ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

毎年被爆者祈念する意味とは

    こんにちは、ずばあんです。

 

    広島・長崎への原爆投下から77年経ち、第2次世界大戦が終戦してからも77年経とうとしております。毎年平和記念式典が開かれ、学校では平和学習が行われております。私も小中高と長崎で生活しておりましたので、原爆投下の日の8月9日は毎年登校し集会を行い、学習資料や訓話を見聞きし、投下時間の11時2分には黙祷をしました。小学校の時には校内の原爆の慰霊碑に線香や献花を捧げていた覚えがあります。

 

    正直に言いますと、学校の登校日は既に学校予定に組み込まれているから行っているのであり、特に自分から被爆者を祈念する意図はありませんでした。その証拠に私が他県で暮らしていた時期は平和祈念の式典や行事に参加することはなく、8月9日には普通の日常を過ごし1日が過ぎておりました。

 

    まず広島や長崎以外の多くの人にとって原爆投下や被爆というのはいわゆるどこかで起きた可哀想な出来事であり、自分達の生活や人間関係とはほとんど影響の無いことなのです。もし広島・長崎の事が関心の種に上がるとすれば、核開発や核戦争の脅威のアイコンとなる時くらいです。

 

    しかし、私が会った人の中には、平和を祈念することを胡散臭く思う人もおりました。その人にとっては被爆者ではない人や世代が、平和運動をすることが胡散臭く、金のためにやっていると思っているそうです。その人は福岡県出身で、親族に東京大空襲の犠牲者の遺族がおり、その犠牲者の親族の慰霊に毎年付き合っているそうです。

 

    私はそれ以来自分が長崎時代に被爆者祈念の行事に参加し、そして大学進学で長崎を離れ特に何か祈念らしいことをしてないのを気にし始めました。私が生まれた故郷で物心つかないことから当たり前のようにやってきて、故郷を離れて自然とやらなくなったことは胡散臭く汚ないのか、と私は自分の人生が汚れ滑稽なものに思ったのです。

 

    しかしながら、この被爆者の祈念という行為について「私にとって」どういう意味があるかを考えたときに、長崎原爆投下の犠牲者の慰霊、世界平和や核の脅威の撲滅のシンボル、としての意味以外にあるのではと思いました。

 

    ではそれが何かを大きく分けて2つ上げます。

 

①原爆により殺された自分の家族や友人への慰霊

 

    実は私は長崎での原爆により曾祖父が原爆症になり、原爆から数十年後に病死しております。私は1990年代前半生まれで、曾祖父の死から何十年か後に生まれ、曾祖父の姿は見たことはありません。

    しかしながら私の親の世代や祖母の世代ではその曾祖父のことを覚えている親戚がおり、曾祖父の人となりやその出来事を聞く機会は少なからずありました。曾祖父を見たことはなくとも曾祖父の人生は私の親戚を通じて感じ取れるのです。

    毎年お盆には曾祖父も入る私の一族の墓のお墓参りをし御霊を供養します。私の生に関わっている一族ですので、これは私の人生にとって欠かせないイベントです。

    そんな一族の一人が原爆により病魔に飲まれ亡くなったことは私の人生が傷つけられているのと同じです。放っておけば沈黙の暴力に呑まれつぶれるだけです。そのため、原爆による理不尽による被爆者のそしてその遺族の人生の痛みを供養するために、このイベントがあるのです。

 

    また、私の家族のみならず「会えなかった友人」の供養でもあるのです。原爆では長崎の場合、 当時の人口の24万人のうち7万人の市民が原爆により命を落としました。凄まじい被害であるとこの数字から分かります。ではもしこの人たちが原爆で殺されず生きてたら、その子孫も当然生きてたはずです。この時亡くなった若者の3・4代ほど後が私達の世代ですので、生まれるはずだった我々の世代の少なからぬ数が消えているのです。この事は、高校の部活の先輩が原爆について話していたときに出てきたことです。

 

    被爆者の慰霊をする時に慰めているのは、間違いなく私の家族であった祖先と、もしかしたら友達として現世で会えたかもしれない人なのです。   

 

    ②わが郷土の歴史を大事にするため

   

    皆様それぞれのお住まいのところや故郷には郷土史があるはずです。「~年、○○町町制施行」「~年、○○自動車道開通」「~年、○○水害発生」など、歴代の様々な出来事が口伝えまたは形に残るもの(石碑や書籍)で残っているはずです。その土地で長く過ごしていると伝え聞かれる話はあります。

 

    特に災害関連では様々な言い伝えや祈念碑が遺されている例は多く、犠牲者を悼む式典も長らく行われる例も多いです。第2次大戦の戦災の場合も空襲が激しかったりした地域では今もその関連の歴史的資料や祈念式典が執り行われることが多いです。

 

    広島や長崎の例もそれに漏れず、広島の原爆ドームなど地域の歴史をありのまま残しております。被爆者祈念もその一つであり、広島や長崎の長い歴史の1シーンを忘れないための営みなのです。これは平和活動や核廃絶運動という政治的な活動と結びつけられておりますが、私からすればよその地域のどんたくやだんじりという祭りと本質的に変わらないと思っております。

 

    長崎は室町時代まで小さな漁村だったのが、1570年頃に大村藩の外港として開かれて以来港町としての歴史を歩んできました。鎖国下の唯一の貿易港や明治期からの工業都市としての開発、さらに観光都市として発展していく歴史を歩んできました。その歴史の途中での出来事がこの原爆投下なのです。

 

    良いこともあれば良くないこともあったこの地域の郷土史を大切にするために、すなわち自分のアイデンティティを構築するものを守るためにこの出来事を忘れない営みは大切なのです。都合良く忘れてということは難しいのです。

 

    もちろんそれを忘れるという生き方を選ぶ権利もあり、それが出来る人もおります。しかし、私にはそれが出来なかったですし今後も難しいと思います。だから、公言するにせよ秘密にするにせよ、私は「これ」を持ちながら生きていくでしょう。

 

 

 

 

 

 

   ・・・ さて私は今後この被爆者の追悼というところに人生の礎を感じ拠り所としつつも、時に風当たりの強い所で居心地の悪さを感じることもあるでしょう。これは私がたまたま生まれた人生の、しかし掛け替えの無い捨てがたい人生の構成要素であると思っております。

 

    一部の人にとっては、それがどのようなアイコンやレッテルで認識されているかの方が大切であり、それが全てかもしれません。ただそれだと私の人生が壊れてしまいますので、適度にそちらと付き合いつつ自分の人生を作っている程度の被爆者の祈念はささやかながらしたいと思います。

 

    それでは今年も原爆の炎で傷ついた方々に慰めと慈しみの気持ちを捧げたいと思います。

 

    これまでもそしてこれからも原爆で焼かれた皆さまの人生がこの世界で生き続けますように・・・

 

   今回も最後までありがとうございました。

 

 

2022年8月9日

77回目の長崎原爆の日にて