ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

「風の谷のナウシカ」をふりかえる

こんにちは、ずばあんです。

 

数日前に風の谷のナウシカの漫画版の感想を述べさせていただきました。

主人公ナウシカが真の優しさを求め、困難や因業とぶつかりながら、最終的に清濁入り交じる生のあり方を肯定し愛するストーリーはもの悲しくも温かく優しいものでした。

 

私ずばあんの漫画版ナウシカに対する感想は既に記しました。しかしその域から漏れる私の考えについては記事の質と量を担保するのと記事を読む方への誤解を少なくするために敢えて今回の記事に持ち越しました。

 

今回は漫画版、映画版のナウシカから思った私の考えを記します。

 

【私達は「自然」の外で暮らしている】

 

私は映画「風の谷のナウシカ」を見まして、本当に自然に対する優しさこそが最後は勝つのだというメッセージを感じました。

 

ここでいう自然とは王蟲やその他の蟲、腐海といったものを指します。ナウシカらはそれらを愛し親和しようとする立場です。一方でトルメキアの兵器や巨神兵などは非自然であり、自然とは敵対する関係にあります。

映画の結末は、ナウシカは奇跡を起こしトルメキアの圧政をはね除け、風の谷に平和を取り戻したのです。

 

まさしく自然愛護の勝利です。映画のフィルムの最初あたりで、WWF推薦のスポットが入るあたり映画のメッセージ性を表しています。

 

しかし漫画版ナウシカでは映画版のメッセージがひっくり返りました。ナウシカが愛していた自然は実は人工物であったことが分かりました。ナウシカら人間も含めてかつて存在していた旧人類の高い科学技術により作られた生物だったのです。

こうなるとナウシカの世界における自然vs人工物の構造は完全に崩壊します。ナウシカ自身が自然から人工物の方へ飛ばされてしまっているのですから。

 

ですが、これは完全なるフィクションではありません。私達の暮らす地球も人工でない部分の方がとっくの昔から少数になっているのです。

かつて人類の祖先は狩りをしながら生活をしていましたが、やがて農業を行うようになりました。この時に天然の森林はほとんど斬り倒され、山々の生態系は改変させられたのです。それ以来私達人類は「自然」と決別したのです。

私達の人類史は太古の昔から自然破壊の連続でした。中東にはかつて「レバノン杉」が生い茂る森がありましたが、この地に古代文明が興るとレバノン杉は全て斬り倒され森は消滅しました。それ以来森だった場所はアラブの広大な砂漠となりました。

日本も弥生時代に稲作が普及すると農地の開発のために原生林の多くが消え、現在は白神山地知床半島の一部等に残る程度です。江戸時代には湿地帯や低地でも大規模な農地開発が進められました。(米どころ・越後が誕生したのもこの頃です。)私の暮らす九州地方では江戸時代の内にクマが絶滅するなどもっと自然の改変の度合いは強くなっております。

私達が思い浮かべる自然の風景と言えば農村や森生い茂る山々等ですがもはやそれすらも太古の昔から人工物なのです。

そこから我々が「自然」に本当に戻ったらどうなるでしょう。私達は人間として暮らせなくなるはずです。それこそとんでもないバッドエンドです。

 

ナウシカ達の暮らす環境は砂漠の真ん中ですが、砂漠は環境破壊の産物でもあり人工物なのです。そこに腐海が生まれ世界の浄化をしていく先には、「自然」は復活するかもしれません。それはちょっと訪れればいい場所かもしれませんが、ずっと暮らせば人間は「自然」と対立しまた環境破壊をするでしょう。

 

そのためナウシカが示した人工物だらけの世界は、人工物にまみれた私たちの世界の現実とそれを愛する心を表しているのです。

 

 

【漫画ナウシカと「沈黙」】

 

漫画版にいて映画版にいない者を前の記事で話しましたが、実はまだおります。

 

それは「蟲使い」です。蟲使いはその名の通り蟲を家畜のように操り、各種目的で使役する民族です。その民族は数百年に渡り差別迫害を受け、侮蔑の目を向けられ続けてきました。金を持ってても物を買うことも許されず、故に火事場泥棒のような生活で生き延びておりました。ナウシカも1巻の時点で「忌々しい蟲使いども」と罵っていました。この世界における蟲使いの汚名の強さが分かります。

 

そして彼らはナウシカ達のように「神様や神話を信じ守られる」立場ではありません。それは蟲使いが6巻で発した「神様がほしいよう」という発言からも分かります。宗教国家土鬼からも差別を受け、土鬼の僧官チヤルカにも憎しみの感情をぶつけたあたりから神から見放されているという意識は強いのでしょう。

 

そして、この意識は蟲使いのみならずこの話のキャラクターに徐々に伝播していきます。主人公ナウシカは老僧から大海嘯は天罰であると聞き心の闇を深め、それを癒すために王蟲たちと世界の浄化に与し、かえって心の闇に閉じ籠る事態になりました。

僧官チヤルカもこれまで土鬼国民のことを思い自身が進めてきた宗教政策が、むしろ国民に終末思想を芽生えさせていたことを知り愕然し幾度も後悔と懺悔の念に襲われました。

そして腐海や蟲と共生してきた一族「森の人」の青年セルムも、ナウシカと共にこの世界の人工物の真相を知り、自分達の伝説の神話を否定され落胆します。

 

このように、漫画版ナウシカの話が進むにつれ、神から見放される人々の姿が徐々に浮き彫りにされたのです。

 

ここで私は、遠藤周作の「沈黙」を思い出しました。

この作品では徳川時代の日本でキリスト教弾圧のもとで殉教する人々やキリスト教の実態を目の当たりにし、神の存在を疑うも信仰から離れられない人々の姿を描いております。

タイトルの「沈黙」は上の状況で何もせず言わずを貫くような神の態度を表すものです。

 

蟲使いやナウシカたちの状況と「沈黙」は、この神様不在という点で似ているように思いました。

 

「沈黙」の話の結末ですが、最終的に主人公は自分や信徒の命のために浄土真宗に改宗しますが、そこで神の声が聞こえ主人公の行いを赦しました。神は、神の子の依存心ではなく生き様の前に現れたのです。神が自分から出現したのではなく、主人公のなかに神が内在していたのです。

 

ナウシカの話に戻しますが、ナウシカ達の創造主である旧人類を代表する「墓の主」はあたかも神のように振る舞いますナウシカはそれに憤り、墓の主の神性を否定します。そして、ナウシカは「神々は一つ一つの生き物に存在する」と発言します。

 

ナウシカの場合は非常にアグレッシブですが、これは「沈黙」の結末に通ずるものがあります。それは神の出現の否定です。

「沈黙」では神の沈黙の正体が外在する神の不在であると明かし、神の存在が自分の真心の中にあることを示しました。

一方で「ナウシカ」ではそれがもっと強調されます。沈黙していた神は実は神を騙るエゴまみれの「墓の主」でした。そしてナウシカはこの「悪魔」を抹殺し、ナウシカの意志で改めてこの世界を神と認めたのです。

ナウシカが「生きねば」と最後に思ったのは、自分の生きようとする意志こそが神の存在の証明だからです。

 

この部分を私なりにまとめれば、これは人間が綺麗な理想の元に生き残ることが難しい程弱いということ、そして弱い人間の生存戦略弱さの肯定であることを表しているといえます。

弱さの肯定というのは、弱さに甘えることではありません。弱い自分がいきなり強い存在になれるという幻想を捨て、弱いなりに精一杯生きることを言うのです。

 

巨神兵オーマも「裁定者」として生まれ、擬似的に神の役割を演じさせられました。しかし、ナウシカの先の発言によりオーマはその存在意義を失いました。最後にオーマはナウシカの指示で墓の主を抹殺しますがそれは裁定者の立場からではなく、ナウシカの子としての立場から行ったのです。

 

 

ナウシカの敵は誰だったのか】
 

漫画版ナウシカではナウシカを様々な困難が襲い、多くの敵が襲ってきました。初めは風の谷に襲来したトルメキア軍でしたが、その後王蟲を傷つけ自分たちと敵対した土鬼軍へと移り変わります。ここまでは軍事上派閥上の敵対関係でした。

 

その後土着宗教の老僧の言葉から「天罰」としての世界浄化の思想と対立します。ここで汚染されたナウシカ達とそれを浄化しようとするものの対立が起こりました。この対立はいわゆるエコロジー論におけるもので、汚れたものと綺麗なものの対立となっております。ナウシカは汚れた存在としての自分の位置付けに戸惑い、ナウシカは浄化に与しようと王蟲に飲まれました。これによりナウシカは浄化の意志に負けたかのように思われました。しかし、ナウシカは生き残りセルムらにより心身ともに回復しました。

 

この後ナウシカは差別されていた民族と融和を図り、戦争そのものも停止しようと試みます。ここでナウシカ戦争や差別を起こす意思との戦いに入るのです。そしてナウシカは、上の戦いの最終的な敵である墓所とその主に対峙するのです。ここでナウシカ墓所浄化の意思の権化であり、浄化の意思こそが自分の世界における悲劇の端緒であることを確信します。ここで、ナウシカ人間の清濁を是とし、浄化の意思と対立し墓所を抹殺したのです。

 

このようにナウシカの敵は対立軸が移り変わりつつ、何度も変わってきたことが分かりますが。最初は風の谷や自分の愛する生き物、仲間を傷つける者との戦いでしたが、やがてエコロジー論に置ける汚染物としての自分との戦い、そして最終的には世界の「浄化」を行い自分達の生を脅かす者との戦いで幕を閉じたのです。

 

これらは現代の私たちの社会の諸問題に当てはまります。戦争、差別、環境問題、経済問題などです。それらは一挙に解決するものではなく、徐々に解決するものです。いつ終わるか分からない課題にひたすら尽力するしかないのです。

 

「清浄と汚濁の両方を人間の本質として受け止める」という考えはそうした状況における人々の苦悩に投げ掛ける言葉だと思います。そう思わなければ、人間の成長のために自分が生き続けるなんて出来ません。ナウシカというのはそのような人々の代名詞なのではと思います。

 

したがってナウシカの敵とは、自分の愛するもの同士が平和に暮らし続けるのを邪魔するもの一切であると思われます。

 

【新人類はその後亡びたのか?】

 

ナウシカ達新人類はいずれは滅びる運命であると墓の主などは言っていましたが、結局新人類は消えてしまったのでしょうか?

浄化後に復活する予定だった人類もナウシカらが墓所ごと始末したので人類は浄化後に絶滅することは確定したかように思えます。

 

漫画版ナウシカの終わりは、ナウシカが今まで彼女と共に行動してきた人々に囲まれながら、心の中で「・・・生きねば」とつぶやくところでした。このまま終われば私はもうナウシカ達人類は絶滅したのだと間違いなく思いました。しかし、それを疑わせるものがそのすぐ下に書いてありました。

 

「・・・その後ナウシカは土鬼にとどまりチククの成人後、風の谷に帰ったとも、森の人のもとへ去ったとも言われる。クシャナは代王を名乗り以来トルメキアは王を持たぬ国となったという。」

 

これは、文でその後の展開を示したものです。ただそれだけなのですが、私はこの終わり方をある所で見たことがありました。

それは、ジョージ・オーウェルの小説「1984」の附記「ニュースピークの諸原理」  でした。この附記は小説の本編が終わりその直後に記されていたものですが、実はこれこそが本当の「1984」の結末だったのです。附記は本編の時代設定よりも後の時代の何者かにより記され、本編の終わった後何が起きたのかも記されているのです

 

私はこれと同じにおいを漫画ナウシカの締めの文に感じました。つまりこれはこの物語を伝承する人類がこの先も存在することを暗示しているのです。トルメキアの行く末(大統領制国家か)はともかく、ナウシカの行く末について歴史的に2通りの解釈がでるほど時間が流れたことを表しています。

 

この世界の歴史の伝承の精度も検証すると、蟲使いたちが先の大海嘯以来の自分達の300年ほどの歴史で部族の数の減少を正確に把握できる程の精度はあると考えられます。一方で、大海嘯による混乱もあるのでしょうが、1000年前の世界浄化計画がかなり改変された神話として伝えられる程の歪みもあることが伺えます。

 

故に巻末の締めの文はこの話が終わってから数百年以上から千年未満後の者により語られていると思われます。そしてそこまで人類が存続していることも暗に示していると思われます。

 

宮崎駿氏はなぜナウシカを作った?】

 

さて、このナウシカですが映画版であのような自然愛に溢れる作品を描きながら、なぜ漫画版では長い時間をかけて全く異なる結論に至ったのでしょうか。

 

実は漫画版のナウシカは、映画版のナウシカの製作を予定して連載が始まったものだったのです。

詳細はWikipediaの「風の谷のナウシカ(漫画)」をご覧になるのが速いですが、当時徳間書店宮崎駿氏のオリジナル映画の製作が計画されておりました。しかし、徳間書店原作のあるアニメ映画しか認めなかったのです。そのため自社の雑誌アニメージュで宮崎氏のオリジナルアニメの漫画版の連載を先行し、ある一定の時期が来たらアニメ映画の製作をすることにしたのです。

 

映画の製作が進むと、当初の宮崎監督は映画のエンドを「ナウシカ王蟲の襲撃を止めようとする所」にすることを考えていました。しかし、それは却下され現実の映画版のエンドに改められました。

これにより神話的なエンドとなりましたが、宮崎氏は後悔しました。宮崎氏はかなり強固なリアリストであり、現実的な因果関係の薄いこのエンドに納得しませんでした。

そのため宮崎駿氏はその後ジブリ作品の製作と平行しながら、自らの本当に伝えたいことを漫画に記したのです。映画版のエンドの神話性を否定し、自らが丹念に作ったナウシカ世界を漫画に表現しました。

 

では宮崎駿氏の描きたかったこととは何だったのでしょうか。

 

この漫画ナウシカですが、ある意味では宮崎駿氏自身の自伝とも言えます。

宮崎駿氏は青年時代に共産主義思想に傾倒しておりました。共産主義というのは、産業革命以前の農村共同体のように、お互いに経済的に助け合う理想的な共同体(コミューン)を国の社会レベルで実現しようとする思想です。

宮崎氏の青年時代である昭和30年代は世界的にこの共産主義革命の機運が高まっていた時期でした。宮崎氏はアニメ作家になってもこの思想を抱き、自身の担当作品でもその理想を描いておりました。

しかし、1960年代終わりから1970年代にかけて、共産主義運動の退潮や世界各国の共産主義政権の限界が明るみになってきました。

宮崎駿氏もそれを理解しており、共産主義とその共同体への期待は薄れていきました。そしてそこから宮崎氏の関心はエコロジーへと移りました。これは当時の共産主義に同調し幻滅した人々の共通の動きでした。

そのような宮崎氏の人生の軌跡を投影して漫画・映画ナウシカの製作が始まったのです。

 

しかし、漫画ナウシカの連載中にも宮崎駿氏の考えとそれを取り巻く環境は大きく変化しました。

この漫画の連載時期は1982年から1994年でした。その間に世界情勢は東西冷戦の激化から一転して融和へと移り1989年には東西冷戦が解決しました。そこから恒久な平和が期待されましたが、湾岸戦争などの地域紛争が激化しました。

ソ連も1991年に崩壊し共産主義国間の安全保障や経済援助の関係も解消されました。共産主義国でも中国やベトナムなどで資本主義経済がこの頃に導入されました。

環境問題でも1986年に当時ソ連だったウクライナチェルノブイリ原発が爆発し放射性物質が広範囲に拡散し、当時人類史上最悪の原子力事故となりました。

この頃日本社会も緩やかな成長からバブル景気とその崩壊という激しい変化が起きております。国内の産業も、工業などの第二次産業の衰退と金融やITなどの第三次産業の躍進が起こりました。

 

映画版ナウシカの製作は1983年に行われました(上映は1984年初)が、映画上映後にナウシカ世界のリアリティーを揺るがす事態が現実世界で絶え間なく続いてきたことが分かります。

 

こうした中で、宮崎駿氏は私たちの世界の未来の姿であるナウシカの世界についても絶えず見直しを考えていたと思われます。何が「火の7日間」を起こし、ナウシカの世界を誰がどの様な思惑で作ったのか、そしてこの世で生きている自分達は何のために生きているのか、その答えは宮崎駿氏の人生が産み出したものと言えます。

 

【おしまいに】

 

このナウシカという作品は人間という生き物を包括的に描いており、それを描いた宮崎駿氏の人生の軌跡も同時に描いていると言えます。

 

この記事では私がナウシカについて考えたことを記しましたが、本当はもっと多くの発見がある作品だと思われます。

 

私はより多くの人のナウシカの考察に触れ、このナウシカという作品をもっと知り、楽しんでいきたいと思います。

 

今日も最後までありがとうございます。

 

2021年1月5日