ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

創生出来ない田舎の何故?

    こんにちは、ずばあんです。

 

    この前衝撃的なニュースを見ました。

 

・町おこしのためのカフェが......

 

四国の某市にて、公設(国・市)の観光施設で2016年から営業してきたカフェのオーナーのA氏(東京からの移住者)に対して、施設の指定管理者のNPO法人理事長のB氏が、2021年頃から立ち退きを求め始めました。

 

B氏が立ち退きを求める理由は、カフェの経営についてA氏がB氏の行為を市役所に抗議をしたことが事実無根で不当なものであったためというものでした。それに対してA氏の主張は、B氏から度々不当な要求をされたりセクハラやパワハラといえる行為を受けたと言うものです。2021年から始まったB氏の立ち退き請求について、A氏は市に相談しましたが、解決策は講じられず、2023年2月には市の方から退去を求められたというのです。

 

A氏はこの事についてSNS上で発表し、B氏の行為と市の対応を批判しました。それによりこの問題が世間に出てくることになったのです。

 

そしてこのA氏の暴露について、ブロガーの方が調査を行ったところ、カフェの入居する観光施設は本来の用途は観光案内所であり、カフェのような「営利事業」は不適切だったのです。カフェの入居を認可した市の不備が分かったのです。

 

観光施設は、元は市内の河川修繕事業による立ち退きの補償として作られた施設でした。そしてB氏は立ち退き反対派への切り崩し工作の中心人物だったのです。そのB氏から施設に飲食店を誘致する提案を受けた市は、河川修繕の件もありB氏の提案を飲み、飲食店の誘致をしA氏のカフェを認可したのです。

 

つまりこの問題は、地域の有力者と移住者の双方のみならず、その橋つなぎ役の市もコンプライアンスや法律面において重大な失態を犯していたというものです。

 

私はこのような人物や自治体が、創生や町おこしをする資格は無いと思っています。それは移住者へ金銭面や生活面で損失を被らせているのと、この地域の創生を目指す人々をひたすら不幸にし続けているからです。

 

地域の創生については、都市部から地方部にかけて、国から地域そして個人にかけて巻き込む問題です。その上で私が地域創生に思うことを、このカフェ立ち退き問題を土台に素直に書きたいと思います。

 

 

① 都市とは

 

    都市や都会と言われると、ビルが沢山立ち並ぶ駅前や多くの人の行き交うスクランブル交差点、地下鉄などをイメージとして思い浮かべるかもしれません。それは実際にその通りだと思いますし、辞書でも都市は「多数の人口が比較的狭い区域に集中し、その地方の政治・経済・文化の中心となっている地域。」 (デジタル大辞泉)と述べられます。都会という言葉も「人が多数住み、行政府があったり、商工業や文化が発達していたりする土地。都市。」(デジタル大辞泉)と、「都市」と同じ意味です。

 

    では都市はどこでも作れるのかと言えばそうではありません。都市は一定の成立条件や要請が重なり生まれるものです。

    都市が成立するにはまず人の流動の集中する場所であり、それにともないモノや情報が集中する場所でなくてはなりません。

 

    例えば日本だと国の中心は昔は京都、今は東京ですがどちらも交通の要衝(※)であり、そこに皇居・政府、企業が集積し、独自の洗練された文化が興り全国に頒布しました。

(※京都は東海道北陸道などの主要な街道の結節点であり、船舶も瀬戸内海から河を遡りギリギリ到達出来る地点でした。江戸(東京)は関東平野の大規模な治水工事の後に生まれた開拓地が、主要な街道の結節点となったものです。)

 

    ローマや西安、デリーなど、海外の大きく、歴史のある都市を見てもそれは同じであると思います。

 

    そのような都市の重要な機能として、安全の提供があります。外国の都市では顕著ですが、城壁を築き外敵から都市を守ろうとしております。これにより都市内に安全圏を確保するのです。

    安全は防衛面や治安面のみならず、快適な都市の空間を、厳しい自然の脅威や気候の変動から守るという環境面での安全もあります。例えば、カナダのモントリオールには広大で巨大な地下街があり、地下街を出ずとも快適な都市民の生活が可能です。これはモントリオールの長くて厳しい冬の環境の中に都市を形成し都市機能を守るためのものです。

    なお、都市は自由で闊達な思想的活動の場所でもあります。都市は人口の集中点であり同時に情報の集中点でもあります。そこには、学問や芸術、政治の場が生まれます。今でもそうした場は比較的大規模な都市の方が活発ですし、近代化以前はそれらは都市の特権でありました。

    そのような都市の精神的活動は安全の提供無しに不可能と言えるでしょう。そのような活動はもとは余暇をもて余す貴族の特権であり、後に中世の城壁都市民、民主主義社会での進歩的市民、やがて一般市民へと主役が広がってきました。そこには技術や政治、経済の進歩により、安全を享受する都市民が増えてきた事が背景にあることは否めないと言えるでしょう。

 

② 田舎とは

 

    田舎は都市と比べて、人口が少なく建物も少ない、産業や仕事も都会に比べて限られ、情報の流入も乏しい所というイメージがあります。辞書でも「都会から離れた地方。」「田畑が多く、のどかな所。人家が少なく、静かでへんぴな所。」(デジタル大辞泉)と述べられます。

 

     田舎と呼ばれる地域は、都会に比べて面積的にかなり広く、そしてその実態もそれぞれの「田舎」で千差万別です。

    第一次産業の強い田舎を見ても、農業主体、漁業主体、林業主体などそれぞれ違った特徴を見せます。また、山間部、平野部、沿海部、離島という地理的条件によっても特徴は変わります。

    都市との近さを見ても、都市に近くその日の内に行き帰りが出来る所もあれば、絶海の孤島(伊豆諸島青ヶ島など)のように外へ出る事自体難しい所もあります。

 

    それに、そもそも都会と田舎の境目というのは定義が難しいところがあります。

    人口で区別する見方でも、各都道府県の県庁所在地(少なくとも人口20万人台)までを都会とする見方もあれば、100万人規模の都市までを都会とする見方、はたまた日本3大都市までを都会とする見方と、境目の決め方は時や場合により異なります。

    その他、高校や大学などの学校の数や、企業の数、雇用者の数、地域内総生産・総消費など、バロメーターは様々ですが、その中でも都会や田舎の境目は時や場合によってバラバラです。

    

    私もその事情を理解した上で、地方創生や都会から田舎への移住について慎重に語りたいと思います。

 

③ 地方創生

 

    地方創生とは、長年続いてきた東京一極集中により、縮小しつつある地方の社会を再興し日本の国力の回復を図る試みです。これは「地方消滅」(2014, 増田寛也) などで注目を集めました。

    その手法については、集中と選択により地域の拠点都市の強化を図ったり、企業や産業の誘致、地域おこしなど様々な手法があります。

    そこで実現されるべき目標も、域内人口の減少の底打ち線や、コミュニティの存続、GDP達成額など様々です。いつの時点での目標かも様々です。

 

    私は大学時代、この問題について強い関心を持っておりました。地方創生に関する著作やレポート、ニュースを読み漁り、地方創生に関するゼミで日本の医療格差について研究しました。別のゼミでも、畑違いですが、少子高齢化の原因や経済への影響についても調べました。

 

    そんな私が、地方創生政策に思うことをこれより述べます。

 

(1) 都市へのインフラの集中・維持

 

  「地方消滅」を著した増田寛也さんは、日本の地方創生のために選択と集中による、地域の中心都市への人口・資源集中を唱えました。

 

    それにより、小さな多数の集落にも整備された水道や電気等のインフラストラクチャー(社会や経済の基盤となりうる資本、インフラともいう)を1つの中心都市に集中投資、整備し都市の質を高め、中心都市を人口流出のダムにしようとするものです。

 

    私はこの考えには半分賛成です。それは年々国民の生活水準が向上するにつれて、求められるインフラの水準も上がってきているからです。情報社会の深化、グローバル化、医療水準の向上、高等教育進学率の増加......etc、そうした期待に答えられる地方都市の再開発が今求められております。

 

    それにともないインフラ整備を進める必要がありますが、少子高齢化による経済の縮小により限りある金をより有効に使う必要が出ました。そのため全ての市町村に投資するのではなく、各地域の中心都市に限り、生活、経済、文化水準を向上させるのです。

 

    その中で生まれた都市再開発の理想がコンパクトシティです。これは高度な都市の機能が徒歩圏内でおさまる、もしくは公共交通機関による移動圏内でおさまる都市を指します。例としては、公共交通機関(BLTなど)の体系再編を行い、それによる移動圏内に公共施設を集中させた富山市や、福岡盆地に位置し近年大都市として飛躍的な発展をしている福岡市があげられます。

 

    しかし、これは万能な政策とはいえません。地域に圧倒的に大きい都市があればいいものの、地域全体にあまねく人口が分散しているような所では中心都市を決めるのすら困難を極めます。

    例えば中国山地や山陰地方は広大な地域に少ない人口が分散して住んでおります。道路などの交通体系も網の目となり軸を見いだすことも困難です。そうした地域では鉄道の廃止やその検討が早々から行われてきております。もしそうした地域でも選択と集中による政策を行うには、ほぼ一から都市を作るのと同じコストがかかり、本末転倒です。地域をあえて消滅させるのも解決策とはいえません。

    この部分は国レベルのマクロな政策の及ばざる所なので、地域レベルのミクロな対策により任されねばなりません。

 

(2) 農村部等での移住者促進

 

    次に農村部等への移住の話です。農村部等では人口流出や少子高齢化が著しい現状があります。そのために各地では移住促進策が取られています。冒頭のニュースでの移住者も、自治体を通じて移住してきました。このような策は地域の存続のためには不可欠であると思います。具体的には、移住者向けの相談窓口や団体による斡旋、使われてない土地等の提供、子育てへの支援といったものです。 こうして、何かしらの動機を持ち都市部等から農村等に移住者が地域に定着することを図るのです。

 

    ただ、これは様々な困難を孕み、移住者の更なる転出が少なからず起きております。

    一つ目は移住者と地域のミスマッチ、二つ目は移住者の動機の甘さや不純さ、三つ目は地域側の尊大な態度です。

 

    移住者と地域のミスマッチは、移住後に地域での生活に合わなかったり移住目的を叶える場にそぐわなかったりなど事由は様々です。原因としては移住者側の調査不足であったり、地域の側が情報を提供する際に偽りや虚飾をすることにあります。

    移住者の動機の甘さというのは、地域への移住において現実的な見通しを立てず、理想論的な願望の押し付けが強いことを言います。例えば、農村は人が素朴で温和で、野菜をタダで貰える......という幻想がそれです(農村は自然環境が厳しい中で、人数の少ない集落民が集落の維持や自給自足を図っている前提を忘れてはいけません)。

    動機の不純さというのは、地域に移住する際に反社会的行為を画策したり、地域に定住する気がないなど、健全な地域づくりに背く事を意図していることです。実際のケースとして、移住者が大麻を栽培していたり、移住促進制度の恩恵だけを享受して短期間で転出するという事案があります。

    地域側の尊大な態度とは、地域創生の目的を越えた移住者に対する差別的な態度を指します。例えば、移住者にのみ集落単位の仕事を押し付けたり、移住者の私物を勝手に使ったり、はたまた移住者が異論反論を訴えると放火など反社会的行為で反撃するなどです。これは地域創生の目的に適しない、崩壊寸前の地域のその場しのぎの延命にすぎません。

 

④ずばあんの意見

 

    私は、地域創生は、それを地域社会が、中でも有志の方々が切に望むのであれば、目指す価値があると思います。地域創生策をとらなくては、その地域に住む人々の生活や幸福、安全が脅かされるというならば、やる必要があると思います。

    

    一方で、地域創生をする必要があるか怪しい地域もあります。地域民が現状維持を強く望むか、地域を離れることを強く望むなどの場合はその地域の地域創生の意味はありません。地域創生とはそもそも「選択と集中」による国土開発計画であり、その中で「勝ち組」になる事が地域社会には求められております。国策として始まった以上、日本全国の地域は全てこの地域創生策の勝ち組か負け組かというゲームに乗せられているのです。

 

    地域の在り方を変えたくないならばこの地域創生ゲームは辛く空しいでしょう。それならば、もう地域が無くなることを覚悟しつつ現状維持をするという道もあるのかもしれません。

 

    それに、地域社会の意思の前に、地域に住む各個人の意思の問題があります。私はこの地域に住みたい、この地域から出ていきたい、この地域を変えたい、この地域を捨てたい......。日本では各個人に移動の自由が保証されておりますので、この前提が地域社会の構成員という在り方より先立ちます。すなわち、地域住民=土着民ではないのです。

    

    一個人が住む地域を選ぶ理由には、学校への進学ややりたい仕事、稼ぎたい収入という理由があります。これまでの人生のバックグラウンドへの執着も地元を「選ぶ」理由になると思います。こうなると、一個人がある地域に住む理由は各個人の意思にあるのです。

    地域の側からすると、地域創生とはその個人の意思や欲望をどれだけ多く受容出来るかが成功の鍵になるのです。だからこそ、地域創生は①で述べたような「都市」の論になるのです。

 

    それでは始めのニュースのカフェの件は、まともな地域創生といえるのでしょうか。公民共に土着のしがらみに捕らわれ、移住者を特定の権力者のための養分にしようとしたとしか思えません。件の市役所も法を犯してまでそれに加担するのであれば、その地域の存続の意義は疑われて当然です。

    その地域に住む方々がこの状態に賛同しているわけでは無いと思います。だからこそ、この地域の創生がますます困難になったり、地域に嫌気が差すことによる地域の方々の苦しみが分かるのです。それらは悪人らが地域創生の枠組みを悪用した結果なのです。それに対抗するのは、傲慢かもしれませんが「正しい」地域創生論による個人の幸福の回復なのです。

 

 

○おしまいに

    

    地域創生はここ10年ほど各地の「地域おこし」のお題目として使われてきました。それは本当に住民の幸福にかない、人口増加や生活水準向上という結果に結び付いたものもありました。しかしながら、今回の件のように地域の特定個人や集団のための金策のカモフラージュとして悪用される場合もありました。

 

    このような便利な言葉というのは悪用しやすいものです。そんな言葉こそ元の原則に立ち返り、嘘を見抜かなくてはならないと思います。そして、真面目に地域創生をしている人を守り、本当に残したい地域を守れるようにしなくてはならないと思います。

 

    今回も最後までありがとうございます。

 

 

 

2023年8月20日