ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

無神論と無宗教の違い

 


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こんにちは、ずばあんです。

 

今日は「無神論無宗教の違い」というひと目見たらぎょっとするタイトルから始まりました。

 

この二つの言葉は普段特に違いを意識せずに使用されております。日本人の中では普段の生活で特別に宗教を意識していないことを表す言葉としてこれらの言葉が使用されます。

その一方でこれらをそのまま外国人に対して自己紹介で使ったら、とんでもない人間という印象を受けるかもしれないという警告がされることもあります。キリスト教イスラム教といった一神教では宗教を信じないことはすなわち道徳に背くのと同義となりうるからというのがその根拠です。

 

しかしここで結論を急ぎ、日本人は宗教とは隔絶しておりそれが道徳の乱れを起こしている、という解釈に止まることはあまり正確には思えません。

 

それはつまるところ、無神論無宗教の認識の仕方の違いにあると思われます。今回は「無宗教無神論」という題でそれを述べたいと思います。

 

 

【神様はいないという無神論

 

 

無神論無宗教で、一番理論的に分かりやすいのは無神論です。無神論は読んで字のごとく神様はいないという考え方です。

 

ここで神様がいないという状態がどんなものなのかという疑問が出てきます。神様がいないというのは、「神様」の資格を持つ存在を信じられないという事です。例えばキリスト教では、新約聖書などで語られる唯一無二の絶対神が神の資格を持つ者です。その場合は神がいないというのは唯一無二の絶対者がいないことを言います。

 

この神の資格というのは絶対解はありません。それぞれの文脈で神の資格は変わってきます。しかし、それを明文化すればするほど神の資格はハッキリとし神の資格を持つ者と持たざるものはハッキリと分けられるようになります。先ほどキリスト教を例に上げたのも神の資格が聖書という形で明文化されているからです。

逆に神の資格が不明確だったり緩いほど神々の数は多くなったり、神の至高さは薄くなったりするのです。そうなると神がいる/いないの区別は明確につけられなくなります。そのため神を信じるか信じないかという問い自体が行われなくなります。

 

したがって神の資格を持つ者を信じられないという無神論の考えは主にキリスト教のような一神教の考え方を背景に生まれるのです。そのため自分を無神論者であると標榜する人が多いのはヨーロッパ等のキリスト教圏などの一神教が強い地域が多くなります(イスラム教圏出身者でも無神論者はいますがそちらは主に他国への移民に多くなります。)。無神論一神教に対立した考えとして生まれたからです。

 

無神論者は神が世界を作ったという「神話」を悉く否定します。無神論者は自身の人生に対する神の関与を否定します。そのため無神論者は一神教が示す神をことごとく否定し、死後は天国に行けるという考えすらも否定します。

その態度はかなり強固なものとなり敵の一神教がその教えを頑強に広め守ろうとするのと同じく無神論者の態度も戦闘的になります。無神論者がふと神様の存在を信じることがあってはならないのです。

 

そのため無神論は神の資格を持つ者を全く信じないようにすることを言います。

 

 

【特定の神に依らない無宗教

 

 

無神論と混同されがちな考えとして無宗教という考えがあります。これは特定の宗教を信じていないという考え方であり、それ故に非道徳的で宗教的に無節操な立場として述べられることがあります。

 

しかしこの無宗教の意味もまた一神教の立場から見た考えです。一神教では、宗教とは「自分達の」「唯一無二の」「絶対的な神」を信じる行為であります。そのためそこから一つでも外れたらみな無宗教なのです。

 

一神教であるキリスト教を例にとれば、キリスト教徒にとってイスラム教徒は「自分達の」神を信じているわけではないので無宗教です。日本人のような多神教的な神々への信仰は「唯一無二の」神を信じているわけではないのでこれも無宗教です。仏教も「絶対的な神」を信じているわけではないので無宗教です。

このため無宗教とは本当に宗教を否定している考えではなく、一神教を基準にしてその基準から外れたものを一緒くたにして否定した言葉なのです。

 

日本人によくみられがちな、特定の宗教や神に専従せず複数の宗教の神々の存在を受容する宗教的態度は、無宗教には当てはまりますが無神論には当てはまりません。

名目上は仏教を信じている人々も葬儀や盂蘭盆会(お盆)は仏教式ながらも、家を建てるときは神道式の地鎮祭を行ったり神棚を置いたりしますし、クリスマスパーティーをしたりと他の宗教の行事を抵抗なく行うことが多いです。

 

それも最近のことではなく日本では神道と仏教の教義が入り混ざった独特の教義(本地垂迹説など)が長らく説かれてきました。それは元々日本土着のアニミズム信仰に大陸から伝来した仏教が入り交じり成立したものでございます。

 

このような宗教的態度は無宗教ではありますが無神論者とは異なります。積極的に神を否定しているわけではなく何となく神を信じているからです。これは明確に宗派や教典に表されているのではないので分かりにくいことです。

 

一方で一神教の神への信仰も実は分かりづらいところがあります。明文化された教典はあれどその解釈は教派により様々であり、中には時や場合に任せる部分もあります。イスラム圏の国は沢山ありますが、サウジアラビアなどのイスラム教の戒律に厳格な国もあればトルコやイランのように戒律が緩い世俗的な国もあります。日本に仕事や留学、観光などで来ているムスリムの人はそれなりにいますが、聖典コーランで禁止されている飲酒を日本でする人が実はおります。「アッラー(神)は日本まで見ていない」「アッラーは今寝ている」と言い訳する人もおります。

 

同じ宗教の信者の間でも実際の信仰態度は異なっております。作家の遠藤周作さんは自身がクリスチャンでキリスト教の信仰に関わる作品を長年出されてきました。そこで示される遠藤さんの信仰態度はキリスト教本流の敬虔な態度とは大きく異なります。それは本流と比べかなり世俗的であり神の万能性や篤い信仰を疑い、それでも疑い得ない神の深い愛に信仰の意義を見出だしたものでした。

これはキリスト教会の反発をまねき、「海と毒薬」や「沈黙」等を出した遠藤さんへの批判を出しました。その中で遠藤さんは江戸時代のキリスト教弾圧期の隠れキリシタンや棄教者の話を持ち出し、そうした人々の信仰に対する無念を訴え名誉回復について主張しました。

 

このように特定の宗教を信じていないということは、すなわち神や信仰がないということにはならないのです。

 

 

【神を信じる/信じないの違いは?】

 


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この無神論無宗教の考えの違いを見ると、神様や宗教を信じている、あるいは信じていないということの証明が難しいことが分かります。

 

一神教の考えからすれば仏教を信じることも無宗教に入ります。仏教は、人間などの生命は現世を含めた六つの世界を巡るという輪廻転生の考えに基づき、修行や信心により悟りを開き世界の理を理解しこの輪廻転生から脱し永久の平穏の境地に達するという教えを解いております。ここには人を造り統べ救う神は登場しません。そのため一神教から見て仏教は無宗教なのです。

 

また、多神教アニミズムという、複数の神を同時に信仰する態度も無宗教と呼ばれます。一神教にとって宗教とは人間の証であり道徳であり生きる知恵であるのです。その宗教が成り立つための神様は唯一無二でなくてはならないのです。そのため神や宗教、道徳観が一神教のそれらとは異なる多神教は、一神教にとっては「何か分からないもの」なのです。

 

そしてこれはどの宗教でもそうですが、正統性に過度にこだわるときに同じ宗教でも非正統であったり異端とみなされた宗派は無宗教として扱われることもあります。古くはキリスト教ネストリウス派がそうでしたし、中世ヨーロッパのカトリックプロテスタントの対立はし烈さを極めました。

そこまで行かずとも同じ宗派であったものが分派したり独立することもあります。キリスト教イスラム教などにおける原理主義はまさしくそれであり、聖典の記述により忠実であることを志向しその他の宗派に排他的な姿勢を示します。日本でも仏教の宗派のうち日蓮宗は他の宗派に対して排他的な傾向があります。開祖・日蓮が述べた四箇格言と呼ばれる「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」という文言にもそれが現れております。そしてこの日蓮宗も分派が著しく進み、中には精鋭化している宗派もあります。

 

・・・ここで私の個人談となりますが、私が小学生の時の先生の話をします。その先生はある時、日本人がクリスマスや神社に参拝するのはおかしいと思うと言いました。その先生は仏教徒を自称し、クリスマスパーティはしないし神社に行かないとも述べました。そしてそんな日本人は道徳心が欠けており、無節操であるとくくりました。

 

これをどう思うかは人それぞれでございますが、この先生の言葉はまさしく自らの「信仰の深い仏教徒」の態度は大多数の日本人のそれのよりも至高であるという気持ちを表しております。その先生の宗教的態度は本人を律するものとしては素晴らしいと思えます。そして何よりも明確で分かりやすい隙の無い態度です。

 

ただ、そうでないと宗教的に正しくないし神を信じていないし地獄に落ちてもおかしくはないということに繋がるのは恐ろしい話です。あまりこうは言いたくないですが、もしそれが他人に対する強烈な敵意に繋がるのであれば、それが「信仰」というものであると誤解させることに繋がるでしょう。

 

神を信じる/信じないの違いは統一された尺度があるわけではないので、一度信仰が脅かされると尾を引きやすい問題となります。当の神様自体が証明してくれる事でもないので、それは本人がいつまでも内側に抱え込むような問題になるのです。

 

 

【私は宗教に何が大事だと思うか】

 


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この章はほとんど主観的な個人の考えですので、読み飛ばしても忘れても構いません。

 

私ずばあんが宗教において何が大切だと思うのかを述べますと、それは神や信者との「信頼関係」であると考えております。私はこの信頼関係が私の社会性や人間性を立派なものに形成することを宗教に期待しております。

 

ただ、ここで言う信頼関係というのは相手のすべてを疑いなく受け入れ全部信じるという意味ではありません。私の言う信頼関係とは相手の信じられる所は信じ、「信じられない所は信じない」ということです。要は信じるも疑うも遠慮なく出来ることを言うのです。一部不信感があることを絶縁の理由にするのではなく、不信感と素直に付き合いつつ関係を保つのが信頼関係なのです。人間は完璧ではありませんので完璧ではないことを承知で信頼関係を作り大切にするのにはそのような工夫が必要だという考えに至りました。

 

逆に信頼のない関係とは、不信があることを許せず信じること以外を拒絶する態度です。完璧に信じられる人間しか許せずそれ以外は存在を認めないのはそれです。また自分の建前だけを人に押し付け騙しそれが壊れることを極端に嫌うのもそれです。そんなものは極端な潔白主義であり、人に罪を押しつけ自分が綺麗ではないと気がすまないという条件を要求するのです。

 

神様や信者との関係も同じであり、神を端から疑いなく信じることを至高とし疑いを悪や前科とする思想は信仰ではなく永久の裏切りであると思います。神は名乗るものではなく行うものですので、神を実行できないものが神として信仰されないのです。

名乗りでしゃばる「神」と人間の関係は末期的なものであり、そこで信仰を更改出来ないことは宗教的な死なのです。だから、傲慢かもしれませんが、神と自分の関係は一旦改変した上でそれ相応の付き合いに移行しなくてはならないと思います。

無関心、無責任という言葉がありますが、神を表面上のみで疑いなく信じるのはまさしくそうであると思いますし、それは殺意の内面化であると思います。そんなものは紙切れと印鑑があれば出来る契約と変わらず信頼ではないのです。

 

したがって信頼や信仰とは、関係の芽生えから破局までをすべて受け入れる行為であり、それを許せないなら最初から関係は壊滅しているのです。至高以外は意味のない信頼や信仰ならば、信頼や信仰は悪でありむしろ放射性廃棄物並みの有害物質なのです。宗教や信仰は社会性や人間性の基盤であり、それが無いことの言い訳ではありません。言い訳となるのであればそれらと距離を取るのも肯んずるほかないのです。

 

だから無神論無宗教は反宗教ではないと私は思うのです。考えなしならまだしも、宗教や信仰における艱難辛苦や葛藤の末のひとつの完成形である場合もあるのです。例え無神論無宗教を許さない人がいても、私は自分の人生に誓いそれらを許したいと思います。

 

 

【おわりに】

 


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ここまで無宗教無神論について述べましたが、私はそれが信仰や道徳や人間性のない証とは思っておりません。私にとって宗教的正統性があるかないかは、人に対して善意や反省があるかないかに比べればどうでも良いのです。

 

人間は理想を追い求めその実現に向けて邁進する生物です。その営みは私にとっても本当に「理想」であります。しかしその実現までに「投資」される人間の潔白を奪い、罪を負わせることはやはり人に対する侮辱や傷害であると思います。

 

宗教も同じでありそれが他人や自分への侮辱や傷害の理由になってはいけないと思います。宗教や神を信じない場合もそれは同じことです。特に日本人の場合は独特の風土もあいまって、その宗教観は語られていないことが多くあります。先の一神教からの立場からの日本批判もそうですが、それを鵜呑みにしすぎて自己分析や文脈を見誤るのは自傷行為です。

 

正直言えば私は無神論無宗教について学ぶ前は、それを勉強して自分の考えがあらぬ方向へ変わっていったらどうしようと不安に思っておりました。しかし、その不安は杞憂でありむしろ自分の立ち位置がよく分かり、自分の考えが洗練されたように思えました。もう少し早く勉強しても良かったかもしれないとも思いました。

 

何事も勉強であり、よく知ることは人生を明るく照らし楽しくするものであると思います。その成果をこの記事にまとめてみました。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

2021年7月18日