ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

日本とカルト宗教

    こんにちは、ずばあんです。

 

    昨今有名になっております「カルト宗教」の話題ですが、とどまることを知りません。

 

    事の発端は安倍元首相銃殺事件(2022年7月8日)で犯人が統一教会への憎悪の念を犯行の理由として上げたことからです。これにより統一教会の過去の行為やその影響を受けた人の声、それに対し国家権力の立場等が問われております。

 

    この統一教会の件は私も注目すべき話題であると思いますが、カルト宗教とは?カルト宗教の害とは?日本のカルト宗教の特徴は?カルトからどう戦えばよいのか?という疑問が沸き起こります。

 

    今回は統一教会の件に触れながら、カルト宗教について述べていきます。

 

 

①カルト宗教とは?

 

 

    カルト宗教とは、反社会的な行為を行い害悪を撒き散らす宗教もしくはその団体のことです。カルト宗教が注目されたのは今回の統一教会のほか、1995年に発覚したオウム真理教の事件、海外の例では1978年の南米・ガイアナで発生した人民寺院(People's temple)集団自決や、1987年の韓国で発生した五大洋(オデヤン)集団自決事件があります。ここでいうカルト宗教の害というものには巨額な献金、強引な勧誘、自殺強要、襲撃、殺人というものが上がります。

 

    ではそもそもカルト宗教の定義とは何でしょう?世の中にある宗教をカルト宗教とそうでないものに選り分ける基準とは?

    実はこれが大変難しいことなのです。各々の宗教が辿った歴史を鑑みると上のようなことを何一つやってない宗教はまず存在しません。宗教間や宗派間の対立による激しい紛争は世界の主要な宗教でも起こってきましたし、日本でも鎌倉時代の仏教には武僧という戦闘要員の僧がおり宗派間の紛争も度々起こっておりました。また、現在では既存の宗教の儀礼や教団への寄附についても、その意味を疑う人が多くなってきております。

    こうしたことから宗教に対する拒否反応を示す人が現在では少なくありません。カルト宗教とはすなわち全ての宗教のことであり、宗教がすなわちカルトで有害なのだと。

 

    しかしそのままだとカルト宗教の跋扈を認めることになりますので各国はカルト宗教の基準について自国の歴史的背景や国民の権利と義務を鑑みながら定めております。

    例えばフランスでは厳格な政教分離原則のもとで教会などの宗教団体がそれを守れているか否かといった「行為実績」でカルト宗教かどうかを選り分けております。アメリカはこちらはキリスト教の影響の強い社会ですが、アメリカ社会を脅かすカルト宗教の条件を定めそれに触れた宗教をカルト宗教としております。

 

 

 

②カルトと日本

 

 

    ここまで言えば、先述の国々での規制やカルトの定義を日本でも採用すれば、日本国民はカルトの害から守られると言いたいところですが、それは難しいと思われます。先述の国々と日本とでは宗教や道徳をめぐる状況が違いますし、その中で外国のカルト宗教規制法制を導入しても同じ法益(法律によりもたらされる良い効果)までは輸入出来ないからです。

 

    今まで何度も用いた「カルト」という言葉は英語の”cult”(カルト、熱狂、崇拝など)から来ております。これはある特定の魅力を持つカリスマに複数人が熱狂的な信仰を寄せる現象を指すものです。この「カルト」は元々崇拝・礼拝という意味であり、「有害な宗教」というニュアンスは後付けのものです。

    このカルトという言葉はアメリカや日本で使われる言葉であり、フランスなどのヨーロッパでは「セクト」(フランス語 : secte)という言葉が「カルト」と同じ意味で使われます。セクトは本来「分派」(正統な宗派から分化した宗派)という意味ですが、キリスト教の影響が強いヨーロッパではその正統な教えに反発する宗派としてセクトには「有害な信仰」というマイナスイメージがつけられたのです。キリスト教は唯一絶対神に対する信仰を要とした宗教であり、教会の権威や聖書の教えによる「正統性」が不可欠となります。そしてその正統性に背き反発する攻撃的な宗派は、キリスト教の教えひいてはそれにより形成された社会を破壊しようとする異端として批難されたのです。その異端の中心となる求心力のあるカリスマ的指導者は、正統派にとっての攻撃対象となってきたのです。

そのためセクト(カルト)にはキリスト教の分派も含まれますが、更には仏教、シャーマニズムなどのキリスト教以外の宗教に由来する宗派もセクトとされます。

 

    一方で、日本は仏教神道を中心とした宗教観が根強い国です。仏教は日本においては分派化が進んでおり、主要な宗派のみでも浄土系、禅宗系、日蓮宗系に分かれております。神道は明確な教義、開祖を持たず、神話や(主に豊穣祈願に関わる)儀式がある他は諸々の神様の存在を否定しません。

    そして仏教と神道は事実上2つで1つの宗教として機能したとも言える側面もあります。江戸時代までの神仏習合やそれに派生する伝統(神社での祈願ほか)はもちろん、神社に伝わる神話も仏教との共存共栄を唱えているものもあります。現代日本人で仏教式の葬式やお盆を行いつつ神社での祈願をする人は少なくありませんが、それは千年近くも前に生まれ引き継がれた日本人の信仰のあり方なのです。

    つまり日本の伝統的宗教には「正統」という軸が古来以来弱く、ほぼ全ての宗派が「分派」と言えるためカルトやセクトになる可能性があります。日本のどこの宗派も日本の地で「正統」を長く保持した試しがないので、キリスト教圏的なカルト規制が上手く機能しない可能性があるのです。向こう見ずなカルト規制がアレルギーのように日本国民の信教の自由を侵したらそれこそ本末転倒であの事件の二の舞もおかしくないのです。

 

 

③日本でのカルトの害

 

 

    では日本ではカルト宗教への対策をしなくていいのかというとそうではないと思います。

    日本でもオウム真理教の事件(~1995)の他にも宗教を巡る社会問題は度々起こっておりました。

    昭和30年代、仏教系宗教団体Aにより積極的な信者獲得運動が行われました。これは宗教団体Aの信者ではない仏教信者に「信仰上の誤り」を激しく指摘し宗教団体Aへの改宗を迫るというものでした。これにより警察沙汰が度々起こり、中にはこの行為を受けた人が自殺する事案もありました。

 

    また、1980年代から90年代にかけてキリスト教新興宗教Bによる社会問題が起こりました。この教団の教義と社会通年上の行為との衝突が度々起こりました。裁判で争われた例だけでも、某市立高専での生徒の信者の体育の履修に関わる事案や、信者の手術における未承諾の輸血に関わる事案の例があります。

    1985年に起きた事案ですが、この宗教の信者家族の子供が交通事故に遭い輸血を要する治療が必要となりましたが、その親は子への輸血を拒否しました。宗教団体Bの教義では、他人の血の輸血は純潔を汚す行為として禁忌であったからです。そして、子供は治療が出来ず死亡しました。

 

    こうした「カルトの害」は宗教団体が他人の生命や健康を侵すことから分かりやすいですが、これだけがカルトの害でしょうか。

 

    某カルト宗教から脱会した信者2世の人の証言をネットで見ましたが、「自分が何者なのか分からない」「自分の人生の意味が崩れた」と言う話が聞かれます。

    信者2世とは、親がその宗教に入信して子である自身もその流れで信仰している(またはさせられている)ような人のことです。そうした人々は家族、友人、知人のコミュニティが宗教の教団に深く根差しており、教団からの脱会が人間関係の甚大な損失となるのです。そして人間関係の損失は自分の社会における人間としてのあり方を時間軸的にも空間軸的にも喪失することに等しいのです。いわば脱会が元信者の人生における「死」となることもあるのです。

    そして、自分の心を占めてた何かしらの道徳、倫理がその裏付けを否定され崩壊し、その上に築いてきた自分の人間性や社会性も一気に崩壊するという危機を招くのです。それを再建するには多大な努力と時間がかかり、自分の生活を成り立たせることもままならなくなるのです。

 

    カルト宗教から脱会せざるを得なくなった時に産まれながらの信者を襲う人生の危機、これはどのように埋め合わせれば良いのでしょう。今回の安倍氏銃撃事件の犯人の例を見てもそう思います。

 

 

④日本における一神教の失敗

 

 

    それでは日本におけるカルトの問題はどうすれば解決するのでしょうか。

 

    ひとつの案として、現状分派の域を脱せない日本の各宗派を超越した強大な一宗教や一倫理の確立という方法があります。要はユダヤ教キリスト教イスラム教のようなパワーを持つ宗教を日本にも広めようという案です。そうすれば日本国民や社会における道徳、倫理教育はより効果的に捗り、カルトの基準も儲けやすくなり、先述のアメリカ式のカルト対策がしやすくなるのです。

 

    ですが、これは日本の社会を大いに破壊する危険性があります。一神教の生まれた国と日本とではその風土や社会構造が違っており、宗教の役目が違うからです。それが分からないまま日本に一神教を生み出してもそれが巨大なカルトになるだけです。その一つの例が戦前の国家神道です。

 

    明治時代から第2次世界大戦前までの日本では、当時のヨーロッパの先進諸国のように国を発展させるべく、政府はそれらの国と同様に唯一絶対の宗教を普及させようとしました。それが大日本帝国の元首たる天皇家を頂点とした国家神道でした。

    国家神道大日本帝国の事実上の国教とし日本古来の神道一神教的に発展させたものでした。この国家神道の普及のために政府は廃仏毀釈や宗教に関わる行政機関の設置という政策を取りました。

    しかし、昭和時代に恐慌や飢饉が発生すると日本社会や軍部では海外へ領土を拡張する機運が高まりました。そしてそれは日本の諸外国との軋轢、国際社会での孤立、軍部の暴走を経て日中戦争、太平洋戦争といった大戦そして敗戦、大日本帝国の終焉に至るのでした。

    そしてGHQによる戦後日本の改革で国家神道の解体が行われました。国家神道が戦時日本の暴走と関連しているとみなされたからです。

 

    長々とした解説は割愛しますが、国家神道一神教として機能不全といえる部分があったと思われます。国家神道のトップは天皇でしたが、天皇が宗教運営について具体的な発言をされることは少なく、宗教政策は専ら時の政府によりされておりました。政府の手に委ねられてる国家神道はやがて暴走する好戦ムードを増幅する装置と化したのです。

    一神教としての資質に欠けていた国家神道は強大なパワーを奮いつつも真に平和や秩序を維持することも叶わず、人間の欲望をいたずらに暴走させ、信徒を食い物にしたカルトと化したのです。

    これは日本の風土に一神教を興すことの難しさを示す好例でしょう。よって日本でカルトに対抗できる宗教をぶつけるのは難しいのです。

 

 

⑤法の下の信教の自由

 

 

    では、今の日本でカルト規制は出来ないのかというとそうではないと思います。その手懸かりは、国民一人一人の「信教の自由」(日本国憲法20条第1項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。······」)を保証することにあると思います。

    日本国憲法20条第1項の「信教の自由」とは、「特定の宗教を信じる、信仰を変えるまたは信じない自由」を指すと解釈されます。具体的には更に「信仰の自由(内心である宗教を信仰もしくは信仰しない自由)」「宗教的行為の自由(儀式や布教等の行為を行う自由)」「宗教的結社の自由(宗教団体を組織する自由)」の3つに分かれると言われます。これは、神道や仏教はもちろんキリスト教などの一神教、ひいては無神論といった特定の信仰を持つこと、持たないこと、そして変えることを日本国民に保障するものです。

    この権利に関わる具体的な制度としては、宗教団体と国権が関わることを規制する「政教分離原則」があります。これは国民の信教の自由を犯さず保護するためのものです。

    

    ここまで来ますと、「日本は元から多神教の国であり、今さら信教の自由を保障してもしなくても同じだ。」という意見が出るでしょう。これはある程度は正しいでしょうが、今回のカルトの問題では話が違います。

 

    日本が多神教の国なのは、これまで日本で正統たる唯一無二たる宗教が覇権を握る事がなかったためです。日本の宗教史では、長年に渡り宗派間の争いは存在してきましたし、今でもそれが起こる可能性はあります。

    かたや、信教の自由はそれら宗教とは独立した立場により、各個人が宗教を信じる自由を安全に確保するためのものです。信教の自由憲法20条の規定のみならず、その大元の思想良心の自由(憲法19条)とそれに派生する権利、そのほか社会権(社会で人間らしくいきるための権利、憲法25条他)などの権利と折り合いをつけつつ守られるものです。

    日本において、色んな信仰や信条を持つ人々が一同に会し平和な生活を送れているのは憲法上の信教の自由があってこそなのです。それ無しに今の日本社会で存在しうる宗教はないのです。

    

    逆に言えば、上に示した国民の信教の自由またはその他憲法に示された国民の権利を大いに犯している宗教はカルトです。ある宗教団体が勧誘を断った者に嫌がらせをしたり、宗教的行為としての加持祈祷により信者が亡くなったりすれば、それはカルトとして捉えられてもおかしくはないのです。

 

    したがって、この憲法上の信教の自由は、日本の様々な宗教や宗旨から独立し、日本を宗教の暴走から守り日本国民が各々平和な信仰を保つための強い拠り所なのです。

 

 

・おわりに

 

 

    今回の安倍氏銃撃事件や旧統一教会の事案でカルトに対する国民の関心は、今ものすごく強くなったと言えます。事件から半年近くになりますが、事件や問題の解決はこれからスタートという印象です。

    私としては、このカルトの問題は日本の土地や気候、歴史、社会の変化が絡み合いながら起きてる因縁の深い問題だと思います。とはいえ、宗教や歴史、日本文化の学者ではない日本国民の大勢多数がそこまで認識せよというのにも無理があると思います。だから、今取れる策を考えカルトと戦わなくてはならないと思うのです。

 

    この記事も綿密な分析や壮大な計画というよりは、決して視野の広くない自分が今確かに分かり述べられる範囲で、自分の感想を書いたつもりです。

    

    本音を言えば、このカルトの問題についてもっと他の人の考えを知りたいと思っております。今回はそのための前挨拶として、この記事を書かせていただきました。

 

 

今回も、拙い記事をご覧いただき誠にありがとうございました。

 

2023年1月28日