ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

自分の「言葉」が伝わらないと思った時に

みなさまこんにちは、ずばあんです。

 

早速ですが、タイトルで述べたような悩みは私が学生時代に抱いていたことです。私は人間関係の悩みや、所属していた落語研究会の活動での悩みなどで自分の発する言葉に対する不安感が募っていきました。自分の発した言葉は他人にどう伝わっているのか、何を以て伝わっていると言えるのか、どこまで伝えればよしなのか。

 

そうしたことが答えなき不安感として私の中で増大していきました。それ故に一時は私は言葉を発することに恐怖を覚えた時期もあり、素直な感情を他人に話せなくなったこともありました。その後もこの悩みはしばらく私の心の中で漠然とした疑問として残りました。

 

この悩みに久々に向き合ったのはつい最近のことでした。その契機は2つあり、1つは前回ブログでも述べた朝井リョウさんの「何者」を読んだことと、もう1つは芸人でタレントのキングコング西野亮廣さんが製作した映画「えんとつ町のプペル」を巡る下馬評を目にしたことでした。

 

この2つの出来事により私は自分の「言葉」をどう認識すればよいのかについて思ったことがありましたのでそれを語っていきます。

 

 

【「言葉」だけではメッセージは伝わらない   ―「何者」より―】

 

 

私が朝井リョウさんの小説「何者」を読んだときに印象に残った、次のようなシーンがあります。

 

ある時、主人公の拓人は部活の先輩であるサワ先輩に隆良(拓人の元カノの瑞月の友人・理香の彼氏)の話をしていました。拓人が隆良の陰口を言うと、サワ先輩は拓人が以前に隆良とギンジ(拓人の元演劇仲間)が同じだと言ってたことを持ち出し、2人は全然違う人間だと言いました。

更にサワ先輩は、拓人が以前に、SNSの短文で選び抜かれた言葉こそが大切であると言ったことを持ち出し、それは違うと言います。先輩は選ばれなかった言葉こそがその人を表していると述べ、言葉の向こうにいるその人そのものを想像してやれよ、と拓人に告げます。

 

このシーンは「何者」の根幹となる部分のひとつであり、クライマックスに向けての伏線となります。

このシーンは短い言葉で伝えられることにはいつも限界があり、それ故に言葉に切り捨てられるメッセージがいつも存在することを述べております。Twitterでは短い言葉でしかメッセージは伝わりませんので、無駄は省かれているものの解像度が粗い情報しかやりとりされません。故に実体としてのメッセージをそのまま表したものではないのです。

そのため言葉がその人の全てを表している訳ではないのです。他人の言葉を受けとる時には言葉に乗せられなかったその人自身が存在ことを想像する必要があるのです。

 

それに対して拓人の、選び抜かれた言葉が大切という意見は、ある意味正しい部分もあります。短い文で言葉が取捨選択されるとき、選ばれる言葉は綺麗なものであり、捨てられる言葉はノイズなのです。文は長くなれば長いほど、分かりづらくかつメッセージが薄いものになりがちです。そのため文章を書くときの技巧では、1文は30字~40字程度の短さが望ましいとされます。よってノイズを取り除き綺麗なもので固めた短い文は綺麗で正しく美しいものとなるのです。国語の教育ならばそれは間違いではないでしょう。

しかし、これはあくまで言葉の上だけの話です。その言葉が物やことをそのまま表しているか否かはまた別の話です。言葉は事物をそのまま反映するものではなく、事物を簡略化したり偏向した上で残されるものなのです。綺麗な短文であればあるほどそうなるのです。そのため言葉はそれそのものが事物を歪めて伝えているのです。(中世ヨーロッパではこの事が普遍論争として争われました。そこでは、言葉は実体を綺麗に表しているとする派閥を実存論、片や言葉は実体とは別物だとする派閥を唯名論と呼びました。)

 

そのため言葉だけでメッセージが十分伝わるということが幻想と言えるのです。

それでは言葉で何かを伝えることは愚かなことだったのかというと、そうとは言えないと思います。

確かに言葉だけでは伝わることには限界がありますが、言葉を発するときの「行動」にもメッセージは込められているのです。例えば、言葉を発するときの言い方や身ぶり、いつどの場面で誰に対して言うか、そしてそれを言う自分は何者なのか、このような言葉の意味の外の非言語的な部分にもメッセージが込められているのです。

日本語は特にこの特徴が強く、言葉を発するときや聴くときにはこうしたことは大前提となります。上下関係を意識する、空気を読む、主張しすぎない等は言葉の外から言葉の意味を変えうる事柄でございます。

「言葉」だけではメッセージは伝わらないというのは、メッセージは発せられた言葉それ自体の意味だけではなく、言葉を発した人間の「行動」も加味した上で伝わるということなのです。何をして、何をしないかという行動もメッセージに含まれるのです。言葉の意味ではなく、言葉を発する人間の行動にメッセージが宿るのです。

 

ついこの前までの私はどちらかと言えば、伝えたいことはハッキリと言わなければ伝わらないと考えていた立場でした。空気を読むことや阿吽の呼吸というのは感覚として理解はできても、そこに甘んじることは論理的思考において良くないとさえ思っておりました。そうしなければ自分の主張を十分に行えず、色んなところで悔しい思いをすると思ってたからです。

ただ、かくいう私も日本人ですのでそれ相応の情緒は持ち合わせております。これまでの日本人の経験則に倣ってきたことから離れて、自分の情緒と向き合うのは地獄の行でした。言葉に出来ない淀みがどんどん大きくなるのが感じられました。

そして、その正体について変な思想もなく等身大の立場で描き語ったのがこの「何者」でした。「何者」はハッキリ言うことで伝わるメッセージに対する、言わないということで伝わるメッセージの存在を明かしました。

そのことを自分に当てはめて考えました。自分の心の中には言語的な綺麗な世界とは異なるカオスな不純物だらけの精神世界が広がっていることが自覚されます。もしそのことが他の人も同じだとすれば、そこで何を言い/何を言わないかを選択するプロセスは、言葉を発する相手を見れば想像することができます。そこから相手の本心や本音を伺い知ることが出来るのです。自分を見る相手にとってもそれは同じことなのです。そのことを自覚して初めてコミュニケーションが取れるのです。

このことは、これまで他人と分断されていると感じていた私にも実は他人と繋がれる共通のキーを持っていることを確認させられました。サワ先輩のこのシーンは納得のいく、そして心の穴を埋めてくれるものでした。

 

 

【言葉で全て済んで欲しいという願望   ―キンコン西野氏をめぐる不穏な評判―】

 

 

ちなみにこのブログ記事は2021年の3月に書いておりますが、現在、映画館では芸人でタレントのキングコング西野亮廣さん原作・監督の映画「えんとつ町のプペル」が上映されております。

 

ストーリーは、高い煙突から大量の煤煙が発せられ空が全く見えない「えんとつ町」から始まります。そのえんとつ町で暮らす少年・ルビッチは亡き父親の夢を受け継ぎ「星空」を見ることを夢見ておりました。しかし、長年煤煙が天空を覆い空を見たことの無い町の人達はルビッチの夢を「迷信」だと嘲ります。そんな中ルビッチはひょんなことからゴミから生まれたゴミ人間・プペルと会います。そこからルビッチの星空への夢の旅は始まるのです。

この「プペル」は元は西野さんの絵本が原作であり、映画はそのストーリーに倣っております。

 

私はこの映画は観ておりませんが、その映画については各所から色んな批評が上がっております。

同じ芸人のオリエンタルラジオ中田敦彦さんや実業家の堀江貴文さん、脳科学者の茂木健一郎さんなどは「感動作」であるとし、高く評価しておりました。SNSではある劇場で映画本編終了後スタンディングオベーションが起きたという投稿がありました。

 

一方でプペルに批判的なコメントをする人もいました。タレントの東野幸治さんは映画を見た感想を「説教されているみたいだった」と述べました。また評論家の岡田斗司夫さんはプペルを感動させることに特化した作品であるとし、主人公の主張について葛藤や矛盾が描かれず「思想性」が無く、結果説教臭くなっていると述べておりました。

 

私はその映画を見たことがないので作品の講評はしませんが、そこまで言われる程のプペルはどのように扱われているか、そして作者の西野さんが何をされているのかを調べてみました。

 

まず始めに、プペルに感動したという人が何を語っているのかに注目しました。するとその人達のコメントには一部のシーンに対する感想はあれど全体的なストーリーに対する言及はほとんどありませんでした。すなわちストーリーに感動したという感想はほとんどないのです。おそらく感動的なポーズやカットとおぼしきものはいくつかあったのでしょうが、ストーリーについてお客さんに響くものは無かったものと思われます。

もしこれをプペルを批判する人の「説教臭い」という意見と照らし合わせると、プペルはストーリーのメッセージ性の薄さを局所的なカットでごり押しして無理矢理客に説得する形でメッセージを伝えようとしているのではと予想されます。そこには一部のシーンにのみ注目させ他のシーンの内容の希薄さから目を反らさせようとする意図があるのかもしれません

前章で述べたことを借りますと、プペルは綺麗な言葉や概念で強固にメッセージを伝えようとしているのでしょうが、それは人間のカオスな内実とはかけ離れているので見る人々の心に共感できないのでしょう。

そのため映画を見た人々は映画のストーリーに関心を持てず、大袈裟な一部のカットのみが感動、もしくはトラウマとして記憶に残っているのでしょう。

 

そして、この「感動作」において無視できないのは作者の西野亮廣さんとその熱狂的ファンの存在でした。西野さんはネット上などで自分の「理想」や「思想」について語り、それに共鳴するファンを集めてきました。西野さんは自身の動画配信などで自身のファンからのコメントや相談に対してそれに寄り添うポーズを見せ、自己啓発的なメッセージを送りその上で自分の夢を語ります。

合わせて西野さんは自身のファンのために「西野オンラインサロン」というオンラインサロンを開設しました。オンラインサロンとはネット上で作られる会員制のコミュニケーションスペースのことです。同じ考えを持つ人々が忌憚なくかつ荒れることなく意見を交わせる場を提供できるというメリットがあります。この西野オンラインサロンの場合、会費は月980円となっており、会員数は日本最多の7万人程となっております。

こうした中で西野さんは「プペル」の構想についても述べてきました。西野さんは映画公開時に、プペルを作った理由として「夢を語れば叩かれるこの世界を終わらせに来た」と述べております。またプペルの目的について西野さんは「革命」を起こしに来たと述べており、ファンもそれに共鳴しています。また、映画の原作絵本のプペルの製作に当たりオンライン上の寄付システムであるクラウドファンディングが活用され、その資金によりプペルが作られたのです。

この映画プペルの公開に当たり、プペルのもしくは西野さんのファンは何度もプペルを観に行く現象が起きました。その方たちはプペルを観に行く回数を競い、例えば3回観に行ったら「3プペした」と言いながら、プペルのファンとしてのステータスを競おうとしております。(中には10回行った方もいるようです)

 

さてこの西野さんとそのファンの動きですが、かなり不穏なものも聞かれました。

プペルの上映に当たり西野さんはユーチューブなどで自身のファンに対して「プペルを見て感動したらスタンディングオベーションしてほしい」と発言したのです。これは先に述べたプペル本編後の観客のスタンディングオベーションと被るものです。もしその行為が西野さんの発言によるものとすれば、映画のみならず観客の存在や高評価も演出されたものということになります。そうなると映画プペルは西野さんとそのファンのみに向けた作品で、そうでない人には排他性や敵意が向けられているということになります。

 

また今年1月には、西野さんが自身やその協力者と吉本興業社員とのグループLINEのスクリーンショットを自身のTwitterアカウントで公開するという珍事が起こり、騒動となりました。

事の発端は、ある日の深夜0時頃に西野さんの私設マネージャーがある吉本興業社員に映画プペルの上映スケジュールの質問をしたことでした。それに対し吉本興業社員は配給元の東宝に確認するように促しました。この事に対して西野さんは吉本興業社員自身が東宝に確認を取るように叱責しました。翌朝もそのことで西野さんは社員に説教をし、別の社員が西野さんに謝罪することになりました。

そして、西野さんは上の一連のLINEのメッセージの一部をスクリーンショットに撮り、その画像を自身のTwitterの公開アカウントにアップロードしました。その時に西野さんは吉本興業を叱咤激励した、というメッセージをも併せて記しました。

この出来事には賛否両論が寄せられました。西野さんの支持者らはこの行為は素晴らしいものだと擁護しましたが、対してパワハラに該当しかねないLINEの内容や、内輪のSNS上での出来事を公に晒すという行為を批判する意見は多く寄せられました。当の西野さんも後日先輩からこの件で叱られたとのことでした。

私が思うにこの西野さんの行動は、自分の行為を正しいと認めてほしいという自己顕示欲が滲み出ているように思えました。自分の行為や言葉が大したものであってほしいという西野さんの願望が恐ろしく出ており、そのために他人を犠牲にしようという魂胆も伺い知れました。もしプペルへの批判も同じところから出ているとすれば、プペルの他人への敵意というのが疑いから確信に変わります。映画プペルという「言葉」は意見の違うものへの粛清の意思が込められていることになるのです。もしここで、そうではないと強く言うのならば、西野さんは自分の発する言葉自体が世界になってほしいという歪んだ願望を持っていることになります。

 

西野さんの不穏な噂はまだあります。西野さんは先程も申し上げたクラウドファンディングを利用し様々な「権利」を販売しております。その一例を取り上げると、「西野経営の店に行ける権利」「西野の講演会を開く権利」などがあります。

しかしそれらと共に「西野を1日休ませてあげる権利」「西野の個展の設営をする権利」という、需給関係が怪しいものもありました。西野さんがこれを設ける理由として考えられるのは、西野さんがファンと教祖=信者の関係で結ばれたいからかもしれません。

西野さんは過去に自分のファンと信用によって繋がりたいと発言したことがあります。確かに正常な信頼関係のもとで初めて生まれる幸福はあると思います。チームでなにかをしたり、友人や恋人を作ったり、結婚したり、そうしたことは信頼関係から生まれます。しかしそれは無理矢理繋がろうとする押し付けの関係ではなく、「ハリネズミのジレンマ」に象徴される試行錯誤の上で見つかる均衡点の上で続くものです。ただ、西野さんの売る「権利」を見ると、信頼というよりは盲目な信仰を求めるメッセージが滲み出ております。そこでは西野さんへの疑念は悪であり、隷従こそが善であり愛と認められるのです。これは単純な物・サービスの売買の域を越えて、西野さんの熱狂的ファンを関係性の檻に閉じ込める危険な行為でもあるのです。

 

このプペルや西野さん、そしてその周囲の人々の様子を見て、私は「言葉がそのまま世界であれかし」と願うことの危険性を認識しました。

少年の時の私にもその願望はありましたし、そうではないからこそ抜け出せない苦しみもあることは理解できます。言葉だけで何か変えられたならば、今日まで苦しむような出来事はなかったろうにと思う気持ちはあります。

しかし、それを現実に押し通そうとすることにも弊害があることも歳を重ねるごとに理解しました。それもまた私を苦しませましたが、だからこそ新しく分かってきたこともありました。そのひとつが「何者」で表された、言葉だけではないメッセージの存在でした。それを無視すればますます人とは断絶が起こるのです。

 

言葉だけで何か世界を変えられるならば、説教だけで何か変えられるならばどんなに楽なことでしょうか。しかし、それを望めば望むほど、誰かの言葉や関係性の虜となり、自分や人に殺意の刃を向け続ける修羅の道を歩むことになるでしょう。

 

 

【言葉は所詮言葉なので・・・】

 

 

とはいえ、言葉が自分や他人の現実に答えられないことには正直消えることのない苛立ちや不満があります。言葉に裏切られ、無節操な言葉に翻弄される時にそう思います。自分の発している、他人の発している言葉に馬鹿にされているような、確固たる敵意を感じることがあります。

 

ただその感情は、言葉は大したものであり大したものでないといけないという考えから出てくるものなのです。それに反して実際言葉はそこまで大したことがないので苛立ちを覚えるのです。

そのため言葉はそれ自体は所詮言葉であると思えばそんなに腹が立たないのです。そして、所詮弱くはかない言葉だと分かったときに言葉の可能性は広がるのです。言葉の裏を読むとか、TPOで言葉の使い方を変えたり、それらを上手く巧みに利用して言葉に新たな意味を付与するという営みが言葉の可能性を広げるのです。言葉そのものに反映される意味は大したことではありませんが、言葉を使うという動作には幅広い意味を込めることが出来るのです。

言葉は大したことがないというのは言葉がすなわち唾棄されるものであるということではなく、完成されてないからこそ広く開拓される余地があるのです。

 

一方で「所詮言葉」を濫用するケースも見られます。

ネット上ではレスバトルなどで言葉の上での論破合戦が度々行われております。本当に論理立った考えに基づく論戦を除けば、極論のやり取りや拡大解釈、そして確証バイアスにはまっているものが多く見られます。酷いものでは、論戦が破綻してしまいメッセージのやり取りが不可能になったものを相手が論戦に負けたと認識し自分が勝ったと解釈する人もおります。

言葉尻をとらえて言葉をおもちゃにすることは卑怯な所業ですが、そういう行動をとるからこそ、彼らの言葉は信頼されないのです。どんなにその言葉そのものが正しかったとしても行動が間違っている以上、それを説教がましく押し通したり、あるいは恭しく受け取ることは間違いなのです。相手に自分のための生け贄となることを要求したときにはなおのことなのです。

 

所詮言葉でしょうが、それをなめてかかるととんでもないことになることも覚えておかないといけません。

 

 

【おしまいに】

 

 

自分の言葉が通じないという悩みは、今のようなSNSやデジタルの時代だからこそ大きいのかもしれません。言葉の可能性が爆発的に広がったからこそ、元々言葉が持つ弱点が忘れられている印象が強いです。そして、それが却って言葉の胡散臭さを際立たせているのではと思われます。

 

今この時代では、究極の真実を表す言葉が求められ、言葉はますます0か1かのデジタルな物が好まれるようになっています。「真実」を100%含有する言葉のみが認められ、そうではない「不純物」たる言葉は唾棄されるようになってきました。

 

ただ、これは実際とはあべこべのように思えます。言葉というのはそれ自体が純なものであり美術的作品であり、デジタルなものなのです。それに対して現実や人の気持ちというのは混沌としており不純物まみれなのです。

 

それを考えたときに言葉を切り捨てていき純たる真実を見つけていくという試みは、むしろ言葉の毒に冒され現実認識が歪むことになるのです。言葉でしか現実を認識できなくなるときにはもう幻覚に冒されているのです。

 

だから言葉にしがみつくのではなく、言葉を発しないところにも気をかければもう少し心は楽になるのではないのでしょうか。言葉からやや離れれば、言葉の外でも自分のメッセージや他人のメッセージが伝わっていることが分かるかもしれません。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年3月19日