こんにちは、ずばあんです。
最近某所で面白いものを見掛けたのでそれを紹介いたします。
長崎県の大村湾の南岸を走る国道207号線。道路は西彼杵郡長与町の市街地までは片側一車線の道路でしたが、農村部に入ると次第に道幅が狭くなり大型車が一台通ると塞がるほどの幅になりました。カーブも多く道路は海岸の岬や入江に沿って走ります。ミカンなどの畑が広がる農村情緒の漂うこの場所であるものを発見しました。
それは「大草長崎線 道路完通記念碑 」というものでした。碑文を書いた人物として「長崎県議会議長 中村禎二 書」とあります。道路脇にある高さ4、5メートルの石碑でした。下の台座には何か小さな文字が沢山彫ってあります。
道路から見て正面に彫ってあるものです。これは道路が完成したとき及び計画・建設途中のときの長崎県や通過町村の首長と議長などの行政関係者の名前でした。
ここに書いてある西彼杵郡多良見町は2005年に東隣の諫早市に合併されました。長与村は1969年に町に変更され現在は西彼杵郡長与町となっています。
左側に回りますと先程の続きと歴代の現場監督の氏名が並び、最後には「昭和四十三年七月吉日 岡郷建立」と彫られておりました。
昭和43年は西暦1968年で、今年2021年から数えて53年前になります。この石碑は建てられてから53年経っていることになります。岡郷(おかごう)とはこの石碑の建つ地域の地区名であり西彼杵郡長与町岡郷のことです。
さらに背面へと回りますと、赤文字で目の前の道路の「大草長崎線」(1968年当時)が建設された経緯やこの碑を建てた理由が説明されております。
「大村湾の青波に映えて岬をめぐり入江に迫って走るこの一条の道 その土にその石にその草に 人の智恵と力と汗がしみこんだこの道 その完通こそ蜜柑産業発展のため地域住民が祖父から子、子から孫へ語り継ぎ続いてきた長年の念願であったこの道一般地方道大草長崎線は昭和十三年から延々二十五年の歳月を費やしたが一向にはかどらず 時の県議中村禎二氏の日夜不断の活動と発案によって、自衛隊委託工事により、同三十八年一気呵成に完通した。
ここにその喜びを後世に伝える共に道路開通に多大の貢献を致された方々の功績を記念するため有志発起したこの碑を建立する。」
この説明によればこの道は昭和13年(1938)から地域住民が建設を要望していたとのことです。そして時の長崎県議会議員・中村禎二氏(1903-1991)によって建設が決定し、道路建設は自衛隊に委託されました。そして昭和38年(1963)にこの道路が開通したとのことです。
この碑も県議(1968年当時は議長)の中村氏のほか関係者を讃えるために有志の地域住民により建てられたということでした。
石碑の右側には、碑の建立に携わった者の名前が彫られておりました。
この一般地方道大草長崎線はその後県道諫早時津線の一部となった後に1982年に国道207号線(佐賀県佐賀市=長崎県時津町)の一部に指定されました。
というわけで、今日は開通記念碑の記事でした。普段ネットでブロガーのヨッキれんさん(平沼義之さん)の廃道探険サイト「山さ行がねが」の記事で楽しませていただいているので、今回の記事は書いてて胸が踊っておりました。
「山さ行がねが」程のボリュームはありませんが、この石碑を取り上げている方がネット上に見当たらず僭越ながら私が記事を勝手に書かせていただきました。
今回の記事はこれで終わりですが、今後も似たような記事をたまに配信したいと思います。
今回も最後までありがとうございます。
2021年8月2日