ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

「許しを請うこと」をやめる生き方。

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は「許しを請う」ことについて話をしたいと思います。

 

許しを請う」ことは日常的に行われることであり、結婚するときに結婚相手の家族に許しを請う場面、仕事で契約違反をしてしまった場合にも先方へ許しを請う場面など様々な場面において許しを請うことがあります。このセンスを持つことこそが大人の資格の要件といっても過言ではありません。

 

しかしながら、とにかく許しを請うことが正しいかというとそうではないと思います。むしろ、そればかりを意識してもっと大事なものを犠牲にする恐れがあります。場合によっては人の人命を奪いかねません。

 

その為今日は私の人生経験から許しを請うことの是非を述べていきます。

 

 

【私のことが気にくわない人】

 

さて、世の中には私の生き様や存在が気に食わないという人がいます。世間に気の合わない人は人間全体の3割いますので仕方ありません。

その大半の人は距離感を置くなり疎遠にするなり賢い行動をとられますが、中には暴言や暴力などの実力行使を伴う方もいらっしゃいます。「消えろ」「死ね」「気持ち悪い」など言う人はそれです。

 

私は昔はそうした人達がいれば自分が悪かったものと思い、いろいろ「努力」をしました。しかし、それが上手くいくことは少なかったのでした。そしてあるとき私は気づくのです。向こうが私を許すときも、私が許すときも来ないのだと

 

そこから私は人と親しくするよりも、適度な距離感をとりその上で仲良くする道を選びました。その結果、人付き合いで心の負担がかかることは少なくなりました。

 

人間は何か理由や改善点があって不和が起こるのではありません。そもそもの相性の悪さから有ってないような理由で不和が起こることもあるのです。

それも理由に入るだろうという人もいますが、それならば人間関係を築くことはとんでもない博打かあるいは重罪に当たるでしょう。もちろん「朱も交われば赤くなる」と言われるように、明らかに悪い集団に関わることは自分の責任かもしれませんが。

許しを請い続けないと成り立たない関係性はそもそも成立していることが害悪なのです。あり続けることは可能ですが害悪なのです。それを放置したり、認めるものに心から許しを請うことも害悪です。

 

そのためそのような不穏分子との関係は改めないと、自分の幸福はゴリゴリ削られまくるのです。

 

もちろん自分が他人に対して害を与えてしまう関係性も改めなくてはなりません。行動を改めるのは当然ですが、関係性も改めなくては問題は延々と続きます。

自分が勝手に人を裁く関係を積極的に作るのもある意味不幸です。たちの悪い粘着質です。いつも人の罪や罰に怯えたり怖がりながら暮らすのと変わりません。自分もそうしているのだから人もそうしているのだろうと思うからです。

 

そうしたことから、自分を裁きたがるようなもしくは他人を裁きたがるような関係は最初から殺意満々ですし、口で言って聞かせたところで改めないのです。

だから、このような関係はとっとと決別させた方が早いのです。親しくつき合うことから、不和さえ起きなければの方に早々とシフトチェンジした方がよいのです。

 

 

【私を許さない神】

 

さて、このような人々の上に立つものとしていわゆる神様がいます。その神様からの裁きは「天罰」だとか「裁きの鉄槌」と呼ばれます。

私はこの考え方は常々不健康であると考えております。体感として、もしこれが神からの罰ならばあまりにもメッセージがないものだなと思います。それほど天罰の理由が理由になってないのです。あったとしてもあちらが立てばこちらが立たずのような、神のメッセージとしてありえないものに思われます。

 

ただ、これはいきなり無神論や神様への侮辱の弁を述べるものではありません。そもそも私は神様のメッセージとやらを解せるほど知識が豊富なわけではありませんし、人生経験を経ているわけでもありません。このさき神様のメッセージを理解できる日が来るかもしれませんし、私もそれは信じております。

 

ただ、問題はその日までどのように過ごすのかということです。分からないものから無理矢理メッセージを汲み取るのは、妄想以外の何者でもありません。自分の思い込みで行動することになりますし、神様への侮辱です。もしこれが人相手ならば、失礼でおろかな行為であることはハッキリ理解することができるでしょう。そもそも神様の存在自体も不確かでしょうに。

そのため私は、いずれ神様のお心が分かるだろうというのは、天罰を天罰として強制的に粛々として飲み込む理由にはならないと思っています。

 

私も過去の失敗や不幸の度にこれは神様からの罰ではないかと思ったことがありました。しかし、今思えばそれは教訓というものもなくメッセージでもなく、罰だとすればものすごい気まぐれなものなのです。

 

罰を受けるものと受けないものの差を理由もなくつける存在。私たちがそんな存在に対する最後のアプローチは「許し」なのです。許すか許さないかはそれを思う者の心持ちが全てですので公平性が入る余地がないのです。不公平に罰せられたことには不公平な許しを請うしかないのです。

それで何か得るものがあれば問題はありませんが、むしろ失うものの方が大きくなればまた新たな問題が起きます。失うものを供物として許されるか、許されずに失うものを減らすかです。罪か幸福かどちらかを選択するのです。

 

しかし、時計の針を戻して客観的に考えましょう。そもそもこれは許しを請うべき神の存在から始まっているのです。

天罰は私に何を求めるのか。天罰は公平なのか。その神様はそもそも天罰を落としたのか。それ以前に私の中での神様の存在の仕方は正しいのか。

 

こうしてみれば、神様が自分の行いに対して天罰を落とすという思考自体がどれ程バカらしいことか分かるでしょう。そんな神がいたとしていつ許してくれるかも知れたものではありませんし、むしろそれで命を落とすことになれば神が殺人鬼と同等の存在であることになります。そんなものに請う許しには塵ほどの価値もないのです。

 

そもそも世の中には、何かしらの宗教を信じる人や神様を信じる人は沢山います。しかし、その人達がみんな自分の宗教を十分理解しているわけではありませんし、天罰だとかをみんな正しく理解しているわけではないのです。むしろその様なものに拘泥せず自分の生きやすいように生きているのではないのでしょうか。そのなかで善行を積む人も多く、自律心の高い人もいます。こうしたことからも天罰や神の否定がすなわち非徳や不幸に陥ることを意味しないのです。

 

 

【私に死ぬことのみを望む正義】

 

 

さて、私に死を強要するのは生きることを許さない神ばかりではありません。私を生け贄として成立する正義もまた殺意にまみれた存在であると思います。

 

個人はこうあるべき、集団はこうあるべき、社会はこうあるべきという正義は何かしらの形であります。正義は個人を個人足らしめ、集団を集団足らしめ、社会を社会足らしめます。故に人間が充実した人生を送るには何かしらの正義は必要なのです。そのために自分の時間や力を投資するのは必要な投資です。

 

そこから外れた者は穢れた者として蔑まれ、制裁を受けます。人を不愉快にする人間が、嫌われ集団から追放されるのはその一例です。

しかし、その正義が過激になると「生贄」を要求されるようになります。例えば、太平洋戦争が続いたときに、大日本帝国であり軍国主義の下にあった日本では誉れ高き民族の矜持やその連帯意識から集団自決をすることが少なからずありました。これは軍国主義に対する「生贄」です。その生贄を断れば正義の名の下に激しい攻撃を受けたでしょう。

 

小説「沈黙」でも、生命の危険からキリスト教から棄教した主人公などは、敬虔な信徒からの侮蔑や罵りを受けることを予測しておりました。キリスト教の正義に基づけば、拷問に屈せず殉教した信徒こそが正義に守られ、そうでない者は正義に攻撃されるのです。

 

つまり、正義は時として従うものを死の脅威に晒す可能性もあるのです。死とまではいかずとも健康を損ねるまでの犠牲を我々に求めることがあるのです。これは一種の殺意です。

これは嫌いな人間に対する憎悪の念ではなく、愛の条件としての殺意です。正義のために奉じ死んでくれた人間には愛を向けるも、殉死から逃げた人間には侮蔑や軽蔑の念が向けられます。または、死から逃れた自分への後悔や懺悔の思いも同じものでしょう。そして、それは長く汚名として残されることもありますし、自分の中でも許されない失態として心の傷となることもあります。

 

私はこの事を思うときに、許されるために許されるまで生きようと思ってきました。いじめられないようにすること。荒れた学校の同級生を更正させること。自分がより男らしくなること。目に見えて分かる友人関係を築くこと・・・etc 。自分の人生は許しを請うためにあるのだと。正義に奉じ続けることが私の人生なのだと。

しかし、そうしようとすればするほど許しを請う事に耐えられず逃げてしまうのです。そして「穢れ」だけが増えていきいつまでも「みそぎ」は終わらないのです。許してもらえる気配は無いし、強迫観念は日に日に増しました。

 

そんなある日、私はリラックスしているときにこう思いました。そもそも私を裁いているのは誰なのか、私にみそぎを要求する人間との原初の関係性は何なのか。そんな「輩」が私を許すことはあるのか、それ以前に許したことはあったのか。

 

私に正義に奉じて死ぬことを要求する人間は、最初から私という人間に殺意があるか、あるいは私という人間に関心がないのかのどちらかなのです。その時から私は無い罪や正義のためにみそぐことをやめました。自分を永遠に許さない者や関心がないものに許しを請うことを止めたのです。

 

数あまたの人間の暮らすこの世に生まれた以上、私を悪人として殺したい人は沢山いるのです。それは立場を変えても同じです。私は数あまたの人々に殺意を向けられ、そこからは逃れられないのです。そのため私は正義から悪人として裁かれようと、穢れだと卑しいと言われようとも、取りあえず生きようと思います。そんなささやかな希望だけは忘れずに璧として大事にしていきたいと自分に誓いたいです。

 

 

【許されずとも生き抜く】

 

 

ここまで申し上げた通り、世の中には私をとにかく殺したくて殺したくて仕方ない者が沢山いることが分かります。許しを請うても殺すし許さないならもちろん殺すという、そんな人は沢山いるのです。

 

以前上げた記事で「この世は殺意が横溢している」と申し上げましたが、その根拠はこうしたことなのです。

 

そんな者に対して本当に許しを請うことがどんなに徒労なことでしょうか。私を許したくない者は一生私を許さないし、死んだところで許さないでしょう。そもそも私がこの世に生まれなくとも私を端から許さないでしょう。

 

そんなに私を許さない人間だらけなら、もう許しを請わずに勝手に生きていけばいいし、せめて人に迷惑をかけないような工夫をすればいいことなのです。

 

ここまで言うと私は人間が絶滅することや私自身がこの世から去ることを望んでいるように思われるでしょうがそれは違います。

 

私はこの世は素晴らしいと思っていますし、人々との交流にも素晴らしいものがあると思います。その中で殺意を汲むことやそれに許しを請うことは無いと申し上げているのです。殺意を向けられたらそれに対して嫌だと言うのがコミュニケーションなのです。

 

現在新型コロナウイルスの脅威が未だに続いておりますが、もしそれが何者かのメッセージならば、それに対して許しを請うても無駄だと思います。私たちは反省はすれど、無い罪の妄想に付き合う義理はないのですから。無い罪に対する許しを請うことは滑稽なのですから。

万が一にも誰かが私に本当に死んで欲しいならば、私はそれまでの関係性を否定しなくてはなりません。絶縁とまではいかなくてもただの他人以下の関係になることは避けられません。

 

さて、ここで諸作品の紹介です。

 

始めに工藤マコトさんの漫画作品「木曜日は君と泣きたい」を紹介します。

 

この作品は、女装して生活する男子大学生とそれを取り巻く人々の話です。主人公の男子大学生の薫は普段は女装して女子と偽って生活しており、薫が男性という事実は親友や単身赴任中の父親のほか知りません。

彼が女装するのは過去に双子だった妹の楓が事故死したことがきっかけでした。塞ぎこんだ母のために薫は女装し「楓」になりました。それから母は薫を「楓」としてしか受け入れられなくなりました。そのため同居する母の前で薫は「楓」として生きているのです。

話が進むにつれ薫を殺そうとする人物が現れたり、実は親友が薫のことを「楓」として見ていたりと、薫の居場所が無いことが明らかになりました。

身近な人間から悉く殺意のようなものを向けられた薫は現在の環境に絶望し、全く別の場所で「薫」としての人生を取り戻すのでした。

 

この様にこの作品は、自分が生きることを許されない緊迫した状況を描き、そこから脱するストーリーを描いております。

 

二つ目は音楽作品ですが、TOKIOの「宙船」です。こちらは中島みゆきさんが作詞作曲され、長瀬智也さんが歌っておられました。

 

この曲は人の人生を船に例えて、人生の様々な難局を乗り越えながら厳しい人生を歩むことの尊さを表しております。

こちらの曲の歌詞には「お前が消えてよろこぶ者にお前のオールをまかせるな」という節がございます。私は小学生の頃からこの曲が好きでしたが、歳を経るにつれこの節がやたら気になるようになりました。

お前が消えてよろこぶ者」というのは自分のことを嫌ったり虐めるものだけにとどまりません。前の章で述べた通り、自分と相容れないものや、メッセージの無い罰を下す神、正義のために自分に殉死して欲しい人など沢山います。

そんな人間に自分の行動の主導権を握らせるのは、実に愚かな行為であります。どんなにキツイ状況でもそれだけはやってはならないことだと思います。

 

この二つの作品は厳しい局面で自分の人生を守る話ですが、実際にとったアクションは逃げるか立ち向かうかで真逆です。ですが、この2つのアクションは両方とも「許しを請う」場面は出ておりません。許さない人間はまだいますし、永遠に許されないのかもしれません。しかし、どちらも許されなくとも生きております。

生存権は誰かの許しを得て獲得するのではないのです。自分に死んで欲しい人間は消えないのが当たり前ですから。

 

許されないなら許さない人間は無視して生きていけばいいのです。許さないという感情は正義の鉄槌でも裁きでも何でもないのです。あくまで1つの現象なのですから。

 

 

【おしまいに】

 

この記事はかなりきつい口ぶりになってしまいました。これは誰もが謂われ無き殺意で悲劇的な最期を向かえないために、そして自分もそうして生きていきたいと思い記しました。

 

許しを請うこと自体は全否定はしませんが、それはあくまでコミュニケーション上の要請であり、何処から沸いたか分からない許さない心に対するものでは無いのです。そんなものは地面の石ころのようなものと考えるのが一番です。

 

 

 

今日現在、様々な難局に満ちておりますけれども、とにかく皆様には生き続けてもらえればと思います。

 

それでは今日もありがとうございました。

 

 

 

2021年1月13日