ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

岡田斗司夫の「いい人戦略」

こんにちは、ずばあんです。

 

今回は「いい人戦略」について語ります。

 

いい人戦略」とは実業家の岡田斗司夫さんが唱えている処世術であり、今年に入ってから岡田さんのYouTubeニコニコ動画ではこのいい人戦略に関する配信が頻繁されております。

 

いい人戦略」は名前の通りいい人として見られるための戦略です。いい人になることにより様々なメリットがあります。いい人戦略はこれまでいい人ではなかった人も実践できるものです。

 

このいい人戦略について、具体的にどのようなものなのか、そして私がそれをどのように思うのかを説明したいと思います。

 

 

【いい人戦略とは?】

 

いい人戦略とは「いい人」を演じて、社会的に居場所を確保する戦略のことです。

社会生活では存在価値を示される場面が少なからずあります。その存在価値には実力や地位など様々なものがありますが、岡田さんはその内の「いい人」のキャラクターに徹することは簡単であると言われました。

「いい人」になるにはいい人として見られる「するべきこと/するべきでないこと」すなわち「いい人戦略」を実行するだけでいいとし、誰もがすぐに出来ることだと言われました。

 

いい人戦略については岡田斗司夫さんのYouTubeアカウントでアップロード(無料、一部有料)されております。(→リンクhttps://youtu.be/hB5ncWZvVbw )

 

これによりますといい人戦略はいい人の性格になるのではなく、いい人ではない人がいい人を演じるための戦略であると説明されます。

 

いい人戦略の内容は「4つのするべきこと」と「6つのするべきではないこと」から構成されます。

 

まず4つの「するべきこと」は

①共感すること

②誉めること

③応援する、手伝う、助けること

④忘れること

です。

 

続いて6つの「するべきでないこと」は、

(i)欠点を探して指摘する

(ii)改善点を提案する

(iii)陰で言う

(iv)悪口や批判で盛り上がる

(v)悲観的・否定的な態度を隠さない

(vi)面白い人、頭のいい人、気の合う人だけで集まる

です。

 

このいい人戦略を実行するべき理由は、ここ数年で一般社会での「クリーンさ」「清潔さ」に対する要求が急速に高まったからと岡田さんは説明します。乱暴な口振り、本音としての辛辣で差別的な発言、暴力的な行為・・・・・・そうした「汚れた」「粗野」な立ち振舞いが長い時間かけて忌避されてきた流れが近年はより急速になったとのことです。そして一昔前の「本音としての生々しく粗く薄汚れたものこそ素晴らしい」という価値観は最早時代遅れとなったと述べております。

そのなかで「いい人戦略」は誰もが実行できまた実行すべきものであると述べました。

 

そしてこのいい人戦略に対する懸念事項についても一つ一つ説明し、いい人戦略を実行する方が実行しないよりも得であることを強調しました。

 

 

【「いい人戦略」に思うこと】

 

私はこのいい人戦略は特にしない理由がなければした方がよいと思いました。

 

人間関係のトラブルというのは幸福感の減衰に影響する大きな要因です。社会生活において人と全く接しないことは不可能です。そのため人間関係で摩擦を起こさないための、何でもない他人との接し方としてはいい人戦略は理想的です。

今はネットなどを通じて多くの人と関わる時代となり、何でもない人との関係を無視できない時代となりました。何でもない人との関係が幸福感を左右するようになったのです。

この事は「幸福の資本論」(橘玲)でも述べられております。リアルでの人間関係に加え、物を通じた人間関係サプライチェーン)、インターネットを通じた人間関係で幸福感をコントロールする時代になったのです。

 

何よりもいいポイントは、「いい人を演じる戦略」であるということです。

人間の性格は個々人で別々でありそれを改めることは難しいです。そのため「いい人になる」のは大変なことなのです。

一方で「いい人のフリをする」のは簡単です。内面を大きく改造することを要しないからです。外面のファッションとしてのいい人戦略は適切な方法であり、寧ろその自覚がある方がうまく機能するのではと思いました。

 

私もいい人戦略に似たことは新天地でやったことがあり、その効果は凄まじかったと思いました。私のことを「いい人」として見てくれる人は多く、それによりいい関係を築けた人は多かったと思います。

 

 

一方でいい人戦略の知っておくべき限界についても把握した方がいいと思いました。

 

まず、いい人戦略は親しい人付き合いをするための戦略ではありません。いい人戦略は親しくない何でもない人の前で上手く立ち振る舞う方法であり、それ自体に親しみを深める機能はありません。

 

ただ、いい人戦略は本来自分が親しくなってはいけない人を親しい関係から避ける機能はあります。6つのするべきでないことには、自分の幸福感を汚濁し搾取する人間を親密圏に持ち込まない働きがあります。

 

もし、自分と親しい関係になるべき人間がいるのならば「いい人戦略」をしていても自然に親しくなるはずです。いないならば別に構わないのです。

岡田さんは別の配信で「友達は作るな。友達は勝手に出来るもの。」とおっしゃっておりました。真の友達はいい人戦略をとり続ければ勝手に出来るというのが岡田さんの考えなのです。出来ないのはその場所のせいであり、違う場所に手を広げるべきということなのです。

 

 

【おしまいに】

 

これは一般で語られる人間関係の構築方とはかなり違うやり方です。最初から何の説明もなくこれをやらせたら色々と勘違いしやすいのではとも思いました。

孤立主義でも八方美人でも博愛主義でもない誰にでも今すぐ出来そうな処世術がこのいい人戦略なのです。

精神や身体が壊れるまで無理をさせる訳でもないこの「いい人戦略」はどの人にも勧められる方法かもしれないと思いました。

 

確かに親しい関係で生まれる幸福感は、もしそんな関係があるうちには望ましいと思います。しかしそれがない内は、何が親しい関係でその条件は何かという大いなる虚空に等しい問いが無尽蔵に出てきます。親しい関係を作るための賭けも同じく無限大に出てくると思います。

それよりは今ある関係性からスタート出来るこのいい人戦略がより現実的だと思いました。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

2022年2月15日

【読書感想】「日本教徒」イザヤ・ベンダサン&山本七平


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こんにちは、ずばあんです。

 

本日は読書感想で「日本教」(1976年)を紹介します。

 

著者はイザヤ・ベンダサンという神戸生まれの外国人で、訳は山本七平と本書で紹介されております。

 

日本教徒」では日本人の宗教観や精神性を「日本教」として説明します。

日本教とは著者のイザヤ・ベンダサンが分析し発見した、罪科血統主義自然主義の考えを下敷きにした日本人の信念のことです。いわばキリスト教イスラム教の信者が一神教の教えで満たしている精神部分に、日本人が埋めているものです。

 

この日本教は今から400年前の日本人である不干斎ハビアン(ふかんさいはびあん)〈1565-1621〉という人物の著作や遍歴から分析されました。ハビアンは若い頃にキリスト教徒となり、キリスト教を賛美しその他の儒教・仏教・神道を批判する著作を出しました。しかし40代の頃にハビアンはキリスト教を棄教し、一転キリスト教を批判し始めます。そしてその後はその他の宗教に帰依せずハビアンは生涯を終えます。

このハビアンの宗教的態度の変化の理由とその本質についてベンダサンはハビアンの「天草本平家物語」「妙貞問答」「破提宇子(はデウス)」の三著作などから分析しました。

 

それらが詳しく語られるのがこの「日本教徒」です。日本教とは一体何のことで、その信者は何を考え、それらがハビアンをどのように動かしたのでしょうか。

 

 

【内容】

 

まずはこの本の概略を説明してから、本書の内容を説明いたします。

 

この本はまず不干斎ハビアンの生涯を著作や宗旨、思想を紹介しつつ語ります。

続いてハビアンの著作「天草本平家物語」の登場人物の動きから、「施恩」の考えを下敷きに「」「」「世捨て」「謀叛」の思想を語ります。それとハビアンが述べた「十戒」(「モーセ十戒」とは異なります)と併せて、ハビアンの勝者/敗者観を語ります。

そこからハビアンの著作「破提宇子(はデウス)」からハビアンがキリスト教を棄教した理由としての「日本教自然法」の考えを述べます。

さらにキリスト教日本教での「殉教」と「告白」の考えの相違についてハビアンの著作の引用とともに語られます。

そしてハビアンがキリスト教をも捨てた後の宗教的態度について、それと類似する貝原益軒の「大和俗訓」を引用し語られ本書は〆られます。

 

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不干斎ハビアン禅宗の僧から母とともにクリスチャンに転身しました、クリスチャン時代のハビアンは「天草本平家物語」「妙貞問答」などの著作でキリスト教の賛美や日本古来の神道儒教・仏教を非難をしました。また林羅山などの儒学者と問答を受ける経験もしました。しかし後にハビアンはキリスト教を棄教します。その後はキリスト教弾圧に手を貸し、「破提宇子(はデウス)」ではキリスト教を批判いたしました。

 

このハビアンの宗旨の変化の理由についてベンダサンは「天草本平家物語」「妙貞問答」そして「破提宇子」から読み解きます。

なおベンダサンのハビアン分析は、日本人は物事の本質について具体的言葉に表さず、変わりに「○○ではない」という消去法で本質を表すという特徴のもとなされます。そしてハビアンの信仰態度は、自身の思っていることを宗旨に代弁させるという「グノーシス現象」であるとしました。

 

 

草本平家物語」から次のエピソードが引用されます。

平家の平清盛に寵愛された白拍子(歌舞芸人)・妓王(ぎおう)が、清盛を訪ねた白拍子・仏御前(ほとけごぜん)が門前払いにされるのを引き留めます。そこで清盛に舞を披露した仏御前は気に入られます。そして仏御前は恩のある妓王について声をかけてくれるように清盛に尋ねました。しかし仏御前に心移りした清盛は妓王を追放しました。妓王は忸怩たる思いで清盛から去り母と妹と出家します。

 

この妓王の話からベンダサンは「」の考えから日本人の関係性に恩を施す&受ける関係として「施恩/受恩」の関係性を見ました。それには人々は恩を受けたという「債務」を自覚しなくてはならず、施恩した側はそれを権利として認識してはならないとしました。

それにもかかわらず施恩をした側が受恩した側に見返りや代償を求め、誰かを不幸にすることを「」としました。また恩を拒むことを主張して誰かを不幸にすることを「」と呼びました。

平家物語について清盛が恩を売った過去を権利の主張の根拠としたことを「」としました。そして、妓王が清盛の恩着せがましさを指摘してそれで誰かに迷惑をかけるのを危惧することを「」としました。

 

日本人は罪科の感情から契約の概念を身に付けられませんでしたが、一方で「世捨て」という身分の転身は可能でした。ヨーロッパや中東では近代まで厳格な階級制度が続き、それらとは対照的でした。

平家物語では妓王は近江国の農家出身でそこから舞踊芸人となり権力者清盛の愛人になり、さらに出家して宗教人となります。この身分を越える度重なる転身は日本独特の「世捨て」を表します。

そんな浮動的な身分に対して日本人が帰属意識の根拠としたのが「血縁」でした。日本では絶対的な契約や身分がない代わりに「血縁」が絶対のものとされたのです。

 

さらにベンダサンは「謀叛」の話をします。平家物語の終盤の源頼朝源義経を「謀叛」を理由に暗殺するストーリーを引用します。

頼朝が義経を「謀叛人」と見なした理由は諸説ありますが、それは義経血縁を無視し裏切り先程の「」や「」に触れたからと述べられます。

かたや義経の例と異なり、豊臣秀吉明智光秀への謀叛は、光秀の織田信長への罪科たる謀叛を世を代表して断罪するものとして好意的にとられたと述べられます。

 

続いてベンダサンは「ハビアン十戒」「破提宇子」を引用し、日本人には「自然」の思想があるとしました。「自然」とは手を加えられざる物事の道理で、それに従うものは成功し逆らうものは罰せられるとしました。自然には先程の「罪科」「血縁」の思想が含まれ。それを守り犠牲になることが望まれるべき「殉教」としました。かたやキリスト教の教えに則る殉教は自然の考えに触れるものとし、ハビアンは「自然を代表した謀叛」を理由にキリスト教を棄てたと語られます。

 

キリスト教にはイエス・キリストに対して自分の罪を告白する「コンヒサン」、その罪を深く懺悔する「コンチリサン」という考えがあります。この儀礼についてベンダサンは、ハビアンは日本の自然の世界においてキリスト教という「謀叛人」に帰依した「罪科」とキリスト教に対しては懺悔の念が無いことを告白したとしております。

 

またキリスト教には世界宗教としての使命が当初よりあり拡大主義をとってきたものの、少なからぬ衝突や惨禍を経て後世に行くに従い穏健な手法に落ち着いたとベンダサンは述べます。かたや日本的な自然の考えに基づく普遍主義は拡大や外部との衝突の経験がないまま進んできたとも述べられます。そのため日本ではキリスト教は事実上仏教的思想を排せずに信じられたとされます。

 

最後に、ハビアンが仏教神道儒教を棄てキリスト教をも棄てた先に信じたものを、ベンダサンは貝原益軒の「大和俗訓」を引用して語ります。「大和俗訓」は日常生活の礼儀作法について儒教の視点から指南するものです。

(終)

 

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ここまでがベンダサンの「日本教徒」の内容でした。

 

これは不寛斎ハビアンという人物の一生の遍歴の紹介ですが、それにより今と変わらない日本人一般の「信仰的態度」について説明しております。キリスト教の教えやその信者の態度と日本人の思想・信仰を対象比較することにより、日本人の中にあり日本人が自然培養した「日本教」そして「日本教」の本質を明らかにしているのです。

 

そして「日本教」はその後のベンダサンと山本七平の著作に出てくるキーワードとなり、その中での日本人論の根拠とされました。山本と対談した小室直樹の著作でもそれは引用されております。

 

 

なおこの本の著者であるベンダサンですが、実はこの本の編者の山本七平のことです。つまりこの本は山本七平の著作なのです。ベンダサンは「日本人とユダヤ人」の著者として初めて世に名前が出されますが、その姿を世に出したことはありませんでした

後に山本は、ベンダサンは自身のことであると明かしました。そして初出の「日本人とユダヤ人」については、実際は山本と複数人の外国人の会話から生まれたと述べております。

 

 

【感想】

 

この著作は日本人が本当は宗教信仰をどのように考えているのか、そしてそれにより何が起こるのかを表しております。

そしてそれは日本人である私自身の自己分析でもあると思いました。私にはある一定の宗教的思想がありますが、それが客観的に見てどんなものなのかを確かめるには有力なものがあると感じました。

 

ここでは私や周りの人々が宗教を語るときの場面を用いながら、本書の感想を述べます。

 

 

①宗教や信仰は「素晴らしい」のか

 

本書に出てくるハビアンは禅宗門徒からクリスチャンに転向し、クリスチャンである時期にはキリスト教を「素晴らしいもの」として信仰しておりました。かたや従来の日本での神道や仏教、儒教を非難しました。それは「妙貞問答」などの著作でも記されております。

 

しかしハビアンは一転してキリスト教を棄教すると、「破提宇子」などでキリスト教を非難し激しい批判をします。その理由はキリスト教がハビアンの「自然の理」に従う生き方や血族を守らずむしろ犠牲を強いてきたからというのは先程述べた通りです。

これによりキリスト教はハビアンにとって「素晴らしいもの」ではなくなったのです。

 

すなわちハビアンや日本人にとって宗教や信仰は「素晴らしい」ものという前提があるのです。そのため素晴らしくなくなった時からそれは宗教や信仰ではなくなるのです。

 

これはキリスト教圏やイスラム教圏での宗教の考えとは異なります。それらの信仰の強い地域では宗教とは始めから生活や社会全体にあるものであり、素晴らしい素晴らしくないで信仰を選べるものではないのです。

近年ヨーロッパを中心に神や宗教を否定する無神論者の割合が増えております。それは神や宗教が覆い尽くす世界からの脱出を企図したものです。そのためその地域の無神論者はキリスト教に対してどうしても全力で対抗する姿勢になるのです。そして無神論者の転向理由も「素晴らしい生き方をしたい」というよりは「自分が納得のいく苦楽を背負いたい」という覚悟によるものです。

 

 

「素晴らしい」ものを選びとる日本人の信仰態度ですが、私はその宗教的態度について疑問を覚えるところがあります。

 

日本教における「宗教」あるいは「信仰の自由」というものは、現世で苦しいことが少なく幸せの方が多い生き方をすること、あるいはそちらに流れることとされます。そして、そこには大いなる不幸や不平不満などそれに背くものはあってはならないという考えが暗に含まれます。

 

しかし現実の世界には止めどなく襲う不幸や理不尽は多くあり、それを何でも解決することは出来ません。コロナ禍のような病気や戦争、環境汚染など人間に善悪の分なく襲う不幸はあまたあります。それを素晴らしいということや自然にありがたがることは難しいです。どんなに擁護しても擁護できないものです。

 

とはいえそんな世界に直面せず逃げ回りすぎても人々は不幸から離れたと勘違いするだけです。本当は不幸な世界に直面し、適切な対策や処置が必要なのです。その覚悟が本来の「宗教」であり、人々が直面すべき精神次元であると思います。

信仰の自由も、自分の心の中のその次元に直面し個々人の生き方を決定することを誰にでもどんなものでも許すことであると思います。

 

したがって日本教や宗教の話は「素晴らしいお考え」を選びとる次元の話ではなく、グロテスクで陰惨なものを誤魔化さず受け止めるところの話なのです。

 

 

②「日本教」の意義は?

 

日本教とは、日本人の処世術的・現世利益的な宗教観に対してベンダサン(山本七平)が示した、日本人の心の奥深いところにある心理を表した概念です。

 

私はこの日本教を「日本人が背負った原罪の一側面」と考えております。

原罪」とはキリスト教での概念であり、人間が人間として生まれたときに当初より持っている罪とされます。人間は原罪により悪や罪を成すものであり、それを贖い善い人間になることがキリスト教を信じる意義であるとされます。

私は日本人でクリスチャンではありませんが、この原罪というものが私の中に無いとは言い切れないのです。

 

これまで生きてきた中で自分の潔白無罪を信じられなかった場面は数多くありますが、その理由はいわゆる原罪にあると思いました。

「自分は人の見えるところで罪は犯さなかったが、真実の善に対しては罪を犯したかもしれない」「不幸に遭うのは真実の善に背いたからであり、不幸は自分の悪の証明だ」「幸せになるには真実の善と悪を見極め従わなくてはならない」「真実の善が分からない内は見捨てられて当然だ」

そんな考えが度々思い浮かびました。これは本来の原罪とは異なりますが、日本人の精神の構造においてキリスト教の精神の構造の「原罪」の部分に相当するものであると思います。

 

この日本教は日本人が処世術的・現世利益的な物のみを宗教と呼び、それで誤魔化したの部分であると私は考えます。

私もこの部分を誤魔化してきた自覚はあり、それにより自分の心の健康や社会的生活を破壊してきた部分があると思います。ただ自分が傷つくだけならともかく、苦しむ人を救えなかったり見捨ててしまったりという弱さに繋がったと思います。

 

とはいえこれをすぐに消せるものではないと思います。日本教は日本の温帯湿潤気候や変化に富む季節などの風土の影響を受けており、個人の意識で消せるものではないのです。

そのため日本教は日本人に残された「試練」や「原罪」の権化であると私は考えます。ブログ記事「因果応報と予定説」で述べましたが、日本人は包摂し守られるだけではなく放埒に人生を破壊され見捨てられている現状があるのです。それを自己防衛や共助により守るにせよ、脅威として認識し対策をとるべきものとして常々考えなくてはならないと私は思います。

 

 

③処世術と宗教の違い

 

先程私は処世術や現世利益的なもののみを宗教と呼ぶことを批判しました。しかしそれは処世術や現世利益的なものを得ることを批判しているのではありません。むしろそれはそれで無くてはならないものなのです。

 

この本の最後で紹介された貝原益軒の「大和俗訓」は日常生活の作法や礼儀、精神の具体的方法を示す著作です。これは儒教の視点から書いたものです。儒教とは中国で誕生したもので、円滑な社会生活の送り方について具体的形式的な方法を示したものです。日本でも古代に流入し今なお日本人の生活に影響を与えております。「大和俗訓」も現実の生活が上手くいくための具体的な知恵を授けるものなのです。

 

それでは、最早それ以外のことを考えなくていいのかというとそれもまた問題があると思われます。人間の心の奥深い部分で流れる感情は時に大きなうねりを見せます。それは体調不良や精神疾患、社会生活の不全という形で現れるのです。

どんなに日常生活を綺麗に取り繕っても、最後に残り続ける不幸脅威はあるものです。それを誤魔化せば誤魔化すほど不幸は増大化します。それに目を向ける営みが宗教なのです。

 

しかし、そこで処世術と宗教的営みがバッティングすることがあります。それはお互いがそれぞれの領分を侵略しようとしているからです。宗教は現実生活に食い込もうとしますし、処世術は精神の奥深い所に入り込もうとするのです。

それぞれ自然に任せて勝ったところを接収するのが日本人的には聞こえがいいですが、衝突する時点でもう「詰み」なのです。

 

私が思うに上のような衝突を避けるためにまずは処世術の方が先立ち、それで解決できない部分は宗教的な営みで解決するのが一番と思いました。これはハビアンの晩年の生活とまだクリスチャンだった頃とを両立させたものです。

 

日本と中東、ヨーロッパの風土を鑑みるに、キリスト教イスラム教をそのまま処世術として持ち込むのは難しいと思われます。しかし日本人の生活が近代化して初めて噴出した問題に対応するために学ぶべき概念は少なからずあると思います。キリシタン文学で有名な遠藤周作の著作にはこうした相克に立たされる日本人の姿が描かれ、現代日本人の心の闇や現実の生活が細かく記されます。

 

そのため生活を優先しつつ人生をも大切にする生き方がどの人にも大切であると思いました。

 

 

【おしまいに】

 

私が初めて「日本教」という言葉を見たのは山本七平小室直樹の「日本教社会学」(1981)を読んだときでした。

その時の感想はすでに記事にしましたが、今回はこの「日本教」について遡って調べようと思いこの本を読みました。

 

日本教」についての考えについて私は述べて参りましたが、私は「日本教」を敵視しているわけでも諸悪の根元と言いたいわけではありません。私の中にもある日本人の心というものを分析する上で避けがたいもの、絶対に逃げてはいけないもの、それが私にとっての「日本教」なのです。

 

そこから逃げた先には、「自分が信じているものが汚いなんてあり得ない」「自分が汚い存在なんてあり得ない」「自分が反省するいわれはない」という倒錯が待っております。

かつてオウム真理教の各種事件がありました。オウムは仏教などの各宗教の良いところだけを集めそこに教祖・松本智津夫麻原彰晃)への個人崇拝を織り混ぜ、見かけ上「素晴らしい宗教」に仕立てたものでした。

オウムには高学歴の学生を含め多くの人々が入信しましたが、その人々の奥底には「日本教」の呪いがあったのではと思います。

ハビアンの場合は世界宗教の歴史を持つキリスト教でしたが、それを求めた心はオウム信者の例と変わらないと思います。それゆえにオウムにより後悔させられた信者が不憫に思われるのです。

 

私はそうした「カルト宗教」には物心ついてサリン事件を知ってからはずっと警戒してきました。ですがそれを渇望する精神が全く無かったわけではなく、それを埋めるために今まで苦労してきました。「日本教」は私の中にもありますし、それを無視して自分や身を滅ぼしたくないと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2022年2月13日

因果応報と予定説

こんにちは、ずばあんです。

 

本日は普段何となく信じ込んでいる「因果応報」とその対極にある考えについて語ります。

 

因果応報という言葉を聞かれた方は日本では沢山いると思います。物事には原因と結果が存在しており、原因が変われば結果も変えられるという思想です。転じて原因と結果には責任を持たなくてはならないと言う意味合いで使われます。

 

かたやその対極に「予定説」という考えがあります。予定説とは、物事の運命は全て予め決定されており、人間が変えることはできないという思想です。

予定説はヨーロッパや中東のユダヤ教キリスト教から来ている考えで、日本ではなじみの無い考えです。

 

この因果応報と予定説は相異なる考えですが、それを混同することは往々にしてあります。それが物事を語るときの壁となることもあります。

 

そこで今回は因果応報と予定説の考えとその区別について語ります。

 

 

【因果応報とは?仏教由来の思想】

 

因果応報は日本をはじめ東アジアではなじみの深い考えです。物事には全て原因と結果の因果関係が存在しているという考えです。

この考えはインドから伝播した仏教に色濃く出ており、中国の墨子思想にも存在しておりました。

 

因果応報説は自我の捉え方にも影響を与えております。仏教では、自我というのはこの世の無数の要因が束になった結果作られたというものです。そのため自分を束ねる要因が一つでも変化すれば自我は変化します。そのため自我をより良い方向に改変すべく人々は勤労勤勉にいそしみ、良い因果を導こうとするのです。

 

これは東アジアの文化や社会にも強い影響を与えました。大学などの入試試験は日本のほか中国や韓国などでも盛んであり、将来の出世のための通過点という要素がものすごく強いです。また、身分を超越した実力による立身出世の例も多く、古代以来の中国史などでは奴隷身分や狩人などからの将軍や高官への登用の逸話は少なくありません。

 

これは自分の今や過去の状況に関わらず能力の向上や研鑽により(因)社会的地位が変化する(果)という考えのあらわれでございます。勤勉勤労の思想はこの因果応報論から出ているのです。

 

 

 

【予定説とは? 唯一絶対神による思想】

 

予定説は因果応報に対する思想です。こちらは物事の道理を絶対者が定めた「運命」として考える思想です。予定説によれば、この世は何者も抗いがたい変えがたい運命によって動かされており、その運命はある1人の神により決定されているというのです。世界はその一人の神により動かされているのです。

これは中東・ヨーロッパに広まったユダヤ教キリスト教イスラム教といった一神教の宗教に色濃い思想です。一神教の神は世界を創造し、世界の秩序を定め、世界を改変し奇跡を起こす能力を持つのです。すなわち神は運命を創り、運命を保ち、運命の独占権を有する存在なのです。

 

予定説はこの地域の個人や社会の考え方に深く根付いております。個人の個性は神により与えられ、社会的立ち位置も神が与えたものとされます。そのため中東やヨーロッパの社会では階級が今なお存在し、就く職業や進路も「運命」として幼い頃に既に定められるのです。そこには日本のような職業選択・進路希望の幅はありません。

 

キリスト教では、予定説は特にプロテスタント新教)で強く意識されます。プロテスタント聖書主義と称され、各人が聖書を直に読み内容を知ることが重要視されます。その聖書には「ヨブ記」(*)と呼ばれるものがあり、ヨブという敬虔な信者の物語により試練に耐え抜く信仰の尊さとともに唯一絶対神が信者を必ず救うという姿勢を唱えております。(* ヨブ記は本来はヘブライ人の信仰するユダヤ教の教典の一つでしたが、ユダヤ教から派生・成立したキリスト教でも引き続き教典・聖書の一つとして読まれております。)

 

プロテスタントは、15世紀に活版印刷術が発明され聖書が大量に印刷されて、聖書を読む人が爆発的に増えたことが発端となり発生しました。当時初めて聖書を読んだキリスト教徒はかなり多く、そこで従来の教会中心の信仰と聖書との矛盾が問題になったのです。

その問題の有名なものは贖宥状でした。これは、買った者の罪を贖うことができるとして教会が売り出したものです。贖宥状について、これは他ならぬ神にしか裁けない人間の罪を人間が勝手に白黒つけるもので、すなわち予定説に反するものと考える人がいました。その論争で聖書側に立ったのがプロテスタントで、教会側に立ったのはカトリックでした。

 

その後プロテスタントは予定説を重んじ、既に神イエス・キリストにより救われる事が予定されているとしました。そしてその証明として自分達は天命てある職業を果たし、よく働き禁欲的な生活をするべきだという倫理観が発達したのです。これは社会全体の所得向上と貯蓄・投資の増加という効果をもたらし、ゆくゆくはイギリスを発端とする産業革命を起こしたと言われます。この一連の流れは経済学者のマックス・ウェーバーにより分析されております。

つまり予定説と産業革命、今に至る近代社会は密接な関係があるのです。

 

 

【因果応報論と予定説の由来】

 

相矛盾する因果応報論と予定説、この2つがそれぞれ出現するに至った理由は何でしょうか。

 

その手がかりとなるのは「風土」と呼ばれるものです。風土とは気候や地形などの地理的条件が土地に住む人間の文化や気質に与える働きを指します。宗教も風土の影響を受けております。そのため宗教と密接な関わりのある因果応報論と予定説も風土に由来するものと考えられます。

風土については哲学者・和辻哲郎の著書『風土』(1935)で詳しく語られ、以下の記事内容も『風土』を基に述べていきます。

 

 

〈i. 因果応報論と風土〉

因果応報論は仏教由来の思想ですが、仏教はインドで誕生しました。元は釈迦族の王子ブッダゴータマ・シッダールタ)が紀元前5世紀頃に始めたとされております。

仏教は紀元前7世紀ごろから興ったウパニシャッド哲学を下敷きにしており、悟りの思想はその時点で既にありました。そしてその悟りとは、宇宙の真理・ブラフマン(梵)が自己・アートマン(我)を形作っていることに気付くというものです。これはいわゆる因果応報説の肯定です。つまり因果応報説はインドで生まれた思想なのです。

 

ではインドで因果応報説が生まれたのはなぜでしょうか。

古代インドには元々バラモン教という多神教がありました。この宗教は上流階級の人々を中心に進行されておりました。しかしバラモン教形式主義に陥り、現状の階級社会を肯定していることが批判されるようになりました。

このバラモン教への反発が、物事の真理を追求する流れを起こしウパニシャッド哲学へと繋がるのです。

 

よって因果応報説の成立にはバラモン教という多神教の存在が先立つのです。インドの土地でこの多神教が生まれた理由は何でしょうか。

和辻哲郎は「風土」でインドの風土について「温帯湿潤的であり季節の大きな規則的な変動があり、生物の多様性に富んでいる。」と述べております。まるでこれは日本に近いものを感じます。そしてこの風土はインドの多神教的な宗教を誕生させ、人間味のあり感情が豊かな神々への信仰を生み出したとされます。その神々がいる世界は自然の流れに従い区別や差別の有るなかで生き物や人間が共存する世界観になっているのです。

バラモン教を生み出した風土は温帯湿潤気候生物多様性に富む世界でした。そこでバラモン教の元での差別や形式主義に反発する動きの中で物事の因果を科学的に分析する思想が生まれたのです。因果応報説とは元々この流れから生まれており、本来は恣意的な脚色の余地を挟まない科学的な考えなのです。

したがって因果応報説とは温帯湿潤的で生物の多様性に富む風土から生まれた多神教に反発する思想だったのです。

 

 

〈ii. 予定説と風土〉

 

予定説は欧米などのキリスト教圏で根強い思想です。予定説が確立したのは中世の宗教改革の時であり、プロテスタントカルヴァン派が唱えました。

プロテスタントの予定説は聖書が由来です。プロテスタントおよび予定説の成立は、活版印刷術の普及で聖書が大量に出回り多くの人々が聖書を読めるようになったことが発端だからです。

 

この聖書の成り立ちはユダヤ教を信仰する古代ヘブライ人の歴史に遡ります。聖書(新約聖書*)とは一つの書物の名前ではなく、キリスト教の教えに関わる重要な複数の書物の総称となっております。聖書にはイエス・キリストの教団によるものも含まれますが、イエスキリスト教徒が元々信じていたユダヤ教の諸経典も含まれます。

(* 「新約」とは神との「新」しい契「約」という意味であり、キリスト教徒が元のユダヤ教から改宗したことを表しております。改宗する前のユダヤ教の神との契約は「旧約(旧い契約)」と呼ばれます。)

ユダヤ教の経典には「ヨブ記」など予定説に関わる書物もあり、予定説の思想はユダヤ教の成立時に遡るのです。

 

このユダヤ教が成立したのは紀元前6~5世紀頃です。そのユダヤ教が誕生したのは中東の砂漠地帯でした。

砂漠は見渡す限り岩石や砂礫を晒す茶色の土地で、生命の営みの乏しい地です。もちろん人間がそのまま生存出来る環境ではありません。砂漠で生きる人間は部族でまとまり、厳格な戒律に従いながら生存戦略を取っていったのです。ユダヤ教を生み出した部族もまた同じであり、砂漠という厳しい環境で生き残るための戒律を産み出しました。

その戒律は部族全員に確実に従わせるために細かく明文化されました。そこに自分勝手な解釈は挟まれません。

その戒律から神託を受けたものとされ、その神は全知全能の唯一絶対者とされました。世界を作り、規律を敷き、奇蹟を起こす強い存在です。それは物事の行く末を「予」め「定」める程のものでした。これが「予定説」の神の起こりでした。

 

その後形式主義的なユダヤ教に反発し、隣人愛を説くキリスト教が起こりました。そのキリスト教ユダヤ教の「ヨブ記」等の経典を引用し、予定説も同様にキリスト教に伝えられたのです。キリスト教は「世界の終末」における神からの救済の運命を説いております。

 

なお現在のキリスト教はヨーロッパを中心に信仰されております。ヨーロッパにキリスト教が伝わると、ヨーロッパ人の規則に従順な性格と馴染み定着しました。

このヨーロッパ人の気質について風土を絡めて説明します。ヨーロッパは中東ほどではありませんが生物種に乏しい地域です。草木が人間や動物に利用し尽くされ食べ尽くされ、岩肌が露出する光景を生み出すほどです。そうなると生活の知恵や知識は、自然の中の限定され目に見える法則から得ることになるのです。

法則に慣れ親しんだヨーロッパ人は、古代ローマ帝国時代に中東から入ってきたユダヤ教キリスト教といった唯一絶対神の宗教を受け入れました。そしてヨーロッパで今に至るまでキリスト教は続いているのです。

予定説」もヨーロッパでは根強く、社会や歴史への影響は強いです。ドイツなどで興ったプロテスタント(キリスト新教)はこれを理論化しました。

 

したがって、予定説砂漠という死の大地での人間の生存戦略のための道徳律として出発し、それが生物多様性に乏しい地域での限定された法則の一部にも包摂されたものなのです。

 

 

【因果応報と予定説の衝突】

 

因果応報予定説はそれぞれ異なるバックグラウンドを持ち、それぞれ確固たる根拠があります。両者は関わりの深い宗教や風土が異なります。そのため両者はしばしば衝突を起こしてきました。

 

因果応報説はバックグラウンドとして仏教の考えがあります。それは「究極の唯一絶対神の不在(空の思想)」や「諸行無常」、「苦としての現世」といったものです。風土としては生物多様性季節の変化に富む気候が上げられます。

方や予定説はバックグラウンドにキリスト教等の一神教の考えがあります。「運命・宿命論」や「絶対の真理」、「死への畏れ」といったものです。風土としては生物種の少ないまたはごく限られた生態系変化の乏しい気候が上げられます。

 

日本はもちろん因果応報説の地域です。生物種に富み季節や天気の変化が顕著な気候です。宗教も長らく神道仏教の影響が強く、文化や価値観は今なおその影響を受けております。

 

その日本に現代では西洋の思想や知識が導入され、「良いところ取り」をしてきました。資本主義や民主主義のシステムは西洋からの刺激を受け導入されたものでした。

一方で「予定説」の考えは未だに日本では理解されておりません。予定説は西洋由来の宗教観や思想、社会制度と密接な関係があります。そのため日本の近代社会ではそれらも受け継がれるはずでしたが、先に述べた日本の風土に馴染まずそれらは根付きませんでした。このことはイザヤ・ベンダサン山本七平の「日本教徒」(1976)や小室直樹の「日本人のための宗教原論」(2000)、そしてキリシタン文学で有名な遠藤周作の各著作(「沈黙」「侍」など)でも述べられております。日本人にとって「予定説」や「殉教」、「試練」の思想は忌避されてきたのです。

 

現代の日本社会は西洋社会の仕組みを形式面で導入しております。特に契約人権の概念は先進国ではほぼ共通に存在しております。

しかし今の日本ではそれらの機能が不全な場面が往々にしてあります。契約や公式合意よりも関係者間の密談恩情が優先されます。数年前から有名になった「忖度」もそうです。契約の重さが軽いのです。

また人権権利を主張する側に社会で当たりの強い風潮があり、それを糾弾する動きは小さくありません。人権以上に潔白が重視される傾向があるように思えます。外国人差別や日本に帰化した人への差別、困窮した人への冷淡さ、セクハラ、パワハラ・・・・・・これらがニュースになることは珍しくありません。そしてそれらを悪い意味で茶化し風化させる動きも大きいです。

 

そもそも契約権利は一体のものであり、抗いがたい契約を行使もしくは取り消しをするには広い意味での権利を行使することが絶えず要求されます。逆に権利を行使するにもまた契約が必要なのです。契約と権利はどちらも堅固でないと健全に働かないのです。

 

そのためには「予定説」を理解しなくては契約も権利も上手く利用できないのです。契約権利から派生した概念も同じくです。

 

 

【おしまいに】

 

今回は因果応報予定説を宗教と風土に絡めて解説いたしました。

 

この二つの考えは「都合よく」利用することも可能ですが、使う場面を誤るととんでもないしっぺ返しを食らいます。ではその使う場面とは何でしょうか?正しく使うとはどういうことなのでしょうか?そのヒントは因果応報と予定説がどこで生まれ、どこで根付き根付かなかったかにあると思いました。

 

因果応報」は温帯湿潤気候農耕社会に根付き、一方で「予定説」は死の大地の砂漠で根付きました。しかし現代では社会や経済の実態が変化し、日本でも「砂漠」が生まれつつあります。

ここで言う「砂漠」とは人生で必要な何かが枯渇し死亡可能性が高くなる状況です。精神疾患の診断数は増加し、いじめやハラスメントの報告件数も増加、自殺者数もここ50年で増加してきました。また少子高齢化も著しく労働力人口率の下がる人口オーナス期に入り、経済成長率も低迷しております。社会を支える余力は下がり、コロナ禍もそれに拍車をかけております。

この現況に変革・改革を唱える声もありますが、その中には人にやらせ自分は甘い汁を吸おうとするスタンスの人は少なくありません。最近では日本人の寄付の少なさや人助けの意識の低さを伝えるニュースが聞かれました。「砂漠」があるはずの日本でそのような現状があることは残念です。

私はそれを無視しないために、他人と良好な関係を築くためには因果応報予定説の知識は大事だと思いました。

今なお続くコロナ禍は苦しい戦いですが、今回述べたことを武器に強く生きていきたいと思います。この記事をご覧になった方々にもパワーを分け与えられたらと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2022年2月11日

日本の放送利権争奪戦争

こんにちは、ずばあんです。

 

今回はテレビの「放送利権」の取り合いについて話します。

 

「放送利権」とは、日本においてテレビのチャンネルを一企業が半永久的に占有し営業活動を行えるという現状を表現したものです。

 

かつてテレビ局が次々と新しく誕生していた時代にはこの放送利権を巡る争奪戦はし烈なものであり、行政当局や地域社会を巻き込んだものでした。

 

では日本の放送利権の争奪戦争がどうして起こるのか、そしてそれはどこまで激しかったのかについて語ります。

 

 

【チャンネルの椅子取り合戦】

 

日本の放送法制では、テレビは放送免許を与えられた者のみが許されます。その免許を与えるのは行政機関(郵政省→総務省)で、行政が定めた全国チャンネルプランに基づき各地域でのチャンネルが定められます。ゆえに実際に開局するチャンネル数には限りがあるのです(通常は1回につき1地区に1チャンネルでした)。

一方でテレビ放送に参入希望のある出願者の数には制限はありません。開局枠1つに対して、出願者が1名だけならば問題はありません。しかし2名以上ですと1つの枠を取り合うことになります。そのため複数の出願者のなかから放送局を実際に開局する1名を決めなくてはなりません。

複数の出願者から開局する1名を決める方法は2つあります。まず1つ目は出願辞退者を待つことです。もし1つの枠に2名の出願者がいればもう片方が辞退するのを待つのです。しかし出願者の間での競争が激しい場合は双方相引かずという状況になります。もしそうなればいつまでも開局する者は決まりません。

 

そこで実際にはもう1つの方法が主にとられました。それが「一本化作業」でした。一本化とは複数の出願者を「相乗り」させて1つの出願者にまとめるという作業でした。一本化では「調整役」と呼ばれる有力者が複数の出願者と交渉して作業を進めました。そこでは開局後の局の役員や資本の割合について交渉を重ねます。

一本化が終わるとその事業者に仮免許が与えられ、それから放送用施設が完成しそれが十分であることを行政当局が確認してから本免許が与えられ試験放送、本放送が始められるのです。

 

この一本化は1950年代の田中角栄郵政大臣が始めた作業でした。当初のテレビ開局の一本化作業では田中大臣が調整役となっておりました。後に1960年代から1980年代までのテレビ局の開局では都道府県知事地方議員、地方選出の国会議員が主に調整役となり、1990年代以降には郵政省(今の総務省)が主に調整役となっております。

 

この事を前提に日本のテレビ開局の出願について語ります。

 

 

【放送局開局の出願傾向】

 

日本で民放ラジオ放送局が全国各地で開局し始めた1950年代前半にはラジオ開局の出願者はほとんどが新聞社(全国・地方問わず)でした。これはメディア経営のノウハウの蓄積や強力な資本力という圧倒的な強みが新聞社にあったことが第一でした。それに民間放送という新しいメディアへの進出について、新聞社は前向きの姿勢を見せたのに対してその他の多くの企業が様子見の姿勢をとったという事情もありました。

 

その後ラジオ・テレビともに有力なビジネスの可能性が明らかになると、新聞社以外の多くの一般企業個人も出願に加わるようになりました。1つの開局枠への出願者数は次第に多くなり、1950年代には1名から5名未満がほとんどだったのが1960年代後半には10名以上も珍しくなくなりました。

 

(*ちなみに使用できるテレビのチャンネル数の増加も平行して行われました。

1950年代はじめは1~6チャンネルのみが使用可能でしたが、1950年代半ばに7チャンネル~11チャンネルが解禁され、1960年代前半に12チャンネルが解禁されました。

さらに1960年代後半にはUHF帯の電波がテレビ放送で使用可能となり、1968年に33~62チャンネルが解禁され、1970年に13~32チャンネルも解禁されました。

現在の地上波デジタルテレビ放送は物理13~52チャンネルのUHF帯を使用しております。)

 

1970年代になりますと、テレビ産業は巨大なものとなり、全国ネットワークも成熟した時期となっておりました。

さて、この時期になるとテレビネットワークとそのキー局ごとに全国紙が資本面で支配力を強めるようになりました。それまでは先の一本化の名残から、キー局などの資本に複数の全国紙が相乗りすることは珍しくありませんでした。しかし会社の資本とネットワークのズレが起きたことから、その整理が局を越えて行われました。

こうして1974年頃までに日本テレビは読売新聞が、TBSは毎日新聞が、フジテレビは産経新聞が、NETテレビ(今のテレビ朝日)は朝日新聞が、東京12チャンネル(今のテレビ東京)は日本経済新聞が独占支配することになりました。新聞社がテレビとテレビネットワークへの支配を強めたのです。

そしてこれがその後のテレビの開局出願競争を苛烈なものにする切っ掛けとなりました。

 

1970年代後半に静岡県で3番目のテレビ局の開局枠が設定されました。そこにはすぐに出願者が現れましたが、その数は前例の無い400名近くに及びました。

実はこの約400名のほとんどは全国紙である朝日新聞読売新聞のいずれかの関係者でした。それが分かったのは、異なる出願者の提出した書類の事業所の住所の欄に同じ住所が書かれている例が沢山あったこと(全出願者は事業所の住所によりたった11に分類できたとのことです)と、その中に朝日新聞や読売新聞の関係者がいたことからでした。

朝日新聞と読売新聞はそれぞれテレビ朝日日本テレビを支配しておりますが、当時の静岡県に両局の系列局はありませんでした。そして当時の静岡県の人口は400万人以上とテレビ市場として魅力的な土地でした。

何としても取り逃したくない市場を獲得するため朝日新聞と読売新聞はともに出願で人海戦術に手を出したのです。

電波監理局や政府は前代未聞の事態に直面しました。当時の政府は事態の収集をつけるため静岡県に割り当てられた開局枠を当初の1つから2つに増やし、朝日新聞(とテレビ朝日)と読売新聞(と日本テレビ)のテレビ局(*)をともに開局させました。

(*1978年に日本テレビ&テレビ朝日系列の静岡県民放送が開局。

1979年に静岡第一テレビの開局と同時に、静岡第一テレビ日本テレビ系列に、静岡県民放送はテレビ朝日系列となる。)

 

しかしこの前例によりそのあとのテレビ開局の出願で人海戦術が続発することとなりました。テレビネットワークを強めたい朝日新聞と読売新聞はもちろんその他にも「模倣犯」が沢山出て参りました。特に長野県第4局や鹿児島県第4局では出願者が1000名を越し、出願者の整理と一本化に甚だしい時間(1984年~1990年代前半)がかかり枠割り当てから開局までに10年近くかかりました。

 

その後政府が1986年に「全国4局化構想」を発表し全国に当時の民放4ネットワークを拡大する青写真を描いたときもこの問題に直面しました。そのためか1990年代以降の一本化調整では政府機関である郵政省が出てくることになりました。国策のためにこの出願者の人海戦術は無視できなくなったのです。

 

 

【各新聞社・ネットワークごとの開局戦争】

 

ここまでは日本のラジオ・テレビ史全体の視点で開局戦争を語りました。

 

ここからは各新聞社・テレビネットワークごとの大まかな開局戦争史を語ります。

 

日本テレビ系列・読売新聞

 

読売新聞傘下の日本テレビは開局当初から全国ネットワークを志向しておりました。1950年代の読売新聞のオーナーの正力松太郎氏は全国一円の放送事業を考えておりました。日本テレビは1953年に東京で開局しましたが、この時は日本テレビ一社で全国放送を行う計画でした。しかし当時の放送法制・政策や経済的制約からそれは叶いませんでした。

そのため日本テレビは1950年代に開局した地方のテレビ局を自社のネットワークに取り込むことにしました。東北地方や北陸地方中四国地方の地方局のほか、大阪・名古屋に読売新聞系のテレビ局(*)を設け日本テレビ系列に取り入れました。

(*名古屋では当初トヨタ・読売新聞資本の名古屋テレビ[1962年開局]が日本テレビ系列でしたが、1973年にネット関係を解消しました。それから今まで中京テレビが日本テレビ系列、名古屋テレビテレビ朝日系列となっております)

その後も九州地方などの日テレ系列の存在しなかった地域で読売新聞・日テレともに開局戦争に攻め入り、自社のネットワークを広げました。特に日テレ系列専属のテレビ局の確保には躍起になり、平成に入ってまで同じく専属局の確保に貪欲なテレビ朝日朝日新聞との競争を各地で行いました。

 

②TBS系列・毎日新聞

 

TBS東京放送(1961年までKRTラジオ東京)は1952年にラジオが、1955年にテレビが開局しました。テレビでははじめTBSとその他の大都市の放送局で五社同盟(TBS・北海道放送中部日本放送朝日放送RKB毎日放送)を結び、1950年代のうちに東北・中部・中国地方・九州の地方局も巻き込みTBS系列を形成しました。

なおTBSは当初は毎日新聞のほか読売新聞、朝日新聞などの資本が入っておりましたが、1970年代に毎日新聞資本に統一されました。1975年には大阪で、これまで毎日新聞資本でありながらNET系列だったMBS毎日放送朝日新聞系でTBS系列だったABC朝日放送のネットワークを入れ替え、MBSをTBSの系列に迎え入れました。

1970年代からはTBS系列の無かった県にも系列局を開局しました。なおTBS系列の開局に当たってはネットワークの協定により各局の各地域の地方紙の資本への参入が義務付けられております。またUHF波で開局したテレビ局の社名に「テレビユー」と名付けられた時期もあります(福島、山形、富山の3局)。

 

③フジテレビ系列・産経新聞ほか

 

フジテレビ産経新聞資本のテレビ局として1959年に開局しました。なおフジテレビ系列の関西テレビ産経新聞資本として1958年に開局しました。

この系列の特徴としては、産経新聞資本の系列局が少ない点です。産経新聞自体は全国紙でありながら発行部数やシェアなどの規模が小さく、系列に対する影響力は小さいです。

その代わりに産経新聞と業務提携している地方紙の資本が入るテレビ局は多く存在します。産経新聞は北海道の北海道新聞中部地方中日新聞、九州地方の西日本新聞と業務提携をしております。フジテレビ系列にはこれらの新聞社の資本が入ったテレビ局が少なからずあります。

ネットワーク初期(1959~1968)からの系列局を見ても名古屋の東海テレビ中日新聞資本であり、福岡のTNCテレビ西日本西日本新聞資本です。その後開局したフジテレビ系列の放送局を見ると中日新聞資本(一部は産経新聞資本との相乗り)の局は北陸地方や長野・静岡に、西日本新聞資本の局は九州地方一円に存在します。北海道新聞資本もUHB北海道文化放送(1972年開局)が存在し基幹局として重要な役目を担っております。

こうしてフジテレビ系列の各局は1960年代後半から1970年代半ばにかけてほとんどが開局しました。そしてこの時期開局の放送局の特徴でもありますが、地元の財界や政界などの有力者や有力企業が関わる放送局が多く含まれます。

そして平成に入り新たに3局開局しましたが、当時のフジテレビのポップ路線が反映され「岩手めんこいテレビ」「さくらんぼテレビ山形県)」「高知さんさんテレビ」という可愛らしい名前がつけられました。

 

テレビ朝日系列・朝日新聞

 

テレビ朝日はNET日本教育テレビとして、出版社の旺文社などの共同出資により1959年に開局しました。NETは同年開局のフジテレビと比べネットワークの拡大増強が大幅に遅れました。特に専属契約局やメインネット局は平成はじめまで10局前後でした。

それは開局から14年間は普通のテレビ局ではなく、教育番組の放送を一定以上義務付けられた「教育局」として放送を行っていたことが挙げられます。普通のテレビ局よりも視聴率競争などで苦境に置かれておりました。

1973年からNETは教育局から普通の放送局となりましたが、その後しばらくは本局や系列が弱い状況が続きました。

 

一方で朝日新聞は1970年代前半までNETのほか日テレ、TBS、東京12チャンネル(今のテレビ東京)の資本にも参加しており報道番組の製作にも協力しておりました。その後各局の資本を整理する段階で、朝日新聞は元々日本経済新聞の資本も入っていたNETを単独支配しその他の在京局から手を引きました。

「②TBS系列・毎日新聞」でも語った通り、1975年には大阪にて、朝日新聞資本でTBS系列だったABC朝日放送と、毎日新聞資本でNET系列だったMBS毎日放送のネットワークを入れ替え、ABCを自社のネットワークに組み入れました。

そしてNETの局名も1977年にテレビ朝日へ変更しました。

その後は静岡、長野、福島、新潟に自社の系列のテレビ局を開局させ、先述の通り読売新聞との激しい競争を始めました。そして政府が1986年に全国4局化構想を発表すると、1987年にテレビ朝日は専属系列局の倍増を宣言しました。1989年から1996年にかけて朝日新聞と協力しながら全国に系列局を開局させ、専属系列局を12から24まで増やし公約を実現させたのです。ちなみにこの時に開局した系列局は長崎文化放送(1990年開局)を除き全て「○○朝日放送(テレビ)」と名付けられております。静岡県での系列局の元・静岡県民放送(通称:けんみんテレビ)も1993年に「静岡朝日テレビ(SATV)」に改称しました。 

 

 

テレビ東京系列・日本経済新聞

 

テレビ東京は1964年に東京12チャンネルとして開局しました。当初の設立者は財団法人日本科学技術振興財団でした。開局時は教育局として当法人の授業放送が行われました。しかし開局から2年で放送規模の縮小や経営危機が訪れます。

それに伴い1968年に株式会社の東京12チャンネルの経営となり朝日新聞日本経済新聞(日経)の資本が入り、1972年に日経単独資本に、1973年には教育局から普通の放送局となりました。そして局名も1981年にテレビ東京となりました。

 

さてこの放送局は長らく関東ローカルの独立局(どこのネットワークにも属さない放送局)でした。それが変わったのは1982年のことで、大阪府の日経資本のテレビ大阪を自社初のネットワークに組み入れたのです。

そこから日経と協力し全国の大都市に着々と系列局を開局させ、現在は全6局系列となっております。

なお系列6局の本社のビルはテレビ東京を除き全て「(都市名)日経電波会館」と名付けられております。テレビ東京も2016年に虎ノ門ヒルズに移転する前の本社は「日経電波会館」に入居しておりました。

 

 

【地方紙の開局戦争】

 

 

これはネットワークの話題からは外れますが、放送利権戦争において手強い戦士として地方紙の縦横無尽ぶりを紹介します。

 

各地域の地方紙はその地域の最古参の放送局に出資主要株主になるなど強い影響力を持つほか、その地域の複数の放送局に大きな支配力(*)を持つことがあります。また放送局と業務提携契約を結ぶなどして報道などで強い影響を与えることがあります。

(*複数局への資本面での支配は省令の「マスメディア集中排除原則」で規制されております。そのため資本占有の大きさはどこでも大きいという訳ではありません。)

 

先ほどの章の 「③フジテレビ系列・産経新聞ほか 」でも有力地方紙の西日本新聞中日新聞などの力について紹介しましたが、それらの地方紙の力についてまだ語っていない部分を説明いたします。

 

(1)西日本新聞の場合

西日本新聞TNCテレビ西日本など九州のフジテレビ系列7局に資本参加するほか、福岡県のTVQ九州放送やFBS福岡放送にも主要株主として資本参加しております。このほか出資割合が小さい放送局も含めるともっと多くなります。西日本新聞の影響力が一番大きいのはTNCであり報道番組などで番組製作協力をしております。そして放送事業以外にも九州のフジテレビ系列のテレビ局で西日本新聞関連の文化事業を共同で行う例もあります。

 

(2)中日新聞の場合

中日新聞は愛知県(東海地方向け含む)に本拠地を置く放送局のうちCBC中部日本放送東海テレビテレビ愛知、ラジオ単営の東海ラジオに資本参加、番組製作協力しております。このほか三重県三重テレビ(独立局)とも資本・報道で関わりが深く、東海テレビと同じフジテレビ系列の富山テレビ石川テレビ福井テレビ(いずれも北陸地方)とも中日新聞北陸本社(北陸中日新聞)などを通じて中日新聞との関わりが深いです。長野放送テレビ静岡も同じ系列ですが、こちらは産経新聞と共同出資しております。これらの放送局のニュース番組には中日新聞が製作協力しております。

また東京都の独立局・東京MXテレビには中日新聞東京本社(東京新聞)が第2株主として出資しております。

 

(3)北海道新聞の場合

北海道新聞は民放解禁時にHBC北海道放送の設立に関わりました。その後1972年にUHB北海道文化放送を開局させると、UHBとの関係を密にしていきました。UHBの圧倒的な第一株主であり続けるとともに報道番組の製作で協力してきました。

その後1982年にFM北海道を開局させ、1989年にTVhテレビ北海道(第3株主)が開局するとそれらに資本のほか番組製作で協力することになりました。

 

(4)宮崎日日新聞の場合

宮崎日日新聞(宮日)は宮崎県で1954年にラジオ宮崎(今のMRT宮崎放送)を開局させ、資本参加のほか報道番組製作に大いに関わりました。その後1970年にUMKテレビ宮崎を開局させると、マスメディア集中排除原則を理由にMRTの資本の多くを手離します。UMKの開局から数年は宮日は当局の筆頭株主でありつつニュース番組の製作に全面的に関わりました。今でも宮日はUMKの資本に参画しております。

1984年にはFM宮崎の設立にも関わり、宮日と関係の深いテレビ宮崎の敷地に本社が作られました。それ以来宮日はFM宮崎の第1株主であり報道番組の製作協力をしております。

このように宮崎日日新聞は宮崎県の県域民間放送局の全てに参画し、地元メディア界の形成に並々ならない存在感を示してきました。

 

 

(1)~(4)の例を挙げましたが、これらの他に一新聞社や企業が複数放送局を支配、所有する例はあります。株式にせよ実務にせよ放送局と深いコネクションを持つ例は日本において少なくありません。

 

 

【おしまいに】

 

ラジオやテレビの開局にあたり、どの会社が実際に放送を行うのかを競う出願競争は聞いたことがある話でした。しかし詳しく調べるとそれが物凄く過激な争いに至ったことが分かりました。

 

日本の放送法制では開局枠があらかじめ決められておりますが、そこに出願するのは無制限です。テレビが有力産業となった1960年代以降はテレビ開局枠に多数の出願者が群がりました。そしてさらに時代が下ると大手新聞社などが多数のコネクションを利用し人海戦術を展開し代理戦争を繰り広げました。

 

今となってはネットに広告費でテレビが負ける時代となっており、テレビがかつて有力産業だったと言われても正直疑問符がつきます。

ただテレビが花形産業だった時代を生きてきた人々が何をもってテレビに希望を抱いてきたのかを調べるのはとても面白いことでした。テレビは昔からある層からは「虚業」として揶揄されることもありました。ですがそのテレビがどのように有力産業となりどれだけの競争を招いたのかを見ると、テレビの力や放送の力は侮れないと思いました。今回はそれを歴史から調べて確認する試みでした。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2022年1月11日

 

あけましておめでとうございます。~2022年~

皆さまあけましておめでとうございます。

ずばあんです。

 

今年は2022年令和4年です。

 

今年でこのブログは3年目となります。今年も面白い興味をひく記事を出していきます。

 

現在も今後出す予定の記事をいくつか編集中です。近日中には今年一発目の記事の発表を予定しております。

 

今年も私のブログ「ずばあん物語集」をよろしくお願いいたします。


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2022年1月1日

今年もありがとうございました。

ずばあんです。

 

2021年も当ブログを多くの方にご覧いただきありがとうございました。

 

2021年は多くの出来事があり、また私も学んだことがたくさんありました。それについてブログの記事でまとめて参りました。

 

このブログを書くという行為は私のなかでこれまでにない変化をもたらし、私のなかでいまだかつて出会わなかったものとの出会いをもたらしました。

 

来年もブログは続きますが、来年もまた新しい発見があると思われます。これからもよろしくお願いします。

 

それではよいお年を。

 

2021年12月31日


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全国ネットとローカル放送

こんにちはずばあんです。

 

今日は、全国ネットローカル放送について日本の実情を話します。

 

私はこれまでのテレビ放送に関わる記事を3つ書きまして今回がそのシリーズの4本目となります。

3本目の記事「地方のテレビ局はなぜ少ないのか」で既に地方局の存在意義について語らせていただきましたが、今回はそれと対応しつつ全国ネットについても話を広げていきます。

 

さて早速雑談ですが、最近のテレビ欄を見るとどこの放送局もニュースと情報番組が日中ほぼ切れ目なく放送されております。三時間もの尺の情報番組は珍しくなくなりました。

これが20・30年前ですともっと他のジャンルの番組もあったはずです。

 

ではなぜこうなったのでしょう。実はこれも今回の話題と関わりのあることです。この現象は昭和後期のAMラジオ放送で既に起こっていた現象でした。

 

この事を意識しつつ話をしていきたいと思います。

 

 

【全国ネット/ローカル放送とは?】

 

まず、全国ネットとは?ローカル放送とは?という話に入ります。

 

全国ネットは全国に張り巡らされてある放送ネットワークの系列局の全てに向けて放送される番組放送スタイルです。同じ内容の番組を全国で視聴できるのが全国ネット番組です。

なお、放送ネットワークとは全国ネットの番組を放送するための複数の放送局の協定です。民放の場合、このネットワークに加盟した放送局はネットワーク会員費を払い、ニュース番組の製作への協力などいたします。その一方で放送局は全国ネットの番組を追加費用なく流しかつその番組のスポンサー収入を得られるという恩恵を得られます。全国ネット番組における営業活動もネットワークのキー局が一括して行うので、営業の効率化・合理化にもなります。

NHKも中央から地方まで単一組織で受信料収入となり民放とは事情が変わりますが、ネットワークは全国にくまなく整備されております。

 

全国ネットに対しローカル放送とは、全国ネットではない放送全般を差します。具体的に言えば、自局が製作した番組を自局あるいはごく限られた地域で放送する形態を差します。この場合自局で製作した番組のスポンサー収入を自局のみが受けとることとなります。

なお実際には全国ネットではないものの限られた地域内の複数の放送局(九州地方限定など)で同じ番組を同じスポンサーでネットするという放送の仕方もあります。これは全国ネットのやり方を特定の地方限定でしており、地域ネットと呼ばれることがあります。ローカル放送にはこの地域ネットも含まれます。

 

ここまでは全国ネット/ローカル放送の原則的な話でしたが、全国で放送される番組の中には全国ネット番組ではないのにも関わらず全国で放送される番組があります。

それは全国ネットとは異なり各放送局が製作局に放映権料などのお金を支払い放送することとなります。これは放送局間での番組の売り買いになるので「番販ネット」と呼びます。番販ネットでは、他局製作の番組のスポンサーを自局で募ります。これはネットワークのシステムが生まれる前の放送局の基本的な経営スタイルです。

この番販ネットが行われるのは基本的に自局のネットワークに加盟していない他の放送局の番組を流すときです。自局がどこのネットワークにも属していない独立局の場合でも同じです。

例えばアニメ「ポケモン」は全国で放送されておりますが、放送するテレビ局の大多数は製作局のテレビ東京の系列では無い放送局です。ポケモンは日本はおろか世界で有名なコンテンツで、ポケモンのアニメはどこの放送局も欲しい人気番組です。そのためテレビ東京系列ではない沢山の放送局もお金を払って放送するのです。

 

 

 

【日本の全国ネットの歩み】

 

日本で初めて全国ネットの放送網を作ったのはNHK日本放送協会です。NHKは1926年に東京、名古屋、大阪にあった一般法人のラジオ局を統合して発足しました。この後から日本全国にNHKの支局が作られていきました。それとあわせて1928年(昭和3年)から全国ネット用の中継回線が整備され始めました。

 

全国ネット中継回線が整備された理由はこの当時は昭和天皇が即位されたばかりで、ラジオでも新聞同様のニュース速報を全国で一斉放送する必要性が叫ばれたからです。この当時のNHKはニュースは朝日新聞毎日新聞など大手新聞社から配給を受け、自局製作のニュースは製作しておりませんでした。全国ネット回線が作られると1930年にNHK局内に正式な報道部門が整備されました。

 

戦後1950年代からはNHKのテレビが開局し、民間放送のラジオやテレビも解禁され全国で開局しました。この当時テレビなどが使うマイクロ波回線が1954年から当時の電電公社(今のNTT)により整備され、テレビでも全国ネットの放送が可能となりました。

 

NHKのテレビ全国ネットワークは迅速に整備されました。東京の本局を中心にそこから全国の支局に一斉放送できる体制が出来ました。

 

民放テレビでも1950年代から60年代にかけて東京キー局を中心に全国ネットワークが整備されました。この時にTBS系列、日本テレビ系列、フジテレビ系列、NET(日本教育テレビ、今のテレビ朝日)系列が作られました。これは1964年の東京オリンピックの全国中継で大いに活躍しました。このネットワークは1960年代後半から各局でどんどん強化され全国ニュースの製作協定や番組の全国ネットの協定が正式に整備されました。

 

本来民間放送は東京キー局、準キー局、地方局に関わらず自社のみで全国放送することは出来ません。それぞれの放送局がローカル局なのです。そのため民放テレビが全国放送をするときにはネットワークを組むのは不可欠でした。

また、地方局はキー局や大都市の準キー局に比べて番組製作能力が弱く、ニュースや天気予報など簡単な生放送の番組以外は作っておりませんでした。特にテレビ放送開始時に人気であったドラマは俳優や機材、セットなどの調達・手配の関係で東京や大都市のテレビ局しか製作できませんでした。そのため地方局の一日のプログラムを組むときに全国ネットの番組を流せるのはありがたいことでした。

 

そして郵政省など行政当局も、当初は放送法にある通り一放送局が他の放送局に番組を一方的に配給する契約(*)を規制する方針でしたが続々と地方テレビ局の開局が進むなかで、1959年には放送を管轄する郵政大臣が「ネットワークは放送局の円滑な経営のために必要」とネットワークを肯定する立場に移りました。

(*この放送法の規定は現在の全国放送ネットワークについて、ニュースや情報番組、バラエティ番組など地方局発(近畿、東海含む)の番組発信の実態を鑑みて、「一方的な番組の供給」ではないとしております。)

 

なおAMラジオの全国ネットはテレビより一歩遅れました。ラジオのネットワークはニッポン放送文化放送系列の「ナショナルラジオネットワーク(NRN)」とTBSラジオ系列の「ジャパンラジオネットワーク(JRN)」の2系列存在します。そして両者はテレビで既に全国ネットが整備されていた1965年に共に成立しました。

ネットワーク形成が遅れた理由はラジオ番組は音だけなので地方局でも簡単に製作しやすく、かつ他局の番組はもっぱら録音テープでやり取りしておりそちらが安価ですむため、ラジオ番組をネットワークで中継する必要性が薄かったからです。

 

 

高度経済成長期以後はテレビの全国ネットの拡充がなされていきました。

テレビ放送黎明期から事実上の全国ネットを確立していたTBS系列や日本テレビ系列のほか、1968年~1970年に系列局を以前の3倍近く増やしたフジテレビ系列、昭和時代は大都市以外でのネットが弱くも1990年代に専属系列局を2倍増やしたテレビ朝日系列、そして元々独立局でしたが1982年に初めてネットワークを立ち上げ今では大都市圏を結ぶネットワークを築いたテレビ東京系列が形成されました。

 

また民放FMラジオでも1980~90年代にかけて全国で民放FM局が開局すると、JFN(ジャパンFMネットワーク)やJFL(ジャパンFMリーグ)などの全国ネットワークの本格的な整備がなされました。

 

 

【日本のローカル放送の歩み】

 

日本初のラジオ放送は東京、大阪、名古屋の三放送局で行われておりました。当初ラジオは中継回線が無く各放送局の番組は全てローカル番組でした。芸能番組を主としラジオ番組が組まれておりました。

 

1928年にNHKの全国中継回線が整備されると(今のNHKラジオ第1)、ローカル番組の割合は小さくなり東京からの全国ネットの番組がニュースを中心に増えました。

その後ローカル放送を希望する声が高まり1930年代半ばに地方のNHKでも各地の地方紙の協力によりローカルニュースの放送が始まりました。

1941年に太平洋戦争が始まるとNHKの放送も戦時体制となり全国ネットの番組が大半となります。しかし視聴者の希望からすぐにローカル番組の枠が増やされ、各地の放送局で芸能番組が作られました(時局ゆえに戦時色の強いものがほとんどでしたが)。

戦後のNHKは全国・ローカルの放送もGHQの管理下に置かれ「民主主義」をアピールすべく視聴者参加型の番組が作られました。

 

そして1950年に放送三法(放送法、電波法、電波管理委員会設置法*)が整備され、放送の「民主化」が行われました(*電波管理委員会設置法は1952年に廃止)。具体的にはNHKの公共放送化民間放送の解禁がなされ、日本の放送・表現の自由が正式に保証されたのです。

この時期からNHKは報道部門を自社で完結させ、独自の報道機関となりました。そして全国ネットの番組を東京から放送し、それ以外の時間は各地の放送局でローカル番組を放送するという今のような製作、編成体制になりました。

 

一方各地に開局した民放ラジオ・テレビは不思議な発展をしました。日本の民間放送は、放送法では各地域のみの放送免許(1960年代後半までは都市単位、1960年代後半以降は都道府県単位)を付与されローカル番組の製作を義務付けるなど、法制度上はローカル放送を強化することになっておりました。

 

しかし現実には民放ラジオ黎明期は大都市の放送局同士、あるいは各地方のラジオ局同士でネットワークを締結する例が見られました。ラジオ東京(今のTBS)とその他大都市の4局を結んだ5社協定や四国の4局を結ぶ四国放送同盟、福岡のRKB毎日放送と長崎のNBC長崎放送を結ぶKNS協定等が作られました。ネットワークは番組製作能力の小さい放送局がお互いにプログラムの充実を図れる有効な方法だったのです。やがてそれは全国ネットワークにも及ぶのです。

 

テレビの場合は特に顕著で、テレビ放送初期は東京キー局や大都市のテレビ局以外の地方テレビ局はローカル番組の製作をニュースや天気などの生放送番組に限っておりました。テレビ番組の製作にはセットや設備など多大なお金がかかり、俳優の手配などで地方は圧倒的に不利だったからです。当時人気のテレビ番組はドラマやスポーツ中継でしたが、これらは東京や大阪などの大都市が製作において圧倒的に有利でした。そのため地方局は人気コンテンツの確保のためローカル番組よりも全国ネットの番組を放送したがったのです。

 

しかしその後1950年代後半より高度経済成長期に入ると地方から東京など大都市への激しい人口移動が起こりました。地方の過疎化問題は顕著になったのです。そのため各地方で自分の地域の情報へのニーズが高まったのです。また公害も各地で発生し四大公害水質汚染、大気汚染、騒音などが日本各地で起きました。そこで一国経済や企業の利益追求とは異なる住民の視点への関心が高まりました。

 

これがラジオやテレビのプログラムに反映され、各地の放送局では地域の情報番組や報道番組を拡充する動きが多く見られました。一例として、青森のRAB青森放送では1970年より朝にローカルニュース「ニュースレーダー」の放送が始まりました。当番組では地域のニュースや情報、天気予報を幅広く放送しました。そして番組内では他県に住む青森県出身者へのインタビューコーナーも存在しました。当時の青森県は大都市への人口流出や冬の出稼ぎが多かったのです。そんな県外の青森県人の声をローカルのプログラムで採用したのがこの番組でした。

この番組は地域の人々のためのローカル番組として放送業界にインパクトを与え、福島や千葉、富山、徳島、高知などで同種の番組が製作されました。

(*この「ニュースレーダー」はその後1977年より夕方の枠に移動し現在も放送されております。)

 

その後1973年の第一次石油危機後は急速にその動きが強まり、ローカルテレビ局ではローカルのワイドニュースやドキュメンタリー番組NHK民放共にどこの局でも製作が始まりました。特に夕方のローカルニュースはこれまで5分程度だったものが一気に20分や30分に拡大しました。

 

民放ラジオでは1960年代後半よりテレビに聴取者を取られました。そのためラジオはテレビとの差別化のため、これまで短時間の番組を多彩な種類で多数放送していたのを、長時間のローカルの生放送の情報番組に変えました。その際には各放送時間帯のコアとなる聴取者層(例:昼→主婦、深夜→若者)に焦点を当てた番組製作(これをセグメント戦略と呼びます)がされました。全国ネットでも「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)の製作が始まったのもこの時期でした。

 

その後1980年代からはテレビのローカル放送のバラエティ番組の製作が始まりました。時間帯は主に深夜でした。毎週放送もあれば、平日毎日放送の番組もありました。福岡のKBC九州朝日放送の生放送バラエティ番組「Duomo(ドゥオーモ)」等がこの時期より放送が始まりました。

このローカルバラエティ番組には後に全国でも放送されたものがあります。北海道のHTB北海道テレビの「水曜どうでしょう」は、1996年から製作されましたが、出演者やスタッフによる自由な発想による企画をチープなスタイルでロケ・編集し放送しておりました。この番組は北海道ローカルでしたが後に全国の他局でも放送され全国的に人気になり、放送終了後も伝説的な番組として有名になりました。

 

その後テレビはネットとの競争に入りやがてマルチメディア時代に入りますが、その中で全国、ローカル共に長時間の情報番組の製作が始まりました。これはかつてのテレビ隆盛期のラジオ放送と同じ流れです。今や三時間以上の情報番組は珍しくありません。ローカル局によっては朝と夕方にそれぞれ三時間以上ローカル情報番組を放送することもあります。

 

またローカルのバラエティ番組を製作する動きも2010年代に入り再燃し、お笑い芸人などの芸能人を採用する番組が全国各地に見られます。これは2000年代後半までの激しいお笑いブームでデビューした沢山の芸人が、ブームの終了後全国ネット番組のみならず地方局のローカル放送にも営業をしているという背景もあります。

 

このように近年のローカルテレビ放送は地域情報番組の拡充ローカルバラエティ番組の製作というムーブメントが伺えます。

 

 

【日本と外国の全国ネット】

 

日本の全国ネット放送は、NHK東京放送局を中心に、民間放送は東京のキー局などを中心に行われております。

 

日本で初めて全国ネット放送を行ったのはNHKですが、当時より今のようなネット体制となっておりました。NHKの全国ネットのトップはNHK本部にある東京放送局ですが、さらにその下に各地方毎に地方内ネットの中心を務める「拠点放送局」があります。(関東甲信越地方は東京放送局の管轄です)そしてこの拠点放送局の下に各都道府県毎の個別の放送局があるのです。

 

このためNHKのネットワーク放送の区分には、「全国ネット」「地方ネット」「ローカル放送」の3区分があることが分かります。

 

このNHKのシステムを民間放送のネットワークも踏襲し、東京のキー局をトップにその次点に各地方の基幹局があり(*)、その下に個々のローカル局が存在します。

(*民放の基幹局とその管轄地域はそれぞれのネットワーク毎に割り振り方が異なります。そしてその時々の事情(ネットワークからの離脱や新局の開局など)で変更されることもあります。)

 

これはイギリスの公共放送BBCのネットワークのシステムによく似ております。イギリスもロンドンの放送センターによる全国ネットをトップに、様々な段階でのネットワークの区分けを想定し、一番基底の部分は各放送局のローカル放送となっております。

なおイギリスは日本と異なり海外領土や旧植民地(コモンウェルス各国)を擁し、そこでもBBCは放送を行いネットワークを結んでおります。そのためBBCは複数局ネット/ローカル放送の区分を日本の3つよりも多い6つ設けております。

 

一方でこのBBC型と異なるのがアメリカの放送ネットワークです。アメリカのネットワークは加盟局は全てローカル放送局であり、ネットワークの元締め業務に専念する会社はそれらと別に存在します。全国ネット番組は各加盟局や番組制作会社により製作され、ネットワークの元締めにより各局に配信されます。アメリカの民放ネットワーク(地上波放送)は主にNBC、ABC、CBS、FOX-TV、The CW TV network があり、公共放送ネットワークはPBSがあります。このシステムはイギリス初の民放テレビ・ITNネットワークも採用しております。

 

またヨーロッパの放送局は公共放送民間放送問わずほとんどが全国を放送エリアとしております。ローカル放送用のチャンネルを除けばそれ以外は全て全国ネットのチャンネルと言えます。(日本のNHK教育テレビみたいなものです。)

ドイツのARDドイツ公共放送同盟は、ヨーロッパでは珍しく、各州毎に公共放送局が別個に作られそれをネットワークで結ぶ形がとられます。これはかつてのナチスが全国放送でプロパガンダ放送を行ったことへの反省から、ドイツ連邦政府が放送に介入しないこのシステムがとられているのです。

 

 

 

【日本とアメリカのローカル放送】

 

日本で公式にローカル放送局の考えが示されたのは1951年の民間放送解禁の時でした。

それ以前はNHKが日本唯一の放送局であり、日本全国の放送を一元的に行い電波という有限の資源を有効活用する方針でした(この方針は1926年に当時の犬養毅逓信大臣により定められたものでした)。

ですが第二次大戦後のGHQ占領下の日本で「放送の民主化」を行うにあたり、民間放送の解禁が唱えられ、それはアメリカ的な民放のローカル放送のやり方を踏襲することになりました。そしてそれは放送法に盛り込まれることとなりました。

 

このことから日本のローカル放送の考えが民間放送の指針として示され、それはアメリのローカル放送の考えから来ているのです。

 

ではアメリカのローカル放送の実態はどうだったのでしょうか。

 

アメリ1920年代にラジオ放送が始まりました。当初ラジオは誰もが参入可能でしたが混信や番組の低俗化をまねき、政府による調整や規制が本格的にしかれました。

その規制内容は様々ですが、その中に地域のローカル放送を行うことも盛り込まれておりました。地域のニュースや情報、文化を扱う番組の製作が求められました。

そしてそれを行うローカル局は放送エリアが概ね都市圏や郡単位に近いものとなっておりました。すなわちアメリカは事実上の一まとまりの地域をローカル放送の単位としたのです。

これは今の日本の放送局の実態と異なります。日本のテレビ局やラジオ局は、コミュミティ放送局やケーブルテレビを除き、都道府県をベースに放送エリアを定めております。元々政府では日本の放送局は「都市とその周囲の地域」のエリアで放送を行うことを想定しておりましたが、1960年代までに「都道府県」をベースに放送局のエリアを決める方針に切り替わりました。

 

そのため日本のローカル放送はアメリカの放送をベースにしつつ地域コミュニティを志向する一方で、その地域コミュニティが行政の区割りに当てはめられるという矛盾を抱えているのです。

 

それに日本とアメリカでは全国ネットのやり方が異なります。日本では全国ネットの元締めを東京のキー局が行うことが事実上決まっております。そして全国ネット番組の大半はキー局製作で、全国ニュースもキー局製作です。

一方でアメリの全国ネット(NBC、ABCなど)は元締めを行う会社が放送局とは別に存在しております。全国ネットの系列局はすべてこの全国ネットの元締め会社の元にあるローカル局です。これはニューヨークやワシントンD.C.、シカゴ、サンフランシスコなどの重要都市にある放送局も同じです。全国ネットの番組は各系列局や番組制作会社の製作したものを元締めが全国に流します。(全国ニュースはニュース番組製作会社が作ります)

 

このため全国ネットにおける日本のキー局地方局のシステムは、アメリカの全ての系列局がネットワーク会社の元でローカル局であるシステムと異なるのです。(余談ですがアメリカのネットワークのシステムは日本でも1969年にTBSがネットワーク統括会社を設ける案で検討されたこともありました。)

 

 

したがって日本のローカル放送はアメリカの放送を元に指針が定められた一方で、ローカル放送のエリアが地域のコミュニティから行政的な都道府県単位へと変化し、ネットワークの整備のもとで系列下のローカル局がキー局と地方局に分化するという現象が発生したのです。

 

 

【おしまいに】

 

今回のテーマも長い記事となりました。日本の全国ネットとローカル放送を見ていくなかでイギリスやアメリカの影響が強いのが分かりました。またはそこから日本独自の事情が生まれていくのが分かりました。

 

特にローカル放送の制度や思想はアメリカの地域コミュニティに向けての放送が由来なことは面白い事実でした。

今回は都道府県・地方を単位とした放送にクローズアップしましたが、実際は都道府県・地方の単位より小さな範囲の放送はケーブルテレビやコミュニティラジオなどがあります。そちらの役割も本来は詳しく語るべきなのでしょうが、それぞれ膨大な内容となり本題の外の内容も入るので今回は割愛いたしました。いつかそちらも時間があれば語りたいと思います。

 

今回も最後までありがとうございました。

 

 

2021年12月17日