ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

日本のテレビは何故つまらないのか

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は日本のテレビ放送について意見を述べます。

 

ふだん私はテレビをよく見ています。バラエティや映画、ワイドショー、ニュースはよく見ます。テレビを見るときの気分の高揚感は生活の花です。しかしながら、そんなテレビに対する昨今のネット上の評価はあまりよろしくありません。「テレビは見ない」「つまらない」「見たい番組が無い」「頭が悪くなる」・・・

このような評価に対して、インターネットの普及などのマルチメディア化によりテレビの重要性が低下したからという意見もあります。確かに過去のような黄金のテレビの時代の終焉したことは否定できません。これからは数多くあるメディアの一部として存続するしかないのでしょう。

しかしながら、その一方でテレビの今後の存在意義が中々示されないのも気になります。たまにあるとすれば、かつてのテレビの時代の再来を夢見る復古主義のようなものばかりが目立ちます。

 

私はこの事が気にかかりこの現象をどのように捉えるべきなのかを過去のテレビや海外のテレビと比較して調べてみました。すると今の日本のテレビの抱えている特徴がはっきり見えてきました。

 

【日本は地上波テレビ天国だ】

 

日本でテレビ放送を語る上で、一般人や業界人問わず、まず意識されるのは「地上波テレビ放送」です。地上波テレビは名前の通り、地上のテレビ塔から電波を発信して放送されるテレビ放送のことです。日本テレビやTBSなどの民放やNHKの総合とEテレは地上波(地デジ)です。

 

一方でBSやCS、ケーブルテレビといった地上波以外のテレビ放送は陰が薄い存在になっております。良くも悪くも、日本で単にテレビと言えばそれは地上波、すなわち地デジのことを指すのです。

 

このようなことになった理由は、国や放送業界が長年に渡り地上波放送中心の政策をとってきたことにあります。

 

日本では1950年代に世界でも早く、テレビ放送やテレビビジネスが興りました。もちろんこの当時のテレビ放送は地上波(アナログ)のみです。1960年代になるとそれはより成熟し、全国各地でテレビが見れるようになりました。それと同時に当時の政府はテレビを重要なインフラと考え、テレビ産業の推進とサービスの充実を促進しました。

これによって現在、日本のほとんどの地域でテレビが映り、民放も現在5系列存在しております。日本のテレビサービスはある意味完成形を保っていると思われます。

 

翻って世界の事情はどうでしょうか。

 

アメリカではテレビ業界に商業主義が古くより浸透しているので、地上波テレビ局が多数存在します。しかし国土が広大で人口密度が希薄な地域も多いことから国内にはその地上波テレビを直接受信できない地域が多く存在します。

そのためアメリカでは早い時期から難視聴対策のケーブルテレビが普及しておりました。アメリカでは日本以上にケーブルテレビは身近な存在だったのです。

そしてそのケーブルテレビは1970年代になるとCS放送を始め、後のBSも含め数百ものチャンネルの視聴を可能にしました。故にチャンネル間の競争も激しく日々切磋琢磨しております。

 

こうしたことからアメリカでは早くより地上波以外のテレビメディアも存在感を発揮し、その活力も今に至るまで衰えを見せないものとなっています。

 

ヨーロッパではヨーロッパ統合の進展により、新たなヨーロッパ市場向けの新しい衛星放送が参入し、既存の保守的な地上波放送の在り方を変えるほどになっています。

 

途上国においては、元々近年までテレビ放送やテレビビジネスが未発達だったのもあり、地上波よりも衛星放送が主流な国もあります。

 

こうしてみても日本の地上波テレビ中心主義は世界的に特異なものであるといえます。

 

【新陳代謝の少ない日本のテレビ】

 

地上波(地デジ)中心である日本のテレビ放送ですが、ここ20年近くの日本のテレビ業界は新陳代謝が滞ってると言えます。

 

その根拠は、今日まで日本の地上波テレビで消えたチャンネルが存在しないことと、21世紀に入り新たなチャンネルが開局していないことです。

1953年に日本初のテレビ放送が始まって以来、1999年に日本で一番新しい地上波テレビ局が開局するまでに129局の地上波テレビ局が開かれました。そのいずれも閉局にならずに今日まで存続しております。

 

21世紀になって地上波テレビ局が開局しなかったのは、長きにわたる経済停滞のほか、東京のキー局が自社の系列局の開局からBS・CS放送への参入に関心を移したことと、アナログテレビからデジタルテレビへの移行政策があります。

 

ただ、これらだけが日本のテレビの新陳代謝の無さの原因ではありません。なぜなら、上の要因は経済的状況以外は概ねどこの国も同じだからです。

 

諸外国ではこの状況下でもテレビ局の新陳代謝は進んでおります。

例えば、香港では2010年代にこれまで40年近くに渡り続いてきた民放2波による地上波寡占体制が崩れ、新規の3局が参入し、1局が廃局となり、新たに4局体制となりました。

元々2局で香港のテレビを寡占していた内の1局、亜洲テレビは長年視聴率の低迷や経営悪化が続いておりました。これにより放送局間の競争が無くなることが懸念され、香港政府当局が地上波テレビへの新規参入を認めたのです。

後に亜洲テレビは経営が改善せず2016年に放送免許が失効し廃局しました。亜洲テレビの停波後空いたチャンネルは直ちにアナログ・デジタル共に新規局へ譲渡されました。

 

他にも東アジアでは、韓国と台湾で民主化を遂げた1990年代に民放テレビ局や全国ネットワークが新たに作られました。その中でも韓国はテレビ局の京仁放送が2004年に閉局しそれに代わって同じ地域で2008年にOBS京仁テレビが開局しました。

 

また、イギリスでは放送局の新陳代謝を目論んだ意図的な政策がとられたことがあります。

1991年にイギリスの民放テレビネットワークITVを管轄するITC(独立テレビ委員会)は、これまでITVネットワークを構築していた放送局の内、数局の放送免許を取り消しその分を新規参入局に付与する政策を実施しました。

 

これは、時のマーガレット・サッチャー政権がこれまで極めて保守的だったイギリスのテレビ界に商業主義を導入し、テレビビジネスの活性化を目指したものでした。

ITVネットワークは当時イギリスで唯一の民放テレビネットワークであり、ネットワーク各局はITC(1990年以前はIBA独立放送協会)から監督、免許の貸与などの管理を受け、厳しい制約の元で番組製作放送を行っていました。この保守的な状況を改めるために、ITCはネットワーク各局の「仕分け」を行いネットワークの新陳代謝を図ったのです。

その後ITVネットワークは新チャンネルを開設いたしました。ネットワーク各局もグループ化や統合、衛星放送への参入を行い、テレビビジネスの活性化やマルチメディア時代への対応は見事に成功しました。

 

さて、日本の地上波テレビではこのようなイノベーションは起きているでしょうか。

放送局の新規参入・撤退が必ずしもイノベーションに繋がるとは言えません。しかし、この地上波テレビの新陳代謝の無さはテレビの既得権益の現れであり、それが一種のテレビの旧態依然さを決定しているのではと思いました。

 

テレビはインフラですのでそのインフラを維持することは確かに大切です。しかし、そのインフラの更新が行われなければ、今度はインフラの存在意義への疑問が沸き上がります。

これは必ずしもテレビ業界だけの責任ではなく、国民全体が考える義務と権利があると思います。

 

【公共放送NHKは必要なのか】

 

前章では主に民放の話をしましたが、日本のテレビでもう一つ語るべきなのはNHKの話です。

NHKは国民から受信料を徴収してそれに元に放送を行う「公共放送」です。これはイギリスBBC等と同じ仕組みで、企業からスポンサーを募り放送を行う民放とは一線を画します。

 

なお「公共放送」と似たイメージの言葉で「国営放送」というものがあります。国営放送とは国民から集めた「税金」により、国庫により放送を行うものです。NHKは税金ではなく、国民から直接受け取る受信料による運営なので国営放送ではありません。

 

我が国はこの公共放送と多くの民間放送が共存する形になっております。この環境下でNHKが国民からの受信料負担で維持される理由とは何でしょうか。

 

その手がかりはNHKと同じく公共放送であるイギリスBBCイギリス放送協会にあると思われます。

BBCの歴代会長が1920年代の草創期より代々主張していた声明に次のようなものがあります。「我々には視聴者が欲しているものではなく、真に必要とするものを放送する使命がある。

 

これは初代会長のジョン・リースの頃から述べられ、1980年代までは歴代BBC会長はこのようなことを声明として述べていました。

これはプログラムの製作において視聴者の要求に答えるばかりではなく、健全な社会づくりにおいて必要なものを理解し作るという意志を表しています。

例えば教育番組はその一例です。教育番組は視聴者が自ら強く欲するものではなく視聴率も低いですが、公益の観点からは必要なものです。

 

このBBCのスタンスの重みはイギリス社会の特徴を見ると明らかです。イギリスは公私ともに階級社会であり、各社から発行される新聞も階級ごとにターゲットが異なります。しかしBBCの電波は階級を選びません。どの階級もBBCの放送を同じだけ視聴出来るのです。

BBCはイギリス初の放送業者であり、上の問題に初めて直面する立場でした。その為開局当初よりBBC階級を越えて社会全体にとっての利益を意識してプログラムを作ることが強く要求されたのです。また、当時勃興していた民主主義への熱い活力もそれを後押ししていったと思われます。

 

こうしたBBCのモデルは1920~30年代に開局した世界各国の放送局にも受け継がれました。NHKもその一つで1926年に日本初の放送業者として発足しました。受信料のシステムや総合チャンネル(一つのチャンネルで多種類の番組を流すプログラム形式。対義語は専門チャンネル)などBBCの作った雛型が至るところに見られます。そして、NHKのレゾンデートル(存在意味)もその一つといえます。

 

公共放送NHKは、視聴者やスポンサーに寄り添い耳を傾ける民間放送と一線を画し、国民からの受信料を元に日本社会を俯瞰し公益において真に必要とされる番組作りを行う役割を担っているのです。

 

近年でも「バリバラ」など、民間放送とは異なる視点から公益に叶う番組作りがなされています。また、各地で増加している災害に関する報道や情報提供には民放の比ではないほど力を入れております。日本の国技である相撲の中継も日本の伝統文化の保護という公益に応える動きともいえます。

 

こうしたことから公共放送は民放とはまた異なり、替えの効かない役割があるといえます。しかし、昨今ではNHKの解体を強く主張する政党が登場し、NHKの存在意義が政治の場においてこれまでにないほど強く問われております。また、テレビ保有者に対する強制的な受信料の徴収についても社会問題となっており、その是非が裁判で何度も争われてきました。また、NHK会長の公共性や中立性を疑われる発言も問題となりました。

 

NHKは日本唯一の公共放送ですが、その立場をNHKという組織が担うべきかという問いは絶えず行われています。その為、NHKには番組製作や組織運営において公共性を保ちつつ、その存在意義を絶えず確認し国民に宣言する努力がこれからも必要であると思います。

 

【日本のテレビには残ってて欲しい】

 

私は今まで日本のテレビの悪口を言いましたが、本音を言えばテレビには残って欲しいと思います。

 

テレビは僕たちに情報や娯楽はもちろん、「コミュニケーション」を提供してきました。テレビは誰もが同じときに見ることが出来るので、共通の話題となりやすいのです。

それはネット全盛時代の今でも変わりありません。テレビで「天空の城ラピュタ」が放送されたときのTwitter での「バルス祭り」はその最たる好例です。

 

それに現在YouTubeでは有名人や芸能人が配信することが増え、高い再生数や高評価などこれまでに無い盛り上がりがあります。これは出演されるご本人の実力もあるでしょうが、テレビ番組から引き続き制作に関わるスタッフの協力も欠かせません。これは「テレビの力」がYouTubeまでも席巻している現状を表しています。

 

このようにテレビの存在はネットにおいても発揮されております。これはテレビが実は秘めていた可能性を表していると思います。

ただ、その可能性を活かすにはこれまでに挙げたような問題があると思ったのです。

 

すぐにテレビ放送が全廃されることは無いでしょうが、いずれはテレビの存在意義が大きく問われる機会は訪れることでしょう。

 

【おしまいに】

 

私は少年時代から日本のテレビ文化に興味を持っていました。テレビを見ること自体好きで、昔の番組や他地域の放送をみる機会を経てテレビ放送の仕組み自体にも興味を抱いてきました。

 

といっても、私はテレビ業界とはほとんど関わりはありません。あくまで一視聴者の立場です。そのため、今日の記事の内容は本やネットで調べてまとめた「趣味」の域を出ません。

 

今後このような「趣味」的な記事を発表することがまたあるかもしれません。

 

本日は最後までありがとうございました。

 

2020年12月1日

 

 

罪を憎んで人を憎まず

こんにちは、ずばあんです。

 

世の中の格言に「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、この言葉について今日まで何度も何度も考えさせられました。

 

【人は本来憎み難いもの】

 

この言葉が思い浮かぶ場面といえば、人が何か悪いことをしたとき、あるいは事件の犯人が捕まったときでしょう。私はひどいことをされたり、あるいはそれを見聞きしているとしましょう。

その時私のなかで犯人に対して怒りや憎しみの念が起こりますが、同時に犯人は「自分と同じ」人間であることにも気付き不気味な気持ちにもなります。

 

自分もかつては犯人のように悪いことを考え時には行動に移したこともあるだろうに何故自分が犯人を裁けようか、と私は犯人に怒りを覚えながら気付くのです。

そして、自分に対して怒りの刃を突き立てているような気分になり、自分が惨めに思えるのです。

 

ここで犯人のことを、私とは違うひどい下劣で最悪の人生を送ってきた人間だ、と思うことも出来るでしょう。でも、これはあくまで事実ではない予測でしかなく、しかも人のことを勝手に無根拠に見下す思考です。もしこれを何度も続けたらこれは習い性になり、自分の性格は腐り果てることでしょう。

 

その為、犯人の人間性を憎むことは自分のプライドや性格を貶めることになるのです。

 

【やはり罪は野放しに出来ない】

 

しかし、犯人のことを無条件に許すのも間違いです。犯人のことを憎めない場合も同様です。いくら自分と同じ人間だからといって、やったことは悪質です。それを許すとゆくゆくは自分の中の倫理観も歪み自分もその犯人と同じことをしてしまいます。

 

特に身内の罪においては、どうしても意識的に割りきらなければいけない場面が出てきます。家族、友人、同級生・・・こんな人たちが罪を犯した時には、自分達も彼らに罪を償うように促す必要があります。

 

そのため犯人の悪行に対しては何かしらの罰や制裁を下そうと望む気持ちも必要なのです。もしそうでなければ、友情や愛情を人質に道徳、倫理を傷つけられることになりますし、人間性を歪ませる呪いになっていきます。

 

一方で、そんな悲劇のために自分の情緒や情念を憎むのもまた歪みです。正しい世界のためには自分は家族や友人関係は壊さなければならないという考えに至るのであれば逆にそれこそ危険です。

 

罪を憎む心と、人と安心して繋がれることは両立されるべきことだと考えます。だから犯人の人間性と罪を分ける考え方が必要なのです。

 

【ずばあんにとってのこの言葉の意義は?】

 

私は、この言葉は常に戒めとしなくてはならないと思っております。

 

私は元々、人間の人間性と功罪を同じものとして考えていました。素晴らしい行為をしている人の人間性はどんなに下劣でも肯定されるべきだし、逆に望まれざる行為をしている人の人間性はその人間性が素晴らしくとも否定されるべきと考えていました。

この考えは自分を長らく苦しめてきました。下劣な人間をいつまでも下劣だと思うのは自分の認識が「正しくない」からであるとすら思っていました。そのためそれを「是正」するように下劣さに自分を染めようとしたこともありました。

 

一方で、逆に下劣な人間の行為は全部間違っていて、人間性の優れている人の行為は全部正しいと思っていたこともありました。故に合理的な判断を欠いて人に迷惑をかけることもありましたし、人と摩擦を起こしたこともありました。場合によっては自分が落ちぶれる遠因になったこともありました。

 

この人間の人間性と功罪を混同する考えを改めた理由は次のようなものがあげられます。

 

①.中学時代に自分の善意が無下にされ、学校の荒れが進行し、自分も精神的に追い込まれたこと。

②.その後反動として偽悪的に振る舞いあらゆる人の反感を買い人間関係が破局的側面に陥りかけたこと。

③.上の①と②から人間不信が極まり何も出来なくなり事実上ドロップアウトしたこと。

 

この経緯から、私はこれまでの価値観を全部洗いざらい振り返り、その中で上の罪と人を同一視する考え方を反省し改めようと考えました。

 

この取り組みだけのお陰ではありませんが、私は前よりも合理的に判断できるようになりましたし、人との衝突はほとんど無くなりました。以前よりも不安のない穏やかな心を持てるようになったと思います。

 

【おしまいに】

 

この「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の私の中での意義は、今の時点では上の通りです。

 

正直この意義についてここに書くことには迷いがありました。客観的な定義のようにいつでもどこでも本当であるわけではなく、自分の人生の上でしか本当ではないものですから。だったら何のために人に見せるのだろうかと何度も悩みました。

ただ、このブログというのはそれが分からない物も含めて、人に対して「試しに」触れさせる場であるとも思いました。最初からそれが分かっている物だけを見せるならば、ブログ外のもっと格式高いところで見せればいいのですから。そのためこの言葉の私にとっての意義について今回このブログで見せることにしました。

 

しかし、今後またその意義は変わってくるかもしれません。それを完璧に予測することは難しいです。それでもその時その時の自分にとっての「本当」を尊重できたらと思います。

 

ここまでありがとうございました。

 

2020年11月21日

 

「毒親」とずばあん

 

こんにちは、ずばあんです。

 

先日はスーザン・フォワード氏の著書「毒となる親」の感想を記しましたが、今日はそこから派生した自分の考えを述べさせていただきます。

 

【毒となる人間関係の片隅に毒となる親がいる】

 

皆さまは誰もが何かしらの形で人間関係を意識されていると思われます。人間関係は素晴らしいものだとか、一方では面倒くさいものだとか、はたまた大事なことだとか様々な意見があるでしょう。

 

「毒となる親」ではそのような個々人の人間関係観は自身の家族内の関係から生み出されると述べられています。たとえば、暖かい家庭で育った子供は人間関係は本来は暖かいものだと認識します。一方で「毒親」のいるような歪んだ家庭で育った子供は人間関係の認識も歪み、健全な人間関係を築けなくなります。親との関係はいわば人間関係の教科書なのです。

 

前回の記事では、毒親というのが代々その家系の中で受け継がれてきたものであることと述べられました。しかもその毒は毒親から離れても消えないものであり、自分がその毒を自分の子に振りまき他人にも振りまいていきます。その結果似たような毒を持つ人間ばかりが集まり、自分の中の毒をより濃厚にしていくのです。

だから毒親から受けた毒から解放されるためには専門家によるケアやセラピーが必要なのです。

 

本では親という近い関係への言及にとどまっておりますが、私が思うにこれは自分の回りの人間関係の総刷新であると考えています。私のような日本人の人間関係は世界の中でも緊密な部類に入ります。そのため人間関係による人生への影響はより強く出ます。故に私たち日本人は人間関係の構築においてはなおのこと自分の利害を意識せざるを得ないのです。特に自分の家族、親との関係は一種の呪いのようなものなのは前述の通りです。

 

毒親の害は毒親自身が子供に直接不利益を与えるばかりではなく、子供自身が不利益な人間と関係を持ちつづけることにも及びます。

金銭的・精神的に搾取される関係、暴言暴力が常態化している関係、あるいは自分がそうしたことを他人に行う関係などです。

故に人間関係で長らく苦しい思いをしている人はまず親子関係の刷新から始めなくてはならないと思います。そしてそこから他人との関係の総刷新が始まるのです。

 

また、そこまで深刻な事態ではないにせよ、自分の希望する進路・人生を積極的に歩む上でも人間関係の刷新は必要です。

自分の進路・意志をサポートしてくれる人、賛同してくれる人と繋がるのは当然として、それを望まないことを希望する人とは疎遠にならざるを得ません。自分の進路について話の通じない人間と折衝するのはゆくゆくはマイナスになります。

人によってはここに恩情を大切にしろと言う人もいますが、そもそも利害関係にマイナスになるような恩情は恩情ではなく経済的DVです。もはや呪いや殺意です。

言わずもがな、親との関係も整理の対象となります。子供の自律を深刻に阻害する親子の関係は解消されなくてはなりません。もうこの時点で親では無いからです。

 

【毒になる神】

 

さて、「毒になる親」の第1章「『神様』のような親」の内容に移ります。

この章では、子供の権威となり子供を裁き操ろうとする親が描かれています。そしてその親はギリシャ神話の神々を例に説明されていましたが、私にはその説明が衝撃的でした。

 

その本によると、ギリシャ神話の神々は地上を見下ろし人間の所業に干渉し罰を与えていました。その罰を与える理由は気まぐれで非合理で正義もなく、人々はその神の怒り触れることを恐れながら生きていた、とのことです。

 

ものすごい散々な言われようです。フォワード氏は少なくともギリシャ神話の神を「神」として見ていないことがありありと分かります。「毒親」と同属のものとして見ているのは間違いないです。

 

私が思うに、毒になる親、毒になる人間関係の関係整理の果てにはこの「毒になる神」との関係見直しがあると思われます。「神」というのはこの世界や社会をどう理解するかの足掛かりなので、その大本となる親との関係の抜本的な変化は「神」との関係の刷新を引き起こすこととなるのです。

 

そのことは「毒になる親」の第9章「『毒になる親』を許す必要はない」のフォワード氏のエピソードでも語られています。

フォワード氏の患者に敬虔なクリスチャンの女性がいました。彼女は父親から性的暴行を受けた過去がありました。その後父は「反省」して謝罪し女性も「神様のお言葉に従い」父を許したとのことです。その為当初は彼女は診療中に父をかばう発言をしていました。

しかし、治療が進む毎に女性は父への怒りを吐露するようになり、遂には「神様は本当は私が救われることを望んでいる。」と述べたのです。

 

神様の言葉の意味というのは、自分の親や周りの人間との関係により変化してくると思います。そうしたものから「神様」は作られているのです。

 

だから、神様ありきの人生というのはその時点で毒になる親を、毒になる人間関係を招き、そしてその神様も毒になる神なのです。

その為私たちは単純に神様を恐れるばかりではなく、自分の人生の目的に叶うように神様を信仰する必要があるのです。私たちは有益な人間関係を築くのと同じように、有益な信仰をしていかなければならないのです。

 

 

【ずばあんの「毒親」】

 

私にとってこの「毒になる親」は親との関係にとどまらず、真に有益な人間関係とは何かを再確認するのにいい本だと思いました。

本の名前こそ「毒になる”親”」ですが、自分を一人の人間として育むのは本当の親ばかりではなく周りの人間一切だと思います。そう考えれば自分の周囲の人間関係はある意味「親」なのかもしれません。

 

その意味で私が今まで生きてきて一番の「毒親」は中学校だったと思います。私の通っていた中学校はある事情により荒れており、校内ではいじめや授業妨害、器物破損などは日常茶飯事でした。

こんな環境なので学校内の雰囲気は殺伐としており、不良に染まる風潮や圧力が強く、不良と教員との衝突はしばしば起こっておりました。全校集会では、そうしたことについて生活指導の先生から連帯責任で叱責を受けることは少なからずありました。

自分もこのような学校の被害に遇いましたがその記述は長くなるので省かせていただきます。とにかく全方向地獄という印象でした。

結局私の通っていた3年間上の状態は続き、事態が正常化したのは私の卒業後更に3年近くかかりました。

 

このような学校の存在の意義については様々な意見があります。とにかく害悪であるという考えもあれば、人間社会の縮図としていい機会だという意見もあります。

 

私の意見を述べますと、このような学校は少なくとも私の前では学校を名乗らないでいただきたいというのが正直な感想です。この程度のレベルの組織を学校と呼ぶと、私の社会生活上大きな支障が出るので私個人はこれを学校とは思っていません。

仮に何かこのような組織を肯定するのなら、それは踏み台程度の価値しかないのです。将来自分が窮地に追い込まれた時のための練習台がやっとなのです。それ以上の価値を求めると自ずとこのような組織は毒となります。道徳・倫理の著しく欠如した組織はその認識の方が有益なのではないのでしょうか。

 

そのような公立中学校に押し込められ、名誉と人間性を貶された身としては、反省と今後の成長のためにこの「毒親」たる組織から正しく離乳していきたいと思います。

 

【「殺意」から自分を守る】

 

「毒になる親」では毒親の子どもの自律か唱えられていました。そのためのガイドラインも丁寧に示されておりました。しかし、その自律とは何のことで、自律したあとの人生とはどんなものなのでしょうか。

 

中々難しい質問ですが、私は自律とは「殺意」から自分を守れるようになることであると考えます。

「殺意」とは生命を奪おうとする意志のことです。その方法には直接殺人を犯そうとするものもありますが、精神的にダメージを与え自殺を誘発させるもの、経済的にダメージを与えるもの、コミュニティから不当に追い出そうとするものもあります。

 

こうした殺意が自分自身に向けられたときに自分の身を守ろうと思い、行動をとれること、それが自律だと考えています。

 

なお世の中には自分自身の自律の邪魔をしてくる人間や思想、組織、制度などが溢れています。人間、非人間を問わず、自分の回りには「殺意」が横溢しているのです。「毒親」ももちろんその殺意に含まれます。

 

一方で自分の自律を助けてくれる、支持してくれる人や物がいるのも事実です。自分が自律するには、そうした人々を味方につけ前述の殺意と戦えるようにすることも必要なのです。何もしないままだと、そのまま殺意に飲まれてしまいます。

 

これは社会性にも通ずる話です。人々はよんどころのない事情のもとで異なる利害関係のもとで自分の生命を守りながら生活しています。主婦か、独身会社員か、学生か、老齢年金暮らしか・・・実に多種多様です。

それを無視し、自分の特殊な考えを人の迷惑も考えずに押し付けることは、反社会的な行為として捉えられます。あるいは殺意とみなされてもおかしくはないでしょう。社会で共存することはそうした殺意をどこまで小さく出来るかという努力に関わってくるのです。

 

そうした意味では「毒親」は親ではないのです。親子の関係の元で殺意が増大する時点で親子関係ではないのです。話して正常化出来るレベルならまだ救いはありますが、それすら望めないならばこれまでの親子関係は否定した方がいいと思います。

 

【おしまいに】

 

人間関係というのは幸せの揺りかごとなる場合もあれば、転じて呪いとなる場合もあります。近しい関係であればあるほどそれは強くなります。特に子供の時のそれは、まだ知識や行動力や権利が乏しいゆえに避けがたいものとなります。

 

そんなものを自分の選択とも呼びたくないですし、一生に渡って責任も持ちたくありません。このため、せめての後始末としてこの呪いからは脱け出して楽になりたいと思っています。

 

正直いうと、この不可解な呪いから脱け出せなかったら放埒な生き方をして果てようと思ったこともありました。しかし、その呪いから解けるみそぎのために生きれる道が分かってからはしっかり生きようと思えるようになりました。

 

とりとめもない感想でしたが、この記事は以上です。

 

2020年11月10日

 

 

「正しい人の見下し方」

こんにちは。ずばあんです。 

 

今日は「人を見下す」ことについての話をしたいと思います。

 

【「正しく」人を見下す】

 

「正しく人を見下す」このようなことを述べたのは実業家でユーチューバー?の岡田斗司夫さんです。

 

岡田さんはユーチューブやニコニコ動画で映画やアニメ、小説などのサブカル作品の解説や人生相談を軽快な口調で語っておられます。長年に渡り配信され続けた動画の中に、「正しい人の見下し方」というものがあります。

 

こちらは2011年のニコニコ動画での生放送の一部分を抜き出したものですが、これは視聴者からの質問に岡田さんが答えるものでした。質問のひとつに「つい人を見下してしまうのでなんとかしたい。」というものがありました。

 

これに対して岡田さんは、「人を見下す癖はどうやっても治らない。だから、悪い見下し方から正しい見下し方に改める必要がある。ダメな人間を見たときにこき下ろすのではなく、優秀な自分が何かやるべきだったんだ、と思うように。だから、人を見下すプライドの高さを社会貢献へのモチベーションに変えていこう。」という旨をおっしゃっていました。

 

私はこの内容に大いに歓心しました。発想の奇抜さと明快な解決策はもちろんですが、通常なかなかまともに答えを貰えない質問に真面目に答えたという点も評価点でした。

 

常識的に考えて人を見下すことは悪と考えられています。その態度は人から嫌われて当たり前ですし、後から何かしらの悪影響が出てきます。だからその姿勢は改めなくてはなりません。

 

しかし、それが上手くいかずちぐはぐになっている例もあります。

私がある学校で見た教員の人で、プライドが高くコンプレックスも強い方がいました。プライドの高さを恥じているのか、それを誤魔化そうとしていましたが、明らかに人を見下しておりました。そんな人が「プライドを捨てた方がいい」と仰っていましたが、説得力はありませんでした。その方は努力したのでしょうが、全然その効果はうかがい知れませんでした。

 

正直この方のその態度は極めて不愉快でした。綺麗事を言っていれば、自分の悪いところを許してもらえるという卑怯さや甘えが滲み出てて腹立ちました。ただ、それで怒ることも客観的にみたらその教員と同族なのかもしれないと思い、語ることすらも長年躊躇われました。

 

こうした理由から、私は人間のプライドの高さというものは「業」や「宿命」であるという考えが根強いです。(この思想も私の人を見下す性を表していますね)

 

岡田さんの「正しい人の見下し方」はそんな閉塞感に光を当てるものでした。論の明快さはもちろんのこと、説得力がありました。

岡田さんは普段から自信満々で歯に衣着せぬ発言から明らかに「人を見下し」ている方です。ですが、そこには人を楽しませる面白みがありご本人もそれを意識されておられます。人を見下すのがダメなのではなく、見下し方を改めるというのは新しい考え方だと思われます。

 

【「正しい見下し方」の欠点】

 

さて、この正しい人の見下し方はいい面はもちろんございますが、同時に欠点もございます。(「人を見下す時点でダメだ」は抜きです。)

 

まずいい面を取り上げます。

先ほど述べたように他人に対して施しを与えるモチベーションとなる時点で、人との関わりでプラス点を上げることとなります。しかも自分の性格をほとんど変えずに行えるので、自分の個性を損なうのを少なくしている点で素晴らしいです。

もし性格自体を改めるならば、多大なる時間と労力がかかり、失敗のリスクも大きいです。そのため、この「正しく見下す」方法はコスパがよく、成果がすぐに分かる点で扱いやすい方法であると言えます。

 

一方で、この「正しく見下す方法」は次の欠点もあります。

それは損切りが難しくなることです。

この方法は人を見下す性格を他人への奉仕という方向に振り向けるというものです。しかし、自分のキャパシティを越えた事態において本来は戦略的撤退するべきところを、自分で問題を丸抱えしてしまい、破綻する可能性があります。特に人間関係においては、相手と不和が起きたときに自分が何とかして関係を正常化しようと無理をして、関係悪化を招くことがあります。

 

そのため、「正しい人の見下し方」というのはこうした欠点に立ち会って、自分がこれを乗り越えられるか否かで採用の是非を考えた方がいいでしょう。

 

【人を見下してはいけないので・・・】

 

この「正しい見下し方」は、「人を見下してはいけない」という常識に対して具体的な答えを出すことが難しいことを浮き彫りにしたと私は思います。

 

人を見下す態度を露骨に出すことはもちろんアウトです。しかし、それに対して何を改めればいいのか、どうすれば改められるのかは語られることは少ないです。

 

先述の教師の態度も努力が空回りしてるのか、そもそも開き直ってるのか分かりませんが、少なくとも問題は何ら解決できていないのは明白でした。

 

また、人に対して何か施す行為も「人を見下している」ととることも出来ますし、本当に悪いことをしている人を注意することすらも人を見下すととられることもあるのです。もしこれも「改める」のであれば、「人を見下さない」為に多大なる損害を出すこととなります。

 

私が思うにこの問題は、「人を見下すことが悪」という素性の問題ではなく、「人を見下すことで不愉快にする」というコミュニケーションの問題であると思います。

 

岡田さんに質問を寄せた方は自分の人を見下すという「素性」を改めようと考えていたのですが、岡田さんはそれをコミュニケーションの問題に置き換えて考えていらっしゃいました。その上で岡田さんは「正しい人の見下し方」を述べられたのです。

 

ただ、この「正しい人の見下し方」は残念ながら先ほどのデメリットもあるので、厳密に言えば「正しく」は無いのだと思います。もしかすると人を露骨に見下して生きる暮らしが「正しい」のかもしれません。結局は人によるのだと思います。

 

その生き方で得るべきものと失うべきものを自分自身が引き受けられることが大切なのでしょう。もし自分の人生を責任もってしっかり全うするのなら、某有名落語家のように「芸人100点人間0点」でも別に構わないのかもしれません。

 

【最後に】

 

「人を見下す」のを改めるのは難しいですね。努力するのはともかく、ゴール設定を自分でしないといけないのも難しさに輪をかけています。

私はここで「正しい」人の見下し方を採用するべきとか、人を見下すのはやめろとかは言いません。自分の納得のいく道を、自分が責任を持てる道を歩みましょう。客観的に見たら下らなくとも、皆様自信にとって璧となる人生を選びとりましょう。

 

それではまた!

 

2020年11月5日

 

 

 

 

 

 

スーザン・フォワードの「毒になる親」

こんにちは、ずばあんです。

 

今日はネット上で有名になったある言葉に関する本の感想です。

 

【「毒親」ってなに?】

 

さてSNS上で有名な言葉のひとつで、子供にとって毒になる親という意味の、「毒親」という言葉がございます。毒親は自分の子供の健全な成長に対して害となる行動をとる親を指しますが、そのパターンは様々です。

 

家庭トラブルに関する記事を多数扱うまとめサイトを見てみますと、子離れできず子供に過干渉する親、兄弟姉妹間で差別する親、暴力・暴言を振るう親、育児放棄する親・・・など多種多様なパターンがあります。

ですが、総じて子供の今後の成長にマイナスの結果をもたらす行動をとることには間違いありません。

 

このような毒親ですが、この言葉がある著書から来ていることも有名です。それはアメリカの臨床心理学者のスーザン・フォワード氏の「毒になる親(Toxic Parents)」(1989, 訳:玉置 悟)です。この「毒になる親」を縮めて「毒親」と呼んでいます。

 

この「毒になる親」は、上のまとめサイトで扱われる「毒親」の特徴を正確に扱っており、その毒親による子への影響と、その影響からの脱し方を記しています。

 

【著書「毒になる親」の内容】

 

著書「毒になる親」は大きく分けて2つの部分で構成されています。まず前半部分では「毒になる親」とはどんな親のことを指すかを具体例と合わせて詳しく説明しています。後半では「毒になる親」により子供にどんな害があるか、そしてどのようにしたらその害から子供が脱け出せるかのガイドラインを示しています。

 

「はじめに」では子供に成人以後にも及ぶ悪影響を与える親を「毒になる親」と説明しています。

前半(第1章~第8章)では、「毒になる親」のパターンとして、神のように振る舞う親、義務を果たさない親、過干渉する親、アルコール中毒の親、暴言・暴力を行使する親、性的虐待をする親を示し、そうした親が生まれる原因として家系全体でその気質が継承されていることを明かしています。

後半(第9章~第15章)では、毒になる親による子への悪影響を確認し、そのような親を許すことは必要ないと説明します。続いて毒親の子がたどるべき道として、自分の本当の気持ちを確認し、その気持ちを発散して、親と対峙しつつ親との関係性の整理をつけるというガイドラインを示しております。それからそのガイドラインを実施する方法としての集団療法や個人面談などのセラピーを詳しく説明します。そして〆として自分が毒親にならないようにするべきことを説明しております。

エピローグでは毒親の子供がはまりやすい負の努力からの解脱を改めて説きます。訳者あとがきでは日本での毒親の実情(1998年当時)について述べられています。

 

著書の内容は以上です。

 

私がこの本で印象に残ったのは、毒になる親に対する子供の反応についての記述です。

子供の反応には親に従順になるか、親に反発するかの二通りの反応があり、後者は自分の意思で主体的に動いているつもりが逆に自主性を損ねた不幸な道を歩むことになると述べられていました。それにともない他者との人間関係も歪んだものになる恐れが強いと指摘されていました。

 

この部分は私がまとめサイトの記事で読んだ、「毒親」の影響で苦しむ子供の嵌っている語られざる罠を表していると思います。

親の意思とは真逆の行動をとることで自主性を得られるという誤解はかつて自分の中にもありました。自主性というのは親からの干渉を受けずに自分の本心から行動を選択することを指します。そのため、親の意思と一致するかしないかは自主性の有無に関わりません。

 

【「毒になる親」の感想】

 

最初から最後まで読んでみて、いわゆる毒親の子供のたどるべき道は親子関係の回復ではなく、子供の正しい自律を促すことだと強調されていました。

もちろん関係回復を全否定している訳ではありません。ただそれは子供の自律を尊重した上でのシナリオであり、それがないならば回復よりも疎遠が望ましいです。この本ではフォワード氏の臨床経験が多く語られ、そのなかで関係回復を諦めた例が沢山記されています。過去の虐待を反省したことについて子供に許しを強要する親の例がそれです。

 

私自身の考えとして、親が親として全うな行動と結果責任(著書のなかで詳しく述べられています)を果たしているならば、その親子関係は維持されるべきと考えています。

しかし、それらを果たさない内に自分の親の地位を無理矢理承認してもらおうとする人間は、親失格であるとも考えます。そんな親はいない方がましですし、彼らに最大限望まれることはこれまでの親子関係が偽者であることを認めることです。(それが出来るだけでも毒親の中ではかなり救いのある方でしょうが)

 

また、子供に対して悪影響を与える親の振る舞いが案外と広いことや、それをどうやっても言い訳出来ないというエグさも伝わってきました。

性的暴行やアルコール中毒、暴言暴行などはともかく、過干渉や絶対者としての振る舞いも毒親として認められるパターンは意外だと思われる方もいらっしゃるでしょう。

ですが、親というのが子供の将来に大きな影響を与える立場である以上、そのような責任追求や事後処理は不可避となります。

私はよくネットで「衝撃体験アンビリバボー」や「修羅場まとめ速報」などの家庭内トラブルに関わるまとめサイトを閲覧します。その中の記事で親が過去の毒親としての行いを反省したり弁解する素振りを見せながらも、それを子である報告主が一蹴するというものが数多く見られます。

正直親にとっては悪意のない場合があるので残酷かもしれませんが、結果に責任を持つという人間関係の基本を考えれば、ある意味礼儀に習った人道的な行為であるとも考えられます。

 

一方でこの「毒になる親」は本来はアメリカの家庭を想定して書いていることも留意しなくてはならないとも思いました。

アメリカは日本と異なり、子供が成人すると親とは別居するのが昔から当たり前ですし、子育てや家事においてベビーシッターや家政婦を雇うのはおかしな話ではありません。わが国とは家族観や育児観が異なるのです。

また、日本人には日本特有の気候風土により生じた「甘え」という気質があります。日本人は古来からそれを自覚し言語や文化にそれらを反映させてきました。一方でアメリカ人には開拓時代からのフロンティア精神から始まる高い自律意識や、個性の尊重、実用主義が根強く、社会道徳や制度にもそれらが反映されています。

このような日本とアメリカの気質の差は家庭の理念の違いに出てきます。当然ながら日本の「いえ」はアメリカの「ホーム」に比べて親密で粘着的で、それが機能不全になったり崩壊するインパクトはより大きいです。

実は私は「毒になる親」の第2部を読んで晴れ晴れとした気分になる一方で、違和感も感じました。それは毒親を棄てて真の自律を獲得する過程で、(少なくとも普通の日本人が思い当たる程度の)家族を喪失する影響が描かれていないことです。一見すると都合が悪いから書かなかったのかと私は思いました。しかしそうではなくそもそも「彼ら」はそんな「余計なこと」は気にしないのだと気付かされました。アメリカ人は家族の外でも多種多様なコミュニティに属し、その中でメンバーとフレンドリーに接します。そのためアメリカ人は家族の外で孤立する心配は少ないのです。

 

またこの本を読んだ気付きとして、散々毒親の犠牲者を扱っているにもかかわらず、現在進行形で毒親に苦しむ未成年の話はほとんど出てきません。

それは未成年を見放しているのではなく、むしろそちらを構うのは当たり前として考えた上で、忘れられがちな成年後(中高年も含む)も毒親に苦しむ人へ積極的にフォーカスを当てたいという著者の意思の現れであると私は思いました。

この「毒になる親」は虐待などの悪影響が成年後も収まることなく続くという、忘れられがちな問題の存在から始まっています。

 

特に毒になる親を産み出す家系の呪いは注目されるべき問題です。これは環境汚染や放射能問題のごとく、一度始まれば積極的に手入れをしなくてはいつまでも続く問題なのです。そしてその手入れをすべきなのは、その家系に入る自分自身の人生なのです。

 

【おしまいに】

 

この著作の感想はこれで終わりですが、本当はこの本を読んで思ったことはこれ以外にも多くありました。

親との関係は人間関係全体でどう位置づけられるのか。周囲の人間関係の変化は親との関係をどう変容させるのか。周囲の人間はそれに対しどんな責任があるのか。そして、自分自身はそんな人たちとどう接するべきなのか・・・

しかしながら、これは著作の感想の域を越えておりますので、後日別の記事としてまとめたいと考えております。

 

この「毒になる親」は毒親というネットスラングになる程、現在の私たちの価値観に影響を与えております。この本を知らなかった人にとってもこの本の内容は他人事ではありません。

自分の親が毒親か否か、もしくは自分がそうなるか否かを問わず、これからの人生において無視してはいけないことが沢山書かれている気がしました。

 

こちらの本は全部で300ページ強となっております。

皆さまにとってこの「毒になる親」がどのような価値を持つかは、各自読まれた上でご判断されてください。

 

それではまた!

 

2020年10月25日

中島敦の「山月記」

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は中島敦さんの「山月記」の感想を述べます。

 

【10年前の感想】

 

山月記の内容は青空文庫でも出ておりますので説明は簡素に済ませます。

中国の官僚・李徴は秀才ながらもプライドが高く詩家の道を目指そうとしますが、生活に困窮します。家族の為に再び官僚になりますが出世した同期の下で働く現実に自尊心は傷付き、ある時出張先で発狂し山へ入りそのまま虎になります。

 

私はこれを高校2年生の国語の時間で初めて読みました。これを読んだときは李徴のような人間になりたくないと思いましたが、うっすらと自分のなかの李徴、もしくは虎を自覚しました。そのため李徴のような人間になるまいと辛いことから逃げずにひたすら前を進んで立ち向かおうと思いました。

 

その後私は李徴と同じ轍を踏むような経験をいくつかしました。夢だけは大きいのにそれに見合った努力を出来ず、中途半端になることばかり、そしてそれを恥じることもしないという醜態を晒していました。山月記を読んだときに私は自分の中の虎を反省出来なかったのです。その一方で李徴の姿を見て、彼のような業からどのようにすれば抜け出せるのか上手くイメージが沸かなかったのも事実です。一度はまったら、反省程度では脱け出せない様な気味の悪い業を李徴に、そして私自身にも感じました。

 

このような今の私ですが、この私がまた山月記を読んで、10年前とはまた違った感想を抱きましたので、以下それについて語らせていただきます。

 

【今の感想】

 

李徴はになりましたが、私はそれを忌むべきものとして考えていました。人間だった頃の李徴はまだ引き返す機会を神様から与えられていたものの、遂にモラトリアムは終了し罰として虎の姿に貶められてしまったと思っていました。

しかし、今はこの李徴は物語の最初から虎になるまで全部李徴であり、変身などなかったと思います。同時に、李微が自分の生涯を反省している部分は山月記のストーリー内には未だ無いとも感じました。

李徴は自身の性格を「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」と表現し自分の至らなさを回顧しておりました。その一方で変な理想に未だ固執しており、そのギャップに未だ悩む姿もありました。そして何よりも自身の「虎」の姿を卑しく思っておりました。その時点で李徴はまだ反省できておらず、自分の中の虎を飼い慣らせていないのです。

 

それではなぜ李徴は自分の中の虎を飼い慣らせていないのでしょうか。それはありのままの李徴自身、すなわち虎を愛せてないからです。

虎は獰猛で暴力的な獣としての側面がある一方で、威厳を持ち貫禄を持つ余裕のある強者という側面もあります。決して卑しいだけの存在ではなく、正しい方向へ磨けば光る存在でもあるのです。

李徴は他人と交わらない、自分の心の痛みに誰も気付いてくれないと書かれていましたが実際には自分自身とすら交われていないのです。現実の自分を受容できず蔑み、それを否定するように詩作の道に至り、その一方で自分の中の虎の世話を怠り虎の暴走を招いたのが今の結果なのです。

山月記は李徴がこのまま完全に虎になる末路を匂わせて終わっています。ですがもし仮に李徴が人間の姿に戻れるとすれば、詩歌の道とは異なる、自分の中の虎を癒ししつける道にあると思います。

 

このような感想は、私が自分の中の「虎」の正体が何であり、その虎をどう理解し扱うかを見つけていった経験から記しております。私を含めて人々は、外面や対面を強く意識しすぎて自分の内面を置き去りにしがちです。その中で無視された内面は、徐々に荒れ果て傷付き怒り、遂には押さえのきかない虎のように暴れ狂うのです。

そのため、ありのままの自分を忘れない様に日々の習慣の中で自分を見つめる、自分を育てる営みが必要なのです。その虎を殺すことは出来ないのですから。

 

 

【おしまいに】

 

私の感想は以上でした。

 

実はこの記事を書く前に、他の方の山月記の感想を拝見させて頂きました。色んな観点からさまざまな感想がございました。

その中でも面白いと思った感想は「現代社会は虎が沢山いるので、自分も虎にならざるをえない」というものです。この感想は私も共感いたしました。もしここで虎をやめたら自分は死ぬかもしれないという危機感の中で虎にならざるをえない現代人の立場をよく捉えている意見です。だからこそその虎を自分で育て磨くことが大事なのでしょうね。

 

他にも面白い感想は沢山ございましたのでそちらも是非ご覧ください。

 

それではまたいつか!

 

 

2020年10月8日

この世は「物語」で出来ている!

こんにちは、ずはあんです。

 

皆さまは今幸せですか?それとも何かお悩みを抱えていらっしゃいますか?

 

くどい質問でしたが、皆さまは自らが幸福になるために日々努力していることでしょう。

ただその日常にすら疲れ、幸福になるための人生が不幸を招いていることもあるかもしれません。

 

これからする話はそのような方々の気分をリフレッシュさせるための話です。

 

〈成功譚や失敗譚はうそである〉

 

のっけから強烈なサブタイトルですが、本編は緩く進めるつもりですのでご安心下さい。

 

私たちは日頃から成功者の話や失敗した人の話を沢山聞いている筈です。例えばNHKの「プロジェクトX」や「プロフェッショナル」では成功を収めた人のそこまでの苦難や努力が語られます。マツダロータリーエンジンの開発のエピソードは印象的でした。

逆に失敗した人の悲劇もよく聞きます。1985年の日航機墜落事故では小さな欠陥が積もりに積もって起きたという経緯が明らかにされています。

 

このように成功者や失敗者のエピソードは分かりやすいものが沢山あります。でも自分の人生を振り替えるときに、そんな分かりやすいエピソードはあったでしょうか。

あるという人もいるでしょうが、無いという人は自分にはそんな輝かしい話はないとか、原因と結果が複雑で語れないという人が多いかもしれません。

私は正直にいうと無い方の人間です。先の成功者や失敗者とかの話と比べて、私の人生は雑多でカオスなこと限りありません。

 

ただそんな私の人生と、成功者や失敗者本人の人生は、さほど変わりなくカオスであったと思われます。現実には何が原因でそういう結果になったのか良く分からずに、取りあえず納得のいくストーリーを組み立てたと思われます。

 

なぜそう言えるかといいますと、人間は物事を物語という形式じゃないと認識出来ないからです。現実にはこの世界はカオスを極めているのですが、その世界の一部を切り取り分析し、その中で原因と結果を決め、理解しやすい物語を作っているのです。古くは神話の時代から始まり、世の中の自然・社会現象は擬人化された神の業の歴史として描かれ語られました。現在は科学が世界を語る有力な方法となっていますが、そこでも原因と結果のあるエピソードの形式で法則や現象が語られています。そうしたエピソードはこの世の真実や事実のありままを表しているのではなく、人間の認識を通じた仮の姿なのです。

 

先程の成功譚や失敗譚も仮の姿なので、実はこれらはある意味なのです。現実の彼らの生き様は思ったほど気持ち良くないですし、逆に辛すぎることもないと思われます。良くも悪くも平凡な私たちの感じていることとさほど変わらない人生なのでしょう。

 

〈嘘たる物語のもたらす不幸〉

 

私達は物語という嘘抜きには何かを解釈することができないので、この嘘を使わなくてはならないのです。

 

そしてそれ故にその物語に報われる人、裁かれる人の差が生まれます。

 

物語には宗教、政治思想、道徳倫理、方法論など沢山ありますが、どれもそれに則ることによる恵みと反することによる罰や裁きを説いています。

例えば努力をすれば報われるというのも、単純な物語です。ここでは努力をするものには幸せが訪れ、努力をしないものには不幸が訪れるという信賞必罰が説かれています。

 

その中でこの物語に納得できる人とできない人が生まれてきます。その様なときに前者が後者を裁くことがあります。上の話だと努力が足りない、それを努力とは言わない、努力の方向が間違っているなどいうのが裁きにあたります。

もしその物語に心の底から納得し、裁きを正当なものと思えるならば、特に問題はありません。一方でそうではなく、物語に共感が薄く裁きに疑問がある時は不協和音が発し、損害が出ることがあります。

努力の話に戻ると、報われない人には何か致命的な障害(金銭問題、人間関係、体質など)があるかも知れませんし、その障害が何か分からないこともあります。

それに対してそんな人間のことは知らないと言った時に、実は努力の報われない人にとっては実は上の話は本当に「嘘」だったという話になります。

 

このような物語の真偽は客観的に裁ききれるものではありません。ここでの真偽はあくまで自分の主観、具体的に言えば信頼関係の是非に近いです。自分が今抱えている問題を無きものに扱う時点で、その物語は自分にとっては嘘なのです。

いわばコミュニケーションを疎かにした物語は本当に嘘と見なされるという復讐を受けるのです。

 

〈自分の物語を描け!〉

 

自分を平気で裏切る物語の存在を説明いたしましたが、結局どうすればいいのでしょうか。

 

結論から言えば、そんな物語とは疎遠あるいは絶縁すればよいのです。もし自分に対して積極的にコミュニケーションを取ろうとするのならともかく、それ無しに自分を裁こうとする物語には、人間と同じような処遇をとればよいのです。

 

私は以前人間関係に関わる記事を書きましたが、それと根本的に同じです。物語を擬人化して、その中で親しくできそうな物を採用すればいいですし、そうでなければややドライなビジネスライクな繋がり方をすればよいのです。その幹となるのは自分自身です。自分の幸福に寄与するものを採用して、あとはそれ相応の上手いつきあい方をすればよいのです。

 

その後にやっていただきたいのは「自分の物語は自分で描く」ということです。数多くある物語のなかから自分の人間的成長に適した部分を採用して再構築・補完を行い、自らを育てるというものです。

正直言えばそれ無しに他人の物語を採用しても意味は無いと思われます。そのため、人に頼る前にまずは自分の今の状況や立場や性格などを考えた上で、その上で自分の利益にかなった自分の物語を決めた方がいいと思います。

 

例えば今回の新型コロナウイルス感染症の蔓延で不振となった産業で解雇・失業する人がいて、そんな人々に天罰だという意見がありました。

しかし解雇失業した当事者からしてみれば、そんな「嘘」は無でしかないのです。何ら心に響かない戯れ言として忘れられてしまうことなのです。それに仮にそんな天罰を下す存在がいたとしても、そんな存在とは絶縁すればいいのです。どのみち自分の利益にに結び付かないことは明白なので、それ相応の対応をすれば良いのです。

 

 

〈雑談です〉

 

本題はもうおしまいですが、この話に関連しましてドラマ「半沢直樹」の感想を話したいと思います。

 

ドラマ「半沢直樹」は工場主だった主人公の父が銀行の裏切りにより自害した所から始まります。そこから半沢は銀行への復讐心をバネに良い銀行員になり銀行を良くしたいと考え、都市銀行に入行し自分の筋を通しつつ出世を目指します。

その中で自分と相反する敵との戦いがこのドラマ(そして原作小説)のメインストーリーとなります。

 

このドラマはストーリーの分かりやすい描写が定評となっており、銀行内の内紛という堅い内容の割には、個々のキャラクターの個性やストーリーの高揚感はこの上無いほど際立っています。

主人公の半沢はもちろん、宿敵の大和田も独自の筋を持ち行動するキャラクターとして描かれています。他のキャラクターの人間ドラマもしっかり描かれています。

 

半沢は時には敵であった人間と共闘するも、自身の筋が揺らぐことはなく、9月20日の放送のエンドで箕部幹事長、中野渡頭取、大和田に「1000倍返し」をすることを宣告しました。(大和田が半沢を無理矢理土下座させようとするシーンも面白かったです。)

9月27日の放送では半沢は仲間や協力者の力を得て、更に頭取らの本意を受け、真の敵である箕部の不正を暴き、これまでの一連の不祥事にピリオドを打ちました。そして半沢は最後に大和田と対峙し、東京中央銀行で自分の筋を通していく決意を新たにして話の幕は落とされます。

このドラマは銀行を舞台とした物語の集合で見事にこのカオスな世の中を、そしてその中で自分の物語を強く持つ人間の生き様を表しています。

 

話題は変わりますが、以前宗教と神様の話をいたしました。この宗教と神様の話はそれこそ今回の物語の好例になります。

神様はいる/いない、あるいは神様を信じる/信じないに関わらず、その物語の真偽は自分の人生に聞く他ありません。

私には私なりの宗教観がありますし、それに則り平穏な生活を営んでおりますが、だからといって他人にその宗教観を適用することは出来ません。これは私の物語であり、他人にとっては嘘かもしれないからです。

 

例えば小説「沈黙」では、まさしく神も仏もない状況で苦しむ人が最終的にどのように神の物語を紡いだのかが描かれています。主人公のロドリゴは自分のために生き始めた時に自分に語りかける神を見たのです。これはロドリゴ自身の物語でありますので、他の信者にとっては嘘の話なのでしょうが、この嘘ほどロドリゴ自身にとって真実味のある話は無いでしょう。

 

こちらは仏教に関わる名言ですが、このような言葉があります。「念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる」。これは西元宗助さんのお言葉であります。この言葉は仏教の教えを自分が世のために施すための原動力とすることへの決意を表したものです。

ここでは念仏を唱えれば念仏の力で救われるとは言っていません。念仏は自分を奮い起たせるための言葉であり、自分を救うのはあくまで自分なのです。ここに他人の物語に頼りきり依存しようという意図はありません。自分の物語を強く持ち生きるための証として念仏を唱えるのです。

 

この小説「沈黙」と西元宗助氏の言葉は、宗教が自分にとって救いのある物語を自分で紡ぐ営みであることを述べているのです。

 

〈おしまいに〉

 

今日は嘘だらけの「物語」に満ちた世界で自分の為の「物語」を持つことをお伝えしました。

こういうと傲慢でしょうが、自分の物語を持つことが出来るのはまず自分自身のお陰です。この部分は他人には如何し難い所ですので自分の心に聞く他無いのです。

 

しかしながら、世の中には精神疾患などからこの物語を思うように作れない人もいます。

 

私自身もその物語を中々見つけられなかったので、それを作る難しさや困難さは分かります。私はそのような人々を見過ごすことが出来ないので、私の経験や知識でせめてその苦しみから抜け出せるお手伝いが出来ればと思います。

 

どうですか?こう言われると、他人の言う「嘘」なんて気にならなくなるなりませんか?

同じ嘘なら自分が得する嘘を信じませんか?

 

今日の記事は以上です。

ではまた今度!

 

2020年9月27日