ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

須原一秀の「自死という生き方」

こんにちは、ずばあんです。

 

さて衝撃的なタイトルから始まりましたが、これは社会思想研究家の須原一秀氏が著した本のタイトルです。

須原氏は本の内容を記した後に自死いたしました。享年65歳でした。この本の著者紹介で記されております。(それだけでも衝撃的でした)

 

こんな衝撃的な幕開けでこの本は始まるのですが、その内容は意外と平易でなおかつ終始明るく前向きに進行していきます。

肝心の自死の理由もこの本で説明されておりますが、後ろ暗いものはあまりなく、実は充実した人生を充実したまま終えるために行われたことが明らかにされます。

 

今回はこの「自死という生き方」の内容と感想について語らせていただきたいと思います。

 

【内容】(※ネタバレ注意)

 

この「自死という生き方」は、過去に悲壮感なく朗々と自死を遂げた著名人の例を上げ、充実した人生にそのまま幕引きをするためにいい頃合いで自死をするという「生き方」を示し解説します。

それに対して、自然死というのは往々にして悲惨で不幸な終わり方であると述べられます。自身の身内の死や精神科医キューブラー・ロスの例などをあげつつ、悲惨な死について語られております。

そうしたことを前提として、自死をするという生き方の背景に日本の武士道があることを示し、それに類する例を挙げつつ自死という生き方の本筋を明らかにします。

その一方で自死という生き方に反する思想や発言について批判的な評論がされていきます。

そして、死の直前の須原氏の日常を記したエッセーや、自死の後の須原氏の関係者や家族のコメントも本に納められております。

 

これが本の大まかな内容です。

 

本のタイトルや著者の最期から受ける第一印象とは打って変わり、本編は著者の熱意溢れる生気満々で自信に満ちた姿が思い浮かばれる内容でした。

 

実際に須原氏は本書でこれまでの人生について、充実したものであったと述べております。心身ともに健康で、人間関係に恵まれ、仕事も上手くいき、この中に暗いものはほとんど伺いしれません。そしてそれは自死するその日までそうであり、周囲の人々も含めて須原一秀氏は充実したまま生涯を終えられたのです。

 

それに、この本は自死という生き方について小難しい論理をこねくり回すことなく、哲学の知識が無い一般的な人々に分かるように説明されております。

 

また、本書で明かされておりますが、須原氏の自死は「哲学的一大プロジェクト」であり、本編で述べられている「自死という生き方」を実践するものであると述べております。

須原氏は一哲学者として、自身の持論を机上の空論として終わらせず、自身の自死という実験により証明しようとしたのです。

 

そしてこの須原氏の持論は普通の人達も理解出来るものだと述べられ、普通の人が実際に自死を生き方として選択出来るようになるためにも、上のような実験をするのであると述べております。

 

したがって、この本は須原氏の「自死という生き方」を仮説として提示してその説を先人の例や言説などで補強して構築し、その仮説を自身の人生で証明するという一種の壮大な論文なのです。

 

【感想】

 

私はこの本を読み終えて、この本は中々一理あり人間の生き方について幅広い考えを持つのにいい作品であると考えました。

末長く身体が朽ちる日まで全うするという生き方もあれば、その日を待たずに健やかな内に生涯を終えるという生き方もあるのです。

 

それは当たり前のことだろうと考える人は多いでしょう。しかし、自分がそれを何を以て選びどのように実行するかということはあまり語られていません。その様なことを語るのは一般的にタブーとされるからです。

それに我が国においては須原氏の生き方は公然と認められておらず、日本と同様の社会・文化的水準を持つ国の中でもあまり存在しません。

安楽死の問題を考えてもそうですが、日本では安楽死は認められておりません。安楽死が認められるのはオランダなど一部の先進国ぐらいです。我々日本人が安楽死を選択するときにはそうした国にいく必要があり、かなり面倒な手続きが必要になります。しかも、安楽死には数々の条件があり、それから外れると安楽死は認められません。

つまり、日本では須原氏の言うところの「悲惨な」自然死しか公然と認められていないのです。そのため須原氏は充実した人生に幕引きするのに、自身で自分の首を吊りなおかつ頸動脈を切るという手間をかけなくてはならなかったのです。

こうしたことから、私達は生き方を考える上である程度の制限を掛けられながら生きていることが分かります。私達は生き方においては全くの自由ではないのです。この本はその当たり前の状況を具体的に言及したものといえます。

 

なお、勘違いしてはならないのはこの本は「自死という生き方」を全ての人に推奨しているわけではなく、その生き方を一つの選択肢として提示しているにすぎないということです。

この本は、須原氏の関係者の浅羽氏の冒頭コメントにある通り、「自死という生き方」を選択した立場としての須原氏を代表したものであります。

その為、自然死を選択(常識的に考えれば自動的にそうする人々は多いでしょうが)する立場に対して猛烈な批判をする文体となっております。しかし、それは自然死を否定し軽蔑する意図から出た言葉ではありません。あくまで、自死という生き方を選んだ立場から須原氏自身へ向けた言葉だったのです。

本編でもその事についての本人の弁解が記されており、将来「自死という生き方」が主流になった時にそれで自然死を選ぶ人が迫害されたり自死を強要されてはならないとも述べております。

 

さて、ここまで述べたことで一つ忘れてはいけないのは須原氏の「個人としての読者自身へのメッセージ」と「社会全体への要請」はそれぞれ異なるということです。

前者の読者自身へのメッセージは、生き方の選択肢として自分で人生の幕引きをするという可能性も考えていただきたいというものです。一方で後者の社会全体への要請は、「自死という生き方」を自然死を含めた他の生き方と同様に尊重し、認めてほしいというものです。

もし前者と後者が混同されたり逆転すれば、それこそ須原氏の意志に反し、むしろ自分にとっても他人にとっても有害なものとなります。自死という生き方を他人に強要するのは当然許されませんし、よもすれば脅迫や自殺幇助として刑事罰にも問われかねません。

また、今回「自死という生き方」を実行した須原氏は自身の希望に加えて、一種の実験という目的の元でこれを実行していることも忘れてはなりません。

須原氏のエッセーでは65歳という時期へのこだわりや死ぬときの自身の充実した現状も語っておりますが、それは「実験サンプル」としての自身の価値を意識しての発言であり、「自死という生き方」をする人間が絶対そうであるべきという訳ではないのです。

 

そして、これを読んだ私自身の生き方への内省についてですが、私はこれまでの生き方についての指針に大きな変化はありませんでした

私は人生について、苦楽をふんだんに味わいそれを認めた上で、自分がこの先も生きていこうというモチベーションを死ぬその日まで紡いでいこうという考えです。具体的なケースは全て説明できませんが、自分の意志を他人に伝えられないほどに不可逆的に回復不能になった場合を除いて、何としても最後まで必死に生き抜くつもりです。

正直に述べると、須原氏のように充実した人生を送ってその幕引きとして死ぬということは、私とは縁遠い所にあるような気もしました。もしかしたら出来るかもという薄っぺらな希望を越えて、須原氏の選択肢を考えることは出来ないのです。

でもそれは当たり前のことなのです。なぜならそれは私がまだ青年期だからです。本編でも書かれてありますが、若者やインテリ層というのはこの本を読んでも観念しか得られないのです。知識に対する経験はこれからしていくのです。現状としては自死という生き方について私は理屈だけ振り回すしかないのです。

 

しかしながら、私にも高齢者程ではありませんが「死への門」がいつでも開かれております。

私と歳が近い人でも、少数ながら事故や病気、自殺で生涯を終えた方の話は聞きます。それに私はこれまでの人生で、もう死んでも構わないし死ぬ方がましだと思ったことは何度かありました。これから幸せになる上で、これからで会うであろう幸せな人が経験していない不幸の過去を背負って生きることにも苦痛を覚えることがありました。

そしてだからこそ、私にそう思わせた「者たち」への復讐のためにも何としても生き延びたいと思うところがあるのです。早く死んで楽になりたいという人の考えを否定するわけではありませんが、それを自分に飲み込ませるのは私に対する激しい侮辱であるとすら考えています。私は死ぬその日までこの世に数多あふれる殺意に負けたくありませんし、誰よりも長生きしたいと思っています。

 

その上で、須原氏のこの著作はすぐにその生き方を実践せずとも、頭の片隅にその内容を覚えておく分には価値があると思います。自死という生き方をどう思うかに関わらず、自分の考え方と対比させつつ読めば面白い作品です。

 

【おしまいに】

 

さて途中より激しい言葉になりましたが、私は他人がどのように「生きる」のかは自分で決めればいいと思っています。

その上で、私はまだまだ知識や経験が足りなすぎるとも思っていました。これで自分の生き方を語ったところで、鼻で笑われそうな気がしました。

 

この本を知ったのはまとめサイトの「絶対に読んでおくべき本は?」という記事であり、その中でこの「自死という生き方」が目についたのです。

 

さてこの本を読んで何かそれを変えられるかと言えば、何も変わらないでしょう。

しかし、そんな生き方の意義に関しては自分の中では多少変わり、前よりも受容出来るのかもしれません。物自体は森羅万象があり方を決定していますが、その意味は自分が決めているのですから。

須原氏のこの本は「生き方」の幅を前よりも広くし、なおかつ人々の自主性に堪えうるだけの選択肢を用意してくれました。

もちろんその中で、身体が果てるまで生き延び続けるという選択をするのも問題ありません。しかしその選択を「何からしたのか」は後々自分や他者に説明できるのに越したことはないと思われます。

 

須原一秀氏には御自身の哲学者としての姿勢や矜持を最後まで守り続けたことと、哲学者としての御自身の社会的意義を見出だして、それを実践されたことに敬意と感謝を申し上げます。

(なお、これは須原一秀氏個人に向けた賛辞であり、哲学者一般や人間一般を代表した立場に向けての言葉では全くありません。)

 

今日も最後までありがとうございました。

 

2020年12月11日