ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

人間不信の人にとっての人間関係

こんにちは!ずばあんです。

今日は「人間関係」の話です。こう言ったらビックリするでしょうが、私は「人間不信」が強い人間です。これは私が他人が嫌いだとか、人と会うのが嫌いというワケではありません。むしろ私は人と会うとホッとしますし、人としゃべるのは大好きです。私が言う「人間不信」とは、人との性格の相性の存在を強く意識していることです。

今回はこの私なりの「人間不信」の考えと、そんな人間が築く理想の人間関係について述べたいと思います。

〈人には相性があるので・・・〉


世の中の人間の1割は自分と気の会う人で、3割は気の会わない人、6割はどちらともつかない人。」これは私の大学時代の友人が言ってたことです。出典は存じ上げませんが、私はこの言葉を聞いてなるほどと思いました。
この当時の私の人間関係は少数の気の会う人とそれよりも数倍ほど多い気の合わない人、そして圧倒的多数のどちらでもない人で構成されていました。そのためこの言葉に納得するのは早かったです。

各個人ごとに自分との相性が違うのは当たり前なので、それに応じて親疎の度合いに差をつけるのは当たり前です。しかし私はそれが「人間不信」の考えに繋がりました。

私が幼少期に住んでいた地区の学校は気の強い人が多く、気の弱い私にとっては相性の悪い人ばかりの場所でした。当然私は友達が少なかったのですが、親からの心配や環境の悪い学校でのいじめなどを理由に「反省」し、高校以降は回りに対してフレンドリーに接しなるべく親しくなるように心掛けてたつもりでした。
ただ、それは「人との相性」の考えが及ばないものでしたので、相性の悪い人にとっては非常に不気味な態度に思われました。そして何故か嫌われ、訳が分からない私は人間関係のトラブルを度々起こしました。他人が嫌いなわけではなくむしろ好きなのに「相性」が邪魔をして関係を悪化させてるように思えたのです。
そのうち私はそのような「人間の業」に激しい嫌悪感を覚えるようになったのです。そして一時期自分や他人を苦手に思っていました。そのため私にとって人との相性という憎き「業」は私を人間不信に陥れたものなのです。

〈人間関係は幸福製造機〉


私は人間関係を積極的に築くモチベーションをしばらく失っていました。そんな中、私はユーチューブである動画を視ました。それは「友達不要論」の是非を検討する動画でしたがその中で橘玲さんの「幸福の資本論」の内容を取り上げていました。その内容は「お金で繋がる人間関係を大事にすべき」というものでした。
その著書によると、人間関係は幸福感の増大に不可欠な要素であり、それが不全ならばお金をいくら持っていても不幸になります。そのためお金を稼ぐ力や所有財産を人間関係を豊かにする為に使うべきだと述べていました。

より詳しく説明すると、我々が普段人間関係と呼ぶ自分と面識のある関係(「政治空間」およそ200人程度)の外には、経済活動で繋がる「貨幣空間」と呼ばれる無尽蔵な人間関係が存在しています。
貨幣空間での人間関係の例はお手元のスマホです。スマホは日本のほか台湾・韓国の工場で部品製造され、それらを韓国などの組立工場で組立て完成、日本に輸出され携帯ショップを通して私達の手元に届きます。スマホを手にいれるだけでも数ヵ国の多数の人間とお金を通じて関わっているのです。どこの誰なのか、まずいるか否かも分からない人とも私達は関係を持っているのです。
質のいい人間関係の構築において、心で通じ会う「政治空間」のみならず、お金や物という対価による「貨幣空間」の人間関係の可能性にも目を向けるべき、と述べられています。

私はこの「貨幣空間」の人間関係の記述に強い関心を抱きました。
「貨幣空間」では対価さえ用意できれば、その分だけの繋りや便益は保証されます。そこには人と人の相性を問われるものは存在しません。故に僕が人間不信を意識するものは(理屈上は)存在しないのです。
この貨幣空間は親しい関係性は期待できないものの、不幸を産み出さないようにコントロールは可能な繋がりです。それまでの人間関係観だと摩擦が起きていた多数の人々と気持ちのよい円滑な人間関係が築ける見込みがあります。そのため人間関係で不全を来している人にとっては朗報だと思いました。

ここまで言えば私が親しい人間関係を全否定していると思われそうですがそうではありません。むしろ親疎の度合いに関わらず、どの人も大切に出来るようになりたいだけです。その為の方法としてこの「政治空間」「貨幣空間」の考え方を参考にしたいと思ったのです。そうすれば、自分を含めて誰にも意義が分からないような人間関係を築く恐れは小さくなり、より多くの人が得する幸福製造機としての人間関係が作ることが出来るのです。

〈「出来ること」で繋がる関係〉


私の話を聞いて、お金やものを餌に人の心を釣るつもりか、ふざけるな、と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、私はそのようなことは提案していません。もし仮にそうしてしまった場合は相手の心を逆撫でにし、ますます人間関係に摩擦が発生してしまうでしょう。

私が言いたいのは自分が「出来ること」を生かすこと、あるいは相手が出来ることに助けを求めることで繋がる関係の大切さです。その関係で尊重されるのはお互いの能力・得手です。例えば、私がもし事務作業が得意ならば、事務作業を欲しているところに赴けばその得手を生かせます。それに対し相手方は給料や現物支給、またはサービスで対価を払います。
こう言われると結局お金ではないかと思われるでしょうが、お金は対価を払うのに一番便利な道具に過ぎません。そのため対価がお金ではないご好意からのサービスでも成り立つのです。あるいは「このご恩は忘れません」と言い、後にお礼を返すというパターンもあります。つまりは持ちつ持たれつの関係なのです。

この関係は親密さや堅固さは期待できないものの、関係の明確性や再編可能性は著しく高いです。そのためもし何かしらの理由で関係がこじれても、その部分を解消し別の関係をまた築くことは、親しい人間関係よりも容易なのです。この関係性で重要なのは「去るものを追わず、来るものを拒まず」なのです。建物で言えばプレバブのようなものなのです。

一方でこのような関係性だからこそ、気を付けなければいけない事があります。それは、対価以上のものを安易に求めないことです。もしこの関係性で人との関係か好調であったとしても、それは自分が「出来ること」によるものにすぎず、それから外れたら信用が揺らぐ可能性もあるのです。

例えば、音楽グループのMr.Children桜井和寿さんは普段の発言で政治的発言はしないと公言しています。その理由は、自身は音楽活動で人から評価されているのであって、自身のその他の部分も評価された訳では無いからとのことでした。

これは「貨幣空間」の考えに近いものです。桜井さんは自身とファンの関係を音楽を通じた関係であると意識していらっしゃいます。(もちろん桜井さんの考えは一つの例であり、それが絶対ではありません。)この様に、貨幣空間は「それ以上」を求めるのにはあまり適さない関係です。

あとこれは私見ですが、「お金で愛は買える」というのは嘘だと思います。お金は愛を表現するための手段であり、愛と等価ではないからです。婚約の時に「給料3ヶ月分のエンゲージリング」を渡す人はいても、「給料3ヶ月分」を渡す人はいないところからそれは分かります。
これは親しい人間関係と「出来ること」で繋がる人間関係のルールの違いによるものです。「出来ること」で繋がる関係は対価で繋がっていますが、親しい人間関係は相性で繋がっているのです。相性は必ずしも対価で買えるものではありません。もしかしたらお金に惹かれる相性もあるかもしれませんが、それはほんの一部のラッキーな例です。 だから「お金で愛を買う」というのは実は目的と結果が一致しないことなのです。

〈最後にずばあんから〉


さて、本題は以上で終わりです。ここからはテキトーにずばあんがしゃべります。

ここまで書いたことを読んで、ずばあんは他人に何をしたいのかと怪しむ人は多いと思われます。人間不信だとか幸福製造機だとか恐い単語だらけで不気味であったと思われます。

ただ私はこれまでの人間関係の考え方に真っ向から対立するつもりは無いのです。むしろ、これまでの人間関係における理想を嘘に終わらせず実現するには、何を補うべきなのかを述べているのです。

人間関係の理想とは誰とでも仲良く、幸せに過ごせることだと私は思っています。ただ、現実には相性の問題があるので、その壁を乗り越える工夫が必要だったのです。その工夫というのが相性による人間関係と対価による人間関係の区別なのです。相性のいい人間と仲良く出来るのはもちろんですが、相性の悪い人間と仲良くするには別のルールが必要なのです。
人生では相性の悪い人間との付き合いを避けられない場面が出てきますが、常に衝突するよりかは親しくすることを犠牲にして仲良くしなければならないのです。その時に一番すんなり納得のいく論拠が今回の話でございました。

これまでの記事の内容と矛盾しないように気を付けて書きましたがどうでしょうか。もしかしたら何か批判があるかもしれません。そのときは甘んじて批判を受け入れるつもりです。

間もなく夏も終わりを迎えますが、日々の体調の変化にはお気をつけ下さい。コロナ対策も含めて、健康には十分気を払いましょう。

それではまた次回もよろしくお願いいたします。



2020年8月26日