ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】「日本教徒」イザヤ・ベンダサン&山本七平


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こんにちは、ずばあんです。

 

本日は読書感想で「日本教」(1976年)を紹介します。

 

著者はイザヤ・ベンダサンという神戸生まれの外国人で、訳は山本七平と本書で紹介されております。

 

日本教徒」では日本人の宗教観や精神性を「日本教」として説明します。

日本教とは著者のイザヤ・ベンダサンが分析し発見した、罪科血統主義自然主義の考えを下敷きにした日本人の信念のことです。いわばキリスト教イスラム教の信者が一神教の教えで満たしている精神部分に、日本人が埋めているものです。

 

この日本教は今から400年前の日本人である不干斎ハビアン(ふかんさいはびあん)〈1565-1621〉という人物の著作や遍歴から分析されました。ハビアンは若い頃にキリスト教徒となり、キリスト教を賛美しその他の儒教・仏教・神道を批判する著作を出しました。しかし40代の頃にハビアンはキリスト教を棄教し、一転キリスト教を批判し始めます。そしてその後はその他の宗教に帰依せずハビアンは生涯を終えます。

このハビアンの宗教的態度の変化の理由とその本質についてベンダサンはハビアンの「天草本平家物語」「妙貞問答」「破提宇子(はデウス)」の三著作などから分析しました。

 

それらが詳しく語られるのがこの「日本教徒」です。日本教とは一体何のことで、その信者は何を考え、それらがハビアンをどのように動かしたのでしょうか。

 

 

【内容】

 

まずはこの本の概略を説明してから、本書の内容を説明いたします。

 

この本はまず不干斎ハビアンの生涯を著作や宗旨、思想を紹介しつつ語ります。

続いてハビアンの著作「天草本平家物語」の登場人物の動きから、「施恩」の考えを下敷きに「」「」「世捨て」「謀叛」の思想を語ります。それとハビアンが述べた「十戒」(「モーセ十戒」とは異なります)と併せて、ハビアンの勝者/敗者観を語ります。

そこからハビアンの著作「破提宇子(はデウス)」からハビアンがキリスト教を棄教した理由としての「日本教自然法」の考えを述べます。

さらにキリスト教日本教での「殉教」と「告白」の考えの相違についてハビアンの著作の引用とともに語られます。

そしてハビアンがキリスト教をも捨てた後の宗教的態度について、それと類似する貝原益軒の「大和俗訓」を引用し語られ本書は〆られます。

 

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不干斎ハビアン禅宗の僧から母とともにクリスチャンに転身しました、クリスチャン時代のハビアンは「天草本平家物語」「妙貞問答」などの著作でキリスト教の賛美や日本古来の神道儒教・仏教を非難をしました。また林羅山などの儒学者と問答を受ける経験もしました。しかし後にハビアンはキリスト教を棄教します。その後はキリスト教弾圧に手を貸し、「破提宇子(はデウス)」ではキリスト教を批判いたしました。

 

このハビアンの宗旨の変化の理由についてベンダサンは「天草本平家物語」「妙貞問答」そして「破提宇子」から読み解きます。

なおベンダサンのハビアン分析は、日本人は物事の本質について具体的言葉に表さず、変わりに「○○ではない」という消去法で本質を表すという特徴のもとなされます。そしてハビアンの信仰態度は、自身の思っていることを宗旨に代弁させるという「グノーシス現象」であるとしました。

 

 

草本平家物語」から次のエピソードが引用されます。

平家の平清盛に寵愛された白拍子(歌舞芸人)・妓王(ぎおう)が、清盛を訪ねた白拍子・仏御前(ほとけごぜん)が門前払いにされるのを引き留めます。そこで清盛に舞を披露した仏御前は気に入られます。そして仏御前は恩のある妓王について声をかけてくれるように清盛に尋ねました。しかし仏御前に心移りした清盛は妓王を追放しました。妓王は忸怩たる思いで清盛から去り母と妹と出家します。

 

この妓王の話からベンダサンは「」の考えから日本人の関係性に恩を施す&受ける関係として「施恩/受恩」の関係性を見ました。それには人々は恩を受けたという「債務」を自覚しなくてはならず、施恩した側はそれを権利として認識してはならないとしました。

それにもかかわらず施恩をした側が受恩した側に見返りや代償を求め、誰かを不幸にすることを「」としました。また恩を拒むことを主張して誰かを不幸にすることを「」と呼びました。

平家物語について清盛が恩を売った過去を権利の主張の根拠としたことを「」としました。そして、妓王が清盛の恩着せがましさを指摘してそれで誰かに迷惑をかけるのを危惧することを「」としました。

 

日本人は罪科の感情から契約の概念を身に付けられませんでしたが、一方で「世捨て」という身分の転身は可能でした。ヨーロッパや中東では近代まで厳格な階級制度が続き、それらとは対照的でした。

平家物語では妓王は近江国の農家出身でそこから舞踊芸人となり権力者清盛の愛人になり、さらに出家して宗教人となります。この身分を越える度重なる転身は日本独特の「世捨て」を表します。

そんな浮動的な身分に対して日本人が帰属意識の根拠としたのが「血縁」でした。日本では絶対的な契約や身分がない代わりに「血縁」が絶対のものとされたのです。

 

さらにベンダサンは「謀叛」の話をします。平家物語の終盤の源頼朝源義経を「謀叛」を理由に暗殺するストーリーを引用します。

頼朝が義経を「謀叛人」と見なした理由は諸説ありますが、それは義経血縁を無視し裏切り先程の「」や「」に触れたからと述べられます。

かたや義経の例と異なり、豊臣秀吉明智光秀への謀叛は、光秀の織田信長への罪科たる謀叛を世を代表して断罪するものとして好意的にとられたと述べられます。

 

続いてベンダサンは「ハビアン十戒」「破提宇子」を引用し、日本人には「自然」の思想があるとしました。「自然」とは手を加えられざる物事の道理で、それに従うものは成功し逆らうものは罰せられるとしました。自然には先程の「罪科」「血縁」の思想が含まれ。それを守り犠牲になることが望まれるべき「殉教」としました。かたやキリスト教の教えに則る殉教は自然の考えに触れるものとし、ハビアンは「自然を代表した謀叛」を理由にキリスト教を棄てたと語られます。

 

キリスト教にはイエス・キリストに対して自分の罪を告白する「コンヒサン」、その罪を深く懺悔する「コンチリサン」という考えがあります。この儀礼についてベンダサンは、ハビアンは日本の自然の世界においてキリスト教という「謀叛人」に帰依した「罪科」とキリスト教に対しては懺悔の念が無いことを告白したとしております。

 

またキリスト教には世界宗教としての使命が当初よりあり拡大主義をとってきたものの、少なからぬ衝突や惨禍を経て後世に行くに従い穏健な手法に落ち着いたとベンダサンは述べます。かたや日本的な自然の考えに基づく普遍主義は拡大や外部との衝突の経験がないまま進んできたとも述べられます。そのため日本ではキリスト教は事実上仏教的思想を排せずに信じられたとされます。

 

最後に、ハビアンが仏教神道儒教を棄てキリスト教をも棄てた先に信じたものを、ベンダサンは貝原益軒の「大和俗訓」を引用して語ります。「大和俗訓」は日常生活の礼儀作法について儒教の視点から指南するものです。

(終)

 

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ここまでがベンダサンの「日本教徒」の内容でした。

 

これは不寛斎ハビアンという人物の一生の遍歴の紹介ですが、それにより今と変わらない日本人一般の「信仰的態度」について説明しております。キリスト教の教えやその信者の態度と日本人の思想・信仰を対象比較することにより、日本人の中にあり日本人が自然培養した「日本教」そして「日本教」の本質を明らかにしているのです。

 

そして「日本教」はその後のベンダサンと山本七平の著作に出てくるキーワードとなり、その中での日本人論の根拠とされました。山本と対談した小室直樹の著作でもそれは引用されております。

 

 

なおこの本の著者であるベンダサンですが、実はこの本の編者の山本七平のことです。つまりこの本は山本七平の著作なのです。ベンダサンは「日本人とユダヤ人」の著者として初めて世に名前が出されますが、その姿を世に出したことはありませんでした

後に山本は、ベンダサンは自身のことであると明かしました。そして初出の「日本人とユダヤ人」については、実際は山本と複数人の外国人の会話から生まれたと述べております。

 

 

【感想】

 

この著作は日本人が本当は宗教信仰をどのように考えているのか、そしてそれにより何が起こるのかを表しております。

そしてそれは日本人である私自身の自己分析でもあると思いました。私にはある一定の宗教的思想がありますが、それが客観的に見てどんなものなのかを確かめるには有力なものがあると感じました。

 

ここでは私や周りの人々が宗教を語るときの場面を用いながら、本書の感想を述べます。

 

 

①宗教や信仰は「素晴らしい」のか

 

本書に出てくるハビアンは禅宗門徒からクリスチャンに転向し、クリスチャンである時期にはキリスト教を「素晴らしいもの」として信仰しておりました。かたや従来の日本での神道や仏教、儒教を非難しました。それは「妙貞問答」などの著作でも記されております。

 

しかしハビアンは一転してキリスト教を棄教すると、「破提宇子」などでキリスト教を非難し激しい批判をします。その理由はキリスト教がハビアンの「自然の理」に従う生き方や血族を守らずむしろ犠牲を強いてきたからというのは先程述べた通りです。

これによりキリスト教はハビアンにとって「素晴らしいもの」ではなくなったのです。

 

すなわちハビアンや日本人にとって宗教や信仰は「素晴らしい」ものという前提があるのです。そのため素晴らしくなくなった時からそれは宗教や信仰ではなくなるのです。

 

これはキリスト教圏やイスラム教圏での宗教の考えとは異なります。それらの信仰の強い地域では宗教とは始めから生活や社会全体にあるものであり、素晴らしい素晴らしくないで信仰を選べるものではないのです。

近年ヨーロッパを中心に神や宗教を否定する無神論者の割合が増えております。それは神や宗教が覆い尽くす世界からの脱出を企図したものです。そのためその地域の無神論者はキリスト教に対してどうしても全力で対抗する姿勢になるのです。そして無神論者の転向理由も「素晴らしい生き方をしたい」というよりは「自分が納得のいく苦楽を背負いたい」という覚悟によるものです。

 

 

「素晴らしい」ものを選びとる日本人の信仰態度ですが、私はその宗教的態度について疑問を覚えるところがあります。

 

日本教における「宗教」あるいは「信仰の自由」というものは、現世で苦しいことが少なく幸せの方が多い生き方をすること、あるいはそちらに流れることとされます。そして、そこには大いなる不幸や不平不満などそれに背くものはあってはならないという考えが暗に含まれます。

 

しかし現実の世界には止めどなく襲う不幸や理不尽は多くあり、それを何でも解決することは出来ません。コロナ禍のような病気や戦争、環境汚染など人間に善悪の分なく襲う不幸はあまたあります。それを素晴らしいということや自然にありがたがることは難しいです。どんなに擁護しても擁護できないものです。

 

とはいえそんな世界に直面せず逃げ回りすぎても人々は不幸から離れたと勘違いするだけです。本当は不幸な世界に直面し、適切な対策や処置が必要なのです。その覚悟が本来の「宗教」であり、人々が直面すべき精神次元であると思います。

信仰の自由も、自分の心の中のその次元に直面し個々人の生き方を決定することを誰にでもどんなものでも許すことであると思います。

 

したがって日本教や宗教の話は「素晴らしいお考え」を選びとる次元の話ではなく、グロテスクで陰惨なものを誤魔化さず受け止めるところの話なのです。

 

 

②「日本教」の意義は?

 

日本教とは、日本人の処世術的・現世利益的な宗教観に対してベンダサン(山本七平)が示した、日本人の心の奥深いところにある心理を表した概念です。

 

私はこの日本教を「日本人が背負った原罪の一側面」と考えております。

原罪」とはキリスト教での概念であり、人間が人間として生まれたときに当初より持っている罪とされます。人間は原罪により悪や罪を成すものであり、それを贖い善い人間になることがキリスト教を信じる意義であるとされます。

私は日本人でクリスチャンではありませんが、この原罪というものが私の中に無いとは言い切れないのです。

 

これまで生きてきた中で自分の潔白無罪を信じられなかった場面は数多くありますが、その理由はいわゆる原罪にあると思いました。

「自分は人の見えるところで罪は犯さなかったが、真実の善に対しては罪を犯したかもしれない」「不幸に遭うのは真実の善に背いたからであり、不幸は自分の悪の証明だ」「幸せになるには真実の善と悪を見極め従わなくてはならない」「真実の善が分からない内は見捨てられて当然だ」

そんな考えが度々思い浮かびました。これは本来の原罪とは異なりますが、日本人の精神の構造においてキリスト教の精神の構造の「原罪」の部分に相当するものであると思います。

 

この日本教は日本人が処世術的・現世利益的な物のみを宗教と呼び、それで誤魔化したの部分であると私は考えます。

私もこの部分を誤魔化してきた自覚はあり、それにより自分の心の健康や社会的生活を破壊してきた部分があると思います。ただ自分が傷つくだけならともかく、苦しむ人を救えなかったり見捨ててしまったりという弱さに繋がったと思います。

 

とはいえこれをすぐに消せるものではないと思います。日本教は日本の温帯湿潤気候や変化に富む季節などの風土の影響を受けており、個人の意識で消せるものではないのです。

そのため日本教は日本人に残された「試練」や「原罪」の権化であると私は考えます。ブログ記事「因果応報と予定説」で述べましたが、日本人は包摂し守られるだけではなく放埒に人生を破壊され見捨てられている現状があるのです。それを自己防衛や共助により守るにせよ、脅威として認識し対策をとるべきものとして常々考えなくてはならないと私は思います。

 

 

③処世術と宗教の違い

 

先程私は処世術や現世利益的なもののみを宗教と呼ぶことを批判しました。しかしそれは処世術や現世利益的なものを得ることを批判しているのではありません。むしろそれはそれで無くてはならないものなのです。

 

この本の最後で紹介された貝原益軒の「大和俗訓」は日常生活の作法や礼儀、精神の具体的方法を示す著作です。これは儒教の視点から書いたものです。儒教とは中国で誕生したもので、円滑な社会生活の送り方について具体的形式的な方法を示したものです。日本でも古代に流入し今なお日本人の生活に影響を与えております。「大和俗訓」も現実の生活が上手くいくための具体的な知恵を授けるものなのです。

 

それでは、最早それ以外のことを考えなくていいのかというとそれもまた問題があると思われます。人間の心の奥深い部分で流れる感情は時に大きなうねりを見せます。それは体調不良や精神疾患、社会生活の不全という形で現れるのです。

どんなに日常生活を綺麗に取り繕っても、最後に残り続ける不幸脅威はあるものです。それを誤魔化せば誤魔化すほど不幸は増大化します。それに目を向ける営みが宗教なのです。

 

しかし、そこで処世術と宗教的営みがバッティングすることがあります。それはお互いがそれぞれの領分を侵略しようとしているからです。宗教は現実生活に食い込もうとしますし、処世術は精神の奥深い所に入り込もうとするのです。

それぞれ自然に任せて勝ったところを接収するのが日本人的には聞こえがいいですが、衝突する時点でもう「詰み」なのです。

 

私が思うに上のような衝突を避けるためにまずは処世術の方が先立ち、それで解決できない部分は宗教的な営みで解決するのが一番と思いました。これはハビアンの晩年の生活とまだクリスチャンだった頃とを両立させたものです。

 

日本と中東、ヨーロッパの風土を鑑みるに、キリスト教イスラム教をそのまま処世術として持ち込むのは難しいと思われます。しかし日本人の生活が近代化して初めて噴出した問題に対応するために学ぶべき概念は少なからずあると思います。キリシタン文学で有名な遠藤周作の著作にはこうした相克に立たされる日本人の姿が描かれ、現代日本人の心の闇や現実の生活が細かく記されます。

 

そのため生活を優先しつつ人生をも大切にする生き方がどの人にも大切であると思いました。

 

 

【おしまいに】

 

私が初めて「日本教」という言葉を見たのは山本七平小室直樹の「日本教社会学」(1981)を読んだときでした。

その時の感想はすでに記事にしましたが、今回はこの「日本教」について遡って調べようと思いこの本を読みました。

 

日本教」についての考えについて私は述べて参りましたが、私は「日本教」を敵視しているわけでも諸悪の根元と言いたいわけではありません。私の中にもある日本人の心というものを分析する上で避けがたいもの、絶対に逃げてはいけないもの、それが私にとっての「日本教」なのです。

 

そこから逃げた先には、「自分が信じているものが汚いなんてあり得ない」「自分が汚い存在なんてあり得ない」「自分が反省するいわれはない」という倒錯が待っております。

かつてオウム真理教の各種事件がありました。オウムは仏教などの各宗教の良いところだけを集めそこに教祖・松本智津夫麻原彰晃)への個人崇拝を織り混ぜ、見かけ上「素晴らしい宗教」に仕立てたものでした。

オウムには高学歴の学生を含め多くの人々が入信しましたが、その人々の奥底には「日本教」の呪いがあったのではと思います。

ハビアンの場合は世界宗教の歴史を持つキリスト教でしたが、それを求めた心はオウム信者の例と変わらないと思います。それゆえにオウムにより後悔させられた信者が不憫に思われるのです。

 

私はそうした「カルト宗教」には物心ついてサリン事件を知ってからはずっと警戒してきました。ですがそれを渇望する精神が全く無かったわけではなく、それを埋めるために今まで苦労してきました。「日本教」は私の中にもありますし、それを無視して自分や身を滅ぼしたくないと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2022年2月13日