ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】西田幾多郎「善の研究」

こんにちは、ずばあんです。

 

本日は読書感想で、西田幾多郎の「善の研究」(1911)を紹介いたします。

 

善の研究」は高校の倫理の教科書にも出てくるほど有名な著書です。

 

この本では人間の認知や分析的思考が加わる前の「純粋経験」の状態や主観と客観の科学的分析を加える前の「主客未分」の概念を用いて、宗教、善悪、文化などについて解説します。

 

この本は日本で最初の哲学書とも呼ばれ、著者の西田幾多郎は哲学者として京都学派と呼ばれる哲学学派を形成いたしました。

 

今回はこの本の内容の解説や私の感想について述べたいと思います。

 


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【内容】

 

本は第一章から第四章に分かれ、それぞれ純粋経験・実在・善・宗教について語られます。

 

第一章の「純粋経験」では、人間による認知や分析が加えられていない主観と客観の分かれていない「主客未分」の状態の経験を「純粋経験」と呼び、この純粋経験を体系立った経験として関連付ける思惟やその主体としての意識について説明します。

 

第二章の「実在」では、物の実在が思惟や意志の動きにあることを述べ、対立する物同士の衝突により初めて両者が認知され、両者を統合し包括する認識を形成する作用について述べられます。

 

第三章の「善」では、人がどうあるべきかという「」について語られます。行動や価値について異なるもの同士を一にしようとする動きで説明していきます。

そして善について歴史上語られてきた説について合理説や功利主義などと比較し、その中で小さな集合から大きな集合に向かって主客合一する過程を善と指し示しました。

 

第四章の「宗教」では、神を純粋経験の世界を統べる全知全能の存在とし、その神との合一を目指す動きを宗教としました。

 

ここまで見てこの本は「純粋経験」や「主客合一」をキーワードに哲学を語っていることが分かります。

西洋哲学を含めた近代科学は主観と客観を分け、分析的手法に則り客観的事実を検証します。それに対し西田幾多郎は分析や解釈の入らない状態の世界を、人間の思考の力で認識して解釈し、それを再び元の一の状態に至るまで統合するという、独自の哲学体系を表しました。

これは西田幾多郎の座禅体験が元となっており、唯物論と観念論の間の矛盾をこの経験を元に説明したのです。そのため「善の研究」は仏教的なテイストが強めな著書となっております。

 

 

【感想】

 

 

この本は分析的思考直感的思考というものをメタ視点から捉え、カオスな世界の本質のありのままを理解する試みを解説してくれたと思います。

 

私はもっぱら分析的思考の手法を用いてものを話したりします。余分なものを削り疑いようのないもののみで論を整理し構築します。それを広げると一つの体系になります。

しかし体系は認知した対象そのものではありません。分析とは人間の身体の機能に合わせた人間の都合でしか無いからです。人間の認知機能のバイアスはどうしても入ります。

そのため全体を総合的に理解するなら、今度は人間の感覚の嘘を自覚して、そこから逆算して物の本質を探らなくてはなりません。それを一般的には「さとり」と呼ぶこともあります。これは分析的思考とは逆のベクトルに当たります。

西田幾多郎は「さとり」を禅宗の座禅の実践により体感し、それを西洋の分析科学と対峙させ説明いたしました。

 

さてここから自分がこの著書の内容について思ったことを項目毎に分けて説明します。


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(木と森と滝)

 

純粋経験・実在って何?

 

この本の前半に出てくるのが「純粋経験」と「実在」の2章です。実はこの「善の研究」の本のタイトルは当初は「純粋経験と実在」となる予定でした。「善」は第3章の内容でこの本のほぼ結論と言っていいですが、その前の2章は結論に欠かせない内容となっております。

 

まず第1章・純粋経験ですが、かなり哲学的なことが書かれております。純粋経験とは人間の認知や分析が加わる前の本来の世界のあり方です。そして人が世界を見てそれを体系だったものに構成する作業が思惟であり、思惟を行う主体が意識すなわち自我であると説明されます。

つまり、人間が見聞きし感じる世界は「仮の世界」であり、人の肉体により偏向して認識されたものだというのです。純粋経験はその仮の世界が見えなくなった先に見えるものなのです。

 

純粋経験の話を受けて第2章・実在です。実在とは「ものの真実の在り方」のことです。先ほどの話にのっとると私たちの見聞きし感じる世界に実在は究極的には無いことになります。実在は純粋経験にあるからです。

そうなると純粋経験以外の仮の世界は全て等価値のものとなります。例えばルビンの壺などのだまし絵は、ある人が一つの壺と見てまた別の人が二人の横顔と見るならば、どちらも同じだけ確か(反対側から言えば同じだけ不確か)なのです。純粋経験はこのだまし絵の絵柄のようなものです。それを壺と見るか横顔と見るかはどちらも仮説なのです。

 

もっと言えば森があるとして、それをよく見ると一本の木があります。もっとよく見ると木の枝や葉っぱ、木の実、花なとが見えます。その葉っぱのうち一枚を採り、顕微鏡で観察すれば葉っぱの細胞の集合が見えます。クローズアップすると一つの細胞の構造が見えます。

逆に森を遠くから見ると山や川、草原、空気と密接に関係し、一つの生き物のようです。それをさらに遠くから見ると一つの陸地となり、さらに遠くからだと海と大陸、地球、そして宇宙・・・とどこまでも拡張できます。

ここまで見てきたものは大局観と分析、マクロとミクロの差はあれど全て同じだけ確かです。しかしその全ての実在もまた仮説なのです。

それらの事は自然科学で証明可能ですが、わざわざ証明せずともこの一連の因果関係は端から存在しております。その端から存在する因果関係が実在すなわち純粋経験なのです。

 

 

②善って何?

 

第3章でという言葉が出てきますが、善の考えには沢山の種類があります。人に心地のいいことを多く施し不快なことを減らすという功利主義的な善や、厳格な規則を設定しそれを徹底的に守らせる戒律主義的な善、はたまた人々を拘束するものを極力減らし解放する自由主義的な善などがあります。つまり世の中には善と名のつくものが沢山あるわけです。

 

さてここで純粋経験と実在の話を踏まえますと、それぞれの善はどれも実は仮説すなわち嘘なのです。各々の善は世界を善悪に別ちますがそれは世界の真相ではなく、真実の世界は善悪別ちがたいものなのです。とあるものが、ある時またはある所では善であったとしても時場所移ればすぐにそれは崩れ、悪になることもあります。逆もまたしかりです。九州での生活スタイルを北海道にそのまま持ち込めば冬に瀕死の事態に陥るようなものです。

 

では究極の善は何かというと、それはまさしく純粋経験を追い求め主客合一をしていくことなのです。具体的に言えば自分と対立するもの同士を包摂する世界をその度ごとに求め、それを理解し対立していたものと和合することなのです。

このことは西田幾多郎の座禅経験によるものであり、悟りを開こうとする人々の姿に究極の善を求めたのです。

 

この善の考え方は仲の悪いものと仲良くなろうとしたり、理解できないものを理解しようとすることを絶えず要求します。それが出来ないことは自分の罪となり背負うことになるのです。

 

なお西田幾多郎はこの主客合一において「禁欲」の考えを否定していることも面白いです。

欲望と言えば食欲、睡眠欲、性欲など沢山思い浮かびますが、日常生活を送る上でいくつかの欲望は節制しなくてはなりません。しかしその欲望を節制する暮らしは禁欲ではなく、あくまで日常生活を送りたいという欲求が強いからやることなのです。そこからさらに日常生活のあれやこれやも犠牲にし禁欲といえる生活をする人もいますが、それも出世や社会変革という欲求の強さから起こるものなのです。

これは欲求には「階層」があり、一見して「禁欲」と呼ばれる生活には実は並々ならない高次の強い欲求があるのです。これは「善の研究」から半世紀以上後のアメリカで心理学者マズローが「欲求5段階説」としてモデル化しました。一番基底の欲求として生理的欲求があり高次に向かうにつれ安全欲求、帰属欲求、承認欲求、そして自己実現欲求があるとしました。人はまず一番下の欲求を持ちそれが満たされ次第その上の欲求が起こり満たしてまたその上の欲求が起こり満たすというものなのです。

そのため西田幾多郎のいう、主客合一により純粋経験に近づいていく善は欲望の滅却によってではなく、高次の欲望の肯定に基づいてなされるのです。

 

③宗教って何?

 

私たちが感じ見聞きする仮の世界から、そこから真実の純粋経験の世界に近づこうとする善についてこれまで説明いたしました。ではこの善において宗教とはどのようなものでしょうか。

 

本書の第4章で西田は神とは純粋経験の世界を統べる存在であるとしております。今あるもの昔あったものこれからもあるであろうもの全てを分かつことなく治める揺るぎない存在が神だというのです。

 

この西田の「神」という言葉は、西田が仏教的な世界観から紡ぎ出したオリジナルの存在に思えました。

仏教には「」という言葉がありますが、これは今世の中にあるものと今世の中にはないけどかつてはあったものもしくはこれから現れるものはいずれも真実の世界には存在するのだという世界観を表す言葉です。

身近な例に例えると、水は温度(と圧力)次第で蒸気になったり氷になったりします。この状態の変化で水が「消えた」訳ではなく、あくまで科学的法則に従いあり方が変わっただけです。ただ水と氷と蒸気が同時に発生することはあり得ずどれかがあれば他のものは無いということになります。仏教の無の考えはこうしたものです。

この仏教の無の世界観を世界各地の宗教に当てはめようとしたのが西田幾多郎です。無は仏教という悟りを至極とした宗教から生まれた概念ですが、それを世界各地の一神教の宗教にも当てはめようとしたのです。

 

一神教の代表キリスト教はその拡大に辺り各地の土着宗教の神や伝承を自分の宗教に取り込んできた歴史があります。また長い歴史のなかで度々行われてきた公会議は教会組織の考えとそれと合い矛盾する事案について話し合い、キリスト教会の教義の更改を行うものです。これは矛盾を克服しキリスト教が世界全体に向け志向しようとする動きにも見られます。

 

そして一神教の中でも戒律に厳しいユダヤ教イスラム教はそれぞれ正典を設けつつも、更に細かい規則は正典に基づき作られた書によって決められます。それよりも更に細かい規則や契約も同じくです。

これは日本などの法秩序に似ています。日本(および他の成文法の国)の法律は憲法を頂点におかれ作られております。憲法にのっとり国会で作られる法律があり、それらに基づき省令や条例などが制定されます。もちろん社会変化による新しい法律制定や法改正もこれを無視しません。

これを考えると戒律に厳しい宗教でも狭い範囲を志向するのみならず世界全体に志向しようとする動きがあることがわかります。

 

西田はこうしたどの宗教にも見受けられる全体へ志向しようとする動きをもって仏教的価値観を至高のものとし、それをもって宗教や神を想定したのです。そしてその全体に向かっていく意思のことを「愛」と表現したのです。

 

 

④全体を通しての感想

 

この本は西田が仏教の研究やその実践に基づいて編み出した、仏教的な究極な理念を哲学の文脈でまとめたものだと思います。

 

この本は本当の自分と仮の自分の分別をつけたい人にとっては良本です。仮の世界で生きる人々が世界の仮ゆえに傷つき損害を受けるなかで、人々の本当たる部分は厳然として綺麗であることを証言してくれます。そしてそれが仮説だらけの世界で生きる私たちの励みや勇気、道しるべとなるのです。

 

一方で私はその主客合一のためにまずは個々の主体の余裕が必要だとも思いました。心身の余裕や経済的な余裕などまずは自立するための余裕があって初めて主客合一することができるのです。ですがその余裕を無視して、この理念を余裕の無い人を釣るための餌として利用するのは誤りだと思います。その時には「善の研究」が人を搾取するための方便となりかねないのです。

 

実際に西田ら京都学派、およびその影響を受けた有力者は太平洋戦争を大いに支援しました。それは戦時中に向かって欧米との精神的な溝の深さや経済的な困窮が深まるにつれて余裕のなくなっていった日本がはまった罠であると思います。

それに余裕の無いときというのはどんどん合一したはずのものが分裂していきます。これは合一をしたものを保つのにもパワーが必要でありそれが欠乏した結果なのです。「大東亜協栄圏」もその母体の日本の余裕が無くなったあと戦禍という悪あがきの後に再びバラバラになりました。他の植民地を持っていた国もそうでした。残酷なようですが余裕の無さが主客合一を牽制することは往々にしてあるのです。その困窮時に唱えられる強引な世界統一の理想はまあ胡散臭い餌でしょう。

 

そして最近よく聞くようになったSDGs(Sustainable Development Goals「持続可能な開発目標」)は、世界各国の発展目標において余裕の大切さを盛り込んだものと言えます。目標は17個存在しますが、古くから唱えられる環境保護目標に加えて男女差別や児童労働の撲滅という社会目標や、新しい成長産業の育成や経済成長という経済開発目標も定められております。

これは従来存在していた国連の環境保護政策や社会政策が現状余裕の無い開発途上国の開発政策と衝突し互いに牽制する問題が起きたからです。そのため現状余裕の無い国の成長を担保しつつ世界が正しく存続する道筋を、従来の各種政策を合一しつつ複合的に示したのがSDGsなのです。

 

ですので本当に「善の研究」を実践し役立てたいのであれば、まずはいきなり主客合一ではなく心身の余裕を養うことからスタートすると思います。

 

 

【おしまいに】

 


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今回は日本の哲学史における重要な哲学書を紹介いたしました。今日は敢えて感想で良いところと悪いところの両面を書き出しました。哲学書を読むことは自分の哲学や信念との対決に等しく、それを感想として述べることは「善の研究」の価値を損ねないと思ったからです。

 

この「善の研究」は日本人の思想というのが西洋哲学と比較してどんなものなのか。そこで明らかにされる日本哲学と西洋哲学の価値はなにかを調べる上で役に立つ書です。

 

いまの日本は西洋などの外国からの価値観が大量に流れ込み、そのカウンターとして日本人のあるべき論が吹き上がっております。何年か前には書店に行けば入口に「愛国書コーナー」なるものが大きく構えておりました。流行を狙った日本賛美、近隣諸国批判の本がゲバゲバしく飾られておりました。かたやそれに対抗する言説をのべた本も沢山出てきており、さもバトルロワイヤルの様相です。

 

私は時流にいちいち振り回されずもっとどっしりと構えた生き方をしたいと私は望みました。そのような中で落ち着いて日本人の思想を知りたい人におすすめしたい本の一つが「善の研究」でした。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

 

2021年11月12日