ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

【読書感想】「ペスト」カミュ

f:id:zubahn:20210627082538j:plain



こんにちは、ずばあんです。

タイトルの「ペスト」(アルベール・カミュ)ですが、一年ほど前からコロナ禍が始まったことにより有名となった本です。

ペスト(La peste)」はフランスの作家のアルベール・カミュが1947年に発表した作品です。これは1940年代の都市を舞台に感染症のペストの大流行で都市が封鎖される模様を描いた作品です。その様子は同じく感染症である新型コロナウイルスの流行を想起させるため、去年からずっと多くの人々に読まれております。

私もこの本に関心があり、最近になってようやく読むことができましたので、その感想を述べさせていただきます。

【内容】


この本の舞台はフランスの植民地であるアルジェリア(当時)の都市オランで、流行病であるペストが流行り始めそのあとの市民の様子や登場人物の心情や行く末を描いたものです。

ペストとはペスト菌によって伝染する病気で、咳や発熱や内出血などの症状が現れ、罹患した患者の肌が黒ずむことから黒死病とも呼ばれます。
世界の歴史では古代から各地で度々爆発的な感染をおこし、その度に大量の死者を出し社会の混乱を招きました。特に中世ヨーロッパのペスト大流行は有名で、その後のヨーロッパの社会、経済、文化、宗教に大きな影響を与えました。

それでは以下あらすじとなります。


(ネタバレ注意)



<あらすじ>

〈1〉
この作品はとある「筆者」の手記として幕を開ける。

194×年4月、フランス領の北アフリカの都市オラン。オランの医師であるベルナール・リウーはネズミの死骸を度々見かけるのに気付く。リウーのアパートの門番の老人ミシェルは子供のいたずらだと憤慨する。

そのさなかリウーの妻は病気療養のために遠隔地へと発つ。妻を見送った駅でたまたま会ったのは予審判事のオトンとその息子であった。

そのリウーの元に取材で訪ねてきたのがの新聞記者の青年であるレーモン・ランベールである。

リウーのアパートに住むスペイン人の舞踊士の元に足繁く通うのは、フランス本土から来た青年ジャン・タルーである。タルーはオランの街の人々を観察し自分の手帳にメモをつけていた。

オランの神父パヌルーは博学で戦闘的なイエズス会士でオラン市民の尊敬を集める。

役所吏員の初老の男性ジョゼフ・グランはリウーの昔の患者で、自殺未遂を犯した男性コタールの件でリウーを呼び出す。

鼠の死骸は日に日に増え、同時に何かしらの病気の患者も増加した。そして、老人ミシェルもその病気で絶命しリウーはそれを看取った。

鼠の件でリウーは市内で最も有名な医師の一人でオラン医師会長のリシャールと連絡を取り合う。その後、年輩の医師カステルと会いそこでペスト流行の可能性を考える

県庁の保健委員会でリウーらはペストの可能性を主張し、ペストへの対策の準備を訴えた。

疫病患者は増加し、オランの街は疫病との戦いに入った

〈2〉
オランの街は封鎖され、人の移動、物流、通信が制限され、人々はいわば監獄の中の受刑者と同じ状況におかれた。街の外にいた家族と離ればなれになった者もいた。

オランの市民はいまだ現実を認識できず、ペストがどれ程広がるか、これからどれ程続くか分からなかった。

その中でコタールは逆に元気になり、グランは自分の妻ジャーヌへの思いを強めていた。ランベールは市外にいる彼女と会えないことに憤慨していた。医師リウーはこの混乱に冷静に対応していた。

神父パヌルーは「ペストは神が傲慢な人間に与えた試練であり、市民は反省しなくてはならない」という説教を披露し、市民の間で有名になった。

ある日グランはリウーに、自分が詩を作っていることを打ち明けそれを見せる。それを印刷屋に見せて脱帽させたいとグランは言うが、リウーはそのためにはまだ修正が必要だと思った。

夏に入りオランの街はペストの死者が相変わらず出ていた。そして市民はその厄災を祓おうという動きを見せていた。

タルーはリウーと会話し、ペスト対策の話からパヌルーの説教や神の存在の話題になった。リウーは両者に疑問を抱いており、病人に真摯に対応する医師の本分を語る。

その後タルーは保健隊を組織し、グランもそれに加わる。カステルも血清の製造を試みていた。

ランベールはペストに屈従しまいとし、密航を考える。ランベールはコタールと話をし、コタールの伝手により密航の手配をしてもらう。ランベールは二人の男を介し、二人の兵士と打ち合わせをした。

タルーはランベールに保健隊への勧誘をする。タルーはコタールにも保健隊への勧誘をかける。しかしコタールは自分が犯罪者で刑の執行を猶予されている身であることから、ペストが続くことを望むことを言った。
タルーは再びランベールを話をし、ランベールは一種の虚無感を打ち明ける。タルーとリウーはランベールの心情を肯定しその上で愛や誠実さの大切さを述べた。そしてランベールは保健隊に入った。

〈3〉
8月、ペストはオランの街に益々広がった。そして狂気から犯罪を犯し投獄されそこでペストで死ぬ者も出てきた。犯罪は増え街には戒厳令が出た。死者の葬儀・埋葬も切迫し、失業者対策でその人員に失業者が当てられた。個人の自由が制限された街には陰鬱さが立ち込めていた。

〈4〉
秋に入り、ペストと戦う者に疲労感が出ていた。一方コタールはこの状況に満足していた。タルーの手記によると、コタールはそれまで密告者に怯えて暮らしていたのが、ペストによる断絶状態で他人からの恐怖から解放されたからだ。

ランベールは密航の日が近づいていた。密航の日ランベールはリウーとタルーに挨拶した。帰りの道中ランベールはリウーに、愛から離れて生きることへの疑問を問うた。するとリウーは愛を諦めてない旨を伝えた。そしてランベールは密航をやめリウー達の所に残った。

秋の暮れ近く、判事オトンの子供がペストに罹った。リウーもこの子供の治療に当たる。子供の容態は絶望的であった。子供の病床にはリウーのほか、神父パヌルーらも集まった。そして子供は悲鳴をあげながら息絶えた。
リウーは病室を出てパヌルーに、あの子供には罪はなかった筈だと憤りながら言った。その後外庭で2人は話し、パヌルーは神の恩寵は人智を越えるものだと言うも、リウーは子供を苦しめた世界を愛することを肯定できないと答えた。そこでパヌルーはリウーの精神を理解し、職務を通じて結び付く何かが大事だと言った。

パヌルーはその後緊迫するペスト患者の病床に積極的に出てくるようになる。パヌルーはリウーに今度また新しい論文をミサで発表すると告げる。

ミサの日、リウーとタルーはミサに訪れた。パヌルーの説教は、ペスト流行の中で神の試練における利益が重要であり試練の解釈は重要ではないと伝えた。そこでキリスト教信者や聖職者は最後まで神の愛を信じ、神の道を捨ててはならないと伝えた。
それを聞いた若い聖職者は「司祭が医師の救命を受けるのは矛盾している」と介した。タルーはパヌルーの説教から、パヌルーは悲惨な末路が待っていても信仰を捨てない覚悟をしていると読み取る。
そしてパヌルーは数日後ペストと見られる症状を発症し、酷い病状のもと静かに息を引き取る。

11月、ペスト流行は山場を見せた。街では物資不足に乗じた売人によりインフレが起こっていた。判事オトンも収容された予防隔離所のスタジアムでは隔離者の間で不安感が立ち込めていた。

タルーはある時海を眺めるテラスでリウーに自分の過去を明かした。タルーはオランでのペスト流行の前から「ペスト患者」であったという。

タルーの亡き父は次席検事であり職務でも父としても素晴らしい人間であった。タルーが17歳の時父の職場である法廷を見学した。そこで父が被告人に死刑を求刑する姿に、社会全体が人に死を要求する姿を見てジャン・タルーはショックを受けた。
そこから彼は、人に死を要求しながら成り立つ社会に抗い政治活動に参画した。政治活動の中でも粛清は行われていたがある時その模様を目の当たりにした。そしてタルーも殺人に抗いながらその犠牲としての殺人に荷担していた人間すなわち「ペスト患者」であったことを自覚した。
タルーはそこから人を殺すもの一切を、例えそれが天災であっても、拒むようになった。そのために社会一般から外れることになってもタルーはそれを許せなかった。ゆえに第三の道すなわち心の平和に立とうと考えたが、どうすればよいのかとリウーに問う。

リウーは心の平和に至る道が何か分かるかとタルーに問う。タルーは共感だと答えた。タルーは神を信じずに聖者にどうすればなれるのかが問題だという。リウーは、自分は聖者を望んでおらず人間であることを望むという。
タルーはリウーと同じものを見ていることを確認しお互いに友情を確かめた。

12月、ペストは腺ペストから肺ペストへと変わった。オトンは隔離収容所の事務職として働くという。そしてグランは愛する妻を亡くし嘆き悲しんだ。直後グランもペストに罹ったことが分かりリウーは懸命な治療に当たった。そしてグランは無事病から回復した。
別の新たなペスト患者も治療の後無事回復した。そしてペストは突然退潮の様子を見せる。

〈5〉
ペスト患者の数は1月になり減り、症状の軽い患者も多くなった。カステルの血清も効果を出し始めた。一方で症状の重い患者は数少なくもおり、判事オトンもそれで命を落とした。

街は徐々にではあるが自由を取り戻しつつあった。ペストの退潮を疑う者もいたが、自由の獲得を大いに喜ぶものもいた。
その中でコタールはまた密告者に怯えるようになる。コタールと会ったタルーは、ペストはまたいつ牙を剥くか分からないと言い、コタールはそれを喜ぶ様子を見せた。タルーは社会全体がまたゼロからやり直すことになるとし、コタールの人生も同じだと言った。コタールも人生の希望を見出だしていたところ、コタールを追う公安の人間が現れ、コタールはすぐさま逃亡した。

2日後、リウーの元に体調不良を訴えるタルーが現れた。彼は重いペストであった。リウーは連日連夜タルーの治療に当たるもタルーは息を引き取る。
リウーはこれまでのタルーの人生の意味を問うたが分からなかった。しかし、これまで見てきたタルーの姿が、生の証がリウーの脳裏に確かに思い浮かばれた。そして翌日電報でリウーの妻が死去したことを知る。


2月、オランの街の封鎖は解かれた。別れた人との再開や自由を取り戻したことを喜ぶ人は沢山いた。

この時点で、この物語を語ってきた「筆者」がリウーであることが明かされる。リウーは客観的な記述を心がけながらも犠牲者に寄り添う姿勢を見せた。

リウーは患者の元に赴く途中コタールが拳銃乱射をしているところを見る。グランも駆けつける。コタールは武装した警官隊により制圧され逮捕された。

生前のタルーによると、コタールも人々を殺した身であり、それを是認しているのがコタールの罪であると語った。タルーはそれを許そうと思わなくてはならないと述べたのであった。

グランはリウーと別れるとき、詩の形容詞をすべて削除したと言った。

ペストは去ったが、いずれはまたやって来て人々を苦しめるであろう。その時のために今回の疫病で得た教訓、人間には軽蔑されるより賛美されるべきことが沢山あることを記録するためにこれを残したのだ。

〈終わり〉




内容は以上です。総ページ数459ページ(文庫版)にわたる長編小説でした。ペストという災厄に対して向き合う主人公を始め様々な立場からの視点、それぞれが膨大で濃密な物でした。その中で主人公の医師リウーが何を思いペストと立ち向かうのかは、新型コロナとの闘いにいる私たちに何か刺さるものがあると思われます。リウーだけではなくそれ以外の登場人物からも何か私たちの心と通ずるものがあるかもしれません。

【感想】


ここから私個人の感想です。かなり長めになるので、テーマごとに小分けして述べていきたいと思います。


〈1.ペストは天罰か?〉

この作品はペストというどの人にも降りかかる疫病を描いたものです。現在どのような人間であろうとも、過去にどんな人間であってもそれを問わず襲いかかる不幸であり脅威です。

それに対して何故我が身にこのような不幸が襲いかかるのかという疑問や不安が起こるのはおかしくありません。答えなき殺意というのは理不尽で恐ろしいものですから。何か理由があれば避けられるものだと思えるからてす。自分はそれから免除されることができるかもと思えるからです。

そこで出てきたのは神父パヌルーの説教の文言でした。「ペストは傲慢になった人間への天罰や試練であり、それを悔い改めることで人々は神の恩寵を受けられる」と問いました。

一見してそれは納得のできる筋の通った話のように思えます。しかしそれは後々のペストが去った平時において逆に狂気を起こさせる反作用をおこさせる要因になると思われます。
平時に幸福を与える存在が突然無差別殺人を起こすかもしれないというのはとんでもない恐怖心を与え人々を萎縮させます。特に、過去にどんな人間であったかや現在どんな人間であるかを問わないのが究極者であるという信念は、人間性や理性を崩壊させます。つまりは、善意や悪意を振り撒くのは全くの気まぐれということを道徳として私たちに刷り込むことになるのです。

パヌルーも後に小さな子供が長く苦しみながら死ぬ所やリウーの憤りを見て、ペストを乗り越えることによる利益はあれどペスト自体に意味はないと改めました。

天罰というと名前のとおり懲罰的ニュアンスが強くなります。天罰を受ける人間の悪や罪は当然想定され、その量刑・罪状なども想定されます。特にその人間の尊厳回復の際にはこの判断は避けられず、その人間はいつまでも告げられない「満期」を意識することとなるのです。

しかしペストに天罰というニュアンスが無いならば、すなわちペストに見舞われた人々の罪が類推されないならば、その罪を想定することによる多様種々のややこしさから解放され、人々ははっきりとした希望を持つことができます。
変な話ですが、コタールが殺人犯として平時には逃亡生活を送っていたのが、ペストの中で密告の心配がなくなった時に幸福に満ちあふれた生活を送っていたところからそれが分かります。

ペストに限りませんが、突然やって来た災厄に懲罰的意味を見出だすのは教訓なき行いであり幸福をいたずらに減らすだけであると思います。災厄はあくまで困難であり、道徳的意味は無いのです。もし災厄に懲罰を込める神がいれば、それはダメな存在といえるかもしれません。

この本の扉表紙には17世紀の作家であるダニエル・デフォーの文言として、「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。」とあります。
これは皮肉的表現であり、「ただの監禁状態を監禁状態ではないことで表現するのは、存在するものを存在しないもので説明するくらい非合理的なことである。」ということが出来ます。ペストによる閉塞的な状況を「神」の与えた天罰や試練と捕らえることは、ペストという困難から逆に目をそらし、困難に打ち勝つことを妨げているのです。もし「神の所業」でそんなことになるのであれば、神との信託は無い方がましなのかもしれないと思えます。

余談ですがこれはあくまで、北アフリカの植民都市という、日本と気候、風土、文化の異なる場所の話であり、それにともない宗教的意義は変化する恐れがあることは付け加えておきます。


〈2.パヌルーは尊敬されるべき人間だった〉

では、その懲罰的なメッセージを振り撒いた神父パヌルーは市民の敵であったかと言えば、そうではないと言えます。
パヌルーはイエズス会の熱狂的で勤勉な神父であり、市民の尊敬を日頃から集めておりました。そのためペストの発生時にオランが封鎖されたときに「神の試練」の説教をして、それが多くの人に支持されたのです。
そのパヌルーが先の「神の試練」の説教を発表した意義は、市民を断罪することに主眼がおかれたものではありません。むしろ、市民がこの困難を乗り越えるための最も有力な「神のメッセージ」を伝えるためのものでした。リウーとの会話では、パヌルーは「神の恩寵は人知を越えたところにある」と述べております。パヌルーは神の恩寵を人々が受けることを考えていたのです。ただパヌルーは、医師リウーが語るとおり、ペスト病棟の実態に疎かっただけなのです。

パヌルーが病棟で実態を目の当たりにし、リウーの信念を理解したとき、パヌルーは病棟の患者にも優しさを振り撒きました。その善意は二回目の説教にも込められペスト自体の懲罰性を否定しペストの困難に打ち勝つ意義を唱えました。そして、パヌルーは聖職者としての役目から逃げない決意をしました。

その結末は、人によって解釈は異なるでしょうが、パヌルーは医者からの治療を拒み続け最終的に病院に搬送されるも命を落としました。
酷い病状ながらも静かに息を引き取ったのはパヌルー自身の信念の表れでしょうか。

もしパヌルーが規律を第一に考え市民の幸福を二の次に考える人物だったならば別の描写がされていたはずです。病棟の実態を知っても、リウーの善意を理解しても、死んだ人間を叩きながら人々に託宣し続けたかもしれません。いや、もしかしたら教会にずっと籠り続けたかもしれません。

私が思うに、パヌルーはやはり人から信頼される人間であったと思うのです。そうでなければ、無神論者のリウーから子供の死について憤りに近い問いを投げ掛けられることも無かったでしょう。本当に話にならないのならば、リウーはパヌルーを無視したでしょう。

世の中には、自分の正義が第一でそれを邪魔する者は問答無用で悪として打ち倒し正義の「肥やし」にしようとする人々は多くいます。コタールもその一人で、自身の活動における殺人行為を肯定し仕方なかったと言いきる人間でした。その現実の下で自身の主張の矛盾を省みて修正できることはパヌルーの真の優しさを表していると言えます。


〈3.タルーは潔癖主義的〉

この本のキーパーソンの一人であるタルーですが、これは私ずばあんが特に耳目を牽かれたキャラクターでした。その理由が、タルーの行動原理が私の本心というものにかなり近い気がしたからです。タルーの信念や迷いや苦悩というものは作中の登場人物の中で一番共感できたものでした。

タルーはあらゆる人々に関心を向け、それぞれの人物に優しさを振り撒いてきました。いかなる人物に対しても攻撃することなく、それらを救おうとしてきました。医師リウーやペスト患者はもちろん、殺人の経歴があるコタールにも例外なくその善意を向けてきました。

このタルーの善意の源は、自身も自称している通り徹底的な潔白主義からでした。タルーは殺人を嫌いますが、社会的制裁としての処刑はもちろん、それに反対するための活動における「やむを得ない犠牲」さえも嫌いました。

正直言うと、これは通常よりも強いレベルでの殺人への嫌悪であり、ここまで来るとこの世に逃げ場が無いのでは思えるほどです。それは「死ぬことが安息である」ほど神経を酷使するものでした。タルーは自分が人を殺す人間では無いということを証明するのに常に気を払う人間に思えます。殺意から綺麗になりたいという潔癖主義を持つ人間、それがタルーという人物なのです。

タルーは「神なくして聖人にな」りたいと願っておりました。このタルーの心情は「人に罪を与えて自分が綺麗になる存在を認めずして、自分が綺麗になりたい」というパラドックスを含む願望でした。ここからタルーの潔癖主義は極まっていることが伺えました。


私ずばあんも、実は「罪」から綺麗になりたいとナチュラルに考えている人間でした。詳しいエピソードは割愛しますが、自分に降りかかる苦しみから逃れたくて、その苦しみに自分への「罰」を見て「罪」を祓おうとして生きてきました。

正直なところ、私は大人になるにつれ責任が重くなることが著しく苦痛に感じていました。責任は罪の理由を増やし、弁解すらも禁ずるからです。私は少年の時に自分に原因の無いことで罪悪感を強く感じ、それを信頼する人に実際に責められました。そのため人から擦り付けられる「冤罪」についてはかなり鋭敏に感じておりました。

私はその無実を晴らすために色んなことに尽力しましたが、それ以前の状態に戻ることは無かったと思います。大人になるにつれ責任が重くなりその罪を自覚しなくてはならなかったのです。過去の冤罪の弁解なぞ出来るはずがないのです。

私はその罪を与える「何か」は私が冤罪であるかいなかはどうでもよいように思えました。「何か」はそもそも私を潔白にするつもりはなく、腹の底では私に生来からの罪を感じておりそれを証明することに使命感をかける「正義感」の強い者としか思えません。冤罪も立派な罪と思っているのです。そんな「何か」は私に白くなる方法すら与えないことでしょう。教えないことが「何か」の「正義」の現れなのですから。

そんな気持ちがあるからこそ、私はタルーの人物像に共感が持てるのです。


そしてタルーが強い関心を寄せ、友情を感じていたリウーに「心の平和」とは何かと問います。

リウーは「聖人でも、ヒーローでもない、ただの人間」と答えました。タルーはそれに満足した様子でした。

私はこのリウーの言葉とタルーの気持ちについて次のことを思いました。

「神みたいな者とは異なる」聖人になろうとすることは、実は自ずと神の存在を(悪魔としてでも)認めているのではと私は思いました。神を潔白さの下で打ち倒すには神という存在を認めた上で対峙しなくてはならないのではと考えました。
タルーの心の平和の道というのは、質問する以前はいかなる人々への限りなき共感でした。それがタルーのいう「聖人」だったのです。

しかし、現実にそのタルーの方法論と目標には限界があります。そんなことを実現できた人はいませんし、もしかすると反動から共感どころか他人に鋭い敵意を向ける恐れもあるでしょう。タルー本人もこの試みを「死ぬことが安息」と言っておりました。

それに対するリウーの「聖人でもなくヒーローでもないただの人間」という回答は、タルーの潔癖に対する呪縛から解き放ってくれたと思います。
人間はどんなに努力をしたところで人間にしかならないのです。神に打ち勝つ聖人にもなれませんし、他人の一切の功績が霞むほどの活躍をするヒーローにもなれないのです。
しかしそんな人間でもペストという災厄と戦ってこれました。ペストの高止まりを見せるときだからこそ分かるのです。それにタルーのこれまでの尽力も人間タルーが行ってきたことなのです。
リウーはタルーを聖人ではなく、人間として見て、その人間の部分を讃えたのです。

私もこの部分は言葉で言い尽くせないレベルで腑に落ちました。
「何か」による有罪を晴らそうと「何か」よりも超越した存在になろうと願っていた私も聖人になろうとしてましたが、それが私の「人間性」と捉えれば、その「人間」でこの世での存在が許されるならば私は幸せだと思いました。

確かに「人間」である以上、抗えない者の気分で「罪」の質と量は変動するでしょう。ただ、その人間が人間くささを受け入れるならば、それは問題とならなくなるのでしょう。理不尽さに怒り泣き、幸せなときには笑い喜ぶこと、それが人間の人間足る証なのでしょう。

リウーのこの言葉は私に、リウーだったら私のことも受け入れてくれるだろうと思わせてくれました。


〈4.「ペスト」とコロナ〉

この「ペスト」は冒頭でも申した通り、新型コロナの流行で注目を集めました。「ペスト」に描かれている状況がコロナ禍のそれに似ているからといわれます。
ではそれはどこまで正しいのでしょうか。

まず都市が封鎖(ロックダウン)される様子はまさしくそうであり、その中の市民の一部が狂気にかられるのも実際のコロナ禍でも見られました。
一部の市民が病気の流行を正しく評価できず過小評価したりするのも同じでした。平時では活躍していた政治家やエリートが非常時では日和見に走るのも同様です。
そして物資不足に乗じて価格つり上げを行う転売屋の存在も描かれており、まるでコロナ禍のことを言い当てているかのようでした。

ただ、何もかも新型コロナと同じかと言うとそういうわけではありません。

オランでのペストはオラン市内でのみ押し込められていますが、新型コロナは全地球上に広がりを見せております。今はグローバル社会だから昔とは異なるとも言われますが、全地球上に広がった疫病は昔から存在します。

例えば1919年頃のスペイン風邪アメリカから始まり全地球上に拡散しました。極東の日本にも伝わりさまざまな防疫対策がとられました。

新型コロナのように全世界に広がる疫病は逃げ場はなく全人類が脅威にさらされます。そこでは疫病に対してどのように「敵対」するかよりも、どのように「コントロール」するかが求められています。以前の生活に戻ることよりも、新しい生活様式やポストコロナ社会など新秩序を受け入れることに主眼がおかれます。
かつてのヨーロッパのペスト大流行も、ヨーロッパのそれ以前の中性的な宗教中心の生活からルネサンス的な人間中心の生活へと変貌させました。先程のスペイン風邪もそれまでなかったワクチン接種という習慣を根付かせるに至っております。
「ペスト」とコロナとでは社会生活を前の通りに戻すか新しい形に変えるかの点で異なると思います。

【おしまいに】

濃密なメッセージの込められた「ペスト」でした。

「ペスト」は非常時に押し込められた人々が人間らしく自信を持ち困難に立ち向かう姿を描いております。誰が死に誰が生き残るかということが無差別に行われるなかで、主人公リウーらはあらゆる人々に人間としての尊厳を大切にしながら献身的に救いの手を差しのべていきます。

これは今のコロナ禍のみならず、私たちが生きている間はずっと大切なことかもしれません。

この「ペスト」に出てくる人たちは本当に強く前向きな人達に思えます。私が同じ状況に置かれたときにこの人たちみたいに強く立ち振舞得るかは分からないです・・・

あとこれは私事ですが、「細かいことはどうでもいいんだよ」という言葉の真意をこの作品で初めて理解できた気がします。それは無節操や無配慮ではなく、ただ大切なもののために今自分の役目を果たすということなのでしょう。

もしお時間がございましたら「ペスト」をお楽しみいただけたらと思います。

それでは最後までありがとうございます。

2021年6月30日