ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

「毒親」とずばあん

 

こんにちは、ずばあんです。

 

先日はスーザン・フォワード氏の著書「毒となる親」の感想を記しましたが、今日はそこから派生した自分の考えを述べさせていただきます。

 

【毒となる人間関係の片隅に毒となる親がいる】

 

皆さまは誰もが何かしらの形で人間関係を意識されていると思われます。人間関係は素晴らしいものだとか、一方では面倒くさいものだとか、はたまた大事なことだとか様々な意見があるでしょう。

 

「毒となる親」ではそのような個々人の人間関係観は自身の家族内の関係から生み出されると述べられています。たとえば、暖かい家庭で育った子供は人間関係は本来は暖かいものだと認識します。一方で「毒親」のいるような歪んだ家庭で育った子供は人間関係の認識も歪み、健全な人間関係を築けなくなります。親との関係はいわば人間関係の教科書なのです。

 

前回の記事では、毒親というのが代々その家系の中で受け継がれてきたものであることと述べられました。しかもその毒は毒親から離れても消えないものであり、自分がその毒を自分の子に振りまき他人にも振りまいていきます。その結果似たような毒を持つ人間ばかりが集まり、自分の中の毒をより濃厚にしていくのです。

だから毒親から受けた毒から解放されるためには専門家によるケアやセラピーが必要なのです。

 

本では親という近い関係への言及にとどまっておりますが、私が思うにこれは自分の回りの人間関係の総刷新であると考えています。私のような日本人の人間関係は世界の中でも緊密な部類に入ります。そのため人間関係による人生への影響はより強く出ます。故に私たち日本人は人間関係の構築においてはなおのこと自分の利害を意識せざるを得ないのです。特に自分の家族、親との関係は一種の呪いのようなものなのは前述の通りです。

 

毒親の害は毒親自身が子供に直接不利益を与えるばかりではなく、子供自身が不利益な人間と関係を持ちつづけることにも及びます。

金銭的・精神的に搾取される関係、暴言暴力が常態化している関係、あるいは自分がそうしたことを他人に行う関係などです。

故に人間関係で長らく苦しい思いをしている人はまず親子関係の刷新から始めなくてはならないと思います。そしてそこから他人との関係の総刷新が始まるのです。

 

また、そこまで深刻な事態ではないにせよ、自分の希望する進路・人生を積極的に歩む上でも人間関係の刷新は必要です。

自分の進路・意志をサポートしてくれる人、賛同してくれる人と繋がるのは当然として、それを望まないことを希望する人とは疎遠にならざるを得ません。自分の進路について話の通じない人間と折衝するのはゆくゆくはマイナスになります。

人によってはここに恩情を大切にしろと言う人もいますが、そもそも利害関係にマイナスになるような恩情は恩情ではなく経済的DVです。もはや呪いや殺意です。

言わずもがな、親との関係も整理の対象となります。子供の自律を深刻に阻害する親子の関係は解消されなくてはなりません。もうこの時点で親では無いからです。

 

【毒になる神】

 

さて、「毒になる親」の第1章「『神様』のような親」の内容に移ります。

この章では、子供の権威となり子供を裁き操ろうとする親が描かれています。そしてその親はギリシャ神話の神々を例に説明されていましたが、私にはその説明が衝撃的でした。

 

その本によると、ギリシャ神話の神々は地上を見下ろし人間の所業に干渉し罰を与えていました。その罰を与える理由は気まぐれで非合理で正義もなく、人々はその神の怒り触れることを恐れながら生きていた、とのことです。

 

ものすごい散々な言われようです。フォワード氏は少なくともギリシャ神話の神を「神」として見ていないことがありありと分かります。「毒親」と同属のものとして見ているのは間違いないです。

 

私が思うに、毒になる親、毒になる人間関係の関係整理の果てにはこの「毒になる神」との関係見直しがあると思われます。「神」というのはこの世界や社会をどう理解するかの足掛かりなので、その大本となる親との関係の抜本的な変化は「神」との関係の刷新を引き起こすこととなるのです。

 

そのことは「毒になる親」の第9章「『毒になる親』を許す必要はない」のフォワード氏のエピソードでも語られています。

フォワード氏の患者に敬虔なクリスチャンの女性がいました。彼女は父親から性的暴行を受けた過去がありました。その後父は「反省」して謝罪し女性も「神様のお言葉に従い」父を許したとのことです。その為当初は彼女は診療中に父をかばう発言をしていました。

しかし、治療が進む毎に女性は父への怒りを吐露するようになり、遂には「神様は本当は私が救われることを望んでいる。」と述べたのです。

 

神様の言葉の意味というのは、自分の親や周りの人間との関係により変化してくると思います。そうしたものから「神様」は作られているのです。

 

だから、神様ありきの人生というのはその時点で毒になる親を、毒になる人間関係を招き、そしてその神様も毒になる神なのです。

その為私たちは単純に神様を恐れるばかりではなく、自分の人生の目的に叶うように神様を信仰する必要があるのです。私たちは有益な人間関係を築くのと同じように、有益な信仰をしていかなければならないのです。

 

 

【ずばあんの「毒親」】

 

私にとってこの「毒になる親」は親との関係にとどまらず、真に有益な人間関係とは何かを再確認するのにいい本だと思いました。

本の名前こそ「毒になる”親”」ですが、自分を一人の人間として育むのは本当の親ばかりではなく周りの人間一切だと思います。そう考えれば自分の周囲の人間関係はある意味「親」なのかもしれません。

 

その意味で私が今まで生きてきて一番の「毒親」は中学校だったと思います。私の通っていた中学校はある事情により荒れており、校内ではいじめや授業妨害、器物破損などは日常茶飯事でした。

こんな環境なので学校内の雰囲気は殺伐としており、不良に染まる風潮や圧力が強く、不良と教員との衝突はしばしば起こっておりました。全校集会では、そうしたことについて生活指導の先生から連帯責任で叱責を受けることは少なからずありました。

自分もこのような学校の被害に遇いましたがその記述は長くなるので省かせていただきます。とにかく全方向地獄という印象でした。

結局私の通っていた3年間上の状態は続き、事態が正常化したのは私の卒業後更に3年近くかかりました。

 

このような学校の存在の意義については様々な意見があります。とにかく害悪であるという考えもあれば、人間社会の縮図としていい機会だという意見もあります。

 

私の意見を述べますと、このような学校は少なくとも私の前では学校を名乗らないでいただきたいというのが正直な感想です。この程度のレベルの組織を学校と呼ぶと、私の社会生活上大きな支障が出るので私個人はこれを学校とは思っていません。

仮に何かこのような組織を肯定するのなら、それは踏み台程度の価値しかないのです。将来自分が窮地に追い込まれた時のための練習台がやっとなのです。それ以上の価値を求めると自ずとこのような組織は毒となります。道徳・倫理の著しく欠如した組織はその認識の方が有益なのではないのでしょうか。

 

そのような公立中学校に押し込められ、名誉と人間性を貶された身としては、反省と今後の成長のためにこの「毒親」たる組織から正しく離乳していきたいと思います。

 

【「殺意」から自分を守る】

 

「毒になる親」では毒親の子どもの自律か唱えられていました。そのためのガイドラインも丁寧に示されておりました。しかし、その自律とは何のことで、自律したあとの人生とはどんなものなのでしょうか。

 

中々難しい質問ですが、私は自律とは「殺意」から自分を守れるようになることであると考えます。

「殺意」とは生命を奪おうとする意志のことです。その方法には直接殺人を犯そうとするものもありますが、精神的にダメージを与え自殺を誘発させるもの、経済的にダメージを与えるもの、コミュニティから不当に追い出そうとするものもあります。

 

こうした殺意が自分自身に向けられたときに自分の身を守ろうと思い、行動をとれること、それが自律だと考えています。

 

なお世の中には自分自身の自律の邪魔をしてくる人間や思想、組織、制度などが溢れています。人間、非人間を問わず、自分の回りには「殺意」が横溢しているのです。「毒親」ももちろんその殺意に含まれます。

 

一方で自分の自律を助けてくれる、支持してくれる人や物がいるのも事実です。自分が自律するには、そうした人々を味方につけ前述の殺意と戦えるようにすることも必要なのです。何もしないままだと、そのまま殺意に飲まれてしまいます。

 

これは社会性にも通ずる話です。人々はよんどころのない事情のもとで異なる利害関係のもとで自分の生命を守りながら生活しています。主婦か、独身会社員か、学生か、老齢年金暮らしか・・・実に多種多様です。

それを無視し、自分の特殊な考えを人の迷惑も考えずに押し付けることは、反社会的な行為として捉えられます。あるいは殺意とみなされてもおかしくはないでしょう。社会で共存することはそうした殺意をどこまで小さく出来るかという努力に関わってくるのです。

 

そうした意味では「毒親」は親ではないのです。親子の関係の元で殺意が増大する時点で親子関係ではないのです。話して正常化出来るレベルならまだ救いはありますが、それすら望めないならばこれまでの親子関係は否定した方がいいと思います。

 

【おしまいに】

 

人間関係というのは幸せの揺りかごとなる場合もあれば、転じて呪いとなる場合もあります。近しい関係であればあるほどそれは強くなります。特に子供の時のそれは、まだ知識や行動力や権利が乏しいゆえに避けがたいものとなります。

 

そんなものを自分の選択とも呼びたくないですし、一生に渡って責任も持ちたくありません。このため、せめての後始末としてこの呪いからは脱け出して楽になりたいと思っています。

 

正直いうと、この不可解な呪いから脱け出せなかったら放埒な生き方をして果てようと思ったこともありました。しかし、その呪いから解けるみそぎのために生きれる道が分かってからはしっかり生きようと思えるようになりました。

 

とりとめもない感想でしたが、この記事は以上です。

 

2020年11月10日