ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

いじめへの「償い」とは?

こんにちはずばあんです。

 

東京オリンピック2020も終わってこれからはパラリンピックが行われます。

 

さてここで思い出すのがあの小山田圭吾さんのことです。小山田さんは過去に雑誌の取材で少年時代のいじめを告白し、その事がオリンピック開会式の音楽担当となった小山田さんへのバッシングとなりました。小山田さんは最終的に担当を辞退しましたが、今でも小山田さんの動向は注目されております。

 

さて小山田さんはこのバッシングの最中、この件について声明文を出しました。その中で「今からでも自分がいじめた本人を探し出して謝罪したい」と述べました。

 

しかし私はこの声明文を見て、誰に向けた声明文なのだろうかと思いました。いじめた相手に対する謝意に見せかけた、世間に対する弁解の文書のように私は思いました。もちろんオリンピックの開会式の音楽担当という身分で迷惑をかけたことは事実です。ですが、そこでいじめの反省の弁を述べるのは償いではなくバッシングを沈静化させたいという魂胆が滲み出ているように思いました。

 

私はこの件で改めていじめの償いの件について考えさせられました。今回はこの件について語らせていただきます。


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【いじめは償えない?!】

 

 

いじめの償いとは「賠償」という言葉からイメージ出来るように、いじめで与えた苦痛を治癒するのに見合うことをすることです。

謝罪はもちろんですが、いじめた相手の名誉や精神的苦痛や身体的苦痛で失ったものを回復する行動はいじめへの償いといえます。

 

ここでいじめの償いと言いますと、償いが終わると双方が和解して仲良くなるイメージがあると思います。それまでの罪が完済され双方の関係には過去のことはさっぱりと無くなるというイメージがあると思われます。

確かに現実にそうなることは望ましいですが、実際にはそうしたいじめの償いの終わり方は無いと思われます。

 

というのは、いじめによって改変された、あるいは壊されたいじめられた方の人生は返らないからです。人間に対する信頼感、大切にしていたもの、大事なことに打ち込む時間など一度壊したものは返らないからです。場合によっては精神疾患などの後遺症が残ることもあります。

 

それに失ったものが後から分かることもあります。そしてそれがすぐに言葉で表現できるものではなく、分析の手間をかけてようやく分かることがあります。分かった時はまだましでしょうが、それまでのいじめた相手の苦痛や身の潔白はどうするつもりでしょうか。その間の出来事に責任を負えるのでしょうか。

 

先程いじめの償いは失ったものを回復することと述べましたが、実際には無理だといえます。失ったものは原則返りませんし新しいものを築くほか無いのです。だからいじめの償いで失ったものを回復するという出来もしないことを償う相手に宣言することは、相手に二重の苦しみを与えることとなるのです。

 

失ったものは返らないこれがいじめの前提です。

 

 

【「償いをしてやった」という気になる罪】

 

 

いじめの償いをお互いが「元通りに回復すること」と考えることは、私は傲慢だと思います。

先程申し上げた通りそれは不可能なことであり、そこには新しいものが作られるだけです。その事に目を向けず自分はいじめを償うと言う「権利」があると思う人は沢山おります。

 

いじめの償いが出来ると思う人は、自分は相手のダメージを回復できると認識しており、相手にそれを施すことが相手の利益になると考えております。しかしそれは誤りであると思います。

 

いじめのダメージというのは基本的には回復できないものですが、それを回復出来ると思うのは相手がそこまでダメージを負うことが間違いなのだと考えている証なのです。それは自分の罪を測れておらず、その罪を相手に転嫁するのに等しいことなのです。

もちろんそこまで考えてなかったという人もいるでしょうが、私が思うに「お前のせいで自分は恥をかいた」と言っているのと同じことなのです。

 

これは第三者にもお伝えしたいのですが、いじめられた方はいじめた方と「元通りに回復する」理由はないのです。この問題提起は勝手にいじめっ子がいじめを仕掛けたことから始まっているのです。もしそこでいじめっ子との関係の「回復」を目指せば、いじめっ子はいじめられっ子に試練を課してやった神様のような存在になるのです。何様のつもりでしょうか。自分が主人公の神話を描くためにいじめをしてきたのでしょうか。

 

もちろんこれは、いじめられた方はいじめ対策をしなくていいということではありません。むしろそれはした方がいいと思います。ただそれはいじめっ子のためではなくいじめられた方の為なのです。誰か他人のためではないのです。本人のいじめ対策の意義にいじめた方の影が出てくることがマイナスなのです。

 

もしかしたらいじめた方はそれで自分が犯した罪への償いを支払うことが出来ると思っているでしょうが、いじめられた方からすればそれに巻き込まれることは屈辱です。こういうと「社会ではそういう場面が出てくる」という弁解をする輩もいますが、いじめた方はいつから教師や牧師や裁判官になったのでしょう。その人にとって罪の償いとは自分のやったマイナスをプラスのことにごまかして、恩を売ることでしょうか。恩着せがましい発言です。

 

いじめた方の中には不満があるなら言えと言わんばかりの態度で臨む者もおりますが、それで建設的なことを言ってくれるのは余程仲の良い部類であります。実際にはいじめで信頼関係を壊した者にそんな「答え」を提示する謂れはありませんし、それに気づかない人間と関係を「回復」することは損害なのです。この時点でいじめた方にいじめを償う権利は無いのです。

 

「償いをしてやる」と言わんばかりの態度とはこの事を指すのです。

 

 

 

【いじめからの立ち直り≠償われること】

 

 

さて、次はいじめられた側の話をします。

いじめられた方が立ち直っていくことが大事なのはもちろんですが、そこで覚えておくべきなのは「いじめた方を許す必要は無い」ことです。

 

いじめた方はいじめをした時点でいじめを償う能力を喪失しております。そのためいじめた方に対する不信感や不快感を解消する必要はありませんし、その手続きはいきなりすっ飛ばしていいのです。

 

これはお金の貸し借りと同じです。お金を借りてどう考えても返せない人は最終的には自己破産します。自己破産した人は自分の負債が無くなる一方で、公式に社会的な信用が無くなり今まで出来ていたことが不可能になります。クレジットカードは作れませんし、ローンを組めませんし、お金を借りることはもちろんできません。

 

いじめた方もそれと同じく、相手方からの信用を失い関係回復や償いも含めて人間関係に関する行為を取り合ってもらえなくなります。償いはもちろんできません。だからいじめた方を許す努力はしなくてよいのです。

もしかしたらそれに対していくらなんでも可哀想と思われる人もいるでしょうが、そう思うのであれば出来もしない償いをさせることの方がもっと可哀想だと思います。このあとお伝えいたしますが、別のケジメの付け方を早くさせる方が余程いじめた方への思いやりだと思います。

 

話が横道にそれましたが、いじめられた方は今後いじめられないようにどう工夫するかが必要だと思います。それが出来なくなることはそれこそ自分を傷つけることになります。

 

しかし、そこでいじめた方のいじめのお陰でそうしたのだと思い込んだりする恐れからなかなか実行に移せない人は多いと思います。実はずばあんもそれで苦しんだ一人でした。そのためこの苦しみを以ていじめられた人を「ダメなやつだなあ」と呼ぶことは冗談だとしても絶対に許しません。私たちは見世物ではないのです。

 

ですがそこから抜け出す方法があります。それは・・・いじめから立ち直ろうとすることを辞めることです。

 

私は別に言葉遊びでそういうことを言っておりません。いじめから立ち直るのは自分のためにやるのです。そこには本来よその誰かに誓うものはないのです。受験や就職をする上で、あるいはそれを諦める上で自分に決める権限があるのと同じで、本来は人がどうこういう権限は無いのです。いじめからの立ち直りも同じで他人に誓うものではなく自分が納得した方に動くものです。

 

それにいじめから立ち直るというのはもとの状態に戻ることではなく、新しく力を得ることなのです。全く元の状態に戻り「成功」するのではなく、「失敗」しつつも新しい人生を築くことがいじめられた方の真の回復です。そこではいじめから立ち直ることを目標にすることの有無は関係なくなります。むしろいじめた方という信用のない者が自分の人生に深く関わるより、それをどうでもいい者として扱う方が幸いかもしれません。

 

さて、ここでひとつ弁解しますと、私はいじめから元通りになることを全否定している訳ではありません。結果としてそうなったのであればそれは喜ばしい話です。ただ、それはいじめからの立ち直りのパターンの一つでありそれだけが喜ばしいエンドではないのです。最初から元通りになることを目指すよりもそれ以外でもいじめから立ち直る道筋をとらえた方がいいと私は思いました。その上で元通りになれたならば否定する理由はないと思われます。

 

 

【いじめた方の真の「償い」とは】

 

 

ようやくここで結論となりますが、いじめた方は今後どうすればよいのでしょうか。

 

小山田圭吾さんの件では小山田さんは少年時代にいじめをした後にいじめた方に償いをせず、それを自慢気に雑誌で語るという行動に走りました。そのあとも事態の風化を望み続けた果てに今回の騒動になったのです。

 

これは私が望む結末ではありません。いじめの償いが出来ないから償いをしないというのは、これからも元いじめっ子として開き直ったり悦に入ることではないのです。そして、その風化を望むことでもないのです。いじめを償いたいという気持ちは捨ててはいけないのです。

 

ではどうすればいいのかというと、何にせよいじめた相手とは一度絶交しましょう。絶交して一旦赤の他人同様になりましょう。

 

いじめというのは双方の関係性の不全、すなわち折り合いの悪さから始まるのです。親しくなった実績がないのにいきなり親しかったかのように考え、そうでないのが悪だと考えるからいじめをするのです。だからいじめを辞めるには一度絶交する、というよりは元からそうであってそれを拒む権利がないことを受けいれましょう

 

そこから縁が遠くなるか、新しく仲良くなれるかは一度絶交してからの話なのです。そうでないといつまでもいじめをしてしまうのがいじめる方のありのままなのです。そんな関係性だから初めからいじめを「しない」ことが出来なかったのです。だからいじめた後の双方の関係をそのまま回復するという営みは、いじめる方にとっても利益のないことなのです。

 

これはいじめをした人で償いを本気で考えている人に特に聞いてほしいことです。いじめをする時点でいじめを償って関係を繋ぎとどめる能力は無いのです。そのため本当に償いをする気持ちがあればまずは向こうとの関係性をリセットするべく一度絶交して、その上で相手と新しい関係性を築くことに移ってほしいのです。

 

これはいわば新しい自分になるようなものです。いじめをした本人には自分自身というのがあるでしょうが、それが相手にとってもそうではないのです。相手は自分の行為だけを自分として見ているのです。いじめもその一つです。だから、いじめを辞めることは、相手との関係性を一度打ち切り、いじめっ子である自分を一度殺すことなのです。

 

その後にどうするべきなのかは、申し訳ありませんが各自で自分がこれまでどのようにして作られ生きてきたかを探るほかないと思います。人がいじめをしない理由に対して、いじめをする理由は無尽蔵にありそれぞれ理由が異なるからです。自分がいじめをした理由は自分に特有なのです。

 

これで最後になりますが、自分のいじめの責任を人に擦り付けるのは当然アウトです。しかしいじめの原因を自分以外のところにも求めること自体は悪くないと思います。自分という人間は人から影響を得て作られていますので、その前提は間違ってはいないと思います。

 

その上で自分の責任を果たすというのは、自分がまともな人間になるために努力をすることです。その努力には自分の回りの人間関係を改めることも含まれます。環境を変えることも努力に入ります。悪い人間と絶交することは難しいと思われますので、その時にはその事で人の助けを借りることも大事だと思います。

 

いじめを真の意味で償うことは出来ませんが、いじめた相手を思い行動し反省することは出来るのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

内容は以上です。

 

前回の小山田圭吾さんの記事からの派生記事ですが、小山田さんはいじめの反省や償いが出来てないのにそれが出来たかのように振る舞ったのが罪なのです。

小山田さん以外の人物でも、いじめの償いはしたいという人間がいてもそれを出来た人間は未だ見ておりません。そしていじめられた方は何となくそれに気付いているのです。

 

私も意地悪ながら「傷付いた人間のことも考えず壮大なパフォーマンスだな」と正直思いました。いじめられた人間はいじめた方の名誉回復なんぞに関わりたくないのです。

私も昔いじめとまではいかなくとも、自分に不愉快なことをしてきた人間を謝罪してきたから許したことがあります。しかし、その後も根本の部分が変わらずいつ自分にまたそれをやって来るか気が休まらず、その人間をさも立派な人間のように立てるのが正直苦痛でした。その人と別れてから時間は流れておりますが今も少し後悔しております

 

いじめでなくてもそこまでのダメージを与えるのに、いじめならば尚更なのです。だから文字通りいじめを償おうと本当に目指すことは、いじめられた方に対する更なるいじめなのです。

 

だからいじめが起きたときは償いではなく反省と関係の解体をまずしなくてはなりません。地味かもしれませんが、それが出来ないならばいじめの償いをしたいという言葉は軽々しいこと甚だしいでしょう。

 

とはいえいじめの過去がある人をいつまでもそれを理由に問責するのはいくらなんでも酷だと思います。いじめは本来は二者間の問題であり、それ以外の人間が当事者の意思なしに何か行動を起こせることはないからです。

 

いくらいじめが償えないからといって、永久にその事実をほじくり返すことはそれもまた新たないじめであり、反省から遠ざけ小山田圭吾さんのような開き直った人を産み出すことになります。

 

何にせよいじめが終わってもなおいじめで苦しむことが少なくなるようにすることがいじめの総括だと思います。

 

本日も最後までありがとうございます。

 

 

 

2021年8月13日