ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

「正しい人の見下し方」

こんにちは。ずばあんです。 

 

今日は「人を見下す」ことについての話をしたいと思います。

 

【「正しく」人を見下す】

 

「正しく人を見下す」このようなことを述べたのは実業家でユーチューバー?の岡田斗司夫さんです。

 

岡田さんはユーチューブやニコニコ動画で映画やアニメ、小説などのサブカル作品の解説や人生相談を軽快な口調で語っておられます。長年に渡り配信され続けた動画の中に、「正しい人の見下し方」というものがあります。

 

こちらは2011年のニコニコ動画での生放送の一部分を抜き出したものですが、これは視聴者からの質問に岡田さんが答えるものでした。質問のひとつに「つい人を見下してしまうのでなんとかしたい。」というものがありました。

 

これに対して岡田さんは、「人を見下す癖はどうやっても治らない。だから、悪い見下し方から正しい見下し方に改める必要がある。ダメな人間を見たときにこき下ろすのではなく、優秀な自分が何かやるべきだったんだ、と思うように。だから、人を見下すプライドの高さを社会貢献へのモチベーションに変えていこう。」という旨をおっしゃっていました。

 

私はこの内容に大いに歓心しました。発想の奇抜さと明快な解決策はもちろんですが、通常なかなかまともに答えを貰えない質問に真面目に答えたという点も評価点でした。

 

常識的に考えて人を見下すことは悪と考えられています。その態度は人から嫌われて当たり前ですし、後から何かしらの悪影響が出てきます。だからその姿勢は改めなくてはなりません。

 

しかし、それが上手くいかずちぐはぐになっている例もあります。

私がある学校で見た教員の人で、プライドが高くコンプレックスも強い方がいました。プライドの高さを恥じているのか、それを誤魔化そうとしていましたが、明らかに人を見下しておりました。そんな人が「プライドを捨てた方がいい」と仰っていましたが、説得力はありませんでした。その方は努力したのでしょうが、全然その効果はうかがい知れませんでした。

 

正直この方のその態度は極めて不愉快でした。綺麗事を言っていれば、自分の悪いところを許してもらえるという卑怯さや甘えが滲み出てて腹立ちました。ただ、それで怒ることも客観的にみたらその教員と同族なのかもしれないと思い、語ることすらも長年躊躇われました。

 

こうした理由から、私は人間のプライドの高さというものは「業」や「宿命」であるという考えが根強いです。(この思想も私の人を見下す性を表していますね)

 

岡田さんの「正しい人の見下し方」はそんな閉塞感に光を当てるものでした。論の明快さはもちろんのこと、説得力がありました。

岡田さんは普段から自信満々で歯に衣着せぬ発言から明らかに「人を見下し」ている方です。ですが、そこには人を楽しませる面白みがありご本人もそれを意識されておられます。人を見下すのがダメなのではなく、見下し方を改めるというのは新しい考え方だと思われます。

 

【「正しい見下し方」の欠点】

 

さて、この正しい人の見下し方はいい面はもちろんございますが、同時に欠点もございます。(「人を見下す時点でダメだ」は抜きです。)

 

まずいい面を取り上げます。

先ほど述べたように他人に対して施しを与えるモチベーションとなる時点で、人との関わりでプラス点を上げることとなります。しかも自分の性格をほとんど変えずに行えるので、自分の個性を損なうのを少なくしている点で素晴らしいです。

もし性格自体を改めるならば、多大なる時間と労力がかかり、失敗のリスクも大きいです。そのため、この「正しく見下す」方法はコスパがよく、成果がすぐに分かる点で扱いやすい方法であると言えます。

 

一方で、この「正しく見下す方法」は次の欠点もあります。

それは損切りが難しくなることです。

この方法は人を見下す性格を他人への奉仕という方向に振り向けるというものです。しかし、自分のキャパシティを越えた事態において本来は戦略的撤退するべきところを、自分で問題を丸抱えしてしまい、破綻する可能性があります。特に人間関係においては、相手と不和が起きたときに自分が何とかして関係を正常化しようと無理をして、関係悪化を招くことがあります。

 

そのため、「正しい人の見下し方」というのはこうした欠点に立ち会って、自分がこれを乗り越えられるか否かで採用の是非を考えた方がいいでしょう。

 

【人を見下してはいけないので・・・】

 

この「正しい見下し方」は、「人を見下してはいけない」という常識に対して具体的な答えを出すことが難しいことを浮き彫りにしたと私は思います。

 

人を見下す態度を露骨に出すことはもちろんアウトです。しかし、それに対して何を改めればいいのか、どうすれば改められるのかは語られることは少ないです。

 

先述の教師の態度も努力が空回りしてるのか、そもそも開き直ってるのか分かりませんが、少なくとも問題は何ら解決できていないのは明白でした。

 

また、人に対して何か施す行為も「人を見下している」ととることも出来ますし、本当に悪いことをしている人を注意することすらも人を見下すととられることもあるのです。もしこれも「改める」のであれば、「人を見下さない」為に多大なる損害を出すこととなります。

 

私が思うにこの問題は、「人を見下すことが悪」という素性の問題ではなく、「人を見下すことで不愉快にする」というコミュニケーションの問題であると思います。

 

岡田さんに質問を寄せた方は自分の人を見下すという「素性」を改めようと考えていたのですが、岡田さんはそれをコミュニケーションの問題に置き換えて考えていらっしゃいました。その上で岡田さんは「正しい人の見下し方」を述べられたのです。

 

ただ、この「正しい人の見下し方」は残念ながら先ほどのデメリットもあるので、厳密に言えば「正しく」は無いのだと思います。もしかすると人を露骨に見下して生きる暮らしが「正しい」のかもしれません。結局は人によるのだと思います。

 

その生き方で得るべきものと失うべきものを自分自身が引き受けられることが大切なのでしょう。もし自分の人生を責任もってしっかり全うするのなら、某有名落語家のように「芸人100点人間0点」でも別に構わないのかもしれません。

 

【最後に】

 

「人を見下す」のを改めるのは難しいですね。努力するのはともかく、ゴール設定を自分でしないといけないのも難しさに輪をかけています。

私はここで「正しい」人の見下し方を採用するべきとか、人を見下すのはやめろとかは言いません。自分の納得のいく道を、自分が責任を持てる道を歩みましょう。客観的に見たら下らなくとも、皆様自信にとって璧となる人生を選びとりましょう。

 

それではまた!

 

2020年11月5日

 

 

 

 

 

 

スーザン・フォワードの「毒になる親」

こんにちは、ずばあんです。

 

今日はネット上で有名になったある言葉に関する本の感想です。

 

【「毒親」ってなに?】

 

さてSNS上で有名な言葉のひとつで、子供にとって毒になる親という意味の、「毒親」という言葉がございます。毒親は自分の子供の健全な成長に対して害となる行動をとる親を指しますが、そのパターンは様々です。

 

家庭トラブルに関する記事を多数扱うまとめサイトを見てみますと、子離れできず子供に過干渉する親、兄弟姉妹間で差別する親、暴力・暴言を振るう親、育児放棄する親・・・など多種多様なパターンがあります。

ですが、総じて子供の今後の成長にマイナスの結果をもたらす行動をとることには間違いありません。

 

このような毒親ですが、この言葉がある著書から来ていることも有名です。それはアメリカの臨床心理学者のスーザン・フォワード氏の「毒になる親(Toxic Parents)」(1989, 訳:玉置 悟)です。この「毒になる親」を縮めて「毒親」と呼んでいます。

 

この「毒になる親」は、上のまとめサイトで扱われる「毒親」の特徴を正確に扱っており、その毒親による子への影響と、その影響からの脱し方を記しています。

 

【著書「毒になる親」の内容】

 

著書「毒になる親」は大きく分けて2つの部分で構成されています。まず前半部分では「毒になる親」とはどんな親のことを指すかを具体例と合わせて詳しく説明しています。後半では「毒になる親」により子供にどんな害があるか、そしてどのようにしたらその害から子供が脱け出せるかのガイドラインを示しています。

 

「はじめに」では子供に成人以後にも及ぶ悪影響を与える親を「毒になる親」と説明しています。

前半(第1章~第8章)では、「毒になる親」のパターンとして、神のように振る舞う親、義務を果たさない親、過干渉する親、アルコール中毒の親、暴言・暴力を行使する親、性的虐待をする親を示し、そうした親が生まれる原因として家系全体でその気質が継承されていることを明かしています。

後半(第9章~第15章)では、毒になる親による子への悪影響を確認し、そのような親を許すことは必要ないと説明します。続いて毒親の子がたどるべき道として、自分の本当の気持ちを確認し、その気持ちを発散して、親と対峙しつつ親との関係性の整理をつけるというガイドラインを示しております。それからそのガイドラインを実施する方法としての集団療法や個人面談などのセラピーを詳しく説明します。そして〆として自分が毒親にならないようにするべきことを説明しております。

エピローグでは毒親の子供がはまりやすい負の努力からの解脱を改めて説きます。訳者あとがきでは日本での毒親の実情(1998年当時)について述べられています。

 

著書の内容は以上です。

 

私がこの本で印象に残ったのは、毒になる親に対する子供の反応についての記述です。

子供の反応には親に従順になるか、親に反発するかの二通りの反応があり、後者は自分の意思で主体的に動いているつもりが逆に自主性を損ねた不幸な道を歩むことになると述べられていました。それにともない他者との人間関係も歪んだものになる恐れが強いと指摘されていました。

 

この部分は私がまとめサイトの記事で読んだ、「毒親」の影響で苦しむ子供の嵌っている語られざる罠を表していると思います。

親の意思とは真逆の行動をとることで自主性を得られるという誤解はかつて自分の中にもありました。自主性というのは親からの干渉を受けずに自分の本心から行動を選択することを指します。そのため、親の意思と一致するかしないかは自主性の有無に関わりません。

 

【「毒になる親」の感想】

 

最初から最後まで読んでみて、いわゆる毒親の子供のたどるべき道は親子関係の回復ではなく、子供の正しい自律を促すことだと強調されていました。

もちろん関係回復を全否定している訳ではありません。ただそれは子供の自律を尊重した上でのシナリオであり、それがないならば回復よりも疎遠が望ましいです。この本ではフォワード氏の臨床経験が多く語られ、そのなかで関係回復を諦めた例が沢山記されています。過去の虐待を反省したことについて子供に許しを強要する親の例がそれです。

 

私自身の考えとして、親が親として全うな行動と結果責任(著書のなかで詳しく述べられています)を果たしているならば、その親子関係は維持されるべきと考えています。

しかし、それらを果たさない内に自分の親の地位を無理矢理承認してもらおうとする人間は、親失格であるとも考えます。そんな親はいない方がましですし、彼らに最大限望まれることはこれまでの親子関係が偽者であることを認めることです。(それが出来るだけでも毒親の中ではかなり救いのある方でしょうが)

 

また、子供に対して悪影響を与える親の振る舞いが案外と広いことや、それをどうやっても言い訳出来ないというエグさも伝わってきました。

性的暴行やアルコール中毒、暴言暴行などはともかく、過干渉や絶対者としての振る舞いも毒親として認められるパターンは意外だと思われる方もいらっしゃるでしょう。

ですが、親というのが子供の将来に大きな影響を与える立場である以上、そのような責任追求や事後処理は不可避となります。

私はよくネットで「衝撃体験アンビリバボー」や「修羅場まとめ速報」などの家庭内トラブルに関わるまとめサイトを閲覧します。その中の記事で親が過去の毒親としての行いを反省したり弁解する素振りを見せながらも、それを子である報告主が一蹴するというものが数多く見られます。

正直親にとっては悪意のない場合があるので残酷かもしれませんが、結果に責任を持つという人間関係の基本を考えれば、ある意味礼儀に習った人道的な行為であるとも考えられます。

 

一方でこの「毒になる親」は本来はアメリカの家庭を想定して書いていることも留意しなくてはならないとも思いました。

アメリカは日本と異なり、子供が成人すると親とは別居するのが昔から当たり前ですし、子育てや家事においてベビーシッターや家政婦を雇うのはおかしな話ではありません。わが国とは家族観や育児観が異なるのです。

また、日本人には日本特有の気候風土により生じた「甘え」という気質があります。日本人は古来からそれを自覚し言語や文化にそれらを反映させてきました。一方でアメリカ人には開拓時代からのフロンティア精神から始まる高い自律意識や、個性の尊重、実用主義が根強く、社会道徳や制度にもそれらが反映されています。

このような日本とアメリカの気質の差は家庭の理念の違いに出てきます。当然ながら日本の「いえ」はアメリカの「ホーム」に比べて親密で粘着的で、それが機能不全になったり崩壊するインパクトはより大きいです。

実は私は「毒になる親」の第2部を読んで晴れ晴れとした気分になる一方で、違和感も感じました。それは毒親を棄てて真の自律を獲得する過程で、(少なくとも普通の日本人が思い当たる程度の)家族を喪失する影響が描かれていないことです。一見すると都合が悪いから書かなかったのかと私は思いました。しかしそうではなくそもそも「彼ら」はそんな「余計なこと」は気にしないのだと気付かされました。アメリカ人は家族の外でも多種多様なコミュニティに属し、その中でメンバーとフレンドリーに接します。そのためアメリカ人は家族の外で孤立する心配は少ないのです。

 

またこの本を読んだ気付きとして、散々毒親の犠牲者を扱っているにもかかわらず、現在進行形で毒親に苦しむ未成年の話はほとんど出てきません。

それは未成年を見放しているのではなく、むしろそちらを構うのは当たり前として考えた上で、忘れられがちな成年後(中高年も含む)も毒親に苦しむ人へ積極的にフォーカスを当てたいという著者の意思の現れであると私は思いました。

この「毒になる親」は虐待などの悪影響が成年後も収まることなく続くという、忘れられがちな問題の存在から始まっています。

 

特に毒になる親を産み出す家系の呪いは注目されるべき問題です。これは環境汚染や放射能問題のごとく、一度始まれば積極的に手入れをしなくてはいつまでも続く問題なのです。そしてその手入れをすべきなのは、その家系に入る自分自身の人生なのです。

 

【おしまいに】

 

この著作の感想はこれで終わりですが、本当はこの本を読んで思ったことはこれ以外にも多くありました。

親との関係は人間関係全体でどう位置づけられるのか。周囲の人間関係の変化は親との関係をどう変容させるのか。周囲の人間はそれに対しどんな責任があるのか。そして、自分自身はそんな人たちとどう接するべきなのか・・・

しかしながら、これは著作の感想の域を越えておりますので、後日別の記事としてまとめたいと考えております。

 

この「毒になる親」は毒親というネットスラングになる程、現在の私たちの価値観に影響を与えております。この本を知らなかった人にとってもこの本の内容は他人事ではありません。

自分の親が毒親か否か、もしくは自分がそうなるか否かを問わず、これからの人生において無視してはいけないことが沢山書かれている気がしました。

 

こちらの本は全部で300ページ強となっております。

皆さまにとってこの「毒になる親」がどのような価値を持つかは、各自読まれた上でご判断されてください。

 

それではまた!

 

2020年10月25日

中島敦の「山月記」

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は中島敦さんの「山月記」の感想を述べます。

 

【10年前の感想】

 

山月記の内容は青空文庫でも出ておりますので説明は簡素に済ませます。

中国の官僚・李徴は秀才ながらもプライドが高く詩家の道を目指そうとしますが、生活に困窮します。家族の為に再び官僚になりますが出世した同期の下で働く現実に自尊心は傷付き、ある時出張先で発狂し山へ入りそのまま虎になります。

 

私はこれを高校2年生の国語の時間で初めて読みました。これを読んだときは李徴のような人間になりたくないと思いましたが、うっすらと自分のなかの李徴、もしくは虎を自覚しました。そのため李徴のような人間になるまいと辛いことから逃げずにひたすら前を進んで立ち向かおうと思いました。

 

その後私は李徴と同じ轍を踏むような経験をいくつかしました。夢だけは大きいのにそれに見合った努力を出来ず、中途半端になることばかり、そしてそれを恥じることもしないという醜態を晒していました。山月記を読んだときに私は自分の中の虎を反省出来なかったのです。その一方で李徴の姿を見て、彼のような業からどのようにすれば抜け出せるのか上手くイメージが沸かなかったのも事実です。一度はまったら、反省程度では脱け出せない様な気味の悪い業を李徴に、そして私自身にも感じました。

 

このような今の私ですが、この私がまた山月記を読んで、10年前とはまた違った感想を抱きましたので、以下それについて語らせていただきます。

 

【今の感想】

 

李徴はになりましたが、私はそれを忌むべきものとして考えていました。人間だった頃の李徴はまだ引き返す機会を神様から与えられていたものの、遂にモラトリアムは終了し罰として虎の姿に貶められてしまったと思っていました。

しかし、今はこの李徴は物語の最初から虎になるまで全部李徴であり、変身などなかったと思います。同時に、李微が自分の生涯を反省している部分は山月記のストーリー内には未だ無いとも感じました。

李徴は自身の性格を「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」と表現し自分の至らなさを回顧しておりました。その一方で変な理想に未だ固執しており、そのギャップに未だ悩む姿もありました。そして何よりも自身の「虎」の姿を卑しく思っておりました。その時点で李徴はまだ反省できておらず、自分の中の虎を飼い慣らせていないのです。

 

それではなぜ李徴は自分の中の虎を飼い慣らせていないのでしょうか。それはありのままの李徴自身、すなわち虎を愛せてないからです。

虎は獰猛で暴力的な獣としての側面がある一方で、威厳を持ち貫禄を持つ余裕のある強者という側面もあります。決して卑しいだけの存在ではなく、正しい方向へ磨けば光る存在でもあるのです。

李徴は他人と交わらない、自分の心の痛みに誰も気付いてくれないと書かれていましたが実際には自分自身とすら交われていないのです。現実の自分を受容できず蔑み、それを否定するように詩作の道に至り、その一方で自分の中の虎の世話を怠り虎の暴走を招いたのが今の結果なのです。

山月記は李徴がこのまま完全に虎になる末路を匂わせて終わっています。ですがもし仮に李徴が人間の姿に戻れるとすれば、詩歌の道とは異なる、自分の中の虎を癒ししつける道にあると思います。

 

このような感想は、私が自分の中の「虎」の正体が何であり、その虎をどう理解し扱うかを見つけていった経験から記しております。私を含めて人々は、外面や対面を強く意識しすぎて自分の内面を置き去りにしがちです。その中で無視された内面は、徐々に荒れ果て傷付き怒り、遂には押さえのきかない虎のように暴れ狂うのです。

そのため、ありのままの自分を忘れない様に日々の習慣の中で自分を見つめる、自分を育てる営みが必要なのです。その虎を殺すことは出来ないのですから。

 

 

【おしまいに】

 

私の感想は以上でした。

 

実はこの記事を書く前に、他の方の山月記の感想を拝見させて頂きました。色んな観点からさまざまな感想がございました。

その中でも面白いと思った感想は「現代社会は虎が沢山いるので、自分も虎にならざるをえない」というものです。この感想は私も共感いたしました。もしここで虎をやめたら自分は死ぬかもしれないという危機感の中で虎にならざるをえない現代人の立場をよく捉えている意見です。だからこそその虎を自分で育て磨くことが大事なのでしょうね。

 

他にも面白い感想は沢山ございましたのでそちらも是非ご覧ください。

 

それではまたいつか!

 

 

2020年10月8日

この世は「物語」で出来ている!

こんにちは、ずはあんです。

 

皆さまは今幸せですか?それとも何かお悩みを抱えていらっしゃいますか?

 

くどい質問でしたが、皆さまは自らが幸福になるために日々努力していることでしょう。

ただその日常にすら疲れ、幸福になるための人生が不幸を招いていることもあるかもしれません。

 

これからする話はそのような方々の気分をリフレッシュさせるための話です。

 

〈成功譚や失敗譚はうそである〉

 

のっけから強烈なサブタイトルですが、本編は緩く進めるつもりですのでご安心下さい。

 

私たちは日頃から成功者の話や失敗した人の話を沢山聞いている筈です。例えばNHKの「プロジェクトX」や「プロフェッショナル」では成功を収めた人のそこまでの苦難や努力が語られます。マツダロータリーエンジンの開発のエピソードは印象的でした。

逆に失敗した人の悲劇もよく聞きます。1985年の日航機墜落事故では小さな欠陥が積もりに積もって起きたという経緯が明らかにされています。

 

このように成功者や失敗者のエピソードは分かりやすいものが沢山あります。でも自分の人生を振り替えるときに、そんな分かりやすいエピソードはあったでしょうか。

あるという人もいるでしょうが、無いという人は自分にはそんな輝かしい話はないとか、原因と結果が複雑で語れないという人が多いかもしれません。

私は正直にいうと無い方の人間です。先の成功者や失敗者とかの話と比べて、私の人生は雑多でカオスなこと限りありません。

 

ただそんな私の人生と、成功者や失敗者本人の人生は、さほど変わりなくカオスであったと思われます。現実には何が原因でそういう結果になったのか良く分からずに、取りあえず納得のいくストーリーを組み立てたと思われます。

 

なぜそう言えるかといいますと、人間は物事を物語という形式じゃないと認識出来ないからです。現実にはこの世界はカオスを極めているのですが、その世界の一部を切り取り分析し、その中で原因と結果を決め、理解しやすい物語を作っているのです。古くは神話の時代から始まり、世の中の自然・社会現象は擬人化された神の業の歴史として描かれ語られました。現在は科学が世界を語る有力な方法となっていますが、そこでも原因と結果のあるエピソードの形式で法則や現象が語られています。そうしたエピソードはこの世の真実や事実のありままを表しているのではなく、人間の認識を通じた仮の姿なのです。

 

先程の成功譚や失敗譚も仮の姿なので、実はこれらはある意味なのです。現実の彼らの生き様は思ったほど気持ち良くないですし、逆に辛すぎることもないと思われます。良くも悪くも平凡な私たちの感じていることとさほど変わらない人生なのでしょう。

 

〈嘘たる物語のもたらす不幸〉

 

私達は物語という嘘抜きには何かを解釈することができないので、この嘘を使わなくてはならないのです。

 

そしてそれ故にその物語に報われる人、裁かれる人の差が生まれます。

 

物語には宗教、政治思想、道徳倫理、方法論など沢山ありますが、どれもそれに則ることによる恵みと反することによる罰や裁きを説いています。

例えば努力をすれば報われるというのも、単純な物語です。ここでは努力をするものには幸せが訪れ、努力をしないものには不幸が訪れるという信賞必罰が説かれています。

 

その中でこの物語に納得できる人とできない人が生まれてきます。その様なときに前者が後者を裁くことがあります。上の話だと努力が足りない、それを努力とは言わない、努力の方向が間違っているなどいうのが裁きにあたります。

もしその物語に心の底から納得し、裁きを正当なものと思えるならば、特に問題はありません。一方でそうではなく、物語に共感が薄く裁きに疑問がある時は不協和音が発し、損害が出ることがあります。

努力の話に戻ると、報われない人には何か致命的な障害(金銭問題、人間関係、体質など)があるかも知れませんし、その障害が何か分からないこともあります。

それに対してそんな人間のことは知らないと言った時に、実は努力の報われない人にとっては実は上の話は本当に「嘘」だったという話になります。

 

このような物語の真偽は客観的に裁ききれるものではありません。ここでの真偽はあくまで自分の主観、具体的に言えば信頼関係の是非に近いです。自分が今抱えている問題を無きものに扱う時点で、その物語は自分にとっては嘘なのです。

いわばコミュニケーションを疎かにした物語は本当に嘘と見なされるという復讐を受けるのです。

 

〈自分の物語を描け!〉

 

自分を平気で裏切る物語の存在を説明いたしましたが、結局どうすればいいのでしょうか。

 

結論から言えば、そんな物語とは疎遠あるいは絶縁すればよいのです。もし自分に対して積極的にコミュニケーションを取ろうとするのならともかく、それ無しに自分を裁こうとする物語には、人間と同じような処遇をとればよいのです。

 

私は以前人間関係に関わる記事を書きましたが、それと根本的に同じです。物語を擬人化して、その中で親しくできそうな物を採用すればいいですし、そうでなければややドライなビジネスライクな繋がり方をすればよいのです。その幹となるのは自分自身です。自分の幸福に寄与するものを採用して、あとはそれ相応の上手いつきあい方をすればよいのです。

 

その後にやっていただきたいのは「自分の物語は自分で描く」ということです。数多くある物語のなかから自分の人間的成長に適した部分を採用して再構築・補完を行い、自らを育てるというものです。

正直言えばそれ無しに他人の物語を採用しても意味は無いと思われます。そのため、人に頼る前にまずは自分の今の状況や立場や性格などを考えた上で、その上で自分の利益にかなった自分の物語を決めた方がいいと思います。

 

例えば今回の新型コロナウイルス感染症の蔓延で不振となった産業で解雇・失業する人がいて、そんな人々に天罰だという意見がありました。

しかし解雇失業した当事者からしてみれば、そんな「嘘」は無でしかないのです。何ら心に響かない戯れ言として忘れられてしまうことなのです。それに仮にそんな天罰を下す存在がいたとしても、そんな存在とは絶縁すればいいのです。どのみち自分の利益にに結び付かないことは明白なので、それ相応の対応をすれば良いのです。

 

 

〈雑談です〉

 

本題はもうおしまいですが、この話に関連しましてドラマ「半沢直樹」の感想を話したいと思います。

 

ドラマ「半沢直樹」は工場主だった主人公の父が銀行の裏切りにより自害した所から始まります。そこから半沢は銀行への復讐心をバネに良い銀行員になり銀行を良くしたいと考え、都市銀行に入行し自分の筋を通しつつ出世を目指します。

その中で自分と相反する敵との戦いがこのドラマ(そして原作小説)のメインストーリーとなります。

 

このドラマはストーリーの分かりやすい描写が定評となっており、銀行内の内紛という堅い内容の割には、個々のキャラクターの個性やストーリーの高揚感はこの上無いほど際立っています。

主人公の半沢はもちろん、宿敵の大和田も独自の筋を持ち行動するキャラクターとして描かれています。他のキャラクターの人間ドラマもしっかり描かれています。

 

半沢は時には敵であった人間と共闘するも、自身の筋が揺らぐことはなく、9月20日の放送のエンドで箕部幹事長、中野渡頭取、大和田に「1000倍返し」をすることを宣告しました。(大和田が半沢を無理矢理土下座させようとするシーンも面白かったです。)

9月27日の放送では半沢は仲間や協力者の力を得て、更に頭取らの本意を受け、真の敵である箕部の不正を暴き、これまでの一連の不祥事にピリオドを打ちました。そして半沢は最後に大和田と対峙し、東京中央銀行で自分の筋を通していく決意を新たにして話の幕は落とされます。

このドラマは銀行を舞台とした物語の集合で見事にこのカオスな世の中を、そしてその中で自分の物語を強く持つ人間の生き様を表しています。

 

話題は変わりますが、以前宗教と神様の話をいたしました。この宗教と神様の話はそれこそ今回の物語の好例になります。

神様はいる/いない、あるいは神様を信じる/信じないに関わらず、その物語の真偽は自分の人生に聞く他ありません。

私には私なりの宗教観がありますし、それに則り平穏な生活を営んでおりますが、だからといって他人にその宗教観を適用することは出来ません。これは私の物語であり、他人にとっては嘘かもしれないからです。

 

例えば小説「沈黙」では、まさしく神も仏もない状況で苦しむ人が最終的にどのように神の物語を紡いだのかが描かれています。主人公のロドリゴは自分のために生き始めた時に自分に語りかける神を見たのです。これはロドリゴ自身の物語でありますので、他の信者にとっては嘘の話なのでしょうが、この嘘ほどロドリゴ自身にとって真実味のある話は無いでしょう。

 

こちらは仏教に関わる名言ですが、このような言葉があります。「念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる」。これは西元宗助さんのお言葉であります。この言葉は仏教の教えを自分が世のために施すための原動力とすることへの決意を表したものです。

ここでは念仏を唱えれば念仏の力で救われるとは言っていません。念仏は自分を奮い起たせるための言葉であり、自分を救うのはあくまで自分なのです。ここに他人の物語に頼りきり依存しようという意図はありません。自分の物語を強く持ち生きるための証として念仏を唱えるのです。

 

この小説「沈黙」と西元宗助氏の言葉は、宗教が自分にとって救いのある物語を自分で紡ぐ営みであることを述べているのです。

 

〈おしまいに〉

 

今日は嘘だらけの「物語」に満ちた世界で自分の為の「物語」を持つことをお伝えしました。

こういうと傲慢でしょうが、自分の物語を持つことが出来るのはまず自分自身のお陰です。この部分は他人には如何し難い所ですので自分の心に聞く他無いのです。

 

しかしながら、世の中には精神疾患などからこの物語を思うように作れない人もいます。

 

私自身もその物語を中々見つけられなかったので、それを作る難しさや困難さは分かります。私はそのような人々を見過ごすことが出来ないので、私の経験や知識でせめてその苦しみから抜け出せるお手伝いが出来ればと思います。

 

どうですか?こう言われると、他人の言う「嘘」なんて気にならなくなるなりませんか?

同じ嘘なら自分が得する嘘を信じませんか?

 

今日の記事は以上です。

ではまた今度!

 

2020年9月27日

 

 

失敗をどうしても気にしてしまう人へ

こんにちは。ずばあんです。

 

日々皆さま頑張っておられると思います。謙遜抜きで言えば、私も日々頑張っております。さて今回は「失敗を気にする」ことについて語りたいと思います。

私は失敗を気にしがちな人間です。そういう性格なのは仕方ありませんが、それを引きずらないことは大切です。今回は私がどのようにこの苦しみを乗り越えたのかを語らせていただきます。

 

〈楽観主義と楽天主義

 

さて、失敗を引きずる傾向のある方が是非目指してほしいのは「楽観主義」です。楽観主義とは物事を希望的観測で考えることです。

例えば、水がコップの半分ほど入っている状態を「まだ半分も入っている」と捉えるのが楽観主義です。

その逆で、物事を絶望的観測で考えることを悲観主義といいます。先の水がコップの半分ほど入っているのを見て、「もう半分しか入っていない」と捉えるのが悲観主義です。

失敗を引きずる人は現在悲観主義に陥っています。悲観主義の人は人生を基本的に辛いものと考え、たまに訪れる幸福はすぐに消える物と捉えています。

楽観主義の人は人生を基本的に幸せなものと考えています。たまに不幸が訪れてもそれは必ず終わり再び幸せになると考えています。

失敗を引きずる人には楽観主義を目指していただきたいです。しかしここで間違って「楽天主義」に陥ることがあります。

 

楽天主義」とは、自分にとって都合の悪いことを無視して、現実を歪曲して都合のいい解釈をすることを指します。これは楽観主義とは似て非なるものです。

楽観主義というのは現実の困難に対して適切な対応をとることが出来るという確証の上に立ちます。例えば、新型コロナウイルス感染症の蔓延に対して、マスクや消毒、ソーシャルディスタンス、免疫力向上など適切な予防策をとることが出来ると断言出来るのが「楽観主義」です。

一方で、新型コロナウイルスはただの風邪だとなめて予防策をとらず、無防備な生活を送るのは「楽天主義」です。この楽天主義を楽観主義と混同することが、楽観主義に対する誤解を招いています。

 

いわゆる悲観主義者はこの違いに気付き、楽天主義ではなく楽観主義を目指さなくてはなりません

具体的にいえば、失敗したときに自分で策を調べたり人に相談したり躊躇い無く出来るのが楽観主義です。もしそれでも不十分ならば他人に任せたり、中止するのも楽観主義に含まれます。

 

〈目的なきところでの失敗〉

 

ここまで見て、他の人の見ている所で失敗したくない人もいらっしゃいます。

失敗したら責任を負わなければならないので、それから何としても逃れなければならないとお思いの人は多いと思われます。

 

ですが、ちょっとここで立ち止まって考えてみましょう。そもそもなぜその失敗をしてはいけないのでしょうか。失敗というのはすべからくいけないことなのでしょうか。

 

失敗というのは何かしらの目的に達するに能わない行為を指します。すなわち、失敗には目的意識の存在がまず先立つということです。その目的意識が無い所では失敗か否かを考えることがまずあり得ないのです。

 

例えば、江戸落語をやる上で多少の「なまり」が出るのは失敗ですが、日常の会話でなまりが出るのは失敗でもなんでもないのです。

このように、目的がある所では失敗か否かを問われるものの、それがない状態だとその是非すら問われません。我々が何かを失敗を気にするのは実は目的意識のある振りをしているだけで、目的意識が実は薄かったからといえます。犯す覚悟のない失敗をしたからに尽きます。

 

しかし、私はここで覚悟や目的意識のないあなたが悪いと説教をするつもりはありません。現実の行動では、何においても自分が最初から高尚な意識を持っているとは限らないですし、そんなものを持っているか否かもわからないからです。もしそれがあるとしても、それは偶然に過ぎないのです。

 

ではどうすればいいのかといいますと、目的意識の無いことをやめることを「すれ」ば良いのです。自分の中での優先順位の低いことはやめる選択をすればいいのです。たとえば、大学の講義で受ける理由のないものは受けないようにすればいいですし、維持する理由の無い人間関係は解消してもいいのです。

 

ここで何かを「しない」ことに抵抗感を覚える他人もいます。何かをしないことを無だと思い、これこそ失敗だと思われるでしょう。ですが、何かをしないことは無駄な時間ではありません。何故なら何かをするという選択と何かをしないという選択は等価だからです。

 

例えば司法書士試験に通りたい人が、サッカーのドリブルを極めても仕方無いですしむしろ無駄な行為です。それよりはドリブルの練習をやめ、勉強かリフレッシュの時間に回した方がいいかと思われます。

逆にサッカー選手やサッカーの講師になりたい人が司法書士試験の対策をする意義はありません。それよりはドリブルの練習をした方がよいでしょう。

また、何事にも目的意識のない場合は、目的のあるものを探すことや目的意識の無いなりに食い扶持を確保する方へ努力することに振り向くこともできます。

 

ですので、目的意識もなく成績も芳しくないものは「やめること」をするという選択も考えてもよろしいでしょう。

 

〈おわりに・失敗は成功のもと〉

 

結局失敗は誰でもあることですし、それを完璧にゼロにするのはそれこそ不可能であると思います。

ただ、同じ失敗を続けることは自分にとっても他人にとっても損になります。そのため、早いタイミングでその連鎖を打ち切る必要があります。本編の内容はそれを目的としたものでした。

 

何をもって成功と見なすか失敗と見なすかは分かりづらいものがありますが、取りあえず自分自身が明日よりも今日、今日よりも明日幸せになることが成功と考えれば分かりやすくなるでしょう。今までの失敗をこれからの成功の踏み台に出来るようにする、これが「失敗は成功のもと」の意味だと言えるでしょう。

 

自分はまだ失敗だらけですが、失敗の先に成功があることを確信して安心して日々歩んでいます。

 

どうか皆様も失敗に絶望せず、明るい未来を夢見て生きてくださればと思います。

 

 

2020年9月25日

 

 

 

 

 

 

 

自分の感情が分からない病気?!

ずばあんです。お久しぶりです。

 

皆さま現在も大変なところだと思われます。私も嫌な気分になることもありますが、それを完全に無視せずに何とか自分の機嫌を取る行動を心掛けていただきたいと思います。

 

さて今日は「失感情症(アレキシサイミア)」と呼ばれる精神障害についてお話しします。

 

〈自分の感情が分からない?!・ 失感情症〉

 

この失感情症、一体何のことでしょうか。失感情と呼ばれるので感情が無くなることか、と思われる方は多いでしょう。ですが、この症状で感情が無くなることはありません。

この失感情症とは、「自分が今どんな感情なのか掴めなくなる」症状なのです。現在の自分の内心がどう動いているのか理解できないので、心身に様々な悪影響を及ぼす状態を失感情症と呼びます。

 

具体的に症状を述べますと、

・自分の感情を説明できない

・想像力に欠ける

・客観的思考が難しい

・外からの刺激に敏感

・激しい感情が出やすい

 

といったものが主にございます。もし失感情症を発症すると、人とのコミュニケーションに支障が出る、自身の感情の変化に気付かない、ストレスコントロールに困難を来す、ストレスから問題行動を起こす、物語の登場人物の心情が理解できない、等の問題が発生します。

 

また、この失感情症が続くと心身症(精神の不調がきっかけで起こる身体の不調や病気)やうつ病になることもあります。

 

〈どうして失感情症が起きるのか〉

 

この失感情症が起こる理由は主に次のような理由があります。

 

一つ目はADHDなどの発達障害です。発達障害が引き起こす二次障害としてこの失感情症が起こるとされています。

 

二つ目は遺伝的要因です。もし家系に同じ失感情症の方がいらっしゃると、その精神的特質も遺伝されていることがあります。

 

三つ目は家庭環境等の外部環境です。愛情に乏しい人間関係や激しいストレスのかかる出来事に晒されたときに、失感情症を発症することがあります。特に親しい間柄での問題は失感情症の発症に強い関わりがあります。

 

もし精神疾患などでカウンセリング治療をするときに失感情症を患っている場合は、カウンセラーと信頼関係が築かれず治療の効果が見られないこともあります。

 

〈失感情症の対処法〉

 

さて、この失感情症は正確には病気ではなく貧血などと同じく症状ですので、症状を持ちつつも普通の日常生活を送るための対処法をとるべきです。

 

失感情症の人は自らの感情の機微を詳しく表現するのが困難です。そのため、自分の感情を大まかに捉える習慣をつけるべきです(気分がいい・悪い、喜怒哀楽など)。日記を書いたり、物語を書いたりすることを日課にするとよろしいでしょう。

また、他人よりもストレスに気付きにくいので、休養や睡眠の時間はしっかり確保し、時には軽い運動をするなどストレス解消法を意識的にすることが肝心です。

 

一人でやるのが心許ないのならば、臨床心理士などの専門家による治療もあります。主な方法は「力学的精神療法」「集団療法」の二つです。

力学的精神療法」は自身の周囲の人間についての感情を専門家に話し、自己分析するものです。これにより自分の感情の由来を過去まで遡り自覚させ、それと切り離して今の感情を自覚させます。

集団療法」は同じ症状の人が10人ほど集まり、お互いに自身の過去を全員に話すというものです。これは専門家の監修のもと行われ、似た症状の人と自分の症状について話し合うことで自己を理解するものです。

 

〈ずばあんと失感情症〉

 

私がこの失感情症を知ったのは今年の1月頃でした。

この時私は特に理由もないのに心身がだるく思っていました。食欲は薄れ、鈍い頭痛も起きていました。

実は似たようなことは思春期の頃から何度も起こっていました。心の中では言葉にしがたい不快感が渦巻き、体調が崩れることもありました。また些細なことで不機嫌になり、周囲の人間との親密な関係が時に苦に感じることが何度かありました。自分の混沌とした感情をコントロール出来ずに、他人に迷惑をかけることは何度もありました。

 

この時に精神の不調についてネットで検索しましたところ、この失感情症に関する記事に当たりました。

そこに書かれていた内容は私の症状によく似ており、これまで誰も語れなかった今までの苦しみの正体がわかったような気になり気分が楽になりました。

これで、自分の苦しみが和らぐ術に近づけたのは勿論、他人に対して迷惑をかけることが少なくなるとほっとしたからです。

 

私は日記をつけて、自分の感情や体調の変化には気をつけるようにしました。それに加えて、身体を清潔に保ったり散歩する等ストレス解消法を積極的に行いました。このブログもこのコロナという非常事態におけるストレス解消法のひとつとして始めました。

 

これらにより私はストレスが蓄積することはなくなり、以前より頭が冴え、本を多く読んだりより難しい勉強ができるようになりました。そして難関試験にいくつか合格することができました。

そして人に自分の不快感をぶつけることも少なくなり、人と安心して話せるようになりました。

 

〈おしまいに・・・〉

 

さて失感情症の話は以上です。

 

この記事は心や身体に不調を訴え苦しんでいる人に見ていただきたいです。中でも中学生~大学生という思春期で社会に出る前の人には特に見ていただきたいです。

私はもう大学も卒業してそれからこの症状について知りました。ただ本音を言えばもっと早くにこの症状のことを知り、楽になりたかったです。この失感情症のせいで失ったものは少なくないですし、また別の進路の可能性も開けたと思われます。

そのため今、失感情症で苦しむ人には適切な対処法で楽になって精一杯頑張ってほしいです。そして、自分の人生は素晴らしいといえる人生を送っていただきたいです。

 

2020年9月19日

 

漫画「ブラック・ジャック」の魅力

ずばあんです。こんにちは!

今日は心に響く読む価値のある漫画について語ります。今回お話しするのは手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」です。

この漫画は天才外科医ブラック・ジャックが瀕死や難病の患者の生命を本気で救おうとするストーリーが描いています。内容や設定の詳細は省きますが、この漫画では生きることの大切さを訴える人の苦悩や価値観について余すこと無く語られています。

このような有名な作品は書評や評論は多く出ているはずなので、ここでは私がどうこの漫画を読み取ったかを一読者の立場で書きたいと思います。

〈青年ブラック・ジャック


ブラックジャックを私が初めて知ったのは小学校4年生の時でした。その時のブラックジャックの印象は、すげー超人能力を持ったスーパーマンでした。(当時の語彙力のままです)手術料は高いし、免許ないけど大人には大人の考えがあるのだ、と思ってました。

それから10年以上経った今、ブラックジャックの印象は変化しました。
今の私にとってBJは、少年の時からの理想を抱き続け、それが中々通せない現実にぶち当たり屈しそうになりながらも、ずっと踏ん張り続けている悩める強い若者という印象が強いです。

BJは瀕死の自分を救ってくれた本間医師のように、人の命を救う医者になろうと一所懸命努力します。
しかしながら、自分と理想を異にする者との邂逅や不可抗力の襲来などが絶え間なく起きます。BJはそれに対して熱く抵抗し足掻いていきます。
BJはオペの技術においては誰をも寄せ付けない程の天才ぶりを見せます。難病という難病の治療を次々と成功させます。

しかし、その治療の意義が疑われる出
来事も度々起こりました。
手術をした患者が自殺したり、事故死、戦死、死刑などに至ることがありました。そこまで至らずも殺人犯の証拠隠滅に加担させられかけたり、老化が止まった患者が治療後に老化が「正常に」起こり死亡するケースもありました。
これらはBJの人命を救うという医者としてのポリシーに反することです。

そしてBJにとって何よりの大事件は本間医師の命を救えなかったことでした。BJは老衰で意識不明となった本間医師の執刀を行うも、願い叶わず絶命しました。落胆するBJに本間医師の霊が語りかけます「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいと思わんかね・・・」

BJは外科医としてはトップレベルの鬼才であります。ですが、外科医は外科医としての本分以上に何も出来ない存在でもあるのです。BJには自分なりの生命倫理があるのでしょうが、それを道徳として人に施すにはあまりにもBJは無力なのです。

青年とは少年と大人の間の時期ですが、まさしくBJは青年であると思います。少年よりは実行力や能力に溢れているものの、大人というにはあまりにも理想家すぎるのです。患者に対して法外な料金を提示するなど患者の覚悟を試す鬼の部分もあるBJですので、大人に近い部分は存在します。しかし、それでも理想に反するものに負けまいと果敢に立ち向かう姿には若々しさがあります。

私はそんなBJの大人と少年の合間の青年らしさに惹かれたのです。

〈魅力的なBJの敵〉


さて、この漫画の魅力はBJ本人の青年らしさもありますが、BJが対峙する敵にも魅力といえる部分があります。

有名なのはドクター・キリコです。キリコは依頼を受けて患者の安楽死を有償で請け負う闇医師です。患者の生を追求するBJとは対照的とも言える存在です。
ですが、このキリコはある意味BJの理想を究極的に追求した存在と言えるでしょう。

BJは患者の命を救うという医師の本分を理想としています。そして、その本分はギリシャの医学者ヒポクラテスの医師倫理にたどり着きます。ヒポクラテスは医師を「患者の苦痛を取り除き、患者の幸福を追求する」存在と考えています。つまり、患者の治療は患者の苦しみや痛みを取り除き、幸せな人生を保障するためにあるということです。
実際にBJもその事は意識しており、患者の苦痛を以前よりも増大させる可能性が高い手術(成功確率の低い視力回復手術など)は断ることがあります。そしてあの法外な料金も患者自身の人生を頑張って生きる意思を試すものでもあるのです。もしそれを受け入れられないのならば、手術をしても不幸になるだけだと考えているのでしょう。

そしてその理想を突き詰めると、治しても癒えない重傷や重病を治すのは無駄という考えもできます。そうだと分かった患者は今後どうすれば・・・。その難題に直面したのがキリコです。
野戦病院の医師だったキリコは貧弱な設備での元で苦しみながら死に行く傷病兵を常に見てきました。そして苦痛に耐えかね死を望み請う患者にキリコは遂に禁忌を破り安楽死を施しました。すると患者は安らかに息を引き取りました。

そこに自分の医師としての役目を見たキリコは、不治の傷病でいつ終えるとも知れない苦痛に苦しむ患者に死による救いを与えるモグリの医師になったのです。キリコは安楽死を依頼された患者には幾つかの条件を審査し、それをクリアした患者に対して契約を結び安楽死を施します。それを一つでもクリアしなかった患者とは契約を結びません。

行為としてはBJとは真逆ですが、最終的な目標はBJとはさほど変わらないのです。その証拠として、キリコは生存可能性が少しでもある患者にはしっかり治療を施します。そこからキリコが快楽殺人を行う人間ではなく、医師としての本分をストイックに追求している人間であると分かるのです。

なお、このような深みのあるBJの敵はキリコ以外にも出てきました。

その一人は内科医の黒松という男です。黒松は患者から高額な料金を取る代わりに患者の延命にひたすら執念を示します。しかし患者は高齢で生きる屍のようになり、患者の家族にも理不尽な負担を与えていました。そして患者の孫を自殺へと駆り立てました。
BJは自殺を間一髪で阻止し、病気の患者である祖母と黒松の事情を知ります。BJは黒松の行為に反発するも、逆に黒松からBJの行為も同じことだと指摘され反論されます。

黒松の行為は一見して非人道的に思えますが、失われつつある人命を見捨てないという点においてはBJと同じとも言えます。そのために患者の家族に大きな負担を課す点も同じと言えます。

ですがBJは黒松とは違う点があると言い、孫の遺書を然るべきところに出すと訴えました。それを取り返そうとする黒松は事故に遭い昏睡状態に陥ります。BJは黒松の手術を執刀し、それと引き換えに患者を自宅療養から病院へ入院させることを黒松に要求しました。その後要求を飲み込んだ黒松は患者を入院させました。

黒松は患者の治療には熱心でしたが、それで犠牲になる家族らの存在は目に入っていませんでした。一方でBJは患者のみならずあらゆる人間の生を尊重していました。BJの法外な料金の意味はあくまでその生の救命への覚悟を示すものであり、黒松のように家族から患者への搾取ではありませんでした。
おそらく黒松もその意味を最終的には理解したものと思われます。

あと一人紹介したいのは、福禄医師です。
福禄は自身の病院の医師を流れ作業の要領で動かし、病院の効率経営と医療サービスの安価な提供を実現していました。しかし医師と患者のコミュニケーションの薄さが慢性的な経営不振を招いていました。BJもその点に気づいており福禄に指摘しました。
そして、福禄の愛娘が瀕死の重傷を負った時にシステムの混乱を覚悟で福禄自身が執刀し、自身のシステムに欠けていたものを再確認するのでした。

この福禄の方針は医療への需要過多に対する一つの対策、ひいては病院の経営の改革策としてある意味正しい道であったと私は考えます。この漫画の書かれた時代には医療へのニーズはますます高まりそれに応えるにはシステムの改革が不可欠でした。特に救急医療への対応では、本来は有効な改革であったと言えます。

実はこのキャラクターを見たときに、医療法人徳洲会徳田虎雄氏を連想しました。徳田氏は故郷の徳之島で医療が手薄であった故に病気の弟を失った経験から、全国一律での十分な医療インフラの整備を志していました。
自身の経営する徳洲会グループの病院では、24時間年中無休、差額ベッド無しなど万人がいつでも平等に医療サービスを受けれるようになっています。
この徳田氏のやり方は行政との摩擦等の問題も抱えていましたが、生命の価値の平等を認め医療活動に反映させるという熱い理念は本物であるといえます。

この福禄(=徳田虎雄)の理念とBJの理念は相反するものでしょうが、どちらも日本の医療の問題に立ち向かおうとする熱い気持ちには代わりありません。BJの福禄への批判は正しいですが、福禄の流れ作業システムも現実の医療現場でのプラスの効果は間違いなく存在していたと思われます。

自分の受け持つ患者の生を必死に救おうとするBJに対して、患者の苦痛を取り除く為には安楽死すらも厭わない闇医師、患者の病気完治に執着し患者一家が潰れることを顧みない内科医、そして病院に合理的経営法を導入するも患者と疎遠になる院長、これらは今頑張っていらっしゃる医療従事者の悩みの権化かもしれません。

〈凡人ずばあんがBJから学んだこと〉


私は、ブラックジャック人が他人に対して出来ることと、若者という時期かどのようなものなのかを示した作品であると思いました。

BJは天才外科医で、いわく付きながらも好評価を轟かせている名医です。ただ、そんなBJでも前述の通り、救おうとした患者の人生を救えなかったことがあります。それは手術の失敗によるものではなく、その外の問題でした。BJはその度に患者に対し強い負い目を感じます。しかしそれでもBJはそんな悲劇から逃れることは出来ないのです。なぜならBJは外科医であり、外科医の領分から外のことは出来ないからです。BJが心の中で患者の将来の幸福を願おうとも、BJに精一杯出来ることは患者の病巣や患部にメスを入れることだけなのです。

そして、これは若者と呼ばれる時期の人間の宿命に思われます。青年期は壮大な理想を原動力に成長を重ね社会で活躍していきます。しかし、それは自分の得手となる分野のみに限られ、理想に比してごく一部の役割しか出来ないのです。その現実と理想のギャップに苦しみながらも、理想を捨てず自分の得意分野を伸ばしながら自分の役目を果たしていく青年期をBJはありありと示しているのです。

20代の青年である私も内心では世界はかくあるべきという理想とも妄想ともつかないながらも理想像があります。そのために自分が出来ることは、ほんの一部でしかありません。自分は天才ではないし、一番よくて凡才といっていい人間です。

ただ、ここで理想を捨ててしまえば私は自分を「殺しに来る」悪に呑み込まれ、人生をすぐに壊されてしまうでしょう。いつかは理想は擦りきれてなくなるかもしれませんが、その時は今ではありません。青年期を生き延びるには「理想」が必要なのです。だから私は自分が生きるために理想を持ち続けるのです。

BJは、あるいは作者の手塚先生はそれを見事に漫画という言葉にしてくれたと思います。そのためブラックジャックは私にとってのバイブルなのです。

〈おしまいに〉


ここまで私の感想でございました。

ブラックジャックは名作ゆえに、その名前は世間に轟いています。ですが、この作品を見てどう感じるかは見る人にとって様々です。
何を当たり前のことをと思われるでしょうが、私は自分の好きな作品を好きな人の意見を知りたいのです。

私の感想を聞いて、いや違う自分はこう思って~という意見も聞きたいのです。私は自分の好きな作品を通じて人との結び付きを感じたいと思っています。

Twitterでも好きなもの、興味のあるものに関して発信しておりますし、他の人の感想もいいねやRTをしております。
私は好きなものでもっと多くの人と繋がれるようになりたいと願っています。


2020年9月17日