しを請うとは、日本教では年功序列や本心を尊び告白することを指します。

 

宗教における神議論では、神とは「カリスマ」を備えたものとされます。カリスマの根拠は一神教ではこの世界を創造し、奇蹟を起こし、終末の日に信者を救済することです。仏教では、仏陀や菩薩という神とは異なる者ですが、悟りの境地に至り解脱の法を解くことがカリスマとされます。

日本教におけるカリスマとは、空気を作ることが出来ることです。日本人が抗えないドグマとしての空気を作れる「鶴の一声」を発せる者がカリスマを備えているのです。

 

キリスト教イスラム教には原理主義(ファンダメンタリズム)が存在します。これは原典や原初の教えが真の考えだと考えるものです。仏教はブッダの教えの体系に基づく経典を皆等しく聖典と扱うので論理的には原理主義は存在しません。

日本教には聖典は存在しませんので原理主義はあり得ないようでしょうが、一神教原理主義者のメンタリティとの構造と一致する部分はあります。それこそ「その場の空気」であり、その時に居たものしか分からないような空気を真実と考えるのです

 

[III]

 

ここからラストパートとして、欧米の資本主義社会とは異質な日本社会を語ります。

 

欧米の資本主義キリスト教の考え方に基づき発生しました。キリスト教の新教徒プロテスタントは聖書の教えを重視し、聖書の「予言説」(誰が救済されるかは最初から慈愛の神が決定しているという考え)に基づき、自分が救われる者の一人であることの証明として自分の職業に注力しました。実はそれまでキリスト教(旧教カトリック)社会では労働は汚れたものとされそれよりも教会信仰が尊ばれてたのです。プロテスタントはそれに対抗しその告白として労働に勤しんだのです。そしてプロテスタントの行動はイギリスで産業革命を起こし、その影響が欧州等に伝播し資本主義社会を形成したのてす。

日本にも明治の頃にその影響が及びましたが、労働や職業を尊ぶ思想は古来より日本にありました。そのため労働に旧来の思想の打破と真実の証明という考えが無く、むしろ伝統的で保守的な行いと考えておりました。ここで欧米とのねじれが生まれ、日本式資本主義の独特な要素が生まれたのです。

 

また日本の資本主義の特徴として、共同体企業と一致している点です。共同体とはそのメンバーが人間として生きていくための集団のことです。ただ生計を立てるのみならず価値観や帰属意識、社会的なアイデンティティなど人間性を形成する場が共同体なのです。

第二次大戦前の日本では農村や地域のコミュニティが共同体の役割を担っていました。しかし戦後はそれが崩壊し、高度経済成長期以降は新卒採用や終身雇用制の成立から企業が共同体の役割を持ち始めました。

 

また、今の日本社会は明治維新からスタートしておりますが、その明治維新を引き起こしたのは儒教学者の浅見絅斎(あさみけいさい)(1652-1712)の思想でした。

儒教は江戸時代の徳川幕府朱子学を主にして、幕政を正当化し強化する目的で採用しておりました。なおこれは本来は中国の思想であり、徳川幕府でもそのまま改めずに使用しておりました。

その中で異彩を放った儒学者浅見絅斎てした。浅見は徳川の時代に朱子学が強い中で、「正統の王朝」に忠義を尽くすというオリジナルの儒学を唱えました。これは「正統の王朝」すなわち天皇家への忠義を尽くすという考えに繋がりました。浅見の思想は18世紀から起こった、日本古来からの日本人らしさを問う国学に影響を与え、幕末には尊皇攘夷志士の教養となりました。

すなわち浅見の唱えた「正統の王朝」に忠義

を尽くす儒学思想は日本のナショナリズムひいては明治維新という近代国家日本の興りの根源となったのです。

 

〈終わり〉

 

さてここまでが「日本教社会学」の内容でした。山本と小室の対談ですが、その言葉や内容は一つ一つがとても濃密で複雑に絡み合うものでした。しかしどれも日本人の精神について的確に分析しており、文章の内容にどの部分も惹かれました。

 

日本人の精神的支柱が何であり、それが今の日本の社会や経済、政治をどのように作っているのか、そして日本人たる自分はどんな人間か、それを知りたい方々にはうってつけの本です。

 

 

【感想】

 

 

この「日本教社会学」は私の自分探し、そしてこれからの自分を探る上で重大な内容が沢山つまっていたと思います。そしてそれまで何者にも証明されなかった自分のあり方や気持ちについて見事に書き記してくれたと思います。

 

それでは以下は項目に分けて感想を述べていきます。

 

 

①呪いの民日本人

 

おどろおどろしい項目タイトルですね(汗)

 

この呪いというのは、自分のなすことや思うことに自分の想いもよらない力が働いて自分や人に影響を与える作用のことです。言霊や因果応報とかはそれを代表しております。

日本社会においてはこの「呪い」というのが根強く存在している気がします。社会的に重要な事柄について議論を拒んだり発言を封殺しようとするような「臭いものに蓋」をしようとする風潮があります。発言そのものに魔力があり災いをおびき寄せるのだと言わんばかりの考えです。

また、ある不祥事を起こした人間と関係を持った人々に対しても連座で制裁しようとするきらいもあります。それは家族や親友ならまだしも、同僚や取引先というビジネスの関係にも問われます。なぜそこまで制裁を加えなくてはならないのでしょうか。これはいじめっこが「こいつの呪いが移った~」というメンタリティとあまり変わらないと思います。

 

それらは日本人の生き様が呪いそのものだからと思います。日本は災害多い国です。地震や噴火、台風、大雨、大雪など、世界でもこれ程多種多様の災害に度々見舞われる国はありません。一方で四季の循環や潤沢な水資源から豊富な生態系に恵まれた国でもあります。

そのため日本人には災いと恵みを共にもたらす環境に対応すべく自然に従順で穏やかな精神性が育まれました。

これは言わば解けない呪いを日本人の生活に取り入れているようなものです。この呪いに殺されるか生き残るかは自分の自然への従順さ故で、従順であることが至極とされたのです。そしてその結果生き残り救われることが従順の証とされたのです。それでは救われない人の場合は・・・言うまでもありません。

 

日本人は自然から呪われながら自然に従順な民として、呪いを正当化しているのです。

 

 

②日本人の神と悪魔

 

自然の呪いを引き受けて生きる日本人にとって神とは「実利」であると本書で説明されました。実利をもたらせば元が悪魔であろうと神になるのです。呪いを正当化する引き換えとして神に実利を要求しているのです。

しかし実利をもたらさなければ元が神であろうがなんであろうが悪魔になります。失敗や不幸、惨めな死に直面したものは、実利をもたらしてこその神から見捨てられたり殺されたりしたものとみなされます。

つまり神、すなわち世界と個人の繋がりは成功したり幸福であるときにのみ存在し、失敗や不幸なときは神から軽蔑や殺意を向けられているということになります。

 

これは西洋とはかなり異なります。西洋のキリスト教には試練という考えがあります。試練とは全知全能の唯一神が人間を大いなる恩寵へと導くために用意した道です。試練を受ける信者の伝説は聖典の「ヨブ記」でも語られ、キリスト教徒にとって困難や苦難は神からのご加護を意味するのです。すなわちキリスト教では人生での転落を神からの切り捨てとする考えがないのです。

 

一方で日本では失敗や転落、苦難は実利の神から地獄に落とされたのと同じこととなります。因果応報論ではこれは本人の過去の行いの結果だとされることが多いです。ですが先程の日本人の神様観の分析では、成功した人間の人生を「後付けで」ご加護したこととなり、そうでないものは相変わらず見捨てられ続けているのです

 

すなわち日本人にとっての真の悪魔は実利を与えないものではなく、実利を得たものに便乗して善悪をより分ける人々なのかもしれません。そしてその人々により担がれ寄生している「神様」も同様なのかもしれません。

 

 

③カルト宗教に惹かれる日本人

 

では日本教により地獄に落とされた棄民はどこへ行くのでしょう。

 

一つはカルト宗教へ入信する道です。カルト宗教とは反社会的な組織と認定される宗教および宗教団体のことです。このカルト宗教は社会により意味が変わってきますが、キリスト教圏やイスラム教圏ではその地の宗教の教義に反する宗教団体のことです。

では日本教の国・日本ではどうなるかと言えば、それは実利が生まれない宗教になります。実利というのは経済活動のみならず、政治やコミュニティなど多岐にわたります。それが無い宗教はカルト宗教となります。

 

ただ実利というのは後付けでついてくるものであり、得するときもあれば損するときもあるのです。だから本来日本教において全ての「宗教」はいつ「カルト宗教」になってもおかしくはないのです

 

カルト認定されそうな宗教は「神の名において」実利を追求するようになるのです。そして窮地に追いやられ神から見捨てられそうになると、オウム真理教のように無茶なことをやるのです。

 

ただ、これは教団のみならず日本人一人一人に言えるのです。社会に実利をもたらせる人間でなくては神様から見捨てられ殺されるという懸念を日本人は持っているのです。日本は自殺率が高い国と言われておりますが、それはこの日本教の宗教観が一因なのではと思います。

 

そして最近では「無敵の人」「ジョーカー(*)」などと言われるように破滅思考を持った人による犯罪がニュースで報道されております。これは実利の神から見放された人々の姿だと思います。

(*2019年のアメリカ映画「ジョーカー」の主人公のピエロ。元はアメリカの漫画「バッドマン」に出てくる悪役。2019年の映画で、ジョーカーは不遇の立場からピエロになろうとするも、世間からの冷酷な仕打ちから世の中に復讐を仕掛ける悪人になる。)

 

いつ見放すかも知れない名もなき日本教への信仰と、名もなき神から見放された人々のカルトへの信仰、一体どちらがカルトなのでしょうか。

 

日本教から見捨てられた人のもう一つの道は無神論です。無神論は神の存在を否定し、宗教的意味から逃れることです。

これはキリスト教イスラム教に対してはスタンスがはっきりします。「世界を作り治め人々に救済を与えられる唯一無二の存在」を否定すればいいからです。

では日本教の場合はどうでしょうか。日本教は事実上の現象であり、教典や規則が明示されているわけではありません。教団があるわけでもないので誰かに宣誓できるわけではありません。しかも後出しでその存在を顕在化させる卑怯さがあります。

 

そのため無神論になっても日本教とは縁を明確に切れず、しかも粘着的に着いてくるストーカーのようなものなのです。

 

実態としては存在しながら身を隠し審判を逃れしかも粘着的に纏いつく日本教、我々の心に纏いつくこの宗教はとてつもなく恐ろしいものなのです。

 

 

日本教神話は本当に正しいのか?

 

日本教とは自然に従順で純粋であることを求め、その暁には実利を与えるという神話に基づき成立していますが、これは本当に正しいのでしょうか。

 

今日現在の状況を見ると災害の脅威はますます大きくなり、いつ誰が自然に放埒に殺されてもおかしく無いのです。熊本県球磨川流域では激しい洪水が起き地域に多大なる被害が出ました。そして東日本大震災熊本地震などの大きな地震はいつどこで起きてもおかしくありません。

 

また日本の経済状況は停滞している状況が続き、そのために弱者に負担の皺寄せが行く状態になっているのです。これは弱者が元から切り捨てられており、富めるもののみを神の御子としてきた日本教の狭量さ故なのかもしれないと思いました。

このような事態は日本教という実利に持ち上げられた宗教が社会公益に資するほどの力がなかったという皮肉でもあります。日本教はその存在意義が自己矛盾を孕むことになったのです。

 

また日本教神話は過去の日本史とも矛盾します。

日本は江戸時代の初期である17世紀中に人口が1500万人程から3000万人程に増加しました。(*)その理由は日本全国の低地や湿地が大規模開拓され、稲の耕作面積が急増し食糧の増産に成功したからです。その結果食糧に余裕が生まれ国民を養う力が増えたのです。

江戸時代に入るまで稲作は主に高地の棚田で行われていました。その後灌漑の技術が発達し関東平野越後平野濃尾平野筑後佐賀平野といった元低地湿地が広大な米どころに変貌したのです。これは自然の大改変が日本人の命の芽を増やしたという事実を示しております

(*なお江戸時代の人口は約3000万人まで増加した後頭打ちしました。これは人口増加のペースが食糧生産増加のペースよりも上回るという法則が原因で起こる現象(「マルサスの罠」)です。)

 

そして日本教の考えに近い考えに中国発祥の道教(老荘思想)という考えがあります。これは自然に従うという考えが東アジアにおいてある程度適していたことの証になります。しかし道教での自然の意味は、人間の手が入った管理された自然というニュアンスが入ります。これは日本教の、自然には手をつけない方がよいという考えとは異なります。それに当たり前ですが道教は「老子」「荘子」という教典があり、教典のない日本教とは異なります。

 

日本教に染まっている私としてはこの点は逃しがたい話です。

 

日本のこれまでの歴史において自然を残したり愛し、それに従順に暮らしてきたのも事実です。一方で自然を改良してより多くの命を救ったのも事実です。

では、日本教はどうでしょう。その事実は日本人の精神に包摂されなくてはなりません。

 

 

⑤日本人のための本当の優しさとは

 

日本人が本当に持つべき優しさとは何でしょうか。

 

「弱きを助け強きを挫く」という言葉がありますが、社会の強者と弱者は時が立てば変わるものですし、同じ個人でも局面が異なれば変わります。

また物質的な充実を図ることも必要ではありますが、ただそれだけでは心は癒されません。

 

私にとって日本人の心を癒す方法は、全ての人に差別することなく慈愛を送ることだと思います。日本教は強者に寄生し弱者を無視し時には搾取しますが、私はそれに対し全ての人に相手の素性に関係なく慈愛を振り撒くことが癒しになると思います。日本教が取りこぼしたものを拾うこと、それが優しさなのかもしれません。

 

かの哲学者ニーチェキリスト教を「神は死んだ」「弱者哲学」として批判し、そこから脱して何事にも動じない個人の「超人」の境地に至ることを説きました。しかし日本人の場合は逆にキリスト教的な優しさを取り入れることをした方がよいのかもしれません。実利の神の日本教だけではもたらし得ない概念がそこにあると思います。

 

⑥実利と信仰の分離

 

日本教のそもそもの問題点は信仰と成果主義が一体化している点にあります。そのため日本教は宗教として最初から機能不全に陥っているのです。

 

日本はますます格差が大きくなり、上流国民・下流国民という言葉が生まれるほどになっております。その中でこれまでの日本教は何もせず、逆に社会の分断に便乗しようとします。

 

そのため私たちは生活や日々の自己研鑽をしながらも、その外側にいる大いなる存在も意識しなくてはなりません。成果がなくとも信じられる、ご加護してくださる存在を確認しなくてはならないのです。

 

ではそれが何か?これは人それぞれの事情もあるので勝手に答えを提示するわけにはいきません。ただ、何か実利で繋がる存在が自分を見捨てる時、与えられないものがあると分かったとき、それが何なのか分かるかもしれません。それはいつでも自分のそばにいるものだと思います。

 

 

 

⑦ずばあんは神に何を望むか

(つまらない内容ですので飛ばして結構です。ご覧になるならば網掛けで見ることが出来ます。)

 

私自身が、日本教など含めた宗教の神に望むのは、私の本当の汚れと偽物の汚れの分別がつけられないならばもうその部分で口出ししないでほしいということです。私はこれまで神性を持つものから自分が受けた濡れ衣のような待遇について無実を与えてほしかったのですが、いつまでたっても沈黙している気分がしました。それは私が元々穢れていて、無実の保証をする気がなくなったからかもと思いました。もしくはその穢れに服し汚れ役を全うすることが私の役目なのかと思いました。

しかし、かなり前から社会生活上の支障が出てきました。私は何となく気付いておりましたが神は沈黙しておりました。そしてあるとき私は一番人生できつく心に深い傷を負ったときの神の憮然とした態度など一連の行為と私の今後の人生のために、神と自分の関係を更改しようと思ったのです。私は神に啓示の能力や奇蹟の能力があるとは信じておりません。ただ私を殺しはしなかったことだけは感謝しております。

私は神を大切にはしておりますがそれは師としてはなくこの世の最後の器そして生き物としてです。私は神から受けた呪いや穢れはありませんし、それを与える忌々しく大層な存在もおりません。私の神への信仰はここから始まるのです。

 

 

【おしまいに】

 

この本は1981年刊と古い本です。社会的状況や直面する社会問題も大分変化しました。しかし、肝心の日本教については今も当てはまるどころかかなり最新鋭の内容となっています。それは日本教を生み出した日本社会がこの部分についていまだ直面できていないからかもしれません。

 

日本教というのは本当に日本人がこの宗教を信仰しているのではありません。

宗教という言葉の内実は各々の宗教で異なります。その中で宗教が生活や思想に根深く染み込んでいるのがキリスト教イスラム教です。その信者が心の内側で宗教で埋めている部分に、日本人が埋めているものが日本教なのです。

 

もちろん一神教には一神教で欠点もありますので、日本人の信仰はダメだとか一神教こそ正義とは言えません。ただ、日本人の信仰の特徴についてここまで沈黙を破り分析し喝破した研究は他には無いと思いました。

 

心の穴はなぜ生じるのか、頑強で揺らぎ無い精神はなぜ手に入らないのか、神はそれらをどう思っているのか、それらはこの「日本教」の存在に答えがありました。

 

私は今回の感想では日本教に批判的な事を書きました。日本教の正体が明かされなかったがゆえに山積みした問題が多かったからです。しかし日本教に復讐するがごとく攻撃し排撃するのも違うと思うのです。

日本教とはこれまで語られなかった日本人の信仰心の深い部分です。自分の信仰心が何に根差すものなのか、自分の心の中の不可解な部分は何か、本当に神を信仰しているのか、それを知るための手がかりが日本教というキーワードだと思います。

そのため日本教の考えをベースに自分の心に足りないものが何かを知ることが心身の健康や自分の成長の第一歩かもしれません

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

2021年11月16日