ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

中島敦の「山月記」

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は中島敦さんの「山月記」の感想を述べます。

 

【10年前の感想】

 

山月記の内容は青空文庫でも出ておりますので説明は簡素に済ませます。

中国の官僚・李徴は秀才ながらもプライドが高く詩家の道を目指そうとしますが、生活に困窮します。家族の為に再び官僚になりますが出世した同期の下で働く現実に自尊心は傷付き、ある時出張先で発狂し山へ入りそのまま虎になります。

 

私はこれを高校2年生の国語の時間で初めて読みました。これを読んだときは李徴のような人間になりたくないと思いましたが、うっすらと自分のなかの李徴、もしくは虎を自覚しました。そのため李徴のような人間になるまいと辛いことから逃げずにひたすら前を進んで立ち向かおうと思いました。

 

その後私は李徴と同じ轍を踏むような経験をいくつかしました。夢だけは大きいのにそれに見合った努力を出来ず、中途半端になることばかり、そしてそれを恥じることもしないという醜態を晒していました。山月記を読んだときに私は自分の中の虎を反省出来なかったのです。その一方で李徴の姿を見て、彼のような業からどのようにすれば抜け出せるのか上手くイメージが沸かなかったのも事実です。一度はまったら、反省程度では脱け出せない様な気味の悪い業を李徴に、そして私自身にも感じました。

 

このような今の私ですが、この私がまた山月記を読んで、10年前とはまた違った感想を抱きましたので、以下それについて語らせていただきます。

 

【今の感想】

 

李徴はになりましたが、私はそれを忌むべきものとして考えていました。人間だった頃の李徴はまだ引き返す機会を神様から与えられていたものの、遂にモラトリアムは終了し罰として虎の姿に貶められてしまったと思っていました。

しかし、今はこの李徴は物語の最初から虎になるまで全部李徴であり、変身などなかったと思います。同時に、李微が自分の生涯を反省している部分は山月記のストーリー内には未だ無いとも感じました。

李徴は自身の性格を「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」と表現し自分の至らなさを回顧しておりました。その一方で変な理想に未だ固執しており、そのギャップに未だ悩む姿もありました。そして何よりも自身の「虎」の姿を卑しく思っておりました。その時点で李徴はまだ反省できておらず、自分の中の虎を飼い慣らせていないのです。

 

それではなぜ李徴は自分の中の虎を飼い慣らせていないのでしょうか。それはありのままの李徴自身、すなわち虎を愛せてないからです。

虎は獰猛で暴力的な獣としての側面がある一方で、威厳を持ち貫禄を持つ余裕のある強者という側面もあります。決して卑しいだけの存在ではなく、正しい方向へ磨けば光る存在でもあるのです。

李徴は他人と交わらない、自分の心の痛みに誰も気付いてくれないと書かれていましたが実際には自分自身とすら交われていないのです。現実の自分を受容できず蔑み、それを否定するように詩作の道に至り、その一方で自分の中の虎の世話を怠り虎の暴走を招いたのが今の結果なのです。

山月記は李徴がこのまま完全に虎になる末路を匂わせて終わっています。ですがもし仮に李徴が人間の姿に戻れるとすれば、詩歌の道とは異なる、自分の中の虎を癒ししつける道にあると思います。

 

このような感想は、私が自分の中の「虎」の正体が何であり、その虎をどう理解し扱うかを見つけていった経験から記しております。私を含めて人々は、外面や対面を強く意識しすぎて自分の内面を置き去りにしがちです。その中で無視された内面は、徐々に荒れ果て傷付き怒り、遂には押さえのきかない虎のように暴れ狂うのです。

そのため、ありのままの自分を忘れない様に日々の習慣の中で自分を見つめる、自分を育てる営みが必要なのです。その虎を殺すことは出来ないのですから。

 

 

【おしまいに】

 

私の感想は以上でした。

 

実はこの記事を書く前に、他の方の山月記の感想を拝見させて頂きました。色んな観点からさまざまな感想がございました。

その中でも面白いと思った感想は「現代社会は虎が沢山いるので、自分も虎にならざるをえない」というものです。この感想は私も共感いたしました。もしここで虎をやめたら自分は死ぬかもしれないという危機感の中で虎にならざるをえない現代人の立場をよく捉えている意見です。だからこそその虎を自分で育て磨くことが大事なのでしょうね。

 

他にも面白い感想は沢山ございましたのでそちらも是非ご覧ください。

 

それではまたいつか!

 

 

2020年10月8日