ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】「海と毒薬」&「悲しみの歌」遠藤周作

    こんにちは。ずばあんです。

 

    本日は遠藤周作の2著作の感想を述べていきます。

 

    その2作とは「海と毒薬」(1958)と「悲しみの歌」(1977)です。この2作は一繋がりの物語となっており「海と毒薬」が前半、「悲しみの歌」が後半となっております。

    そのため今回この2著作の話は「海と毒薬・悲しみの歌」というひとつの話として紹介いたします。

 

    まず「海と毒薬」は遠藤周作の作家活動の初期の作品です。この作品は実際に第二次大戦中の1945年に起きた「九州帝国大学生体解剖事件」をモチーフにした作品です。

    その事件は九州帝国大学(現:九州大学)医学部で当時の大日本帝国軍の指示により、捕虜となった米軍兵士に、秘密裏に生体・解剖実験が施されたという出来事です。事件により九州帝国大学関係者や帝国軍関係者は戦後の裁判で処罰されました。

   「海と毒薬」はこの事件を元に、第二次大戦中の九州の医科大学のある学生が学内の秘密の生体解剖事件に関わる様を描いた作品です。

 

    続いて「悲しみの歌」は「海と毒薬」の続編に当たります。

    1975年の新宿を舞台に雑然とした街の様々な人々の姿を描きつつ、「海と毒薬」で生体解剖事件に関わった元学生の医師のその後が語られます。

 

 

 

【内容】

 

※ネタバレあり

 

(海と毒薬)

 


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    1950年代の東京の郊外の街にある夫婦が引っ越してきた。旦那は気胸の持病があり当地で医師を探していた。すると近隣住民から不気味だが腕の立つ医師を紹介される。旦那はその医師の医院に罹る。その医師の名は勝呂(すぐろ)といい、陰気で淡々とした印象ながら的確な処置を旦那に施す。 

    旦那は後日近所の人間から勝呂が過去に人体実験に関わり有罪判決を受けていたという噂を聞く。

 

    時は遡り1945年の福岡のH大学医学部、戦争の色が濃く空襲も多い最中、医学部のある研究室に医学生の勝呂と戸田がいた。彼らは研修医であり、勝呂は重い肺病の高齢女性の担当となった。

    大学病院には上田という女性看護師がいた。上田は一度結婚し満州で暮らしていたが、夫婦間の不和から離婚し福岡に移り看護師として働いていたのだ。

 

     H大には大日本帝国軍の幹部が出入りしていたが、実は大学と軍部が手を組み捕虜の生体解剖実験が行われていたのだ。勝呂ほか大学の人間は様々な背景、思惑を元に解剖実験に手を出していく。

 

(悲しみの歌)


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    1975年新宿、朝晩色んな人が動き続ける街だ。

    この街に勝呂という56歳の医師がいた。彼は不気味な印象ながらこの街で開業医をしていた。彼は戦時中捕虜の人体実験に関わり実刑を受け、その後は過去の業を背負いながら各地を転々としていた。

    勝呂は訳ありの患者の中絶手術を密かに行っていた。ある時ハナ子という若い女性の中絶手術を行うが、ハナ子を孕ませた男子大学生の山崎と林は勝呂の医院に忍び込み勝呂の過去を知る。

    ある日ガストンという浮浪者のフランス人が勝呂の元にやってくる。彼は病気の老人のナベさんをつれてきた。勝呂はナベさんを診るが末期ガンであった。勝呂はナベさんの治療をするもモルヒネでガンの痛みを和らげるのがやっとであった。ナベさんはガンの痛みに耐えきれず安楽死を請い願う。そして勝呂はある日密かにナベさんに安楽死を施した。

 

    後日大手新聞にて勝呂の過去について暴露される。それにより勝呂の医院には嫌がらせが相次ぐ。ある夜、大手新聞社の折戸という記者が勝呂の元に訪れる。折戸は山崎や林の話から勝呂の過去について調べ記事を書き、また今回の安楽死の話を嗅ぎ付けてきたのだ。勝呂は絶望のなか折戸の話を否定しなかった。そしてその夜勝呂は近所の神社で自害を図る。臨終間際、勝呂は涙を流し悲しむイエス・キリストの姿を見る。

    翌朝勝呂の遺体が見つかりガストンは嘆き悲しむ。そこに表れた折戸は勝ち誇ったような発言をするが、それに構わずガストンは勝呂のことを追慕する。

 

    ガストンは勝呂の医院を去り、早朝の新宿の街で泣く女性を見つける。地方にいる彼女の息子が瀕死の状態らしい。ガストンは彼女を慰め、神に彼女の息子が助かることを願うのであった。

(終わり)

 

    ざっとこのような話ですが、中々救いのない話のように一見思えます。主人公の勝呂は戦時中の答えのない疲弊のなか戦争犯罪に巻き込まれ、その後もその責任を問われ続け何も信じず人生のよどみや濁りを覚えたまま自害しました。

    しかしながら、神という存在がいなくていいのかというとそれも違うかもしれません。神は然るべき所にいて信者のことを見守っておられる、その事が「海と毒薬」「悲しみの歌」のテーマだと言えます。

 

 

【感想】

 

 

    この「海と毒薬」と「悲しみの歌」は日本人にとっての宗教や神様、そしてキリスト教が何かを、苦境や日常生活に反映させて描いた作品であると思いました。

 

(1) 海と毒薬

    まず海と毒薬では、第2次世界大戦中の苦しい世相で疲弊する勝呂らの様子が描かれます。その中で理不尽なことから抜け出したい登場人物は、その気持ちを打破するがごとく捕虜の生体解剖実験に参加するのです。

    彼らには特に強い信仰心や帰依心はありません。浄土真宗を信じ日々お経を唱える患者や敬虔なクリスチャンである外国人看護婦のヒルダが作中に出てきますが、これらは辛気臭いものや説教臭いものとして描かれます。宗教的な有り難みとは対極の印象です。これは宗教に対し現代日本人の感じる「胡散臭さ」を表したものでしょう。

    科学の時代でなぜ神を信仰しなければならないのか、神という理不尽な世界の創造主が何の酔狂で施しを行えるのか、その神を崇める教団は何のつもりでこちらに関わってくるのか。言葉は厳しいですが、宗教や神に対してぶつけられる不信感というのはこういうものだと思われます。

昨今もカルト宗教・教団に対する厳しく鋭い批判が各所で沸き起こっておりますが、そもそもある宗教をカルトでは無いことを証明し区別することは難しいものです。それで宗教や神を疑う考えが異常な考えとは思いません。

    一方で、戦時中のやるせない苦しみの中で際立つ人生の理不尽さは存在しておりました。勝呂は受け持ちの重度の肺病の患者を経過を観る他ない葛藤に苛まれておりました。戸田は優等生の座を転校生に奪われた時のトラウマがありました。上田は1度目の結婚先で冷遇され離婚した過去がありました。それらは人生における傷で深くなかなか消えないものです。

    どれだけ日本が近代化しようと日本人が人生の傷や苦しみから解放されたとは言えないのです。人生の傷なんて非科学的な事を持ち出すなという「合理的」な考えもありますが、むしろそれがかえって心身の不調を招き健康を損ね数あまたの病気の原因となっているのではと思います。私達はいまだに人生の傷や苦しみに蓋をするか直面するかという行動を求められているのです。

   

    本来、海と毒薬は後編が出される予定でしたのでこれは「前編」に当たりますが、「前編」では現代日本人が宗教に対して感じるマイナスのイメージと、人生の苦しみの深さを描いております。

 

(2)悲しみの歌

    続いて海と毒薬の続編である「悲しみの歌」ですが、ここでは勝呂のその後を描いております。勝呂は自分が犯した「罪」に追われながら各地を転々と移りながら医者の仕事を続けてきました。その中で勝呂は人生に疲れ、自分の身の潔白を証明したり言い訳することも億劫になっておりました。

    そして、重度のガンの患者をまた殺すことになりそれを新聞社に嗅ぎ付けられ、自らの人生の業とともに勝呂は自害します。

 

    ここに至るまで出てきた神や宗教の影は、あるページが破られた聖書、勝呂がキリスト教への勧誘を断るシーン、そしてガストンが神に祈り、問いかけるシーンがあります。それら神や宗教は、勝呂の重い人生を鑑みれば吹けば飛ぶほどの無力さや存在感の無さを感じます。

 

    勝呂の人生や神への信仰とは対称的に享楽的で猥雑な新宿の街が描かれます。そこに出てくるのは自己中心的で生意気で小悪党な大学生、権威主義的で自身の体裁のみを気にし家族を顧みない大学教授、道行く男性をそそのかしタダ飯を食べて逃げる浮浪少女・・・などけしからん人間ばかりです。(正直言えば45年も前の50代男性の基準でですので、一部に関してそれは男女差別では?!と思う所もあるのですけども)

 

    こうしてみると勝呂のような人生の傷や苦しみを背負った人間は近代の功利主義的な世界でどれだけ「都合が悪く」「汚らわしい」のかが浮かび上がっていると思います。大手新聞社の若手記者・折戸は戦後(昭和20年代)生まれであり、「悪辣非道な戦時日本」を糾弾・総括し平和で新しい近代日本を開拓しよう、という意気込みが強い男です。しかし、そこには折戸もまた戦時中に戦争を起こした日本人と同種であるという自覚がなく、何の根拠もなく自分達の世代は綺麗な人間であり裁定者であるという傲慢さがありました。人の表層のみを見て、勝呂を糾弾し死に追いやり、自分は悪の蔓延る世界に革命を起こしたのだという「革命ごっこ」に酔いしれているのです。

(もちろんこれは戦後世代は平和運動をする資格が無いという意味ではありません。実体験を絶対の要件にすることこそ傲慢さで平和運動を腐敗・頓挫させると思います。しっかりとした知識や見識、覚悟があれば平和運動をしていいのではと思います)

 

    これは私個人の意見ですが、今の時代というのはクリーンで歪まず、不満がなく、苦労をせず要領が良いものが崇拝され信用され、それ以外のものは処分しようとする流れがあると思います。私もそれで言えば不器用でがむしゃらにみっともなく地味に生きているので、この時代や世界から消えるべき人間の方かもしれません。無限に問われる穢れへの審査は、現世で生存する上でこの世界の法を作ったものから強制されたものと言えるでしょう。

 

    では勝呂は死ぬべきであり、信仰に値する神はいなかったのかというと、それは勝呂の臨終間際で現れたイエス・キリストの姿に答えがあったと思います。勝呂は最初はそれをガストンが泣いているものと思いましたが、それはイエス・キリストを名乗りました。そしてイエスは勝呂に慰めの言葉をかけました。勝呂はキリスト教に入信しませんでしたが、人間が生み出したイエス・キリストとは何者なのかは最期に見ることが出来たのです。

    では結局勝呂のみたイエス・キリストとは何かといえばそれは、自分の矛盾を孕んだ人生を包摂し、人生をあの世に繋げてくれる存在であると思います。それはキリスト教や聖書にあるイエス・キリストではなく、勝呂が敬虔なクリスチャンであるガストンなどから聞いたイエス・キリストのイメージに託した、勝呂が心の底から求めていた存在であると思います。

 

    つまり悲しみの歌でいうという存在は自分の外側において存在の有無が決せられるものではなく、自分の内側におり自分の人生の中で生き人生に問いかけてくる存在なのです。聖書やキリスト教団の語るイエス・キリストとは異なりますが、極限状況でも自分の人生を見てきた存在を悲しみの歌では示しております。個人の人生に注目しそれに問いかけるという営みは無神論者でも行われており、アルベール・カミュの「ペスト」でも主人公・リウーは無神論の立場ながらもペスト大流行で人生を傷つけられ壊される人間への深い慈しみを持ってパンデミックに立ち向かいます。

これが悲しみの歌(すなわち海と毒薬の後編)で示される信仰の価値と神の祝福の本当の意味なのです。

 

 

【おしまいに】

 

    私は基本的には人間は不幸な時には分断され孤立し、他人からは穢らわしく外道として扱われるものと思っております。

 

    世界や自然というのは無秩序で気まぐれで、人間が不幸になったときそれは奥深い殺意を向けて私達を疎外しようとするものです。自然は本来優しいというイメージは強いでしょうが、それは人間の手が加わっている間の話であり、本当に無為にすればとんでもない暴力装置となりうるものなのです。豪雨の時の河川の氾濫、コロナ禍におけるワクチン未接種・マスク未着用など、それを見ても自然が本来優しいとは言えないでしょう。

 

    そんな世界で暮らす人間の人生の尊さを弁護する存在が居なくなったとすればどうなるでしょう。その時は人間は互いに穢れや不気味さを持つ存在として、いじめや暴力、殺人、戦争などが酷くなるのではと思います。だから人間が互いの人生を尊重するよすがはどんな思想・宗旨であれ求めないといけないと思います。

    もちろんこれには100%の正解はありません。あっても失敗することもあり、今回の「海と毒薬・悲しみの歌」のような話が生み出されるのでしょう。ただ、失敗した先でもこの問いを続けることには意味があり、棄てるのは大変な損失であると私は思います。

 

    もし人生に疲れたり、人生の意味を問い直したいという方がいらっしゃれば、この「海と毒薬」「悲しみの歌」を読んでいただきたいと思います。

 

今回も最後までありがとうございます。

 

 

2022年8月7日