ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

本を読むのは難しいという人へ

ずばあんです!

最近はやや暇ができましたので本を大量に読もうとしております。読書家ではないのでやや一苦労するでしょうけども辛抱強く頑張ります。

さて世の中には私と違って、本を読むことを日常としている読書家と呼ばれる人がいます。私のまわりにも読書家の方はいらっしゃいました。月に二桁の本を読み、本に関する話題をいつもされている読書家という方がいました。本を読むことで幸福になるという様が伝わってきました。

しかし、私は怠惰な人間ですので、余程の動機が無ければ本を読むことは少ないです。難しい本ならば尚更です。国語は高校時代一番苦手な教科でした。そんな私でも最近読書の訓練を積み、ある程度本の内容をすんなり掴める様になってきました。では、どのようにすれば本を楽に読めるようになるのでしょうか。

〈著者の主張は100字で纏められる!〉


かつて私は本を読むからには、本の内容全体をつかむ必要があると考えていました。折角300ページも書いているのにそれをちょっとでも削ったら意味がガラッと変わるじゃないか、と思っていたからです。しかし、それは本の著者の「送り手」の立場を忘れた「読み手」本意の考え方でした。
実は分厚い本の内容は100字でも十分説明できるのです。そんなバカなと思われるでしょうが「送り手」の論理からすれば間違いないのです。

例えば、和辻哲郎の「風土」の主旨を説明すると「民族の性格や気質は「風土」の影響を受ける。「風土」とはある土地において、人間の存在の仕方を決める気象的・地理的条件のことである。」となります。現実の「風土」は270ページ程もありますが、そのほとんどは補足的な記述になっています。
ではなぜ、そんなに壮大な「補足」を書かなくてはならないのでしょうか。それは主旨だけでは著者のメッセージは伝わらないからです。

著者のメッセージが読者に伝わるには、主旨だけでは「説得力」がないのです。先の「風土」の主旨もそれだけでは説得力がないので、論拠や実例、学問上(ドイツ観念論)の位置付けも詳しく矛盾なく書き記してそれであの分厚い本が出来ているのです。

そのため、本の文章の膨大な長さはその著者のためではなく、読者のために起きているのです。故に本の読者が著者とコミュニケーションをしようとすれば、文章の海から短かくも強いメッセージを拾うこととなるのです。

〈著者の主張はどこにある?!〉


では、その短くも強いメッセージが本のどこにあるのかという話になります。その答えは文章の「結論」部分に存在します。

作文の授業でも聞いたことのある方もいらっしゃるでしょうが、長い文章の基本フォーマットは「問題提起⇒根拠⇒結論」の形をとられることが多いです。本を書く人はこの形を元に文章を書きます。中には「問題提起⇒結論⇒根拠⇒結論(再提示or 省略)」という形をとる人もいますが、これも基本フォーマットを押さえた上で作られた改良版です。

つまり、本を読むときに作者の主張は各章の冒頭か末尾辺りにあることが多いのです。だから手っ取り早く作者の主張を見つけたい人はその辺りをまず読むのが近道なのです。

ただ、これは100%絶対ではありません。基本フォーマットに加えて「例え話」や「比較」が文章に肉付けされていることが多いからです。具体的なエピソードが述べられている段落ではその可能性は高いです。そのような箇所は読まなくても文章の内容は伝わります。そのためさっと話を理解したい人は、具体例は読まないことをお勧めします。
「風土」でも各地域の気候や地理の説明の部分がまさしくそうですが、説得力の問題を除けば、別にその部分を読まなくても著者の主張は伝わります。それらはあくまで文章の信用度を上げるための飾りです。著者のメッセージはそれを読まなくとも理解できます。

〈本を上手く読めるようになるための習慣〉


さて上のようなことを説明されても、それをすぐに実践するのは難しいでしょう。今までやったことが無いので「訓練」が必要です。それで「本を沢山読む」という訓練をされる方が多いと思われます。
ですが、それで本を上手く読めるようになるどころか、本を読む習慣すらやめてしまう人も多いと思われます。それは、本を読む回数を重ねるだけでは不十分だからです。

本を上手く読むということは、作者のメッセージを効率よく受け取ることです。そのためには作者がいかにして本の文章にメッセージを込め、それにどのように意味の肉付けを行ったのかという過程を何となく知る必要があります。
しかし、読み手に「文章を書く」経験や訓練が乏しい場合、それを掴めないまま本を読み、メッセージを汲み取れずに終わるパターンも沢山あります。「送り手」の論理は前の章で説明しましたが、それを感覚として掴むには「文章を書く」訓練が必要です

このように申し上げますと、国語の授業での作文の練習があったではないか、と言われる人がいらっしゃいます。ですがその練習ではある大事なものが欠けています。それはコミュニケーションです。
コミュニケーションとは相手と自分の間で意志疎通を行うことです。その中でメッセージの送り手としての自分は、相手に意味が通じるようにメッセージを発信します。目の前にいる人間との会話はもちろんですが、本も著者と多数の読者とのコミュニケーション媒体です。
しかし、作文の授業ではもっぱら教師からの添削や技術的評価が返ってきて、それを読んだ感想や意見は返ってきません。つまり作文の練習ではコミュニケーションは教わらないのです。

そのため「文章を書く」訓練では、自分が伝えたい明確なメッセージを、明確に想定しているターゲットに対して、誤解無く矛盾なく伝わるように文章を書く必要があるのです。

その具体的な日頃の訓練方法のひとつは、SNSなどのインターネット上での発言です。インターネットは誰もが発言可能な環境で、その発言を誰もが見ることが出来ます。そのためインターネットは自分の発言が不特定多数にどのように伝わるのか、どのように反応が返ってくるのかをありありと見ることができる絶好の場です。
私が今しているブログもその一つです。ブログの記事で何を伝えたいのか、誰に対して見て欲しいのか、どう書けばその人にうまく気持ちよく内容が伝わるのか。ブログの記事を書く上でざっと上のようなことは必ず意識します。そして、文章の送り手が何を文章に込め何を排しているのかを理解することが出来ます。

このような文章を書く訓練を通して書き手の論理を理解し加えて読書を重ねることにより、文章を読み書きする能力は向上していき、ゆくゆくは本を読む楽しさが増すことになります。

〈本を読むことは良いことだ!〉


さて、本を上手に読むための訓練法はもうおしまいです。ここまで見て、ずばあんは何でそこまで本を読む訓練を熱弁しているのだ、と怪訝に思われる方もいらっしゃるでしょう。その理由は、本を読むと幸せになるからです。

自分が人生で苦しむときや悩むとき、これまでの自身の人生経験だけでは問題を解決するのに心許ないことが沢山あります。その時に本というのは、自分の苦悩に応えてくれるメッセージを与えます。そして自分の問題を解決する後押しをしてくれるのです。

かつて私は読書不要派の立場でした。本を読むよりまずは自分のおかれた状況を認識して、経験不足のところを進んで経験し自分の人生経験を深めるべきだと思っていたからです。
しかし、年々自分の中で言葉にならない苦しみや悩みが膨れ上がっていくのを感じ、それが自分の活力を押し潰してきました。
それからしばらくして、私は図書館の図書券を作り本を借りて読むようになりました。その契機は就職試験のために基礎教科を勉強するときに様々な有名な著作の名前が出てきて、それらを読みたいと思ったからです。
私は遠藤周作の「沈黙」や土居武郎の「甘えの構造」などを借りて読みました。すると、心の中で今まで消化されなかったものが解けてすっきりするのを感じました。

もちろん闇雲に本を読んでも頭でっかちになるだけで心の栄養にはなりません。本当に何を読みたいのかを理解した上で読む本に価値があるのです。自分にとって価値のないと思った本のことはもう忘れてしまえばいいし、価値のある本の内容を覚えておけばいいと思います。

〈最後にずばあんから〉


私は今20代で、日々の生活で悩ましいことは尽きません。つい最近も(20年8月下旬)気分が落ち込むことがありました。もっと強い人間になれたら賢い人間になれたらいいのでしょうが、それはもっと先の話でしょう。そんな今だからこそ私は本に助けを求めているのです。本を沢山読んで人生を豊かにしたいのです。

しかし、これは先の「読書不要論」の理由を全く否定したものではありません。確かに自分の足りないところを認識し人生経験の深さは求めなくてはなりませんが、それはむしろ逆に読書の必要性を強調することになっています。自分の足りないところを知ること、経験を深くする所と方法、それらは読書して初めて分かることだからです。逆に読書だけしても本が自分の人生経験に答えられていなければ(それを自覚していなければ)、ただの余分な知識となります。
本は自分の人生経験に深みを与える手伝いをし、人生経験は本の意味を引き立ててくれるのです。

本を読む意味は人それぞれだと思われますが、私が読書をする理由は以上の通りです。

現在はまだ大変な時でしょうが、皆様ご自身の心身の健康に気を付けて末長く元気にお過ごしください。

それでは次回もよろしくお願いいたします。


2020年8月24日