ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

この世は「物語」で出来ている!

こんにちは、ずはあんです。

 

皆さまは今幸せですか?それとも何かお悩みを抱えていらっしゃいますか?

 

くどい質問でしたが、皆さまは自らが幸福になるために日々努力していることでしょう。

ただその日常にすら疲れ、幸福になるための人生が不幸を招いていることもあるかもしれません。

 

これからする話はそのような方々の気分をリフレッシュさせるための話です。

 

〈成功譚や失敗譚はうそである〉

 

のっけから強烈なサブタイトルですが、本編は緩く進めるつもりですのでご安心下さい。

 

私たちは日頃から成功者の話や失敗した人の話を沢山聞いている筈です。例えばNHKの「プロジェクトX」や「プロフェッショナル」では成功を収めた人のそこまでの苦難や努力が語られます。マツダロータリーエンジンの開発のエピソードは印象的でした。

逆に失敗した人の悲劇もよく聞きます。1985年の日航機墜落事故では小さな欠陥が積もりに積もって起きたという経緯が明らかにされています。

 

このように成功者や失敗者のエピソードは分かりやすいものが沢山あります。でも自分の人生を振り替えるときに、そんな分かりやすいエピソードはあったでしょうか。

あるという人もいるでしょうが、無いという人は自分にはそんな輝かしい話はないとか、原因と結果が複雑で語れないという人が多いかもしれません。

私は正直にいうと無い方の人間です。先の成功者や失敗者とかの話と比べて、私の人生は雑多でカオスなこと限りありません。

 

ただそんな私の人生と、成功者や失敗者本人の人生は、さほど変わりなくカオスであったと思われます。現実には何が原因でそういう結果になったのか良く分からずに、取りあえず納得のいくストーリーを組み立てたと思われます。

 

なぜそう言えるかといいますと、人間は物事を物語という形式じゃないと認識出来ないからです。現実にはこの世界はカオスを極めているのですが、その世界の一部を切り取り分析し、その中で原因と結果を決め、理解しやすい物語を作っているのです。古くは神話の時代から始まり、世の中の自然・社会現象は擬人化された神の業の歴史として描かれ語られました。現在は科学が世界を語る有力な方法となっていますが、そこでも原因と結果のあるエピソードの形式で法則や現象が語られています。そうしたエピソードはこの世の真実や事実のありままを表しているのではなく、人間の認識を通じた仮の姿なのです。

 

先程の成功譚や失敗譚も仮の姿なので、実はこれらはある意味なのです。現実の彼らの生き様は思ったほど気持ち良くないですし、逆に辛すぎることもないと思われます。良くも悪くも平凡な私たちの感じていることとさほど変わらない人生なのでしょう。

 

〈嘘たる物語のもたらす不幸〉

 

私達は物語という嘘抜きには何かを解釈することができないので、この嘘を使わなくてはならないのです。

 

そしてそれ故にその物語に報われる人、裁かれる人の差が生まれます。

 

物語には宗教、政治思想、道徳倫理、方法論など沢山ありますが、どれもそれに則ることによる恵みと反することによる罰や裁きを説いています。

例えば努力をすれば報われるというのも、単純な物語です。ここでは努力をするものには幸せが訪れ、努力をしないものには不幸が訪れるという信賞必罰が説かれています。

 

その中でこの物語に納得できる人とできない人が生まれてきます。その様なときに前者が後者を裁くことがあります。上の話だと努力が足りない、それを努力とは言わない、努力の方向が間違っているなどいうのが裁きにあたります。

もしその物語に心の底から納得し、裁きを正当なものと思えるならば、特に問題はありません。一方でそうではなく、物語に共感が薄く裁きに疑問がある時は不協和音が発し、損害が出ることがあります。

努力の話に戻ると、報われない人には何か致命的な障害(金銭問題、人間関係、体質など)があるかも知れませんし、その障害が何か分からないこともあります。

それに対してそんな人間のことは知らないと言った時に、実は努力の報われない人にとっては実は上の話は本当に「嘘」だったという話になります。

 

このような物語の真偽は客観的に裁ききれるものではありません。ここでの真偽はあくまで自分の主観、具体的に言えば信頼関係の是非に近いです。自分が今抱えている問題を無きものに扱う時点で、その物語は自分にとっては嘘なのです。

いわばコミュニケーションを疎かにした物語は本当に嘘と見なされるという復讐を受けるのです。

 

〈自分の物語を描け!〉

 

自分を平気で裏切る物語の存在を説明いたしましたが、結局どうすればいいのでしょうか。

 

結論から言えば、そんな物語とは疎遠あるいは絶縁すればよいのです。もし自分に対して積極的にコミュニケーションを取ろうとするのならともかく、それ無しに自分を裁こうとする物語には、人間と同じような処遇をとればよいのです。

 

私は以前人間関係に関わる記事を書きましたが、それと根本的に同じです。物語を擬人化して、その中で親しくできそうな物を採用すればいいですし、そうでなければややドライなビジネスライクな繋がり方をすればよいのです。その幹となるのは自分自身です。自分の幸福に寄与するものを採用して、あとはそれ相応の上手いつきあい方をすればよいのです。

 

その後にやっていただきたいのは「自分の物語は自分で描く」ということです。数多くある物語のなかから自分の人間的成長に適した部分を採用して再構築・補完を行い、自らを育てるというものです。

正直言えばそれ無しに他人の物語を採用しても意味は無いと思われます。そのため、人に頼る前にまずは自分の今の状況や立場や性格などを考えた上で、その上で自分の利益にかなった自分の物語を決めた方がいいと思います。

 

例えば今回の新型コロナウイルス感染症の蔓延で不振となった産業で解雇・失業する人がいて、そんな人々に天罰だという意見がありました。

しかし解雇失業した当事者からしてみれば、そんな「嘘」は無でしかないのです。何ら心に響かない戯れ言として忘れられてしまうことなのです。それに仮にそんな天罰を下す存在がいたとしても、そんな存在とは絶縁すればいいのです。どのみち自分の利益にに結び付かないことは明白なので、それ相応の対応をすれば良いのです。

 

 

〈雑談です〉

 

本題はもうおしまいですが、この話に関連しましてドラマ「半沢直樹」の感想を話したいと思います。

 

ドラマ「半沢直樹」は工場主だった主人公の父が銀行の裏切りにより自害した所から始まります。そこから半沢は銀行への復讐心をバネに良い銀行員になり銀行を良くしたいと考え、都市銀行に入行し自分の筋を通しつつ出世を目指します。

その中で自分と相反する敵との戦いがこのドラマ(そして原作小説)のメインストーリーとなります。

 

このドラマはストーリーの分かりやすい描写が定評となっており、銀行内の内紛という堅い内容の割には、個々のキャラクターの個性やストーリーの高揚感はこの上無いほど際立っています。

主人公の半沢はもちろん、宿敵の大和田も独自の筋を持ち行動するキャラクターとして描かれています。他のキャラクターの人間ドラマもしっかり描かれています。

 

半沢は時には敵であった人間と共闘するも、自身の筋が揺らぐことはなく、9月20日の放送のエンドで箕部幹事長、中野渡頭取、大和田に「1000倍返し」をすることを宣告しました。(大和田が半沢を無理矢理土下座させようとするシーンも面白かったです。)

9月27日の放送では半沢は仲間や協力者の力を得て、更に頭取らの本意を受け、真の敵である箕部の不正を暴き、これまでの一連の不祥事にピリオドを打ちました。そして半沢は最後に大和田と対峙し、東京中央銀行で自分の筋を通していく決意を新たにして話の幕は落とされます。

このドラマは銀行を舞台とした物語の集合で見事にこのカオスな世の中を、そしてその中で自分の物語を強く持つ人間の生き様を表しています。

 

話題は変わりますが、以前宗教と神様の話をいたしました。この宗教と神様の話はそれこそ今回の物語の好例になります。

神様はいる/いない、あるいは神様を信じる/信じないに関わらず、その物語の真偽は自分の人生に聞く他ありません。

私には私なりの宗教観がありますし、それに則り平穏な生活を営んでおりますが、だからといって他人にその宗教観を適用することは出来ません。これは私の物語であり、他人にとっては嘘かもしれないからです。

 

例えば小説「沈黙」では、まさしく神も仏もない状況で苦しむ人が最終的にどのように神の物語を紡いだのかが描かれています。主人公のロドリゴは自分のために生き始めた時に自分に語りかける神を見たのです。これはロドリゴ自身の物語でありますので、他の信者にとっては嘘の話なのでしょうが、この嘘ほどロドリゴ自身にとって真実味のある話は無いでしょう。

 

こちらは仏教に関わる名言ですが、このような言葉があります。「念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる」。これは西元宗助さんのお言葉であります。この言葉は仏教の教えを自分が世のために施すための原動力とすることへの決意を表したものです。

ここでは念仏を唱えれば念仏の力で救われるとは言っていません。念仏は自分を奮い起たせるための言葉であり、自分を救うのはあくまで自分なのです。ここに他人の物語に頼りきり依存しようという意図はありません。自分の物語を強く持ち生きるための証として念仏を唱えるのです。

 

この小説「沈黙」と西元宗助氏の言葉は、宗教が自分にとって救いのある物語を自分で紡ぐ営みであることを述べているのです。

 

〈おしまいに〉

 

今日は嘘だらけの「物語」に満ちた世界で自分の為の「物語」を持つことをお伝えしました。

こういうと傲慢でしょうが、自分の物語を持つことが出来るのはまず自分自身のお陰です。この部分は他人には如何し難い所ですので自分の心に聞く他無いのです。

 

しかしながら、世の中には精神疾患などからこの物語を思うように作れない人もいます。

 

私自身もその物語を中々見つけられなかったので、それを作る難しさや困難さは分かります。私はそのような人々を見過ごすことが出来ないので、私の経験や知識でせめてその苦しみから抜け出せるお手伝いが出来ればと思います。

 

どうですか?こう言われると、他人の言う「嘘」なんて気にならなくなるなりませんか?

同じ嘘なら自分が得する嘘を信じませんか?

 

今日の記事は以上です。

ではまた今度!

 

2020年9月27日