ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

真面目な人は報われるのか〈真面目さと目的意識〉

こんにちは、ずばあんです。

もう夏真っ盛りです。今年は特殊な環境とはいえ、暑さや蝉の音は変わりません。変わったものと変わらぬもの、両方ありつつも幸せのために日常を過ごしています。

今年はお盆の帰省を控えられる方が多いと思われます。代わりにオンラインで実家とやり取りしたり、墓参りするにせよ三密を避けたりして感染予防を徹底される方が多いと思われます。

タイトルの「真面目な人は報われるのか」という問いはこのコロナの中での生活にも関係しております。

結論から言えば「真面目な」人は報われると思われます。コロナ対策を言われた通りに「真面目に」行えば、コロナ罹患からの発症という不幸な結果を受ける確率は低くなります。逆にコロナ対策を真面目にやらない人はコロナに罹患することになりますし、自分が発症せずとも他人を発症させその責任を厳しく問われることになります。

このように「真面目」か「真面目でない」かによれば、「真面目」である方が良いのです。しかし、この「真面目」であることが何かを勘違いすれば、途端に不幸に繋がることになります。

〈真面目さと目的意識〉


今回はコロナ対策を真面目にされている方が大半だと思われます。では、そのような方々は何のためにコロナ対策をされているのでしょうか。それはコロナに罹って嫌な目に会いたくないからです。病気自体の苦しみは勿論、予防を怠ることによる責任問題に苦しまないために、そして病気で大切な人が亡くなる悲劇を見ないために・・・など自分が不幸な思いをしないために真面目にコロナ対策をするのです。

このコロナ対策のように、真面目に何か行動することの理由として、何か明確な「目的」があることが重要なのです。そしてその目的の大本は「幸福になりたい」という希望です。つまり真面目さは幸福になりたいという目的が重要なのです

私たちは通常、真面目に勉強して、良い学校に行き、良い資格を取り、良い会社や仕事に就き、真面目に働き、多くの金を得て、良いものを得ようとする、「真面目な人生」を歩もうとします。
その理由はもっぱら、回りがそうしているから、そう言われたから、など色々ありますが、根源的には「幸せになりたいから」なのです。この幸せになりたいという目的のために私たちは、上のようなことを「手段」や「道具」として行使しているのです。

一方で、その目的を欠いて、ただ「真面目に」している「演技」に終始してしまうこともあります。この時「真面目にする」ことが目的になって、幸せになることは真面目にすることを担保するための道具になってしまいます。かなりややこしい事態です。

ライターの窪田順生氏は「日本の鉄道が世界一という人がヤバイ理由」(https://www.iza.ne.jp/smp/kiji/economy/news/161222/ecn16122221530027-s1.html)という記事を発表しました。ここでは、個としての自信の薄い日本人が多い一方、日本の鉄道のダイヤの正確さを称えられると手放しに誇りに思う人は非常に多い事実を述べています。この事を窪田氏は、ドラッカーの言説や「組織」のまとまりに誇りを持つ日本の若者が多い事実と併せ、日本人の中で個人の利益という「目的」とその為の正確さや団結力という手段の「倒錯」が起きていると述べております。それゆえに、日本人の多くの人々の個としての自信が損なわれていると結ばれております。

このように「真面目さ」を評価されることだけを目的にしますと、自らの幸福感を損ないやすくなります。「真面目な人間は報われない」と言われることもありますが、それは「真面目さ」に直接代償が払われるべきであるという思想から来ています。目的と手段が同一化し、真面目であることだけに執着すると不幸になってしまうのです。

〈「正論」と幸福感〉


真面目さというのは幸せになるためのツールであると申し上げました。幸せな人というのは、幸せになるために真面目に頑張った人です。しかし、真面目に頑張るための目的を誤れば、不幸になることがあります。その例が「正論」です。

正論」とは、読んで字のごとく正しい論のことです。私たちは、普段日常生活でどれ程自分の行動が正論に則っているかを気にします。正論に則った行動は、その正当性を元に公的に支持されます。一方でその正論から外れた行動は、非難され是正を要求されることとなります。

例えば、幕臣江川英龍の逸話はそれを説明してくれます。
ある時江戸湾内で無断で測量しているイギリス船が発見されました。江戸幕府はその船の退去を求める際に、船長との交渉を江川に託しました。江川は船長にあなたの国に法律はあるか、と問います。船長は紳士の国イギリスには法律はあると答えます。江川は国際海洋法に違反したイギリス船の非を突き、最終的にはスパイ行為とみなし船を沈めることとなる、しかし直ちに退去するならば法的責任は不問とすると主張。船長はこれに応じ、船を退去することに合意し、江川の交渉は成功しました。
この鮮やかな交渉は理詰めで相手を自分の手中にいれ、自分の主張をスマートに行い、自分の目的を果たすという好例となっています。
このような論破劇は見る側に深い感銘を与え、その支持者を増やしていくこととなります。ですが、その一部にはこれを曲解し、江川の逸話とは似ても似つかないことを繰り返す例もあります。

インターネット上でのSNSでは「レスバトル」がよく行われます。レスバトルでは言葉尻だけを見て他人の主張に難癖や揚げ足取りを行い、相手を過度に非難することが行われます。そしてそれに対抗する方も、ただ反論しづらいだけの中身の無い過激な主張を行い、嘘のような理由付けを行います。その人たちは内容の吟味や自身の確固たる主張を行うわけではなく、相手の極々表面的な非を突き喜び、それを自分がやり返されることに怯えるだけなのです。

これは「論破」によるカタルシスを得たいという欲による行動です。そこには、論破によって何か果たしたい目的はありません。論破そのものが目的であり、自分が正しいと証明したいことが目的なのです。
こう言われると「自分は純粋な正しさで世間の人間を啓蒙しているんだ」と答える人もいるでしょう。言葉だけ見れば間違いではないでしょうが、ではそれによって実現したいこととは何でしょうか?それで人が喜んでくれたことはあるのでしょうか。もしこれに答えられないのであれば、ただの詭弁であるといえます。

このように、自身の目的や幸福から解離した正論は迷走しその果てには得体のしれない怪物のような存在になるのです。真面目であることのみを追求すると、正論は他人も自分も不幸にする有害なものと成り果てることとなるのです。真面目であることを目的にするのはかえって不真面目なのかもしれません。

正論と目的の関係は、海と船の航路で例えることができます。客観的正しさというのは言わば法則の海のようなものであり、あなた自身はそこに浮かぶ船なのです。海にはあなたをどこか幸せな所へ導こうという意図は微塵にもありません。そのためあなたが方角を決め、そちらへ向けて漕ぎ出す必要があるのです。真面目に生きるというのは、船の進む方角を決め、そのために海流や風を読み船を操舵することなのです。ただ客観的正しさを唱えるのは、海の流れに勝手に身を任せ漂流するのに等しいのです。

〈自分に素直になれる人間は真面目だ!〉


良い意味で真面目に生きるには、目的を強く持つことが不可欠です。ではその目的はどこから涌き出てくるのでしょうか。

目的を持とうとすると、まず周りの人間を見てそれに倣おうとする人が多いと思われます。もし、自分のそれまでの幸福がそれによりかなっていれば、それで良いと思われます。しかし、必ずしもそうでない場合は、その目的意識を多少改める必要があります。

この私は未成年の頃は周りを見て、それに倣わなければいけないと思い、それを目的に行動してきました。常識から外れてはいけない、勉強できないといけない、周りのノリとずれてはいけないと思い行動しました。ですが、その行動と自分の幸福感とのズレが密かに起きていました。
中学校の時には、ある日突然周りの人間のノリが強烈なストレスに感じられ、関係を絶ったことがあります。また、大学入試も自分が主体的に不安を説明しなかったがために無理な進路設定を組まれ、結果一年浪人することとなりました。
こうしたことの積み重ねで私は数年前に何事もやりたくなくなり、引きこもりのような状態になったことがあります。

そのような不幸な境地から脱することができたのは、日記をつけ自分の内省を上手く出来るようになってからでした。詳しい話は、「日記をつけたら・・・」の記事や「他人に相談する・・・」の記事に書いてありますが、これまでSNSや人との会話では出来なかった自分との対話が出来るようになりました。

自分が何を欲しているのか、何が嫌だと思っているのか、それがハッキリ分かるようになったのはこの頃でした。そしてこの辺りから、人に自分に何が出来るのかと思慮が及ぶようになりました。

目的意識というのは、自分の素直な気持ちから初めて起こるものなのです。そこから自分の行動の指針が定まり、周りに対してどう動けば自分の善が達成されるのかを考え、正しさに適合するように試行錯誤することになります。これがいわゆる「真面目さ」の正体なのです。

この真面目さの端緒は自分に素直になることです。これを欠いて目的意識は芽生えないですし、真面目に生きれないのです。そのため真面目に生きて幸せになりたいのならば、まずは自分に素直になることから始まるのです。

〈おしまいにずばあんから。〉


今回は真面目に頑張ることの本当の意味を語りました。このようなことを語った理由は、つい最近自己分析をした時の出来事からです。そこで自分の長所のひとつに「真面目さ」を上げたのですが、それを聞いてくださった方からこのようなお言葉を頂きました。
長所で真面目さをアピールするのは実は難しい。誰もが何かに対して真面目な人であり、何事にも真面目でないことは逆に大問題である。」とその方は言われました。私はそれを聴きハッとさせられました。
以前から私は他人から自分の印象について「真面目そう」と言われることが多かったのですが、それは本当に「真面目である」こととはズレがあると何となく認識していました。そしてこの言葉を聞き、「真面目である」ことは一つの物差しで測れない、目的に裏付けされたものであると確信しました。

それを端的に表しているのは、「まじめにふまじめ かいけつゾロリ」という絵本の文句でしょう。この「かいけつゾロリ」の主人公ゾロリは怪盗であり、お世辞にも「真面目そうな人」とは言えません(窃盗は犯罪です)。しかし、ゾロリはあくまで自分の特技を生かせる道(まあ犯罪ですが)として怪盗をしているだけで、人に対しては優しく人情の篤い人間臭いキャラであります。「不真面目な」怪盗としての生き方を「真面目に」全うするというメッセージがこの絵本の文句に含まれているのです。

真面目であることは一に定まるものではありません。目的が全うで、それを本気で追求する態度は皆真面目なのです。それを証明するのは、自分と大事な人の幸福です。

皆さんこれからも真面目にコロナ対策をしましょう。


2020年8月