ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

旭川女子中学生凍死事件でいじめ加害者に思うこと


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こんにちは、ずばあんです。

 

今日は北海道の旭川で発生した女子中学生凍死事件について強く思うことを語らせていただきます。

 

この事件は2019年に北海道旭川市の市立中学校の女子中学生A(当時中学1年生)が同じ中学校や他の学校の生徒らから集団で性的暴行などのいじめを受けたことから始まりました。このいじめはAがいじめ集団から橋からの飛び降りを強要され、Aが飛び降りるのを通行人が目撃し警察に通報したことにより終わりました。

 

その後Aは不登校となりましたが、2021年2月に家出しその後1か月後の3月に雪解け後の残雪からAは凍死した状態で発見されました。この件が全国的に有名になってから、AやAの親から中学校教員・学校へのいじめの相談での学校側の消極的な態度や、表舞台に姿を現さない加害者に対する批難が強くなりました。

 

私はこの事件の加害者や加害者に利する行動を取った集団・組織には、怒りや悲しさを覚えております。その感情は3つの側面に対するものです。1つ目は加害者が被害者の女子中学生Aに対していじめ加害者/被害者という関係を築いたという下劣な社会性に対するものです。

2つ目はその加害者サイドの行動を黙認しつつ、被害者サイドに強権を誇示した学校などの組織の態度に対するものです。

そして3つ目は多種多様な人間のいる学校の「真面目な人間」を巻き込んで世間からの誹謗中傷に晒すという、加害者サイドの対内的な名誉毀損行為に対するものです。

 

それぞれについて私の経験も交えながら、語っていきたいと思います。

 

 

【加害者サイドの罪①・マイナスの関係性を築く乏しい社会性】

 

 

今回のいじめ加害者の落ち度が何かといいますと、有益な人間関係を築く能力が欠如していたり、有害な関係を解消せず被害者Aに損害を与えた点です。

 

まずいじめという現象についてですが、客観的には双方のコミュニケーションの不全による有害な関係性と捉えることが出来ます。双方にとって丁度良い関係性を探ることは「ハリネズミのジレンマ」と呼ばれる試行錯誤を繰り返す段階を経て行われます。それが上手く出来ることが社会性の高さとして評価され、コミュニケーション能力の1つでもあります。

しかしながらいじめはそのような関係性に至らずに、もしくはそのような努力をせずにいびつな関係に至り起こります。合意もなくどちらか片方が不快な思いを沢山する関係は、いじめっ子いじめられっ子の関係です。そして、そのような関係を正当化し固執することは社会性の欠如の現れです。

そして、それを修正したり改編したりせず今日もなお加害者は表舞台に出てきておりません。これは反省の意を表さず自身の守るべき何かで被害者を汚そうとする行為です。

 

ここで、いじめがコミュニケーションの問題ならばいじめられた方も原因があったから悪い点もあるのではという意見もございます。確かに因果関係に関して言えば原因は双方にあるでしょう。ただ、それを元にいじめを実行した責任はすべて加害者にあります。いじめをする理由をいじめという形で具現化したのは加害者の意思、価値観なのです。その証拠として、いじめをしない人は、いじめをする理由によっていじめをしません。いじめをする理由を他人に見出だす精神がいじめを引き起こすのです。もし、被害者側にも何かするべき余地があったとしても、加害者の罪科は変わらないのです。被害者に加害者の至らない所を尻拭いさせてそれを公にアピールする情けないシーンであるのです。

 

旭川の事件では被害者に性的暴行をする加害者集団がおりました。被害者は当時中学校に進学したばかりでありそこから数ヶ月の内にいじめの被害に遭いました。そして最終的には加害者は被害者に橋からの飛び降りを強要する自殺教唆といえることをしました。

このような関係性が正常で健康的な関係性とは言えません。集団で1人に一方的に性的暴行や自殺教唆をして対等であるという発想は異常です。彼らには社会性の欠片は見られず、反社会的な危険な思考に染められているのです。

 

そして、その状況を学校は放置する動きを見せます。被害者Aやその母親からのいじめの相談に学校は取り合わず、それどころか加害者を擁護する発言をしました。これは学校が加害者の反社会的な社会性を正当化した発言であると言えます。学校の生徒が反社会的勢力に襲われたり、搾取されたり毒される関係になることを認めるという宣言です。この中学校が反社会的宣言をした瞬間でした。

 

現在、加害者の消息や情報は明らかになっておらず、何かこの事件に関して彼らが動いた話は聞いておりません。

 

このように加害者や学校などは、被害者Aに対して一方的に搾取しそれに答えることを強いるという敵対関係を求めたのです。それを改められないことは、加害者の罪科であり信頼の欠けている部分でございます。被害者を死に至らしめている分、加害者の被害者への意思は殺意として考えていいでしょう。加害者が本当に反省するまでそれは揺るがないのです。

 

 

【加害者サイドの罪②・鉄槌を振り落とす所を間違えた白痴な組織】

 

 

この一連の事態が発生したときに対応を間違えたのは、校内自治に責任を持つ中学校です。中学校は被害者AやAの母親からのいじめの直接の相談に対して、はぐらかす態度や虚偽の説明をするなどしました。

 

いじめ発覚後には加害者側と被害者側の間で「謝罪の会」が行われましたが、被害者母親は弁護士の同席を求めましたが学校側は当初それを断りました。そして被害者の死亡後、被害者在籍時の中学校校長は、被害者にはパニック障害がありそれが元でいじめ時にもトラブルが起きたと、いじめにおいて被害者の非を問う発言をしております。

 

私はこの学校側の態度を、神様のようなフリをする悪魔だと思いました。学校は校内や生徒間の自治において責任や権利を有しております。その上で学校は被害者に断り無く被害者を生贄としたのです。これは悪魔の業といえますし、そうしてもなおこれからも立派な「先生がた」として扱われようとする学校側の魂胆が見えます。

 

いじめ当時の被害者は担任教員にいじめの相談をしましたが、デートを理由に断わられたと言われています。その事に対して凍死事件発覚後の中学校の保護者説明会でも非難が上がりました。

また被害者の母親がいじめの件について相談したところ、当時の学校長は「加害者生徒側にも未来があるから」と述べていじめの始末について消極的で曖昧な態度を示したとのことです。

 

そして先程述べたように、学校長はいじめの被害者について被害者の性格などを理由にいじめの理由を被害者にあるという旨の発言をしました。これは学校という権威や公権力が、いじめ被害者にはいじめを受けるだけの正当な理由があり、その理由としての被害者の不安定な精神状態があったことを認め、その状態をいじめの理由とする、ということを発表したのです。

これはただの校長本人の言い訳に止まらず公権力による公式な見解と捉えられ、言わば公権力による被害者への暴力と捉えられます。いじめは一般的にも個人の利害においてもその解消が長年唱えられてきましたし、学校現場でもその方向で動いてきたはずです。そのため公権力たる学校がそれを容認する発言をすることは被害者はおろか社会そして各個人

に対する不当な暴力といえます。もしかしたら暴力を越えて殺意と捉えてもいいかもしれません。

 

学校は公権力として力のある組織です。対していじめというのは被害者に勝手に因縁をつける正当な理由なき無節操な暴力です。学校がその力を市民への無差別な殺意として発揮することを認めるならば、学校は悪魔というほかありません。学校は教育機関ですので特に子供にとっては神様に近い存在だと思います。その神様が悪魔に鞍替えして、相変わらず神様の地位につくことは市民と学校の間の戦争といえるでしょう。口先だけの神様は神ではないからです。

 

悪魔に堕ちた学校は、堕ちたことを認めてその事を反省して更正しなければなりません。それが出来る日までは学校と市民との戦争は続くものと思われます。

 

 

【加害者サイドの罪③・人の顔に泥を塗る迷惑千万な名誉毀損行為】

 

 

そして、この加害者が償うべきなのは被害者へはもちろんのことですが、それとは別に自分と同じ学校に通っている人に対しても同じことだと思います。

 

なぜならこの事件で著しく傷つき、その上で事件の後始末をするのは同じ学校の生徒だからです。

現在被害者や加害者の通っていた学校に対するバッシングは強く、それに耐えている生徒は多くいらっしゃいます。もちろんいじめを起こした集団の病理に対する批判は当然です。しかし、それはその学校に通う生徒に謂われなき負担を課すことになるのです。

加害者の起こした事件によるバッシングで、同じ学校に通う人は事件への関与に関係なく消耗します。そこから学校の治安は崩壊し荒れていき、教育の場は乱れていくのです。そしてそこから学校が更正するためにも全校生徒や教員、保護者らは多大なる労力を割くことになるのです。

 

この事は事件と直接関係のない生徒やその保護者、教員に損害を与える行為です。世間からのバッシング、治安の悪化による身の危険、そして治安回復のための生贄・・・。今回の旭川の事件の加害者は被害者のみならず、同じ学校にいた人の名誉を毀損し、ゆくゆくは心身を危険にさらし、自尊心を傷つけるという、同胞にとっての悪魔のような存在です。

 

私がこのように思うのは私の中学校時代の経験からです。私の通っていた中学校では、20年ほど前に通っていた生徒が殺人事件を起こしました。その時に犯人生徒の個人情報がネット上に流出し、同じ中学校の生徒は事件を理由にバッシングを受けました。そこから中学校の治安は荒れました。授業は成立せず、奇声が外まで聞こえ、運動場も使用不可能になりました。

私が中学校に入学したのは事件から5年程後でしたが、その時も学校はいまだ荒れており器物破損や授業妨害も珍しくありませんでした。不登校者や逮捕者も頻出しておりました。全校集会も何度も開かれました。

私はそんな学校が居心地が悪かったのです。真面目に過ごそうとすれば馬鹿にされ肩身の狭い思いをし、その上治安が悪いことの責任を今の自分達の責任として教員から責められるのですから。私は学校を恨みましたが、結局それは仕方のないことであるとどこにも感情の吐きどころがなかったのです。こちらが助けてほしかったのに、その資格は与えられなかったのです。

今はその学校を卒業して十年以上経ちましたが、それまでは中学校でのトラウマから人を信用せず過度に試したりするなど人との関わり方に支障を来したりしました。今でも自尊心が回復できていない部分があります。

 

そうした経験から私はいじめ加害者が同じ中学校の生徒の顔に泥を塗り、疲弊に疲弊を重ねるような真似が許せないのです。勝手に借金の保証人にさせられているようなものです。

この点に関しては反省して償ってほしいし、それが出来ないのならば同じ学校の生徒や保護者らとの間で半永久的に恨みの対象として敵意を向けられなければならないと思っております。

 

この事件の後には加害者の通う学校で保護者説明会が行われましたが、そこでは保護者は「(学校に通う)自分の子供にどう説明すればいいか分からない」と言いました。私は生徒の保護者のこの苦悩は当然だと思います。彼らの人生で今後のまともな人生とどう折り合いをつければいいのか分からなくなるのは当然です。加害者の負債をこの方々が払っているのです。

だから、加害者は自分達が引っ掻き回した同じ中学校の生徒の人生の回復のために内心の上で「生贄」として恨まれることを甘受しなくてはならないと私は思います。

 

 

【おしまいに】

 

私がここまで書いたことは、私が過去に経験したことを私の立場に基づき、この事件で加害者から傷つけられる人の利益を考えて述べたものです。特に3番目は強調しなくてはならないと思いました。自分も同じ立場で苦しんだ以上この部分について述べることは、当のその立場にいる人や私自身のために欠かせないと思ったからです。

 

今回の事件に対しては多数の方々が様々な感情をお持ちであると思いますが、私は直接にそれらを非難する気はありません。ただ、その中に私の感想も同様に並立していただきたいのです。そして私と同じ苦しみを抱く方に冷たい沈黙を与えないようにしたいと思うのです。

 

今回の記事は以上でございます。今回も最後までありがとうございました。

 

 

 

2021年5月15日