ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

「風の谷のナウシカ」原作漫画を読んでみた

こんにちは、ずばあんです。

 

私はついこの前「風の谷のナウシカ」の原作漫画を読破致しました。全7巻です。

 

映画版のナウシカは有名ですが、それに宮崎駿氏による原作漫画が存在したことはご存じ無い方は多いと思われます。更に、存在を知っていても漫画をお読みになられていない方はもっと多いと思われます。

 

映画ナウシカは、この漫画を元に1984年に制作・上映されました。自然を愛するナウシカにより悲惨な世界に奇跡を起こすというストーリーは感動作となり、以降長きにわたり愛される宮崎駿監督らのジブリ映画の始まりとなりました。

 

しかし、この漫画は映画公開後も10年近くに渡り雑誌アニメージュで連載され続けました。その内容は映画ナウシカとは大きく異なります。

 

こうした映画ナウシカと漫画ナウシカの違いを比べつつ、この漫画の感想を述べていきます。

 

【漫画ナウシカ(前編) 〈映画の始まりから終わりまで〉】

 

この漫画ナウシカは、映画の原作になった事実から分かる通り、一巻から途中まではほぼ同一のエピソードをたどります。そこまでの流れは次の通りです。

 

・・・・・・1000年前、栄華を誇った高度産業文明は「火の7日間」により滅んだ。そして「大海嘯」で「腐海」が地上を覆い始めた。腐海は有毒の「瘴気」を発し人々は腐海を恐れた。その腐海には「」という生態系が生息している。

 

主人公ナウシカは村落・風の谷の首長の娘。生物を愛する優しい少女である。ある日、都市ペジテからの輸送船が風の谷付近に墜落し、ナウシカは船に乗っていた瀕死のペジテ王女ラステルから「秘石」を渡され兄に渡してほしいと託される。

やがてその情報を聞き付けた大国トルメキアの第4皇女・クシャナ らが風の谷を訪れる。クシャナ巨神兵を手に入れるためペジテの街を襲撃した後だった。ナウシカは兵団と戦闘になるも、剣士ユパの仲裁により停戦。

その後トルメキアはもう一つの大国・土鬼(ドルク)との戦闘のために盟約に基づき周辺部族へ出征をかける。ナウシカらもクシャナ隊へ参加。

いざ土鬼へ進むクシャナらの飛行艇は途中、ペジテ王子・アスベルの報復により襲撃される。アスベルは撃墜されるも、風の谷の飛行艇は戦闘のさなかクシャナ隊からはぐれる。

ナウシカは捜索に向かう途中、アスベルを発見し救助しようとするも2人は腐海の地下へと落ちる。そこでナウシカ腐海が空気や水を浄化するシステムであることを確認。

そしてナウシカはアスベルにラステルから託された秘石を返す。

2人は腐海を脱出すると土鬼のマニ族の旅団と邂逅し同行。ここでナウシカは族の僧正とテレパシーで心を交わす。その後捜索に来た風の谷の従者と合流。

その後ナウシカは土鬼の飛行甕が怪我した王蟲の子を提げているのを発見。王蟲の群れを誘導しトルメキア軍を壊滅させる目論見であった。ナウシカは飛行甕を落とし王蟲の子を酸の湖の中洲に落とす。

一方トルメキア軍は王蟲の群れに襲われ壊滅。クシャナ飛行艇で退却。

ナウシカ王蟲の子の介錯を躊躇い、王蟲の群れへ返すことを決意。クシャナ飛行艇へ向かい、飛行艇を中洲に着陸させ王蟲の子を乗せ群れへ返した。

すると王蟲らは触手でナウシカを囲み浮遊させる。それにマニ族の旅団も立ち会う。その姿は伝説の「金色の野に降り立つ青き衣を纏いし娘」の姿であった・・・・・・

 

 

ここまでが映画ナウシカの元となったエピソードです。

映画と全然違うじゃん!!と思われる方もいらっしゃるでしょう。最後似たようなシーンはありましたが、せいぜい見てくれ程度です。

 

ここまでで映画に出なかったのは、土鬼(ドルク)の存在です。土鬼はトルメキアとは敵国同士であり、ナウシカの漫画版ではこの2国間の戦いがひたすら描写されております。ナウシカらの風の谷やアスベルらのペジテはそれに巻き込まれる形となるのです。

映画では土鬼が出てこないために2国間の戦いは描写されず、その代わりにトルメキアの風の谷への侵略やその他非道な蛮行へと置き換えられています。王蟲の子への残虐な所業は土鬼からペジテの仕業へと変えられています。何か映画化にあたりトルメキアやペジテはとんでもない責任転嫁をされてる気がします。

 

また、漫画ではナウシカと僧正が出会うシーンでテレパシーの能力が明示されます。映画ではナウシカは蟲などの意思を感知する描写がされておりますが、漫画では能力者や蟲同士で台詞をやり取りしております。トルメキア(及び風の谷などの周縁)と土鬼は言語が異なりますが、言語を異にしていてもテレパシー会話は可能です。

 

ここまでの感想として、ナウシカクシャナもどちらも愛するものへの深い優しさがあることが印象的でした。

クシャナは映画では冷酷無血で感情の読めない将軍という印象が強いですが、漫画では兵士の命を気にかける描写が多くなっております。先のトルメキア軍への王蟲襲撃ではクシャナは陣地を去り際に犠牲になったトルメキア兵士に自分の長髪を断髪し捧げます。これはとても印象的なシーンでした。

 

また、ナウシカは風の谷の首長(の代理)として侵入者や敵対者に対して、威厳や畏怖を醸し出すような武人らしい態度を見せる側面もあります。これはクシャナの代王としての態度に近いものです。

 

このようにクシャナナウシカは社会的立場による態度と内心における他者への愛情の面で分身といえる程似通ったキャラクターをしているのです。

 

あと、ここで感動的なのが王蟲の暖かな優しさでした。王蟲たちは傷ついた王蟲の子を触手で癒し、一緒に帰ろうと言います。これは母親が幼児と家に一緒に帰る時の姿に近いです。大変暖かい涙ぐましいシーンでございます。

また、この直後には王蟲は「我々は南へ向かう。助けを求める者がいる」とナウシカに伝えます。これから王蟲は救済の旅に発つのです。これは我々が普段願う存在であり、それが目の前に現れたときの頼もしさはこの上ありません。

王蟲は人間の姿とはかけ離れた明らかに異形の生物ですが、その内面はどの人間よりも人格者であり、優しい生き物なのです。ナウシカ王蟲を愛するのにも納得がいきます。

 

 

【漫画ナウシカ(中編)〈悲惨な戦禍から世界の浄化まで〉】

 

さて映画の内容までの部分はここまででした。ここまでは2巻の前半部分までの内容です。漫画は全7巻なので実はあと話は11/14残っているのです。この中編では2巻の途中から5巻末まで述べます。

 

そして話は新たな方向へと向かっていき、内容はますますボリューミーになっていきます。できるだけ簡潔に説明します。

 

・・・・・・剣士ユパはアスベルと僧正らと共に蟲の人工培養施設を発見しそれを破壊。3人は土鬼への反逆者と見なされ、僧正は土鬼の神聖皇弟ミラルパと対峙し覚悟を決め惨殺される。

その後アスベルはユパに、ペジテの地下に埋まっていた巨神兵が「秘石」により蘇生しかけ、それがクシャナに知られ襲撃されたことを告げるそしてラステルの持ってた秘石はその起動装置の一部だと告げる。

 

一方でクシャナらは各地の惨状を目の当たりにしつつ自分の部下の部隊と合流し、土鬼軍の制圧を図る。

その中でナウシカは民間人捕虜の解放をクシャナに要請し、ナウシカが上の制圧作戦に参加することで受諾。この制圧作戦ではトルメキア・土鬼双方に多くの犠牲が出た。ナウシカも敵方の土鬼兵を倒し、味方の兵や馬も自分のために臥せる。直後にナウシカは単身で南へ向かう。

ナウシカと別れたクシャナ隊は第三皇帝の兄の拠点の奪取を図るも、道中で蟲の大群に襲われる。第三皇帝も蟲に襲われ死亡。クシャナ父と兄らにより廃人に追い込まれた自分の母を回顧し、自分の最期を覚悟し子守唄を歌う。

 

他方、土鬼のミラルパ皇弟は品種改良した粘菌を利用し瘴気を生物兵器として使用することを決意。これにより土鬼の国土荒廃は必至となった。土鬼の僧官チヤルカは国土荒廃を憂慮しミラルパを説得するも聞き入れられることはなかった。

 

その頃ユパらは腐海の中で「森の人」なる種族のセルムという人物に救われた。森の人は腐海や蟲と共生し、腐海のことを熟知している。ユパらは森の人の案内で腐海の外へ出た。

この頃風の谷の従者らは土鬼の飛行船が巨神兵を輸送するのを目撃、直後にユパらと落ち合う。

 

南へ向かったナウシカは石堂を発見。石堂にはチククという子供と土着宗教の老僧がいた。3人はテレパシーで対話し、老僧は一連の大海嘯と蟲の暴走は神罰と世界の浄化だと語り事切れる。王蟲などの生き物を愛するナウシカはこれに反発した。その直後ナウシカとチククは錯乱した蟲の大群を見つけ追う。その先には異質の瘴気を撒き散らす土鬼の船があった。

この時、土鬼の船では粘菌の暴走が起きていた。ミラルパを含め乗員は退避するもチヤルカだけは粘菌と共に自決しようとした。船内に侵入したナウシカは間一髪でチヤルカと脱出。その後土鬼の応援船がかけつけ、なおも暴走し続ける粘菌から逃れる。船内でナウシカはチヤルカに大海嘯の再来の予言を伝えた。そしてチヤルカらは土鬼の国民の救出へと向かった。

 

土鬼の王都シュワに帰還した皇弟ミラルパは肉体の衰弱が著しく緊急治療を受けるも、皇兄ナムリスにより暗殺される。ナムリスは非能力者だったがクローン技術で若い肉体を保っていた。ナムリスはクローンの兵士を引き連れトルメキア侵攻に向かう。

 

ユパらは各地を転々とし、蟲に襲われながらも生還したクシャナとクワトロに落ち合う。そしてクシャナとクワトロはユパ達と同行することになる。

その後ユパとクシャナらは土鬼に襲撃されたトルメキアの街に降り立ち、クローン兵と戦闘する。土鬼に優勢なこの戦いで風の谷の一向は退避、クシャナはナムリスらに捕縛されユパはナムリスらを追った。

ユパは皇兄ナムリスと邂逅し、ナムリスはミラルパと自身の政策について語る。その後ナムリスは目覚めたクシャナと対峙し彼女を自身の后として迎える意図を伝える。

 

難民となった土鬼国民のもとに救出のために降りたチヤルカらの船。この時王蟲の声を聴いたナウシカは単身で声の元へ向かう。王蟲は自身を屍とし粘菌の温床となろうとしていた。それは自身が粘菌と同化し憎しみや恐怖に支配された粘菌を慰めるためのものであった。やがてナウシカは自身も王蟲と共に粘菌と同化しようと考え、王蟲に飲み込まれる。この時チククはナウシカの消失を感知した・・・・・・

 

 

ここまでで話の性質が一気に変化します。当初は戦禍の残酷さが強調されていましたが、話が進むにつれ蟲や粘菌の暴走という大海嘯という出来事の解釈が問われてきました。大海嘯は天罰であり人類も含め全世界は浄化されるのであると。

この考えに生き物を愛するナウシカは反発するも、やがて彼女もその考え方に傾きつつあり、遂に自分の身を生け贄に捧げようと考えたのです。

ここでこの世界の生態系の本質やナウシカの行動原理が「生」から「死」を中心に語られるようになりました。2巻で王蟲の子の安楽死を断念し生きて王蟲たちに返したのとは対照的です。

 

また、土鬼の皇帝が出てきた辺りから高度なバイオテクノロジーの存在が伺い知れるようになります。クローン兵士や、延命医療、粘菌の品種改良・・・。ナムリスの発言により200年以上前からその技術は存在したことがわかります。映画ナウシカでもトルメキアにより巨神兵が使用されました(すぐに溶けましたが)がそれよりも完成された技術のようです。この辺りから土鬼の国家機密に近い扱いであろう高度バイオテクノロジーや、その他のハイテクの臭いが強くなってきました。

そして、その技術に対するナムリス・ミラルパ神聖皇帝兄弟での考え方の違いも明らかになりました。ナムリスは自身もクローン技術で延命していることからバイオテクノロジーの積極的活用に賛成の立場です。

片やミラルパはバイオテクノロジーの利用には実は慎重であり、その技術の多くは王宮内で秘匿してきました。 クローン技術で延命した父の死のトラウマから、本来の肉体を維持することに固執しました。同時に宗教政策に力を入れ僧会の人員を増やし国家宗教を広め、マニ族僧正の粛清のように各地の土着宗教への弾圧を強めたのです。

 

さらに、「森の人」という新たな存在が出てきました。森の人は腐海の中で生活し、蟲たちとも共生して生きている民族です。それはある意味ナウシカに近い存在だといえます。

森の人が普段外部の人間と接触することは少なく、世界中を旅するユパさえも3巻で初めて対面します。森の人と対峙したトルメキア兵士が畏れ多い素振りを示し退散する描写も見られます。

この森の人は普段は蟲の腸から作った武骨な防護服で身を包み活動しますが、それを外した時の姿は美男美女として描写されております。ナウシカも美女として描写されており、森の人はそれと同等の扱いを受けております。これはナウシカの「筋」を代弁している立場と考えていいでしょう。

 

そして土鬼の僧官チヤルカが直面する立場も注目です。

チヤルカはミラルパ皇弟の下で、僧官として「僧会」の宗教で土鬼国民を統べる立場であります。故に土鬼国民にナウシカ及び「青き衣を纏いし天使」に対する帰依心が根付くことやマニ族僧正の僧会への反逆を懸念材料と考えていました。

一方で、国土を荒廃させ民に困窮を強いる瘴気作戦には終始疑問を抱いており、ミラルパに作戦決行の是非の再考を忠告する場面もありました。また、土鬼国民の僧会門徒の中に延命よりも臨終を望む者がいることを知った時にはショックを受け、僧会のこれまでの行いを懺悔する所もありました。

このようにチヤルカは単なる権威主義者ではなく、土鬼国民の幸福を考える善意に満ちた人物でもあるのです。そして、それゆえにナウシカともある程度被る部分もあるのです。

最後にチヤルカが国民の起死願望に愕然とすると同じときにナウシカは蟲と共に自己犠牲に身を投じことを企図するのです。これはある種強いメッセージかもしれません。

 

 

【漫画ナウシカ(後編)〈この世界の創造主あらわる!〉】

 

 

この後編は6巻から最終巻の7巻までを紹介します。遂にこの世界の真実が明らかになります。そしてナウシカとその他の人々はどの様な結末を迎えるのでしょうか。

 

・・・・・・消えたナウシカを探しに出たチククとチヤルカ。地上には蟲の亡骸と粘菌が覆い、そこに森が形成される。彼らの前にセルムら森の人が現れチヤルカらを案内する。森の中で彼らは眠ったままのナウシカを発見し引き連れ森を発つ。やがて彼らは皇兄ナムリスの旗艦を発見。だがナムリスは僧会の船団に武力行使する。チヤルカらは山頂に降り、チヤルカのみが土鬼の地に戻る。

 

この頃ナウシカは暗い「精神世界」をさまよっていた。するとナウシカを皇弟ミラルパの霊体が襲う。ミラルパはみすぼらしい老体を晒した。ナウシカはミラルパと共に暗い世界を歩く。

すると明るい森にたどり着き、そこでセルムと初対面。ナウシカはミラルパを引き連れセルムと森に入る。森の中は平和に満ち王蟲が元気に暮らしていた。ミラルパも笑顔を取り戻す。3人は更に奥へ行き世界を浄化しつくして石化した森があり、更に奥には甦った自然があった。そこでミラルパは満ちた心で成仏した。ナウシカはその精神世界から現実世界へ帰ってきた。そしてナウシカの下にナウシカを慕う者たちが集まる。

 

一方でトルメキアの国王ヴ王皇子兄弟に土鬼の首都シュワの攻略を命じ、自身も現地に赴く。

 

ナウシカは土鬼のトルメキア進攻を止めにチククと共に発つ。するとチヤルカがナムリスに粛清されかけていることを察知し救出へ。

ナウシカは土鬼の人々に戦争をやめ安住の地で落ち着くことを説く。ナムリスはクローン兵士でナウシカを襲う。ここでアスベルはナウシカに秘石を渡す。ナウシカはナムリスと対峙するが、直後に土鬼がトルメキアから奪った巨神兵が復活する巨神兵は秘石を持つナウシカ母親と認識する。巨神兵は暴走し、その巻き添えでナムリスは命尽きかける。ナムリスはクシャナに「墓所の主」なる存在を明かす。

 

ナウシカクシャナらに土鬼の王都シュワの墓所へ共に行くことを告げ、巨神兵は神々しい「毒の光」を放ち発つ。

やがて巨神兵は力尽きて地に伏せる。弱々しい巨神兵を見て愛慕の心の沸いたナウシカ巨神兵親子の誓いをし、巨神兵オーマの名を与えた。するとオーマは知能が発達し自らを調停者と名乗った。

この後巨神兵はトルメキア皇子兄弟の船団と対峙し、皇子らは巨神兵に従った。ナウシカは皇子にシュワ攻略を中止し引き返すことを伝えた。衰弱していたナウシカを皇子らは介抱し巨神兵もそれを受け入れた。そして巨神兵は自身を「裁定者」と名乗った。

 

その頃風の谷の従者とアスベルの飛行機はナウシカを追う蟲使いらと合流し、彼らを乗せる。

 

クシャナはナムリスの遺体を土鬼の民へと引き渡した。しかしこれまでの戦禍への怨念が各所で吹き出しマニ族の一部はトルメキアへの復讐計画を実行、クシャナの船内で爆弾を放つもユパはそれを止め左手を失う。その後ユパはクシャナを奇襲した土鬼の兵からクシャナを庇い刺され、マニ族僧正の姿を思わせながら息を引き取る

 

同じ頃ナウシカと旅してきたキツネリスのテトの命も絶えた。ナウシカはオーマを呼び、飛行艇からオーマに乗り移り皇子兄弟も同行した。

ナウシカは廃墟の街へ降り立つ。テトを葬った後ナウシカはエフタル族の男性に会う。オーマは再び倒れ、ナウシカはオーマを置いてエフタルの男の家に行く。ナウシカは手厚いもてなしを受け、優しい動物に囲まれるも記憶を失う。

しかしふと記憶を取り戻し、ナウシカはこの地の「聖域」に入る。するとそこにはクローン人間がいた。そしてこの地は外部からは廃墟に見えるようになっていた。一方で風の谷の従者と蟲使いの一団もそれに気付きかけていた。

 

するとナウシカはある女と出会った。その女は急に愛情溢れるナウシカの母親に化けナウシカも子供の姿になった。しかしこれはナウシカの欲望や心の闇につけこんだ幻覚であることにナウシカは気づく。

女はナウシカを案内し、かつて土鬼の初代神聖皇帝がここを訪れたことを明かす。そして土鬼皇帝一族とナウシカに共通する人間の業を説きこの地へ止まるように誘惑する。

ここでナウシカはセルムのことを念じるとセルムが精神世界に現れる。すると女はナウシカ達人類やその回りの「自然」が、汚染された世界でしか生存できないことを言う。対してナウシカそれらの生態系が人工物である説を述べる。セルムは生命が道具であったというナウシカの説に愕然する。ナウシカはその上で生命の偉大さを苦悩の深さだと述べ、シュワの墓所へ向かう決意をする。

 

ナウシカは改めて女に対峙し、なぜ核心の墓所にはナウシカ達に苦悩や絶望を与えるものしかないのかを問う。女は沈黙した。ナウシカ墓所へ旅立ちこの庭園を離れた。そして外に待機していた風の谷の従者と蟲使いと再会した。

ナウシカはオーマが王都シュワへ一人で行ったことを知り、彼らと共に王都へ向かった。

 

一方オーマは、王都に先行していたトルメキアのヴ王の兵団と裁定者として対面し攻撃していた。表れたヴ王墓所の攻略が平和に繋がり裁定者の役割だと説き、オーマと同行した。オーマは墓所に武力制圧を宣告するも、墓所とオーマで戦闘が勃発、オーマは重傷を負い倒れ伏せた。

 

王都の近くで死の灰が降る中、ナウシカは蟲使いらに腐海や蟲の世界浄化の事実を伝え希望を持って生きるべきと説いた。だがナウシカ達人間の絶滅の運命は隠した

 

生存していたヴ王は半壊した墓所へ。すると「博士」を名乗る教団が現れヴ王を迎えた。博士らは何百年も生存してきたらしい。

アスベルは墓所の破壊箇所から侵入。じきにナウシカらも正面から墓所へ入った。

なおこの時墓所は破壊箇所が自ずと塞がれようとしていた。墓所もまた一つのクリーチャーだったのだ。

 

ヴ王は「墓の主」に対面した。墓の主は肉塊に浮き出た文字だった。そして、ナウシカも同時にこれに対面した。この文字はかつての高度産業文明を伝えるもので「博士」らはその解読・研究を行うものであった。土鬼の高度なバイオテクノロジーもここから出ていたのだ。

 

すると「墓の主」は目覚め、ナウシカらに次のことを問いかける。

愚かに滅んだ旧人類は汚染された世界の浄化のために、世界の再建のために、ナウシカらの世界を作った。全ての文字が現れるとき再建の日が来る。どうか力を貸してほしい、と。

 

ナウシカはそれを一蹴した旧人類が今の自分達生き物を利用しようとしていることや墓所は予定に基づいてしか存在できないことを痛罵した。

 

すると墓の主がヴ王の道化に取りつき語りだした。存続の危機にあった旧人類はこの墓所を作り旧人類の墓碑銘とし同時に今の人類に未来に託したと。

ナウシカは墓の主を神の一人ととらえた上で、清浄と汚濁両方とも生命の本質だと分からない最も醜い存在だと非難した。

主はナウシカを淫らな闇であり人類を亡びにまかせようとしていると罵り、自分という光無しでは人類は滅ぶと呪いの言葉をかける。それに対しナウシカは、自分達は亡びと共に生きてきた、自分達の行く末は地球が決める、生命は闇から生まれる光だと反論した。

 

すると墓の主はナウシカらを敵とみなし殺そうとする。するとセルムがナウシカを守り、ナウシカはオーマに墓所の破壊を命じた。

オーマは墓所を破壊し墓所は崩れた。同時に再建後の人類の卵と「博士」らも墓所と共に滅した。

 

ナウシカはオーマの最期を看取り、外に出てきた。その時のナウシカの姿は(墓所の体液で染まった)青色であった。これこそが「金色の野に降り立つ青き衣を纏いし娘」の姿なのだ。

そしてナウシカはこう思う

・・・生きねば」と。・・・・・・

 

 

これが漫画ナウシカの結末でした。

 

これまでに無いほど情報量の多い展開でした。ナウシカの精神世界巨神兵オーマ墓所の庭園墓所と墓の主、そしてナウシカの答え。これらは一つ一つが濃密なメッセージでした。

 

まずナウシカの精神世界は広大なが広がっていました。これは蟲たちと共に世界の浄化に与した引き換えに光を失ったのです。そこにセルムが現れ、ナウシカの心と融け合いながらセルムはこの世界のあり方を示します。それは涙が出るほど美しく壮大な神話のようでした。

 

一方で墓所の庭園の女や墓の主が示すこの世界の成立の事実と「目的」はそれをうち壊すものでした。これはナウシカ達生物が「生き物」から目的のある「道具」にされた瞬間でした。創造主である旧人類から強制的に与えられた目的や罪、それらが自分達をあらしめているのだと。

 

1巻からナウシカは幸せも苦しみも共に噛みしめながら生きてきました。ナウシカはその中で希望を紡ぎながら生きてきました。しかしそれが旧人類の都合やエゴにより振り回され、そこから離れられない因縁が明らかになりました。

 

ナウシカはその因縁を断ち切り、自分たちの人生の希望や物語を守るために、先程の墓の主からの要請を一蹴したのです。今更自分達の生をあらしめようとする図々しい創造主に反旗を翻したのです。

もっと言えば墓の主の神としての存在意義を否定したのです。

それに対して怒り「制裁」を加えようとした墓所ナウシカは破壊し、創造主を殺してしまいました。見事な神殺しの現場です。

劇中で何度も出てきた「金色の野に降り立つ青き衣を纏いし娘」の伝説は、実はこの創造主殺しの結末だったのです。

 

 

巨神兵オーマの存在も印象的です。巨神兵は裁定者として旧人類を裁く者として、旧人類が当時人種差別、利害関係、病気などの諸問題を解決するために作ったものです。

しかし、巨神兵が与えた裁きは旧人類の滅亡でした。旧人類は人間の業罪により滅亡したのです。巨神兵を作ったのもひとつの業かもしれません。

墓の主は死に間際に、裁定者だったはずの巨神兵を「あの悪魔」と呼びました。それは自分達が裁かれる程汚い業にまみれた存在だと自覚したくない強固な意思を表しています。

 

ナウシカは清濁ともに人間の本質であると語り旧人類も自分達も同じだと語りました。「中編」では人生観においてナウシカは暗い「死」に囚われていましたが、それは清浄と潔白さに紐づけられていた物なのです。そして心の暗い闇から這い出る過程と、この世界の本質の判明により、ナウシカは清濁ともに生命の本質であったと認めるのです。

故にナウシカは墓の主の世界浄化の意思を「殺意」とみなし、墓の主に反撃したのです。

 

そしてナウシカ巨神兵オーマに対して始めは滅ぼさなくてはと思いつつも、生まれながら周りから憎しみを集め憎しみ返す宿命の者への愛慕の心が沸き、オーマと母子の誓いを立てるのです。ナウシカはオーマを称えつつオーマの最期を涙ながらに看取りますが、オーマの誇りは裁定者としての役割ではなく、その生の事実、ナウシカの子という事実によるものでした。オーマは目的ではなく生物として讃えられたのです。

 

【全巻通しての感想】

 

この作品は人間にはどうしても逃れられない業があり、これまでの方法論ではもう人類の希望を紡げないという現状を浮き彫りにしました。片や、法則や現実にしたがって生きれば絶望から抜け出せるという訳では無いことも明らかにしました。

この上で、ナウシカが最終的に示したのは生という事実を讃え、それを人類の希望とすることです。

 

私はこの話は深く心に響き、そして感動的な話であったと思います。

私は今まで多くの苦難や困難を経験してきました。それは神様の思し召しだと何となく感じていましたが、後からそれらは人間の業であると気付きました。私は、それならばもう自分は業という檻から出られないではないかと破滅的な思考に陥っていました。

 

私は少年期に過去に自分に原因の無いことで激しい非難を受けたことで、業罪には非常に敏感になりました。自分に原因がなくとも何かしら因縁があれば当然罪を背負うもので、そこから逃れるのは悪だと本気で思っていました。そのため私はナウシカの人間の業罪というテーマに興味を強く牽かれたのです。

 

業罪から綺麗になろうとする段階で差別や戦争などの悲劇が起こるのも納得できました。自分も同じことをやって来ましたが、達成感よりも後悔や歪みの方が意識されました。そしてそれでも正義を強要する人間にも不信感を抱いていました。

 

ナウシカの最終的に至った考えはその感情を具現化したものに思えました。何者かに規定された、正義の生け贄として殺される宿命への怒り、そして決別を描いたのです。これを描こうとする宮崎駿氏の頭脳明晰さと精神パワーは尋常ならないものがあります。

 

さて話はそれますが、漫画「鬼滅の刃」の中で鬼殺隊の冨岡義勇が発した「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」という言葉もこの漫画ナウシカの結末に通ずるものがあります。

これは鬼に家族を殺され妹・禰豆子を鬼にされた主人公・炭治郎への叱咤激励の言葉です。炭治郎の生き方を決めるのは炭治郎本人しかいませんし、それ以外に決められる存在はいないのです。

漫画ナウシカでは墓の主ら旧人類はナウシカらの生殺与奪の権どころか実存与奪の権を主張し、逆にナウシカに生命ごと抹殺されました。

その姿は汚いのかもしれませんし悪かもしれませんが、その敵が「殉職を強いる正義家」であると考えると人間の業を考えさせられます。それを放置したまま人々を統べようとする自称「神」とやらも仮想敵と思われても仕方ないのかもしれません。

 

新型コロナウィルスなど予想外の事態が絶えず起こる人生では、いつでもこの考えが大切なのかもしれません。

 

【おしまいに】

 

長々とした記事でしたが、実は私は「風の谷のナウシカ」は映画も漫画も最近までしっかり見たことは無かったのです。

 

映画をテレビで視る機会はあったのでしょうが、少年期にファンタジー作品に興味が薄かった私は途中で観るのを止めていたのです。

ですが、成人になりナウシカのファンの方に会うことが増えるにつれこの作品への興味が強くなったのです。漫画の存在もこの頃に知りました。

 

映画は、ナウシカらの優しさや強さが人々を救うエピソードが非常に感動的でした。一方で漫画は、ナウシカが多くの困難や矛盾、真相解明の中で本当の優しさを求めるストーリーがより哲学的で私達に直に話しかけるようで最後まで飽きが来ませんでした。

 

そして何よりもすごいのは両作を作った宮崎駿氏その方です。宮崎監督が一つの作品を作るときの知識や経験、熱量はものすごいものであったと確認させられました。

 

映画ナウシカはテレビ放送やレンタルDVDでも見れますし、漫画ナウシカも図書館で借りれますので、皆さまお時間があればお楽しみ下さい。

 

最後までありがとうございました。

 

2020年12月26日

炭鉱の島・池島散策記

こんにちは、ずばあんです。

 

私は2020年12月に長崎県の池島を訪れました。この島にはかつて炭鉱があり炭鉱の島として長らく栄えてきましたが、2001年に炭鉱は閉鎖し多くの人が島を離れました。

 

ですが今なお炭鉱操業当時の栄華を伝える、数多くの遺構が存在します。今回私は池島に訪れその姿を直に見て参りましたので、その様子を報告させていただきます。

 

【その前に】

 

いきなり上陸記を語ってもつまらないので、池島に係わる事前情報を語らせていただきます。

 

池島は江戸時代から長らく僅かな住民が農業と漁業をして暮らす半農半漁の島でした。徳川時代には外国船監視のための大村藩番所も置かれていました。

それが一変したのは1952年のことでした。池島で炭鉱開発が始まったのです。当時近くの島々で炭鉱を経営していた松島炭鉱株式会社(現・三井松島HD、本社・福岡市)が池島にも開発の手を延ばしたのです。

実際に出炭し池島炭鉱として操業が始まったのは1959年からでした。そこから島の人口は急増し島の生活環境は高度に発展しました。島には炭鉱労働者のための住宅アパートが多く整備され、新しい店も多く島に進出しました。娯楽施設も充実し、映画館やボウリング場、興業や行事のための公会堂なども整備されました。島内にはバス路線も走り、1967年には日本初の海水淡水化施設(火力発電所の一部として)が完成し島内の膨大な水道需要を賄いました。島内の人口は最大で7500人程に達し、半農半漁の小さな村は大都市同然に発展したのです。

しかし2001年に池島炭鉱は操業停止し閉鎖されました。エネルギー転換で石炭需要が石油へと移る状態が何十年も続き、最後まで石炭を使っていた電力会社も石油に切り換えたからでした。池島炭鉱は日本で2番目に遅く閉鎖された炭鉱でした。

 

炭鉱が閉鎖した2001年当時、島内人口は2500人ほどでしたがその多くが島を去り、今は120人程に落ちました。しかし、この当時の遺構のほとんどは現在も残されております。

 

【池島上陸】


f:id:zubahn:20201220195837j:image

長崎県西彼杵半島から西に7キロの海上にある池島、この島へは本土からの船でしか行けません。

私は本土側の瀬戸港からフェリーに乗り、30分かけて島に到着いたしました。フェリーの客は朝9時の便で私を含めて2人だけでした。

 

フェリーの到着した港は弧の大きな湾の中にあります。かつては鏡が池と呼ばれる池で、外洋と池を隔てる陸地を切り開き港が作られたとのことです。

 

上陸するとすぐに鉄筋コンクリートの4階建てアパートが港の近くにひしめき合っていました。部屋はほとんどが空き室であり、洗濯物やテレビのアンテナなど人の生活を伺い知れたのはわずかでした。ここまでは公営の団地とそこまで変わらない風景です。

 

しばらく歩くと公園が見えましたが、そこでは住民の方々が集まっておりました。地域のコミュニティが活きていることが伺いしれました。すると公園の片隅にある白い生き物がいました。・・・ヤギです。ここではヤギを放し飼いにしているのです。(あとで柵に戻されていました。)

f:id:zubahn:20201221204353j:image

 

 

港に沿って歩いていくと大きな機材や鉄道のレールが引いてある施設群が見えてきました。これは出炭した石炭を運搬船に積み込むための施設でした。それは200m程続いていました。この施設の上には高台がありますがそこに池島炭鉱の中心的施設が立ち並んでいました。そこから炭鉱マンが地下の深い坑道へ潜り石炭を掘り出していたのです。

 

【いざ炭鉱マンの街へ】


f:id:zubahn:20201221202037j:image

さて、これから高台の上の炭鉱マンらの街へ登っていきます。坂道の登り口には大きな発電所と淡水化施設が残されていました。10階建てのビル程の高さの施設とそれよりも高い煙突は遠くからもその存在感があります。長年使用されなかったせいで破損箇所が多く目立ちます。

 

坂道は蛇行しながら高台の上を目指します。右手の眼下の谷には建物が並んでおりました。どれも空き家で派手に壊れたり草むらに埋もれている家もありました。更に坂道を登ると左手に三角のモニュメントがありました。そこには「池島鉱業所」の銘板が収まっておりました。

 

さてそろそろ炭鉱マンの街が見えて参りました。鉄筋コンクリートの社宅群やその回りの店舗や郵便局、病院、学校の建物が見えます。かつては沢山人がいたであろうこの街も今では人っ子一人見えません。


f:id:zubahn:20201221201908j:image

街の入り口には簡易郵便局と市役所の支所があります。その奥には新店街という商店街の跡がありました。営業している店はありませんでした。裏通りにはボウリング場やスナックなどの跡がありました。中には半壊している建物もありました。この商店街の中で今も現役だったのは「集会所」と「消防署出張所」位でした。


f:id:zubahn:20201220200212j:image

更に道を進むと大きな小・中学校が見えます。体育館は2つもあり、かつての生徒の多さが予想されます。正門の前には、確認できる限り島唯一の信号機がありました。こちらは今も数人ながら生徒の子がいらっしゃるとのことです。

 

ここより上には「長崎市設池島総合食料品小売センター」の看板を掲げる建物がありました。

そこには店舗が一つのみ存在しておりました。その店の前には猫の群れがおり、そのうち一匹の猫が足に身を絡ませてきました。かわいいことこの上ありません。

 

さてこの店の前には広大な空き地が存在しておりました。これはかつて島一番のスーパーマーケットであった「池島ストアー」の跡地です。

創業は1959年で長らく島の人の生活を支えてきました。しかし炭鉱の閉鎖後は人口減少により売上げは減り、売り場面積も縮小していきました。最末期にはフロアの1/6の面積にまで小さくなっておりました。

この池島ストアーは社宅群の入口に位置し炭鉱マンとその一家の生活の側にあったことがわかります。

 

【社宅群を巡る】


f:id:zubahn:20201220200316j:image

さてここから社宅群を巡ります。4・5階建ての鉄筋コンクリートのアパートが建ち並び規則的に並んでおります。各棟の番号を見ると3桁の物も見られ、マンモス団地ぶりが分かります。

しかし、当然ながらどの棟も使用されておらず入口は鍵が掛けられております。また、団地内の小路の並木は背丈が高くなりすぎており、人が消えてから年月が遠くなっていることを確認させられます。

 

社宅群の真中には「慰霊碑」がありました。池島炭鉱の従事者で職務中に事故などで命を落とした人のための慰霊碑でした。そこは木々に囲まれ、木漏れ日の差し込む空間にありました。この土地に炭鉱マンはいなくなりましたが、慰霊碑で眠る魂はこれからもここに残り続けるのでしょう。


f:id:zubahn:20201220200417j:image

さて、社宅群は島の西側に延びております。道路と平行して今度は8階建ての高層アパートが建ち並んでおります。このアパートは斜面地に建っているので、下からだけではなく上の道から5階部分から入ることもできるのです。

なお上の道からはアパートの間に炭鉱マンの沢山通ってきた第二坑道への通路がありました。南向きの通路からは海が一望出来ました。私が行ったときは昼前でしたが、黄昏時にはどれ程美しいのでしょうか。

 

さてその高層アパートの下には古めかしい「神社下」のバス停がありました。運転手のための詰所の小屋もあり、ロータリーが整備されております。しばらくするとバス停にハイエースがやってきました。これがこの島の路線バスなのです。人口120人位の島で乗客数は少ないので、これくらいが丁度いいのでしょう。降りる客はおらず、運転手の方が降りて小屋の中に帰っていきました。


f:id:zubahn:20201220200906j:image

かつて島の人口が多かった時期は大型バスで運行され、今と同じく島東部の港と島西部のこのバス停を結んでいたのです。この間は高台へ登るため坂がきつく、バス需要はそれなりにあったのではと思われます。

 

今度は社宅群を東へ向けて歩きました。とある公園の前を通りましたが、公園内には松の木が勝手に自生しておりました。私は公園に入る気がなくなりました。今ここで社宅群を見ますとベランダの欄干が失くなっている家や加えて大窓が無い家もありました。

社宅群も終わり公営住宅群も見えましたがそちらには車がいくつかあり、洗濯物を干す部屋がいくつかありました。生活の営みの証拠です。


f:id:zubahn:20201220200520j:image

私は島の南を周回する道で高台の上の炭鉱街から降り、坂の途中で池島炭鉱の各施設群も確認できました。長年放置され、まさしく廃墟然とした雰囲気でした。なお道路から海をずっと眺めることもでき、海のさざ波の音がひたすら聞こえます。やがて道は海岸に降りてきて港の方へ帰っていきました。

 

さてこの日は寒く風も強かったので港の待合所へ戻ってきました。上陸してから2時間半ほど経っておりました。

待合所の中には談笑する島民の方数人がいらっしゃいました。室内には昔小学校の子供達が制作した池島のミニチュア模型がございました。建物から地形、道路まで何もかも精巧でした。

 

【古くからの町・郷集落へ】

 

次の船まであと二時間弱ありましたので、私はまだ見ていなかった所へ向かいました。やって来たのは島北部の集落、郷地区です。ここは池島が炭鉱の島になる前からある集落です。


f:id:zubahn:20201220200640j:image

郷集落の入口にはかつて商店街であった小路がありました。営業している店はなく、丘の上の新店街と同じ雰囲気がありました。ほとんどの建物が放置され一部破損し、中には潰れている建物もありました。元・酒屋、美容室、パチンコ屋、喫茶店・・・かつての賑わいが予想されます。元パチンコ屋の建物の前には古いパチンコ台が放置されていました、建物の奥には両替機もありました。

集落の中心部に到達しました。集落は谷間に沿い山の上まで延びております。先ほど申しあげた、坂を登る途中から見た谷間の建物はこの郷集落の建物でした。見渡す限り多くが空き家でした。その中で「老人憩の家・池島荘」は開いており、集落がまだ生きていることが分かりました。

 

私は島の北側の海岸沿いに港へ帰りました。島の海岸はしけが激しく濁った波が押し寄せておりました。この島の周囲は海流が激しいため、元より海水浴には向いてないとのことです。

 

港へ着き瀬戸港行きの切符を買いました。フェリーは間もなく到着しました。フェリーには10人ほどの客が乗船し、14時20分に島を出発しました。滞在時間は5時間弱でしたが、そこでは初めてだらけの発見だらけでした。

 

【全体的な雑感】

 

この池島散策の全体的な雑感を申し上げさせていただきます。

 

池島では多数の炭鉱遺構が残っておりますが、それはそれらが炭鉱会社の所有物だからです。大規模な遺構の撤去には多額の費用がかかりますので、今日まで一部立ち入り禁止にしながらそれらが残されているのです。

遺構の多くは長年放置されたせいでどこも崩れかかっており、風が強かったせいか島の至るところで建物の軋む音がどこでも聞かれました。いずれは近付けない所がもっと増えることでしょう。

 

そして、この島は人口がほんの120人程しかなく、島のインフラもそれらを支える程度にまで縮小されました。先ほどの路線バスのワゴン化もそうですし、生活必需品を買う店も見る限り小さな店一つのみでした。そのため私は島で昼食を買うことはせず、本土に帰ってから昼食を摂りました。入院設備のある総合病院もかつて炭鉱会社により作られましたが、今では縮小し診療所になりました。そのためこのコロナのご時世において、体調不良の人の池島への渡航を遠慮する貼り紙が本土の瀬戸港にありました。

 

かつては都市部並みに生活インフラが充実していたこの島も、一つの村ほどの規模に縮小しております。池島では大規模な出炭はもう行われておりませんので、炭鉱が操業していたときの設備や生活インフラは余剰となり、現在のような遺構群として残っているのです。また、この島で炭鉱開発以前に行われた農業も、今炭鉱施設や街(の跡)になっている高台で行われていたので、容易に戻ることが出来ないのも実情です。

 

しかし池島では今でも人が住む島として存続しております。この島は閉鎖後の炭鉱設備を一部利用し、観光コースを設けております。その観光収入により島の人の生計が支えられています。業態は異なりますが、池島は今でも炭鉱の島なのです。

 

それにこの島は不思議と人の生活の息吹がひしひしと感じられました。池島は海に囲まれた小さな島で島のどこからも大海原を見ることができます。周囲は激しい海流が打ち付けており、港を除けばどこの海岸でも北から南への海流を見てとれます。その姿は一つの船に似ています。その船の中で人が生き続けようとする姿には並大抵ならぬ活力に溢れ、明るさを感じとりました。身動ぎしないこの島ですが、ここでは大海原を旅する船のような冒険心が溢れておりました。それは炭鉱都市だった時代もこじんまりとした今でも変わらないものだと思われます。

 

この島の人々の生活がいつまで続くものかは分かりませんが、いつ最後となってもそれは暗いものではなく華々しい終わり方となることでしょう。

 

最後までありがとうございました。

 

2020年12月21日

NHKはぶっ壊すべきなのか?!〈公共放送と民間放送の共存〉

こんにちは、ずばあんです。

 

以前私は日本のテレビについて語りましたが、今回は公共放送と民放の共存について語ります。

 

民間放送と公共放送の存在意義や課題は前回すでに述べましたが、この両者の共存についてもまた課題があります。

 

日本ではNHKのテレビ放送が1953年に放送開始し、同じ年に民間テレビ放送局が開局しました。その後NHKと民放は、NHKがやや先にリードしつつも、ほぼ同時進行でテレビ放送を全国に広げました。そこから先はNHKでは新たに教育テレビを始め、民放はネットワークを5つまで増やすに至りました。

 

しかしその中で、公共放送NHKの中立性や公共性を疑われる運営実態の問題や、民間テレビ局が横並びの番組づくりをするという問題も出てきました。これは公共放送と民間放送の節度と領分が破られているようにも思えます。

 

ここで、NHKを民営化すべきだとか某局は廃局すべきだという主張が挙げられますが、それで上のような問題は解決できるのでしょうか。

 

似たような問題は海外でも直面してきました。各国で事情は様々ですが、大まかに分けると公共放送主導のイギリス型民間放送主導のアメリカ型に分類されました。

 

【イギリスの場合・公共放送中心主義】

 

イギリスは1936年に公共放送BBCからテレビ放送が始まり、長らく公共放送が中心となりラジオ・テレビ文化を築いてきた国でした。一方で民間放送のテレビ放送は長らく認可されず、その勃興は最近のことでした。

 

公共放送BBCには明確なライバルがラジオ開局時より存在しました。それはアメリカの民間ラジオ局でした。アメリカではラジオ放送が黎明期から私企業のビジネスとして捉えられ、多数のラジオ局が開局しました。

これは公共放送BBCが放送事業を独占していたのとは対称的でした。そして、イギリス社会やBBCはこのアメリカの現状を「悲劇」として認識していました。

 

当時のアメリカの民間ラジオ局間では過当競争が起こり、広告費のダンピングが横行し、視聴率競争もし烈を極めました。それにより悪質で低俗なキャッチーなラジオプログラムが世に溢れるということが起きたのです。

 

これはアメリカで大問題となり、時のフーバー大統領の時に放送事業に対する規制要項が定められるほどでした。

 

このショックはイギリスにおいて脅威として認識され、イギリス社会及びBBCは国民からの受信料により維持される公共放送に放送事業を一任する道を選んだのです。

 

イギリスの公共放送アメリカの民間放送は放送における直接の競争相手ではありませんでした。しかし、放送事業におけるイデオロギーにおいては真っ向から対立することになったのです。

 

そして、このイギリスの方式に一大転機が訪れました。それは民間テレビ局の開局でした。

 

イギリスでは1955年に初の民間テレビ局(かつ初の民間放送)であるITVネットワークが作られました。

元々イギリスのテレビはBBCテレビ(現在のBBC ONE)のみでした。しかしアメリカ文化の影響がイギリスにも伝わっていた当時、すでに複数の民放テレビが存在していたアメリカへのイギリス社会の憧憬も高まりつつありました。こうして政財界の要望によりITVネットワークが作られたのです。

 

しかしアメリカ(そして今の日本)とは異なり全くの民間放送としてITVの放送が始まった訳ではありません。厳密にはITVは民間企業ではなく、独立テレビ協会(ITA)という公的機関が運営しておりました。その機関が各地の民間テレビ局に放送免許や機材を貸与し、ITVネットワークの放送を委託していたのです。また、ITAは各放送局の番組内容を厳しく審査し監督していました。

 

このような複雑な仕組みでイギリスの民放テレビが始まった理由は、先のBBC中心主義によるものでした。

イギリスは当時アメリカのテレビ界における商業主義に対するアレルギーが未だ強いままでした。その一方で公共放送BBCに対する信頼はとても篤いものでした。そのため新しく開局する民間テレビ放送には、公共放送BBCと同様のクオリティが強く求められたのです。その結果、先のような不思議な運営方法がとられたのです。

 

この体制は長きに渡り大きな変化はなく続けられてきましたが、1980年代、国際的なマルチメディア時代に入りイギリスのテレビ放送業界にも変革の時が来ました。以前の「日本のテレビはなぜつまらないのか」の記事の「新陳代謝の少ない日本のテレビ」の章で紹介したイギリスITVを運営するITC(独立テレビ委員会)の取り組みがそれです。ITCはITVネットワーク傘下のテレビ局4局から免許を剥奪し、代わりに新たに参入する4局に免許を付与しました。これによりITVネットワークの放送局に競争意識を持たせ、イギリスの民放の商業化を促したのです。

 

つまり、イギリスでは日本のような公共放送対民間放送の構図が生まれたのがここ30年のことなのです。

 

こうした問題はイギリスのみではなくヨーロッパ大陸でも起き、そして大陸の方がより深刻でした。

ヨーロッパ各国には公共放送がどの国にも存在していましたが、民間放送局は1980年代までほとんど存在しませんでした。ヨーロッパ各国ではテレビも含めた放送は道路と同じく公共物として考える思想が根強く、公共放送以外のテレビの参入が認められていなかったからです。中でもオーストリアでは2000年代まで民間テレビ局は存在していませんでした。

 

一例としてフランスを挙げますと、1974年までフランスのテレビは公共テレビORTF(1964年まで国営)のみでした。1975年には当時のORTFの計3チャンネルが各チャンネルごとに分割・公営化されました。

フランスに民放テレビが初めて生まれたのは1984年に新たにカナル・プリュス(Canal +)が開局したときでした。

現在フランスの民放はCanal +や元公共放送のTF1などがあります。一方で公共放送は各局の財政状態の悪化から1992年からフランステレビジョンによる一元的経営になり、現在当局のチャンネルは7チャンネル(地上波は2波)存在します。

 

このようにイギリス・ヨーロッパでは公共放送独占体制が長く、そこに民間放送が共存するという経験が浅いのです。故に民間放送参入のインパクトは強く、同時平行で発達したBS放送への求心力も日本以上に強くなったのです。

 

アメリカの場合・民間放送中心主義】

 

一方でアメリカはイギリスとは対称的です。

 

アメリカのテレビ放送は1939年から民間放送により始まり、それから多くの民間テレビ局が誕生しました。アメリカではテレビビジネスでも商業主義が盛んで、テレビ局は沢山開局する一方で閉局する局も多く、競争は他国で例を見ないほど盛んでした。

 

そんなアメリカの民放テレビを語る上で欠かせないのは「ネットワーク」です。民間放送の大多数はいずれかの「ネットワーク」に属しています。ネットワークとは全国ネットの番組を複数局で一斉に放送するためのシステムです。ネットワークに加盟する放送局は広告収入の一部をネットワークの口座に納め、集められた広告収入等から放送局にネット保証金が支給されるのです。

これは自社単独で番組製作・放送を行うよりも財政面の安定や番組コンテンツの充実を図れる効率的なシステムであり、全国ネットの番組を放送するためのより効率的な方法でもあります。

 

アメリカの民放のネットワークには、通常傘下の放送局とは別にネットワークの統括をするための会社があります。その会社は統括業務のみに専念し、実際の放送を行う放送局は全て傘下のローカル局になります。ニューヨークやワシントンDCといった大都市の放送局も同様です。

そのためアメリカの全国ネットの番組は各ローカル局や番組制作会社による製作になります。全国ニュースもグループ内のニュース番組を作る会社が製作しています。

 

一方で、アメリカでも公共テレビ放送は存在しております。

アメリカでは長らく公共テレビ放送は存在していませんでした。しかし、民間テレビ局間のし烈な競争は、番組内容の過激化や低俗化をもたらしていました。これによりアメリカでは公共的な放送局への期待が高まっていました。

そこでアメリ連邦政府はその設置のための基金を創設し、1969年に公共放送PBS(公共放送サービス)が放送開始しました。これはPBSの全国ネットワークの元締めと系列局がNPO 団体であるという特徴を持っています。

 

PBSは日本のNHKとは異なり系列局に本局と地方局の区別はありません。すべての放送局が対等な立場であり、全国ネットの番組は各地の系列局の製作したものを組み合わせて放送しています。系列局にはそれぞれ得意分野があり、ドキュメンタリーが得意な局、ドラマが得意な局、ニュースが得意な局などそれぞれが秀作を持ち寄ってPBSのプログラムを作っているのです。

 

なおPBSの放送は無料放送で、各局の財源はアメリ連邦政府や州政府からの補助金、または個人や法人からの寄付、広告料によります。各局の設立母体は様々ですが、大学や学校法人も存在します。

 

このようにアメリカでは民間放送主体から後付けで公共放送が誕生したのです。

 

なおアメリカのように民間テレビ放送が先に発達した例は香港があります。

香港では1967年に民放のTVBが香港初の地上波テレビ放送を始め、紆余曲折を経て亜洲テレビとの民放2局体制が1970年代より長年続きました。その後亜洲テレビが廃局し新たに3局参入しましたが、その中の1局に公共放送の香港電台(RTHK )がありました。香港の公共テレビはRTHKが初めてで、放送開始は2014年とかなり新しい部類でした。

ちなみにRTHKは1920年代にラジオ局として開局し、1970年からテレビ番組の製作を始めております。製作したテレビ番組は2014年のテレビチャンネルの開設までは既存の民放テレビのチャンネルで放送しておりました。

RTHKも先のPBSと同じく受信料はありません。運営資金は香港政府から出されています。

 

 

なおこのアメリカや香港の例と日本は全く関係ないように思えますが、実はある地域においては当てはまります。

沖縄県沖縄本島ではアメリカ占領時代の1959年に民放テレビが開局しましたが、公共テレビ放送はその後1968年に沖縄放送協会OHK)が開局したのが初めてでした。それまでNHKの番組は民放テレビ局でスポンサーをつけて放送されていました。

民放の方が公共放送に先駆けてテレビ放送が始まったのは日本国内では沖縄だけでした。

OHKは後にNHKに組み込まれますが、発足当時から受信料を徴収していました。しかし、民放の無料放送に慣れていた沖縄の人々は急遽始まった受信料のシステムに反発を覚え、受信料の未納が相次ぎました。今日でもそれが尾を引いているのか、沖縄県の受信料徴収率は全都道府県の中で最低となっております。

 

このように公共放送主体のイギリス・ヨーロッパ型と民間放送主体のアメリカ型では、公共放送と民間放送のあり方は上のように異なります。そしてそれ故に起こる問題提起も両者間で変わってくるのです。

 

しかし、その両者とは違うモデルで公共放送と民間放送の併存の問題に直面した国もございます。

 

【(特殊例)韓国の場合】

 

ここまで挙げたイギリスやアメリカの例とは更に異なるのが韓国の例です。

 

韓国には公共放送のKBSとEBS、民放のMBC、SBSなどの放送局がテレビ放送を行っています。

 

公共放送KBSはEBSとともに受信料収入で運営されており、チャンネルは第1テレビと第2テレビがあります。しかし、この内KBS第2テレビではTVコマーシャルが流されており、広告料収入を得ています。公共放送なのになぜそのようなことをしているのでしょうか。

 

実は元々KBS第2テレビは本当に民間放送だったのです。元は1969年に開局した「東洋放送」という民間放送局のチャンネルでした。それが今のようになったのは1980年のことでした。

当時の軍事独裁政権の全斗煥政権が打ち出した「言論統廃合」政策により、韓国全土のテレビ局はKBSかMBCにすべて統合させられたのです。この政策の目的は独裁下での言論統制のためでした。これにより東洋放送はKBSに統合され、当局のテレビはKBS第2テレビとなったのです。

 

しかし、この政策は急に行われたため放送局の設備や経営体制などはそのままでした。その為KBS第2テレビでは公共放送なのにもかかわらず東洋放送時代と同じくCMを流すことが許されたのです。

現在はこの政策は行われておりませんが、このときの名残でKBS第2テレビは広告放送を続けています。

 

そしてKBSの第1テレビは韓国最初のテレビチャンネルですが、実はこれも元々民間放送でした。このチャンネルは1956年に民間放送の大韓放送のチャンネルとして開局しましたが、1961年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領がクーデターにより就任すると当時ラジオのみであった国営放送局KBSに統合され国営化されました。(なお、1969年に民間放送MBCのテレビ放送が始まるまで韓国唯一のテレビ放送でした)その後1973年にKBSは公共放送となり今に至ります。

 

同じく公共放送のEBS(韓国教育放送公社)は元は1981年にKBSの教育チャンネルとして開局し、1990年に分社化して成立したものです。

 

ちなみに韓国の受信料徴収は電気代に組み込まれる形で行われます。その為、受信料の未納はあり得ず合理的な仕組みになっています。

 

また民間放送にも変わった仕組みがありました。日本の民放テレビ局は自社番組のスポンサーを自社の営業部等を通じて募りますが、かつての韓国ではテレビ局の自由な営業活動は禁止されていました。

それは1980年の言論統廃合によるもので、それによる言論統制はテレビコマーシャルにも及びました。

製作されたコマーシャルはすべて公共機関である「韓国広告放送公益公社」を通して、そこの検閲に合格したものを当公社が各民放テレビ局に直接分配していたのです。

この制度は独裁政権が終わってもなお長年存続しておりました。しかし違憲訴訟が行われ2008年に違憲判決が出されました。これにより2009年にはこの制度は廃止されました。

 

このように韓国のテレビ放送は公共放送も民間放送も関係なく政府の干渉を受けたり、他方で公共放送に民間放送のシステムが食い込むという、不思議な状態になっていたのです。

 

もちろんこれは韓国の当時の政治事情によるものですが、このケースは非常に面白いケースです。

 

【日本の公共放送と民間放送は?】

 

さて、これらの例を見て、日本の放送業界がどのような特徴があるか分かった方もいらっしゃると思われます。

 

日本は1926年にイギリスの公共放送主導型にならいNHKの独占によりラジオ放送がスタートしましたが、1951年の放送法民間放送が認められアメリカを模範とした放送ビジネスの拡大にシフトチェンジしたのです。この頃にテレビも産声をあげ、テレビはNHKが全国展開するのとほぼ平行して、民間放送も各地で開局しました。

そして、高度経済成長や先進国としての経済的な繁栄のもと、日本のテレビビジネスは地上波だけでも非常に大きいものとなりました。それは日本がどの国よりも先駆けてアメリカ的な商業放送ビジネスを官民挙げて導入し、尚且つ戦前からの経済的な資源の厚さという強みがあったからです。

 

よって公共放送NHK民間放送の関係は早くより特異なものとなりました。

 

NHKは先程のイギリスBBC的な放送業界をリードする模範的な立場において公益を優先する番組作りをするも、数多くの民放各社とは激しい競争を強いられるというアメリカ的な状態にもおかれております。

例えばNHKの「バリバラ」では障がい者の方々が自身の障がいについてざっくばらんに語り合います。その中で民放の障害者を特集する番組に対して「障がいを乗り越えるというドラマが神格化され過ぎている」と批判する企画が放送されたことがあります。これは、民放の番組を意識しながらNHKの番組が製作されていることの現れであり、しかも「バリバラ」の当該回が批判している民放の番組の裏で放送されたことも面白い点でした。

また、NHKは公共放送の強みから報道番組に力を入れており、民放の報道番組と激しい競争を繰り返しております。特に夜9時のニュースと放送時間の近いテレビ朝日の「報道ステーション(とその前身のニュースステーション)」とは長年競争しており、一時期9時のニュースをテレビ朝日と同じ10時に移し、論調もライバルとは反対のものにしていました。

 

このようにNHKでは番組の公共性を保ちつつも、それを武器として視聴率戦争で民放局と戦うという構図が見られます。

しかし、そのような二重性の見られる状況からNHKを民営化しようとしたり、受信料の未払いが相次ぎ受信料の徴収のあり方が度々問題となっております。

さらにNHKの解体を強く主張する政党が政界で勢力を強め、地方議会や国会で議席を得るに至りました。そして、この党の党勢拡大戦略は現在進行形で進んでおります。

そうした中で公共放送NHKの存続の仕方が問われております。

 

 

一方で民間放送も日本独自の発展を遂げました。

日本では各地に民放テレビ局が多数開局するにあたり、全国ネット番組を効率的に放送するための「ネットワーク」が形成されました。これはアメリカと同様で、日本テレビ系列やTBS系列などがその例です。

しかし日本の民放のネットワークには、アメリカの民放ネットワークには無いシステムが存在します。それは「キー局」のシステムです。現在の日本では東京で放送を行うテレビ局がそれぞれのネットワークの元締めとなっており、特に全国ニュースは全てキー局が製作することが慣習化しております。これはNHKのように東京の中央放送局に各地方の地方放送局がぶら下がるような組織形態に似ています。

 

このような民放のネットワークのシステムは、量的に充実したプログラムを日本全国にあまねく提供することに寄与しております。日本では世界でもアメリカの次に早く朝から晩までテレビ番組を切れ目なく放送する体制(これをブランケット・カバリッジと呼びます)が整いました。そのため日本はテレビ文化の華の時代を世界のどの国よりも早く経験することができたのです。

しかし、東京のキー局が番組製作の中心になることで、東京寄りの情報が他の地方の情報よりも圧倒的に配信されるという情報偏重の問題も起きております。番組制作能力も東京キー局、大都市の放送局、その他地方の放送局となるに従い弱くなります。そのため放送局の自社制作率はキー局では9割近くになるのに対して、大阪の放送局では5割ほど、地方の放送局では5%以下になる例も珍しく無いのです。

 

日本において、公共放送と民間放送の共存することによる問題は上のようになります。もしこの問題が引き続き続くのであれば、日本の放送はあらぬ方向へと変化する可能性があります。

日本ではテレビが国民生活のあり方を決めている側面がありますので私たちはこの問題についていずれ関わることになるのです。

 

【こぼれ話】

 

さて、今回の公共放送と民間放送の共存の話は以上ですが、ここからはメインの話題に関係ないこぼれ話をさせていただきます。

 

(1). 公共放送でCMが流れる?!

 

日本において公共放送といえば、NHKのようにCMは流れないイメージが強いと思われます。NHKの模範であるイギリスBBC、あるいはお隣の韓国のKBSも一部のチャンネルを除きそのようになっております。

しかし、海外の公共放送を見ると実はCMを放送する局の方が多数を占めるのです。世界の公共放送で広告を放送しないのは、NHKBBCのほか北欧各国ぐらいです。概ね法律によりCM放映には放送時間などの制約が掛けられているものの、CMを放送する公共放送局は受信料や国庫からの支出金と併せて広告収入を得ているのです。

 

例えば、フランスの公共放送を運営しているフランステレビジョンの収入は2008年時点で、テレビ税(受信料に等しい)が68%で広告収入は28%でした。実に収入の3割がCM収入に依ります。局の運営に欠かせない存在です。

このフランステレビジョンではCMを放送するときにCM枠のオープニングとエンディングの映像が流されます。これはフランスの公共放送で1970年代から続いている慣習です。

 

(2). 民放なのに国の物?!

 

また、世界の民間放送の中には局の株式の過半数を政府や官公庁が所有している放送局もあります。

例えば韓国のMBC文化放送はCM収入で運営される株式会社でありますが、発行株式の7割を公的機関である放送文化振興会が保有するという事実上の公営放送となっております。

元々MBCは純然たる民間放送でしたが、1980年の言論統廃合により株式の7割を公共放送KBSが所有することになり、それから公的機関がMBCの大株主になるという状況になったのです。

 

台湾でも過去に同じ事例が起きておりました。現在台湾には全国ネットの地上波テレビ放送は5局あり、その内3局は民間放送、2局は公共放送です。

この民放3局とは台湾テレビ(TTV)、中国テレビ(CTV)、FTVのことですが、2000年代までTTV台湾省政府(台湾政府とは別)、CTVは中国国民党が大株主でした。

公共放送は、台湾公共テレビ(PTS)と中華テレビ(CTS)の2局です。今公共放送であるCTSはかつては民間放送でしたが、当時の大株主は教育省と国防省でした。後に2006年にこの2省に代わり、公共放送PTSが大株主になりCTSは公共放送となりました。なお、テレビCMは現在でもCTSで放送されています。

なおPTSは特別法の下で台湾政府からの補助金で運営される、1997年に開局した台湾初の正式な公共放送局です。

 

また、日本でもこれに近い放送局があります。福島県福島テレビ(フジテレビ系列)は民間放送の株式会社ですが、発行株の半分を福島県庁が保有するという状態が1963年の開局以来続いています。

これは福島県で初めての民放テレビ局として福島テレビが開局するにあたり、放送免許の出願者間の協議が尋常ではないほど難航したため福島県が仲裁に入り、県が株式の半分を持つことで合意したという経緯があるからです。

 

(3). 平成になっても民放が見れない地域

 

最後に日本の事例ですが、日本では平成に入るまでNHK以外のテレビを視聴できなかった地域が存在していました。

 

沖縄県大東諸島では、1975年にNHKのテレビ送信所が置かれ、初めてテレビ放送が行われました。それから1998年までの23年間に渡り大東諸島ではテレビはNHKの放送しか視聴出来ない状態が続きました。

当初は沖縄本島NHK沖縄放送局から放送用テープを空輸して南大東島の送信所から放送しており、1日の放送時間は4時間でした。1984年には当時始まったNHKのBSテレビ放送を中継する形になり、遂に1998年には東京のNHKと一部の民放キー局の地上波テレビプログラムを通信衛星を介して中継し放送する形になりました。

さらに現在では、全国的なテレビの地デジ化に合わせ大東諸島とは遠く離れた沖縄本島の全テレビ局から通信ケーブルで放送を中継することとなり、2009年に初めて沖縄本島と同じ番組を同時に視聴できるようになったのです。

 

似たような事例は沖縄県八重山諸島でもありました。

八重山諸島では公共放送の沖縄放送協会OHK、後にNHKに統合)により1967年に石垣島宮古島で初めて地上波テレビ放送が始まりました。

その後1993年まで八重山諸島では民放の地上波テレビ放送は行われていませんでした。

理由は民放局のある沖縄本島から八重山諸島はあまりにも遠く自前の中継回線(ケーブル)の敷設に莫大な費用がかかるからでした。NHKも1976年まで同区間に中継回線は無く、それまで石垣島宮古島の放送局は独自の編成をしていました。

それまでは、石垣島宮古島で1970年代後半に開局したケーブルテレビでの、沖縄本島で録画された民放の番組の放送が、唯一の民放番組の視聴方法でした。当然ニュース番組も生放送ではありません。

 

東京都の小笠原諸島の父島と母島でも、1977年にケーブルテレビで本土のテレビの録画放送をしたのが初めてのテレビ放送でした。1984年にNHKのBSテレビ放送が始まると、島内の中継局でそれを受信し地上波で再送信していました。後に1996年からは東京の地上波テレビ全局を視聴出来るようになりました。(中継方法は当初は通信衛星で、地デジ化の際に八丈島からの通信ケーブルに変更。同時に送信方法も地上波からCATVへ。)

 

今回の記事も長くなりましたが、今日も最後までありがとうございました。

 

 

2020年12月20日

 

 

 

 

須原一秀の「自死という生き方」

こんにちは、ずばあんです。

 

さて衝撃的なタイトルから始まりましたが、これは社会思想研究家の須原一秀氏が著した本のタイトルです。

須原氏は本の内容を記した後に自死いたしました。享年65歳でした。この本の著者紹介で記されております。(それだけでも衝撃的でした)

 

こんな衝撃的な幕開けでこの本は始まるのですが、その内容は意外と平易でなおかつ終始明るく前向きに進行していきます。

肝心の自死の理由もこの本で説明されておりますが、後ろ暗いものはあまりなく、実は充実した人生を充実したまま終えるために行われたことが明らかにされます。

 

今回はこの「自死という生き方」の内容と感想について語らせていただきたいと思います。

 

【内容】(※ネタバレ注意)

 

この「自死という生き方」は、過去に悲壮感なく朗々と自死を遂げた著名人の例を上げ、充実した人生にそのまま幕引きをするためにいい頃合いで自死をするという「生き方」を示し解説します。

それに対して、自然死というのは往々にして悲惨で不幸な終わり方であると述べられます。自身の身内の死や精神科医キューブラー・ロスの例などをあげつつ、悲惨な死について語られております。

そうしたことを前提として、自死をするという生き方の背景に日本の武士道があることを示し、それに類する例を挙げつつ自死という生き方の本筋を明らかにします。

その一方で自死という生き方に反する思想や発言について批判的な評論がされていきます。

そして、死の直前の須原氏の日常を記したエッセーや、自死の後の須原氏の関係者や家族のコメントも本に納められております。

 

これが本の大まかな内容です。

 

本のタイトルや著者の最期から受ける第一印象とは打って変わり、本編は著者の熱意溢れる生気満々で自信に満ちた姿が思い浮かばれる内容でした。

 

実際に須原氏は本書でこれまでの人生について、充実したものであったと述べております。心身ともに健康で、人間関係に恵まれ、仕事も上手くいき、この中に暗いものはほとんど伺いしれません。そしてそれは自死するその日までそうであり、周囲の人々も含めて須原一秀氏は充実したまま生涯を終えられたのです。

 

それに、この本は自死という生き方について小難しい論理をこねくり回すことなく、哲学の知識が無い一般的な人々に分かるように説明されております。

 

また、本書で明かされておりますが、須原氏の自死は「哲学的一大プロジェクト」であり、本編で述べられている「自死という生き方」を実践するものであると述べております。

須原氏は一哲学者として、自身の持論を机上の空論として終わらせず、自身の自死という実験により証明しようとしたのです。

 

そしてこの須原氏の持論は普通の人達も理解出来るものだと述べられ、普通の人が実際に自死を生き方として選択出来るようになるためにも、上のような実験をするのであると述べております。

 

したがって、この本は須原氏の「自死という生き方」を仮説として提示してその説を先人の例や言説などで補強して構築し、その仮説を自身の人生で証明するという一種の壮大な論文なのです。

 

【感想】

 

私はこの本を読み終えて、この本は中々一理あり人間の生き方について幅広い考えを持つのにいい作品であると考えました。

末長く身体が朽ちる日まで全うするという生き方もあれば、その日を待たずに健やかな内に生涯を終えるという生き方もあるのです。

 

それは当たり前のことだろうと考える人は多いでしょう。しかし、自分がそれを何を以て選びどのように実行するかということはあまり語られていません。その様なことを語るのは一般的にタブーとされるからです。

それに我が国においては須原氏の生き方は公然と認められておらず、日本と同様の社会・文化的水準を持つ国の中でもあまり存在しません。

安楽死の問題を考えてもそうですが、日本では安楽死は認められておりません。安楽死が認められるのはオランダなど一部の先進国ぐらいです。我々日本人が安楽死を選択するときにはそうした国にいく必要があり、かなり面倒な手続きが必要になります。しかも、安楽死には数々の条件があり、それから外れると安楽死は認められません。

つまり、日本では須原氏の言うところの「悲惨な」自然死しか公然と認められていないのです。そのため須原氏は充実した人生に幕引きするのに、自身で自分の首を吊りなおかつ頸動脈を切るという手間をかけなくてはならなかったのです。

こうしたことから、私達は生き方を考える上である程度の制限を掛けられながら生きていることが分かります。私達は生き方においては全くの自由ではないのです。この本はその当たり前の状況を具体的に言及したものといえます。

 

なお、勘違いしてはならないのはこの本は「自死という生き方」を全ての人に推奨しているわけではなく、その生き方を一つの選択肢として提示しているにすぎないということです。

この本は、須原氏の関係者の浅羽氏の冒頭コメントにある通り、「自死という生き方」を選択した立場としての須原氏を代表したものであります。

その為、自然死を選択(常識的に考えれば自動的にそうする人々は多いでしょうが)する立場に対して猛烈な批判をする文体となっております。しかし、それは自然死を否定し軽蔑する意図から出た言葉ではありません。あくまで、自死という生き方を選んだ立場から須原氏自身へ向けた言葉だったのです。

本編でもその事についての本人の弁解が記されており、将来「自死という生き方」が主流になった時にそれで自然死を選ぶ人が迫害されたり自死を強要されてはならないとも述べております。

 

さて、ここまで述べたことで一つ忘れてはいけないのは須原氏の「個人としての読者自身へのメッセージ」と「社会全体への要請」はそれぞれ異なるということです。

前者の読者自身へのメッセージは、生き方の選択肢として自分で人生の幕引きをするという可能性も考えていただきたいというものです。一方で後者の社会全体への要請は、「自死という生き方」を自然死を含めた他の生き方と同様に尊重し、認めてほしいというものです。

もし前者と後者が混同されたり逆転すれば、それこそ須原氏の意志に反し、むしろ自分にとっても他人にとっても有害なものとなります。自死という生き方を他人に強要するのは当然許されませんし、よもすれば脅迫や自殺幇助として刑事罰にも問われかねません。

また、今回「自死という生き方」を実行した須原氏は自身の希望に加えて、一種の実験という目的の元でこれを実行していることも忘れてはなりません。

須原氏のエッセーでは65歳という時期へのこだわりや死ぬときの自身の充実した現状も語っておりますが、それは「実験サンプル」としての自身の価値を意識しての発言であり、「自死という生き方」をする人間が絶対そうであるべきという訳ではないのです。

 

そして、これを読んだ私自身の生き方への内省についてですが、私はこれまでの生き方についての指針に大きな変化はありませんでした

私は人生について、苦楽をふんだんに味わいそれを認めた上で、自分がこの先も生きていこうというモチベーションを死ぬその日まで紡いでいこうという考えです。具体的なケースは全て説明できませんが、自分の意志を他人に伝えられないほどに不可逆的に回復不能になった場合を除いて、何としても最後まで必死に生き抜くつもりです。

正直に述べると、須原氏のように充実した人生を送ってその幕引きとして死ぬということは、私とは縁遠い所にあるような気もしました。もしかしたら出来るかもという薄っぺらな希望を越えて、須原氏の選択肢を考えることは出来ないのです。

でもそれは当たり前のことなのです。なぜならそれは私がまだ青年期だからです。本編でも書かれてありますが、若者やインテリ層というのはこの本を読んでも観念しか得られないのです。知識に対する経験はこれからしていくのです。現状としては自死という生き方について私は理屈だけ振り回すしかないのです。

 

しかしながら、私にも高齢者程ではありませんが「死への門」がいつでも開かれております。

私と歳が近い人でも、少数ながら事故や病気、自殺で生涯を終えた方の話は聞きます。それに私はこれまでの人生で、もう死んでも構わないし死ぬ方がましだと思ったことは何度かありました。これから幸せになる上で、これからで会うであろう幸せな人が経験していない不幸の過去を背負って生きることにも苦痛を覚えることがありました。

そしてだからこそ、私にそう思わせた「者たち」への復讐のためにも何としても生き延びたいと思うところがあるのです。早く死んで楽になりたいという人の考えを否定するわけではありませんが、それを自分に飲み込ませるのは私に対する激しい侮辱であるとすら考えています。私は死ぬその日までこの世に数多あふれる殺意に負けたくありませんし、誰よりも長生きしたいと思っています。

 

その上で、須原氏のこの著作はすぐにその生き方を実践せずとも、頭の片隅にその内容を覚えておく分には価値があると思います。自死という生き方をどう思うかに関わらず、自分の考え方と対比させつつ読めば面白い作品です。

 

【おしまいに】

 

さて途中より激しい言葉になりましたが、私は他人がどのように「生きる」のかは自分で決めればいいと思っています。

その上で、私はまだまだ知識や経験が足りなすぎるとも思っていました。これで自分の生き方を語ったところで、鼻で笑われそうな気がしました。

 

この本を知ったのはまとめサイトの「絶対に読んでおくべき本は?」という記事であり、その中でこの「自死という生き方」が目についたのです。

 

さてこの本を読んで何かそれを変えられるかと言えば、何も変わらないでしょう。

しかし、そんな生き方の意義に関しては自分の中では多少変わり、前よりも受容出来るのかもしれません。物自体は森羅万象があり方を決定していますが、その意味は自分が決めているのですから。

須原氏のこの本は「生き方」の幅を前よりも広くし、なおかつ人々の自主性に堪えうるだけの選択肢を用意してくれました。

もちろんその中で、身体が果てるまで生き延び続けるという選択をするのも問題ありません。しかしその選択を「何からしたのか」は後々自分や他者に説明できるのに越したことはないと思われます。

 

須原一秀氏には御自身の哲学者としての姿勢や矜持を最後まで守り続けたことと、哲学者としての御自身の社会的意義を見出だして、それを実践されたことに敬意と感謝を申し上げます。

(なお、これは須原一秀氏個人に向けた賛辞であり、哲学者一般や人間一般を代表した立場に向けての言葉では全くありません。)

 

今日も最後までありがとうございました。

 

2020年12月11日

 

 

 

日本のテレビは何故つまらないのか

こんにちは、ずばあんです。

 

今日は日本のテレビ放送について意見を述べます。

 

ふだん私はテレビをよく見ています。バラエティや映画、ワイドショー、ニュースはよく見ます。テレビを見るときの気分の高揚感は生活の花です。しかしながら、そんなテレビに対する昨今のネット上の評価はあまりよろしくありません。「テレビは見ない」「つまらない」「見たい番組が無い」「頭が悪くなる」・・・

このような評価に対して、インターネットの普及などのマルチメディア化によりテレビの重要性が低下したからという意見もあります。確かに過去のような黄金のテレビの時代の終焉したことは否定できません。これからは数多くあるメディアの一部として存続するしかないのでしょう。

しかしながら、その一方でテレビの今後の存在意義が中々示されないのも気になります。たまにあるとすれば、かつてのテレビの時代の再来を夢見る復古主義のようなものばかりが目立ちます。

 

私はこの事が気にかかりこの現象をどのように捉えるべきなのかを過去のテレビや海外のテレビと比較して調べてみました。すると今の日本のテレビの抱えている特徴がはっきり見えてきました。

 

【日本は地上波テレビ天国だ】

 

日本でテレビ放送を語る上で、一般人や業界人問わず、まず意識されるのは「地上波テレビ放送」です。地上波テレビは名前の通り、地上のテレビ塔から電波を発信して放送されるテレビ放送のことです。日本テレビやTBSなどの民放やNHKの総合とEテレは地上波(地デジ)です。

 

一方でBSやCS、ケーブルテレビといった地上波以外のテレビ放送は陰が薄い存在になっております。良くも悪くも、日本で単にテレビと言えばそれは地上波、すなわち地デジのことを指すのです。

 

このようなことになった理由は、国や放送業界が長年に渡り地上波放送中心の政策をとってきたことにあります。

 

日本では1950年代に世界でも早く、テレビ放送やテレビビジネスが興りました。もちろんこの当時のテレビ放送は地上波(アナログ)のみです。1960年代になるとそれはより成熟し、全国各地でテレビが見れるようになりました。それと同時に当時の政府はテレビを重要なインフラと考え、テレビ産業の推進とサービスの充実を促進しました。

これによって現在、日本のほとんどの地域でテレビが映り、民放も現在5系列存在しております。日本のテレビサービスはある意味完成形を保っていると思われます。

 

翻って世界の事情はどうでしょうか。

 

アメリカではテレビ業界に商業主義が古くより浸透しているので、地上波テレビ局が多数存在します。しかし国土が広大で人口密度が希薄な地域も多いことから国内にはその地上波テレビを直接受信できない地域が多く存在します。

そのためアメリカでは早い時期から難視聴対策のケーブルテレビが普及しておりました。アメリカでは日本以上にケーブルテレビは身近な存在だったのです。

そしてそのケーブルテレビは1970年代になるとCS放送を始め、後のBSも含め数百ものチャンネルの視聴を可能にしました。故にチャンネル間の競争も激しく日々切磋琢磨しております。

 

こうしたことからアメリカでは早くより地上波以外のテレビメディアも存在感を発揮し、その活力も今に至るまで衰えを見せないものとなっています。

 

ヨーロッパではヨーロッパ統合の進展により、新たなヨーロッパ市場向けの新しい衛星放送が参入し、既存の保守的な地上波放送の在り方を変えるほどになっています。

 

途上国においては、元々近年までテレビ放送やテレビビジネスが未発達だったのもあり、地上波よりも衛星放送が主流な国もあります。

 

こうしてみても日本の地上波テレビ中心主義は世界的に特異なものであるといえます。

 

【新陳代謝の少ない日本のテレビ】

 

地上波(地デジ)中心である日本のテレビ放送ですが、ここ20年近くの日本のテレビ業界は新陳代謝が滞ってると言えます。

 

その根拠は、今日まで日本の地上波テレビで消えたチャンネルが存在しないことと、21世紀に入り新たなチャンネルが開局していないことです。

1953年に日本初のテレビ放送が始まって以来、1999年に日本で一番新しい地上波テレビ局が開局するまでに129局の地上波テレビ局が開かれました。そのいずれも閉局にならずに今日まで存続しております。

 

21世紀になって地上波テレビ局が開局しなかったのは、長きにわたる経済停滞のほか、東京のキー局が自社の系列局の開局からBS・CS放送への参入に関心を移したことと、アナログテレビからデジタルテレビへの移行政策があります。

 

ただ、これらだけが日本のテレビの新陳代謝の無さの原因ではありません。なぜなら、上の要因は経済的状況以外は概ねどこの国も同じだからです。

 

諸外国ではこの状況下でもテレビ局の新陳代謝は進んでおります。

例えば、香港では2010年代にこれまで40年近くに渡り続いてきた民放2波による地上波寡占体制が崩れ、新規の3局が参入し、1局が廃局となり、新たに4局体制となりました。

元々2局で香港のテレビを寡占していた内の1局、亜洲テレビは長年視聴率の低迷や経営悪化が続いておりました。これにより放送局間の競争が無くなることが懸念され、香港政府当局が地上波テレビへの新規参入を認めたのです。

後に亜洲テレビは経営が改善せず2016年に放送免許が失効し廃局しました。亜洲テレビの停波後空いたチャンネルは直ちにアナログ・デジタル共に新規局へ譲渡されました。

 

他にも東アジアでは、韓国と台湾で民主化を遂げた1990年代に民放テレビ局や全国ネットワークが新たに作られました。その中でも韓国はテレビ局の京仁放送が2004年に閉局しそれに代わって同じ地域で2008年にOBS京仁テレビが開局しました。

 

また、イギリスでは放送局の新陳代謝を目論んだ意図的な政策がとられたことがあります。

1991年にイギリスの民放テレビネットワークITVを管轄するITC(独立テレビ委員会)は、これまでITVネットワークを構築していた放送局の内、数局の放送免許を取り消しその分を新規参入局に付与する政策を実施しました。

 

これは、時のマーガレット・サッチャー政権がこれまで極めて保守的だったイギリスのテレビ界に商業主義を導入し、テレビビジネスの活性化を目指したものでした。

ITVネットワークは当時イギリスで唯一の民放テレビネットワークであり、ネットワーク各局はITC(1990年以前はIBA独立放送協会)から監督、免許の貸与などの管理を受け、厳しい制約の元で番組製作放送を行っていました。この保守的な状況を改めるために、ITCはネットワーク各局の「仕分け」を行いネットワークの新陳代謝を図ったのです。

その後ITVネットワークは新チャンネルを開設いたしました。ネットワーク各局もグループ化や統合、衛星放送への参入を行い、テレビビジネスの活性化やマルチメディア時代への対応は見事に成功しました。

 

さて、日本の地上波テレビではこのようなイノベーションは起きているでしょうか。

放送局の新規参入・撤退が必ずしもイノベーションに繋がるとは言えません。しかし、この地上波テレビの新陳代謝の無さはテレビの既得権益の現れであり、それが一種のテレビの旧態依然さを決定しているのではと思いました。

 

テレビはインフラですのでそのインフラを維持することは確かに大切です。しかし、そのインフラの更新が行われなければ、今度はインフラの存在意義への疑問が沸き上がります。

これは必ずしもテレビ業界だけの責任ではなく、国民全体が考える義務と権利があると思います。

 

【公共放送NHKは必要なのか】

 

前章では主に民放の話をしましたが、日本のテレビでもう一つ語るべきなのはNHKの話です。

NHKは国民から受信料を徴収してそれに元に放送を行う「公共放送」です。これはイギリスBBC等と同じ仕組みで、企業からスポンサーを募り放送を行う民放とは一線を画します。

 

なお「公共放送」と似たイメージの言葉で「国営放送」というものがあります。国営放送とは国民から集めた「税金」により、国庫により放送を行うものです。NHKは税金ではなく、国民から直接受け取る受信料による運営なので国営放送ではありません。

 

我が国はこの公共放送と多くの民間放送が共存する形になっております。この環境下でNHKが国民からの受信料負担で維持される理由とは何でしょうか。

 

その手がかりはNHKと同じく公共放送であるイギリスBBCイギリス放送協会にあると思われます。

BBCの歴代会長が1920年代の草創期より代々主張していた声明に次のようなものがあります。「我々には視聴者が欲しているものではなく、真に必要とするものを放送する使命がある。

 

これは初代会長のジョン・リースの頃から述べられ、1980年代までは歴代BBC会長はこのようなことを声明として述べていました。

これはプログラムの製作において視聴者の要求に答えるばかりではなく、健全な社会づくりにおいて必要なものを理解し作るという意志を表しています。

例えば教育番組はその一例です。教育番組は視聴者が自ら強く欲するものではなく視聴率も低いですが、公益の観点からは必要なものです。

 

このBBCのスタンスの重みはイギリス社会の特徴を見ると明らかです。イギリスは公私ともに階級社会であり、各社から発行される新聞も階級ごとにターゲットが異なります。しかしBBCの電波は階級を選びません。どの階級もBBCの放送を同じだけ視聴出来るのです。

BBCはイギリス初の放送業者であり、上の問題に初めて直面する立場でした。その為開局当初よりBBC階級を越えて社会全体にとっての利益を意識してプログラムを作ることが強く要求されたのです。また、当時勃興していた民主主義への熱い活力もそれを後押ししていったと思われます。

 

こうしたBBCのモデルは1920~30年代に開局した世界各国の放送局にも受け継がれました。NHKもその一つで1926年に日本初の放送業者として発足しました。受信料のシステムや総合チャンネル(一つのチャンネルで多種類の番組を流すプログラム形式。対義語は専門チャンネル)などBBCの作った雛型が至るところに見られます。そして、NHKのレゾンデートル(存在意味)もその一つといえます。

 

公共放送NHKは、視聴者やスポンサーに寄り添い耳を傾ける民間放送と一線を画し、国民からの受信料を元に日本社会を俯瞰し公益において真に必要とされる番組作りを行う役割を担っているのです。

 

近年でも「バリバラ」など、民間放送とは異なる視点から公益に叶う番組作りがなされています。また、各地で増加している災害に関する報道や情報提供には民放の比ではないほど力を入れております。日本の国技である相撲の中継も日本の伝統文化の保護という公益に応える動きともいえます。

 

こうしたことから公共放送は民放とはまた異なり、替えの効かない役割があるといえます。しかし、昨今ではNHKの解体を強く主張する政党が登場し、NHKの存在意義が政治の場においてこれまでにないほど強く問われております。また、テレビ保有者に対する強制的な受信料の徴収についても社会問題となっており、その是非が裁判で何度も争われてきました。また、NHK会長の公共性や中立性を疑われる発言も問題となりました。

 

NHKは日本唯一の公共放送ですが、その立場をNHKという組織が担うべきかという問いは絶えず行われています。その為、NHKには番組製作や組織運営において公共性を保ちつつ、その存在意義を絶えず確認し国民に宣言する努力がこれからも必要であると思います。

 

【日本のテレビには残ってて欲しい】

 

私は今まで日本のテレビの悪口を言いましたが、本音を言えばテレビには残って欲しいと思います。

 

テレビは僕たちに情報や娯楽はもちろん、「コミュニケーション」を提供してきました。テレビは誰もが同じときに見ることが出来るので、共通の話題となりやすいのです。

それはネット全盛時代の今でも変わりありません。テレビで「天空の城ラピュタ」が放送されたときのTwitter での「バルス祭り」はその最たる好例です。

 

それに現在YouTubeでは有名人や芸能人が配信することが増え、高い再生数や高評価などこれまでに無い盛り上がりがあります。これは出演されるご本人の実力もあるでしょうが、テレビ番組から引き続き制作に関わるスタッフの協力も欠かせません。これは「テレビの力」がYouTubeまでも席巻している現状を表しています。

 

このようにテレビの存在はネットにおいても発揮されております。これはテレビが実は秘めていた可能性を表していると思います。

ただ、その可能性を活かすにはこれまでに挙げたような問題があると思ったのです。

 

すぐにテレビ放送が全廃されることは無いでしょうが、いずれはテレビの存在意義が大きく問われる機会は訪れることでしょう。

 

【おしまいに】

 

私は少年時代から日本のテレビ文化に興味を持っていました。テレビを見ること自体好きで、昔の番組や他地域の放送をみる機会を経てテレビ放送の仕組み自体にも興味を抱いてきました。

 

といっても、私はテレビ業界とはほとんど関わりはありません。あくまで一視聴者の立場です。そのため、今日の記事の内容は本やネットで調べてまとめた「趣味」の域を出ません。

 

今後このような「趣味」的な記事を発表することがまたあるかもしれません。

 

本日は最後までありがとうございました。

 

2020年12月1日

 

 

罪を憎んで人を憎まず

こんにちは、ずばあんです。

 

世の中の格言に「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、この言葉について今日まで何度も何度も考えさせられました。

 

【人は本来憎み難いもの】

 

この言葉が思い浮かぶ場面といえば、人が何か悪いことをしたとき、あるいは事件の犯人が捕まったときでしょう。私はひどいことをされたり、あるいはそれを見聞きしているとしましょう。

その時私のなかで犯人に対して怒りや憎しみの念が起こりますが、同時に犯人は「自分と同じ」人間であることにも気付き不気味な気持ちにもなります。

 

自分もかつては犯人のように悪いことを考え時には行動に移したこともあるだろうに何故自分が犯人を裁けようか、と私は犯人に怒りを覚えながら気付くのです。

そして、自分に対して怒りの刃を突き立てているような気分になり、自分が惨めに思えるのです。

 

ここで犯人のことを、私とは違うひどい下劣で最悪の人生を送ってきた人間だ、と思うことも出来るでしょう。でも、これはあくまで事実ではない予測でしかなく、しかも人のことを勝手に無根拠に見下す思考です。もしこれを何度も続けたらこれは習い性になり、自分の性格は腐り果てることでしょう。

 

その為、犯人の人間性を憎むことは自分のプライドや性格を貶めることになるのです。

 

【やはり罪は野放しに出来ない】

 

しかし、犯人のことを無条件に許すのも間違いです。犯人のことを憎めない場合も同様です。いくら自分と同じ人間だからといって、やったことは悪質です。それを許すとゆくゆくは自分の中の倫理観も歪み自分もその犯人と同じことをしてしまいます。

 

特に身内の罪においては、どうしても意識的に割りきらなければいけない場面が出てきます。家族、友人、同級生・・・こんな人たちが罪を犯した時には、自分達も彼らに罪を償うように促す必要があります。

 

そのため犯人の悪行に対しては何かしらの罰や制裁を下そうと望む気持ちも必要なのです。もしそうでなければ、友情や愛情を人質に道徳、倫理を傷つけられることになりますし、人間性を歪ませる呪いになっていきます。

 

一方で、そんな悲劇のために自分の情緒や情念を憎むのもまた歪みです。正しい世界のためには自分は家族や友人関係は壊さなければならないという考えに至るのであれば逆にそれこそ危険です。

 

罪を憎む心と、人と安心して繋がれることは両立されるべきことだと考えます。だから犯人の人間性と罪を分ける考え方が必要なのです。

 

【ずばあんにとってのこの言葉の意義は?】

 

私は、この言葉は常に戒めとしなくてはならないと思っております。

 

私は元々、人間の人間性と功罪を同じものとして考えていました。素晴らしい行為をしている人の人間性はどんなに下劣でも肯定されるべきだし、逆に望まれざる行為をしている人の人間性はその人間性が素晴らしくとも否定されるべきと考えていました。

この考えは自分を長らく苦しめてきました。下劣な人間をいつまでも下劣だと思うのは自分の認識が「正しくない」からであるとすら思っていました。そのためそれを「是正」するように下劣さに自分を染めようとしたこともありました。

 

一方で、逆に下劣な人間の行為は全部間違っていて、人間性の優れている人の行為は全部正しいと思っていたこともありました。故に合理的な判断を欠いて人に迷惑をかけることもありましたし、人と摩擦を起こしたこともありました。場合によっては自分が落ちぶれる遠因になったこともありました。

 

この人間の人間性と功罪を混同する考えを改めた理由は次のようなものがあげられます。

 

①.中学時代に自分の善意が無下にされ、学校の荒れが進行し、自分も精神的に追い込まれたこと。

②.その後反動として偽悪的に振る舞いあらゆる人の反感を買い人間関係が破局的側面に陥りかけたこと。

③.上の①と②から人間不信が極まり何も出来なくなり事実上ドロップアウトしたこと。

 

この経緯から、私はこれまでの価値観を全部洗いざらい振り返り、その中で上の罪と人を同一視する考え方を反省し改めようと考えました。

 

この取り組みだけのお陰ではありませんが、私は前よりも合理的に判断できるようになりましたし、人との衝突はほとんど無くなりました。以前よりも不安のない穏やかな心を持てるようになったと思います。

 

【おしまいに】

 

この「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の私の中での意義は、今の時点では上の通りです。

 

正直この意義についてここに書くことには迷いがありました。客観的な定義のようにいつでもどこでも本当であるわけではなく、自分の人生の上でしか本当ではないものですから。だったら何のために人に見せるのだろうかと何度も悩みました。

ただ、このブログというのはそれが分からない物も含めて、人に対して「試しに」触れさせる場であるとも思いました。最初からそれが分かっている物だけを見せるならば、ブログ外のもっと格式高いところで見せればいいのですから。そのためこの言葉の私にとっての意義について今回このブログで見せることにしました。

 

しかし、今後またその意義は変わってくるかもしれません。それを完璧に予測することは難しいです。それでもその時その時の自分にとっての「本当」を尊重できたらと思います。

 

ここまでありがとうございました。

 

2020年11月21日

 

「毒親」とずばあん

 

こんにちは、ずばあんです。

 

先日はスーザン・フォワード氏の著書「毒となる親」の感想を記しましたが、今日はそこから派生した自分の考えを述べさせていただきます。

 

【毒となる人間関係の片隅に毒となる親がいる】

 

皆さまは誰もが何かしらの形で人間関係を意識されていると思われます。人間関係は素晴らしいものだとか、一方では面倒くさいものだとか、はたまた大事なことだとか様々な意見があるでしょう。

 

「毒となる親」ではそのような個々人の人間関係観は自身の家族内の関係から生み出されると述べられています。たとえば、暖かい家庭で育った子供は人間関係は本来は暖かいものだと認識します。一方で「毒親」のいるような歪んだ家庭で育った子供は人間関係の認識も歪み、健全な人間関係を築けなくなります。親との関係はいわば人間関係の教科書なのです。

 

前回の記事では、毒親というのが代々その家系の中で受け継がれてきたものであることと述べられました。しかもその毒は毒親から離れても消えないものであり、自分がその毒を自分の子に振りまき他人にも振りまいていきます。その結果似たような毒を持つ人間ばかりが集まり、自分の中の毒をより濃厚にしていくのです。

だから毒親から受けた毒から解放されるためには専門家によるケアやセラピーが必要なのです。

 

本では親という近い関係への言及にとどまっておりますが、私が思うにこれは自分の回りの人間関係の総刷新であると考えています。私のような日本人の人間関係は世界の中でも緊密な部類に入ります。そのため人間関係による人生への影響はより強く出ます。故に私たち日本人は人間関係の構築においてはなおのこと自分の利害を意識せざるを得ないのです。特に自分の家族、親との関係は一種の呪いのようなものなのは前述の通りです。

 

毒親の害は毒親自身が子供に直接不利益を与えるばかりではなく、子供自身が不利益な人間と関係を持ちつづけることにも及びます。

金銭的・精神的に搾取される関係、暴言暴力が常態化している関係、あるいは自分がそうしたことを他人に行う関係などです。

故に人間関係で長らく苦しい思いをしている人はまず親子関係の刷新から始めなくてはならないと思います。そしてそこから他人との関係の総刷新が始まるのです。

 

また、そこまで深刻な事態ではないにせよ、自分の希望する進路・人生を積極的に歩む上でも人間関係の刷新は必要です。

自分の進路・意志をサポートしてくれる人、賛同してくれる人と繋がるのは当然として、それを望まないことを希望する人とは疎遠にならざるを得ません。自分の進路について話の通じない人間と折衝するのはゆくゆくはマイナスになります。

人によってはここに恩情を大切にしろと言う人もいますが、そもそも利害関係にマイナスになるような恩情は恩情ではなく経済的DVです。もはや呪いや殺意です。

言わずもがな、親との関係も整理の対象となります。子供の自律を深刻に阻害する親子の関係は解消されなくてはなりません。もうこの時点で親では無いからです。

 

【毒になる神】

 

さて、「毒になる親」の第1章「『神様』のような親」の内容に移ります。

この章では、子供の権威となり子供を裁き操ろうとする親が描かれています。そしてその親はギリシャ神話の神々を例に説明されていましたが、私にはその説明が衝撃的でした。

 

その本によると、ギリシャ神話の神々は地上を見下ろし人間の所業に干渉し罰を与えていました。その罰を与える理由は気まぐれで非合理で正義もなく、人々はその神の怒り触れることを恐れながら生きていた、とのことです。

 

ものすごい散々な言われようです。フォワード氏は少なくともギリシャ神話の神を「神」として見ていないことがありありと分かります。「毒親」と同属のものとして見ているのは間違いないです。

 

私が思うに、毒になる親、毒になる人間関係の関係整理の果てにはこの「毒になる神」との関係見直しがあると思われます。「神」というのはこの世界や社会をどう理解するかの足掛かりなので、その大本となる親との関係の抜本的な変化は「神」との関係の刷新を引き起こすこととなるのです。

 

そのことは「毒になる親」の第9章「『毒になる親』を許す必要はない」のフォワード氏のエピソードでも語られています。

フォワード氏の患者に敬虔なクリスチャンの女性がいました。彼女は父親から性的暴行を受けた過去がありました。その後父は「反省」して謝罪し女性も「神様のお言葉に従い」父を許したとのことです。その為当初は彼女は診療中に父をかばう発言をしていました。

しかし、治療が進む毎に女性は父への怒りを吐露するようになり、遂には「神様は本当は私が救われることを望んでいる。」と述べたのです。

 

神様の言葉の意味というのは、自分の親や周りの人間との関係により変化してくると思います。そうしたものから「神様」は作られているのです。

 

だから、神様ありきの人生というのはその時点で毒になる親を、毒になる人間関係を招き、そしてその神様も毒になる神なのです。

その為私たちは単純に神様を恐れるばかりではなく、自分の人生の目的に叶うように神様を信仰する必要があるのです。私たちは有益な人間関係を築くのと同じように、有益な信仰をしていかなければならないのです。

 

 

【ずばあんの「毒親」】

 

私にとってこの「毒になる親」は親との関係にとどまらず、真に有益な人間関係とは何かを再確認するのにいい本だと思いました。

本の名前こそ「毒になる”親”」ですが、自分を一人の人間として育むのは本当の親ばかりではなく周りの人間一切だと思います。そう考えれば自分の周囲の人間関係はある意味「親」なのかもしれません。

 

その意味で私が今まで生きてきて一番の「毒親」は中学校だったと思います。私の通っていた中学校はある事情により荒れており、校内ではいじめや授業妨害、器物破損などは日常茶飯事でした。

こんな環境なので学校内の雰囲気は殺伐としており、不良に染まる風潮や圧力が強く、不良と教員との衝突はしばしば起こっておりました。全校集会では、そうしたことについて生活指導の先生から連帯責任で叱責を受けることは少なからずありました。

自分もこのような学校の被害に遇いましたがその記述は長くなるので省かせていただきます。とにかく全方向地獄という印象でした。

結局私の通っていた3年間上の状態は続き、事態が正常化したのは私の卒業後更に3年近くかかりました。

 

このような学校の存在の意義については様々な意見があります。とにかく害悪であるという考えもあれば、人間社会の縮図としていい機会だという意見もあります。

 

私の意見を述べますと、このような学校は少なくとも私の前では学校を名乗らないでいただきたいというのが正直な感想です。この程度のレベルの組織を学校と呼ぶと、私の社会生活上大きな支障が出るので私個人はこれを学校とは思っていません。

仮に何かこのような組織を肯定するのなら、それは踏み台程度の価値しかないのです。将来自分が窮地に追い込まれた時のための練習台がやっとなのです。それ以上の価値を求めると自ずとこのような組織は毒となります。道徳・倫理の著しく欠如した組織はその認識の方が有益なのではないのでしょうか。

 

そのような公立中学校に押し込められ、名誉と人間性を貶された身としては、反省と今後の成長のためにこの「毒親」たる組織から正しく離乳していきたいと思います。

 

【「殺意」から自分を守る】

 

「毒になる親」では毒親の子どもの自律か唱えられていました。そのためのガイドラインも丁寧に示されておりました。しかし、その自律とは何のことで、自律したあとの人生とはどんなものなのでしょうか。

 

中々難しい質問ですが、私は自律とは「殺意」から自分を守れるようになることであると考えます。

「殺意」とは生命を奪おうとする意志のことです。その方法には直接殺人を犯そうとするものもありますが、精神的にダメージを与え自殺を誘発させるもの、経済的にダメージを与えるもの、コミュニティから不当に追い出そうとするものもあります。

 

こうした殺意が自分自身に向けられたときに自分の身を守ろうと思い、行動をとれること、それが自律だと考えています。

 

なお世の中には自分自身の自律の邪魔をしてくる人間や思想、組織、制度などが溢れています。人間、非人間を問わず、自分の回りには「殺意」が横溢しているのです。「毒親」ももちろんその殺意に含まれます。

 

一方で自分の自律を助けてくれる、支持してくれる人や物がいるのも事実です。自分が自律するには、そうした人々を味方につけ前述の殺意と戦えるようにすることも必要なのです。何もしないままだと、そのまま殺意に飲まれてしまいます。

 

これは社会性にも通ずる話です。人々はよんどころのない事情のもとで異なる利害関係のもとで自分の生命を守りながら生活しています。主婦か、独身会社員か、学生か、老齢年金暮らしか・・・実に多種多様です。

それを無視し、自分の特殊な考えを人の迷惑も考えずに押し付けることは、反社会的な行為として捉えられます。あるいは殺意とみなされてもおかしくはないでしょう。社会で共存することはそうした殺意をどこまで小さく出来るかという努力に関わってくるのです。

 

そうした意味では「毒親」は親ではないのです。親子の関係の元で殺意が増大する時点で親子関係ではないのです。話して正常化出来るレベルならまだ救いはありますが、それすら望めないならばこれまでの親子関係は否定した方がいいと思います。

 

【おしまいに】

 

人間関係というのは幸せの揺りかごとなる場合もあれば、転じて呪いとなる場合もあります。近しい関係であればあるほどそれは強くなります。特に子供の時のそれは、まだ知識や行動力や権利が乏しいゆえに避けがたいものとなります。

 

そんなものを自分の選択とも呼びたくないですし、一生に渡って責任も持ちたくありません。このため、せめての後始末としてこの呪いからは脱け出して楽になりたいと思っています。

 

正直いうと、この不可解な呪いから脱け出せなかったら放埒な生き方をして果てようと思ったこともありました。しかし、その呪いから解けるみそぎのために生きれる道が分かってからはしっかり生きようと思えるようになりました。

 

とりとめもない感想でしたが、この記事は以上です。

 

2020年11月10日