ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

宗教ってなに?神様って信じないとダメ?

お疲れ様です!すばあんです!

皆さまそれぞれ頑張っている時だと思われます。
今回の内容は読む人どの人にとっても励みになればと思い書き記させていただきました。

このテーマは宗教という、語るにはややタブーな内容を扱いますが、いかなる人の宗教観を傷つけずに話していきたいと思います。

私は宗教の学者でもなければ、熱心な宗教家でもありませんので、素人目線から平易な話を語らせていただきます。

〈宗教とは何か?〉

宗教とはそもそもどういうことでしょうか?何か儀式を行えば、何かを学べば宗教なのでしょうか?神様を崇め、それに従えば宗教なのでしょうか?
「宗教」という言葉を新明解国語辞典で引きますと、
心の空洞をいやすものとして、必要なとき、常に頼れる、絶対者を求める、根源的・精神的な営み。また、その必要性を求めることの意義を説く教え。」とありました。
かなり簡潔で分かりやすい文章でございます。ただこの中で使われている言葉についてはいかようにでも解釈することができます。そのため一つ一つの言葉を分析しつつ、僕らのような人間の日常の話に置き換えて解説していきたいと思います。

まず「心の空洞をいやすもの」の部分です。
心の空洞」とは、自分の心の中の満たされない部分のことです。例えば、営業成績で二位に甘んじているとか、本命の異性を先取りされたなどは自分にとって不満につながります。
そんな時皆さんは気晴らしやストレス解消のため、居酒屋で飲んだり、ジムに行ったり、好きなアニメを見たりすると思われます。私はこのようなとき、ネットサーフィンや音楽鑑賞、漫画を読むなどします。そうして心の中の不満を解消するための行為やものを「心の空洞をいやすもの」と呼びます。


続いて「必要なとき、常に頼れる絶対者の部分です。
これは、上のようなときに常に心を満たしてくれるものということでございます。これこそまさに「神」という人に違いないだろうと思われる人は多いと思われます。ですが、必ずしも「常に頼れる絶対者」=「神」とは限らないでしょう。
例えば、常に頼れる絶対者が「法律」である人もいるでしょうし、「技術」「科学」「倫理」「自然」「哲学」・・・など色んなパターンが考えられます。
もっと言えば、あるアニメや漫画のキャラクターを「神」と崇め、心のよすがとしている人もいらっしゃいます。「経営の神様」松下幸之助氏を尊敬し、彼の教えや筋を心の支えとして頑張る人もそれに近いでしょう。

したがって、宗教とは平たく言えば「心の中の不満を解消するために、常に頼れるものを求めること。」となります。

これは特定の宗派に入門し、その教義・儀礼にならい生活し、時に儀式を行うということに限られません。精神的に満たされる所があるのであれば、どのような行為や考え方でも、宗教としての役割を持っていると考えられます。それらには実際に宗教的な役目を果たせるかどうかの他の優劣はないと思われます。

〈神様は信じるべきか?〉

さて、普通の意味で「宗教」をするときにほぼ例外なく出てくるのは、「神様」の存在です。

神様とは、①超能力を持ちこの世界を左右していると思われる創造主、もしくは②神話の中で活躍した伝説的存在を差します。これはあらゆる宗教で語られる存在です。
①の意味ならば、神様はこの世界のコントロールを主幹を握る絶対者となります。②ならば、そのコントロールの中で偉大なる功績を立てた存在となります。
つまり神様は私達の人間性を形作ったものの大元となる存在であると考えられます。優れた人間の優れた部分を形作った大元となる神であればなおのこと信仰の対象となりがちです。

では、その神様は必ず信仰しなければならないのでしょうか。

結論から言えば、「神様が自分にとって信用に値する存在だと思うならば信じていい。信用を欠く存在ならば信じてはいけない。」となるでしょう。

神様の定義の①によりますと、神様はこの世界をコントロールする創造主と説明されますが、その「創造主」が「人」であるとは決まっていません。「もの」であるとも決まっていません。実は神様はどこにどんなふうに存在しているのか決まっていないのです。
神様を説明するとき、通常は「人物」の形で説明されます。しかし、あくまでそれは説明を簡単にするための擬人化であり、実際の神様を的確に説明したものではないのです。
神の定義②も、神話自体がこの世界の仕組みを簡単に理解するためのものであり、伝説的存在もこの世界で起きる現象を擬人化したものであります。

そのため、神様を必ず「人」として見る必要性は無いのです。どんな形であれ、この世界を理解しようとすれば、それは自ずと神様を見ようとしていることになります。宗教はその一番分かりやすい方法ではあるものの、それ以外の方法でも神様を見ることはできます。

では、そんな神様を見ようとするのはなぜでしょうか。それは、それが我々にとってメリットがあるからでしょう。「神様」を見て、その「お言葉」を聞いて幸福になるために私達は「神様」を崇めるのです。そうでなければ、神様を見ようとするという試みはなされてないでしょう。これは意味を返せば、人を不幸にする存在は神様では無いということになります。あるいは神様はそこにはいないとも解釈できます。

小説「沈黙」では、徳川時代に弾圧を受け苦しむクリスチャンの姿が描かれています。主人公の宣教師・ロドリゴは信者を助けない、声をかけない神に絶望しかけました。ロドリゴは信者の命を守るために棄教しましたが、その後ロドリゴは神の姿を見るのです。信者を、自分を不幸から救ったときにロドリゴは真の神の姿を見たのです。

これは神を崇めることの本質を得ていると思われます。神を見るから幸福になるのではなく、幸福になろうとするから神を見るのです。不幸になってもいいから神を見るというのは実はおかしな話なのです。

先程の宗教の話を振り返りますと、宗教は心の中を満たすために絶対者すなわち神を求めること、もしくはその教えと定義されていました。ここからも神とは存在自体が幸福をもたらすものと確認できます。言い換えれば、存在するだけで不幸しかもたらさない理不尽な存在は神ではないのです。そして、そんな不幸をもたらす存在を崇める行為は宗教ではないのです。

そのため、神を信仰すべきか否かは、信仰して自分やその周りが幸せになるか否かで決めるべきなのです。

〈最後に私ずばあんから〉

さて、今回は宗教と神というやや冒険的なテーマを扱いました。この記事は、特定の宗教に関する専門的な知識や批判を抜きに宗教や神を一般的なレベルで語りました。このテーマを扱おうと思ったきっかけは2つありまして、一つは小説「沈黙」を読んだこと、二つ目はコロナという未曽有のパンデミックに直面したことです。

「沈黙」については以前ブログで詳しく語りましたが、あの記事では語り切れなかった後日譚があります。私が学生時代の友人と会話したときこの小説の話になりました。その時私は「哲学をしている人は、宗教から離れて大丈夫なのだろうか。」と発言しました。すると友人は「哲学をしている人にとっては、それが宗教のような役割をしているのでは。」と返答しました。私はその発言にハッとさせられました。今回の「宗教とは何か」の章はこれをきっかけに記したものです。

コロナのパンデミックについて、次の記事を見たことがきっかけで、私は神について考えさせられました。NHKニュースで「新型コロナは“神が与えた罰”? せめぎあう科学と宗教」(https://t.co/qpi3KNlidD?amp=1)という記事が出されていました。この記事ではユダヤ教がこの出来事をどう説明しているか、そして防疫と信仰の間の葛藤が述べられていました。私はこれを読み、宗教の下に人々はどのように動くのか、宗教は他人をどう動かすのか興味を持ちました。
 ほかにも宗教情報センターがホームページ上で「新型コロナに対して宗教界はどう対処せよと説いたか?」(https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=8111)という記事を出されていました。そこでは仏教・キリスト教の各宗派がコロナ禍に直面しどのような声明を発表し、どのような態度で構えているのか詳しく述べられていました。「人類の不徳な行いに対する天罰」「宗教のありがたみを再確認する機会」「宗教的強さで難局を乗り越えていく」など声明の内容は様々でございました。
 私はどれが正解であるとは言い切れません。コロナに直面する人々の状況は各人様々であり、それらを一刀両断できる解釈は無いものと思われます。少なくとも各個人にとって各々救いのある納得のいく答えが正解なのではと考えました。そしてその答えを出すときに宗教や神を狭く考えるのではなく、より大きな視点で考えてもいいのではと思いました。

宗教や神をどう考えるかは皆様の自由ですし、どの道を選ぶかも各人の自由です。ですが、あまりにも狭く考え過ぎて捨てるべきでない選択肢を捨てるは勿体なく思われます。今苦しい思いをしている人にもっとこの記事を見てもらえればと願っています。


2020年7月30日