ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】「歎異抄」(親鸞・唯円)

 

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こんにちはずばあんです。

 

本日は読書感想として、親鸞唯円の「歎異抄(たんにしょう)」の紹介をいたします。

 

歎異抄の説明をする前に作者の親鸞(しんらん)について説明します。親鸞は日本の仏教の一宗派である浄土真宗の開祖です。親鸞鎌倉時代に、人々が死後に極楽浄土に救われるための方法として念仏を唱えることを説き、それが浄土真宗として伝わることになりました。

 

浄土真宗は自力で修行をして悟りを開くことが出来ない大衆が極楽浄土に行くための方法として念仏を唱えることを示しました(悪人正機)。念仏を唱えることで慈悲深い阿弥陀仏から救われることを目指し、その事を疑わず信じて念仏を唱えることを大衆に促しました(専修念仏)。

 

そしてこの歎異抄が出されたのは親鸞の没後でした。

親鸞が布教活動を行っていたときから善鸞などの弟子が親鸞の教えを歪曲して伝え、それが世の中に蔓延る事態が発生しておりました。親鸞の没後はそれがますますひどくなりました。これは人々に専修念仏・悪人正機を説く浄土真宗の信用が揺らぐ事態でした。

歎異抄が出されたのはその時のことであり、上の事態を危惧した親鸞の弟子の唯円がそれを正すためにこの歎異抄を記したとされます(なお唯円以外の著者の説も一部で論じられておりますが、現時点では唯円が著した説が最有力とされております。私もこの唯円説に則り語らせていただきます)。

歎異抄親鸞の唱えた浄土真宗の教えを正確に誤解なく説明し、その上で世の中に蔓延る間違った教えを訂正していきます。文庫本にして本編60ページ足らずという短い内容ですが、浄土真宗においては重要な書物のひとつとされます。

 

今回私はこの歎異抄を読ませていただきましたが、それは私が浄土真宗門徒に入ったり逆に浄土真宗を批判するためではなく、あくまで著書のひとつとして読書を楽しむために読ませていただきました。

 

私自身は浄土真宗に詳しい人間ではないので教義について評論する発言は、一般常識の範囲で控えていきます。あくまで歎異抄を初めて読んだ人間の所感として本の感想を語らせていただきます。

 

 

【内容】

 

 

歎異抄の構成は前篇と後篇に別れます。

 

前篇では序文と第一条から第十条までで親鸞の教えを正確に分かりやすく述べております。後篇では序文と第十一条から第十八条までと後記が記され、親鸞の教えに対する曲解や誤解について正していきます。

 

 

〈前篇〉

まず親鸞の教えを説く前篇では、序文で親鸞の教えが世の中で曲解や誤解をされ、唯円がそれを嘆き世の中を正すために歎異抄を記した旨が説明されます。

第一条では阿弥陀仏が万人を救おうとしていることを、第二条では親鸞も念仏にすがるしかない身でありその上で念仏をひたすら信じる他ないことを説いております。

第三条では修行をして悟りを開けない人々が阿弥陀仏に帰依し極楽浄土に行くという悪人正機説を説いております。

第四条では聖人の道により仏門に入ることの困難と比べ、阿弥陀仏を信じ頼ることによるより簡単で確実な道を示しております。

第五条では自分の力ではない阿弥陀仏から授かった力で全ての命を救うことを、第六条ではそれに師匠・弟子の区別に関係ないことを説いております。

第七条では浄土真宗の信者は他の教えや宗教によって裁かれないことを、第八条では念仏による恩恵は全て阿弥陀仏のおかげであり本人のお陰ではないことを説きます。

第九条では人々が極楽浄土に行く道を素直に喜べない心情を煩悩の仕業とし、阿弥陀仏はそれも憐れみ救おうとすることを説きます。第十条では念仏は人智を越えており自己解釈してはならない旨を唱えております。

 

〈後篇〉

続いて後篇では前篇で述べた親鸞の本当の教えと異なる風説を正す内容となっております。

序文では浄土真宗が世の中で広まったなか、親鸞の教えと異なる内容も広まっている現状を述べます。

第十一条では阿弥陀仏の力としての念仏と言葉としての念仏の違いについて、どちらも信じる上では同じものであると正します。

第十二条では、念仏の教義研究でもって信心の優劣を語ったり念仏に対する不信を論破することを批判し、それらがなくとも念仏を信じれば極楽浄土に行けると正しました。

十三条では阿弥陀仏の力を傘に着て悪いことをすること(本願ぼこり)を批判し、善行や悪行は過去の行いの結果であり阿弥陀仏による救いとは関係ないと正しました。その上で自分の善に疑問がある人でも阿弥陀仏に帰依すれば阿弥陀仏に救われることを説きました。

第十四条では念仏の力を自分の罪を消す方法として濫用することを批判し、それは自分の力ではなく阿弥陀仏の力であると正しました。その上で、もし病などの不測の事態で念仏を唱えられなくなっても阿弥陀仏を頼りにする心があれば救われるとも説きました。

第十五条ではこの世で悟りを開くことの厳しさや難しさを語り、阿弥陀仏に帰依すれば誰もがあの世では悟りを開くことができると説きました。

第十六条では阿弥陀仏に帰依することと自分の考えを交えないことは別だとする考えを批判しました。その上で阿弥陀仏に一度帰依を誓えばそれでよく、その後は心に過ちがあってもその度に誓いを立て直さなくても良いと説きました。

第十七条では辺地の浄土に生まれたものはゆくゆくは地獄に落ちるという考えを批判します。その上で辺地の浄土に生まれてもその罪を償えば本当の浄土に行けると説きます。

第十八条では寄付の大小が仏の大小に繋がるという考えを批判します。仏に大小は無くお布施の行も信心が無ければ意味がないと説きます。

後記では親鸞から聞いた、親鸞の師である法然(浄土宗の開祖)上人とその弟子の話から信心はそれ自体が阿弥陀仏からの授かり物であると述べます。その他親鸞の発言から人間の罪はあまりにも深く、阿弥陀仏の慈悲がとても深いことを説きます。その上で悟りの境地に達せない人々(凡夫)にとってこの世に語り尽くせる真実は無く、念仏の行が真実であるとも説きます。そこから親鸞の教えと異なる教えに惑わされ極楽浄土に行けない人が出てくることを憐れみ、そうした人々を減らすために「歎異抄」を記したことを説明します。

このあとに法然親鸞流罪の記録が記され歎異抄の記述は終わります。

〈終わり〉

 

 

ご覧のように歎異抄は人々を極楽浄土に導く阿弥陀仏の存在を示し、阿弥陀仏がどのような存在なのか、阿弥陀仏はどれ程の力があるのか、その阿弥陀仏を信じ頼るとはどういうことかを述べます。

その上で誤解や曲解を批判し、それを正す形で上のことについてより詳しく説いております。

 

これは浄土真宗というものが大衆のための、大衆が信じられる、大衆を救う宗派である姿勢を再確認するための書物であります。短い内容でありながらも、一つ一つの言葉が含蓄がある無駄がなく理路整然としたものとなっております。

 

この書物は浄土真宗の専門的な知識が無かったとしても内容を理解できるようになっております。文庫版では原文の漢文体に加え、書き下し文と現代語訳、解説が書かれており、初めて読む人でも敷居の高さを感じさせない作品となっております。

 

 

【感想】

 

 

この歎異抄ですが、浄土真宗の僧侶や門徒に向けた教典という要素を抜いても、人間一般が感じる人生に対する疑問や苦悩に平易にかつ明快に答えているところが評価ポイントでした。

正しい行いをしてなぜ報われないのか、どうして善行をしようとしてた人が善行を全うできないのか、なぜ善行というのがややこしくなるのか、善行と悪行の区分が曖昧な中で何をどう信じるべきか、なぜそれを信じられるのか、そうした疑問や悩みに答えているのがこの歎異抄です。

 

結論から述べますと、歎異抄で出てくる「阿弥陀仏阿弥陀さま)」は上の様な状況で信じるべき存在として描かれております。阿弥陀さまはいかなる罪業を背負った人々にも慈悲の心を持ち、信じる生けとし生きる人々を極楽浄土に導く者とされております。

 ではこの阿弥陀さまを信じなければいけないのはなぜなのでしょうか。

 

 

〈1.善行をしても報われない?!〉

まず常識として善行を積んだものはあの世で安穏な境地に達することが出来るということはイメージしやすく思います。

しかし、その実行は難しくその方法を実行してもなかなか報われないことも珍しくはありません。善行が善行たる条件はものすごく狭くそれを実行できない者の方が圧倒的に多くなります。そうなると善行というのは人々を救う道というよりは、それができない人々を切り捨てて放置するための方便となりかねません。

私自身もそれを実行できない方なので難しさはわかります。

 

 

〈2.真面目でも善行は全うできない?!〉

とはいえ善行を実行したい人々は沢山いると思われます。しかしその大半は実行できずに終わってしまいます。

その理由は様々であり、欲望に負けたから、正しい方向に善行が出来なかったから、善行の数多くある条件のうち飲み込めない者があったから、などがあります。一見してそれは正当な理由だと思われますが、実際にそれをストイックに実行するのは難しいです。よもすればある善行と別の悪行が同一であり、そうなればそこで自分の拭いがたい「悪行」が意識される場合もあります。

ここで意識される「悪行」については私としては理不尽な物が沢山あると思われます。自分の意思で悪行に手を染めたのであればともかく、自分の意思の預かり知らないところや苦境からやむを得ず犯した悪行もあると思われます。私が以前述べた「毒親」問題も、子供に道徳が教えられず道徳の欠如した人間になるという問題があります。毒親の世代間連鎖(これを白雪姫症候群といいます)という問題もあり毒親問題は単なる自己責任で終われないこととなっております。

そうなると悪行をせず善行を遂げるというのは自ずと潔白主義を伴うものとなります。ここで善行を全うする方法は「邪魔者」を最初から切り捨て、純粋培養のなかで生き、潔白を証明する事となります。そうでないと「悪行」になり、人生そのものが悪行と捉えることが出来るからです。さもなくば自分や他人に物凄い理不尽をかけながら自分の悪を浄化(ロンダリング)するなどしなくては、自分の善行は証明できません。

何が善行なのかを見いだすときも同じで、自分が善行を確かに行うには他人の試行錯誤を生け贄にしてそれを行うほかありません。他人の失敗を他山の石にするならともかく、他人にわざと失敗させるという「実験」をすることもあります。これで他人は悪行に染められましたが、自分はそれをやってないので善行をなんの気兼ねもなく出来ます。

 

 

〈3.善と悪は混沌の中に・・・〉

さてここまで見て、これを善行だと思う人はほとんどいないはずです。これはたちの悪い潔白主義でありそれを実行する人間は間違いなく危険人物です。だから普通はそんなことしないのです。ただ、やはりそこまでしないと善と悪を分かち裁く「何か」は善行と認めないのもたしかです。それ以外は「汚い」「性格の悪い」と切り捨てるのが善行を拾う「何か」なのです。

そうなると自分の善を証明しようとする行為事態が悪魔との契約に思えます。そんなものは証明しようとするよりは、積極的にしない方向に動くことがよほど善に思えます。いや、そもそも自分たちの生が悪魔のそれそのものであって当初より悪なのかもしれません。そんなものの善なぞ誰が証明するのでしょう。

こうなると絶対善は存在せず、善は自分の拭いがたい業とその時の状況で気まぐれに決まり、何か心の中に善を抱えていてもそれは幻で冷笑されるべき何かなのでしょう。

 

 

〈4.ここで信ずるべきものとは〉

上のように圧倒的な不信感以外に信ずるべきものがない状態は何にせよ不健康でマイナス要素です。では、そこから抜け出すにはどうすれば良いのでしょう。

ここで信じるべきなのは、圧倒的な善すなわち博愛であると思います。ただそれは現実にそのような施しをしている人物を探し求めるという意味ではありません。そのような人物がいたとしてそれを拒まずに迎え入れる準備をするということです。それはまたコツのいることであり万人が思い付くようなものではありません。そのため、その術を知る者が啓蒙して世の中にその考え方を広げなくてはなりません。

歎異抄ではその迎え入れるべきものを「阿弥陀さま」として具像化しました。博愛と慈悲の権化である阿弥陀さまを信じることにより人々に何か信じ不信感を晴らすことを説いたのです。

 

ではなぜそれを信じることが出来るのでしょうか。

その理由を端的に述べると万人を救おうとしているからです。罪や悪行から逃れられない人々でも救おうとし、あるいはそれに対し疑いを拭いきれなかった者までも救おうとします。

これは救われるべき条件や自分が生き延びるための条件を定めているようなものよりかはより疑わずにすみます。確かに人を選り分ける事が必要とされる場面は必要かもしれませんが、それが全てで他は虚無であるとは思えません。何か自分を拾う所においてそれを信じることは自分の人生を豊かにし、活力を沸き立たせると思います。その自分を拾うところの代名詞のひとつが阿弥陀さまなのです。

 

このことは単に阿弥陀さまのみならず、そのような意識で人生を歩む人々がおります。医療従事者は治療する患者が何ものであろうと治療を施します。

2019年に発生し、多数の死者を出した京都アニメーション放火事件の犯人は重度の火傷を負いました。命の危機をさ迷った犯人ですが、医師たちからの懸命な治療により一命を取り止めました。その時に治療に当たった医師は「犯人には生き延びて罪を償ってほしい」と語りました。

このように大量殺人を意図的に起こした者に、救命を施す医療従事者の心境は人の生の価値を強く信じる者のそれです。それはただ仕事だからで割りきれるようなものではないと思われます。医師の仕事は専門性や技術レベルも高く極めて特殊な環境で行われます。当然その選出や修業では多くの人々が弾かれます。その中で選りすぐられた医師のマインドは、多少は博愛精神と関わりがあるのではないのでしょうか。

 

 

〈5.信ずるべき者への信じ方〉

このように信じられるものが少ないこの世で信ずるべきものを信じるのはちゃんとしたやり方があります。

歎異抄はそれを浄土真宗の信者に説いたものですが、一般人にも通じるものがあると思いました。

 

その上で慈悲を持つ者を信じて生きていくときに陥るかもしれないワナがいくつかあります。

 

一つ目は信ずるべき者を疑い、余計なことをすることです。自分を救おうとしている者から裏切られるという疑いを捨てられないことは珍しくはありません。もちろんそれが無くなることは望ましいですが、そのために余計なことをする人もおります。例えば変な便宜や貢ぎ物をして不正を働いたり、勝手に人を比較し区別したりすることです。よく考えれば真に慈悲深い者の博愛がそれで変わるとは言えないのですが、どうしても捨てられない疑いがそれを歪ませます。

歎異抄では親鸞上人にすらその疑念があったことを説明し、その疑念を持つものでも阿弥陀さまはお救いになることを前篇で語りました。後篇で語られる世間の誤った教えでは、仏教の知識や研究、お布施の多さ、罪滅ぼしへの期待などが語られておりますが、それはいまだ捨てられない疑念から来ているものです。

最近の経済学の研究でも、他人を信用しないことにより掛かる社会的経済損失が計算され、それが膨大なコスト負担として人々にのし掛かっている事が明らかにされました。他人の信用度を審査する上で調査費用や選考費用は膨大なものとなっており、それは経費として企業の財政状況などを逼迫させる要因となっております。

このように信じるべき者を信じられないことは損失であり、歎異抄ではその現れとしていくつかその例を指摘しております。その上でそうした疑いで行動を惑わされないようにすることを説いているのです。

 

 

二つ目は信じるべき者からの施しを自分のものと勘違いすることです。自分が世の中への厭世感から離れ何か強い信念を持って生きれるのは自分の信ずるべき者のお陰であり、それは自分一人で成したことではないのです。そのため自分の何か悪い性がそれで消える訳ではなく、自分の身の潔白や崇高さが担保される訳ではないのです。

また人の性格はややこしい過去の因果で決まるところがあります。その苦しみから抜け出す方法として信じるべき者からの施しを借りながら正気を保ってこの世で生きられるのです。

歎異抄では浄土真宗の教えは全てが阿弥陀さまからの施しと捉えられ、親鸞上人の言葉や師弟間で伝えられる教え、阿弥陀さまへの信心もそれに含まれます。後篇で示される曲解では、阿弥陀さまに頼らず悟りの境地に至ることの困難や現世で悟れるという誤解、自分の潔白を念仏で実現できるという誤解を語ります。そしてそれらの誤解が阿弥陀さまの力を自分の力と勘違いするところから来ていると指摘します。

私はこの人生の業と信じられる人からの施しの分離という考えは素晴らしいものだと思いました。先ほどの信じるべき者への疑いと合わせて、自分の人生の業に疑いがあっても信じるべき者からの慈悲は本物であると信じることの大切さを教えられました。その慈悲が真に自分のものにならないことに戸惑っても、それは間違いではないと言ってくれることで心に折り合いがついた気がします。別にそれは自分のものにならなくてもよいし、そちらの方が良いのかもしれません。

 

自分に慈悲をかけてくれる存在を受け入れるという営みが心の安息に繋がるのは生きる上で一度は知っておきたいことです。その上でそれが嘘であると言われることの恐ろしさはどうしても否定はできないと思います。嘘かもしれないから信じる対象に貢ぎ物や自己の信心の証明や忖度をしたり、信じる対象の施しを自己所有化しようとするのです。

しかしそれはむしろ自分の信心をますます疑わせることに繋がり、何よりも他人に対する悪行ですので誰も得しないことです。そのことを指摘し人々の行動を正そうとしたのがこの歎異抄です。

この不安に目を向けたこの書物は人生に言い知れない不安感を持つ人は読まれることをおすすめします。

 

 

【おしまいに】

 

話はそれますが、私はあるときこんな疑問が起こりました。

 

・・・念仏を唱えれば極楽浄土に行けるというのであれば、Twitterで念仏をコピペしてツイートしても極楽浄土に行けるのだろうか?

 

その事について仏教に詳しい友人に尋ねたところ「念仏は阿弥陀さまに帰依する気持ちを表すものなのでただ字面をコピペしても、念仏を唱えたことにはならない。」と答えてくれました。

今回読んだ歎異抄の十一章でもその事について語られており、念仏は信心の前においては阿弥陀さまの力としても呪文としても、力を同じだけ発揮すると書かれていました。つまり念仏が効果を発揮するか否かは信心次第ということなのです。少なくともコピペしてツイートしても信心は疑わしいですし、それならば本当に念仏を唱えたほうがいいのでしょう。

 

そのような疑問を抜いても、歎異抄浄土真宗と深い関わりがない人にも大事な事が書かれているので、是非とも読んでほしい書物です。歎異抄の後記の一番最後には「浄土真宗の信徒以外に見せないでください」と書いてありますが、それでも多くの人に見ていただきたい書です。

 

本日も最後までありがとうございました。

 

2021年7月27日