ずばあん物語集

ずばあんです。作品の感想や悩みの解決法などを書きます。

遠藤周作の「沈黙」 ~「神」はどこにいる?~

こんにちは。ずばあんです。

自粛がようやく明ける所が増えてきましたが、皆さまお元気でお過ごしでしょうか。私は相変わらずだらだらと元気にしています。

さて、今日はいつもの内容と異なり、小説の感想を述べていきます。
今回感想を述べるのは、遠藤周作「沈黙」です。「沈黙」は日本の江戸期のキリスト教弾圧を下敷きに極限状態における信仰・神のあり方について著した作品です。


以下、あらすじとなります。(※ネタバレ注意)


【あらすじ】
話は、17世紀前半(徳川三代目家光時代)キリスト教イエズス会の宣教師ロドリゴが師・フェレイラの消息を追い日本に訪れるところから始まります。ロドリゴは日本(五島列島)でのキリシタンの実情や実態、弾圧の模様を知り、内心では神・信仰のあり方に疑問を抱くようになります。
その後ロドリゴは来日以来一緒だった小心者の吉次郎の裏切りを受け幕府に囚われの身となります。囚われの身となったロドリゴは、この弾圧の中心人物・井上筑後守から棄教のために様々な揺さぶりをかけられます。自らと同じキリシタンや宣教師の命が奪われ、また師・フェレイラがすでに棄教したことも判明します。
ロドリゴはこのまま殉死してもいいと決意しますが、独房の中で聞いた「いびき」が実は拷問を受けているキリシタンの絶命寸前の声である事を知ります。そして、そのキリシタンの助かる条件がロドリゴの棄教であることを告げられます。
ロドリゴはやむ無く棄教をする決断をし、絵踏をします。その時にロドリゴは「神の声」を初めて聞きます。ロドリゴはここで、弱者を救い、赦す神そして信仰のあり方を確信します。そしてロドリゴは名や身分を改めながらも、神への信仰を忘れず日本の地で生涯を終えるのでした・・・・


あらすじは以上です。


【全体の感想】
読んだときの全体的な印象を述べますと、ここまで残酷で恐ろしく、一方でホッとするような複雑な気持ちを覚える、しかもそれが自分のことのように感じられた作品はありませんでした。

ロドリゴと同じものを信仰する同志への弾圧、自分の師の棄教の事実、そして何よりも神が何も啓示や審判を下さないこと。それらに衝撃や絶望を受けるロドリゴの境遇は自分の近くの人、あるいは自分のもののように思えました。
そしてロドリゴは棄教するときに「神の声」を聞くのですが、私が初めてこれを読んだときには、このシーンに感動も盛り上がりも覚えませんでした。ここまでで失ったものは計り知れないですし、それに見合う程のものが支払われたわけではないからです。その後もロドリゴは幕府のクリスチャン弾圧に加担するという当初より望んでいなかった道を遂に歩み生涯を終えるので、私は暗い淀みにはまる様な気持ちになったのを覚えています。

ただ、一方でロドリゴは神の存在や信仰的態度をストイックに求めてきたからこそ、救われた部分もあると思います。もし彼がただ目の前の人を救いたいとか、自分が苦しみから抜け出したいという、欲望に駆られるのみの人間であったなら、ロドリゴはただの狡猾で卑怯な人間というキャラクターに落ち着いていたでしょう。
しかし、ロドリゴはそこに堕ちることはなく、自分の中で神や信仰を守り抜きました。それはただの保守主義でもなければ進歩派の立場とも異なり、あくまでロドリゴ本人が極限状態から見いだした自分の答えであったと思われます。ロドリゴはただ口だけで神や信仰を守る人間の立場から、真にそれらを守る人間に昇華したのです。

このロドリゴを取り巻く光と闇の話は、決してロドリゴへの賛美のみではなく、ロドリゴがそれらを一身に背負うことの重さや不気味さをも欠くこと無く伝えています。その結果、ロドリゴの生涯をただの伝記という形ではなく、真のドキュメンタリーとして遺すことに成功したと思います。ゆえに「沈黙」は後世にも伝わる名作たる価値を得たのではと思います。

そして「沈黙」の内容を咀嚼理解していく中で、ある大事なメッセージが見えてきました。それは私達が見逃すことのできないメッセージです。それは、「弱い人」にとっての「神」への信仰のあり方です。


【弱い人のための神・信仰】
「沈黙」は、強い人とは対称的な弱い人々にとっての神や信仰のあり方を示した作品であると思えました。
本作の登場人物の吉次郎はその弱い人間を体現したような存在です。げんきんで、狡猾で、そのくせ依存心の強い、軽蔑の目線で見られてもおかしくない卑怯な軟弱者です。一方でキリスト教への信仰から離れられては生きられない、キリスト教が救うべき人間の姿でもあります。ロドリゴも、嫌悪感や軽蔑を覚えつつも、そのことを認識する場面がありました。

「沈黙」では、強い人が次々と果てるシーンが立て続けに出てきました。五島の信仰の村の敬虔な信徒や、ロドリゴの友人ガルぺなどの最期のシーンです。そうした人々は、少なくともこの作品中では「凄惨たる死に方」をして果てていきました。「立派な死に様」とはほど遠いものでした。
この強い人たちは本当は最後まで意志を曲げず、そのまま気高く死んでいったと思われます。しかしこの小説でそれが描かれず、彼らの死に様が先のような描かれ方をしているのは、この小説が「強い人」の目線からではなく、「弱い人」の目線から描かれているからです。
弱い人」というのは、殉死や忍従という試練の道に救いを見いだせなかった人のことでもあります。私はクリスチャンではありませんので詳しい教義については無知ですが、「強さ」を獲得することによって救われるのがキリスト教の「崇高な」理念であることは間違いないでしょう。ゆえに殉死した人々の信仰は本来は崇高で救いがある筈なのです。
しかし、どうしてもそう確信することができない「弱い人」はどうすればいいのでしょうか。その人々はそのまま救われずに死ねとでもいうのでしょうか。小説「沈黙」が答えようとしたのはこの問いであると思われます。

ロドリゴは日本での弾圧からの逃亡生活、そして囚われの身で棄教を強いられる中で「神の声」を聴くことはありませんでした。まるで神が、弱き人のことを無視しているかのように。神が弱い人の苦しみなど歯牙にかけず救いを与えないかのように。これがタイトルの「沈黙」の意味です。この沈黙は、弱い人には救いを与えない「神」に対する、ロドリゴの半ば失望の念、もしくは弱き吉次郎が棄教を強いられた時に直観的に感じたことだったのかもしれません。しかしその「沈黙」は、ロドリゴがついに絵踏を行う時に破られることになります。

ロドリゴが使い古された絵踏用の銅板のイエスの姿を見た時、そこで初めて「神の声」を聴くのです。「早く踏むがいい、お前の痛みはよく分かっている。私はこのためにここにいるのだ。」、この声を聴き銅板を踏むとき、ロドリゴは神に救われたと確信するのです。その後ロドリゴは改宗し、名も改め身分も別人のそれになり、フェレイラ同様幕府のクリスチャン弾圧に加担することになります。しかしそれでロドリゴの心から神の存在が消え、信仰が失われたという訳ではありません。むしろ以前よりも神は分かちがたい存在となり、信仰はより強いものになりました。
これはロドリゴだけの経験ではありません。あの吉次郎も体験したことでもあります。吉次郎は島原・天草の乱の際に棄教を強いられとき、誰よりも先に躊躇いなく絵踏をし、筑後守の指示通り神の姿に唾を吐き、聖母マリアへの呪詛の言葉を吐きます。これは吉次郎の筆舌に尽くしがたい弱さを示す話ですが、同時にその後もキリスト教から離れなかった、弱い人にとっての神・信仰のあり方を示唆するものでもありました。
吉次郎は作中で次のことを述べています、「俺が本当にマリア様や神様が憎くて転んだと思っているのか。俺は弱い人間だ。だからああするしかなかった。俺が他のもっと強い人間のように生きれたら、そうすることもなかっただろうに…」。これは吉次郎にとって、神・信仰が捨てがたいものであったこと、しかし自身の弱さゆえに気高き理想からほど遠い形でしか神への信仰を持てなかったことをありありと示しています。

では弱き彼らにとっての神そして信仰とは何だったのでしょうか。「強い人」にとっての神が、全てを見通し、人々に施しや試練を与え、強きに救いを与える「超越者」であるならば、「弱い人」にとっての神とは苦しい時にせめて肩を貸してくれるような「親友」のような存在なのかもしれません。「親友」は何でも与えてくれる超越者ではありませんし、自分と同じような弱い人間です。ただ、いつも傍にいてくれる、見守ってくれる、何よりも信頼できるかけがえのない存在であります。
ロドリゴの聴いた「神の声」は天啓とか神託とかいう類のものではありません。どちらかと言えば、友人の励ましの、慰めの、叱咤の、喜びの声に似たものだったのでしょう。その友人の声に気付き、耳を傾け、信じた時にロドリゴの新しい信仰は始まったのです。

【最後に】
この本の感想は以上です。
私はこの本は神様や信仰心の是非に関わらず、あらゆる人に読んでいただきたいと思います。この本は人が生きるための強さとは何か、その根拠とは何か、それらはどこにあるのかを教えてくれます。もちろんその内容にどのような価値を見出だすのかは各個人によりますが、どの人にとっても心の栄養となることは間違い無いと思われます。

それではまたいつか!




(注) この記事は特定の宗教観を推奨、否定するものではありません。あくまで文学作品としての価値について述べたものです。


2020年5月29日