ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

小山田圭吾のいじめ告白について

こんにちは、ずばあんです。

 

早速ながら、ミュージシャンでソロユニット・Cornelius小山田圭吾さんが7月19日、東京オリンピック開会式の作曲担当を辞退することがわかりました。

 

その理由は小山田圭吾さんの過去の「いじめ告白」発言でした。1994年と1995年に、すでにミュージシャンとして活動されていた小山田さんは雑誌の取材で学生時代のいじめの告白をしました。

 

その内容は同じ学校や違う学校の障害者の生徒を突き飛ばしたりマットで巻いたり汚物を食べさせたりしたものでした。当時の記事では小山田さんとインタビュアーがそのいじめについて談笑している様子が描かれておりました。

その過去が拡散・報道されたのはつい数日前のことでした。

間もなく開会する東京オリンピック2020の開会式の作曲メンバーに小山田さんは選ばれておりました。しかし過去のいじめ告白記事が取り上げられ、オリンピック・パラリンピックというイベントの演出に関わることへの資質が問われました。

この報道により小山田さんらへの非難が高まりついには小山田さんが謝罪文を出し、そして作曲担当を降板することとなりました。

 

この件については、私も強く思うことがあります。

小山田さんのいじめといじめ告白からこの作曲担当就任までの流れには、過去を総括するという意思が感じられないというのが感想です。

いじめ告白からは25年、いじめ自体からは35年近く時間が経っています。その間に過去の告白を弁解するチャンスはあったものの小山田さんはそれをせずほぼ沈黙を保ちました。そして小山田さんはそれをしないまま五輪開会式作曲担当に就き、過去のいじめを無かったことにするかのような動きを見せたのです。

しかし、この小山田さんへの批判についても私の考えとは異なる部分もありました。

実はこの小山田さんへの批判はネット上では10年以上前から批判されておりました。私も昔ネットで小山田さんのいじめ告白の記事を見たことがありました。小山田さんの話が出るとこのいじめ告白のことを指摘するユーザーは少なからずおりました。ですが、それが今回の件ほど騒ぎになることは滅多にありませんでした。

今回なぜここまでの騒ぎになったのかを考えますと、まずいじめの過去がある人がオリンピックという国際的な親善、平和の祭典に関わろうとしたことが問題となっているのです。しかし現実の批判を見るといじめそれ自体の批判も盛んで、中には相当無茶な綺麗事も混ざっているのです。

 

これから、私が小山田さんのまずいと思った所と、小山田さんやいじめの批判のまずいところ、そして私がいじめ問題をどう考えているかということについて話していきます。

 

 

小山田圭吾は開き直るか?】

 

 

小山田圭吾さんの落ち度が何かを見てみると、小山田さんはいじめた本人に何か償いをしたという様子が伺えないことと、告白への批判について今まで弁解しなかったこと、その上で神聖な五輪という祭典に関わろうとしたことが上げられます。

 

まずいじめ告白の記事を見ると、小山田さんはいじめの過去についてさも青春の1ページのように赤裸々に語ります。そこにはいじめの被害者が辛い思いをしたという思慮は感じられませんでした。

インタビュアーと共にこの過去のいじめを「談笑」し、記事の最後では「今思えばあの子には申し訳なかったな(笑)」と笑い話にしようとする意図が感じられました。

 

少なくともこの記事から、小山田さんのいじめをした人に償った事実あるいは償おうという意思は確認できませんでした。それどころかそれとは反対の、自分はそのようなことをする謂れはないと言わんばかりの態度でした。

 

ここから小山田さんはこのいじめの件で何か償いをしたりその意思を見せなかったことがわかります。今回の騒動での小山田さん本人の謝罪文でも、「もし居場所がわかれば(いじめ相手の)本人を探しだして謝罪したい」とあり、ここまで小山田さんが償いをしてこなかったことがわかります。

 

 

 

また、2004年にネット上でこの記事の件がバッシングされたときには、小山田さんは自分に対してバッシングする人を非難し、さらにいじめへの激しい非難の風化を望む旨のコメントを残しました。

これは小山田さんがこのいじめの件について沈黙する強固な意思を表しております。小山田さんはいじめに対し非難する世論について真っ向から対抗して、償いを絶対にせず沈黙を貫くという強硬な態度に望むことにしたのです。これは過去の告白について弁解する意思がないことを示しており、現に今回の騒動まで小山田さんは弁解とおぼしき行為を示したことはありませんでした。

 

ここで一旦話はそれますが小山田さんのこの姿勢についてライターの吉田豪さんは、1994年当時のサブカル音楽界では露悪趣味が流行り、小山田さんのいじめ告白記事もその風潮から誕生したとおっしゃっております。

小山田さんのいじめ告白記事は、元は過剰ないじめ批判に反対するコーナーのとある回に載せられたものでした。そしてそのコーナーには他のアーティストも過激ないじめ批判への反論を述べておりました。

確かに音楽のジャンルやバンドの中には露悪的で既存の社会規範に対し強く反発するコンセプトを押し出すものがあります。その辺りを探ると、小山田さんのいじめ告白が遥か遠くに霞むほどの強烈な露悪趣味(反社会的行為、エロチシズム、グロテスク・・・)がいくらでも出てきます。

 

ですがそれを加味しても小山田さんの姿勢は卑怯で中途半端だと思います。いじめ告白のあとに何か露悪趣味路線を継続的に押し出していくのであれば、コンセプトやパフォーマンスとして考えられたかもしれません。しかしその後に沈黙を続けそれを固辞し、その癖に全うな活動をし続けていたことはとんでもない居直りです。

それに小山田さんの活動でそれ以外の露悪趣味があまり聞こえてこないのも不思議な話です。小山田さんは時代のせいだとしても中途半端にそのいじめられた人を生け贄にして、そのあとはその事を忘れたかのように沈黙の中に葬り、弁解すらしなかったのです。これは小山田さんがこの件の後始末について沈黙が第一と考えていたことの証左だと思いました。

 

そして最後に小山田さんは上のような遍歴のもとに神聖なる五輪開会式の作曲担当に就いたのです。これこそが小山田さんの過去の歴史が罪に明らかに変化した瞬間だったのです。

 

五輪は世界の人々の調和と平和のスポーツ祭典です。また開催国視点では国の威信を示すイベントでございます。そのようなイベントに関わるにはそれだけの資格の証明が必要となります。

しかし小山田さんは過去のいじめについて清算や弁解をせず、沈黙に任せてその過去を封殺しようとしてきました。その事が五輪開会式の演出担当という役目において、として浮上したのです。

これは小山田さん本人が罪はもう無いと思っていたかもしれないという、贖罪意識のなさを表すものと考えてもおかしくはないのです。小山田さんは厚顔無恥の人間と思われてもおかしくはないのです。

 

こうしたことから小山田さんのイメージは、いじめの過去を臆面もなく笑い飛ばし、贖罪もせず許されようとし異議に対しても反発、そしてその上で自分は五輪開会式に携わる大した身分だと考える開き直った人間と言われてもおかしくはないのです。

 

 

【いじめ批判はいじめを無くせるのか?】

 

 

この小山田さんに対する非難は、小山田さんがいじめの過去を清算しないまま五輪開会式に携わることの資格の問題いじめの許容という問題に分かれます。前者は当然として後者はかなり雑然としております。

 

いじめの償いはするべきとか、これまでなにもしてこなかったことの非を問う意見は数多く出ております。いじめの後始末はやるべきでしたし、これからでもした方がよいのは当たり前です。

 

しかしながら、現実のいじめ対策やいじめ批判としてはかなり過激なものもあるのが事実であると思いました。いじめの過去がある人間は世に出てくるなという非難や、いじめは普通しないものだ、いじめられっ子はいじめられた方の償いを一生しろなどの文言が上がっております。

私自身もいじめを受けた過去はあるのでその気持ちはわかります。いじめた方に対する純粋な気持ちであればそれを非難する謂れはないのです。しかしそれはあくまで気持ちであり、本当にいじめを解決したくてそういっているのであればそれは現実的な案では無いと思います。現にさも評論家のような口ぶりでそのようなことを言う人の場合はあまりこの問題を知っていないのかもしれないと思いました。

 

まず、世の中にいじめに関わった人がどれ程いるかについてですが、2016年の文科省のリサーチでは小学4年~中学3年の児童生徒のうち9割がいじめを経験したと回答しております。これはクラスの大多数がいじめ被害を受けていることになります。いじめなんてあり得ないというのはその時点で嘘になります。そしてそれらのいじめの加害者・傍観者を考えると、いじめをされた人の「敵」はかなり多くそうでない人を見つけることが難しいことになります。

 

また、現在いじめの定義というのは「当該児童生徒がある一定の関係にあるものから精神的肉体的に苦痛を与えること(場所は問わない)」であり、いじめをした側がどう思っていたかに関わりなく認定されるようになっております。いじめの原因に関わりなくいじめた方に責任が問われるのです。

これは人々がいじめに沈黙しないための一歩前進した解釈に思えます。いじめという現象をより正しく認識しようという動きが見えます。かつてはそこに「立場の強いものから弱いものへ」「継続的に」「深刻な苦痛」という条件もありましたが削除されました。

 

しかしそれはいじめをした側はいじめを必ずしも自覚している訳ではないということも浮き彫りにしました。いじめは誰もがハッキリ形のあるものとして分かるものではないのです。私自身もいじめを受けていた経験もありますが、その苦痛が誰の目にも分かる様なことだったとは微塵にも思いません。逆に私がいじめと呼ばれることをしていたとしてそれを100%自覚出来るかというと自信はなく予防法がどれ程効果があるかも同じことだと思います。

いじめが誰の目に見てもわかり、責任はともかく最初から予測できたものだったという見方はいじめへの認識や関係者の膨大さから見て矛盾しておりあり得ないのです。

 

それでもいじめは許されないし被害者のために加害者への制裁をするべきという意見もあります。確かに解決はすべきでしょう。しかしそれはいじめをしないことを宣誓させるだけでなく、そのような行為をしかねない人間として現実的な社会的な行動や償いのしかたを考えることだと思います。

ならば画一的な強力な道徳教育を施せばいいという強気の案も出てきますが、それもいじめ問題に答えられておりません。いじめの原因は同じ原因があるのではなく、それぞれにおいて原因があるのです。そのためいじめの原因が一にあるかのように考え行動することは、いじめを防ぐ効果の無いどころかいじめを隠蔽したり小山田さんのようにいじめの過去に沈黙する結果となるでしょう。

 

 

そうしたことからいじめをした過去の有無だけでいきなりいじめた方を社会から追放するのはいじめの解決にならないと思うのです。そんなことをすれば人口の大半はいじめ対策からかえって遠ざけられ、ますますいじめが起こる本末転倒なことになるでしょう。そして画一的ないじめの原因という誤解もいじめ問題の認識を誤りいじめへの沈黙がますます起こるでしょう。

 

だから小山田さんのいじめ問題については、小山田さんにどのような罪があるかに関わらず、後始末をつける余地というのは保護しなくてはならないのではと思います。

 

 

【いじめ問題を正直どう思うか】

 

 

小山田さんといじめ批判に対する考えは以上ですが、私本人がいじめ問題についてどう思うかということをもっと踏み込んで語りたいと思います。

 

私はブログの初期に「いじめとどのように戦うべきか」ということについて話した覚えがあります。これはいじめとの戦いは難しいものであり、いじめから逃げるという撤退戦を考えることは一つの戦法であると述べました。

 

私がそのように述べた根本の理由は、いじめをなくす方法を誰も生み出せていないし、それを断言する資格のある人もいないと思ったからです。今日の今日までいじめの問題像を掴むのにも苦労し四苦八苦しているなかでその当事者の特定と解決法の特定と実行が出来るという方がおかしいのです。まだいじめの分析が発展途上の段階で被害者は沈黙の中で苦しんでいるのです。

 

そのため私がお互いに仲直りすることでいじめが解決すると考えることは思い上がりだと思うのです。いじめの過去は消えないので、関係回復の可能性を考えることが的外れなのです。それどころか無責任な神話で被害者をますます苦しめることになると思うのです。

もし仲直りをしたいという気持ちが本当にあるのであれば、相手からの不信感や不安を確かに認めそれに則した行動をとるのがお互いにとっての現実的な救済であると思います。

 

そうしたことからいじめが許されシロになるるということはあり得ないのですし、許されるとすればいじめの反省を行動としてやり続けるほか無いと思うのです。

 

一方でいじめに関わっている人が思った以上に社会に沢山いる事実も考えなくてはなりません。9割もいればそれは人間の業として認識しそれから逃れられる人は少ないと考えていいでしょう。自分はいじめとは無関係であり考えるいわれが無いと言い切るのは、その時点で鈍くあるいはいじめを曲解していると思います。9割もいるのだからそれを騒ぐのがおかしいという意見も、それはもはやいじめ対策に反旗を翻す行為と認識されてもおかしくは無いでしょう。

 

それにある一人がいじめをされるだけではなく、他人にしている可能性も考えなくてはなりません。それまでのいじめの加害者は悪、被害者は潔白といういじめ観は、加害者を突然責めるだけで解決法を示さず、被害者も身の潔白を極度に気にし相談しづらくさせていると思うのです。いじめはそれぞれの事案においてそれぞれ理由があるのです

 

だからいじめをしないのではなくて、いじめをした時にどうすればいいのか、あるいはいじめをするかもしれない自分は何を努力すればよいのかを考える方にシフトしていかなくてはならないと思うのです。

 

それまでの懲罰的ないじめ対策は、いじめの実態が明らかになってきた以上変わらざるを得ないと思います。被害者のケアも大事ですが、加害者のケアも同時に必要だと思います。いじめられた側としての私も、そこまで本腰をいれてくれたならばいじめ対策への本気度を感じることができます。

 

したがっていじめというのは予防とともにいじめをした後にどうするべきかも大事であり、それを学ぶことがせめての反省や成長であるとずばあんは思うのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

この小山田さんのいじめの件は拡散からかなり短期間で事態が大きく動き、いじめとの向き合い方の重要性を明らかにしたと思います。

いじめはもちろん無い方が良いですが、そればかりに気を取られて現実のいじめのけじめの取り方が語られず考えられないことはもっと問題であると思いました。

いじめが社会でどう評価されたのか、社会はその解決法を理解しているのか、その中でいじめの当事者はどういじめを処理していくのかを考えさせる出来事でありました。

 

小山田さんの件といじめについてこれまで真面目に語ってきました。

 

ここで砕けた話をすると、開会式の音楽どうするの?!と思います。小山田さんの続投が報じられた後にすぐに辞退することが表明され、まさかそれが開会式の数日前になるとは思いもよりませんでした。小山田さんの楽曲も使用しないことを運営委員会も発表しました。

 

その小山田さんの後任についてはミュージシャンの岡崎体育さんや近田春夫さんが手をあげておりますが、あと数日でなんとか出来るのでしょうか?プロのミュージシャンならば何とかやってくれるかもしれませんが、とんでもない試練です。

 

もしそれでも収集がつかなかった場合は・・・

 

拝啓 東京オリンピック運営委員会様

 

「ずばあん物語集」というブログをやっております、ずばあんと申します。もし収集がつかなかった場合は次の曲の使用を私の作詞料は無料の上許しますので、どうぞよろしくお願いします。

 

 

復活のズバアン

 

作詞:ずばあん        作曲:すぎやまこういち

 

きこえるか きこえないな はるかなおののき
闇のなか 心揺さぶる 目覚めはじまる
傘を投げ 逆ギレしまくる 正義を騙るか
伝説の巨神の力 落研の和乱す
一発のギャグがはなたれ 失笑を買う
驕れるな現実を見ろ ふざけるなよ

ひどい 嫌だね 恥でしかない
スベる ランナウエイ ズバアン ズバアン
スベる ランナウエイ ズバアン ズバアン

 

 

どうも最後までお付き合いありがとうございました。

 

2021年7月20日