ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

ACジャパンの50年

こんにちは、ずばあんです。

 

さて、今年2021年はACジャパンが設立から50周年です。

 

このACジャパンは2009年までは公共広告機構という名前でしたが、名称変更し今に至っております。この団体は数多くの広告作品を制作し、その中には有名なものが少なからず存在します。

 

しかしながら、この組織が何を目指して沢山の広告を作るかはあまり理解されておりません。今回はこのACジャパンの誕生と活動と、その背景を述べていきます。

 

 

【日本の公共広告の誕生〈AC誕生〉】

 

 

さて、日本で公共広告への機運が高まったのは1950年代後半のことです。この頃は高度経済成長の真っ只中で、日本全体が敗戦国から世界の一大経済大国へ向かう潮流に乗っていた時代です。商業活動はますます跳躍し、生産と消費が共に増えていった時代でした。

 

この時代の広告は、商品を生産者が消費者にアピールするためのものであり、商業主義の中で製品の魅力を伝えるものでした。やがて次の10年で国民生活が豊かになるにつれ、それは理想の豊かな生活像をアピールするものとなりました。しかしそれはあくまで生産者たる企業の目線によるもので、その「外側」に対する関心は未だに薄いままでした。

物質的に豊かになるにつれ、国民の道徳心はやがて荒廃していきました。マナー違反やゴミの不法投棄はあちらこちらで見られるようになりました。

 

こうした中で広告業界ではこうした問題にスポットを当てる広告作りへの関心が強まりました。現在でも広告業最大手の電通の当時の社長・吉田秀雄氏は1959年に自社を中心に公共広告団体「全日本広告協議会」の構想を公表しました。そして1962年にこの団体は設立総会が開催されましたが、関係各団体の協力が不調に終わり、かつ吉田氏の死去に伴い全日本広告評議会の動きは消滅しました

 

日本初の公共広告への挑戦が失敗したあと、公共広告に挑戦したのは大阪財界でした。そしてそれが今のACジャパンの興りでした。

この動きのきっかけは、大阪万博・エキスポ'70の開催でした。この時万博開催において不安を抱えていたのは、当時のサントリーの社長・佐治啓三氏でした。サントリーは大阪に本社を置いており、地元大阪での万博の開催は強い関心事でした。そこで佐治氏の不安の種になっていたのは、日本国民のマナーの欠如でした。当時の日本ではゴミのポイ捨てや不整列など公共の場でのマナーが壊滅的な状況でした。そしてそれは佐治氏の地元大阪でも同じことでした。

その佐治氏が公共広告に関心を示したのは1969年にアメリカへ出張したときのことでした。佐治氏は現地で公共広告を目撃し、公共広告の可能性を強く意識しました。公共広告とは、大量消費社会において発生する公害などの問題を提起する、通常のCMとは異なる広告のことです。公共広告は英語圏ではPSA(パブリック・サービス・アナウンスメント)と呼ばれますが、アメリカではそれはアメリカ広告評議会(Ad Council)という非営利団体が既に行っていました。佐治氏は日本人のマナー向上に資するものとして公共広告に強い期待を抱いたのです。

佐治氏は万博開催に向けて、日本初の公共広告の制作に向けて地元大阪の経済界や広告業界に呼び掛けました。その結果、万博には間に合わなかったものの、1971年に社団法人関西公共広告機構を設立し翌年から公共広告活動がスタートしました。

当初は関西ローカルでの活動でしたが後に組織拡大を進め、名称を「公共広告機構」に変更し、1976年からは全国での活動を開始しました。それから地方の事業局を徐々に増やし、1987年には「AC公共広告機構」の呼称の使用を始め、2009年には「ACジャパン」に名称変更をしました。

 

ここまでの動きで分かるのはACは日本における公共広告のパイオニアとなったことです。これまで商業広告しかなかった日本の広告に、日本の公共問題に関心を寄せる公共広告をもたらした初の団体だったのです。

なおACは普通の会社ではなく、公益のために資する団体(公益社団法人)です。ACの会員である企業や団体、個人から会費を集めて運営されております。広告制作時には会員である製作部門に実費のみが支払われます。同じく会員である放送局や出版社は広告収入を得ていないので無料でACの広告を放送・掲載しております。普通の会社のCMが製作から放映掲載のために広告料を放送局や出版社などに支払うのとは異なります。

 

なお、似たようなCMを作る組織に政府広報がありますが、政府広報はあくまで日本政府という国策を代表する立場から広告をする組織です。もちろん公共広告と領域が被る部分もありますが、行政改革や領土問題、北朝鮮による拉致問題など公共の立場から外れた問題も取り扱うので、厳密に公共心に立脚した立場とは言えません。

同様の理由で、ACの広告と内容の被る、企業や団体の意見広告も公共広告とは言えない場合もあります。ACは公共広告でも、特定の団体の利益に与する広告を製作しない方針を立てております。ここら辺に公共広告とその他の差が見られます。

 

 

 

【日本の公共問題の歴史】

 

 

公共広告は公共問題を人々に周知するための広告ですが、その公共問題がどのように変化したかをACの活動と共に追っていきます。

 

ACの活動が始まった1972年当時、日本の公共問題はマナーの欠如や道徳心の低下、福祉問題、ゴミ問題でした。AC第一号の広告は映画評論家でテレビ朝日の「日曜洋画劇場」の解説役として有名であった淀川長治氏が出演されたものでした。そこで淀川氏はタバコのポイ捨てを例にマナーを心得る大切さを訴えます。

 

このあとACの活動規模は大きくなっていき、わずか数年で年に数十本の作品を作るに至りました。

 

その中でACの扱う社会問題は変化しました。1973年と1979年に国際情勢の変化によりオイルショックが発生しましたが、それはACの活動に大きな影響を与えました。オイルショックは日本経済に多大なる影響を与え、高度経済成長にストップをかけ一転自粛や省エネの機運が高まりました。そして、不況に入り人々の将来への不安は高まり、薬物乱用や自殺も社会問題になりました。

この時期のACの活動もこれに呼応し、広告では資源の有効活用や食料廃棄防止を訴えるほか、非行や自殺を防止するメッセージや、社会全体での共助を促すメッセージなどが発信されました。1981年には炭鉱が閉山し無人島化して間もない軍艦島長崎県)を題材に、資源を持たない日本のエネルギー事情を訴える広告を製作しました。

 

この後の1980年代には、校内暴力や非行、いじめなどの子供の問題がトピックされました。1983年には戸塚ヨットスクール事件が発覚し、1985年頃にはいじめ自殺が社会問題となりました。1989年には足立区コンクリート殺人事件が発覚し、未成年の凶悪犯罪への関心が高まりました。この頃のドラマや映画を見ても「金八先生」「スクール・ウォーズ」「僕たちの七日間戦争」など思春期の少年少女の悩みや苦しみが描かれております。

ACもこの頃にいじめ防止のキャンペーンを発表したり、「金八先生」で有名な俳優の武田鉄矢氏出演の非行防止キャンペーン等を発表しました。この時代は子供の教育問題に強く関心が持たれた時期でした。

 

また、1980年代後半にはACは全国キャンペーンに並行し各地域ごとのキャンペーンもスタートしました。これはACの各地方事務局によるものでした。例えば名古屋の事務局では、当時愛知県などで問題になっていた駐車違反の防止を訴えるキャンペーンが打たれました。また、軽犯罪が多発していた大阪でもコミカルにその防止を訴えるキャンペーンが製作されました。

 

時代が昭和から平成に移り1990年代になると、環境問題への関心が高まりました。水質汚染や森林破壊、生態系の改変に伴う絶滅危惧種の危機、などです。当時の国連の国際会議でも経済開発に関連して、環境問題が盛んに話し合われておりました。ACもこれに応じ「ウォーターマン」「森のニングル」「日本最後のトキ」などのキャンペーンを打ちました。

また、ここから社会のグローバル化に伴い、全世界的な問題や国際強調への関心も強くなりました。最貧国への援助、地球温暖化問題などがそれです。ACのキャンペーンでは「消える砂の像」「枯れる命の木」「HELP」がそれに当たります。

 

同時にこの頃から、ACの活動は医療問題へより注力するようになりました。献血アイバンクは昭和時代からキャンペーンを行っておりましたが、それらに加え骨髄バンクや臓器提供、ポリオ、白血病脳卒中エイズ、肝臓疾患などのキャンペーンも行うようになりました。

 

2000年代に入るとネット社会に入りネット上でのマナーを訴える作品も出てきました。ネット上での悪口や誹謗中傷の恐ろしさを訴えたり、それをする側の消えない罪を訴える広告が出てきました。そして通り魔や誘拐などの凶悪犯罪が増えたことで、それらに警戒することを訴える作品も作られました。人をシマウマに見立てて、集団下校を訴えた作品がそれです。

 

更に2010年代に入ると個人主義がより一層台頭し公共心の欠如が問題となりました。ペットが安易に棄てられる事案を取り上げた広告や110番や119番への緊急通報が急を要さない事案で使われる事案を取り上げた広告もこの頃に出されました。

 

このようにACの歴史は日本社会の歴史を反映しています。公共マナー啓発から省エネ、少年犯罪、環境問題、ネット社会、利己主義の台頭・・・と社会の変化を見てとれます。

 

特にACは公共心という立場から日本社会を見ているため、ACの広告は公共心とは何かを確認するためのいい例となっております。

 

 

【AC・次の10年は?】

 

 

日本のACは今年で設立から半世紀を迎えました。これまでの流れは既に述べましたが、この先はどうなるのでしょうか。

 

この先の日本社会は大改革に取り組むことを余儀なくされるでしょう。

新型コロナウイルス感染症の流行による影響はもちろんのこと、同時に人種差別や社会分断への対処に取り組まざるを得ないでしょう。IoTの浸透はますます進むでしょうし、全年代における教育の重要性はもっと強まることは避けられません。治安維持のあり方も変化することでしょう。日本はこれまで以上に変動することになるはずです。

 

そのなかで公共心のあり方も変動することになるでしょう。公共心に対する期待が膨らむ一方で、公共心への投資の重要性は見えづらくなると思われます。変革のなかで人々が翻弄されるなかで、自分の利益は見える一方で他人との関係や自分の立ち位置は見えにくくなるからです。

この中でACは公共心を発揮する上で、2020年代に危機を迎えるであろう「人間性」を自らが範を示しながら活動することになるでしょう。すなわちAC独自キャンペーン以外の外部の団体との提携によるキャンペーンにより傾いていくことになるでしょう。ACは分断がより進む社会の中で各団体の公共的メッセージを発信するための貴重な結節点の役割をより強めるのです。

 

また、ACの公共広告の範型が海外に輸出される可能性が考えられます。今の発展途上国において、公共広告はこれから新しく作られ始めるからです。公共広告は平時では高度経済成長の中で誕生するものです。高度経済成長ではたくさんの問題が発生し公益が大いに損なわれてしまうからです。新型コロナもその内の一つと言えるでしょう。新型コロナのような疫病は人が密集する高度経済成長のような国においてまさしく脅威ですから。

 

あくまでこれらは予測ですが、ACのレガシーとこれからの社会の変化と人々の危機を見ていくと、ACのこうした役目への期待はますます強まるでしょう。ACの次の10年はおおむねそうなるでしょう。

 

 

 

【おしまいに】

 

 

テレビを見るとたまに見るACの広告は数多くある広告のなかでも際立つ存在です。10年近く前までだと広告の最後の「エーシー♪」のサウンドロゴが公共広告の代名詞となっておりました。

 

ACの役割は現在のネット、マルチメディア時代において人々に今なお期待されているものです。ACに伝えてほしい問題というものがネットに書き込まれることがあります。(まあACは公益という、国益にも私益にも属さない領域に限り広告活動を行うのですが。)ACは公共という立ち位置にいるからこそ説得力のある強いメッセージを届けられるのです。

 

ACの広告は印象に残りやすい一方で怖いと言われることもあります。確かに明らかに怖あと思われてもおかしくない広告もあります。正直私も一部の広告は怖いと思いました。ですが、それはただの畏怖や脅迫ではなく自分がいずれ対峙する問題を的確に示してくるからという信頼の裏付けでもあります。ACがそういう団体であることは日本国民は誰でも知っているのです。だからこそ「怖い」のです。

 

これからは公共心は更なる危機を迎えますが、ACは公共心を代表する日本で一番有力な団体の一つとして危機を打破していくこととなるでしょう。

 

今回の記事は以上です。最後までありがとうございました。

 

2021年2月20日