ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

大喜利をするときに大切なこと

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は大喜利で大切なことについてお話いたします。

 

私は大学時代に落語研究会に所属しておりました。落語研究会では会開催の寄席で落語と共に大喜利も披露します。

大喜利複数人一組でやる言葉遊びゲームです。テレビ番組の「笑点」でも有名な落語家の方が大喜利をやっておられます。

ゲームはお題に対して面白い解答をするのはそうですし、五七五の17文字で面白い作文を作るのそれです。

 

さて、その面白い大喜利を見て自分も人前でやってみたいと思われた方は多いと思います。落語研究会でやるという方もいらっしゃるでしょう。

その時に、まず大喜利で何をすべきなのか、大喜利でどのような困難に遭うのか、という疑問や不安を抱かれる方は多いと思われます。そこで、大学4年間落語研究会に所属し大喜利を教えられ行い、指導してきた私が大喜利をする上で大事なことを語らせていただきます。

 

【面白いことを言いたいその前に】

 

人生で大喜利をしたことが無い人は多いと思われます。そうした方々が大喜利を初めてするときにまず抱く不安は、客の御前に出て何をすればいいのか分からないということです。

そこから面白いことを言わなければならないのか、と不安が飛躍することも珍しくはありません。

 

そういう不安を抱く人にまず意識してほしいのは、「面白いことを言わなくてもいいが、とにかく会話をしてほしい」ということです。

大喜利においてまず大事なことは会話を盛り上げることです。大喜利では会場の雰囲気を和ませ、お客様に大喜利をする私たちに親しみを持っていただくことがまず大事なのです。会話を途切れさせず、人の話すことに遠慮なく返事をしたり反応したり、何か思ったことは差し障りのないことでもどんどん言って頂きたいです。

これは大喜利でまず不可欠なところです。面白いことを言うよりもまず大事なところです。

 

例えば下のようなやり取りが一例です。

 

司会者1人と演者6人(ABCDEF)いたとします。

 

司会「お題はこちら、『こんな夏祭りは嫌だ。どんな夏祭り?』」

A「夏祭りかぁ。夏祭りって何がありますか?」

司会「夏祭りはですね。屋台が出たり、出し物があったり。あと盆踊りとかありますね。」

E「屋台って何がありますか」

司会「屋台は、焼きそばとか金魚すくいとかあと何があるかな・・・」

C「射的もある!」

司会「射的もありますね」

B「射的かあ。難しいなぁ。」

D「射的は10発撃ってもなかなか落ちないからね」

F「うんうん」

 

以上が例ですが、ここでは面白いことは一つも言っておりません。それどころか短い台詞や返事で済ましております。ですが、大喜利の楽しい雰囲気は伝わっております。

大喜利でまず必要なのは会話に加わる力なのです。そこで何か大層なことを言う必要はなく、人の話に相づちや返事をするだけでも会話は成立します。とにかく沈黙を避けること大喜利では重要となります。

 

ここで司会の方の役割は大変重要となります。司会の方は大喜利の進行を勤め話題の先陣を切る役となります。そのため沈黙を破り演者さんに話題をふりながら、会話を途切れさせないように気を配る必要があります。演者さんの大事な発言を無視したりするのはもってのほかです。そのため司会の方の労力は大きいと言えます。そのため司会をされる方々には人をまとめサポートする能力が必要になります。

ただ、そこで上田晋也さんのような器用ないじりやユーモアが必要になるわけではありません。少なくとも人の話を聞きそれに常識的に答える能力があれば大喜利の司会を努めることはできます。

それに司会をする上で多弁であることは絶対ではありません。大喜利は司会一人のワンマンショーではないので、他の演者さんで喋ってくれる人がいればその人に会話のバトンタッチをすればいいのです。それがうまくいけば大喜利はうまく回ります。

 

こうしたことから、大喜利は解答内容の面白さを競うものではなく、演者同士そしてお客様との朗らかなコミュニケーションなのです。「フットンダ」と大喜利はその点で異なります。

 

 面白いことはその会話の合間に思い付いたときに言えばいいのです。

 

 

【面白い回答への近道】

 

 

次は肝心の回答を作る方法ですが、ここでつまづく人は多いと思われます。面白い回答を考えるのは、いきなり出来るものではありません。それは大喜利という即興で回答を考える場所ではなおのこと難易度が上がります。

 

しかし、そんな大喜利の場でも何かしら回答が思い付く鉄則はあります。それは回答を考える前に、「あること」を想定することです。それは、

普通の常識的な言動」を想像することです。

 

面白い回答を考えるならばその一つ前に普通の常識的な言動を想像するところから始めなくてはなりません。面白い回答とは、通常想定される言動とは「微妙に」ズレてかけ離れたものです。その微妙なズレが面白さを生み出しているのです。

 

例えば、先程の「こんな夏祭りは嫌だ。どんな夏祭り?」では、最初から「嫌な夏祭り」をまず想像しそうになりますが、その前にまずは「普通の夏祭り」や「嬉しい夏祭り」を想像します。

夏祭りでは街に屋台が立ち並び、ラフな格好や浴衣を来た人々がやって来て、人々は焼きそばやお好み焼き、りんご飴、かき氷などを買って食べて、ヨーヨーや金魚すくいの金魚を持ち練り歩きます。街には山車や御輿などが回り、特別な飾り物などが施されます。そして夜になると打ち上げ花火が打ち上がり・・・

という流れで通常の夏祭りをイメージします。

 

さて、ここでどんなイレギュラーが起きたら「嫌な夏祭り」になるでしょう。

金魚すくいが「鮫すくい」になるのはどうでしょう。りんご飴ではなく「スイカ飴」があったらどうでしょう。御輿ではなく、「路上駐車の車」を担いで回ってたらどうでしょう。

 

ここで回答は3つ出来ました。どれも常識で普通のイメージから少し変えただけです。こうして「面白い回答」に近づいたと思いませんか?

 

さてここで、誤解してはいけないのは「微妙な」ズレが肝心であり、大袈裟にズレているものは逆に面白くないのです。ズレすぎるとお題を無視しているからです。少なくともお題にキチンと答えているような、会話の成り立つ回答をしなくてはなりません。そのため常識的な回答が出来ることは重要なのです。

 

あと当然ですが、過激すぎて社会的に望ましくない回答は避けなくてはなりません。お客さまは初対面であり演者のキャラクターはご存じではないので、それ相応の発言をしなくてはなりません。下ネタや誹謗中傷、差別発言などはもってのほかです。

 

そのため、安定して面白い回答を出来る人は常識的な回答が出来る人なのです。そのため常識のある人は面白い解答に近い人なのです。

 

大喜利は面白いヤツ競争ではない】

 

ここまで語ってきた大喜利ですが、大喜利に面白さを追求することはおかしな話ではありません。笑点の出演者の方々やフットンダの回答者のように面白い人になりたいという方は多いと思われます。

 

ただ、大喜利で言う「面白い人」というのは単に人と異なる視点で違ったことを言える人ではないのです。ましてや、他の回答者と面白さで凌ぎを削り、他の回答者よりも抜きん出た才能を発露する人でもないのです。

 

大喜利で言う面白い人とは、「寄席の暖かい雰囲気を他の演者さんらとのチームワークで守れるだけの協調性を持った人」なのです。

大喜利の面白さというのはそれ単独ではなく寄席全体の面白さであり、他の演目の噺をされた方々と一緒に作るものでもあるのです。何時間ものの寄席を作ってきた落語の演者さんから受け渡される暖かい雰囲気を大喜利をする人は受け継ぐのです。

そのため大喜利の演者さんにはそれまで続いてきた寄席の暖かい雰囲気を壊すことなく、それを膨らませることが求められます。

 

また、大喜利は複数人の演者で面白いことを言いながら寄席を盛り上げますが、その前提として演者がひとつのチームで一丸となって会話できることなのです。もし、それぞれが思い思いにちぐはぐな事を言い始めたら複数人で出る意味がなくなります。

それに、他の人と競って面白い回答を言っても、その人だけが他の人をねじ伏せて偉くなり格好をつけているという、はたから見ていて親しみを感じない冷たく敷居の高さを覚えるつまらない劇を見せることになります。

もちろんそれぞれのメンバーが面白いことを言える能力は大喜利の雰囲気をより暖かくする大事な力となります。ただ、それは自分が他の演者より面白いことを言おうと競い目立とうとする競争へ向けるものではありません。チームとして他の演者さんと明るい会話をし、他の演者さんの発言を拾ったりして寄席全体の雰囲気を明るくすることに向けるものなのです。

 

このように他の落語の演者さんから受け渡される暖かい雰囲気を、大喜利の演者さんとのチームプレーで膨らませるということを意識すると、大喜利はやる方も見る方ももっと面白くなるかもしれません。

 

【おしまいに】

 

私が落語研究会のことを記事にするのは初めてでございます。内容は大変浅いですが、その分役に立つような内容に仕上げたつもりです。

 

ここで書いたことはもしかしたらどこかでもう見たり聞いたということばかりかもしれませんし、実際その通りだと私は思います。ただここで載せたことは、私が大喜利をやってみて直面した困難や反省した部分について書き記したつもりです。

 

私は大学の落語研究会に入るまで落語も大喜利もちゃんと知らなかった人間ですので、そこで初めて分かったことや学んだことは沢山あります。寄席の演目として大喜利をやる上でのルールや意義、重み等をそこで初めて学びました。その上で面白い大喜利を模索することは、本当に意義深い時間でした。

そして落語研究会を去ったあとも、私たちのやってきたことについて振り替える機会は何度かあり、そこで改めて気づいたこともいくつかありました。例えばある評論家の話で、昭和時代の大衆向けのお笑いと現在の個々の芸人ごとのファンに向けたお笑いの違いがございました。そこで、大喜利が目指していたものを改めて認識しました。

 

今回の私の大喜利に関する記事は、こうした落語研究会に在籍していたとき、そして落語研究会を去ったあとに学んだことを盛り込んだつもりでした。

 

とはいえ、今は大喜利をする機会もなく、落語研究会をとっくの前に去っており、誰に向けた記事なのかよくわからない状態になっております(笑)

 

ということで、ずばあんの長い長い独り言はここでしまいとさせていただきます。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年4月11日