ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

「正しい人の見下し方」

こんにちは。ずばあんです。 

 

今日は「人を見下す」ことについての話をしたいと思います。

 

【「正しく」人を見下す】

 

「正しく人を見下す」このようなことを述べたのは実業家でユーチューバー?の岡田斗司夫さんです。

 

岡田さんはユーチューブやニコニコ動画で映画やアニメ、小説などのサブカル作品の解説や人生相談を軽快な口調で語っておられます。長年に渡り配信され続けた動画の中に、「正しい人の見下し方」というものがあります。

 

こちらは2011年のニコニコ動画での生放送の一部分を抜き出したものですが、これは視聴者からの質問に岡田さんが答えるものでした。質問のひとつに「つい人を見下してしまうのでなんとかしたい。」というものがありました。

 

これに対して岡田さんは、「人を見下す癖はどうやっても治らない。だから、悪い見下し方から正しい見下し方に改める必要がある。ダメな人間を見たときにこき下ろすのではなく、優秀な自分が何かやるべきだったんだ、と思うように。だから、人を見下すプライドの高さを社会貢献へのモチベーションに変えていこう。」という旨をおっしゃっていました。

 

私はこの内容に大いに歓心しました。発想の奇抜さと明快な解決策はもちろんですが、通常なかなかまともに答えを貰えない質問に真面目に答えたという点も評価点でした。

 

常識的に考えて人を見下すことは悪と考えられています。その態度は人から嫌われて当たり前ですし、後から何かしらの悪影響が出てきます。だからその姿勢は改めなくてはなりません。

 

しかし、それが上手くいかずちぐはぐになっている例もあります。

私がある学校で見た教員の人で、プライドが高くコンプレックスも強い方がいました。プライドの高さを恥じているのか、それを誤魔化そうとしていましたが、明らかに人を見下しておりました。そんな人が「プライドを捨てた方がいい」と仰っていましたが、説得力はありませんでした。その方は努力したのでしょうが、全然その効果はうかがい知れませんでした。

 

正直この方のその態度は極めて不愉快でした。綺麗事を言っていれば、自分の悪いところを許してもらえるという卑怯さや甘えが滲み出てて腹立ちました。ただ、それで怒ることも客観的にみたらその教員と同族なのかもしれないと思い、語ることすらも長年躊躇われました。

 

こうした理由から、私は人間のプライドの高さというものは「業」や「宿命」であるという考えが根強いです。(この思想も私の人を見下す性を表していますね)

 

岡田さんの「正しい人の見下し方」はそんな閉塞感に光を当てるものでした。論の明快さはもちろんのこと、説得力がありました。

岡田さんは普段から自信満々で歯に衣着せぬ発言から明らかに「人を見下し」ている方です。ですが、そこには人を楽しませる面白みがありご本人もそれを意識されておられます。人を見下すのがダメなのではなく、見下し方を改めるというのは新しい考え方だと思われます。

 

【「正しい見下し方」の欠点】

 

さて、この正しい人の見下し方はいい面はもちろんございますが、同時に欠点もございます。(「人を見下す時点でダメだ」は抜きです。)

 

まずいい面を取り上げます。

先ほど述べたように他人に対して施しを与えるモチベーションとなる時点で、人との関わりでプラス点を上げることとなります。しかも自分の性格をほとんど変えずに行えるので、自分の個性を損なうのを少なくしている点で素晴らしいです。

もし性格自体を改めるならば、多大なる時間と労力がかかり、失敗のリスクも大きいです。そのため、この「正しく見下す」方法はコスパがよく、成果がすぐに分かる点で扱いやすい方法であると言えます。

 

一方で、この「正しく見下す方法」は次の欠点もあります。

それは損切りが難しくなることです。

この方法は人を見下す性格を他人への奉仕という方向に振り向けるというものです。しかし、自分のキャパシティを越えた事態において本来は戦略的撤退するべきところを、自分で問題を丸抱えしてしまい、破綻する可能性があります。特に人間関係においては、相手と不和が起きたときに自分が何とかして関係を正常化しようと無理をして、関係悪化を招くことがあります。

 

そのため、「正しい人の見下し方」というのはこうした欠点に立ち会って、自分がこれを乗り越えられるか否かで採用の是非を考えた方がいいでしょう。

 

【人を見下してはいけないので・・・】

 

この「正しい見下し方」は、「人を見下してはいけない」という常識に対して具体的な答えを出すことが難しいことを浮き彫りにしたと私は思います。

 

人を見下す態度を露骨に出すことはもちろんアウトです。しかし、それに対して何を改めればいいのか、どうすれば改められるのかは語られることは少ないです。

 

先述の教師の態度も努力が空回りしてるのか、そもそも開き直ってるのか分かりませんが、少なくとも問題は何ら解決できていないのは明白でした。

 

また、人に対して何か施す行為も「人を見下している」ととることも出来ますし、本当に悪いことをしている人を注意することすらも人を見下すととられることもあるのです。もしこれも「改める」のであれば、「人を見下さない」為に多大なる損害を出すこととなります。

 

私が思うにこの問題は、「人を見下すことが悪」という素性の問題ではなく、「人を見下すことで不愉快にする」というコミュニケーションの問題であると思います。

 

岡田さんに質問を寄せた方は自分の人を見下すという「素性」を改めようと考えていたのですが、岡田さんはそれをコミュニケーションの問題に置き換えて考えていらっしゃいました。その上で岡田さんは「正しい人の見下し方」を述べられたのです。

 

ただ、この「正しい人の見下し方」は残念ながら先ほどのデメリットもあるので、厳密に言えば「正しく」は無いのだと思います。もしかすると人を露骨に見下して生きる暮らしが「正しい」のかもしれません。結局は人によるのだと思います。

 

その生き方で得るべきものと失うべきものを自分自身が引き受けられることが大切なのでしょう。もし自分の人生を責任もってしっかり全うするのなら、某有名落語家のように「芸人100点人間0点」でも別に構わないのかもしれません。

 

【最後に】

 

「人を見下す」のを改めるのは難しいですね。努力するのはともかく、ゴール設定を自分でしないといけないのも難しさに輪をかけています。

私はここで「正しい」人の見下し方を採用するべきとか、人を見下すのはやめろとかは言いません。自分の納得のいく道を、自分が責任を持てる道を歩みましょう。客観的に見たら下らなくとも、皆様自信にとって璧となる人生を選びとりましょう。

 

それではまた!

 

2020年11月5日