ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

自民党ってどんな組織?

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は誰でも名前は聞いたことのある自民党自由民主党)の話をしたいと思います。

 

今年の衆議院選挙でも過半数以上の票を守った自民党でした。自民党は一時期を除けば半世紀以上にわたり日本の国政の第一党として続いてきました。

 

そのため政治思想がどんなであれ、この政党のことを意識せずにはいられません。

 

しかしこの政党がどんな成り立ちで、どんな力で続いているのかはあまり分からないところもあります。また自民党所属の議員が自民党を語るときの発言についても「ん?」となることもあります。

 

それでは今日は自民党について客観的な視点から語りたいと思います。


f:id:zubahn:20211202201320j:image

 

自民党の現況】

 

自民党は1955年に結党され、以来66年続いている政党です。党の思想的立ち位置は保守中道右派と評されます。現在の主要な国政政党の中では最右翼とされます。

 


f:id:zubahn:20211205052941j:image

図:自民党本部組織図(自民党HPより)

 

今の党組織について、組織のトップは「総裁」であり、衆議院において議席の大半を占める自民党政権下では総裁が総理大臣を務めます。総裁の次に来るのが「政務調査会長」「選挙対策本部長」です。総裁とこの2役を合わせて「党三役」と呼ばれます。党三役は自民党の幹部の中で有力なポジションとされます。

 

そして党組織の事実上の2番手は「幹事長」です。幹事長は組織のヒエラルキーでは総裁の下に当たりますが、総裁は自民党政権下で総理大臣の務めに専念するので、事実上の党トップの実務は幹事長がずっと代行するのです。(総裁の代行ポジションとして「副総裁」がありますがこれはあくまで非常時のポジションとされ、平時では幹事長が実務を務めます)

 

この自民党には公式の党組織とは別に「派閥」が複数存在します。派閥は派閥内での意見統制人事調整資金協力教育活動などを行っております。自民党に派閥は大小様々存在しておりますが、この派閥の動きは党内の意思決定や自治に強く関連します。先程の党組織の人事にも派閥の影響は表れます。

そのためニュースや報道、言論で自民党を語るときには党組織と合わせて派閥の動きにも着目されます。

 

自民党は今日では公明党連立政権を組んでおります。連立政権とは単独では政権をとれなかったなどで、複数の党同士が政策や内閣人事などで協調してまるで一つの党のように運営する体制を指します。自民党公明党は主に互いの手の届かない固定票を獲得するために1999年より連立政権を組んでおります。

 

 

自民党の歩み】


f:id:zubahn:20211205055604j:image

写真:自民党結成大会(1955年)

 

自民党は1955年にこれまでの「自由党日本民主党が合体して誕生しました。この二つの政党は思想は共に保守(日米安全保障条約に賛成)の位置付けでした。このような保守2党の合体は当時国会の最大政党で革新派政党であった日本社会党(現在の社会民主党)に対抗するためでした。この時から自由民主党は日本の国会の最大与党としての長い道を歩み始めました。

このときの自民党は旧自由党や旧日本民主党からの派閥が存在し、各派閥の発言力が強い状況でした。そのため自民党は党組織の影響力が弱く、党組織が派閥に従うという状況でそれは1990年代まで続きました。

 

自民党は結党の1955年から1993年まで単独第一党の地位を守りました。この間に自民党出身の総理大臣は日本の国連復帰や高度経済成長下での国民生活の向上などの功績を築いてきました。

 1973年には第一次オイルショックが起き、当事与党であった自民党は速やかな対応に追われました。この時に活躍したのが各省庁大臣経験者とその派閥の議員で形成された族議員でした。族議員は、縦割りで対応の遅い各官庁に代わり、党内での調整により事実上の速やかな一体的な官庁運営を実現しました。この族議員派閥は1990年代まで強い存在感を持つことになりました。

 

その後自民党は1976年に発覚したロッキード事件に続き、リクルート事件(1989)や佐川急便事件(1992)といった収賄事件で政界は国民から信用を失いました。それを受け当時の政権は政治改革に手をつけましたが党内の反発から廃案が重なり上手くいきませんでした、そしてこの時期に党幹事長を勤めた小沢一郎氏らの一派が自民党から脱退新生党を作りました。

そして1993年に内閣不信任決議により衆議院が解散され衆議院選挙が行われ、自民党は野党へ転落しました。

 

その後小規模の革新派の政党による連立政権が与党となった後、各政党の度重なる連立解消と、政権の短期での首相交代が相次ぎました。その中で1994年、自民党は旧社会党やその他の政党と連立して与党に復活しました。

 

その後1996年の選挙で自民党は再び議席過半数を取りましたが、自由党新生党との連立は続けました。

この頃政治運動家出身の菅直人氏らによる民主党が新たに結党され、有力な野党第一党として力をつけてきました。

 

この時代はアジア通貨危機や金融ビッグバンなどの経済政策上の問題が政治の場で上げられ、自民党出身の橋本総理などが首相官邸や内閣の力を強める改革を行いました。そして1999年、自民党公明党と連立政権を築きました

 

その後2001年に小泉純一郎政権が誕生すると、小泉氏はこれまで派閥や族議員の強かった自民党を党組織自体として強くする党内改革を行いました。これにより派閥同士の合議による人事、意思決定から党組織のヒエラルキーによる政策意思決定へと移行したのです。

 

しかしその後は第一次安倍晋三政権から麻生太郎政権まで閣僚や議員の不祥事失言が相次ぎ、2009年の選挙ではそれまで野党第一党であった民主党に打ち破られ、再び自民党は野党になります。

 

二回目の野党時代、自民党公明党との連立を維持し両党の一体的な政策意思決定機構を確立し、闇の内閣として政権奪還を目指しました。

 

そして東日本大震災のあとの2012年の衆院選挙で自民党単独過半数を取り、公明党と共に与党に返りました。同時に安倍晋三が再び総理となり2020年まで総理に就きました。この時代はアベノミクスや安保政策など右派色を積極的に押し出しある一定の保守世論を引き付けました。

 

そして安倍、菅、岸田政権を経てコロナ禍の最中での2021年の衆院選挙では、議席過半数を守り与党としての地位を守りました。

 

このように自民党は結党以来66年もの間、一時期を除き政権第一党の地位を歩んできました。

 

 

自民党の特徴】


f:id:zubahn:20211205055103j:image

写真:自民党執行部(2021年10月1日)

(自民党HPより)

 

自民党は長らく政権を担ってきた政党ですが、その性格やパワーの源についてはあまり知られておりません。

 

自民党は国防、生活、経済政策などで保守よりの政党ですが、単純に保守思想・政策で一丸となった組織ではありません。

 

それではこれから自民党の性質と強さについて語ります。

 

 

①派閥政治

 

自民党には結党以来派閥が存在しています。この派閥はニュースでも報じられます。どんな派閥があるかはWikipediaの「自由民主党の派閥」(https://ja.wikipedia.org/wiki/

%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E3%81%AE%E6%B4%BE%E9%96%A5)で詳しく記載されております。

2021年11月現在で有名な派閥は清和会(清和政策研究会)、志公会宏池会平成研究会(旧・田中派)があります。安倍晋三氏は清和会、麻生太郎氏は志公会岸田文雄氏は宏池会に属しております。

 

それでは自民党内での派閥はどんな組織でしょうか。

 

まず現状の派閥の機能は、自民党員の教育・指導、派閥内の政策・意見の統一、そして親睦会の機能を有しております。党に入って日の浅い新人党員に党での活動や議員としての活動の仕方を指導するのは派閥の先輩党員です。派閥に属する党員の相談を受け付ける機能があります。政策決定では派閥内で意見を統一するという機能があります。また派閥内での党員の交流も親密であり、国会では同じ派閥の党員と交友関係が築かれ、派閥での交流イベントもあります。

この事から今の自民党の若手議員・党員は派閥に所属することが多いのです。

 

また派閥のうち清和会は自民党内でも政策的により右派的で、それに同調する議員や党員が清和会に属することが多いです。

そのため一部の派閥ではより右派のイデオロギーに共感するもの同士の集合として機能しているのです。

 

これは2021年時点での派閥の実態ですが、本来の派閥はどんな機能を持っていたのでしょう。

 

元々自民党の派閥の機能は4つありました。

(1)所属するメンバーの政治活動資金の融通

(2)内閣や党幹部の人事上の派閥間調整

(3)党内の意思決定上での派閥代表の送り込み

(4)中選挙区選挙での同士討ちの回避

 

元々自民党は2つの異なる政党から成り立ち、それぞれの党出身の党員を自民党内で円滑にまとめるために上の役目を持つ派閥が出来たのです。

 

(1)は政治活動資金という金銭面の話です。政治活動では事務所代や人件費、広告費など沢山の費用がかかります。選挙では選挙活動でより費用がかかります。その費用を提供するのは派閥の代表でした。派閥の代表はメンバーを金銭的にサポートし、中には毎年夏と冬にそれぞれ数百万円の「小遣い」を与える場合もありました。

 

(2)は内閣や党内の人事の話です。自民党政権下では自民党総裁が総理大臣につくことが慣習です。

総理大臣は行政のトップの内閣の代表で、総理大臣が各省大臣を指名します。では総理大臣かつ自民党総裁はどのようにして大臣を選ぶのでしょう?

かつては自民党内の各派閥から満遍なく採用したのです。これは十数ものの大臣の椅子に派閥枠があるようなものです。これは自民党内の幹部組織でも同じで、各派閥から幹部を採用しました。これにより党員間での人事争いが熾烈になることを避けているのです。

しかしここ数十年は同じ派閥のみで組閣や幹部人事を決めたりまたは無派閥議員を登用したりと、必ず派閥間調整がなされるわけではありません。

 

(3)は自民党全体の意思決定の話です。自民党は派閥の力が強大で総裁を含む党幹部の発言力は弱いものでした。そのため党の意思決定は派閥間合議により定める必要性がありました。各派閥の代表が閣僚会議などで合議を行い、それが自民党の意思となったのです。自民党の保守的な部分がにじみ出ております。

しかし橋本~小泉政権での内閣の機能の強化や党組織の強化により、いまは以前に比べて派閥がものを言う状況ではありません。

 

(4)は議員選挙の話です。今とは異なり昔の国政選挙は一つの選挙区から2人以上の議員が選ばれておりました(中選挙区制)。そうなると一つの選挙区に複数の党員を候補者として送り込む事が選挙にとって有利となります。

しかしこれは同じ自民党員が激しい同士討ちをする可能性がありました。そのためそれを回避するため実際には派閥間で話し合い出馬する候補者を調整しておりました

 

ご覧のような4つの機能を自民党の派閥は有しておりました。しかしこれらの機能は収賄の横行や金権政治の防止のための1993年の選挙制度改革や、橋本~小泉総裁による官邸や党組織の強権化という党内改革により喪失いたしました。

しかし、このかつての自民党の派閥の性質は現在の自民党の党員から語られることも少なくなく、今でもそれを希求する党員もおります。このかつての自民党の派閥の性格を把握することは政治のニュースを理解するための助力になるかもしれません。

 

 

②党地方組織と後援会

 

選挙の時のメディアや学者などによる分析でよく言われることは、「自民党は地方に強い」ということです。

 

それは各選挙区から選ばれた議員の所属政党を見れば一目瞭然です。地方部では自民党の議員が選ばれている事が多くなっております。一方で大都市などでは立憲民主党などの革新派政党や無所属の議員が多くなります。

2021年の衆院選挙でもこの傾向は現れました。(https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/shugiin/2021/)

 

これは自民党保守的な政策を支持する保守層が比較的地方に多いことも理由に上げられます。ただ、それだけではなく自民党が地方の党都道府県連合会を通じて、地方の名士と呼ばれる人物を積極的に党員に迎え入れてきたことも理由となっています。

 

都道府県連は自民党の下部組織であり、地方機関であります。そのため一見すると地方は党本部から見て立場は下のように思われます。しかし実際には都道府県連は地方の代議士の事務所・後援会と同居している例が少なくなく、その代議士が地方の名士であることは珍しくはありません。

 

地方の名士というのは地方議会の代議士であったり、地方の有力企業のオーナー医師や弁護士など地域での生活に密接に関わる事が多いです。安倍晋三氏は代々山口県下関市を地盤とする国政議員の家系で、岸信介元首相と安倍晋太郎元議員を祖父・父に持ちます。

麻生太郎氏は福岡県筑豊で鉱山やセメント業を経営してきた家の家系に属し、現在もその家族は会社の経営を行っております。

 

こうしたことから地方の名士は地元での支持を集めやすく、選挙の候補者となれば圧倒的な集票力を持つのです。故に地方の名士が議員となるときの後援会は盤石で有力な組織となります。自民党都道府県連を通してこの後援会の協力を仰ぎ揺るぎない得票力を得ているのです。中には後援会が都道府県連の人員と一致する場合もあります。

 

これは自民党の生命線と言ってよい部分です。かつて自民党は2回の下野を経験しましたが、その時でも地方組織が強い地区では手堅い勝利を得ました。

自民党は揺るぎない地方組織のパワーにより逆境で踏ん張れるレジリエンスを持ちます。故に自民党の強さは与党であるときよりも、野党となった時に発揮されるといえるでしょう。

 

 

公明党との連立

 

現在自民党公明党連立政権を組んでいます。これは1999年から始まり、野党時代も連立しておりました。なお連立とは二つ以上の政党が政策を一致して立案する状況を差します。自民党公明党は選挙ではお互いの党の候補者を推薦したりと選挙対策では一体となり動いております。

 

では、自民党はなぜ20年以上も公明党と連立政権を結んでいるのでしょうか。

 

まず最大の理由は公明党の都市部の固定票を利用することでした。

自民党は地方に強い政党ですが、都市部では左派政党や無所属候補者相手に苦戦しております。都市部は人口の流動が激しく、地縁の強い人が比較的少ないからです。

 

一方で公明党は都市部である程度固定票があります。それは公明党の元々の設立母体であり、第一の支持母体である宗教団体・創価学会の信者が都市部に多数いるからです。

創価学会は日本で最大級クラスの新興宗教団体ですが、創価学会は高度経済成長期に地方部から大都市に移り住んだ人々を中心に信者を大幅に増やしました。そのため創価学会の信者は大都市に集中しているのです。故に公明党は都市部に強いのです。

 

その公明党自民党の関係ですが、長年野党であった公明党は与党・自民党とは対立関係ではあったものの、政策によっては自民党と連携することがありました。

1972年の日中国交正常化では、決定的な場面では田中角栄氏ら自民党が中心に動きましたが、そこまでの中国政府との交渉や下準備、段取りは中国とのコネクションを持つ公明党創価学会が積極的に活動しました。

また公明党創価学会関連や市民生活、対中政策以外の政策では特に強いこだわりはなく、そのときの状況で姿勢を変えておりました。

このような付かず離れずの関係を続けてきた自民・公明はお互いの不得手の部分を補完しあうために連立するには手放せない相手でした。

 

そして現在では自民・公明で政策を決定し実行する体制が確立し、両党にとって分かちがたい関係が築かれております。

民主党政権時代はこの二党は共に野党でした。ただその時点で連立から10年近く立ち、連立のノウハウの確立や利害調整、両党のそれぞれ支持者からの信頼もあり、連立は続けられました。

そしてそれは今日でも続き、自公連立政権は一つの政党のように機能しているのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

今回は自民党の解説でした。この記事はニュースや書籍を参考に記させていただきました。

自民党はこれまで長い期間国政与党の地位を保ってきた党です。自民党の支持者、非支持者どちらからもよく知られる政党です。自民党に関するニュースや評論は各所より沢山出ております。

 

その上でこの記事は自分の主観や意見を排し、客観的な情報をまとめたつもりです。そしてWikipediaやネットニュースで分かることは説明を省略し、それだけを見ても分からない所を強調して書きました。それも子細を記すよりは短めの記述でとどまるようにまとめました。

もっと自民党や政界について知りたい人はネットや書籍で調べられることをおすすめいたします。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年12月5日