ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】「日本教の社会学」小室直樹・山本七平


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こんにちは、ずばあんです。

 

本日は山本七平小室直樹の共著書「日本教社会学」(1981)の読書感想です。

 

共著者の紹介ですが、まず山本七平(1921-1991)は評論家、作家であり出版社・山本書店の創業者でした。山本はクリスチャンや保守論客の立場で言論活動を行っておりました。本書では若いときの従軍経験についても詳しく語ります。

小室直樹(1932-2010)は東京大学出身で経済学などの社会学系統に篤い学者です。保守論客として言論活動も行い、ソ連崩壊を十年以上前から予測していたという功績があります。

 

この本は日本人の宗教観、道徳観を諸外国のそれと比較しつつ述べます。「日本教」とは共著者のひとり山本七平が作った言葉で、日本人の精神において、西洋人にとっての宗教と同じ役目を果たすもの・構造を日本教と呼びました。この「日本教」が何であり日本社会をどう作っているのかを山本七平小室直樹が対談形式で語ります。

 

【内容】

内容は日本人の政治観、宗教観、経済観の3部にわたり紹介されます。

 

[I]

 

まずは日本の現在(1981年当時)の政治、経済、社会がヨーロッパ等の「民主主義」とはかけ離れている点を指摘します。欧米での民主主義はすべてが契約により強く拘束され、法律や労使関係、ビジネスの取引はまず契約のほか口出しできません。一方で日本ではまず合議・コンセンサスが第一とされ、その場での空気が決定事項となるのです。たとえ契約を結んだとしてもその内容はその場での判断や合議に委ねることが前提となっております。

 

続いて戦前戦中の日本が「軍国主義」の実態とかけ離れている点を指摘します。軍国主義ではアメリカ軍を代表に、軍隊は厳密なヒエラルキーや規律の元で組織運営されます。社会における物的・知的リソースも軍隊の作戦のために動員されます。

一方日本軍は上官の命令とは別にその場での合議や独断が重視され、加えて公式な階級とは別の「在籍年数」等による年功序列が事実上のヒエラルキーとなっておりました。そのため組織内の上意下達が上手くいかない構造となり、結果として第二次世界大戦を止められなかったとしております。

 

[II]

 

そこから日本人にとっての真の宗教、すなわち「日本教」を分析していきます。

 

世界には宗教が沢山ありますが、それらは宗教の信者たる資格により2種類に分けられます。

その資格の一つは遵法です。宗教の聖典に決められている具体的な行動規定に従うことが信者の資格となります。例はユダヤ教イスラム儒教などです。もう一つは信心です。これは聖典で語られる神の神性を心より信頼することです。これは精神的な要素であり常に内心を問われます。例はキリスト教仏教です。

では日本教の場合は何かというと、「実利」になります。神とは何か実利をもたらすものであり、それがないならば神との関係を切ったり別の神と結ばれたりします。日本では仏教式で葬儀・法事をしますが、地鎮祭や各種祈願は神道式、結婚式はキリスト教式、家族様式や官僚機構は儒教などそれぞれ「実利」に基づき神と関わります。そして実利が得られず損害ばかりを被るとき「神もくそもない」となるのです。

 

各宗教には信者に絶対的に課す事柄として「ドグマ」があります。イスラム教の場合は「信仰告白」「聖戦(ジハード)」(*)などがそれです。キリスト教の聖書にもドグマは存在しております。

そして日本教におけるドグマは「空気」です。「空気」はその場での合議や判断、または人間関係のしがらみなどで生み出されます。日本教ではこの「空気」がドグマであり、空気を読み従うことを日本教の信者に強く強いるのです。

そしてその空気に反する現実「実体語」に対して空気を代表する「空体語」が強く語られるのです。

(*聖戦「ジハード」はムスリムイスラム教を代表して戦うことを意味しますが、それは武力戦闘に限りません。商売や学問などでの競争に打ち勝つこともジハードに当たります。)

 

通常宗教では救済儀礼(サクラメント)というものがあります。これは宗教理念から外れている者を宗教の内側に包摂するための儀礼のことです。

日本教における救済儀礼とは、あるがままの「自然」に任せる「本心」の気持ちを大切にし、それを告白することです。「建前」というのは自然に反する人為のことと考えられます。そして建前(人為)より本心(自然)を尊ぶ精神を「純粋」と呼ぶのです。

なお組織で在籍年数の長い者を尊ぶ年功序列もこの「自然」に含まれ、それを尊ぶことが「純粋」とされます。

そして許しを請うとは、日本教では年功序列や本心を尊び告白することを指します。

 

宗教における神議論では、神とは「カリスマ」を備えたものとされます。カリスマの根拠は一神教ではこの世界を創造し、奇蹟を起こし、終末の日に信者を救済することです。仏教では、仏陀や菩薩という神とは異なる者ですが、悟りの境地に至り解脱の法を解くことがカリスマとされます。

日本教におけるカリスマとは、空気を作ることが出来ることです。日本人が抗えないドグマとしての空気を作れる「鶴の一声」を発せる者がカリスマを備えているのです。

 

キリスト教イスラム教には原理主義(ファンダメンタリズム)が存在します。これは原典や原初の教えが真の考えだと考えるものです。仏教はブッダの教えの体系に基づく経典を皆等しく聖典と扱うので論理的には原理主義は存在しません。

日本教には聖典は存在しませんので原理主義はあり得ないようでしょうが、一神教原理主義者のメンタリティとの構造と一致する部分はあります。それこそ「その場の空気」であり、その時に居たものしか分からないような空気を真実と考えるのです

 

[III]

 

ここからラストパートとして、欧米の資本主義社会とは異質な日本社会を語ります。

 

欧米の資本主義キリスト教の考え方に基づき発生しました。キリスト教の新教徒プロテスタントは聖書の教えを重視し、聖書の「予言説」(誰が救済されるかは最初から慈愛の神が決定しているという考え)に基づき、自分が救われる者の一人であることの証明として自分の職業に注力しました。実はそれまでキリスト教(旧教カトリック)社会では労働は汚れたものとされそれよりも教会信仰が尊ばれてたのです。プロテスタントはそれに対抗しその告白として労働に勤しんだのです。そしてプロテスタントの行動はイギリスで産業革命を起こし、その影響が欧州等に伝播し資本主義社会を形成したのてす。

日本にも明治の頃にその影響が及びましたが、労働や職業を尊ぶ思想は古来より日本にありました。そのため労働に旧来の思想の打破と真実の証明という考えが無く、むしろ伝統的で保守的な行いと考えておりました。ここで欧米とのねじれが生まれ、日本式資本主義の独特な要素が生まれたのです。

 

また日本の資本主義の特徴として、共同体企業と一致している点です。共同体とはそのメンバーが人間として生きていくための集団のことです。ただ生計を立てるのみならず価値観や帰属意識、社会的なアイデンティティなど人間性を形成する場が共同体なのです。

第二次大戦前の日本では農村や地域のコミュニティが共同体の役割を担っていました。しかし戦後はそれが崩壊し、高度経済成長期以降は新卒採用や終身雇用制の成立から企業が共同体の役割を持ち始めました。

 

また、今の日本社会は明治維新からスタートしておりますが、その明治維新を引き起こしたのは儒教学者の浅見絅斎(あさみけいさい)(1652-1712)の思想でした。

儒教は江戸時代の徳川幕府朱子学を主にして、幕政を正当化し強化する目的で採用しておりました。なおこれは本来は中国の思想であり、徳川幕府でもそのまま改めずに使用しておりました。

その中で異彩を放った儒学者浅見絅斎てした。浅見は徳川の時代に朱子学が強い中で、「正統の王朝」に忠義を尽くすというオリジナルの儒学を唱えました。これは「正統の王朝」すなわち天皇家への忠義を尽くすという考えに繋がりました。浅見の思想は18世紀から起こった、日本古来からの日本人らしさを問う国学に影響を与え、幕末には尊皇攘夷志士の教養となりました。

すなわち浅見の唱えた「正統の王朝」に忠義

を尽くす儒学思想は日本のナショナリズムひいては明治維新という近代国家日本の興りの根源となったのです。

 

〈終わり〉

 

さてここまでが「日本教社会学」の内容でした。山本と小室の対談ですが、その言葉や内容は一つ一つがとても濃密で複雑に絡み合うものでした。しかしどれも日本人の精神について的確に分析しており、文章の内容にどの部分も惹かれました。

 

日本人の精神的支柱が何であり、それが今の日本の社会や経済、政治をどのように作っているのか、そして日本人たる自分はどんな人間か、それを知りたい方々にはうってつけの本です。

 

 

【感想】

 

 

この「日本教社会学」は私の自分探し、そしてこれからの自分を探る上で重大な内容が沢山つまっていたと思います。そしてそれまで何者にも証明されなかった自分のあり方や気持ちについて見事に書き記してくれたと思います。

 

それでは以下は項目に分けて感想を述べていきます。

 

 

①呪いの民日本人

 

おどろおどろしい項目タイトルですね(汗)

 

この呪いというのは、自分のなすことや思うことに自分の想いもよらない力が働いて自分や人に影響を与える作用のことです。言霊や因果応報とかはそれを代表しております。

日本社会においてはこの「呪い」というのが根強く存在している気がします。社会的に重要な事柄について議論を拒んだり発言を封殺しようとするような「臭いものに蓋」をしようとする風潮があります。発言そのものに魔力があり災いをおびき寄せるのだと言わんばかりの考えです。

また、ある不祥事を起こした人間と関係を持った人々に対しても連座で制裁しようとするきらいもあります。それは家族や親友ならまだしも、同僚や取引先というビジネスの関係にも問われます。なぜそこまで制裁を加えなくてはならないのでしょうか。これはいじめっこが「こいつの呪いが移った~」というメンタリティとあまり変わらないと思います。

 

それらは日本人の生き様が呪いそのものだからと思います。日本は災害多い国です。地震や噴火、台風、大雨、大雪など、世界でもこれ程多種多様の災害に度々見舞われる国はありません。一方で四季の循環や潤沢な水資源から豊富な生態系に恵まれた国でもあります。

そのため日本人には災いと恵みを共にもたらす環境に対応すべく自然に従順で穏やかな精神性が育まれました。

これは言わば解けない呪いを日本人の生活に取り入れているようなものです。この呪いに殺されるか生き残るかは自分の自然への従順さ故で、従順であることが至極とされたのです。そしてその結果生き残り救われることが従順の証とされたのです。それでは救われない人の場合は・・・言うまでもありません。

 

日本人は自然から呪われながら自然に従順な民として、呪いを正当化しているのです。

 

 

②日本人の神と悪魔

 

自然の呪いを引き受けて生きる日本人にとって神とは「実利」であると本書で説明されました。実利をもたらせば元が悪魔であろうと神になるのです。呪いを正当化する引き換えとして神に実利を要求しているのです。

しかし実利をもたらさなければ元が神であろうがなんであろうが悪魔になります。失敗や不幸、惨めな死に直面したものは、実利をもたらしてこその神から見捨てられたり殺されたりしたものとみなされます。

つまり神、すなわち世界と個人の繋がりは成功したり幸福であるときにのみ存在し、失敗や不幸なときは神から軽蔑や殺意を向けられているということになります。

 

これは西洋とはかなり異なります。西洋のキリスト教には試練という考えがあります。試練とは全知全能の唯一神が人間を大いなる恩寵へと導くために用意した道です。試練を受ける信者の伝説は聖典の「ヨブ記」でも語られ、キリスト教徒にとって困難や苦難は神からのご加護を意味するのです。すなわちキリスト教では人生での転落を神からの切り捨てとする考えがないのです。

 

一方で日本では失敗や転落、苦難は実利の神から地獄に落とされたのと同じこととなります。因果応報論ではこれは本人の過去の行いの結果だとされることが多いです。ですが先程の日本人の神様観の分析では、成功した人間の人生を「後付けで」ご加護したこととなり、そうでないものは相変わらず見捨てられ続けているのです

 

すなわち日本人にとっての真の悪魔は実利を与えないものではなく、実利を得たものに便乗して善悪をより分ける人々なのかもしれません。そしてその人々により担がれ寄生している「神様」も同様なのかもしれません。

 

 

③カルト宗教に惹かれる日本人

 

では日本教により地獄に落とされた棄民はどこへ行くのでしょう。

 

一つはカルト宗教へ入信する道です。カルト宗教とは反社会的な組織と認定される宗教および宗教団体のことです。このカルト宗教は社会により意味が変わってきますが、キリスト教圏やイスラム教圏ではその地の宗教の教義に反する宗教団体のことです。

では日本教の国・日本ではどうなるかと言えば、それは実利が生まれない宗教になります。実利というのは経済活動のみならず、政治やコミュニティなど多岐にわたります。それが無い宗教はカルト宗教となります。

 

ただ実利というのは後付けでついてくるものであり、得するときもあれば損するときもあるのです。だから本来日本教において全ての「宗教」はいつ「カルト宗教」になってもおかしくはないのです

 

カルト認定されそうな宗教は「神の名において」実利を追求するようになるのです。そして窮地に追いやられ神から見捨てられそうになると、オウム真理教のように無茶なことをやるのです。

 

ただ、これは教団のみならず日本人一人一人に言えるのです。社会に実利をもたらせる人間でなくては神様から見捨てられ殺されるという懸念を日本人は持っているのです。日本は自殺率が高い国と言われておりますが、それはこの日本教の宗教観が一因なのではと思います。

 

そして最近では「無敵の人」「ジョーカー(*)」などと言われるように破滅思考を持った人による犯罪がニュースで報道されております。これは実利の神から見放された人々の姿だと思います。

(*2019年のアメリカ映画「ジョーカー」の主人公のピエロ。元はアメリカの漫画「バッドマン」に出てくる悪役。2019年の映画で、ジョーカーは不遇の立場からピエロになろうとするも、世間からの冷酷な仕打ちから世の中に復讐を仕掛ける悪人になる。)

 

いつ見放すかも知れない名もなき日本教への信仰と、名もなき神から見放された人々のカルトへの信仰、一体どちらがカルトなのでしょうか。

 

日本教から見捨てられた人のもう一つの道は無神論です。無神論は神の存在を否定し、宗教的意味から逃れることです。

これはキリスト教イスラム教に対してはスタンスがはっきりします。「世界を作り治め人々に救済を与えられる唯一無二の存在」を否定すればいいからです。

では日本教の場合はどうでしょうか。日本教は事実上の現象であり、教典や規則が明示されているわけではありません。教団があるわけでもないので誰かに宣誓できるわけではありません。しかも後出しでその存在を顕在化させる卑怯さがあります。

 

そのため無神論になっても日本教とは縁を明確に切れず、しかも粘着的に着いてくるストーカーのようなものなのです。

 

実態としては存在しながら身を隠し審判を逃れしかも粘着的に纏いつく日本教、我々の心に纏いつくこの宗教はとてつもなく恐ろしいものなのです。

 

 

日本教神話は本当に正しいのか?

 

日本教とは自然に従順で純粋であることを求め、その暁には実利を与えるという神話に基づき成立していますが、これは本当に正しいのでしょうか。

 

今日現在の状況を見ると災害の脅威はますます大きくなり、いつ誰が自然に放埒に殺されてもおかしく無いのです。熊本県球磨川流域では激しい洪水が起き地域に多大なる被害が出ました。そして東日本大震災熊本地震などの大きな地震はいつどこで起きてもおかしくありません。

 

また日本の経済状況は停滞している状況が続き、そのために弱者に負担の皺寄せが行く状態になっているのです。これは弱者が元から切り捨てられており、富めるもののみを神の御子としてきた日本教の狭量さ故なのかもしれないと思いました。

このような事態は日本教という実利に持ち上げられた宗教が社会公益に資するほどの力がなかったという皮肉でもあります。日本教はその存在意義が自己矛盾を孕むことになったのです。

 

また日本教神話は過去の日本史とも矛盾します。

日本は江戸時代の初期である17世紀中に人口が1500万人程から3000万人程に増加しました。(*)その理由は日本全国の低地や湿地が大規模開拓され、稲の耕作面積が急増し食糧の増産に成功したからです。その結果食糧に余裕が生まれ国民を養う力が増えたのです。

江戸時代に入るまで稲作は主に高地の棚田で行われていました。その後灌漑の技術が発達し関東平野越後平野濃尾平野筑後佐賀平野といった元低地湿地が広大な米どころに変貌したのです。これは自然の大改変が日本人の命の芽を増やしたという事実を示しております

(*なお江戸時代の人口は約3000万人まで増加した後頭打ちしました。これは人口増加のペースが食糧生産増加のペースよりも上回るという法則が原因で起こる現象(「マルサスの罠」)です。)

 

そして日本教の考えに近い考えに中国発祥の道教(老荘思想)という考えがあります。これは自然に従うという考えが東アジアにおいてある程度適していたことの証になります。しかし道教での自然の意味は、人間の手が入った管理された自然というニュアンスが入ります。これは日本教の、自然には手をつけない方がよいという考えとは異なります。それに当たり前ですが道教は「老子」「荘子」という教典があり、教典のない日本教とは異なります。

 

日本教に染まっている私としてはこの点は逃しがたい話です。

 

日本のこれまでの歴史において自然を残したり愛し、それに従順に暮らしてきたのも事実です。一方で自然を改良してより多くの命を救ったのも事実です。

では、日本教はどうでしょう。その事実は日本人の精神に包摂されなくてはなりません。

 

 

⑤日本人のための本当の優しさとは

 

日本人が本当に持つべき優しさとは何でしょうか。

 

「弱きを助け強きを挫く」という言葉がありますが、社会の強者と弱者は時が立てば変わるものですし、同じ個人でも局面が異なれば変わります。

また物質的な充実を図ることも必要ではありますが、ただそれだけでは心は癒されません。

 

私にとって日本人の心を癒す方法は、全ての人に差別することなく慈愛を送ることだと思います。日本教は強者に寄生し弱者を無視し時には搾取しますが、私はそれに対し全ての人に相手の素性に関係なく慈愛を振り撒くことが癒しになると思います。日本教が取りこぼしたものを拾うこと、それが優しさなのかもしれません。

 

かの哲学者ニーチェキリスト教を「神は死んだ」「弱者哲学」として批判し、そこから脱して何事にも動じない個人の「超人」の境地に至ることを説きました。しかし日本人の場合は逆にキリスト教的な優しさを取り入れることをした方がよいのかもしれません。実利の神の日本教だけではもたらし得ない概念がそこにあると思います。

 

⑥実利と信仰の分離

 

日本教のそもそもの問題点は信仰と成果主義が一体化している点にあります。そのため日本教は宗教として最初から機能不全に陥っているのです。

 

日本はますます格差が大きくなり、上流国民・下流国民という言葉が生まれるほどになっております。その中でこれまでの日本教は何もせず、逆に社会の分断に便乗しようとします。

 

そのため私たちは生活や日々の自己研鑽をしながらも、その外側にいる大いなる存在も意識しなくてはなりません。成果がなくとも信じられる、ご加護してくださる存在を確認しなくてはならないのです。

 

ではそれが何か?これは人それぞれの事情もあるので勝手に答えを提示するわけにはいきません。ただ、何か実利で繋がる存在が自分を見捨てる時、与えられないものがあると分かったとき、それが何なのか分かるかもしれません。それはいつでも自分のそばにいるものだと思います。

 

 

 

⑦ずばあんは神に何を望むか

(つまらない内容ですので飛ばして結構です。ご覧になるならば網掛けで見ることが出来ます。)

 

私自身が、日本教など含めた宗教の神に望むのは、私の本当の汚れと偽物の汚れの分別がつけられないならばもうその部分で口出ししないでほしいということです。私はこれまで神性を持つものから自分が受けた濡れ衣のような待遇について無実を与えてほしかったのですが、いつまでたっても沈黙している気分がしました。それは私が元々穢れていて、無実の保証をする気がなくなったからかもと思いました。もしくはその穢れに服し汚れ役を全うすることが私の役目なのかと思いました。

しかし、かなり前から社会生活上の支障が出てきました。私は何となく気付いておりましたが神は沈黙しておりました。そしてあるとき私は一番人生できつく心に深い傷を負ったときの神の憮然とした態度など一連の行為と私の今後の人生のために、神と自分の関係を更改しようと思ったのです。私は神に啓示の能力や奇蹟の能力があるとは信じておりません。ただ私を殺しはしなかったことだけは感謝しております。

私は神を大切にはしておりますがそれは師としてはなくこの世の最後の器そして生き物としてです。私は神から受けた呪いや穢れはありませんし、それを与える忌々しく大層な存在もおりません。私の神への信仰はここから始まるのです。

 

 

【おしまいに】

 

この本は1981年刊と古い本です。社会的状況や直面する社会問題も大分変化しました。しかし、肝心の日本教については今も当てはまるどころかかなり最新鋭の内容となっています。それは日本教を生み出した日本社会がこの部分についていまだ直面できていないからかもしれません。

 

日本教というのは本当に日本人がこの宗教を信仰しているのではありません。

宗教という言葉の内実は各々の宗教で異なります。その中で宗教が生活や思想に根深く染み込んでいるのがキリスト教イスラム教です。その信者が心の内側で宗教で埋めている部分に、日本人が埋めているものが日本教なのです。

 

もちろん一神教には一神教で欠点もありますので、日本人の信仰はダメだとか一神教こそ正義とは言えません。ただ、日本人の信仰の特徴についてここまで沈黙を破り分析し喝破した研究は他には無いと思いました。

 

心の穴はなぜ生じるのか、頑強で揺らぎ無い精神はなぜ手に入らないのか、神はそれらをどう思っているのか、それらはこの「日本教」の存在に答えがありました。

 

私は今回の感想では日本教に批判的な事を書きました。日本教の正体が明かされなかったがゆえに山積みした問題が多かったからです。しかし日本教に復讐するがごとく攻撃し排撃するのも違うと思うのです。

日本教とはこれまで語られなかった日本人の信仰心の深い部分です。自分の信仰心が何に根差すものなのか、自分の心の中の不可解な部分は何か、本当に神を信仰しているのか、それを知るための手がかりが日本教というキーワードだと思います。

そのため日本教の考えをベースに自分の心に足りないものが何かを知ることが心身の健康や自分の成長の第一歩かもしれません

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

2021年11月16日

 

 

【読書感想】西田幾多郎「善の研究」

こんにちは、ずばあんです。

 

本日は読書感想で、西田幾多郎の「善の研究」(1911)を紹介いたします。

 

善の研究」は高校の倫理の教科書にも出てくるほど有名な著書です。

 

この本では人間の認知や分析的思考が加わる前の「純粋経験」の状態や主観と客観の科学的分析を加える前の「主客未分」の概念を用いて、宗教、善悪、文化などについて解説します。

 

この本は日本で最初の哲学書とも呼ばれ、著者の西田幾多郎は哲学者として京都学派と呼ばれる哲学学派を形成いたしました。

 

今回はこの本の内容の解説や私の感想について述べたいと思います。

 


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【内容】

 

本は第一章から第四章に分かれ、それぞれ純粋経験・実在・善・宗教について語られます。

 

第一章の「純粋経験」では、人間による認知や分析が加えられていない主観と客観の分かれていない「主客未分」の状態の経験を「純粋経験」と呼び、この純粋経験を体系立った経験として関連付ける思惟やその主体としての意識について説明します。

 

第二章の「実在」では、物の実在が思惟や意志の動きにあることを述べ、対立する物同士の衝突により初めて両者が認知され、両者を統合し包括する認識を形成する作用について述べられます。

 

第三章の「善」では、人がどうあるべきかという「」について語られます。行動や価値について異なるもの同士を一にしようとする動きで説明していきます。

そして善について歴史上語られてきた説について合理説や功利主義などと比較し、その中で小さな集合から大きな集合に向かって主客合一する過程を善と指し示しました。

 

第四章の「宗教」では、神を純粋経験の世界を統べる全知全能の存在とし、その神との合一を目指す動きを宗教としました。

 

ここまで見てこの本は「純粋経験」や「主客合一」をキーワードに哲学を語っていることが分かります。

西洋哲学を含めた近代科学は主観と客観を分け、分析的手法に則り客観的事実を検証します。それに対し西田幾多郎は分析や解釈の入らない状態の世界を、人間の思考の力で認識して解釈し、それを再び元の一の状態に至るまで統合するという、独自の哲学体系を表しました。

これは西田幾多郎の座禅体験が元となっており、唯物論と観念論の間の矛盾をこの経験を元に説明したのです。そのため「善の研究」は仏教的なテイストが強めな著書となっております。

 

 

【感想】

 

 

この本は分析的思考直感的思考というものをメタ視点から捉え、カオスな世界の本質のありのままを理解する試みを解説してくれたと思います。

 

私はもっぱら分析的思考の手法を用いてものを話したりします。余分なものを削り疑いようのないもののみで論を整理し構築します。それを広げると一つの体系になります。

しかし体系は認知した対象そのものではありません。分析とは人間の身体の機能に合わせた人間の都合でしか無いからです。人間の認知機能のバイアスはどうしても入ります。

そのため全体を総合的に理解するなら、今度は人間の感覚の嘘を自覚して、そこから逆算して物の本質を探らなくてはなりません。それを一般的には「さとり」と呼ぶこともあります。これは分析的思考とは逆のベクトルに当たります。

西田幾多郎は「さとり」を禅宗の座禅の実践により体感し、それを西洋の分析科学と対峙させ説明いたしました。

 

さてここから自分がこの著書の内容について思ったことを項目毎に分けて説明します。


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(木と森と滝)

 

純粋経験・実在って何?

 

この本の前半に出てくるのが「純粋経験」と「実在」の2章です。実はこの「善の研究」の本のタイトルは当初は「純粋経験と実在」となる予定でした。「善」は第3章の内容でこの本のほぼ結論と言っていいですが、その前の2章は結論に欠かせない内容となっております。

 

まず第1章・純粋経験ですが、かなり哲学的なことが書かれております。純粋経験とは人間の認知や分析が加わる前の本来の世界のあり方です。そして人が世界を見てそれを体系だったものに構成する作業が思惟であり、思惟を行う主体が意識すなわち自我であると説明されます。

つまり、人間が見聞きし感じる世界は「仮の世界」であり、人の肉体により偏向して認識されたものだというのです。純粋経験はその仮の世界が見えなくなった先に見えるものなのです。

 

純粋経験の話を受けて第2章・実在です。実在とは「ものの真実の在り方」のことです。先ほどの話にのっとると私たちの見聞きし感じる世界に実在は究極的には無いことになります。実在は純粋経験にあるからです。

そうなると純粋経験以外の仮の世界は全て等価値のものとなります。例えばルビンの壺などのだまし絵は、ある人が一つの壺と見てまた別の人が二人の横顔と見るならば、どちらも同じだけ確か(反対側から言えば同じだけ不確か)なのです。純粋経験はこのだまし絵の絵柄のようなものです。それを壺と見るか横顔と見るかはどちらも仮説なのです。

 

もっと言えば森があるとして、それをよく見ると一本の木があります。もっとよく見ると木の枝や葉っぱ、木の実、花なとが見えます。その葉っぱのうち一枚を採り、顕微鏡で観察すれば葉っぱの細胞の集合が見えます。クローズアップすると一つの細胞の構造が見えます。

逆に森を遠くから見ると山や川、草原、空気と密接に関係し、一つの生き物のようです。それをさらに遠くから見ると一つの陸地となり、さらに遠くからだと海と大陸、地球、そして宇宙・・・とどこまでも拡張できます。

ここまで見てきたものは大局観と分析、マクロとミクロの差はあれど全て同じだけ確かです。しかしその全ての実在もまた仮説なのです。

それらの事は自然科学で証明可能ですが、わざわざ証明せずともこの一連の因果関係は端から存在しております。その端から存在する因果関係が実在すなわち純粋経験なのです。

 

 

②善って何?

 

第3章でという言葉が出てきますが、善の考えには沢山の種類があります。人に心地のいいことを多く施し不快なことを減らすという功利主義的な善や、厳格な規則を設定しそれを徹底的に守らせる戒律主義的な善、はたまた人々を拘束するものを極力減らし解放する自由主義的な善などがあります。つまり世の中には善と名のつくものが沢山あるわけです。

 

さてここで純粋経験と実在の話を踏まえますと、それぞれの善はどれも実は仮説すなわち嘘なのです。各々の善は世界を善悪に別ちますがそれは世界の真相ではなく、真実の世界は善悪別ちがたいものなのです。とあるものが、ある時またはある所では善であったとしても時場所移ればすぐにそれは崩れ、悪になることもあります。逆もまたしかりです。九州での生活スタイルを北海道にそのまま持ち込めば冬に瀕死の事態に陥るようなものです。

 

では究極の善は何かというと、それはまさしく純粋経験を追い求め主客合一をしていくことなのです。具体的に言えば自分と対立するもの同士を包摂する世界をその度ごとに求め、それを理解し対立していたものと和合することなのです。

このことは西田幾多郎の座禅経験によるものであり、悟りを開こうとする人々の姿に究極の善を求めたのです。

 

この善の考え方は仲の悪いものと仲良くなろうとしたり、理解できないものを理解しようとすることを絶えず要求します。それが出来ないことは自分の罪となり背負うことになるのです。

 

なお西田幾多郎はこの主客合一において「禁欲」の考えを否定していることも面白いです。

欲望と言えば食欲、睡眠欲、性欲など沢山思い浮かびますが、日常生活を送る上でいくつかの欲望は節制しなくてはなりません。しかしその欲望を節制する暮らしは禁欲ではなく、あくまで日常生活を送りたいという欲求が強いからやることなのです。そこからさらに日常生活のあれやこれやも犠牲にし禁欲といえる生活をする人もいますが、それも出世や社会変革という欲求の強さから起こるものなのです。

これは欲求には「階層」があり、一見して「禁欲」と呼ばれる生活には実は並々ならない高次の強い欲求があるのです。これは「善の研究」から半世紀以上後のアメリカで心理学者マズローが「欲求5段階説」としてモデル化しました。一番基底の欲求として生理的欲求があり高次に向かうにつれ安全欲求、帰属欲求、承認欲求、そして自己実現欲求があるとしました。人はまず一番下の欲求を持ちそれが満たされ次第その上の欲求が起こり満たしてまたその上の欲求が起こり満たすというものなのです。

そのため西田幾多郎のいう、主客合一により純粋経験に近づいていく善は欲望の滅却によってではなく、高次の欲望の肯定に基づいてなされるのです。

 

③宗教って何?

 

私たちが感じ見聞きする仮の世界から、そこから真実の純粋経験の世界に近づこうとする善についてこれまで説明いたしました。ではこの善において宗教とはどのようなものでしょうか。

 

本書の第4章で西田は神とは純粋経験の世界を統べる存在であるとしております。今あるもの昔あったものこれからもあるであろうもの全てを分かつことなく治める揺るぎない存在が神だというのです。

 

この西田の「神」という言葉は、西田が仏教的な世界観から紡ぎ出したオリジナルの存在に思えました。

仏教には「」という言葉がありますが、これは今世の中にあるものと今世の中にはないけどかつてはあったものもしくはこれから現れるものはいずれも真実の世界には存在するのだという世界観を表す言葉です。

身近な例に例えると、水は温度(と圧力)次第で蒸気になったり氷になったりします。この状態の変化で水が「消えた」訳ではなく、あくまで科学的法則に従いあり方が変わっただけです。ただ水と氷と蒸気が同時に発生することはあり得ずどれかがあれば他のものは無いということになります。仏教の無の考えはこうしたものです。

この仏教の無の世界観を世界各地の宗教に当てはめようとしたのが西田幾多郎です。無は仏教という悟りを至極とした宗教から生まれた概念ですが、それを世界各地の一神教の宗教にも当てはめようとしたのです。

 

一神教の代表キリスト教はその拡大に辺り各地の土着宗教の神や伝承を自分の宗教に取り込んできた歴史があります。また長い歴史のなかで度々行われてきた公会議は教会組織の考えとそれと合い矛盾する事案について話し合い、キリスト教会の教義の更改を行うものです。これは矛盾を克服しキリスト教が世界全体に向け志向しようとする動きにも見られます。

 

そして一神教の中でも戒律に厳しいユダヤ教イスラム教はそれぞれ正典を設けつつも、更に細かい規則は正典に基づき作られた書によって決められます。それよりも更に細かい規則や契約も同じくです。

これは日本などの法秩序に似ています。日本(および他の成文法の国)の法律は憲法を頂点におかれ作られております。憲法にのっとり国会で作られる法律があり、それらに基づき省令や条例などが制定されます。もちろん社会変化による新しい法律制定や法改正もこれを無視しません。

これを考えると戒律に厳しい宗教でも狭い範囲を志向するのみならず世界全体に志向しようとする動きがあることがわかります。

 

西田はこうしたどの宗教にも見受けられる全体へ志向しようとする動きをもって仏教的価値観を至高のものとし、それをもって宗教や神を想定したのです。そしてその全体に向かっていく意思のことを「愛」と表現したのです。

 

 

④全体を通しての感想

 

この本は西田が仏教の研究やその実践に基づいて編み出した、仏教的な究極な理念を哲学の文脈でまとめたものだと思います。

 

この本は本当の自分と仮の自分の分別をつけたい人にとっては良本です。仮の世界で生きる人々が世界の仮ゆえに傷つき損害を受けるなかで、人々の本当たる部分は厳然として綺麗であることを証言してくれます。そしてそれが仮説だらけの世界で生きる私たちの励みや勇気、道しるべとなるのです。

 

一方で私はその主客合一のためにまずは個々の主体の余裕が必要だとも思いました。心身の余裕や経済的な余裕などまずは自立するための余裕があって初めて主客合一することができるのです。ですがその余裕を無視して、この理念を余裕の無い人を釣るための餌として利用するのは誤りだと思います。その時には「善の研究」が人を搾取するための方便となりかねないのです。

 

実際に西田ら京都学派、およびその影響を受けた有力者は太平洋戦争を大いに支援しました。それは戦時中に向かって欧米との精神的な溝の深さや経済的な困窮が深まるにつれて余裕のなくなっていった日本がはまった罠であると思います。

それに余裕の無いときというのはどんどん合一したはずのものが分裂していきます。これは合一をしたものを保つのにもパワーが必要でありそれが欠乏した結果なのです。「大東亜協栄圏」もその母体の日本の余裕が無くなったあと戦禍という悪あがきの後に再びバラバラになりました。他の植民地を持っていた国もそうでした。残酷なようですが余裕の無さが主客合一を牽制することは往々にしてあるのです。その困窮時に唱えられる強引な世界統一の理想はまあ胡散臭い餌でしょう。

 

そして最近よく聞くようになったSDGs(Sustainable Development Goals「持続可能な開発目標」)は、世界各国の発展目標において余裕の大切さを盛り込んだものと言えます。目標は17個存在しますが、古くから唱えられる環境保護目標に加えて男女差別や児童労働の撲滅という社会目標や、新しい成長産業の育成や経済成長という経済開発目標も定められております。

これは従来存在していた国連の環境保護政策や社会政策が現状余裕の無い開発途上国の開発政策と衝突し互いに牽制する問題が起きたからです。そのため現状余裕の無い国の成長を担保しつつ世界が正しく存続する道筋を、従来の各種政策を合一しつつ複合的に示したのがSDGsなのです。

 

ですので本当に「善の研究」を実践し役立てたいのであれば、まずはいきなり主客合一ではなく心身の余裕を養うことからスタートすると思います。

 

 

【おしまいに】

 


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今回は日本の哲学史における重要な哲学書を紹介いたしました。今日は敢えて感想で良いところと悪いところの両面を書き出しました。哲学書を読むことは自分の哲学や信念との対決に等しく、それを感想として述べることは「善の研究」の価値を損ねないと思ったからです。

 

この「善の研究」は日本人の思想というのが西洋哲学と比較してどんなものなのか。そこで明らかにされる日本哲学と西洋哲学の価値はなにかを調べる上で役に立つ書です。

 

いまの日本は西洋などの外国からの価値観が大量に流れ込み、そのカウンターとして日本人のあるべき論が吹き上がっております。何年か前には書店に行けば入口に「愛国書コーナー」なるものが大きく構えておりました。流行を狙った日本賛美、近隣諸国批判の本がゲバゲバしく飾られておりました。かたやそれに対抗する言説をのべた本も沢山出てきており、さもバトルロワイヤルの様相です。

 

私は時流にいちいち振り回されずもっとどっしりと構えた生き方をしたいと私は望みました。そのような中で落ち着いて日本人の思想を知りたい人におすすめしたい本の一つが「善の研究」でした。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

 

2021年11月12日

平沢進とは何者か?

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は「平沢進」(ひらさわすすむ)さんについて話したいと思います。

 

平沢進という名前を聞いたことのある方も初めて聞かれた方もどちらもいらっしゃると思われます。


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平沢進さん、2013年)

この方はミュージシャンであり現在に至るまで音楽活動をしております。プロの音楽活動を続けて45年近くになり、今年で67歳となります。今年3月にも新しいアルバム「Beacon」を発表しました。

 

この方はTwitterのアカウントを持っておりますが、そのフォロワー数は2021年10月現在28万人となっております。多くのファンを抱える求心力のあるミュージシャンであるといえます。

 

そして実は私自身、平沢進さんのファンであります。そのため今回は平沢進さんがどのような方で、どの部分が魅力的かを語りたいと思います。

 

 

平沢進とは何者か】

 


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フジロックフェスティバル2021より)

 

平沢進さんはミュージシャンですが、そのライブの様子を見るとかなり独特です。ステージ上ではアバンギャルドな造形のセットが組まれ、意味がありげな意匠がバック映像などに反映されております。楽器も独特の形をしたものもあり、楽器というより実験装置のような出で立ちのものもあります。そしてご本人はまるで博士のような出で立ちで現れ、共演者も平沢さんに劣らず奇妙な格好で出ております。

 

そして肝心の音楽はというとロックンロール電子音楽が主体ですがその表現の幅は広く深いものとなっております。強烈なメッセージのこもった緊迫感のあるものから穏やかな心を癒すものまで様々なイメージの曲があります。

 

そして平沢進さんの曲の歌詞ですが、これまた独特であり文字に起こすと通常の曲の歌詞とは大分異なります。歌詞にはよく聞く言葉が使われているのにもかかわらず文章は難解で意味が分からないのです。そのような歌詞も平沢さんの曲の個性として語られます。

 

平沢さんのライブの進め方はこれまた独特です。平沢さんは新作アルバム発売後の通常のライブの他、インタラと呼ばれるミュージシャンのみならず観客側の意思決定により進行するライブも実施しております。これは単に声援やアンコールによるもののみではなく、平沢さんが観客に質問をしその多数決による回答でライブの進行スキームが決まるというものです。これはいわばRPGのようなものです。プレーヤーがゲーム進行を決めるがごとく、観客がライブ進行を決めるのです。

ここまで聞くと楽しそうですが、実は質問に対する回答次第ではライブ開始早々にライブ終了となるパターンもあります(笑)。そこら辺もRPGのゲームオーバーみたいで面白いです。そのため観客はワクワクハラハラドキドキしながらインタラに挑むわけです。

 

そして平沢さんのアルバムですが2000年以降のものはレコード会社からではなく平沢さんの個人事務所のケイオスユニオンが直接販売しております。通常日本のミュージシャンがレコード会社から音楽を売り出すのに対してこれは珍しい例です。

 

現在平沢さんはソロ活動を主体とし、アルバムを出したり音楽配信、ライブを行っております。

 

また平沢進さんはTwitterアカウントを持ち、ほぼ毎日ツィートしております。その内容は過去の自身とその周囲の話や自身の生活、自身の思想などに渡ります。その語り口は独特で平沢さん本人の作った造語や構文も多く、それも平沢さんのTwitterの醍醐味となっております。

 

 

 

平沢進の生い立ち】

 


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(1981年頃の平沢進さん)

 

平沢進さんは1954年に東京都足立区で生まれ育ち、12歳の頃に音楽活動に関心を持ち始めました。

1973年には当時平沢さんが在籍していた東京デザイナーズ学園の同期や公募のメンバーでロックバンド「マンドレイク」を結成し、プロ活動を開始しました。活動から数年でマンドレイクは音楽ファンから人気を集め、音楽業界から関心を集めました。

しかしマンドレイクは1978年末をもって一度解散しメンバーの一部入れ換えを経て1979年からP-MODELとして再始動します。音楽の作風はロックから当時流行りのニューウェーブ・テクノに、見た目もアングラ風の黒ずくめからビビッドな原色ギラギラに大きく変更しました。

P-MODELのテクノ路線は大ヒットし、当時流行ったテクノバンドのプラスチックスヒカシューとともに「テクノ御三家」として名を知られました。

しかしその後平沢さんらはテクノ路線を改め自分達のやりたい音楽を求め、1980年にはロック路線に戻ります。その後は頻繁にメンバー入れ換えをし、アンビエント電子音楽、ヒーリングなどを他ジャンルを経て1988年末にP-MODELは一旦解散(「凍結」)します。そして平沢さんは1991年までソロ活動をしました。

1991年には平沢さんは旧P-MODEL時代のメンバーと新メンバーを交え新生P-MODELを始動します(「解凍」)。ここからは平沢さんやメンバーの個性を押しつつテクノ・電子音楽路線を歩みます。

その後1994年にメンバーを入れ換え、長年親交のあったミュージシャンとそれぞれのプロデュースするミュージシャンを交え「改定P-MODEL」を打ち出しました。この時からライブのネット配信やインタラといった今のライブスタイルが始められました。

しかし2000年にはまたもやP-MODELを解散します。それは平沢さんがレコード会社やJASRACといった団体から身を置いて自由に音楽活動をすることを望んだからです。

 

そこから平沢さんは今日までソロ活動が中心となります。平沢さんはソロ活動では「平沢進」名義でアルバムを出しますが、2004年からはこれに併せて「P-MODEL」名義でも活動しております。

2019年にはロック音楽イベントである「フジロックフェスティバル2019」に「平沢進+会人」として出演し話題となりました。

 

 

平沢進の音楽活動】

 


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平沢進さんのライブの模様、2013年)

 

平沢進さんはミュージシャンですので音楽活動をされるのですがそこでもかなり独特の様相を見せます。

 

平沢さんの曲は作曲の表現の幅が広く、美しい曲をたくさん作られます。それは平沢さんがそれまで様々なジャンルに手を出し理想の音楽を求めてきたからです。

平沢さんはアマチュア時代はアメリカのサーファリスなどサーフ音楽に関心を持ち、プロ活動初期はハードロック、しばらくしてプログレッシブロック(クラシックとロックンロールを再融合した音楽ジャンル)を演奏しておりました。これらは高い演奏技術を要求され平沢さんは演奏力をつけていきました。P-MODEL以降は流行していたテクノポップに手を出し、その後は電子音楽にも手を出しました。

平沢さんは1980年代からCM音楽の制作に関わりそこで作曲の幅を広げていったと述べております。当時のそのCMは調べれば分かりますが、いずれのBGMも今の平沢さんの曲の雰囲気に近いものを感じさせます。

また平沢さんはパソコンを使用した作曲を早々と積極的に導入し、1990年代にはバーチャルドラムスの「TAINACO(タイナコ)」がP-MODELのライブに「参加」しております。

ご自身のPVの映像CGも1980年代後半より平沢さんがパソコンで自作するようになりました。

現在ではソロ活動が主となっておりますが、それは平沢さん本人の高い幅広い作曲表現能力コンピューターを利用した編集によって可能になっております。

 

使用している楽器も独特のものもあり、ギターやキーボード、ドラムズといった普通の楽器に加え、一見して楽器とは分からないようなものもあります。その内のいくつか紹介します。

まずは「レーザーハープ」です。これはレーザー光線を発生させ、そのレーザーに手で触れるとセンサーが関知して音が鳴るというものです。これは1981年にフランスのベルナール・シャイネール氏が発明したものです。

電極の入った透明の箱は「テスラコイル」と呼ばれる楽器です。これは平沢進さんが自作した楽器です。テスラコイルは電極に電流を流しその時のビィィィンという音をコントロールして使う楽器です。物凄い発想です。

他にもシンセサイザーを改造し沢山の大きなレバーを着けた「チューブラヘルツ」や自作サンプラーの「ヘブナイザー」という楽器も使用しておりました。またとあるライブではグラインダーを使用しておりました。ちなみにグラインダーとは石材加工のための工作機械であり、元々楽器ではありません。とんでもない発想と行動力です。

 

 

 

平沢さんの楽曲の特徴として、歌詞の独特さがあります。これは今私が書いているブログの文章のように人に分かりやすく伝える文章とは異なります。一見して何を言いたいのか理解しがたい詞となっております。具体的な単語が出てくるのにも関わらず、大変抽象的な歌詞となっています。もちろん他のミュージシャンの方の曲も独特の言い回しの歌詞は珍しくはないですが平沢さんの歌詞は特に難解となっています。

実はこれにはいくつか理由があります。まずひとつは曲のメロディーにあわせて歌詞を作っているからです。メロディーに合うような歌詞の音の響きを考えており、メロディーが美しく響くようにしているのです

また、平沢さんは作曲では「文章など作曲以外で表現できることは作曲で描かない」と述べております。つまり作曲でしか表現できないことのみ曲で表現するのです。作曲でしか表現できないことというのは人間の深層心理に基づくことで直感的に感じたことのことを指していると思われます。平沢さんは過去に精神の不調を患った時期があり、その時に感じたことなどが作曲思想に反映されているのだと思います。

 

そして平沢さんの楽曲の世界観について次のような説明がなされることがあります。これまでの平沢さんの音楽活動は「未知の物体アシュオンの真相を培養し分析、解明するための実験」だったというものです。

かなり突飛な説明ですが、これは平沢さんが2002年に出したアルバム「太陽系亜種音」のライナーノーツに記述されていたことです。この説は今日まで継承され、2011年の東日本大震災では「アシュオンの培養炉が震災で破損した」といわれ、今年2021年には「脱出系亜種音」と称したライブが開かれました。

この設定がいつ頃から始まったものかは分かりませんが、1991年の「夢見る機械」の時点で既に科学者チックな雰囲気が出ているのでもうその時からアシュオンの設定の萌芽はあったのかもしれません。

 

また、平沢さんの楽曲の世界観で欠かせない著作があります。それはイギリスの作家ジョージ・オーウェルの著作の「1984」(1947)です。

これは架空の巨大社会主義国家・オセアニア(首都・ロンドン)で行われる情報統制政策とその仕組みに気付き反逆しようとする主人公とそれを抑え込もうとする体制側の動きを描いた作品です。

この世界観はかなり昔から楽曲に反映され、P-MODELのファーストアルバム「In a model room」(1979)はこの小説の世界観を下敷きに作られています。また2004年の核P-MODEL(平沢進のソロバンド)のアルバム「ビストロン」には"Big brother""崇めよ我はTVなり"といった曲で「1984年」の世界がそのまま描き出されております。

 

 

平沢進著作権

 


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P-MODEL「論理空軍」PVより)

 

もっと踏み込むと平沢さんの音楽活動の特徴に曲の売り方があります。

平沢さんは自身の新曲や過去の作品(レコード会社が著作権を有するものを除く)を自身の事務所であるケイオスユニオンから直接発売しております。このケイオスユニオンが普通のレコード会社と異なる点は著作権管理団体であるJASRAC日本音楽著作権協会)に加盟していない所です

 

通常音楽家やミュージシャンは音楽発売にあたりレコード会社に所属しそのレコード会社から販売します。そのレコード会社はJASRACに加盟しており、音楽による収入はJASRACを通してレコード会社や音楽関係者などに配分されるのです。この仕組みは音楽作品にかかる著作権を音楽家やミュージシャンが団結して強く主張・行使しやすくするためのものです。いわば音楽業界に関わる人々が食いっぱくれないためのものです。

しかしこれはミュージシャンの作った音楽作品の権利をJASRACに譲ることを要求します。食いっぱくれはしないものの自分の作品が他人のものになることを受け入れざるをえません。自身の作品に自身のメッセージを込めるのにも限度が出てきます。

 

平沢さんはこれに強く抵抗し、自分の曲を自分の思いのままに作ることを求め平沢さんは自ら著作権管理や楽曲販売をしているのです。

 

平沢さんはある時、自分の曲がネットなどで違法アップロードされたり無断で商業利用されている現状に対し、「自分の曲の権利に適正に対価が支払われないのは、自身のいたらなさもあり仕方がない。」と述べました。

これは違法アップロードなどを容認する発言ではなく、上のような事情もあり平沢さんが著作権を直接管理・行使する立場として言ったものです。違法アップロードの横行は著作権管理をしきれない自分の責任であると言う意味なのです。その証拠に今年に入り自分の音楽を無断で使用した違法動画の削除申請を積極的に行いました。その前にも平沢さんは自身の楽曲の無断使用を「自分への裏切り」と警告しました。そのため平沢さんは著作権については誰よりも詳しく気にされているのです。

 

 

【ずばあんは平沢進をどう思うか】


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私は平沢進さんについて詳しく語っておりますが、私は平沢進さんの曲が大変好きです。平沢さんの曲は時代ごとに変わりつつあるもののどれもメロディや歌詞が濃密で聞き心地のいいものです。一つの小説のシリーズを読んでいるかのようです。

 

私が平沢進さんを初めて知ったのは5年前のことでした。当時大学生だった私は部活の入ったばかりの音楽好きの後輩と話が弾みそのなかでその子が好きな平沢進さんの話題になりました。

それから平沢さんの曲をいくつか聞きましたが初めはかなり独特な印象でした。昔の曲のような、しかし今まで誰も試さなかったことをやっている新しさもありました。

 

それからズルズルと平沢さんの曲にはまりマンドレイク時代から最新の曲まで大方聴きました。「飾り窓の出来事」「美術館であった人だろ」「偉大なる頭脳」「いまわし電話」「七節男」「カルカドル」「Another day」「世界タービン」「2D or not 2D」「Lotus」「Architype Engine」「Ashla clock」「Ruktun or die」「Big brother」「パレード」「それゆけ!haricon」「回=回」「Cold Song」などその他多数の曲を聴きました。

 

曲調の幅は曲ごとに大幅に異なるもののどれも質の高く妥協しない作りで聴く人々を曲の世界観に引き込む魔力を持っております。

精巧な緻密な芸術品といえる平沢さんの曲は閉じた世界ではなく大いなる広大な世界を見せてくれます。

 

2019年と2021年のフジロックフェスでは平沢さんはこれ迄の名曲をメドレーで演奏し、それぞれ濃密で特徴の異なる曲で広大な宇宙に等しい世界を描き出しました。

 

平沢さんは音楽に対するこだわりがとても強く、音楽に奉じる人生を送ってきました。素晴らしい美しい音楽を産み出し私たちに届けてきたのです。平沢さんは「自分の音楽をより多くの人に聴いて欲しい」と語っており自分の音楽がより沢山の人に広がることを望んでおります。

平沢さんは過去に自身のライブにおいて過度に騒ぐ客を敬遠したり、サイリウム禁止令なるものを出したりしました。それは自身の音楽のファンが一部の過激な層により独占されないようにするためでした。それも自身の音楽を聴く人間が増えることを望んでのことだったのです。だからこそ私も平沢さんの曲を好きになれたのでしょう。

 

平沢さんには今後とも理想的な環境に身を置きつつ、美しく心を打つ曲を産み出し続けてくださればと思います。

 

 

【おしまいに】

 

本日は初めてミュージシャンにフォーカスした記事を出させていただきました。

 

平沢進さんは大変ユニークな方であり、ネット上で度々ニュースになることもあります。ただその平沢さんの音楽の才能と功績は非常に輝かしい物があり、その点において平沢さんは畏敬の念を抱かざるを得ません。

 

平沢さんの偉業は音楽業界の間で轟いていることは既にお話ししましたが、平沢さんと活動を共にしたミュージシャンの方や平沢さんのファンであったミュージシャンにも魅力的な音楽を作られる方は沢山いらっしゃいます。

 

平沢進という人物についてはさまざまな語られ方をされておりますが、音楽という面においても平沢さんのことを知っていただけたら幸いです。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

2021年10月30日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

選挙には行くべきなのか

こんにちは、ずばあんです。

 

 

本日は間もなく衆議院でも行われる選挙の話をしたいと思います。

 

選挙に行く人も行かない人も共に多い現状ですが、私は基本的に選挙には行った方がいいという考えです。少なくとも私は特別な理由が無い限り投票には必ず行きます。

 

世の中には選挙に行かない人もいらっしゃいます。その理由は他の用事があるから、投票しても何も変わらないから、投票したい候補者がいないから、投票のシステムがよく分からないから、などがあります。

 

もちろん選挙に行くか行かないかは個々人の自由ですので、私が選挙に行く側を代表して選挙に行かない側を強制することは出来ません。その上で今回は、選挙に行かない人が行かない理由を良く理解しつつ、私が選挙になぜ行くべきと思うのかを述べていきたいと思います。

 


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【選挙に行っても無駄?!】

 

 

選挙に行く理由というのがあるので選挙に行かない理由があってもおかしくはありません。今回は新聞等のアンケートを参考にその理由をいくつかまとめてみました。

 

投票に行かない人の理由の一番大きなものは投票に行く時間を割けないというものです。投票日に別の用事が入っていたり、物事の優先度のうち選挙にいく順位が低かったりするからです。今では期日前投票も行われておりますが、それでも行こうとしない人は多いです。

 

続いて二つ目は、候補者に投票したい人がいなかったというものです。自分の希望する政策を掲げる人や自分の信条に近いと思われる人が候補者にいないなどがあります。その意思を投票をしないという行動で示す人は少なくありません。

 

三番目は、現行の政治制度に期待してないというものです。今は国や地方の議会の議員や地方の首長を私たち国民・市民が選挙で選ぶというシステムになっておりますが、そのシステムに納得のいかない方々も多くいらっしゃいます。このシステムでわが国わが地域が良くなるとは思えない、なぜこのシステムをしなければいけないのかよく分からないと思われる人がそうです。

 

投票に行かない人の理由はおおむねこのようなものです。

 

 

期日前投票不在者投票

 

 

まず第一の理由、投票に行く時間を割けないことについて語ります。

現在の国政選挙などの選挙ではそうした方々のための制度が設けられております。

 

 

期日前投票


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(西東京市HPより)

 

期日前投票は多くの方々がご存じであると思われます。これは投票日の前から投票が可能な制度です。

投票日に投票できないかもしれない人は期日前投票で投票出来ます。

 

投票期間は選挙の公示日・告示日の翌日から投票日の前日までとなっております。

投票場所は期日前投票の会場で行われます。期日前投票投票では投票日に投票できない理由を問われますが、理由は何でもよくその時点での大まかな予想で十分です。

投票の仕方は投票日の投票と全く同じです。期日前投票で入れられた票は投票日に集計されます。

(※期日前投票では、期日前投票後に投票日当日までに亡くなった方の票も集計されます。また投票日当日までに亡くなった候補者への票は「無効票」として集計されます。)

 

現在の期日前投票は2003年から開始され、2016年に期間を投票日の6日前から公示日・告示日の翌日からに改められました。

 

この期日前投票制度が出来る前は、投票日に投票できない人は後述の「不在者投票」でのみ投票可能でしたが、数多くの条件を満たしている必要があり、なおかつ投票日に投票できない確定した理由が必要でした。(※この制度自体は現在も存在します)

そこからより投票しやすく、敷居を低くしたのが期日前投票なのです。

 

この制度の弱点をしいてあげるとすれば、一度期日前投票で投票をすれば、そのあとに新しく投票は出来ず投票の取り消しも出来ません。それは投票した候補者が期日前投票期間中に死去したりトラブルを起こしても同じことです。

 

 

 

しかし、進学単身赴任などの、一時的な外出以上の期間で投票できる選挙区に不在の場合は投票するのに距離的制約があります。選挙のために自宅に戻るのも時間が大分割かれます。

 

そうした方々のために設けられた制度もあります。

 

 

不在者投票


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(名古屋市HPより)

 

進学、単身赴任などで投票できる選挙区に長く不在である人は、この不在者投票制度で今住む自治体から投票できます。

 

不在者投票制度そのものは1925年から存在し病院・老人ホームの入院患者や入所者、長期の航行に出る船員などに適用されております。投票日当日に投票所で投票できない人も資格を満たせば利用できますが、期日前投票制度が設けられた現在は利用者はほとんどおりません。

そしてこの制度は選挙区に長期にわたり不在である有権者も利用できます。

 

その仕組みは、まず名簿登録されている選挙区の選挙管理委員会に投票用紙入りの封筒を請求し(※)、送られてきた封筒を未開封のまま最寄りの選挙管理委員会に赴き、そこで投票する、といういうものです。

(※通常は総務省自治体、各選挙などのHPにある「不在者投票宣誓書兼請求書」をプリントアウトし、必要事項を記入し郵送する形で請求します。一部自治体では宣誓書の送付なくしてオンライン請求出来る場合があります。)

 

この制度は選挙の精密さと公平さを保つためにやや複雑で、書類の郵送と選管での手続で時間がかかるのが弱点ですが、投票できる自治体から長く遠く離れていても選挙権を得ることが出来ます。

 

 

 

次に第二の理由、候補者に投票したい人がいなかった、そして第三の理由、現行の政治制度に期待してないについて語ります。

 

私はこのような理由や意見を持つことについては至極全うな考えだと思います。これらは現在の日本の政治システムに間違いなく存在する問題なのです。詳しい論議は避けますが、政治家に対する不信感や政治制度への不信感、それが生み出す社会に対する不信感などの問題は数多く存在します。それが選挙に行かないという行為に繋がっているのです。

 

しかしながら、日本そして民主主義国においては選挙で投票しないことは、結果に何の不満の無いというメッセージに捕らえられます。政治サイドからすれば一票をくれた人に関心を抱いても、無い票に向ける関心は無いのです。不満の表明が不満の存在の否定になるのはとんでもない皮肉で腹立たしいことです。

 

ここからは上のような不満を抱く方が投票所に言って出来る不満表明の仕方について語っていきます。

 

 

【白紙投票】

 

 

通常の投票であれば、通知はがきを持参して投票所に行き投票用紙を渡されると、投票用紙の説明書きの指示通りに候補者名(比例代表選挙では政党名も)を記入して投票箱に投函します。

 

これは支持する候補者や政党がある場合の筋書きで、そうでない場合はこうはなりません。支持したい人がいない、今のシステムに不満がある人などは投票所に行ってやることは一見したら無いように思えます。

 

しかし、あることをすればその不信感や不満を選挙に反映させることが出来ます。

 

それは上の投票所のシーンで渡された投票用紙をそのまま何も書かずに投票箱に投函すればいいのです。いわゆる白紙投票です。

 


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白紙投票は集計時に「無効票」として数字に残ります。これは投票権を行使した人の意思として数えられます。投票しない場合はその人の意思は無視されますが、投票された無効票は無視されません。無効票の多い場合は尚更です。

 

ちなみに無効票として白紙の投票用紙を入れることで処罰されることはありません。もちろん「ドナルド・トランプ」「志村けん」など明らかに候補者ではない名前を書いて投票しても罰せられません。

 

この白紙投票は誰か気に入らない候補者を落としたり、政治システムを不全にしたりすることは全くできません。ですがこれまでそうしたことを望みながらも為す術がなかった人の絶望の意思を数字として表明することは出来ます。

通常そうした気持ちはデモや陳情によって表明することを考えがちです。ですがあまりにも手間がかかりすぎますし責任も重く、費用や時間をとられ、リターンもあやふやです。だから実際にこの手段を取る人はあまりおりません。

ですが白紙投票はそこまでする必要はありません。最寄りの投票所に白紙票を入れればいいだけです。もしかしたらめぼしい候補者が見当たらず妥協しつつ投票先を考えるよりも楽かもしれません。

 

かつて「支持政党なし」という名の政党を立ち上げその党から候補者として国政選挙に出馬した方もいらっしゃいました。その方の公約は「当選し次第辞める」というものでした。(結果は落選に終わりました。)

 

この試みは無党派層や政治に関心の無い人の声を表明する画期的な試みであったと思います。しかし、それは政党「支持政党なし」が存在せずとも白紙という票を投じることでも同じだけ表明できるのです。

 

 

【おしまいに】

 

いかがでしたでしょうか。投票に対して多少は関心をお持ちいただけたならば幸いです。

 

今回は選挙に行かない大まかな理由から、選挙の意味について語らせていただきました。

 

もっぱら選挙に行くべき理由というものは、政治に高い理想や揺るぎ無い信念を持つことを前提に語られがちです。ですが、有権者全員にそれを求めて選挙に参加させるのは何となく酷な気がしました。そこら辺に投票の敷居の高さを覚える人は少なくないと思います。

私も投票は必ず行きますが、そのような高尚な精神で投票した記憶はありません。分かったような分からないような気持ちが投票後も続きました。

ですがその敷居の高い選挙について、地に足がついた話や便利な制度の話を聞き、全て分かった気にならなくても投票に行ってもいいのだという気になりました。

もちろん選挙にはある一定の厳粛さや正確さは大事ですが、選挙は国民ならば誰にでも門が開かれているものなので気軽に行ってみてもよろしいのではと思いました。

 

今月末には衆議院選挙が控えております。10月19日公示、10月31日投票日です(期日前投票は10月20日より)。是非今回の記事を参考にして投票のニュースに関心を持っていただければと思います。

 

それでは今回も記事をご覧いただきありがとうございました。

 


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2021年10月15日

 

 

風刺画家ベン・ギャリソン【Qアノンの見る世界】

こんにちは、ずばあんです。

 

本日はとあるまとめサイトからある絵を発見したのでそれを紹介します。

 


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(作:ベン・ギャリソン)

 

これはアメリカの風刺画家ベン・ギャリソン(1957-)の作品です。ギャリソン氏はQアノンを自称しており、保守派・トランプ氏支持を標榜しております。

 

このギャリソン氏の作品は政治風刺をQアノンの視点から行っており社会的な反響も大きくなっております。今回はこのギャリソン氏の風刺画を元にQアノンの世界観を見ていきたいと思います。

 

 

【誰を描いているのか?】

 


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さてこの風刺画ですが、登場人物がかなり沢山出てきます。人?だけではなく建物が沼に沈み、文字も沼の中に浮いております。

 

一番手前の陸地にいる男性はあのドナルド・トランプ氏であり、横にはバキュームカーが停まりタンクには「トランプ沼清掃サービス」と書かれております。

沼の中にいる大きな悪魔には「ディープステート」と書いてあり肩にも「CIA(中央情報局)」「NSA(国家安全保障局)」と書かれております。

この悪魔はトランプ氏に向かって「おい!貴様やっていることが分かってるのか?」と言い放ちます。

沼の中の生き物を見ると、魚に模したヒラリー・クリントン(民主党)とビル・クリントン(民主党)、ラクオバマ民主党)、ジョー・バイデン(民主党)が泳いでおります。亀に模したジョージ・ブッシュ(パパブッシュ・政治家)も一緒におります。

沼に浮かぶボートにはMSMと書かれ三匹のネズミが乗っております。MSMとは「メイン・ストリーム・メディア」の略称でTVや新聞、SNSといったアメリカ国民によく見られるマスメディアを指しております。

 

左を見るとピザや五芒星、複数人の幼児を持っているタコに模したジョン・ポデスタ(官僚)や、双頭の蛇に模したバーニー・サンダース(民主党)とカマラ・ハリス(民主党)がおります。枯れ木にはハゲタカに模したジョージ・ソロス(投資家)が止まっております。遥か遠くを見ると右の方にはビル・ゲイツ(元マイクロソフト社長)がワクチンを持っております。

 

一番奥には左手に沈みかけたFRB連邦準備銀行のビルと右手に沈みかけた国会議事堂が見えます。

 

沼には文字も浮いており、GoogleFBI(連邦捜査局)といった有名なものやCFR(外交問題評議会)、UN(国連)、ロスチャイルド家(ユダヤ系富豪)、ビルターバーグ会議(世界の有力者による非公開の国際会議)といった馴染みのない言葉も浮いております。 

 

 

【何を言おうとしているのか?】

 

 

登場人物については明らかになりましたが、作家のギャリソン氏はこれで何を描こうとしているのでしょうか。

 

まず沼の中にいる悪魔「ディープステート(DS)」はアメリカの政界に巣くっているとされる大規模児童売春などを斡旋している犯罪組織であるとされます。このディープステートはあくまでQアノンの間で語られる陰謀論です。

この悪魔は体にCIA、NSAと書かれていることから、DSにはアメリカ政府の有力な諜報機関が関わっているということを示しています。

 

悪魔DSが支配するこの沼には民主党の政治家や民主党政権下での官僚、ITで財を成した実業家などが生息(関与)しております。タコのポデスタが持っているのはQアノンがアメリカ民主党と関わりのあると考えているものを示しております。

 

数の子供は児童売春を表しており、民主党の児童売春への関与説を主張しております。

ピザはワシントンDCにあるピザレストラン「コメット・ピンポン」を表します。この店の経営者が民主党支援者である事実から派生し、当ピザ店では店内で児童売春のための子供が監禁されているという陰謀論がトランプ氏支持者の間で広まりました。Qアノンの出現以前には陰謀論を信じた者がこのコメット・ピンポンをライフル銃で襲撃する事件を起こしました。

そして五芒星は悪魔信仰の印であり、民主党が悪魔と契約を結んでいるという説を示しております。これは一神教キリスト教を信じるアメリカの、特に信仰心の強い保守層にはまごうなき「悪」の象徴です。

 

DSの沼に浮かぶ「メイン・ストリーム・メディア」の舟はアメリカのマスメディアがDSの味方をしてトランプ氏を攻撃しているというイメージを表しています。

 

この沼に生息するハゲタカのソロスは、経営の傾いた企業の株価を操作し労せずしてお金を稼ぐハゲタカファンドとして、ソロスを非難するというメッセージになっています。

 

沼に沈むゲイツIT産業がDSとズブズブであるというメッセージであり、同じく沈むFRBと国会議事堂はアメリカの金融システムや民主政治がDSの手に堕ちているという意味になっております。

 

沼に浮いているGoogleなどの文字はどれも国際的あるいはグローバルな組織であり、DSの影響が国際的な連帯にまで及んでいるということを表しております。

 

このDSの沼を臨み沼掃除に来たドナルド・トランプアメリカからDSの闇を取り除きに来たヒーローとして描かれます。手段を問わずアメリカの政・財・産業界から悪をまるごと根絶やしにしようとする、Qアノンにとってのトランプ氏のイメージが表れております。

 

ギャリソン氏のこの絵に込められているのは、正義のヒーロー・ドナルド・トランプとその敵で国家や社会に巣食う巨悪・ディープステートとその一味の姿と悪行、というギャリソン氏の視点から見た世界なのです。

 

 

【ギャリソンの風刺画の感想】

 

 

このギャリソン氏のイラストは分かりやすく、Qアノンの視点からみた世界像が一目で理解できるようになっています。

 

政治的な言説というのは何物も前提条件が不可欠であり、それが政治的な論争を困難にしているところがあります。ですが、それを一目で理解できるように表されるのが風刺画というものです。

 

その切り取り方は様々ですが、ギャリソン氏の風刺画はQアノンの考えを一纏めで表現しその複雑なバックグラウンドを一目で理解できるようにした点で面白い貴重な作品であると考えております。

 

そのQアノンの世界観ですが、とにかく敵のディープステート側の構図が複雑で広範に渡っていることが分かります。民主党の党員のほか官僚、国会、中央銀行、外交部門、金融市場、メディア、グローバル企業、IT産業、新型コロナワクチン、国際組織・・・。

 

少なくともQアノンの人々にとっての脅威や不安の対象の代名詞としてディープステートが名指しされていることが分かります。それに対してその脅威に立ち向かうヒーローとして、脅威への反逆の代名詞として出現したのがトランプ氏なのです。

 

私はもしもトランプ氏が政界に進出しなかったらQアノンは結託することはなかったのかもしれないと思う一方で、Qアノンの出現は社会病理の必然でその方便が偶然トランプ氏だったのかもしれないとも思いました。

 

このギャリソン氏の風刺画はQアノンやトランプ氏支持者にとっての救世主物語を描いているものです。

 

これをただの作り話とするか世界の真実かと捉えるかは人それぞれだと思います。

政争というのはヒーローによって打ち倒して幸せがもたらされるような簡単なものではなく、国民の利害関係が複雑に絡んでおりそれを探らなくては勝利することが出来ないのです。

一方で政治というのは合理性のみで動くものではなく時には熱い理想が効果を生み出すこともあるのです。熱い理想に邁進しそれがどうしようもない事態を打破することもあるのです。

 

ただ、やはり政治には結果が付き物なので、結果にどう向き合ってどう先に進むかが重要になるというのが私の本心です。

 

 

【おしまいに】

 


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(別のベン・ギャリソン氏の風刺画)

 

この記事はQアノンの事を揶揄するものではありません。Qアノンの事を正しく理解するための物として紹介しました。

 

何事も知らないよりも知っていることが重要です。知ったかぶりして何かを語ることは弁解しがたい罪です。

 

特にQアノンの思想について知識としては知っていても直感レベルで理解できているか否かは確認しがたい事案です。ですがこのギャリソン氏の風刺画を通して、Qアノン自身による直感的なイメージを共有する試みはその壁を多少なり溶かす行為です。

 

もちろんこの行為に意味がないと考える人もいるでしょうしそれを私は否定しません。ただ私はよく人を知らない癖に他人を断罪するのが好きではないので(というよりトラウマがあるので)、知識を深めた上でQアノンに対する見方を定めたいと思ったのです。

 

ちなみにギャリソン氏の風刺画はほかにも沢山ございますので、興味のある方は「ベン・ギャリソン」「Ben Garrison」で検索していただければそれらをご覧になることができます。

 

それでは最後までありがとうございました。

 

2021年9月3日

 

 

【読書感想】「異邦人」カミュ


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こんにちは、ずはあんです。

 

以前私はフランスの作家アルベール・カミュの「ペスト(La peste)」の感想を述べさせていただきました。

今回は同じ作家の「異邦人(L'etranger)」を読みましたので感想を述べさせていただきます。

 

こちらは1940年に発表され、「ペスト」の製作前の作品に当たります。不条理文学の代表作に挙げられるものであり、その内容は文庫版で130ページ程と短くも濃密で強烈なものが伝わってきます。

 

今回も平易な言葉で私自身の感想を述べていくように心掛けていきます。

 

【内容】

 

(第一部)

 

今日ママンが死んだ」という語りから始まり、主人公のムルソーが自分の母親の葬式に出るも感傷に浸る様子は無く手速く葬式を済ませてしまう。

 

葬式の翌日にはムルソーは女友達のマリィと海辺で遊び映画を見て一晩を過ごす。「休暇」も終わるとムルソーはいつものように仕事をし、いつものように友人と語る。アパートに帰るといつものように同じアパートのサラマノ老人と飼い犬の老犬とが喧嘩している。するとムルソーに同じ階の住人の男レエモンが話し掛け、レエモンを騙した女に報復をすることを相談する。

 

それから一週間いつも通りの日常が続き、ある夜ムルソーはマリィと自分の部屋で過ごしていた。するとレエモンの部屋から怒号と泣き声が聞こえた。レエモンが女に報復したのだ。レエモンの部屋に住人と巡査が集まり一時騒然とした。そちらが一段落すると、今度はサラマノ老人の飼い犬がいなくなり探しているという。

 

後日、ムルソーにレエモンは日曜日に自分の友人の家に遊びに行くことに誘う。同時にレエモンは復讐した女の兄とその他のアラビア人一味からつけられていると告げられる。

 

それから数日の間に、ムルソーは会社より転勤を提案される。マリィはムルソーに結婚について匂わされる。サラマノは老犬を未だに見つけられていないという。

 

日曜日、約束通りムルソーとマリィはレエモンとレエモンの友人宅に向かう。道中レエモンをつけているアラビア人一味を確認する。

彼らはレエモンの友人マソンの家に着く。彼らは海辺での遊びを満喫する。昼過ぎ、ランチのあとムルソーとレエモン、マソンが三人きりでいるとアラビア人一味がこちらに向かってくるのに気づく。お互いに対峙すると乱闘が始まり、レエモンは匕首で腕を切りつけられる。アラビア人はそのまま去る。レエモンは傷の処置をする。

その後まだ例のアラビア人らが居るのに気づきレエモンは拳銃を持ち対決しようとするが、ムルソーはレエモンをなだめ拳銃を取り上げる。

直後一人になったムルソーはアラビア人一味の一人がムルソーと対峙したのに気づく。匕首を抜いたアラビア人に対しムルソーはレエモンの拳銃を撃つ。アラビア人は倒れそこにムルソーは加えて4発撃つ。

 

(第二部)

 

殺人で逮捕されたムルソーは数日にわたり判事の尋問を受けた。逮捕から八日目にムルソーの国選弁護士が来た。弁護士はムルソーに殺人の日までのあらましを尋ね、ムルソーは無機質ながらも答える。

ある日ムルソーは進展の無い判事からの尋問で、判事から十字架を向けられ神に罪への懺悔を求められるが、自分は無神論だと断る。11ヶ月の拘留を経てムルソーは刑務所に移送された。

 

刑務所に収監されてしばらくしたある日ムルソーのもとにマリィが面会に来た。面会者とと囚人がそれぞれ一同に会する面会室でマリィとムルソーはレエモンの様子や自分達の結婚について長からずも話した。

その日からのムルソーの監獄生活ははじめは苦痛や不自由を感じつつも、段々囚人らしく順応していった。

 

ある年の6月、ムルソーの裁判が開かれた。多数の群衆が詰めかけ被告人のムルソーに注目が集まる。

裁判ではムルソーの弁護士や検事などが弁舌を振るい、ムルソーの関係者が証人として証言を語る。検事はそこでムルソーの「悪辣外道な犯罪者」の物語を作り、弁護士はそれに反論する。

ムルソーはその裁判が自分不在で進むのを感じた。検事はムルソーを悔悛が見られない重罪人とし死刑を求刑した。裁判長はムルソーに何か言い残すことは無いかと尋ねた。ムルソー殺人に意図はないと答えた。裁判長が改めて殺人動機を尋ねるとムルソーは「太陽のせいだ」と語った。その後も裁判は続いたがムルソーには死刑判決が下った。

 

判決後のムルソーは判決から処刑に至るまでのことを考えてた。御用司祭との面会も拒否していた。続いて特赦請願のことを考えつつ人生の長さに違いがないことを思っていた。

 

ある日ムルソーがマリィのことを考えていると御用司祭が面会に来た。御用司祭はムルソーにいくつか問いかけをするもムルソーは無機質な返答を返す。御用司祭はムルソーを憐れんだが、ムルソーはそれに嫌悪感を感じた。御用司祭は神への罪や神の苦悩、罪を犯さなかった場合のことについて語るが、ムルソーはそれらに意を介さなかった。御用司祭がムルソーは何も分かっていないと発言をした時、ムルソーは激昂し御用司祭に掴みかかった。

神への信仰と不信仰の間に差はなく、敬虔なキリスト教徒と無神論ムルソーの間には善意や罪の差はない・・・。

このような旨を憤怒しながら吐露したムルソーはその夜「この世の優しい無関心」の中で幸福を感じ、そして処刑の日に群衆が自分を憎悪の叫びで迎えることを望んだ

 

(おわり)

 

 

【感想】

 

 

さてこの「異邦人」ですが、強烈な印象と難解なテーマが特徴です。難解というのは、「異邦人」で感じ取ったことを言語化することの難儀さを差します。

 

特に主人公ムルソーの人物像がかなり特殊です。ムルソーは市井で日常生活を送りつつも、愛する母の死に淡白でかつ自身の起こした殺人とそれに対する処刑に対しても淡白な反応です。それどころか殺人犯ムルソーと(仮に殺人を犯さなかった場合のムルソーも含めた)罪を犯してない市民の人生に大差はないと言わんばかりの態度を示します。

 

なかでもムルソーの前に出てくる神の権威を振りかざす人々(検事、御用神父など)と無神論ムルソーは好対象でした。人々とムルソーの問答と慟哭は難解なこの小説の中ではハッキリと登場人物の思想や立ち位置を見せつけてきます。

 

 

ここからは項目を分けつつこの本の感想を述べたいと思います。

 

〈1. 無神論ムルソー

 

この小説いちの謎である主人公ムルソーですが、この男のキャラクターは「無神論」の一言で説明されます。それゆえにムルソーは理屈では簡単に説明できても、頭がそれを受け付けないのです。

 

私たち日本人の場合はなおさらです。日本人では特定の宗教にこだわらない「無宗教」は沢山いても、神との絶交を誓う「無神論」者はほとんどいないからです。これまでの日本の歴史や文化、風土では生まれがたいものなのです。そのためムルソーは日本人から見て奇特なキャラクターなのです。この事については私が以前に書いた「無神論無宗教の違い」(https://zubahn.hatenablog.com/entry/2021/07/18/014153)で詳しく説明しております。

 

ムルソーキリスト教徒でもイスラム教徒でもなく無神論者として、自身の日常生活と神との関与が無い生活をしております。母親が死んでも悲しみなどの感情を見せず喪にも服さず、すぐに日常生活に回帰していきます。

逮捕から裁判、死刑判決後にかけてもムルソーは神や正義には無関心を決め込み、それらに従う振りをして自分に有利に裁判を動かそうともしませんでした。

 

しかし彼は職場でもプライベートでもそこまで大それておかしな生活を送らず、交友関係もありました。作中に出てきた女詐欺師やアラビア人一味の暴漢に比べればムルソーは無害な人間なのです。実際に裁判ではレエモンやマリィなどが証人としてムルソーの潔白を訴えました。そのためムルソーは変わり者ながら親しい人間からは信頼を寄せられている人間なのです。

 

それに彼は無神論者でなければはね除けたりするであろうものを自然に受け入れておりました。彼はサラマノ老人と老犬の日常的な諍いをさも当たり前の光景のように見ていましたが、それは無関心や疎遠ではなく本気で普通の関係のひとつとして見ていたのです。また女遊びの激しく暴力的なレエモンにも物怖じしたり屈服せず対等な人間として受け入れておりました。

ムルソー無神論者として神や既存の道徳から縛られない生活をしておりましたが、放埒で退廃した生活ではなく、不思議と普通の生活を送っていたのです。

 

その事から彼は不条理に身を浸しながら不条理を幹とする不思議な人間像なのです。

 

 

〈2. 殺人動機は 「太陽のせい」?〉

 

 

この小説の不思議な部分は、ムルソーの殺人動機の「太陽のせいだ」という台詞にあります。これは本当に理解しがたい台詞で、作中でもその台詞は周囲の群衆に理解されず嘲笑されます。

 

私もこれは難しいと思いましたが、これは「ある構造」を前提とすれば整然と理解できるものでもありました。

 

まず結論から申し上げますと、ムルソーの殺人動機は「相手のアラビア人に”殺さない理由”が無かったから」なのです。ムルソーは自分に殺意を向けたアラビア人と対峙し、生き残るために拳銃で殺害したのです。ムルソーにとってそのアラビア人はその瞬間から「生かす理由が無くなった者」になったのです。

 

そして「太陽のせいだ」というのはそんな訳がないという前提のもとで、そこに理由が「ある」だろうと考える周りの一般の人々への嘲笑を込めた皮肉なのです。

 

ただ、これだけでは説明が不十分です。日本人の常識に則れば、このムルソーの思想が生まれた背景がまだ分からないからです。

 

ここからキリスト教社会における道徳の話になります。

 

キリスト教社会では唯一絶対な「神様」はこの世を創造し、この世の規律を生み出し、この世の恩恵を授ける存在です。つまり神様人間を人間たらしめている存在で逃げがたい存在です。道徳も神様が生み出したものと考えます。

逆の言い方をすれば、この世が創造されることやこの世に規律があること、この世に幸せがあることを認めることは神様の存在を認め、信仰を認めることになります。

故にキリスト教社会ではこの世の創造・規律・幸福の事実と唯一絶対神の存在と信仰はお互いに関連しあい真であり、その矛盾を唱えることは許されないのです。

 

その上でムルソー無神論者なのに普通の人間と同じ生活をしており、キリスト教社会では「矛盾」をはらむ存在です。ムルソーの最後の慟哭でキリスト教信者とそこから外れた者を差別することに憤りを覚えていたことが分かります。具体的な理由は語られませんが、おそらくムルソーキリスト教社会の矛盾を感じつつもそれを代弁する言葉を取り上げられるという実感があったのかもしれません。そしてムルソーはそれを人に伝える気力もなくなり一見すると無機質な人物像が出来上がったのでしょう。

 

何かしらの理由で神と縁を切ったムルソーキリスト教社会とも絶縁し、道徳や世界の意味、世界の因果を他人と共有できなくなったのでしょう。それらを他人と共有するのはムルソーにとっては忌々しいであろう「神」との契約を意味します。

無神論者として生きる道を選んだムルソーは、殺人を犯したあの日は「アラビア人を殺さない理由がなかったから」殺したのです。尋問や口頭弁論では神の授かり物たる言葉を信じず語らず、無神論者の言葉で語りました。殺人動機も「自分のような無神論者のことも分からないキリスト教徒の人々にとって分かるような)殺人の意図は無い」「人間の世界の所業に何でもかんでも意味や理由を付与したと騙る神の信者の言葉で言えば)太陽のせいだ(と言えば満足だろうか」と語り、無心論者の自分を理解できない周りの人間に対する軽蔑の詰まった皮肉を言い放ったのです。

 

 

〈3. 「異邦人」って何?〉

 

この小説のタイトルは「異邦人(L'etranger)」ですが、これは一体何を表しているのでしょう。

 

異邦人とは議論するまでもなく「違う国の人」という意味です。

小説の舞台はフランス領アルジェリア(当時)です。この小説にはフランス本土からの人間が出てきておりますが、それを異邦人とは描いておりませんし重要人物でもありません。また現地住民としてアラビア人も描かれておりますが、特に民族間の摩擦について強調している描写もありません。むしろ一市民として溶け込んでいる感じも見られます。異なる民族が入り交じることによる分断にクローズアップしているわけでもなさそうです。

 

ここまで来れば異邦人が誰か絞られてきました。ここで言う異邦人とは主人公・ムルソーのことです。ムルソーは小説内で一番浮いた存在で、無神論者として神の権威や道徳、因果律に背いて生きております。ムルソーの口から語られる言葉にもそれが滲み出ており、ムルソー自身がそれらと形而上学的に伍するつもりが無いことが現れております。

 

そんなムルソーにとって、今暮らしている所は昔から住んでいるところであり通常であれば故郷であり本人にとってもそれは間違いではないといえます。

ではその事実をもって、自分の故郷はよその土地と比べて特別かと言われればそうではないといえます。無神論ムルソーは他の市民と折り合えない部分があり、それを奇妙な視点で見る人は多かったと思われます。それはあたかもよその土地でよそ者として見られるかのようにです。

そのためムルソーにとってはこの世界は全て異国であり生きている限りそうなのです。この世界においてムルソーはどこでも「異邦人」なのです。

そのムルソーにとって自分の「国」ではないキリスト教社会は異国であり、自分によってたかってキリスト教社会に引き込む人々とは折り合えないのでした。神の名において悔悛を迫る人々、母の葬式で特別に心を痛めない自分を奇妙なもののように見る人々・・・、それらはムルソーに対する凌辱でした。

そんなムルソーが死刑判決を受けた時、彼はこの異国から実質的に追放され、ムルソーキリスト教社会から自由になったのです。「この世の優しい無関心」に幸せを覚え、処刑の日に群衆が自分に憎悪をぶつけることを望むのは、もう異国と偽りの契りを結ばずにすむからです。異邦人たるムルソーが異国と真の意味で縁を切り、異邦人の安寧の地を得ることが出来たからです。

 

したがって、この物語はこの世の異邦人たるムルソーが異邦人の安寧の境地に至る物語だったのです

 

 

【おしまいに】

 

 

この「異邦人」は一見すると難しい話ではあるものの、ただ普段無視されがちな矛盾や苦痛を強烈に描写している作品だと思いました。なぜ宗教、道徳、社会規範は自分の中の違和感を語ってくれないのか、そんな物に交わって暮らしたくない、そのような叫びが聴こえてきそうな作品でした。

 

最近はコミュ障、社会不適合者、陰キャ・・・という言葉が生まれるほど、個人と社会との摩擦を感じる人が少なくないことが明らかになってきました。その理由は様々でしょうが、この「異邦人」は少数とはいえない人々の感じるそのような違和感や不条理をありありと表現した作品であると思いました。

 

そして、そうした感情の吐き出しどころまでも何者かに封殺されており抑圧されているという現状も表現されておりました。ムルソーの殺人から処刑まではその部分をかなり強調して描いております。これは、そこまでしないとムルソーの思想や信条を人々に分からしめられないほどムルソーに対し何者かによる「言論弾圧」が甚だしいことを強調しているものと思われました。

 

あるいはそうした社会規範から外れる行為が社会では「殺人同然」の行為として語られる一方で、本人からすれば安寧の地への旅立ちであることを描いているのでしょう。

 

これをどう思うかは人それぞれですが、この作品がこの世界で暮らす人の誰かを代弁していることは間違いないはずです。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

2021年8月18日

いじめへの「償い」とは?

こんにちはずばあんです。

 

東京オリンピック2020も終わってこれからはパラリンピックが行われます。

 

さてここで思い出すのがあの小山田圭吾さんのことです。小山田さんは過去に雑誌の取材で少年時代のいじめを告白し、その事がオリンピック開会式の音楽担当となった小山田さんへのバッシングとなりました。小山田さんは最終的に担当を辞退しましたが、今でも小山田さんの動向は注目されております。

 

さて小山田さんはこのバッシングの最中、この件について声明文を出しました。その中で「今からでも自分がいじめた本人を探し出して謝罪したい」と述べました。

 

しかし私はこの声明文を見て、誰に向けた声明文なのだろうかと思いました。いじめた相手に対する謝意に見せかけた、世間に対する弁解の文書のように私は思いました。もちろんオリンピックの開会式の音楽担当という身分で迷惑をかけたことは事実です。ですが、そこでいじめの反省の弁を述べるのは償いではなくバッシングを沈静化させたいという魂胆が滲み出ているように思いました。

 

私はこの件で改めていじめの償いの件について考えさせられました。今回はこの件について語らせていただきます。


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【いじめは償えない?!】

 

 

いじめの償いとは「賠償」という言葉からイメージ出来るように、いじめで与えた苦痛を治癒するのに見合うことをすることです。

謝罪はもちろんですが、いじめた相手の名誉や精神的苦痛や身体的苦痛で失ったものを回復する行動はいじめへの償いといえます。

 

ここでいじめの償いと言いますと、償いが終わると双方が和解して仲良くなるイメージがあると思います。それまでの罪が完済され双方の関係には過去のことはさっぱりと無くなるというイメージがあると思われます。

確かに現実にそうなることは望ましいですが、実際にはそうしたいじめの償いの終わり方は無いと思われます。

 

というのは、いじめによって改変された、あるいは壊されたいじめられた方の人生は返らないからです。人間に対する信頼感、大切にしていたもの、大事なことに打ち込む時間など一度壊したものは返らないからです。場合によっては精神疾患などの後遺症が残ることもあります。

 

それに失ったものが後から分かることもあります。そしてそれがすぐに言葉で表現できるものではなく、分析の手間をかけてようやく分かることがあります。分かった時はまだましでしょうが、それまでのいじめた相手の苦痛や身の潔白はどうするつもりでしょうか。その間の出来事に責任を負えるのでしょうか。

 

先程いじめの償いは失ったものを回復することと述べましたが、実際には無理だといえます。失ったものは原則返りませんし新しいものを築くほか無いのです。だからいじめの償いで失ったものを回復するという出来もしないことを償う相手に宣言することは、相手に二重の苦しみを与えることとなるのです。

 

失ったものは返らないこれがいじめの前提です。

 

 

【「償いをしてやった」という気になる罪】

 

 

いじめの償いをお互いが「元通りに回復すること」と考えることは、私は傲慢だと思います。

先程申し上げた通りそれは不可能なことであり、そこには新しいものが作られるだけです。その事に目を向けず自分はいじめを償うと言う「権利」があると思う人は沢山おります。

 

いじめの償いが出来ると思う人は、自分は相手のダメージを回復できると認識しており、相手にそれを施すことが相手の利益になると考えております。しかしそれは誤りであると思います。

 

いじめのダメージというのは基本的には回復できないものですが、それを回復出来ると思うのは相手がそこまでダメージを負うことが間違いなのだと考えている証なのです。それは自分の罪を測れておらず、その罪を相手に転嫁するのに等しいことなのです。

もちろんそこまで考えてなかったという人もいるでしょうが、私が思うに「お前のせいで自分は恥をかいた」と言っているのと同じことなのです。

 

これは第三者にもお伝えしたいのですが、いじめられた方はいじめた方と「元通りに回復する」理由はないのです。この問題提起は勝手にいじめっ子がいじめを仕掛けたことから始まっているのです。もしそこでいじめっ子との関係の「回復」を目指せば、いじめっ子はいじめられっ子に試練を課してやった神様のような存在になるのです。何様のつもりでしょうか。自分が主人公の神話を描くためにいじめをしてきたのでしょうか。

 

もちろんこれは、いじめられた方はいじめ対策をしなくていいということではありません。むしろそれはした方がいいと思います。ただそれはいじめっ子のためではなくいじめられた方の為なのです。誰か他人のためではないのです。本人のいじめ対策の意義にいじめた方の影が出てくることがマイナスなのです。

 

もしかしたらいじめた方はそれで自分が犯した罪への償いを支払うことが出来ると思っているでしょうが、いじめられた方からすればそれに巻き込まれることは屈辱です。こういうと「社会ではそういう場面が出てくる」という弁解をする輩もいますが、いじめた方はいつから教師や牧師や裁判官になったのでしょう。その人にとって罪の償いとは自分のやったマイナスをプラスのことにごまかして、恩を売ることでしょうか。恩着せがましい発言です。

 

いじめた方の中には不満があるなら言えと言わんばかりの態度で臨む者もおりますが、それで建設的なことを言ってくれるのは余程仲の良い部類であります。実際にはいじめで信頼関係を壊した者にそんな「答え」を提示する謂れはありませんし、それに気づかない人間と関係を「回復」することは損害なのです。この時点でいじめた方にいじめを償う権利は無いのです。

 

「償いをしてやる」と言わんばかりの態度とはこの事を指すのです。

 

 

 

【いじめからの立ち直り≠償われること】

 

 

さて、次はいじめられた側の話をします。

いじめられた方が立ち直っていくことが大事なのはもちろんですが、そこで覚えておくべきなのは「いじめた方を許す必要は無い」ことです。

 

いじめた方はいじめをした時点でいじめを償う能力を喪失しております。そのためいじめた方に対する不信感や不快感を解消する必要はありませんし、その手続きはいきなりすっ飛ばしていいのです。

 

これはお金の貸し借りと同じです。お金を借りてどう考えても返せない人は最終的には自己破産します。自己破産した人は自分の負債が無くなる一方で、公式に社会的な信用が無くなり今まで出来ていたことが不可能になります。クレジットカードは作れませんし、ローンを組めませんし、お金を借りることはもちろんできません。

 

いじめた方もそれと同じく、相手方からの信用を失い関係回復や償いも含めて人間関係に関する行為を取り合ってもらえなくなります。償いはもちろんできません。だからいじめた方を許す努力はしなくてよいのです。

もしかしたらそれに対していくらなんでも可哀想と思われる人もいるでしょうが、そう思うのであれば出来もしない償いをさせることの方がもっと可哀想だと思います。このあとお伝えいたしますが、別のケジメの付け方を早くさせる方が余程いじめた方への思いやりだと思います。

 

話が横道にそれましたが、いじめられた方は今後いじめられないようにどう工夫するかが必要だと思います。それが出来なくなることはそれこそ自分を傷つけることになります。

 

しかし、そこでいじめた方のいじめのお陰でそうしたのだと思い込んだりする恐れからなかなか実行に移せない人は多いと思います。実はずばあんもそれで苦しんだ一人でした。そのためこの苦しみを以ていじめられた人を「ダメなやつだなあ」と呼ぶことは冗談だとしても絶対に許しません。私たちは見世物ではないのです。

 

ですがそこから抜け出す方法があります。それは・・・いじめから立ち直ろうとすることを辞めることです。

 

私は別に言葉遊びでそういうことを言っておりません。いじめから立ち直るのは自分のためにやるのです。そこには本来よその誰かに誓うものはないのです。受験や就職をする上で、あるいはそれを諦める上で自分に決める権限があるのと同じで、本来は人がどうこういう権限は無いのです。いじめからの立ち直りも同じで他人に誓うものではなく自分が納得した方に動くものです。

 

それにいじめから立ち直るというのはもとの状態に戻ることではなく、新しく力を得ることなのです。全く元の状態に戻り「成功」するのではなく、「失敗」しつつも新しい人生を築くことがいじめられた方の真の回復です。そこではいじめから立ち直ることを目標にすることの有無は関係なくなります。むしろいじめた方という信用のない者が自分の人生に深く関わるより、それをどうでもいい者として扱う方が幸いかもしれません。

 

さて、ここでひとつ弁解しますと、私はいじめから元通りになることを全否定している訳ではありません。結果としてそうなったのであればそれは喜ばしい話です。ただ、それはいじめからの立ち直りのパターンの一つでありそれだけが喜ばしいエンドではないのです。最初から元通りになることを目指すよりもそれ以外でもいじめから立ち直る道筋をとらえた方がいいと私は思いました。その上で元通りになれたならば否定する理由はないと思われます。

 

 

【いじめた方の真の「償い」とは】

 

 

ようやくここで結論となりますが、いじめた方は今後どうすればよいのでしょうか。

 

小山田圭吾さんの件では小山田さんは少年時代にいじめをした後にいじめた方に償いをせず、それを自慢気に雑誌で語るという行動に走りました。そのあとも事態の風化を望み続けた果てに今回の騒動になったのです。

 

これは私が望む結末ではありません。いじめの償いが出来ないから償いをしないというのは、これからも元いじめっ子として開き直ったり悦に入ることではないのです。そして、その風化を望むことでもないのです。いじめを償いたいという気持ちは捨ててはいけないのです。

 

ではどうすればいいのかというと、何にせよいじめた相手とは一度絶交しましょう。絶交して一旦赤の他人同様になりましょう。

 

いじめというのは双方の関係性の不全、すなわち折り合いの悪さから始まるのです。親しくなった実績がないのにいきなり親しかったかのように考え、そうでないのが悪だと考えるからいじめをするのです。だからいじめを辞めるには一度絶交する、というよりは元からそうであってそれを拒む権利がないことを受けいれましょう

 

そこから縁が遠くなるか、新しく仲良くなれるかは一度絶交してからの話なのです。そうでないといつまでもいじめをしてしまうのがいじめる方のありのままなのです。そんな関係性だから初めからいじめを「しない」ことが出来なかったのです。だからいじめた後の双方の関係をそのまま回復するという営みは、いじめる方にとっても利益のないことなのです。

 

これはいじめをした人で償いを本気で考えている人に特に聞いてほしいことです。いじめをする時点でいじめを償って関係を繋ぎとどめる能力は無いのです。そのため本当に償いをする気持ちがあればまずは向こうとの関係性をリセットするべく一度絶交して、その上で相手と新しい関係性を築くことに移ってほしいのです。

 

これはいわば新しい自分になるようなものです。いじめをした本人には自分自身というのがあるでしょうが、それが相手にとってもそうではないのです。相手は自分の行為だけを自分として見ているのです。いじめもその一つです。だから、いじめを辞めることは、相手との関係性を一度打ち切り、いじめっ子である自分を一度殺すことなのです。

 

その後にどうするべきなのかは、申し訳ありませんが各自で自分がこれまでどのようにして作られ生きてきたかを探るほかないと思います。人がいじめをしない理由に対して、いじめをする理由は無尽蔵にありそれぞれ理由が異なるからです。自分がいじめをした理由は自分に特有なのです。

 

これで最後になりますが、自分のいじめの責任を人に擦り付けるのは当然アウトです。しかしいじめの原因を自分以外のところにも求めること自体は悪くないと思います。自分という人間は人から影響を得て作られていますので、その前提は間違ってはいないと思います。

 

その上で自分の責任を果たすというのは、自分がまともな人間になるために努力をすることです。その努力には自分の回りの人間関係を改めることも含まれます。環境を変えることも努力に入ります。悪い人間と絶交することは難しいと思われますので、その時にはその事で人の助けを借りることも大事だと思います。

 

いじめを真の意味で償うことは出来ませんが、いじめた相手を思い行動し反省することは出来るのです。

 

 

【おしまいに】

 

 

内容は以上です。

 

前回の小山田圭吾さんの記事からの派生記事ですが、小山田さんはいじめの反省や償いが出来てないのにそれが出来たかのように振る舞ったのが罪なのです。

小山田さん以外の人物でも、いじめの償いはしたいという人間がいてもそれを出来た人間は未だ見ておりません。そしていじめられた方は何となくそれに気付いているのです。

 

私も意地悪ながら「傷付いた人間のことも考えず壮大なパフォーマンスだな」と正直思いました。いじめられた人間はいじめた方の名誉回復なんぞに関わりたくないのです。

私も昔いじめとまではいかなくとも、自分に不愉快なことをしてきた人間を謝罪してきたから許したことがあります。しかし、その後も根本の部分が変わらずいつ自分にまたそれをやって来るか気が休まらず、その人間をさも立派な人間のように立てるのが正直苦痛でした。その人と別れてから時間は流れておりますが今も少し後悔しております

 

いじめでなくてもそこまでのダメージを与えるのに、いじめならば尚更なのです。だから文字通りいじめを償おうと本当に目指すことは、いじめられた方に対する更なるいじめなのです。

 

だからいじめが起きたときは償いではなく反省と関係の解体をまずしなくてはなりません。地味かもしれませんが、それが出来ないならばいじめの償いをしたいという言葉は軽々しいこと甚だしいでしょう。

 

とはいえいじめの過去がある人をいつまでもそれを理由に問責するのはいくらなんでも酷だと思います。いじめは本来は二者間の問題であり、それ以外の人間が当事者の意思なしに何か行動を起こせることはないからです。

 

いくらいじめが償えないからといって、永久にその事実をほじくり返すことはそれもまた新たないじめであり、反省から遠ざけ小山田圭吾さんのような開き直った人を産み出すことになります。

 

何にせよいじめが終わってもなおいじめで苦しむことが少なくなるようにすることがいじめの総括だと思います。

 

本日も最後までありがとうございます。

 

 

 

2021年8月13日