こんにちは、ずばあんです。
本日は作家の遠藤周作の最終作である「深い河(Deep river)」について述べていきます。
この作品は1993年に発表され、遠藤周作が晩年に発表した作品です。これは「海と毒薬」(1955)や「沈黙」(1966)など、遠藤が長年続けてきたキリシタン文学シリーズの最終作といえるものです。
当作品では、インドのガンジス川を題材に日本人の神への「信仰」に対する態度について述べております。インドを訪れたそれぞれの登場人物に平凡なそして決して軽くない日本人としての生き様を代弁させ、日本人が何に苦しみ何を信仰しているのかをこの小説は語ります。
本日は「深い河」の内容の解説とその感想を述べていきます。
※この記事には「深い河」のネタバレが存在します。
【本の内容】
この「深い河」の大まかなストーリーは、1984年、5名の主要人物がインドに行きガンジス川を訪れ、各々が人生の苦悩を解きほぐしたり、神への信仰を固めるという流れになります。
その5名の主要人物は次の通りです。
1人目は中年男性の磯辺です。磯辺は仕事人間で妻のことを省みない男でした。しかし妻が病気に伏し、妻から最期の言葉で「私が死んだら生まれ変わるから私を探しに来て」と告げられ、妻からの愛情を実感し妻の死後は喪失感にうちひしがれます。その後磯辺は妻の生まれ変わりを信じ、研究者の力を借りつつ調べます。そして「生まれ変わり」がインドにいるという情報をつかみ、それを見つけるためにインドへのパックツアーに参加します。
2人目は(成瀬)美津子です。美津子は青年期の女性でクールな性格です。美津子は磯辺の妻が入院した病院で働き磯辺の妻を最期まで面倒見ます。美津子は愛情に飢えており、学生時代は男たらしで有名で、大学卒業後結婚したエリート男性とも性格の不一致で離婚しました。美津子は磯辺と同じインドへのツアーに参加しますが、その目的は美津子と不思議な因縁で結び付いた大津という男性の行方を探すことでした。
3人目は中年男性の沼田です。沼田は磯辺や美津子らと同じツアーに参加します。沼田は絵本作家で主に動物を題材にした作品を作っております。沼田は幼少期に犬を拾って飼いその犬の「言葉」を聴いた経験から動物に対する思い入れが強くなりました。沼田は絵本作家となり妻子を持ってからも小鳥を飼っておりました。ある時沼田が肺を患い大手術を受けた時、無事に生還した沼田と引き換えに飼ってた小鳥は死にます。この出来事から小鳥に恩返しをしたいと思い、インドの鳥獣保護区の存在を知り、保護区に鳥を還すためにインドへのツアーに参加します。
4人目は高齢男性の木口です。木口もインドツアーに参加します。木口は第二次世界大戦時には徴兵され日本軍の行軍作戦(インパール作戦)で東南アジアに派遣されておりました。その行軍作戦では大量の餓死者が出て木口も瀕死の状態でしたが、同じ隊の先輩の塚田の助けや激励により共に生還しました。木口は亡くなった日本兵の慰霊のためにツアーに参加しました。
ここまではインドツアーへの参加者です。
5人目は青年男性の大津です。大津は生真面目で不器用ながら、亡き母からもらったキリスト教を信じる信仰心の篤い男です。大津は美津子と同じ大学の同級生で、大学時代に大津は男たらしの美津子に弄ばれ汚されそして捨てられます。どん底に落とされた大津はそこで「神の声」を聞き、聖職者としての道を決意します。しかし、大津の信仰的態度とキリスト教会の信仰的態度にはズレが存在し同門のなかで孤立し、次々と修道院を転々とします。その中で大津は学生時代から美津子と文通をし、フランスのリヨンの修道院にいるときに新婚旅行中の彼女と再会します。最終的にはインドに流れ、現地のヒンズー教のアーシュラム(修道院)に受け入れられ、インド社会から見捨てられた人々を日々ガンジス川で弔う生活をしております。そして1984年、大津はインドに訪れた美津子と再会します。
この主要5人以外のキャラクターにも物語進行上大事な役割がございます。
木口の戦友である塚田は帰国後アルコール中毒になり、健康を損ねることになります。塚田は病床で木口に、行軍作戦の時に人の死体を食べて生き延びたことを告げます。死体を食べて生き延びたという事実は塚田をアルコール中毒に走らせたのです。
塚田は死ぬ間際に、信頼していた青年職員でクリスチャンのガストンに、死体を食べたことを告白し天国に行けないかもしれない不安を吐き出します。それに対しガストンは塚田に、南米で人の死体を食べて生き延びた遭難者の話をして塚田の不安を解きます、その後もガストンは塚田に付き添い祈り、塚田は安らかに息を引き取りました。
これは後の大津のエピソードの伏線となります。許され難い、救われがたい人々を救う敬虔なクリスチャン像を描いている点でガストンと大津の信仰的態度を重ね合わせています。
また、ツアーに同行しているメンバーには他にも三條という新婚夫婦が出てきます。2人は20代の若者で(まあ私も20代の若者ですが)、ワガママで軽薄で苦労知らずなキャラクターとして描かれます。すぐに文句を言い、自分勝手な言動や行動をし、人の気持ちを逆撫でします。三條の夫はカメラマンですが、禁忌とされているガンジス川での葬儀の撮影をしようとします。
この三條夫妻は、苦悩を抱える主要メンバー5人との対比となっております。人生でやるせない苦しみを抱えることを知らない無知で傲慢なキャラクターとして描かれます。
そしてツアーの添乗員の江波は大学時代にインド哲学を研究しインドに4年間留学したこともある、インドについて専門的な知識を持つ人物として描かれます。この人物についてはストーリーの大筋では大げさに記号化されません。文字通りの案内人の役割に徹するだけです。また、「専門家」が他人に対して思う本音がぽろっと語られる部分もあります。
さて、上のような人物がインドに来てからのストーリーは次の通りです。
インドにパックツアーで訪れた美津子、磯辺、沼田、木口、三條ほか。ツアーはデリー、アグラ、ヴァラナシなどのガンジス川沿いの街を巡ります。途中でヒンズー教寺院の女神の像を見たり、木口の急病、インディラ・ガンディー首相暗殺という出来事がありつつも、ストーリーはガンジス川沿いで展開されます。
磯辺は、もらった情報を頼りに「生まれ変わり」を探しますが、結果は芳しいものではありませんでした。磯辺は悲しみに明け暮れ酒に溺れますが、夜のガンジス川を訪れその川で妻に自分の言葉を問いかけます。
沼田はインドの鳥獣保護区に、人に捕らえられた野生の鳥を放つためにインドを訪れました。ツアー中に野生の九官鳥(尾が切られていない)が売られているのを見付けてその鳥を買い、近くの鳥獣保護区に放ちます。一方で、直後に自分の行為に空しさを覚えました。
木口は塚田や戦時中に亡くなった日本兵を慰霊しようとツアーに参加しました。そのため寺院で女神の像を見たときには、おぞましい描写に行軍作戦時の記憶を想起させられ、思わず念仏を唱えました。ツアー中に一時体調不良となり、その中で戦友の塚田を看取ったガストンの名を呼びます。その後体調を回復した後は美津子と共にガンジス川に訪れ美津子に塚田とガストンの話をし、仏教の輪廻転生(りんねてんしょう)について語りガンジス川に向かって慰霊のためにお経を唱えます。
美津子はヴァラナシの街で大津と再会します。美津子は大津がキリスト教徒でありながらヒンズー教徒のグループに交わり、行き倒れのヒンズー教徒を弔う生活を送っていることを知ります。美津子はガンジス川で沐浴している人々を眺め、そして彼らと話をします。木口とも転生について語り合います。そして、美津子は聖なる川ガンジス川で沐浴します。
さて三條夫妻は新婚旅行でインドツアーに参加しましたが、我儘で軽薄な言動や行動をしてきました。これまでカメラマンとして要領よく生きてきて何でも上手くいくと思っていた三條(夫)は、ガンジス川での葬儀の撮影を禁忌であるにも関わらず行おうとしました。それにより葬儀客の怒りを買い襲われそうになりました。
三條を襲おうとする群衆を止めようとした大津は暴行を受け、瀕死の重傷を負い病院に運ばれました。その場面は沐浴中の美津子も目撃しておりました。
帰国の日、カルカッタで美津子らは行き倒れの人を看取るシスターを目撃しました。「意味のない」ことと嘲笑されるシスターら。美津子は彼女らと一言二言会話し、イエス・キリストの精神が彼女らや大津に転生していることを確信します。美津子は大津の容態を江波に確認させ、大津がつい先程重篤状態に陥ったと伝えられます。
以上が「深い河」の内容の紹介でした。
「深い河」はそれぞれの登場人物の人生に丹念に踏み込んでいる作品ですので、その点では読み進める上で複雑な作品です。ですが、各人の人生がガンジス川を収束点として語られる物語構成から、この物語でのガンジス川の意味が最重要であることは間違いありません。そのためガンジス川の意味を意識して読んでくれると分かりやすくなると思います。
そしてこの「深い河」は遠藤周作のキリシタン文学シリーズの内の一作としての価値を持っております。「海と毒薬」「沈黙」などのキリシタン文学作品では、日本人とキリスト教の関係性について語られてきました。
中東の地で生まれ欧州で育まれた合理主義的で一神教的なキリスト教は、温帯湿潤気候で育ち多神教的な精神性の日本人とでは長年そのすり合わせが行われてきました。遠藤周作はこの間の葛藤について自身の作品で著してきました。
同調圧力や極限状況などの場面での信仰のあり方を遠藤は語りました。そして「深い河」ではこれまで諸作品で語られたことを下敷きに、多元的な宗教的態度を包摂する存在について語られます。
【私の感想】
ずばあんが、この「深い河」を読んだ感想を述べていきます。
この本を読み終えて、最後まで真面目な人間を見捨て続けた狭量な強き存在を感じつつも、その一方でよんどころない事情で社会や世界から見捨てられた人を包摂する存在を確認できたと思います。
この世の中で生きる上で、苦悩は尽きないものです。生命の危機や社会的に疎外される苦しみ、友人との別れ・・・例を上げ続けると終わりはありません。そのような苦しみに耐えるために、せめてその先の幸せを掴むために「正しさ」をよすがに生きていくのです。日本人は概ね忍耐強い精神を持ち、それゆえに現状は大きな混乱を招くことなく社会を維持することに成功しております。
とはいえ、その正しさに対して必ずしも正の答えが帰ってくるわけではありません。自然や社会のルールに外れた部分は無視されたりします。協調性のない人や、集団の不利益になる人は排他されます。自然の摂理に逆らう人間は自然の殺意に殺されます。私もその部分に関しては特におかしいところではないと思っております。ルールや法則に則ることによって初めて生かせる命もあるので、その部分は私は「正しい」と思います。
ただ、どうしてそのズレが存在するのかという問いには答えはないのです。もっと言えば、そのズレを作った者は誰でありなぜ作ったのかという問いが物言わぬ「創造者」に対してなされるのです。もしこの世に「創造者」がいると仮定すれば、創造者は何を思って私の中に罪を作り、そのお心はいかなる物かと私は確かめたくなります。
それだけ大層な存在ならそれなりの確固たるお考えがあるのだろうと思いますが、それが疑われることを私(あるいは私たち)に施されるのであれば、私は創造者との関係性を疑ってしまいます。それはただの世界を作った人であって、「神」という称号を騙る何者かでしかないのです。創造者の思しめしを推し測ることはあれど、そこに信仰や帰依は無いのです。
遠藤周作の作品では、人々が「神の作った世界」で惨めな姿をさらしている姿を度々描いております。結局「それ」は神を信仰する人に対して、どういうつもりなのかという疑問が語られます。遠藤のこの視点は主に「日本人」としてのものです。遠藤は日本人とキリスト教本流の教えの間のズレを認識し、それでもキリスト教から離れられない身として、日本人にとってのキリスト教を模索し続けました。
この遠藤の営みについて、私も共感するところがありました。私は正しさに従って正しさに守られる実感を得ながらまっとうに暮らしたいという願望があります。そして、それに同調する人と仲良くしたいですし、そうした方々を守りたいと思っております。
しかしながら人間の業やら、残酷な自然の摂理でそれはかなわずじまいに終わることもあります。そこで私は汚れながら生きていき、そして罰せられながら生きているのです。一方で正しさに奉じながら、それにより苦しみを逆に招くこともありました。
そうした人間の業を無視しながら正しさを振りかざすことに対しては正直信頼はありません。善意か悪意かはともかく、いつそれに裁かれるか分からないからです。そんなものは最初から正しさに背いて生きるのと変わりません。
とはいえ逆にひねくれて世界や人と敵対し続ける考えにも賛同できません。実は私も「正しさ」の狭量さに絶望して、一時期そのような時期はありましたが、常に何者かに監視されているように感じ、本当に辛く思われました。
どこにも行き場がない私はいわばこの世界の無番地で生きているという意識があったのです。
そんな私にとって遠藤周作の語るキリスト像は、そうした心の空しさに対して問いかけてくれるものでした。以前に発表した記事でもお伝えしましたが、私はクリスチャンではありません。そのため遠藤のキリスト像を、持ち合わせの知識以上に捉えることはできません(友人や知人にクリスチャンはおりますが)。ただ、それでも私はそのキリストに救われた心地がするのです。キリスト教の門下に入ったことはないのにも関わらずです。
「深い河」ではキリスト教に限らず、ほかの多種多様な宗教的背景に対しても問いかけてくれる存在を描いております。この作品はインドのヒンズー教における聖地ガンジス川を、宗教や信条、信仰の度合いの差なく人々の心や気持ちを受容する存在として描いております。登場人物のうち、大津は敬虔なクリスチャンですが、木口は仏教を信仰しております。美津子は神への信仰心そのものが希薄ですし、磯辺も信仰に無頓着でした。沼田も、動物に対する愛の他に、特に確固たる宗教的信条はないと思われます。それぞれの宗教、信条や苦しみは様々ですがそれらを全て受け止める存在の記号としてガンジス川は語られます。そして、大津そしてキリスト(大津はそれを「玉ねぎ」と比喩します)はガンジス川のように、全てを受けとめ供養する存在として語られるのです。
ここまでは全てを包摂するものについて述べました。しかしそれにしても、なぜ大津や「玉ねぎ」は「弱いもの」として描かれたのでしょう。この作品の中で弱くなければいけなかった訳とは何でしょうか。
遠藤作品では人々に精神的救いを与える者はキリストなり神なり大津なり、弱いものとして描かれます。どうしてそうでなければならないのでしょうか。
先に答えを申しあげますと、この世には強い者で「神」たる者はおらず、「神」たる者で強いものはいないというメッセージが込められているからです。
遠藤の宗教的スタンスを語る上で避けられないのは無神論者との比較です。無神論者とは神の存在を否定し神の営みを否定する立場でございます。この世界が生まれた成り立ちから成り行き、そしてこの世での恵みや懲罰において神の関与を否定するのが無神論者です。もちろん神への信仰も否定しております。
この無神論者と遠藤はこの世での恵みや懲罰について、両者ともに否定的な立場をとります。遠藤は自身の小説で神の所業について、信者に対して神が啓示や名誉回復、救済する場面をほとんど書いておりません。「深い河」でも大津は偉い立場になったわけでもなく惨めさから抜け出したわけでもなく、大津らの所業を唾棄した者が罰せられたわけではありません。沼田も野鳥を自然に返すも、何かそこに奇跡的なことが起きるわけでもなく、自分の行動の及ばないところが意識され空しさを感じます。インドに詳しい江波も密かに内心ではインド社会にある理不尽な部分を意識し、それを知らない人間を冷笑する所があります。そしてそのインド社会の理不尽な部分が改変されたわけでもありません。神はそこを改める意志を見せなかったのです。
遠藤が作品で描いたようなことを前提に無神論者は神への信仰を否定しております。
私もそうした現実の元で全知全能の「神」をそっくりそのまま信じることには疑問を覚えます。それだけ強い存在でありながら理不尽な世界を作るのは、何かその腹のなかに良からぬことを抱いているか、そもそも私と創造者との関係性が最初から破綻しているからです。予定として最初から自分に殺意を抱いている、そのくせしてこの世に自分を誕生させた奇特で考えの読めない存在を「神」と呼び信用する理由はないからです。
しかしながら、神として信託出来るものが一切ないと「信じきる」こともまた危険だと思います。自分の中で何かを信用するという回路が死ぬからです。そうした存在がいて初めて吐き出せる言葉や感情を露にすることが出来なくなり、自分の中で混沌とした感情として渦巻くのです。究極の疑いがたい真実があったとしても、真実に含まれる殺意で自分の中のバイタリティーは心身ともに下がります。
遠藤も神への不信感を抱きつつもキリスト教という信仰を棄てられませんでした。キリスト教は愛する遠藤の母も信仰しており、遠藤と自身の母との繋がりの一つであったからです。そのため遠藤は自身の信仰の由縁を探っていったのでした。そこが無神論者と遠藤の違いでした。
そして遠藤は自身の信仰の本髄を人を愛することに求めました。それは母親からの愛に似た暖かいものです。愛を振りまく存在を遠藤は信仰したのです。ただその信仰は、強くてこの世界を作り支配しかつ理不尽で残酷な現実を押し付け裁く強い者に対するものではありません。そうしたことを改変できず惨めでも、包容力を持ちどんなに汚れてしまったものも許し愛することができる弱い者に対する信仰でした。「沈黙」では神の声が、そして「深い河」では「玉ねぎ(キリスト)」やガンジス川や大津らが信仰される「弱い者」になります。理不尽に立ち向かいながらも相変わらずそれを変えられない弱い者はそれゆえに神として信仰を集められるのです。そして何者も受け入れられ何者の苦悩を引き受けるのです。
したがって強い者に神はおらず、神であるものに強いものはいない、ということになるのです。
【おしまいに】
遠藤周作の「深い河」の感想は以上です。
ここで少し弁解です。
今回の感想では、今まで私が他の記事で述べたことの範囲で自分の宗教に対する考えを述べた箇所がありました。しかし、それはあくまで自分の中での考えであり、他の人の中では別の考えがあることは理解しております。そのため他の人の宗教的態度について侵害する意図はなく、逆に他人の宗教的態度により自分のそれが侵害されることもありません。
その上で本作の感想を述べる中で自分の宗教観を述べることは避けられず、そもそも感想自体が客観的なものではなく主観的なものであるという暗黙の了解ゆえに今回は記しました。
当記事では例のごとく作品の感想をメインに語り、感想から遠い私の意見は省いてきました。省いた部分は後日別の記事で詳しく述べますがここで一つ内容を予告して、昨今渦巻いている陰謀論について軽く述べます。
2021年1月にアメリカ・ワシントンDCで、ドナルド・トランプ大統領(当時)の支持者が国会議事堂を襲撃する事件が起きました。これは20年11月の大統領選で落選したトランプ氏の復活を求めたものでした。
この時にこの活動を刺激したのは、Qアノン(Q anon)という集団でした。Qアノンは、2016年にアメリカのネット上の匿名掲示板” 8 chan” に現れた”Q”というハンドルネームの人物の書き込みを信じる集団です。
Qはアメリカは国難に際していると警告し、その国難は「ディープ・ステイト(DS)」という裏の組織により引き起こしてされているといいます。このDSにはロスチャイルド家などのユダヤ系の富豪やアメリカ民主党員が関わっているとし、国政上の工作活動や児童売春などの犯罪にもDSが関与していると主張します。そしてDSの脅威に立ち向かうための使者として神はトランプ氏を遣わせたとQは述べます。
QアノンはQの書き込みを信用し、上のような物語を元にトランプ氏を熱烈に支持します。そしてそのために、常軌を逸脱する行動が度々見られます。
このQの書き込みですが、いわゆる陰謀論です。情報の裏付けが乏しく、矛盾点も数々見られます。そのためQアノンは陰謀論に振り回されていることになります。その結果、過激な行動に出て、最悪の場合悲惨な死に至る「信者」もいます。
ただ私はQアノンを批判するのではなく、むしろなぜ彼らは陰謀論にすがり付くことになったのか、その前になぜ彼らが別の所で救われなかったのかということについて関心があります。いくら陰謀論を信じたからといえ、その人々の窮状までもただの妄想とは思えないのです。これは今回の記事の「深い河」にもかかる話であると思いました。
Qアノンにとっての「深い河」は存在し得たのか、「深い河」と陰謀論はどう異なるのか、そして私達は「深い河」をどう選び取ることができるのか、こうしたことについて後日の記事で述べていきます。
それでは最後までご覧いただきありがとうございました。
2021年4月24日