ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

人への感謝は善?悪?

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は「感謝すること」の話です。

自分が何か良いことをしてもらったときに、それに感謝することは常識です。

それに対して良いことをし返してあげることを恩返しや報恩として美徳として考えるのはおかしい話ではありません。

 

かたや、何かしてもらって何も言わずそれを当然のように思うような素振りは人間性を疑われても仕方ありません。まともな人間と扱われることはないでしょう。

 

しかし、その感謝することが仇となり白々しい失態を犯すこともあります。私の経験を基に感謝とは何にたいしてなのか、そして何に誓ってすることなのかを書いていきます。

 


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【感謝しているなら何をしても良いのか】

 

 

感謝をしていることがらがあり、それに報うことやお返しすることは自体は間違っていないと思われます。それをしてくれた人に何かお返しをして、それがその人との関係を深めることは自分自身や向こうそして第三者にとっても素晴らしいことだと思います。

 

一人では間に合わない出来ないことをあの人が手伝い助けてくれたので、あの人を手伝ったり何か物やことでお返しすることは人として間違っていないですし、自分にとってもスッキリすることです。どんな形でもです。

 

しかし、感謝をしているからお返しをするために何でもやることはそれは正しいのでしょうか。

もしその人が悪いことをした時に、事実や倫理を曲げてその人の潔白を証明(?)することは素晴らしいのでしょうか。またそれが出来なかったら人に恩を返せない最低な人間に陥るのでしょうか。

 

私は実際にそういうことがありました。私のことを助けてくれた人が悪いことをし私はその人を擁護しました。もちろんそれは倫理に背いているのは分かっていましたが、それをしないと自分が助けられ苦しみから抜け出せたこと、それに恩返しできる自分であること、それをするに足る関係を築いたことが否定されると思ったからです。

ですがそれは他の人に沢山迷惑をかける行為であり、親しい人からお叱りを受けたました。その人を擁護することは最終的にやめましたが、それからしばらくは自分はそんな矛盾を抱える人間として外道な人間だったのだという罪悪感に苦しみました。

 

人に感謝することは間違いではないと思いますが、それが常にまごうことなく私に社会的に倫理的に正しい道を示してくれるとは思えませんでした。感謝とは人を奴隷にする方便であり言質であり詭弁であるとそのときに思いました。

 

感謝や恩返しというのはそれで何をしてもいいという方便ではないのです。そこに真心があったとしてもです。

 

 

【感謝と恩着せがましさ】

 

 

私は自分が感謝していた人が悪いことをし、「恩返し」が出来なかったことに嫌悪感を抱いておりました。私が少年時代にあった恩師が「ルールを守るものはルールに守られる。」私はその言葉を励みに頑張ってきました。しかしこの段で私を守るルールとは何でしょうか。それまで私が守ってきたルールはルールでなくなり外道になったと言うことでしょうか。勝てば官軍負ければ国賊といったところでしょうか。

 

私はしばらくこの考えに陥り、自分が今やっている「善行」は何にせよ自分が悪でない理由でもないし、自分がルールを守りそれに守られる存在では無いのだなと極めて冷笑主義的になりました。

ですが、私がそのことを徐々に気にしなくなり出したときにようやく私は自分の気持ちに整理がつきました。あれは感謝ではなくて「恩着せがましさ」だったのではないかと思ったのです。

 

感謝とは自分に対していいことをしてくれた人に対して抱く気持ちであり、そこから起こる行動が恩返しなのです。しかし、逆に恩返しを必須条件に恩を売るかあるいはそうでなくてはダメだと思うのは「恩着せがましさ」なのです。最初からお返し目当てさもそれを当たり前のことだとする考えは感謝や恩返しとは異なります。

これは感謝を感謝と思わず、感謝する側を惑わし外道に導きかねない考えです。

 

私の場合それは私が感謝してくれた人から催促などをされたのではありません。どちらかと言えば、私自身が身の潔白を証明したかったという他人は関係なく自分が表面的に浄化されたかったという気持ちが強かったのです。恩着せがましさは人に要求するものだけではなく、自分に対してもそうあるべしと願う所もあるのです。

 

私は自分自身にとどまる倫理観に感謝の気持ちではなく恩着せがましさがあったと思うのです。

 

 

【善意が滲み出てこその恩返し】

 

 

では、恩着せがましさではなく恩返しをするにはどうすればよいのでしょうか。

 

私は先ほど「ルールを守るものはルールに守られる」という言葉を申し上げましたが、結局はその合意があるかないかが先立つと思います。

ルールを犯したらルールに裁かれその償いをするのが社会の常識ですが、それに従う人には上のような「恩返し」はしていいと思います。ですがそれを諦めルールにより追放されることを選んだときには・・・引きとめず裁きを下すことが意味恩返しのようなものかもしれません。

 

これは一種の善であり、万人に通ずる善だと思うのです。ルールを守るものがルールに守られる、その善を第一に守ることが恩返しへの第一歩かもしれません。輝かしい結果を求めそればかりが恩返しだと妄信するのは恩返しでも感謝でもないのです。

 

恩返しとは人に感謝しあふれる気持ちを社会的常識の範囲で返すことを前提にした行為なのです。社会的常識からあぶれたときに、それを許さず反省を促すこと、その悲しみや無念を表すこと、それらも恩返しなのかもしれません。

 

あの人が犯したこととして、私自身も正解に達していなかったこととして戒めのつもりでこの事を残します。

 

 

【おしまいに】

 

 

とはいえ、本音を言えば「ルールに守られるものはルールに守られる」というのをそこまで信じているわけではないのです。それが裏切られる場面は多く、むしろ皮肉や潔癖主義を代弁した言葉なのではと思ったことは少なくありません。

 

でもその気持ちは間違いではないと受け入れたときに、その「ルール」とは何かを追い求め間違えながら探し続ける人生は外道でも軽蔑されるべきものではないと最近思うのです。それは世の中の不平不満を言ってたときから今のようにそれを受容しつつ答えを探すときまで同じだったと思うのです。

 

私は大学の時の部活をしていた時にある言葉を聞きました。

正解は分からない。でも何が間違いかは分かる。

私はその言葉に初めは特別な意味を感じておりませんでした。しかし、後からこの言葉は確固たるルールに守られず、外道同然の人生を歩んでいることを自覚したときに救いになりました。

ルールに守られて生きたいと望む気持ちをどこに向ければいいのかを表した見事な言葉であると思います。願ったところで結果や求道がすぐに着いてくるわけでもなくむしろ切り捨てられる方が多いですが、そこで気持ちを忘れずに諦めないことが大事であるとこの言葉により思い出させてくれたのです。

 

私は結局「感謝」や「恩返し」におけるマスターではなくむしろ外道かもしれません。しかし、その外道がせめてその道に本当に歩めるための懺悔録としてこの記事を残したつもりです。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年7月19日