みなさまこんにちは。 ずばあんです。
本日は「技術」について話します。
技術といいますと資格や専門分野、教育などと関連付けられ、自分の進路や人生設計と深く関わりのある話のように思えます。
プログラミングの資格や簿記の資格、英語の能力判定や検定など大学生活や就職活動の時期にはそうした技術について強く意識しました。自動車の運転免許は言わずもがなです。
もちろんそれらを獲得するには勉強や訓練が不可欠です。そのために学校や教育課程、はたまた教材や勉強法指導法が開かれ開発されております。しかし残念ながらその甲斐もなく資格取得や能力向上が叶わないパターンがあります。私ずばあんもその例をいくらでも枚挙できます。
ではどうして上手く行かなかったのでしょうか。何が技術取得を妨げるのでしょうか。
今回はこの課題について、「技術と芸の違い」という論点で語らせていただきます。
【どこでも通用する「技術」】
まずは「技術」について語っていきます。技術は客観的に示すことの出来るものです。「言葉では言い表せない」ということはなく、言葉なりなんなり形として表現出来て、それ故に伝授や教育が可能で、再現可能性をもつもの、それが「技術」です。
そこには個性による差は無いはずであり、真面目に勉強や訓練をやれば習得が可能なものなのです。いつでも誰もが同じようにプログラムを実行すれば同じように再現できます。
それが出来ないのであれば、その者が勉強や訓練を十分に行えていないからなのです。決して技術やプログラムそのものの欠陥ではないのです。
自動車教習所の教育や訓練をしっかり受け習得すれば、誰もが安全に車の運転は出来るようになります。それが出来ない時は本人の教育態度の問題であり、または本人の能力の偏りに問題が存在しているのです。
健全な社会の営みにも同じことが言え、社会性と呼ばれるものはひとつの技術であると言えます。礼儀作法、道徳倫理、文化教養、そうしたものは社会の構成員としてやっていく為の万人に対して教えられる技術です。もしそれが欠如しているならば、それは本人がその教育を受けてないことが問題なのです。
【天才しか持ちえない「芸」】
さて、技術とよく似た言葉に「芸」というものがあります。「芸」というと、工芸や芸術、芸能、芸当という言葉に入っております。それらを見て芸と技が同じようなものと考える人は少なくありません。
しかしながら「芸」というものは、その人の持ち合わせた天性というニュアンスがあります。人それぞれ個性がありますが、芸は個性に強く紐付けられ、他人に伝達・伝授できないものなのです。そのため、ある優れたどの人より抜きん出でている「芸」を持つものは天才なのです。
芸というのは本来教育が不可能なものです。そのため芸を引き出すためのトレーニングは実際は教育ではなく選別なのです。
例えば俳優などのオーディションは、沢山の人数を集め厳しい審査を経てそこから優れた逸材が選び出されます。
そんなことをするのは優れた芸は教育ではなく選別によってのみ見つけられるからです。
そして芸は再現不可能なものです。教育出来ないので当たり前です。そのため芸を持つ天才はそれ故に手厚く大切にされ、芸が光り続ける限り使い倒されるのです。
芸能人の仕事は日夜多忙を極め、大量の人員や物が芸を支え生かすために動員されます。これも芸が天才のみが持ち合わせるものだからです。スタッフに代役はいても各芸能人には代役はいないのです。
そのため、芸を極めようと志した人間が自分にその天才性が乏しいことを理解したとき、もうその芸の道を諦めるほか退路は無いのです。
【芸術教育なるおかしなモノ】
ここから最初に提示した「技術教育」が不振となる理由について主張します。
技術は教育を施せば伝授されるものであり、それが上手く行かないのは教育の実施の仕方が誤っているのです。すなわち伝えた内容に誤りがあったり、理解を誤ったりするところに技術教育の不振の原因があるのです。
そこから考えると技術習得が上手くいかないのは教育をやっていないからという所に繋がります。
教育をやってないといいますと、私が「天才しか持ちえない「芸」」の章で語ったことが思い出されます。芸のトレーニングは教育ではなく選別であると。
すなわち技術習得の勉強や訓練をしているつもりが、実は「芸」の選別のためのオーディションにかけられていたという可能性です。
このように、技術を伝授するように標榜しながらも実際は芸を社会のある一定の範囲で選別しているプログラムを、仮に「芸術教育」といたしましょう。
この芸術教育では、目標が奇才レベルの「超人芸」を習得することとされます。教育されるものはひたすらそのレベルに到達するまで時間や体力といったリソースを割かれます。そしてこの「教育」プログラムを経て選別された者は芸のある天才とそうでない凡才に分かれます。
凡才の場合もう芸術教育のもとで教育機会はゼロなので芸術教育から離脱、すなわち芸を諦めることとなります。
天才の場合はさらに絶え間なき競争に放り込まれ、芸の度合いを競い合います。そこでも脱落者がおり凡才と同じ道をたどるのです。
ここには教育もなく理由もありません。強いて言えば物言わぬ何物かがあらかじめ根源的なところで定めたものがあるのみです。何物かがひたすら存在だけをやかましく主張するものがあるのです。
これが芸術教育の実態とそこに潜む真の悪魔の正体なのです。
【教育なき日本は芸と共に死す?!】
いきなり仰々しいサブタイトルですが、ここからは著作「日本はなぜ敗れるのか-敗因21か条」(山本七平‚ 1975)からの引用が主となります。
この著作は太平洋戦争でフィリピンに派兵されたのち米軍の捕虜となった小松真一氏の当時の書記「虜人日記」の記述を元に、著者の山本七平が太平洋戦争で敗れた旧日本軍や日本社会の問題点を分析し記したものです。
その中で日本における芸と技術の問題が語られております。
まず本書において、日本軍の敗因として作戦の計画を「芸」や「天才」に依存したせいであると述べております。当時の日本軍の中には作戦遂行における物量の不足を天才による芸によりカバーできるという自信がありました。それは日本軍始まって以来の大勝利である日露戦争 (1904)での戦勝により肥大化したといわれております。
そして日中戦争(1937)から長い戦争が始まると、例のごとく天才を戦地に送り込みました。そして天才は戦地で文字通り使い潰され、優秀な人間は日本軍からいなくなりました。そして元より物量不足であった日本軍はその弱さが露呈し、それを連合諸国に突かれ敗北したといわれております。
また本書では「天才を教育すればもっと優れた兵士になる」という迷信についても論破しております。
芸のある天才がその能力を発揮するには物量が不足しているなど限定された条件が必要です。何か状況が変わると芸は壊れてしまいます。たとえそれが教育という状況であろうともです。
しかし日本人は芸を技術と勘違いをしてしまい、芸を技術教育しようとするチグハグなことを行ってきていると述べております。
ここまでが「日本はなぜ敗れるのか」の内容でした。
このように芸や天才に依存し教育観もそれに冒され、しまいには敗北した日本の姿が見えております。
そしてそれは今の日本にもまだあるのではないかと思われます。
今の日本ではいまだに芸を教育出来るものという勘違いがはびこり、芸や天才に頼りきる社会像を理想とする思想が少なからず見られます。そこには誰もが習得出来る技術を教育する考えや天才がおらずとも社会を回す思想がありません。
近年の日本を神聖視する言論でもこのきらいがあります。天才の出現を持て囃し、それ以外のものを穢れとして切り捨てるような傾向が見られます。教育すらも穢れとして切り捨てられているのではないのでしょうか。
そして天才は環境に依存します。芸は本人の個性と環境が結び付いて出現するものです。いかなる場面でも天才だという人はいませんし、いかなる場面でも通用する芸は無いのです。
それに気付いた人は天才が力を発揮できない環境の変化を誤りだとし、必死に天才のために環境を変えない努力にコストが割かれるのです。
天才を守るためか、あるいは自分や誰かが天才になるためか分かりませんが、日本で悪い意味で守旧的と称される人はこのような人達なのでしょう。
【凡人の私たちはどうする?】
ここで凡人の生き方について述べて〆とさせていただきます。
凡人とは芸に秀でていない天才ではない人達です。私もその一人だと思います。
私たち凡人は天才にはなれないので、芸ではなく技術を学ぶ必要があります。そのための教育が必要です。しかしながら先ほど申し上げたとおり「技術教育」の振りをした「芸術教育」が日本にはいまだあります。
その芸術教育で成果が見いだされない時には、すぐに技術教育に移る必要があると思います。
技術は必要な教練をこなせば誰でも習得できます。ですが芸は選ばれねばそこで終了です。長い人生において芸ばかりを追求して損失を出すことになればそれはもったいないことです。そのためまずは若い時には技術を追求してから、それから余裕が生まれれば芸術を追求する機会を経ても遅くはないと思われます。
【おしまいに】
天才の条件が何なのかは自分が天才にならない限りは分からないと思います。
何故か分からないけど天才になった。何故か分からないが凡才だったようだ。そこには教訓や教育的アプローチはなく、宝くじに当たるのと変わらないものがあると思います。
私が述べた「芸術教育」も教育ではなく博打でしかないと思います。柳の下のどじょうとはこの事です。
だからまずは「技術」が何かを意識して勉強しなくてはならないと思います。技術は芸のように天才の個性に依存するものでは無いのです。誰もが同じようにやれば同じような成果が出るものです。それを思えば技術を得るための勉強や教練をする上で気が楽になるかもしれません。
それでは最後までありがとうございました。
2022年5月18日