ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

続・失敗をどうしても気にする人へ

こんにちは、ずばあんです。

 

以前当ブログで「失敗をどうしても気にする人へ」

(https://zubahn.hatenablog.com/entry/2020/09/25/053428)の記事を紹介しました。

 

そちらでは楽観主義とやめるという努力について主に述べました。今回はその記事に関連して、加筆したい内容がありましたのでそちらを紹介いたします。

 

 

アンナ・カレーニナの原則】

 

 

生態学の名著である「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイヤモンド、1997年)の中の1つの章で野生動物の家畜化が述べられておりました。そこでは家畜化の成功例は極めて少なく、失敗例はものすごく多いことが語られました。このように成功のパターンは少ないながらも、失敗のパターンは無尽蔵に多いことを本書では「アンナ・カレーニナの原則」と名付けました。

 

このアンナ・カレーニナの原則は、ロシアの文豪トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」から名付けられました。この小説は「すべての幸せな家庭は似ている。不幸な家庭は、それぞれ異なる理由で不幸である。」という書きだしで始まり、そこから上の言葉が作られたのです。

 

私はこの言葉に思うところがありました。私は普段何かするときに「全部失敗しないようにしよう」としてきました。最初から全部予測して準備すれば失敗しないだろうと。しかし予測したのにも関わらず、何か異なる失敗をしてきました。別の失敗を防いだらまた別の失敗が起きるということが絶えず起こりました。これには度々辟易していました。

 

しかしある時から何か失敗しても取りあえず最終目的を果たそうと考えて行動したところ、失敗を気にすることは少なくなりました。それは、結局失敗が必ず起こるのであれば、それをカバーするだけの手段があれば取りあえず目的は果たせることに気づいたからです。

 

アンナ・カレーニナの法則に基づけば、失敗や問題の起こるパターンは、それがないパターンに比べてあまりにも無尽蔵に存在します。成功1に対する失敗例は沢山存在するのです。しかし逆に言えばそれが当たり前であり、問題が起きることは大前提なのです。その上で目的を果たそうとするのならば、特に気にするべきことはないのです。一番大事で望まれることは失敗しないことではなく、目的を果たすことなのです。

 

 

【失敗から教訓は学べるか?】

 

一方で失敗を反省したり、失敗から改善策を学んだりと、失敗を成功の糧にしようとする営みは広く行われております。

失敗をそのまま放置すれば失敗を何度も繰り返し成功は永遠にあり得ません。そのため失敗と向き合いその原因を突き止め二度と同じ失敗をしない取り組みが必要なのです。

 

しかし、それは成功の法則を学ぶ営みとは異なるものであります。先程のアンナ・カレーニナの原則では失敗の形は無尽蔵にあり、1つの失敗を防いだところで別の失敗をする可能性は非常に高いのです。成功のためには沢山の失敗を防止することが必要であり、遠く狭い道なのです。

故に無尽蔵にある失敗のうち、1つの失敗を防いだところで成功にはほど遠いのです。故に失敗から教訓を得るには1つの失敗のみならず多くの失敗を重ねるしかないのです。だから、教訓というものを学ぶには多くの失敗を重ねるか、あり得ないですが全戦全勝するしかないのです。

そのため、私はほんの一つの失敗から教訓を学ぶという行為はそれこそ不可能な道であると考えました。それは「失敗は成功の母」というよりは「柳の下のドジョウ」という方がいいのかもしれません。たかだか一回程度の失敗で得られる教訓はないのです。

 

以前の「許しを請うことをやめる生き方」の記事で、私は天罰を意識しすぎることを否定しましたが、何か不幸な目に遇うことは必ずしも神からのメッセージではないのです。あくまで、あり得る沢山の不幸の1パターンなのです。

 

したがって一つの失敗からすぐに学べる教訓は無いと考えられます。

 

 

【失敗を乗り越えたのは誰のお陰?】

 

 

なんだかんだ言って失敗を乗り越え、長い時間の果てに成功を得た人々は沢山おります。失敗を乗り越える例は数あまた存在するのです。ではそれは誰のお陰でしょうか?自分が失敗を乗り越えたことで誰に一番感謝すべきなのでしょうか。

 

それは紛れもなく自分自身です。自分自身の選択と行動により失敗を乗り越え、成功を手に入れたのですから。

 

こう申し上げますと、他の人の力もあっただろうとか人に感謝をしないなんてとんでもないという意見が寄せられるでしょう。それは本当にその通りであり、自分が単独で為したわけではありません。そこにはいろんな人々の力の総合があり、その上で自分の成果が作られているので、それに対する感謝は不可欠なことです。

 

しかし、そこで忘れてはいけないのが自分の意志や行動の存在です。自分が失敗を乗り越え成功に近づこうしなければ何も始まらなかったのですから。自分のお陰でなければ人のしてきたことは「恩着せがましい」か「感謝の押し売り」であることになるのです。それに答えることは、教訓のないものに過度に振り回される恐れがあるのです。人に感謝することと感謝の押し売りに答えることは別物なのです。

 

よって自分のお陰であることを認めて初めて、人の協力に感謝できるのです。そして、そこで人は自立しようとするのです。

 

 

【失敗がない世界はない】

 

 

人間はどこかしらで失敗するものでございますが、その捉え方を間違えますと自分にとって辛いものになります。どう失敗して成功するかは選べても、失敗しないことは選ばせてもらえないのです。

そのため、失敗することは大前提としてその中で生きやすい生き方を選択すればいいのではと思います。消去法でもいいですし、何か強い意思があるならそれを選べばいいと思います。それが自分に何か問いかけるものであればそれでいいと思います。後からそれを改めてもいいのです。

 

私は前記事で「楽観主義」や「やめるという努力」について申し上げました。失敗とどう向き合うか、失敗にどのように答えるか書き記した通りです。これと合わせて、どう成功して失敗するのかを選ぶという視点も失敗を気にしなくなることにとって大事であると思います。

 

ノーフリーランチ」という言葉がありますが、これは英語で「ただ飯は無い」という言葉であり、何かを得るには代償が必要となるという意味であります。ここでいう何かというのが成功で代償が失敗と解せるなら、成功と引き換えに必ず失敗をすることになります。いや、もしかしたらそれは失敗とは呼ばないかもしれません。必要な投資だったかもしれません。

 

もしこれで望まざる結果が起きても、続けるにせよやめるにせよ、失敗を引きずらなくて良いのです。気にしないほうが得なのですから。それをいつまでも必要以上に責め立てる人がいても、真に受ける方が損失なのです。

 

何にせよ失敗を引きずらない時が人は強いのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

さて、私の人生は正直言えば失敗続きですが、私はある時から失敗の理由を考えることをやめました。それは結局いつまでたっても答えらしい答えが得られなかったからです。

その中で自分がずっと失敗の代償を払い続けるのが正直バカらしく思ったのでやめたのです。

 

もし失敗の理由がすなわち成功の理由があるのであれば、最初から何となく分かるので考える必要はないのです。考えなきゃ分からない失敗の理由はそもそも無いのです。元から失敗する運命にあった、意地悪な言い方をすれば話の通じない悪魔が何となくの悪意でハメたのです。

ここまで言えば、次からどうするかは分かりますね?人の人生の牽制をする悪魔と縁切ればいいのです。これが失敗を気にしないことなのです。

 

この記事は強い啓蒙や説教ではなく、同じ悩みの共有のつもりで書き記しました。それだけでも心が楽になる人が増えればと思いました。同じようなことをされている方は他にも沢山おられますのでそちらもご覧になっていただけたらと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

2021年2月15日