ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】「日本教の社会学」小室直樹・山本七平


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こんにちは、ずばあんです。

 

本日は山本七平小室直樹の共著書「日本教社会学」(1981)の読書感想です。

 

共著者の紹介ですが、まず山本七平(1921-1991)は評論家、作家であり出版社・山本書店の創業者でした。山本はクリスチャンや保守論客の立場で言論活動を行っておりました。本書では若いときの従軍経験についても詳しく語ります。

小室直樹(1932-2010)は東京大学出身で経済学などの社会学系統に篤い学者です。保守論客として言論活動も行い、ソ連崩壊を十年以上前から予測していたという功績があります。

 

この本は日本人の宗教観、道徳観を諸外国のそれと比較しつつ述べます。「日本教」とは共著者のひとり山本七平が作った言葉で、日本人の精神において、西洋人にとっての宗教と同じ役目を果たすもの・構造を日本教と呼びました。この「日本教」が何であり日本社会をどう作っているのかを山本七平小室直樹が対談形式で語ります。

 

【内容】

内容は日本人の政治観、宗教観、経済観の3部にわたり紹介されます。

 

[I]

 

まずは日本の現在(1981年当時)の政治、経済、社会がヨーロッパ等の「民主主義」とはかけ離れている点を指摘します。欧米での民主主義はすべてが契約により強く拘束され、法律や労使関係、ビジネスの取引はまず契約のほか口出しできません。一方で日本ではまず合議・コンセンサスが第一とされ、その場での空気が決定事項となるのです。たとえ契約を結んだとしてもその内容はその場での判断や合議に委ねることが前提となっております。

 

続いて戦前戦中の日本が「軍国主義」の実態とかけ離れている点を指摘します。軍国主義ではアメリカ軍を代表に、軍隊は厳密なヒエラルキーや規律の元で組織運営されます。社会における物的・知的リソースも軍隊の作戦のために動員されます。

一方日本軍は上官の命令とは別にその場での合議や独断が重視され、加えて公式な階級とは別の「在籍年数」等による年功序列が事実上のヒエラルキーとなっておりました。そのため組織内の上意下達が上手くいかない構造となり、結果として第二次世界大戦を止められなかったとしております。

 

[II]

 

そこから日本人にとっての真の宗教、すなわち「日本教」を分析していきます。

 

世界には宗教が沢山ありますが、それらは宗教の信者たる資格により2種類に分けられます。

その資格の一つは遵法です。宗教の聖典に決められている具体的な行動規定に従うことが信者の資格となります。例はユダヤ教イスラム儒教などです。もう一つは信心です。これは聖典で語られる神の神性を心より信頼することです。これは精神的な要素であり常に内心を問われます。例はキリスト教仏教です。

では日本教の場合は何かというと、「実利」になります。神とは何か実利をもたらすものであり、それがないならば神との関係を切ったり別の神と結ばれたりします。日本では仏教式で葬儀・法事をしますが、地鎮祭や各種祈願は神道式、結婚式はキリスト教式、家族様式や官僚機構は儒教などそれぞれ「実利」に基づき神と関わります。そして実利が得られず損害ばかりを被るとき「神もくそもない」となるのです。

 

各宗教には信者に絶対的に課す事柄として「ドグマ」があります。イスラム教の場合は「信仰告白」「聖戦(ジハード)」(*)などがそれです。キリスト教の聖書にもドグマは存在しております。

そして日本教におけるドグマは「空気」です。「空気」はその場での合議や判断、または人間関係のしがらみなどで生み出されます。日本教ではこの「空気」がドグマであり、空気を読み従うことを日本教の信者に強く強いるのです。

そしてその空気に反する現実「実体語」に対して空気を代表する「空体語」が強く語られるのです。

(*聖戦「ジハード」はムスリムイスラム教を代表して戦うことを意味しますが、それは武力戦闘に限りません。商売や学問などでの競争に打ち勝つこともジハードに当たります。)

 

通常宗教では救済儀礼(サクラメント)というものがあります。これは宗教理念から外れている者を宗教の内側に包摂するための儀礼のことです。

日本教における救済儀礼とは、あるがままの「自然」に任せる「本心」の気持ちを大切にし、それを告白することです。「建前」というのは自然に反する人為のことと考えられます。そして建前(人為)より本心(自然)を尊ぶ精神を「純粋」と呼ぶのです。

なお組織で在籍年数の長い者を尊ぶ年功序列もこの「自然」に含まれ、それを尊ぶことが「純粋」とされます。

そして許しを請うとは、日本教では年功序列や本心を尊び告白することを指します。

 

宗教における神議論では、神とは「カリスマ」を備えたものとされます。カリスマの根拠は一神教ではこの世界を創造し、奇蹟を起こし、終末の日に信者を救済することです。仏教では、仏陀や菩薩という神とは異なる者ですが、悟りの境地に至り解脱の法を解くことがカリスマとされます。

日本教におけるカリスマとは、空気を作ることが出来ることです。日本人が抗えないドグマとしての空気を作れる「鶴の一声」を発せる者がカリスマを備えているのです。

 

キリスト教イスラム教には原理主義(ファンダメンタリズム)が存在します。これは原典や原初の教えが真の考えだと考えるものです。仏教はブッダの教えの体系に基づく経典を皆等しく聖典と扱うので論理的には原理主義は存在しません。

日本教には聖典は存在しませんので原理主義はあり得ないようでしょうが、一神教原理主義者のメンタリティとの構造と一致する部分はあります。それこそ「その場の空気」であり、その時に居たものしか分からないような空気を真実と考えるのです

 

[III]

 

ここからラストパートとして、欧米の資本主義社会とは異質な日本社会を語ります。

 

欧米の資本主義キリスト教の考え方に基づき発生しました。キリスト教の新教徒プロテスタントは聖書の教えを重視し、聖書の「予言説」(誰が救済されるかは最初から慈愛の神が決定しているという考え)に基づき、自分が救われる者の一人であることの証明として自分の職業に注力しました。実はそれまでキリスト教(旧教カトリック)社会では労働は汚れたものとされそれよりも教会信仰が尊ばれてたのです。プロテスタントはそれに対抗しその告白として労働に勤しんだのです。そしてプロテスタントの行動はイギリスで産業革命を起こし、その影響が欧州等に伝播し資本主義社会を形成したのてす。

日本にも明治の頃にその影響が及びましたが、労働や職業を尊ぶ思想は古来より日本にありました。そのため労働に旧来の思想の打破と真実の証明という考えが無く、むしろ伝統的で保守的な行いと考えておりました。ここで欧米とのねじれが生まれ、日本式資本主義の独特な要素が生まれたのです。

 

また日本の資本主義の特徴として、共同体企業と一致している点です。共同体とはそのメンバーが人間として生きていくための集団のことです。ただ生計を立てるのみならず価値観や帰属意識、社会的なアイデンティティなど人間性を形成する場が共同体なのです。

第二次大戦前の日本では農村や地域のコミュニティが共同体の役割を担っていました。しかし戦後はそれが崩壊し、高度経済成長期以降は新卒採用や終身雇用制の成立から企業が共同体の役割を持ち始めました。

 

また、今の日本社会は明治維新からスタートしておりますが、その明治維新を引き起こしたのは儒教学者の浅見絅斎(あさみけいさい)(1652-1712)の思想でした。

儒教は江戸時代の徳川幕府朱子学を主にして、幕政を正当化し強化する目的で採用しておりました。なおこれは本来は中国の思想であり、徳川幕府でもそのまま改めずに使用しておりました。

その中で異彩を放った儒学者浅見絅斎てした。浅見は徳川の時代に朱子学が強い中で、「正統の王朝」に忠義を尽くすというオリジナルの儒学を唱えました。これは「正統の王朝」すなわち天皇家への忠義を尽くすという考えに繋がりました。浅見の思想は18世紀から起こった、日本古来からの日本人らしさを問う国学に影響を与え、幕末には尊皇攘夷志士の教養となりました。

すなわち浅見の唱えた「正統の王朝」に忠義

を尽くす儒学思想は日本のナショナリズムひいては明治維新という近代国家日本の興りの根源となったのです。

 

〈終わり〉

 

さてここまでが「日本教社会学」の内容でした。山本と小室の対談ですが、その言葉や内容は一つ一つがとても濃密で複雑に絡み合うものでした。しかしどれも日本人の精神について的確に分析しており、文章の内容にどの部分も惹かれました。

 

日本人の精神的支柱が何であり、それが今の日本の社会や経済、政治をどのように作っているのか、そして日本人たる自分はどんな人間か、それを知りたい方々にはうってつけの本です。

 

 

【感想】

 

 

この「日本教社会学」は私の自分探し、そしてこれからの自分を探る上で重大な内容が沢山つまっていたと思います。そしてそれまで何者にも証明されなかった自分のあり方や気持ちについて見事に書き記してくれたと思います。

 

それでは以下は項目に分けて感想を述べていきます。

 

 

①呪いの民日本人

 

おどろおどろしい項目タイトルですね(汗)

 

この呪いというのは、自分のなすことや思うことに自分の想いもよらない力が働いて自分や人に影響を与える作用のことです。言霊や因果応報とかはそれを代表しております。

日本社会においてはこの「呪い」というのが根強く存在している気がします。社会的に重要な事柄について議論を拒んだり発言を封殺しようとするような「臭いものに蓋」をしようとする風潮があります。発言そのものに魔力があり災いをおびき寄せるのだと言わんばかりの考えです。

また、ある不祥事を起こした人間と関係を持った人々に対しても連座で制裁しようとするきらいもあります。それは家族や親友ならまだしも、同僚や取引先というビジネスの関係にも問われます。なぜそこまで制裁を加えなくてはならないのでしょうか。これはいじめっこが「こいつの呪いが移った~」というメンタリティとあまり変わらないと思います。

 

それらは日本人の生き様が呪いそのものだからと思います。日本は災害多い国です。地震や噴火、台風、大雨、大雪など、世界でもこれ程多種多様の災害に度々見舞われる国はありません。一方で四季の循環や潤沢な水資源から豊富な生態系に恵まれた国でもあります。

そのため日本人には災いと恵みを共にもたらす環境に対応すべく自然に従順で穏やかな精神性が育まれました。

これは言わば解けない呪いを日本人の生活に取り入れているようなものです。この呪いに殺されるか生き残るかは自分の自然への従順さ故で、従順であることが至極とされたのです。そしてその結果生き残り救われることが従順の証とされたのです。それでは救われない人の場合は・・・言うまでもありません。

 

日本人は自然から呪われながら自然に従順な民として、呪いを正当化しているのです。

 

 

②日本人の神と悪魔

 

自然の呪いを引き受けて生きる日本人にとって神とは「実利」であると本書で説明されました。実利をもたらせば元が悪魔であろうと神になるのです。呪いを正当化する引き換えとして神に実利を要求しているのです。

しかし実利をもたらさなければ元が神であろうがなんであろうが悪魔になります。失敗や不幸、惨めな死に直面したものは、実利をもたらしてこその神から見捨てられたり殺されたりしたものとみなされます。

つまり神、すなわち世界と個人の繋がりは成功したり幸福であるときにのみ存在し、失敗や不幸なときは神から軽蔑や殺意を向けられているということになります。

 

これは西洋とはかなり異なります。西洋のキリスト教には試練という考えがあります。試練とは全知全能の唯一神が人間を大いなる恩寵へと導くために用意した道です。試練を受ける信者の伝説は聖典の「ヨブ記」でも語られ、キリスト教徒にとって困難や苦難は神からのご加護を意味するのです。すなわちキリスト教では人生での転落を神からの切り捨てとする考えがないのです。

 

一方で日本では失敗や転落、苦難は実利の神から地獄に落とされたのと同じこととなります。因果応報論ではこれは本人の過去の行いの結果だとされることが多いです。ですが先程の日本人の神様観の分析では、成功した人間の人生を「後付けで」ご加護したこととなり、そうでないものは相変わらず見捨てられ続けているのです

 

すなわち日本人にとっての真の悪魔は実利を与えないものではなく、実利を得たものに便乗して善悪をより分ける人々なのかもしれません。そしてその人々により担がれ寄生している「神様」も同様なのかもしれません。

 

 

③カルト宗教に惹かれる日本人

 

では日本教により地獄に落とされた棄民はどこへ行くのでしょう。

 

一つはカルト宗教へ入信する道です。カルト宗教とは反社会的な組織と認定される宗教および宗教団体のことです。このカルト宗教は社会により意味が変わってきますが、キリスト教圏やイスラム教圏ではその地の宗教の教義に反する宗教団体のことです。

では日本教の国・日本ではどうなるかと言えば、それは実利が生まれない宗教になります。実利というのは経済活動のみならず、政治やコミュニティなど多岐にわたります。それが無い宗教はカルト宗教となります。

 

ただ実利というのは後付けでついてくるものであり、得するときもあれば損するときもあるのです。だから本来日本教において全ての「宗教」はいつ「カルト宗教」になってもおかしくはないのです

 

カルト認定されそうな宗教は「神の名において」実利を追求するようになるのです。そして窮地に追いやられ神から見捨てられそうになると、オウム真理教のように無茶なことをやるのです。

 

ただ、これは教団のみならず日本人一人一人に言えるのです。社会に実利をもたらせる人間でなくては神様から見捨てられ殺されるという懸念を日本人は持っているのです。日本は自殺率が高い国と言われておりますが、それはこの日本教の宗教観が一因なのではと思います。

 

そして最近では「無敵の人」「ジョーカー(*)」などと言われるように破滅思考を持った人による犯罪がニュースで報道されております。これは実利の神から見放された人々の姿だと思います。

(*2019年のアメリカ映画「ジョーカー」の主人公のピエロ。元はアメリカの漫画「バッドマン」に出てくる悪役。2019年の映画で、ジョーカーは不遇の立場からピエロになろうとするも、世間からの冷酷な仕打ちから世の中に復讐を仕掛ける悪人になる。)

 

いつ見放すかも知れない名もなき日本教への信仰と、名もなき神から見放された人々のカルトへの信仰、一体どちらがカルトなのでしょうか。

 

日本教から見捨てられた人のもう一つの道は無神論です。無神論は神の存在を否定し、宗教的意味から逃れることです。

これはキリスト教イスラム教に対してはスタンスがはっきりします。「世界を作り治め人々に救済を与えられる唯一無二の存在」を否定すればいいからです。

では日本教の場合はどうでしょうか。日本教は事実上の現象であり、教典や規則が明示されているわけではありません。教団があるわけでもないので誰かに宣誓できるわけではありません。しかも後出しでその存在を顕在化させる卑怯さがあります。

 

そのため無神論になっても日本教とは縁を明確に切れず、しかも粘着的に着いてくるストーカーのようなものなのです。

 

実態としては存在しながら身を隠し審判を逃れしかも粘着的に纏いつく日本教、我々の心に纏いつくこの宗教はとてつもなく恐ろしいものなのです。

 

 

日本教神話は本当に正しいのか?

 

日本教とは自然に従順で純粋であることを求め、その暁には実利を与えるという神話に基づき成立していますが、これは本当に正しいのでしょうか。

 

今日現在の状況を見ると災害の脅威はますます大きくなり、いつ誰が自然に放埒に殺されてもおかしく無いのです。熊本県球磨川流域では激しい洪水が起き地域に多大なる被害が出ました。そして東日本大震災熊本地震などの大きな地震はいつどこで起きてもおかしくありません。

 

また日本の経済状況は停滞している状況が続き、そのために弱者に負担の皺寄せが行く状態になっているのです。これは弱者が元から切り捨てられており、富めるもののみを神の御子としてきた日本教の狭量さ故なのかもしれないと思いました。

このような事態は日本教という実利に持ち上げられた宗教が社会公益に資するほどの力がなかったという皮肉でもあります。日本教はその存在意義が自己矛盾を孕むことになったのです。

 

また日本教神話は過去の日本史とも矛盾します。

日本は江戸時代の初期である17世紀中に人口が1500万人程から3000万人程に増加しました。(*)その理由は日本全国の低地や湿地が大規模開拓され、稲の耕作面積が急増し食糧の増産に成功したからです。その結果食糧に余裕が生まれ国民を養う力が増えたのです。

江戸時代に入るまで稲作は主に高地の棚田で行われていました。その後灌漑の技術が発達し関東平野越後平野濃尾平野筑後佐賀平野といった元低地湿地が広大な米どころに変貌したのです。これは自然の大改変が日本人の命の芽を増やしたという事実を示しております

(*なお江戸時代の人口は約3000万人まで増加した後頭打ちしました。これは人口増加のペースが食糧生産増加のペースよりも上回るという法則が原因で起こる現象(「マルサスの罠」)です。)

 

そして日本教の考えに近い考えに中国発祥の道教(老荘思想)という考えがあります。これは自然に従うという考えが東アジアにおいてある程度適していたことの証になります。しかし道教での自然の意味は、人間の手が入った管理された自然というニュアンスが入ります。これは日本教の、自然には手をつけない方がよいという考えとは異なります。それに当たり前ですが道教は「老子」「荘子」という教典があり、教典のない日本教とは異なります。

 

日本教に染まっている私としてはこの点は逃しがたい話です。

 

日本のこれまでの歴史において自然を残したり愛し、それに従順に暮らしてきたのも事実です。一方で自然を改良してより多くの命を救ったのも事実です。

では、日本教はどうでしょう。その事実は日本人の精神に包摂されなくてはなりません。

 

 

⑤日本人のための本当の優しさとは

 

日本人が本当に持つべき優しさとは何でしょうか。

 

「弱きを助け強きを挫く」という言葉がありますが、社会の強者と弱者は時が立てば変わるものですし、同じ個人でも局面が異なれば変わります。

また物質的な充実を図ることも必要ではありますが、ただそれだけでは心は癒されません。

 

私にとって日本人の心を癒す方法は、全ての人に差別することなく慈愛を送ることだと思います。日本教は強者に寄生し弱者を無視し時には搾取しますが、私はそれに対し全ての人に相手の素性に関係なく慈愛を振り撒くことが癒しになると思います。日本教が取りこぼしたものを拾うこと、それが優しさなのかもしれません。

 

かの哲学者ニーチェキリスト教を「神は死んだ」「弱者哲学」として批判し、そこから脱して何事にも動じない個人の「超人」の境地に至ることを説きました。しかし日本人の場合は逆にキリスト教的な優しさを取り入れることをした方がよいのかもしれません。実利の神の日本教だけではもたらし得ない概念がそこにあると思います。

 

⑥実利と信仰の分離

 

日本教のそもそもの問題点は信仰と成果主義が一体化している点にあります。そのため日本教は宗教として最初から機能不全に陥っているのです。

 

日本はますます格差が大きくなり、上流国民・下流国民という言葉が生まれるほどになっております。その中でこれまでの日本教は何もせず、逆に社会の分断に便乗しようとします。

 

そのため私たちは生活や日々の自己研鑽をしながらも、その外側にいる大いなる存在も意識しなくてはなりません。成果がなくとも信じられる、ご加護してくださる存在を確認しなくてはならないのです。

 

ではそれが何か?これは人それぞれの事情もあるので勝手に答えを提示するわけにはいきません。ただ、何か実利で繋がる存在が自分を見捨てる時、与えられないものがあると分かったとき、それが何なのか分かるかもしれません。それはいつでも自分のそばにいるものだと思います。

 

 

 

⑦ずばあんは神に何を望むか

(つまらない内容ですので飛ばして結構です。ご覧になるならば網掛けで見ることが出来ます。)

 

私自身が、日本教など含めた宗教の神に望むのは、私の本当の汚れと偽物の汚れの分別がつけられないならばもうその部分で口出ししないでほしいということです。私はこれまで神性を持つものから自分が受けた濡れ衣のような待遇について無実を与えてほしかったのですが、いつまでたっても沈黙している気分がしました。それは私が元々穢れていて、無実の保証をする気がなくなったからかもと思いました。もしくはその穢れに服し汚れ役を全うすることが私の役目なのかと思いました。

しかし、かなり前から社会生活上の支障が出てきました。私は何となく気付いておりましたが神は沈黙しておりました。そしてあるとき私は一番人生できつく心に深い傷を負ったときの神の憮然とした態度など一連の行為と私の今後の人生のために、神と自分の関係を更改しようと思ったのです。私は神に啓示の能力や奇蹟の能力があるとは信じておりません。ただ私を殺しはしなかったことだけは感謝しております。

私は神を大切にはしておりますがそれは師としてはなくこの世の最後の器そして生き物としてです。私は神から受けた呪いや穢れはありませんし、それを与える忌々しく大層な存在もおりません。私の神への信仰はここから始まるのです。

 

 

【おしまいに】

 

この本は1981年刊と古い本です。社会的状況や直面する社会問題も大分変化しました。しかし、肝心の日本教については今も当てはまるどころかかなり最新鋭の内容となっています。それは日本教を生み出した日本社会がこの部分についていまだ直面できていないからかもしれません。

 

日本教というのは本当に日本人がこの宗教を信仰しているのではありません。

宗教という言葉の内実は各々の宗教で異なります。その中で宗教が生活や思想に根深く染み込んでいるのがキリスト教イスラム教です。その信者が心の内側で宗教で埋めている部分に、日本人が埋めているものが日本教なのです。

 

もちろん一神教には一神教で欠点もありますので、日本人の信仰はダメだとか一神教こそ正義とは言えません。ただ、日本人の信仰の特徴についてここまで沈黙を破り分析し喝破した研究は他には無いと思いました。

 

心の穴はなぜ生じるのか、頑強で揺らぎ無い精神はなぜ手に入らないのか、神はそれらをどう思っているのか、それらはこの「日本教」の存在に答えがありました。

 

私は今回の感想では日本教に批判的な事を書きました。日本教の正体が明かされなかったがゆえに山積みした問題が多かったからです。しかし日本教に復讐するがごとく攻撃し排撃するのも違うと思うのです。

日本教とはこれまで語られなかった日本人の信仰心の深い部分です。自分の信仰心が何に根差すものなのか、自分の心の中の不可解な部分は何か、本当に神を信仰しているのか、それを知るための手がかりが日本教というキーワードだと思います。

そのため日本教の考えをベースに自分の心に足りないものが何かを知ることが心身の健康や自分の成長の第一歩かもしれません

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

2021年11月16日