ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

罪を憎んで人を憎まず

こんにちは、ずばあんです。

 

世の中の格言に「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、この言葉について今日まで何度も何度も考えさせられました。

 

【人は本来憎み難いもの】

 

この言葉が思い浮かぶ場面といえば、人が何か悪いことをしたとき、あるいは事件の犯人が捕まったときでしょう。私はひどいことをされたり、あるいはそれを見聞きしているとしましょう。

その時私のなかで犯人に対して怒りや憎しみの念が起こりますが、同時に犯人は「自分と同じ」人間であることにも気付き不気味な気持ちにもなります。

 

自分もかつては犯人のように悪いことを考え時には行動に移したこともあるだろうに何故自分が犯人を裁けようか、と私は犯人に怒りを覚えながら気付くのです。

そして、自分に対して怒りの刃を突き立てているような気分になり、自分が惨めに思えるのです。

 

ここで犯人のことを、私とは違うひどい下劣で最悪の人生を送ってきた人間だ、と思うことも出来るでしょう。でも、これはあくまで事実ではない予測でしかなく、しかも人のことを勝手に無根拠に見下す思考です。もしこれを何度も続けたらこれは習い性になり、自分の性格は腐り果てることでしょう。

 

その為、犯人の人間性を憎むことは自分のプライドや性格を貶めることになるのです。

 

【やはり罪は野放しに出来ない】

 

しかし、犯人のことを無条件に許すのも間違いです。犯人のことを憎めない場合も同様です。いくら自分と同じ人間だからといって、やったことは悪質です。それを許すとゆくゆくは自分の中の倫理観も歪み自分もその犯人と同じことをしてしまいます。

 

特に身内の罪においては、どうしても意識的に割りきらなければいけない場面が出てきます。家族、友人、同級生・・・こんな人たちが罪を犯した時には、自分達も彼らに罪を償うように促す必要があります。

 

そのため犯人の悪行に対しては何かしらの罰や制裁を下そうと望む気持ちも必要なのです。もしそうでなければ、友情や愛情を人質に道徳、倫理を傷つけられることになりますし、人間性を歪ませる呪いになっていきます。

 

一方で、そんな悲劇のために自分の情緒や情念を憎むのもまた歪みです。正しい世界のためには自分は家族や友人関係は壊さなければならないという考えに至るのであれば逆にそれこそ危険です。

 

罪を憎む心と、人と安心して繋がれることは両立されるべきことだと考えます。だから犯人の人間性と罪を分ける考え方が必要なのです。

 

【ずばあんにとってのこの言葉の意義は?】

 

私は、この言葉は常に戒めとしなくてはならないと思っております。

 

私は元々、人間の人間性と功罪を同じものとして考えていました。素晴らしい行為をしている人の人間性はどんなに下劣でも肯定されるべきだし、逆に望まれざる行為をしている人の人間性はその人間性が素晴らしくとも否定されるべきと考えていました。

この考えは自分を長らく苦しめてきました。下劣な人間をいつまでも下劣だと思うのは自分の認識が「正しくない」からであるとすら思っていました。そのためそれを「是正」するように下劣さに自分を染めようとしたこともありました。

 

一方で、逆に下劣な人間の行為は全部間違っていて、人間性の優れている人の行為は全部正しいと思っていたこともありました。故に合理的な判断を欠いて人に迷惑をかけることもありましたし、人と摩擦を起こしたこともありました。場合によっては自分が落ちぶれる遠因になったこともありました。

 

この人間の人間性と功罪を混同する考えを改めた理由は次のようなものがあげられます。

 

①.中学時代に自分の善意が無下にされ、学校の荒れが進行し、自分も精神的に追い込まれたこと。

②.その後反動として偽悪的に振る舞いあらゆる人の反感を買い人間関係が破局的側面に陥りかけたこと。

③.上の①と②から人間不信が極まり何も出来なくなり事実上ドロップアウトしたこと。

 

この経緯から、私はこれまでの価値観を全部洗いざらい振り返り、その中で上の罪と人を同一視する考え方を反省し改めようと考えました。

 

この取り組みだけのお陰ではありませんが、私は前よりも合理的に判断できるようになりましたし、人との衝突はほとんど無くなりました。以前よりも不安のない穏やかな心を持てるようになったと思います。

 

【おしまいに】

 

この「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の私の中での意義は、今の時点では上の通りです。

 

正直この意義についてここに書くことには迷いがありました。客観的な定義のようにいつでもどこでも本当であるわけではなく、自分の人生の上でしか本当ではないものですから。だったら何のために人に見せるのだろうかと何度も悩みました。

ただ、このブログというのはそれが分からない物も含めて、人に対して「試しに」触れさせる場であるとも思いました。最初からそれが分かっている物だけを見せるならば、ブログ外のもっと格式高いところで見せればいいのですから。そのためこの言葉の私にとっての意義について今回このブログで見せることにしました。

 

しかし、今後またその意義は変わってくるかもしれません。それを完璧に予測することは難しいです。それでもその時その時の自分にとっての「本当」を尊重できたらと思います。

 

ここまでありがとうございました。

 

2020年11月21日