こんにちは、ずばあんです。
私は2020年12月に長崎県の池島を訪れました。この島にはかつて炭鉱があり炭鉱の島として長らく栄えてきましたが、2001年に炭鉱は閉鎖し多くの人が島を離れました。
ですが今なお炭鉱操業当時の栄華を伝える、数多くの遺構が存在します。今回私は池島に訪れその姿を直に見て参りましたので、その様子を報告させていただきます。
【その前に】
いきなり上陸記を語ってもつまらないので、池島に係わる事前情報を語らせていただきます。
池島は江戸時代から長らく僅かな住民が農業と漁業をして暮らす半農半漁の島でした。徳川時代には外国船監視のための大村藩の番所も置かれていました。
それが一変したのは1952年のことでした。池島で炭鉱開発が始まったのです。当時近くの島々で炭鉱を経営していた松島炭鉱株式会社(現・三井松島HD、本社・福岡市)が池島にも開発の手を延ばしたのです。
実際に出炭し池島炭鉱として操業が始まったのは1959年からでした。そこから島の人口は急増し島の生活環境は高度に発展しました。島には炭鉱労働者のための住宅アパートが多く整備され、新しい店も多く島に進出しました。娯楽施設も充実し、映画館やボウリング場、興業や行事のための公会堂なども整備されました。島内にはバス路線も走り、1967年には日本初の海水淡水化施設(火力発電所の一部として)が完成し島内の膨大な水道需要を賄いました。島内の人口は最大で7500人程に達し、半農半漁の小さな村は大都市同然に発展したのです。
しかし2001年に池島炭鉱は操業停止し閉鎖されました。エネルギー転換で石炭需要が石油へと移る状態が何十年も続き、最後まで石炭を使っていた電力会社も石油に切り換えたからでした。池島炭鉱は日本で2番目に遅く閉鎖された炭鉱でした。
炭鉱が閉鎖した2001年当時、島内人口は2500人ほどでしたがその多くが島を去り、今は120人程に落ちました。しかし、この当時の遺構のほとんどは現在も残されております。
【池島上陸】
長崎県の西彼杵半島から西に7キロの海上にある池島、この島へは本土からの船でしか行けません。
私は本土側の瀬戸港からフェリーに乗り、30分かけて島に到着いたしました。フェリーの客は朝9時の便で私を含めて2人だけでした。
フェリーの到着した港は弧の大きな湾の中にあります。かつては鏡が池と呼ばれる池で、外洋と池を隔てる陸地を切り開き港が作られたとのことです。
上陸するとすぐに鉄筋コンクリートの4階建てアパートが港の近くにひしめき合っていました。部屋はほとんどが空き室であり、洗濯物やテレビのアンテナなど人の生活を伺い知れたのはわずかでした。ここまでは公営の団地とそこまで変わらない風景です。
しばらく歩くと公園が見えましたが、そこでは住民の方々が集まっておりました。地域のコミュニティが活きていることが伺いしれました。すると公園の片隅にある白い生き物がいました。・・・ヤギです。ここではヤギを放し飼いにしているのです。(あとで柵に戻されていました。)
港に沿って歩いていくと大きな機材や鉄道のレールが引いてある施設群が見えてきました。これは出炭した石炭を運搬船に積み込むための施設でした。それは200m程続いていました。この施設の上には高台がありますがそこに池島炭鉱の中心的施設が立ち並んでいました。そこから炭鉱マンが地下の深い坑道へ潜り石炭を掘り出していたのです。
【いざ炭鉱マンの街へ】
さて、これから高台の上の炭鉱マンらの街へ登っていきます。坂道の登り口には大きな発電所と淡水化施設が残されていました。10階建てのビル程の高さの施設とそれよりも高い煙突は遠くからもその存在感があります。長年使用されなかったせいで破損箇所が多く目立ちます。
坂道は蛇行しながら高台の上を目指します。右手の眼下の谷には建物が並んでおりました。どれも空き家で派手に壊れたり草むらに埋もれている家もありました。更に坂道を登ると左手に三角のモニュメントがありました。そこには「池島鉱業所」の銘板が収まっておりました。
さてそろそろ炭鉱マンの街が見えて参りました。鉄筋コンクリートの社宅群やその回りの店舗や郵便局、病院、学校の建物が見えます。かつては沢山人がいたであろうこの街も今では人っ子一人見えません。
街の入り口には簡易郵便局と市役所の支所があります。その奥には新店街という商店街の跡がありました。営業している店はありませんでした。裏通りにはボウリング場やスナックなどの跡がありました。中には半壊している建物もありました。この商店街の中で今も現役だったのは「集会所」と「消防署出張所」位でした。
更に道を進むと大きな小・中学校が見えます。体育館は2つもあり、かつての生徒の多さが予想されます。正門の前には、確認できる限り島唯一の信号機がありました。こちらは今も数人ながら生徒の子がいらっしゃるとのことです。
ここより上には「長崎市設池島総合食料品小売センター」の看板を掲げる建物がありました。
そこには店舗が一つのみ存在しておりました。その店の前には猫の群れがおり、そのうち一匹の猫が足に身を絡ませてきました。かわいいことこの上ありません。
さてこの店の前には広大な空き地が存在しておりました。これはかつて島一番のスーパーマーケットであった「池島ストアー」の跡地です。
創業は1959年で長らく島の人の生活を支えてきました。しかし炭鉱の閉鎖後は人口減少により売上げは減り、売り場面積も縮小していきました。最末期にはフロアの1/6の面積にまで小さくなっておりました。
この池島ストアーは社宅群の入口に位置し炭鉱マンとその一家の生活の側にあったことがわかります。
【社宅群を巡る】
さてここから社宅群を巡ります。4・5階建ての鉄筋コンクリートのアパートが建ち並び規則的に並んでおります。各棟の番号を見ると3桁の物も見られ、マンモス団地ぶりが分かります。
しかし、当然ながらどの棟も使用されておらず入口は鍵が掛けられております。また、団地内の小路の並木は背丈が高くなりすぎており、人が消えてから年月が遠くなっていることを確認させられます。
社宅群の真中には「慰霊碑」がありました。池島炭鉱の従事者で職務中に事故などで命を落とした人のための慰霊碑でした。そこは木々に囲まれ、木漏れ日の差し込む空間にありました。この土地に炭鉱マンはいなくなりましたが、慰霊碑で眠る魂はこれからもここに残り続けるのでしょう。
さて、社宅群は島の西側に延びております。道路と平行して今度は8階建ての高層アパートが建ち並んでおります。このアパートは斜面地に建っているので、下からだけではなく上の道から5階部分から入ることもできるのです。
なお上の道からはアパートの間に炭鉱マンの沢山通ってきた第二坑道への通路がありました。南向きの通路からは海が一望出来ました。私が行ったときは昼前でしたが、黄昏時にはどれ程美しいのでしょうか。
さてその高層アパートの下には古めかしい「神社下」のバス停がありました。運転手のための詰所の小屋もあり、ロータリーが整備されております。しばらくするとバス停にハイエースがやってきました。これがこの島の路線バスなのです。人口120人位の島で乗客数は少ないので、これくらいが丁度いいのでしょう。降りる客はおらず、運転手の方が降りて小屋の中に帰っていきました。
かつて島の人口が多かった時期は大型バスで運行され、今と同じく島東部の港と島西部のこのバス停を結んでいたのです。この間は高台へ登るため坂がきつく、バス需要はそれなりにあったのではと思われます。
今度は社宅群を東へ向けて歩きました。とある公園の前を通りましたが、公園内には松の木が勝手に自生しておりました。私は公園に入る気がなくなりました。今ここで社宅群を見ますとベランダの欄干が失くなっている家や加えて大窓が無い家もありました。
社宅群も終わり公営住宅群も見えましたがそちらには車がいくつかあり、洗濯物を干す部屋がいくつかありました。生活の営みの証拠です。
私は島の南を周回する道で高台の上の炭鉱街から降り、坂の途中で池島炭鉱の各施設群も確認できました。長年放置され、まさしく廃墟然とした雰囲気でした。なお道路から海をずっと眺めることもでき、海のさざ波の音がひたすら聞こえます。やがて道は海岸に降りてきて港の方へ帰っていきました。
さてこの日は寒く風も強かったので港の待合所へ戻ってきました。上陸してから2時間半ほど経っておりました。
待合所の中には談笑する島民の方数人がいらっしゃいました。室内には昔小学校の子供達が制作した池島のミニチュア模型がございました。建物から地形、道路まで何もかも精巧でした。
【古くからの町・郷集落へ】
次の船まであと二時間弱ありましたので、私はまだ見ていなかった所へ向かいました。やって来たのは島北部の集落、郷地区です。ここは池島が炭鉱の島になる前からある集落です。
郷集落の入口にはかつて商店街であった小路がありました。営業している店はなく、丘の上の新店街と同じ雰囲気がありました。ほとんどの建物が放置され一部破損し、中には潰れている建物もありました。元・酒屋、美容室、パチンコ屋、喫茶店・・・かつての賑わいが予想されます。元パチンコ屋の建物の前には古いパチンコ台が放置されていました、建物の奥には両替機もありました。
集落の中心部に到達しました。集落は谷間に沿い山の上まで延びております。先ほど申しあげた、坂を登る途中から見た谷間の建物はこの郷集落の建物でした。見渡す限り多くが空き家でした。その中で「老人憩の家・池島荘」は開いており、集落がまだ生きていることが分かりました。
私は島の北側の海岸沿いに港へ帰りました。島の海岸はしけが激しく濁った波が押し寄せておりました。この島の周囲は海流が激しいため、元より海水浴には向いてないとのことです。
港へ着き瀬戸港行きの切符を買いました。フェリーは間もなく到着しました。フェリーには10人ほどの客が乗船し、14時20分に島を出発しました。滞在時間は5時間弱でしたが、そこでは初めてだらけの発見だらけでした。
【全体的な雑感】
この池島散策の全体的な雑感を申し上げさせていただきます。
池島では多数の炭鉱遺構が残っておりますが、それはそれらが炭鉱会社の所有物だからです。大規模な遺構の撤去には多額の費用がかかりますので、今日まで一部立ち入り禁止にしながらそれらが残されているのです。
遺構の多くは長年放置されたせいでどこも崩れかかっており、風が強かったせいか島の至るところで建物の軋む音がどこでも聞かれました。いずれは近付けない所がもっと増えることでしょう。
そして、この島は人口がほんの120人程しかなく、島のインフラもそれらを支える程度にまで縮小されました。先ほどの路線バスのワゴン化もそうですし、生活必需品を買う店も見る限り小さな店一つのみでした。そのため私は島で昼食を買うことはせず、本土に帰ってから昼食を摂りました。入院設備のある総合病院もかつて炭鉱会社により作られましたが、今では縮小し診療所になりました。そのためこのコロナのご時世において、体調不良の人の池島への渡航を遠慮する貼り紙が本土の瀬戸港にありました。
かつては都市部並みに生活インフラが充実していたこの島も、一つの村ほどの規模に縮小しております。池島では大規模な出炭はもう行われておりませんので、炭鉱が操業していたときの設備や生活インフラは余剰となり、現在のような遺構群として残っているのです。また、この島で炭鉱開発以前に行われた農業も、今炭鉱施設や街(の跡)になっている高台で行われていたので、容易に戻ることが出来ないのも実情です。
しかし池島では今でも人が住む島として存続しております。この島は閉鎖後の炭鉱設備を一部利用し、観光コースを設けております。その観光収入により島の人の生計が支えられています。業態は異なりますが、池島は今でも炭鉱の島なのです。
それにこの島は不思議と人の生活の息吹がひしひしと感じられました。池島は海に囲まれた小さな島で島のどこからも大海原を見ることができます。周囲は激しい海流が打ち付けており、港を除けばどこの海岸でも北から南への海流を見てとれます。その姿は一つの船に似ています。その船の中で人が生き続けようとする姿には並大抵ならぬ活力に溢れ、明るさを感じとりました。身動ぎしないこの島ですが、ここでは大海原を旅する船のような冒険心が溢れておりました。それは炭鉱都市だった時代もこじんまりとした今でも変わらないものだと思われます。
この島の人々の生活がいつまで続くものかは分かりませんが、いつ最後となってもそれは暗いものではなく華々しい終わり方となることでしょう。
最後までありがとうございました。
2020年12月21日