ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】「異邦人」カミュ


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こんにちは、ずはあんです。

 

以前私はフランスの作家アルベール・カミュの「ペスト(La peste)」の感想を述べさせていただきました。

今回は同じ作家の「異邦人(L'etranger)」を読みましたので感想を述べさせていただきます。

 

こちらは1940年に発表され、「ペスト」の製作前の作品に当たります。不条理文学の代表作に挙げられるものであり、その内容は文庫版で130ページ程と短くも濃密で強烈なものが伝わってきます。

 

今回も平易な言葉で私自身の感想を述べていくように心掛けていきます。

 

【内容】

 

(第一部)

 

今日ママンが死んだ」という語りから始まり、主人公のムルソーが自分の母親の葬式に出るも感傷に浸る様子は無く手速く葬式を済ませてしまう。

 

葬式の翌日にはムルソーは女友達のマリィと海辺で遊び映画を見て一晩を過ごす。「休暇」も終わるとムルソーはいつものように仕事をし、いつものように友人と語る。アパートに帰るといつものように同じアパートのサラマノ老人と飼い犬の老犬とが喧嘩している。するとムルソーに同じ階の住人の男レエモンが話し掛け、レエモンを騙した女に報復をすることを相談する。

 

それから一週間いつも通りの日常が続き、ある夜ムルソーはマリィと自分の部屋で過ごしていた。するとレエモンの部屋から怒号と泣き声が聞こえた。レエモンが女に報復したのだ。レエモンの部屋に住人と巡査が集まり一時騒然とした。そちらが一段落すると、今度はサラマノ老人の飼い犬がいなくなり探しているという。

 

後日、ムルソーにレエモンは日曜日に自分の友人の家に遊びに行くことに誘う。同時にレエモンは復讐した女の兄とその他のアラビア人一味からつけられていると告げられる。

 

それから数日の間に、ムルソーは会社より転勤を提案される。マリィはムルソーに結婚について匂わされる。サラマノは老犬を未だに見つけられていないという。

 

日曜日、約束通りムルソーとマリィはレエモンとレエモンの友人宅に向かう。道中レエモンをつけているアラビア人一味を確認する。

彼らはレエモンの友人マソンの家に着く。彼らは海辺での遊びを満喫する。昼過ぎ、ランチのあとムルソーとレエモン、マソンが三人きりでいるとアラビア人一味がこちらに向かってくるのに気づく。お互いに対峙すると乱闘が始まり、レエモンは匕首で腕を切りつけられる。アラビア人はそのまま去る。レエモンは傷の処置をする。

その後まだ例のアラビア人らが居るのに気づきレエモンは拳銃を持ち対決しようとするが、ムルソーはレエモンをなだめ拳銃を取り上げる。

直後一人になったムルソーはアラビア人一味の一人がムルソーと対峙したのに気づく。匕首を抜いたアラビア人に対しムルソーはレエモンの拳銃を撃つ。アラビア人は倒れそこにムルソーは加えて4発撃つ。

 

(第二部)

 

殺人で逮捕されたムルソーは数日にわたり判事の尋問を受けた。逮捕から八日目にムルソーの国選弁護士が来た。弁護士はムルソーに殺人の日までのあらましを尋ね、ムルソーは無機質ながらも答える。

ある日ムルソーは進展の無い判事からの尋問で、判事から十字架を向けられ神に罪への懺悔を求められるが、自分は無神論だと断る。11ヶ月の拘留を経てムルソーは刑務所に移送された。

 

刑務所に収監されてしばらくしたある日ムルソーのもとにマリィが面会に来た。面会者とと囚人がそれぞれ一同に会する面会室でマリィとムルソーはレエモンの様子や自分達の結婚について長からずも話した。

その日からのムルソーの監獄生活ははじめは苦痛や不自由を感じつつも、段々囚人らしく順応していった。

 

ある年の6月、ムルソーの裁判が開かれた。多数の群衆が詰めかけ被告人のムルソーに注目が集まる。

裁判ではムルソーの弁護士や検事などが弁舌を振るい、ムルソーの関係者が証人として証言を語る。検事はそこでムルソーの「悪辣外道な犯罪者」の物語を作り、弁護士はそれに反論する。

ムルソーはその裁判が自分不在で進むのを感じた。検事はムルソーを悔悛が見られない重罪人とし死刑を求刑した。裁判長はムルソーに何か言い残すことは無いかと尋ねた。ムルソー殺人に意図はないと答えた。裁判長が改めて殺人動機を尋ねるとムルソーは「太陽のせいだ」と語った。その後も裁判は続いたがムルソーには死刑判決が下った。

 

判決後のムルソーは判決から処刑に至るまでのことを考えてた。御用司祭との面会も拒否していた。続いて特赦請願のことを考えつつ人生の長さに違いがないことを思っていた。

 

ある日ムルソーがマリィのことを考えていると御用司祭が面会に来た。御用司祭はムルソーにいくつか問いかけをするもムルソーは無機質な返答を返す。御用司祭はムルソーを憐れんだが、ムルソーはそれに嫌悪感を感じた。御用司祭は神への罪や神の苦悩、罪を犯さなかった場合のことについて語るが、ムルソーはそれらに意を介さなかった。御用司祭がムルソーは何も分かっていないと発言をした時、ムルソーは激昂し御用司祭に掴みかかった。

神への信仰と不信仰の間に差はなく、敬虔なキリスト教徒と無神論ムルソーの間には善意や罪の差はない・・・。

このような旨を憤怒しながら吐露したムルソーはその夜「この世の優しい無関心」の中で幸福を感じ、そして処刑の日に群衆が自分を憎悪の叫びで迎えることを望んだ

 

(おわり)

 

 

【感想】

 

 

さてこの「異邦人」ですが、強烈な印象と難解なテーマが特徴です。難解というのは、「異邦人」で感じ取ったことを言語化することの難儀さを差します。

 

特に主人公ムルソーの人物像がかなり特殊です。ムルソーは市井で日常生活を送りつつも、愛する母の死に淡白でかつ自身の起こした殺人とそれに対する処刑に対しても淡白な反応です。それどころか殺人犯ムルソーと(仮に殺人を犯さなかった場合のムルソーも含めた)罪を犯してない市民の人生に大差はないと言わんばかりの態度を示します。

 

なかでもムルソーの前に出てくる神の権威を振りかざす人々(検事、御用神父など)と無神論ムルソーは好対象でした。人々とムルソーの問答と慟哭は難解なこの小説の中ではハッキリと登場人物の思想や立ち位置を見せつけてきます。

 

 

ここからは項目を分けつつこの本の感想を述べたいと思います。

 

〈1. 無神論ムルソー

 

この小説いちの謎である主人公ムルソーですが、この男のキャラクターは「無神論」の一言で説明されます。それゆえにムルソーは理屈では簡単に説明できても、頭がそれを受け付けないのです。

 

私たち日本人の場合はなおさらです。日本人では特定の宗教にこだわらない「無宗教」は沢山いても、神との絶交を誓う「無神論」者はほとんどいないからです。これまでの日本の歴史や文化、風土では生まれがたいものなのです。そのためムルソーは日本人から見て奇特なキャラクターなのです。この事については私が以前に書いた「無神論無宗教の違い」(https://zubahn.hatenablog.com/entry/2021/07/18/014153)で詳しく説明しております。

 

ムルソーキリスト教徒でもイスラム教徒でもなく無神論者として、自身の日常生活と神との関与が無い生活をしております。母親が死んでも悲しみなどの感情を見せず喪にも服さず、すぐに日常生活に回帰していきます。

逮捕から裁判、死刑判決後にかけてもムルソーは神や正義には無関心を決め込み、それらに従う振りをして自分に有利に裁判を動かそうともしませんでした。

 

しかし彼は職場でもプライベートでもそこまで大それておかしな生活を送らず、交友関係もありました。作中に出てきた女詐欺師やアラビア人一味の暴漢に比べればムルソーは無害な人間なのです。実際に裁判ではレエモンやマリィなどが証人としてムルソーの潔白を訴えました。そのためムルソーは変わり者ながら親しい人間からは信頼を寄せられている人間なのです。

 

それに彼は無神論者でなければはね除けたりするであろうものを自然に受け入れておりました。彼はサラマノ老人と老犬の日常的な諍いをさも当たり前の光景のように見ていましたが、それは無関心や疎遠ではなく本気で普通の関係のひとつとして見ていたのです。また女遊びの激しく暴力的なレエモンにも物怖じしたり屈服せず対等な人間として受け入れておりました。

ムルソー無神論者として神や既存の道徳から縛られない生活をしておりましたが、放埒で退廃した生活ではなく、不思議と普通の生活を送っていたのです。

 

その事から彼は不条理に身を浸しながら不条理を幹とする不思議な人間像なのです。

 

 

〈2. 殺人動機は 「太陽のせい」?〉

 

 

この小説の不思議な部分は、ムルソーの殺人動機の「太陽のせいだ」という台詞にあります。これは本当に理解しがたい台詞で、作中でもその台詞は周囲の群衆に理解されず嘲笑されます。

 

私もこれは難しいと思いましたが、これは「ある構造」を前提とすれば整然と理解できるものでもありました。

 

まず結論から申し上げますと、ムルソーの殺人動機は「相手のアラビア人に”殺さない理由”が無かったから」なのです。ムルソーは自分に殺意を向けたアラビア人と対峙し、生き残るために拳銃で殺害したのです。ムルソーにとってそのアラビア人はその瞬間から「生かす理由が無くなった者」になったのです。

 

そして「太陽のせいだ」というのはそんな訳がないという前提のもとで、そこに理由が「ある」だろうと考える周りの一般の人々への嘲笑を込めた皮肉なのです。

 

ただ、これだけでは説明が不十分です。日本人の常識に則れば、このムルソーの思想が生まれた背景がまだ分からないからです。

 

ここからキリスト教社会における道徳の話になります。

 

キリスト教社会では唯一絶対な「神様」はこの世を創造し、この世の規律を生み出し、この世の恩恵を授ける存在です。つまり神様人間を人間たらしめている存在で逃げがたい存在です。道徳も神様が生み出したものと考えます。

逆の言い方をすれば、この世が創造されることやこの世に規律があること、この世に幸せがあることを認めることは神様の存在を認め、信仰を認めることになります。

故にキリスト教社会ではこの世の創造・規律・幸福の事実と唯一絶対神の存在と信仰はお互いに関連しあい真であり、その矛盾を唱えることは許されないのです。

 

その上でムルソー無神論者なのに普通の人間と同じ生活をしており、キリスト教社会では「矛盾」をはらむ存在です。ムルソーの最後の慟哭でキリスト教信者とそこから外れた者を差別することに憤りを覚えていたことが分かります。具体的な理由は語られませんが、おそらくムルソーキリスト教社会の矛盾を感じつつもそれを代弁する言葉を取り上げられるという実感があったのかもしれません。そしてムルソーはそれを人に伝える気力もなくなり一見すると無機質な人物像が出来上がったのでしょう。

 

何かしらの理由で神と縁を切ったムルソーキリスト教社会とも絶縁し、道徳や世界の意味、世界の因果を他人と共有できなくなったのでしょう。それらを他人と共有するのはムルソーにとっては忌々しいであろう「神」との契約を意味します。

無神論者として生きる道を選んだムルソーは、殺人を犯したあの日は「アラビア人を殺さない理由がなかったから」殺したのです。尋問や口頭弁論では神の授かり物たる言葉を信じず語らず、無神論者の言葉で語りました。殺人動機も「自分のような無神論者のことも分からないキリスト教徒の人々にとって分かるような)殺人の意図は無い」「人間の世界の所業に何でもかんでも意味や理由を付与したと騙る神の信者の言葉で言えば)太陽のせいだ(と言えば満足だろうか」と語り、無心論者の自分を理解できない周りの人間に対する軽蔑の詰まった皮肉を言い放ったのです。

 

 

〈3. 「異邦人」って何?〉

 

この小説のタイトルは「異邦人(L'etranger)」ですが、これは一体何を表しているのでしょう。

 

異邦人とは議論するまでもなく「違う国の人」という意味です。

小説の舞台はフランス領アルジェリア(当時)です。この小説にはフランス本土からの人間が出てきておりますが、それを異邦人とは描いておりませんし重要人物でもありません。また現地住民としてアラビア人も描かれておりますが、特に民族間の摩擦について強調している描写もありません。むしろ一市民として溶け込んでいる感じも見られます。異なる民族が入り交じることによる分断にクローズアップしているわけでもなさそうです。

 

ここまで来れば異邦人が誰か絞られてきました。ここで言う異邦人とは主人公・ムルソーのことです。ムルソーは小説内で一番浮いた存在で、無神論者として神の権威や道徳、因果律に背いて生きております。ムルソーの口から語られる言葉にもそれが滲み出ており、ムルソー自身がそれらと形而上学的に伍するつもりが無いことが現れております。

 

そんなムルソーにとって、今暮らしている所は昔から住んでいるところであり通常であれば故郷であり本人にとってもそれは間違いではないといえます。

ではその事実をもって、自分の故郷はよその土地と比べて特別かと言われればそうではないといえます。無神論ムルソーは他の市民と折り合えない部分があり、それを奇妙な視点で見る人は多かったと思われます。それはあたかもよその土地でよそ者として見られるかのようにです。

そのためムルソーにとってはこの世界は全て異国であり生きている限りそうなのです。この世界においてムルソーはどこでも「異邦人」なのです。

そのムルソーにとって自分の「国」ではないキリスト教社会は異国であり、自分によってたかってキリスト教社会に引き込む人々とは折り合えないのでした。神の名において悔悛を迫る人々、母の葬式で特別に心を痛めない自分を奇妙なもののように見る人々・・・、それらはムルソーに対する凌辱でした。

そんなムルソーが死刑判決を受けた時、彼はこの異国から実質的に追放され、ムルソーキリスト教社会から自由になったのです。「この世の優しい無関心」に幸せを覚え、処刑の日に群衆が自分に憎悪をぶつけることを望むのは、もう異国と偽りの契りを結ばずにすむからです。異邦人たるムルソーが異国と真の意味で縁を切り、異邦人の安寧の地を得ることが出来たからです。

 

したがって、この物語はこの世の異邦人たるムルソーが異邦人の安寧の境地に至る物語だったのです

 

 

【おしまいに】

 

 

この「異邦人」は一見すると難しい話ではあるものの、ただ普段無視されがちな矛盾や苦痛を強烈に描写している作品だと思いました。なぜ宗教、道徳、社会規範は自分の中の違和感を語ってくれないのか、そんな物に交わって暮らしたくない、そのような叫びが聴こえてきそうな作品でした。

 

最近はコミュ障、社会不適合者、陰キャ・・・という言葉が生まれるほど、個人と社会との摩擦を感じる人が少なくないことが明らかになってきました。その理由は様々でしょうが、この「異邦人」は少数とはいえない人々の感じるそのような違和感や不条理をありありと表現した作品であると思いました。

 

そして、そうした感情の吐き出しどころまでも何者かに封殺されており抑圧されているという現状も表現されておりました。ムルソーの殺人から処刑まではその部分をかなり強調して描いております。これは、そこまでしないとムルソーの思想や信条を人々に分からしめられないほどムルソーに対し何者かによる「言論弾圧」が甚だしいことを強調しているものと思われました。

 

あるいはそうした社会規範から外れる行為が社会では「殺人同然」の行為として語られる一方で、本人からすれば安寧の地への旅立ちであることを描いているのでしょう。

 

これをどう思うかは人それぞれですが、この作品がこの世界で暮らす人の誰かを代弁していることは間違いないはずです。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

2021年8月18日